マタイによる福音書24章1-35節 「いつまでも残るもの」



アウトライン

1A エルサレムの破滅  1−2
2A 終わりのしるし 3−31
   1B 産みの苦しみ3−14
      1C 初め 3−8
      2C 終わり 9−14
   2B 大患難 15−31
      1C 荒らす憎むべき者 15−28
      2C 人の子の現われ 29−31
3A いちじくの木 32−35

本文

 マタイによる福音書24章をお開きください。今日は、24章の1節から35節までを学びます。ここでの主題は、「いつまでも残るもの」です。私たちは、イエスがエルサレムに入られてからの出来事を学んできました。それは主に、イエスと宗教指導書との対立です。彼らがイエスに質問の応酬をしますが、イエスはその一つ一つを見事に答えられています。最後にはイエスが彼らに尋ねましたが、彼らは答えることができませんでした。そして、イエスは、宗教指導者に対する神のさばきを宣言されました。「忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。」8回くり返されています。そして、23章37節には、「ああ、エルサレム、エルサレム。」と言って、エルサレムのことを嘆かれました。「見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。」と言われて、エルサレムの荒廃を告げられたのです。そして、24章に入ります。

1A エルサレムの破滅  1−2
 イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目を見張っているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。

 弟子たちは、神殿のすばらしさに目をみはっていました。これはヘロデが建てた神殿であり、金でおおわれた大理石によって建てられました。一つの大理石は2トンから10トンもして、一番大きいものは長さ14メートル、幅と高さが3メートルもありました。しかも、その一つ一つにきれいに彫刻が彫られていたのです。この神殿は、イエスが生きておられたころは、すでに建築年数が46年もかかっており、まだ完成していませんでした。紀元64年にようやく完成したのです。ですから、神殿の光景は、文字通り目を見張るものでした。 しかしイエスは、その石がくずされて、積まれたまま残ることはないと言われました。神殿が完成した6年後、つまり紀元70年に、ローマ軍がエルサレムの町を破壊しました。神殿に火がつけられました。金箔の金が液体になって、石と石の間に入りました。それが固体になったので、ローマ軍はその金を取り出すために、その石を一つ一つ取り壊していったのです。イエスのみことばは、文字通り成就したのです。

 人々は、エルサレムの繁栄を誇っていました。それを象徴する神殿は、まさに美しさの極みだったのです。しかし、それは、葉が生い茂っているが、実を結ばせていないいちじくの木のようであることを、私たちは以前学びました。外見は整っているが、内実がともなっていなかったのです。イエスは、実を結ばせないいちじくの木を呪われましたが、同じように、エルサレムは滅びました。ここから私たちが学ばなければならないことは、目に見えるものは過ぎ去ることです。私たちは、目に見える物事に信頼したり、誇ったりします。しかし、それらは滅び去っていくのです。パウロは言いました。「私たちは、目に見えるものによってではなく、目に見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(2コリント4:18)」目に見えるエルサレムは一時的でした。しかし、目に見えないイエスのみことばは、過ぎ去ることなくそのまま現実のものものとなったのです。そして、今からイエスは、エルサレムの町どころか、この世全体をも過ぎ去ってしまうことを話し始められます。

2A 終わりのしるし 3−31
 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしよう。

 弟子たちは、主に二つの質問をしています。一つは、神殿が滅ぼされるときはいつかということです。そして、もう一つは、イエスが来られる時と世の終わりにある前兆は何かということです。マタイによる福音書には、1つめの質問は載っていません。ルカによる福音書に載っています。マタイ書には、世の終わりとキリストの来られる時のしるしが載っています。

1B 産みの苦しみ3−14
1C 初め 3−8
 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。」

 イエスは、惑わされないようにと命じられています。それは、人々を惑わすものが多いからです。

 わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、「私こそキリストだ。」と言って、多くの人を惑わすでしょう。

 自称キリストが多く出現します。私たちは、歴史を通じて、多くの人が自分をキリストと名乗っていることを知ります。つい最近の例は、統一協会の文鮮明です。

 また、戦争や、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。

 ここの戦争は、地域紛争のことを示しています。私たちは、もちろん歴史を通じて戦争が起こったことを知っています。その度ごとに、世の終わりやキリストが来られることを話す人たちがいますが、それに惑わされていけません。自称キリストの出現も地域紛争もみな、終わりのしるしではないのです。

 けれども、次は終わりのしるしです。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。

 原語のギリシャ語では、「というのは」という言葉が文の初めに加えられていて、8節には、「しかし」という言葉はありません。ですから、この文を言い換えると、「というのは、民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こりますが、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めです。」となります。つまり、ここに書かれてある出来事は、世の終わりの初めなのです。まず、「民族は民族に、国は国に対して立ち上がり」とありますが、これは、ヘブル語の言い回しで、世界戦争のことです。地域紛争は頻繁に起こり、それは終わりのしるしではありませんが、世界規模の戦争は世の終わりの初めです。私たちは2度この戦争を経験しました。第一次世界大戦と第二次世界大戦です。

 次に、「ききん」とありますが、私たちは、アフリカを初めとして今までにないききんを見ています。さらに「地震」も、今までにないほどの頻繁さをもって、大地震が起こるようになっています。このように、私たちは、現代社会に世の終わりの前兆を見るのです。

 ただ、イエスが世の終わりのことを、「産みの苦しみ」と話されていることに注意してください。出産の直前には、母親は陣痛と呼ばれる痛みを経験します。陣痛の間隔は、出産が近づくにつれて小さくなり、出産の時は非常に大きな苦痛をともないます。しかし、そうした苦しみはすべて、赤ちゃんが産まれた喜びによって過ぎ去ってしまうのです。ですから、産みの苦しみとは、希望のある苦しみなのです。子が産まれるためには、通らなければいけない苦しみなのです。世の終わりにおける苦しみも、それと同じであるとイエスは言われます。私たちには、天の御国を受け継ぐという希望があります。それは、言葉に言い尽くすことのできない、栄光に満ちた希望です。しかし、この御国が来るためには、まず今の世が滅び去らなければなりません。今の世界がある限り、神の国は来ることができないのです。だから、この世はますます悪くなり、住みずらいところとなっていきます。

 多くの人にとって、それは災難の始まりですが私たちクリスチャンは、それを神の国が近づいていることのしるしなのです。自分たちが受ける苦しみが大きいほど、神の国は間近に迫っているのです。イエスは言われました。「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜び踊りなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。(マタイ5:11-12)」

2C 終わり 9−14
 そのとき、人々は、あなたがたを苦しい目に会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人に憎まれます。

 この文のギリシャ語は、「それから」という言葉で始まります。つまり、これは、世界大戦やききんや地震という出来事の後に起こることです。聖書には、終わりのしるしとして、イスラ工ルが苦難を受けることを告げています。ダ二工ル書9章によると、「第70週」と呼ばれる7年間の期間です。

 
これは普通、「大患難時代」と呼ばれています。私たちは、二つの世界大戦を経て、イスラエル人が祖国に戻ってきたのを見ました。1948年にイスラエルは建国されたのです。ところが、それは実は苦難を受けるための帰還です。私たちが読むところは、これらユダヤ人たちがどのようになるかが記されています。けれども、ユダヤ人に対するイエスのみことばは、そのほとんどがクリスチャンの中にも当てはめることができるものなので、そのようにして読んでいきたいと思います。

 イエスがこの節で話されているのは、反ユダヤ主義のことです。ユダヤ人であると言うだけで、人々は彼らを憎みました。それが終わりの時に増し加わります。ただ、ここで、「わたしの名のために」となっていることに注目してください。イエス・キリストの御名のために、彼らは憎まれます。これは、ユダヤ人の多くがイエス・キリストを受け入れることを意味します。彼らは、ユダヤ人であるだけではなく、キリスト者であるがゆえに、すべての国の人から憎まれるのです。イエスは言われました。「あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを呼び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。(ヨハネ15:19)」

 キリストを信じる者は世から憎まれます。けれども、私たちは今、どのようにして憎まれているのでしょうか。ある人は、家族や知人からクリスチャンであるというだけで、ひどい目に会わされているかもしれませんが、ほとんどの人はそのような物理的な迫害を受けていません。しかし、本当の迫害は、キリストの福音に対する無関心です。あるいは無視です。なぜなら、ある人がキリストに反対する時、多くの場合、その人が聖霊によって良心のとがめを感じているからです。クリスチャンを迫害したパウロは、復活のイエスから、「とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。(使徒26:14)」と言われました。しかし、無関心であったり、無視することは、私たちのキリストの証言を無力にします。そういう意味では、私たちは憎まれて、迫害を受けていると言えるのです。

 それでは、そうした外部からの増しみに耐えられなくなると、どういうことが起こるのでしようか。次を見ましょう。 また、そのときには、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、増み合います。

 外部からの圧迫に耐えられなくなり、内部で争うようになります。つまり、味方や仲間であるはずの者たちに敵対するようになるのです。これは、クリスチャンの間でも起こります。私たちは互いに愛する兄弟姉妹なのだから、敵は悪魔なのです。しかし、互いにつまずいたり、他人を信用しなくなったりします。それだけではありません。

 また、にせ預言者が起こって、多くの人々を惑わします。

 偽預言者の惑わしがあります。彼らは、聞く者を健全な教えから離れさせ、作り話にそらせます。時が悪いほど、人々は健全な教えを聞かないものです。そこで、人々の関心を集めるために、耳ざわりの良い話をしていきます(2テモテ)。残念ながら、現代のキリスト教会の中にも、その例を多く見るのです。これだけではありません。

 不法がはびこるので、愛が冷たくなります。

 私たちの心のうちに燃えているキリストの愛を冷たくするのは、クリスチャンの不法を見るときです。世の中で不法が行われているのは、ある意味で当たり前のことですが世から選び出されて聖い生き方をするはずのクリスチャンが悪いことを行なったり、信仰を捨てるのを見たら、失望してしまいます。悪魔はよく、失望によって私たちからキリストの愛を奪い取ろうとするのです。

 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

 この「しかし」という言葉が大事です。私たちは、世から受ける苦しみに耐えられなくなるにつれて、お互いにつまずきます。また、偽りの教えを信じ、愛が冷たくなります。しかし、世から受ける苦しみを最後まで耐え忍ぶ者には、決してそのようなことは起こらず、むしろ救い出されるのです。いま説明しましたように、私たちの受ける苦しは産みの苦しみであり、希望のある苦しみです。本来なら、苦しみが大きいだけ、神の国に入る希望が増し加わります。パウロは、「(愛は)すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます(1コリント13:7)」言いました。苦しみを受けたら、愛が冷えるどころか愛が増し加わるのです。私たちは、その愛をもって互いに愛し合うのです。ペテロは言いました。「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。(1ペテロ4:8)」愛し合うために、いっしよに集まります。「ある人々のように、いっしょに集まる事をやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。(ヘブル10:25)」 このよぅにして、私たちは苦しみを乗り切ることができるのです。

 この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。

 愛が増し加わると、福音が広がリます。聖書によると、大患難の時に14万4千人のユダヤ人クリスチャンが福音を宣べ伝えることが記されています。彼らの働きによって、すべての国民がキリストのあかしを聞くことになります。

2B 大患難 15−31
 ここまでは、大患難時代の前半部分が書かれていました。次からは後半の3年半の部分を見ます。私たちはここから、ユダヤ人材受ける苦難と迫害は、ある特定の人物によって極みに達することを知ります。

1C 荒らす憎むべき者 15−28
 それゆえ、預言者ダ二工ルによって語られたあの「荒らす憎むべき者が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。

 ここに、荒らす憎むべき者が出てきます。読者は読み取るように、とあるので、よく読み取ることにしましょう。ダ二工ル書9章27節をお開きください。彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物をやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現れる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」彼は、後半の3年半の間、ユダヤ人が神殿へいけにえとささげ物をやめさせるようにします。テサロニケ人への第二の手紙2章には、「彼は、すべて神と呼ばれるもの、礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。」とあります(4)。天と地を造られた神ではなく、自分を拝むように仕向けるのです。黙示録13章によると、彼は、悪魔の権威や力のすべてをゆだねられて、多くの奇跡やしるしを行うのです。この荒らす憎むべき者は、ユダヤ人を徹底的に殺そうとします。

 そこで、イエスは、この人物が聖なる所に立つのを見たならぱ、逃げるように命じられています。屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。畑にいる者は書物を取リに戻ってはいけません。だが、その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。

 ここでは、逃げるときに、すみやかに逃げることが命じられています。

 そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。 しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。

 ゼカリヤ書13章によると、ユダヤ人の3分の1のみが生き残ることが記されてます。ヒットラーの下では、ユダヤ人の3分の1が殺されました。 しかし、今度は3分の2が殺されるのです。次々と殺されていくので、だれかがこの働きを止める者がいなければ、ひとりとして救われる者はいないのです。

 そのとき、「そら、キリストがそこにいる。」とか、「そこにいる。」とか言う者があっても、信じてはいけません。にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。

 ユダヤ人たちは、激しい苦難の中、自分たちを救い出してくれる者、つまりキリストを求め始めます。そこで、キリストに関する偽情報が流れるのです。あそこにいるとか言う者がでたり、ある者は不思議やしるしを行なったりします。

 さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。

 イエスは、これらのことが起こることを隠したりされませんでした。私たちはこれから起こることに対して、「そんなこと知らなかったから、準備ができていませんでした。」と言い訳することはできません。聖書は、事細かに終末の出来事が記されているのですから、私たちはそれを知らなければいけないのです。

 だから、たとい、「そら、荒野にいらっしゃる。」と言っても、飛び出して行ってはいけません。「そら、へやにいらっしゃる。」と聞いても、信じてはいけません。

 これらの言葉は、まさに工ホバの証人とか、統一協会の人たちが言っていることばです。エホバの証人は、イエス・キリストはすでに地上に来ていて、隠れたへやから世界を支配していると教えます。統一協会は、キリストの霊が文鮮明に宿っているので、彼が再臨のキリストであると言います。これらはみな、偽りの情報であることが分かります。

 
それでは正しい情報は何でしょうか。人の子が来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのようになのです。

 イエスは、世界中の人のだれもが見ることができるようなかたちで来られます。イエス・キリストが初めに来られたときは、馬小屋の中においてであり、ごく−部の人しかこの子をキリストと認めませんでした。 しかし、次に来られるときは、だれもが認めるようになるのです。

 死体がある所には、はげたかが集まります。

 これは、ハルマゲドンの戦いの最中に起こることです。世界中の軍隊がイスラ工ルにあるハルマゲドンという平野に集まります。それは、神とキリストに反抗するためです。しかし、白い馬に乗られたキリストは、ご自分のことばもって、ことごとく彼らを殺されます。その死体にはげたかが集まるのです。

2C 人の子の現われ 29−31
 だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。

 イエス・キリストが来られる時、このように天変地異が起こります。それは人間によって汚染されたこの地球を作り替えるためです。神は、創造の初めにエデンの園を造られましたが、それは、人間が住むのに最適の環境でした。けれども、アダムの罪のために地はのろわれたものとなり、人間がその地を荒らして、現在のような環境問題が起こっています。神は、ご自分の国を立てられるとき、この地の環境を回復されます。その前に、大規模な天変地異を起こされているのです。

 そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗ってくるのを見るのです。

 イエスは、天から現われます。人々は、悲しみながらその姿を見ます。それは、彼らがキリストを信じなかったからです。キリストは、信じる者にとっては救い主ですが、信じない者にとってはさばき主です。ところで、この時点で、クリスチャンはどこにいるのでしょうか。黙示録19章には、こう書かれています。「天にある軍勢は真っ白な、きよい衣を着て、白い馬に乗って彼につき従った(黙示19:14)」 大患難時代の前にキリストを信じた者たちは、その患難が起こる前に天に引き上げられます。それから、キリストが地に来られる時に、彼につき従うのです。

 人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。

 これは、世界中に散らばっているユダヤ人たちのことです。彼らは、キリストが来られる時にイスラエルの地に集められて、アブラハムに約束された地を所有するようになるのです。

3A いちじくの木 32−35
 こうして、イエスは、世の終わりとご自分が来られる時について話されました。次からは、私たちがそのことに対して、どのように応答すればよいのかが書かれています。

 いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。

 イエスは、私たちに対して、「学びなさい。」と言われ、「知りなさい。」と命じられています。イエスは、世の終わりの時について、隠し立てされませんでした。この24章の前半部分を読んだだけでも、事細かにこれから起こることが記されています。聖書には、これの何十倍、何百倍という情報が載っています。私たちは、そのことに対して無関心であってはいけません。なぜなら、それは、私たちの主イエス・キリストが来られるしるしだからです。私たちの最大の願いは、私たちの愛するイエス・キリストを顔と顔を合わせて見ることであり、この方にお会いすることです。その日のために、私たちはこの地に生きているようなものです。私たちが終わりの日について学ぶとき、私たちを愛するイエス・キリストが間もなく来られることを知ります。

 まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。

 この時代とは、イエス・キリストが弟子たちや人々に関わりを持つ時代です。この時代は、イエスが話された出来事が全部起こってしまうまでは、過ぎ去ることはありません。キリストが「わたしは来る。」と言われてから、もう約2千年近くになっています。そこで、多くの人は聖書のことばを過去のこととしています。イエスという人物は、過去に存在する宗教家であったと言うのです。そして、聖書のことばは比喩的に解釈して文字通りとるべきではなく、文学として読んだり、精神を落ち着けるため宗教の書物として読みます。つまり、イエスが関わりを持つ時代は過ぎ去ったと考えるのです。しかし、イエスは、「これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。」と言われました。私たちは、まだこの時代に生きています。キリストは、過去の人物ではなく、むしろ、現在、私たちとこの世界や歴史を支配されている方なのです。

 この天地は過ぎ去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。

 これが最終的な結論です。イエスが、終わりの時について話された理由がここにあります。まず天地が過ぎ去ることです。私たちは、自分の目に見るものによって動きます。世の中にあるものによって動きます。そのため、世から受ける困難に耐えられなくなったり、世の思いわずらいによって、キリストから目を離すのです。けれども、あれだけ目を見張るようなエルサレムの町が破壊されたように、私たちの目に見えることも、主のみこころであれば、今にでも滅び去るのです。仕事も、健康も、財産も、そして日本の経済や政治も、いつ何どき無くなってしまってもおかしくありません。神は、天と地を取り去ることさえ、いとも簡単におできになるのです。

 けれども、イエスのみことばは取り去ることはできません。預言者イザヤは、主のみことばについてこう言いました。「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ずわたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送ったことを成功させる。(55:11)」このみことばは、 天と地よりも強固であり、永続するのです。けれども、主のみことばは、私たちが目で見ていないことを話しています。私たちは、目に見えないものよりも、目に見えるものによって動いてしまうので、主のみことばよりも、世にあるものに引き寄せられてしまうのです。けれども、そのとき、「天と地は滅び去るが、わたしのことばは決して滅びることはない。」ということばと、「私たちは、見えるものによってではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものいつまでも続くからです。」という神のみことばを思い出してください。神は、目に見えないものに心を留めるものに、希望と喜びと牽を注いでくださいます。



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