ベツレヘムの星 − 異邦人の光 − 2001/10/26

(以下の文は、小牧者出版「幸いな人」12月号の特集記事で掲載されたものです。)


光によるしるし

私が初めて神様を知ったのは、クリスマスのときでした。クリスマス礼拝に出席すると、牧師の方が「この社会は暗やみの中にあるけれども、イエス様が光として来られた」というメッセージを語っていました。私は帰宅してから自分の部屋で、生まれて初めて悔い改めの祈りをしました。そうすると神様が、罪深く、打ちひしがれた私を受け入れ、愛しておられることがわかりました。イエス様は実に、暗やみの中にいた私に光として現われてくださったのです。神様はイエス様がお生まれになったとき、光によるしるしを与えてくださいました。ベツレヘムの町の上には「星」が輝いていました。この星を頼りに、東方からマギ(賢人または星占い師)がエルサレムにやって来たのです。


聖書の中の「星」

ところで、聖書には「星」ということばがたくさん出てきますが、それが比喩的に用いられるときには、「神の栄光を反映したもの」として多く使われています。たとえば神様がアブラハムに子孫を増し加えるという約束を与えられたとき、「彼の子孫が夜空に見る星のようになる」と言われました(創15:5)。そして、アブラハムの孫ヤコブの11人の子どもたちは、ヨセフの夢の中で「星」として現われています(創37:9)。主の約束がかなえられるところの、選びの民としての神の栄光を反映しているからです。そして天の御使いたちも「星」としてたとえられています(黙12:4など)。神の前で仕えている霊として、神の栄光を反映しているからです。ですから、幼子イエスの上に星があったということは、まさに神の栄光の輝きを表わすのにふさわしいものだったのです。


異邦人にまで届く輝き

また星は、地球上にいるすべての人々が、どんなに遠くにいてもその輝きを見ることができます。そのためなのでしょうか、聖書の中ではメシヤが異邦人に対して現われるとき、「星」と表現されています。民数記24章17節を読みますと「私は見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり…」とあります。これは、異邦人であるまじない師バラムによる預言です。バビロン地方に住んでいた彼は、モアブ人の王バラクに雇われて、イスラエルをのろうように頼まれました。しかし神は、バラムがイスラエルをのろうことをお許しになりませんでした。神の御霊のご介入により、バラムはイスラエルをのろうどころか、祝福してしまったのです。そのときバラムは、神様のイスラエルに対する約束と契約を知り、イスラエルのメシヤを「星」として預言したのです。

使徒パウロによると、異邦人は「…キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たち」(エペ2:12)です。しかしバラムの預言を読むと、イスラエルに与えられた栄光の輝きは、神から遠く離れていた異邦人にさえも達することが理解できます。そして新約における啓示によって、異邦人であってもキリストの十字架の血によって限りなく神に近づくことのできる者とされたことがわかるのです。


異邦人に残された主の証し

さらにバビロン捕囚の時代に、バビロン地方に住んでいたダニエルは、御使いガブリエルによって、メシヤの誕生と受難を示されました。「それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者(=メシヤ)、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。その六十二週の後、油そそがれた者は絶たれ、彼には何も残らない…」(ダニ9:25,26)。この預言は主イエスによって完全に成就しました。

ところでダニエルの周りには、数多くの星占い師たちがいました。彼らはネブカデネザル王の助言者たちでした。ダニエルは天の神からの啓示によって彼らの長となっていたのです。したがってダニエルに与えられたこの預言も、バビロンにいた星占い師たちは知っていたことでしょう。


時が満ちる

そして時が満ち、イエス様がお生まれになるとき、同じユーフラテス河畔地域、つまり東方からマギたちがやって来ました。彼らは「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました」(マタ2:2)と言いました。彼らは、かすかに輝く星を見、それに希望を抱き、すがるようにしてまことの神に応答しようとしたのです。彼らは神様からわずかな啓示しか与えられていなかったのにもかかわらず、それに全面的な信仰を置いたのです。

多くの日本人は聖書について、神について、キリストについての知識を持っていません。また、神のいのちから離れているために、むなしさと暗やみの中に生きています。しかし、聖霊によってわずかなともしびが与えられたとき、このマギたちのように、そこに希望を見い出し、自らを投げ打って、悔い改めへと導かれるのではないでしょうか。


二者の反応

それでは救いをいただくべき当のユダヤ人の支配者や宗教指導者たちは、この啓示に対してどのような反応を示したのでしょうか。まずヘロデですが、「恐れ惑った」(マタ2:3)とあります。彼は改宗したユダヤ教徒でしたから、聖書のことはよく知っており、メシヤについて非常に興味を持っていました。しかし自分がユダヤ人の王であり続けることに固執したため、別の王が現われることに脅威を感じたのです。ヘロデ王はユダヤ人の祭司長たち、学者たちに「メシヤはどこで生まれるのか」と尋ねました。彼らは「ユダヤのベツレヘムです」と言って、ミカ書5章2節の預言を引用しました。驚くことに、彼らはそれ以上、東方のマギたちの見た星について、何の興味も示したようすがうかがえません。彼らは、このことについて無関心だったのです。

もしかするとこのヘロデやユダヤ人の学者たちの姿は、聖書を読んで、聖書をよく知っている私たちの姿ではないでしょうか。私たちも、まことの光が自分の心を照らし出したとき、恐れ惑って、主に自分を明け渡すことをせず、退けてしまうことはないでしょうか。また神様のみことばに対して鈍感になり、何の感動も反応もしないようになってはいないでしょうか。


信仰に伴う礼拝

大事なのは、聖書の知識を持っていることではなく、わずかな光に反応し、悔い改めに導かれる、やわらかい心なのです。救い主に出会ったマギたちは、3つの贈り物を幼子イエス様にささげました。「黄金」と「乳香」と「没薬」です。黄金は王なるキリストの輝きを表わしています。乳香は、聖所においてささげ物とともに添えられる物であり、また香壇の香でしたから、イエス様が神ご自身であることを表わしています。そして没薬は死体に塗られる物ですから、イエス様が十字架で死なれるためにお生まれになったことを表わしています。

東方からのマギは、このような細かい知識があって3つの贈り物をささげたわけではないでしょう。けれども、彼らがわずかな光に正しく応答したとき、神様のご計画とみこころにそった正しい行動をすることができたのです。

そして最後にもう1つ。私たちの周りには、東方からのマギたちのような人々がたくさんいるのではないでしょうか。光が当てられれば、それに応答して、悔い改める人々が、私たちの近くにいるのです。ですから、この光を枡の下に置くのではなく、燭台の上に置きましょう(マタ5:15)。福音を語り、主の愛によって弱っている人、困っている人を助け、良い行ないをもって、主の光を示していきましょう。


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