マタイによる福音書26章1−35節 「十字架による主との関わり」


アウトライン

1A 十字架の予告 1−13
   1B イエスご自身 1−5
   2B 香油をかける女 6−13
2A  ユダの裏切り  14−25
   1B  売身  14−16
   2B 過越の食事 17−25
3A 弟子のつまずき 26−35
   1B 聖餐 26−30
   2B  予告  31−35

本文

 マタイによる福音書26章をお開きください。今日は、26章の前半部分を学びます。1節から35節までです。ここでの主題は、「十字架による主との関わり」です。この26章と27章はイエスが十字架につけられる場面です。それでは早速、本文に入りましょう。

1A 十字架の予告 1−13
1B イエスご自身 1−5
 イエスは、これらの話をすべて終えると、弟子たちに言われた。

 これらの話とは、イエスが、キリストの来られることと、世の終わりについて語られたことであります。まず、イエスはその前兆について話されました。そして、ご自分が来るのはいつなのかわからないのだから、目をさましていなさいと言われました。さらに、ご自分は人々をさばくために来られることを話されました。これらの話をすべて終えたあとで、弟子たちに言われました。

 あなたがたの知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます。

 イエスは、十字架につけられることを弟子たちに予告されました。十字架を弟子たちに予告されたのは、マタイの福音書によると、これで4回目です。初めてイエスが話されたとき、弟子たちはその話を受け入れることができませんでした。ペテロは、「 主よ。そんなことが、あなたに起こるはずはありません(16:22)」 と言いました。自分たちの主が十字架につけられるなど、彼らにとってはとんでもないことだったのです。イエスが2回目にご自分が十字架につけられることを話されたときは、「彼らは非常に悲しんだ。」とあります。彼らは、知的にだけでなく感情的にも、十字架につけられるキリストの姿を受け付けることはできませんでした。ちょうど、私たちが映画で悲惨な場面を見るとき、目を覆いたくなるような感じですね。彼らは、イエスが政治的にイスラ工ルの王となって、神の国を立てられるという期待を拭い去ることができませんでした。そこで、イエスが3回目に話されたとき、ヨハネとヤコブの母が、息子を神の国の王座の右と左に着けてくださいと頼みました。弟子たちは、神の国でだれがー番偉くなるかを考えていたのです。彼らは今まで、イエスのお供をし、イエスのみことばを聞き、イエスのそばにいることで満足していました。しかし、今の弟子たちの心は不安に満ち、自分自身のことしか考えられなくなっていたのです。そうした中で、イエスは4回目に、ご自分が十字架につけられることを話されています。後に出てくる弟子たちの反応に注目してください。

 そのころ、祭司長、民の長老たちは、カヤパという大祭司の家の庭に集まり、イエスをだまして捕え、殺そうと相談した。しかし、彼らは、「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから。」と話していた。

 彼らは、イエスを殺す陰謀を立てていました。イエスを殺すのは、過越の祭りの間を避けようと計画しました。しかし、2節を見ると、イエスは、過越の祭りの日に殺されることを予告されています。そして、確かに過越の祭りの日にイエスが殺されました。このように、イエスは、十字架につけられることについてすべてのことを支配されていました。すべては、イエスのシナリオどおりだったのです。祭司長、長老たちは、自分たちが計画を立てていると思いますが、実は神のご計画によって支配されていたのです。イエスは、「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。(ヨハネ10:18)」と言われました。この十字架の苦しみは、神によって前もって定められ、キリスト自らが進んでお受けになったものなのです。

 このように、神のご計画は、キリストが過越の祭りの日に殺されるということでした。過越の祭りは、イスラ工ルがエジプトの奴隷状態から解放されたことを祝う祭りです。神は、エジプトに災いを下しました。生まれて来たエジプト人の子をすべて殺すさばきを行なわれました。その時に、イスラ工ル人は子羊をほふって、それを食べ、子羊の血を門のかもいにつけるように、主から命じられていました。御使いは、その血が門のかもいに付いているのを見たら、その家にはさばきを下さなかったのです。つまり、さばきが過ぎ越されました。これは、キリストの犠牲の死を指し示しています。  私たちは罪によって、神からさばかれます。しかし、神の御子キリストが身代わりに死に、血を流してくださることによって、神は、その怒りを私たちに下さないようにしてくださいました。キリストが過越の小羊なのです。ですから、イエスは、過越の祭りの日に十字架につけられる必要があったのです。祭司長はその日をさけようとしましたが人間の計画は、神の計画の前でむなしいものになったのです。

2B 香油をかける女 6−13
 さて、イエスがベタニやで、らい病人シモンの家におられると、ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぽを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。

 マルコの福音書には、この香油は300デナリ以上するとあります。日本円にしたら300万円くらいするものだったのです。それを、一気にイエスの頭に注ぎました。

 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんなむだなことをするのか。この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」

 他の福音書を見ると、イスカリオテのユダがこのことを率先して言ったようです。

 するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。」

 女のしたことは、りっぱなことでした。

 「貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。この女がこの香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。」

 つまり、彼女が、イエスが十字架につけられる用意をしたというのです。

 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこでも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」

 世界中に伝えられるほど、大きなことを彼女は行ないました。なぜでしようか。この女は、弟子たちとは違って、イエスが十字架につけられて殺されるという事実をしっかりと受け止めていたからです。イエスのそばにいる者たちは、だれもこの十字架を受け入れることができなかったのに、彼女は、まだそれを見る前からしっかりと受け止めていたのです。弟子たちは、気があせっていました。「貧乏な人たちにほどこしができたのに。」と言うことばも、本心であるとは決して言えません。むしろ、自分が神の国で高い位に着くための競争の手段として、話しているのでしょう。

 しかし、この女は、十字架のことばにしっかりと、とどまっていました。そして、イエスが十字架につけられる意味も知っていました。イエスはかつてこう話されました。「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。(マタイ20:28)」贖いの代価、つまり、私たちの罪を赦すためにキリストが死なれるということです。この女は、十字架によって自分の罪が赦されることを受け入れていたのです。その結果、彼女は、イエスに高価な香油をかけました。これは、自分の罪が赦されたことを知ることから出てくる、良い行ないでした。同じように、香油をイエスに持ってきた他の女について、イエスは、「この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。(ルカ7:47)」と言われています。私たちは、本当に罪赦された、ということを知って初めて、イエスを愛することができるのです。また、良い行ないをすることができるのです。そして、この香油をかける行為は礼拝の姿です。自分自身と自分のものすべてを主にささげるというのが礼拝でありますが、彼女はキリストの十字架の意味を知って礼拝をささげていました。この女の姿は、まさに教会のあるべき姿だったのです。したがって、福音が宣べ伝えられるところでは、どこでもこの人のしたことは記念となるのです。

2A  ユダの裏切り  14−25
1B  売身  14−16
 そのとき、12弟子のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司長のところに行って、こう言った。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったい、いくらくれますか。」すると、彼らは銀貨30枚を彼に支払った。そのときから、彼はイエスを引き渡す横会をねらっていた。

 弟子の一人のイスカリオテ・ユダがイエスを裏切ろうとしています。お金でもって、イエスの身を祭司長たちに渡そうとしています。彼は、「この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」と率先して言った人物です。彼は、香油をかける女の行ないを見ました。また、それをイエスがりっぱであると言われたのを聞きました。ご自分の埋葬の用意をしているのです、とイエスが言われるのを聞きました。彼は、このことがきっかけで、イエスを引き渡すことを決意したのです。

 つまり、彼は、こう考えたのでしょう。「イエスが十字架につけられるくらいなら、彼はキリストでもなんでもない。私にとっては、何の意味もない人物だ。」キリストが十字架につけられるなど決して受け入れることはできませんでした。その結果、イエスを裏切る行為にでました。後で彼は、イエスを引き渡したのを後悔して自殺しています。彼にとって、イエスを殺すことに手助けするのは、本望ではなかったのです。しかし、十字架を受け入れないことによって、裏切る行為に出ざるを得な かったのです。これは、キリストとの関わりについて、私たちに大事なことを教えています。たとえ、イエスについて中立な立場を取ったとしても、また、イエスをどんなに尊んでも、もしその十字架を受け入れることができなければ、いずれ、イエスを裏切るようになると言うことです。このように、十字架というのは、私たちがイエスを愛するか、それともイエスを殺すかの分かれ目になるのです。


2B 過越の食事 17−25
 さて、種なしパンの第一日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。「過ぎ越しの食事をなさるのに、私たちはどこで用意しましょうか。」イエスは言われた。「都にはいって、これこれの人のところに行って、「先生が『わたしの時が近づいた。わたしの弟子たちといっしょに、あなたのところで過ぎ越しを守ろう。』と言っておられる。」と言いなさい。そこで、弟子たちはイエスに言いつけられたとおりにして、過越の食事の用意をした。

 ここにおいても、イエスが、すべての状況を支配されていることが示されています。過越の食事を、まだ会っていない人の家で行なうことを決めていました。

 さて、夕方になって、イエスは12弟子といっしょに食卓に着かれた。みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」

 イエスは、この食事時を利用して、ユダがご自分を裏切ることを話されようとしています。

 すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう。」とかわるがわるに言った。

 弟子たちは、自分が主を裏切るかもしれないと思いました。彼らにとっても、キリストの十字架はつまずきであり、できれば、十字架にはかかってほしくないと思っていたのです。だから、イエスが、裏切る者がいると言われたとき、自分は決して裏切らないと言い切ることはできなかったのです。けれども、このイエスのことばは、弟子たちに向けられたものではなく、ユダに対して向けられたものです。

 イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれてこなかったほうがよかったのです。」すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ。」と言われた。

 ユダは、イエスが自分のことを話していることを知っていたでしょう。けれども、他の者にばれないように、自分も同じ質問をしました。ただ、一言だけ違います。22節と25節を比べてください。他の弟子たちは、イエスを「主よ」と呼んでいるのに対し、ユダは、「先生」と呼んでいます。弟子たちにとって、イエスは「主」でありました。イエスは、自分にとって最も愛する方であり、自分のすべてでした。一方ユダにとって、イエスは「先生」でした。これは、ユダヤ教の教師ラビのことです。ユダヤ人たちは、どのラビの下で学ぶかは、自分たちで選んでいました。弟子たちが先生を選んでいたのです。言い換えると、自分の目的達成のためにラビを利用していたのです。しかし、イエスの場合は違います。イエスは、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。(ヨハネ15:16)」と言われました。弟子たちは、自分でイエスを選んだというよりも、イエスの呼びかけに応じて従ったのです。それゆえ、彼らにとってイエスは主であり、自分のすべてだったのです。

 たとえると、彼らは、孤児院にいる子どもがある大人に引き取られて、養子になるようなものです。その子どもは、育て親になりたいという大人の申し出を断ることもできますが、受け入れることもできます。そして、受け入れれば、その子は一生涯その大人を自分の親として生きます。他の親に乗り移ることはできません。けれども、ユダの場合は、たとえると、大学合格のためにすばらしい先生のいる予備校を選んだようなものです。その先生が気に入らなかったら、他の先生に乗り移ることはできたのです。ここが、弟子たちとユダとの大きな違いでした。同じようにつまずくのですが、ユダはのろわれ、弟子たちは後に豊かな赦しを受けます。それは、ユダの場合、自分の夢や理想が達成されるために、イエスをただ利用したに過ぎなかったのに対し、弟子たちにとって、イエスは自分のすべてだったのです。


 ここからわかることは、見た目ではだれがクリスチャンかそうでないかを判断できないことです。クリスチャンとは何でしょうか。教会に通って、聖書を読み、祈りをし、献金をして、奉仕をしている人がクリスチャンなのでしょうか。違います。タパコやお酒など、悪習慣をなかなか断ち切ることができない人は、クリスチャンではないのでしょうか。違います。クリスチャンとは、成功したときにも、失敗するときにも、自分と主との関係を断ち切ることのできない人です。ある人が信仰を捨てようとしました。その時に、「主よ。私はもう信仰を捨てます。」と祈ったそうです。自分にとってイエスが主である人が、本当のキリストの弟子であります。

3A 弟子のつまずき 26−35
 過越の食事は続きます。ヨハネの福音書によると、この時点でユダは去っています。でも、それは必要なことでした。なぜなら、イエスは次に、真の信仰者しかできない聖餐をとり行われるからです。

1B 聖餐 26−30
 また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンをとり、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」

 イエスは、これから十字架に向かいます。まずむちで打たれて、背中の肉が飛び散ります。そして、両手両足を打たれて十字架につけられる際、そこから血が流れます。イエスの肉がさかれて、イエスの血ガ流されるのを、自分のものとして受け止めるように、イエスはパンをさいて、ぶとう酒を飲ませました。私たちがパンを食べるとき、自分の病のためにイエスがむち打たれたことを思い出します。私たちがぶどう酒を飲むとき、自分の罪のためにイエスが血を流されたことを思い出します。私たちがイエスを信じるとき、このことを信じたわけです。ただ、一回それを信じたから、それでいいと言うものではありません。むしろ、イエスが十字架につけられて、私の罪が赦されたことを、毎日思い出さなければいけないのです。ルターは、こう言いました。(正確な引用ではない)「主が死なれたのは、つい昨日のことのように感じる。」そうすることによって、私たちは主と交わり、他の信者と交わることができます。ヨハネは言いました。「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(1ヨハネ1:7)」聖餐式は、その交わりをするためのイエスが定めた儀式であります。

2B  予告  31−35
 このように、イエスは、弟子たちとの関係を、ご自分の十字架によって築き上げようとされました。その後で、イエスは、彼らにとって試練になるようなことを話されます。

 そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです。」

 これは、旧約聖書のゼカリヤ書からの引用です。「わたし」というのが父なる神であり、「羊飼い」はイエスであり、羊は弟子たちのことです。彼らがイエスにつまずくのは、何百年も前に預言されていました。

 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤヘ行きます。すると、ペテロがイエスに答えて言われた。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」

 ペテロは、自分がつまずくことは絶対に認めることはできませんでした。ここに、「全部の者があなたのゆえにつまずいても」と言っていることに注目してください。弟子たちの間に、まだ競争心があったことが伺えます。

 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは3度、わたしを知らないと言います。」ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。

 ペテロも他の弟子たちも、イエスを見捨てるようなことは、到底考えることはできなかったでしょう。本当にそう思っていたのだと思います。しかし、彼らが知らなかったのは、自分たちの肉の弱さです。私たちは、イエスが言われるみことばを聞いて、自分はぜひそれを行なってみたい、イエスの言われるような人になってみたいと願います。その願いには偽りはありません。けれども、問題は、それを行なう力がないのです。何か失敗をして、「もう2度とこんなことをしません。」と決意しても、また再び同じことをくり返してしまうのです。ペテロも同じでした。イエスを知らないなどとはロが裂けても言いたくありませんでした。けれども、彼が気付かなかったことは、自分がいかに弱いかということです。

 これから、ペテロは、苛酷な試練を受けます。これほど愛し、これほど慕っていた主イエスを、自分の□から知らないと言います。彼は、自分がいかに惨めな存在であるかを知ります。しかし、イエスはペテロがご自分を否定することは気になさりませんでした。それよりも、彼に知ってほしかったことがあったのです。それは、自分の力で生きるのではなく、キリストに拠り頼んで、キリストから離れないで生きると言うことです。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5)」というみことばを、身をもって体験してほしかったのです。そのために、私たちは、キリストの十字架の意味をはっきりと悟らなければいけません。すなわち、古い自分はキリストとともに十字架につけられたということ。そして、今は、私のうちに住んでおられるキリストを信じる信仰によって生きているということです。


 パウロは言いました。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2:20)」私たちが、自分自身を見るとき、キリストにつけられた自分を見なければいけません。自分は罪によって死んでしまっていること、もはや、その自分は改善の見込みのないことをしっかりと受け止めなければいけません。「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。(ローマ7:18)」とパウロは告白しました。

 そして、自分が生きているのは、復活されたキリストが私のうちに生きておられるからです。このキリストを信じて、この生活を歩むときに私たちは生きています。キリストから目を離しているときは、私たちは死んでいるのです。ペテロは、主を3回も否定するという辛い経験をとおして、自分は死んでいることを知るのでした。これが、イエスが彼に知ってほしかったことなのです。そして、私たちにも知ってほしいことなのです。

 こうして、私たちは、さまざな人物の反応をとおして、キリストの十字架が私たちにどのように関わっているかを見ることができました。香油の女によって、私たちは、自分の罪が十字架によって赦されていることを知る必要があり、それによって初めて良い行ないをし、キリストを礼拝できることを見ました。ユダによって、私たちは、キリストの十字架を受け入れることができなければ、いつかはイエスを裏切ることになることを知りました。さらに、弟子たちによって、キリストの十字架とは、自分が罪によって死んでいることを受け入れて、キリストを信じる信仰によって生きなければいけないことを見ました。香油をかけた女は、私たちの模範であり、ユダは私たちの反面教師であり、弟子たちは私たちの教訓です。キリストの十字架こそ、私たちと主との関わりを決定するのです。


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