マタイによる福音書8章 「御国の権威の現れ」

アウトライン

1A 病に対して 1−17
   1B イスラエルのらい病人 1−4
   2B 百人隊長の知っている権威 5−13
   3B ペテロの姑から始まった癒し 14−17
2A 人生に対して 18−22
3A 自然と超自然に対して 23−34
   1B 嵐に対する権威 23−27
   2B 悪霊追い出し 28−34

本文

 マタイによる福音書8章を開いてください。私たちは前回、山上の垂訓を学び終えることができました。そこに表れていたのは、イエス・キリストの権威でした。「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。 (マタイ5:17」とイエス様は言われましたが、イエス様は律法を教えられたのではなく、イエスご自身が律法の実現であられ、御国の現れというのはイエス・キリストの現れに他ならないことを意味しています。私たちは、イエス様が教えられたことを通して、単に自分に戒めが与えられたのではなく、教えられながら主ご自身の前にひれ伏し、へりくだり、この方に自分を服するように導かれました。

 そして主が教え終えられた時に群集たちは驚きました。「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。(マタイ7:28-298章以降に、イエスの権威の現れを見ていくことになります。そこから私たちが、この方を受け入れるとは権威に服することなのだ、ということを知ることができます。

1A 病に対して 1−17
1B イスラエルのらい病人 1−4
1 イエスが山から降りて来られると、多くの群衆がイエスに従った。2 すると、ひとりのらい病人がみもとに来て、ひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」3 イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに彼のらい病はきよめられた。4 イエスは彼に言われた。「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。ただ、人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物をささげなさい。」

 主がガリラヤ湖の北西の山腹におられ、そこから降りてこられた時に、群集が大勢イエス様に従いました。そこに、らい病人が来ます。私たちはレビ記の学びをしっかり行ないましたので、らい病に対する主ご自身の思いをもう知っておられると思います。らい病、あるいは重い皮膚の疾患の症状が現れた場合は、祭司にそれを調べてもらい、七日間隔離され、それで症状が良くなったのであればらい病ではないと判断されますが、変わっていない場合はらい病です。そしてらい病人は、汚れたものとみなされ、イスラエルの宿営の中には入れず、誰かが近づくものなら、髪を振り乱して「汚れている。汚れている。」と叫ばなければいけません。

 らい病人がイエスに近づかれたとき、「ひれ伏して」います。これは礼拝すると同じ言葉が使われています。そして、「主よ」とイエス様を呼んでいます。彼は御国の福音を聞いて、それでイエスを自分自身の主とし、この方を御国の王として受け入れていました。

 そして、「お心一つで、私をきよめることがおできになります」と言っています。らい病人は、イエスが癒すことができる能力があることについては、何の疑いも持っていませんでした。問題は主がそれを御心としているのかどうか、ということです。これは私たち皆の課題ではないでしょうか?「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。(1ヨハネ5:14」したがって、神の御心を心に受け止めさえすれば、全てのことが可能となるということです。私たちの大きな務めは、神が御心とされていることを一心に受け止めていく、ことであります。

 そして驚くべきことは、イエス様が手を伸ばして彼に触れられたことでした。彼はイスラエル共同体から疎外されていました。汚れているとみなされていました。その彼にイエス様は触れられたのです。私たちは、他の人々からは逃げられてしまうのではないかという自分を持っています。それを隠すことによって生きようとしています。けれども、その部分に主は触れられるのです。

 そして、それによってイエス様が汚れたのではなく、彼が清められました。律法によれば、汚れは他の人に移ります。私たちは人を清くすることはできません。他の人から汚されることはできます。けれども清くするのは神のみです。ですから、イエス様が単なる人ではなく、神からの方であることがここから分かります。

 そしてイエス様は、祭司に見せなさいと命じられました。レビ記におけるらい病人の掟において、らい病が癒されているなら、二羽の小鳥と杉の木と撚り糸とヒソプを持って来て、片方の小鳥をほふり、その血を湧き水の上でたらし、もう一羽の小鳥をその中に入れて、その小鳥を空に放ちます。それかららい病人は衣服と体を洗って、宿営の中に入ることが来ます。またいけにえも捧げます。これらのことを行ないなさいと彼に命じました。

 律法においては、いやされた時に行なう清めの儀式は定められていますが、肝心の癒される方がそこにはおられなかったのです。律法は影であって実体はキリストであると、コロサイ書にありますが、キリストにあって律法が全きものとなるのです。

 そしてイエス様は、「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。」と言われました。それはまだ、イスラエルにこの御業を受け入れる心の受け皿がなかったのです。イエスが癒されたことによって、律法が全きものとなっていること、つまりこの方がキリストであられ神ご自身であられることを受け入れるような感じでは全くなかったのです。

2B 百人隊長の知っている権威 5−13
 そこで次に続きます。イスラエルは受け入れることができないのに、何と異邦人が受け入れるための本質的なことを知っていました。

5 イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、6 言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」

 カペナウムは、ガリラヤ湖の北にある湖畔の町です。ここがイエス様の宣教活動の拠点となります。そしてそこに駐屯していたローマの百人隊長のしもべが中風を患っていました。

7 イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」8 しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。9 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」

 彼もイエス様に対して、「主よ」と呼んでいます。そして「あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。」と言っています。彼は知っていたのです。イエスはイスラエルのために来られた方であり、異邦人である自分はこの方をお迎えする資格はないと感じたのです。事実、イエス様はこの時点では異邦人に対する働きかけをされていません。弟子たちに対して、「異邦人の道に行ってはなりません。・・・イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。(マタイ10:5-6」と言われました。

 けれども彼は、信仰の本質を知っていたのです。それは「権威」という文字です。彼は軍人ですから、その指令系統の中にいました。自分自身も千人隊長の直属の部下であり、その命令に従う者でありますが、また自分が部下に命令を下せば、その通りにします。同じように、主イエスが命じられることは、すべてその通りになる、と信じていたのです。これは驚くべきことです。10節でイエス様は、「イスラエルのうちにも、このような信仰は見たことがありません。」と言われます。この百人隊長のように信じられている人は、この後に続く話でも弟子の中でさえいませんでした。

 私たちが主ご自身に接する時に、また主の御言葉に触れる時に、どれだけ「権威」ということを考えるでしょうか?今生きている私たちは、自分の権利を主張することが当然の社会にいます。御言葉の教えを聞くこと、そして聞くだけでなくそれに服すること、また御言葉による戒めに自分を委ねること、たとえそれが自分の気持ちや考えにそぐわなくても、御言葉がそう言っているからという理由だけで服従すること。キリスト者の生活は、服する生活です。キリストにあって服従する生活です。主の権威に服している人の霊ほど麗しいものはありません。

10 イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。11 あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。12 しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」13 それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。

 イエス様は、将来の御国の姿を語っておられます。ご自身が再臨されて神の国を立てられた時に、ユダヤ人の父祖であるアブラハム、イサク、ヤコブは当然のことその祝宴に着いています。そして、そこには東からも西からも来ていて、異邦人も加えて与えられているのです。ところが肝心の御国の子、つまりユダヤ人の中に実際の神の国に入れず、地獄に投げ入れられている人がいる、ということです。私がユダヤ人は選びの民であると話すと、しばしば、「ユダヤ人はユダヤ人というだけで救われる、ということですか?」と聞かれるのですが、もちろん違うと答えます。ここでも、イエス様がご自身の権威を受け入れない者は地獄に行くことを教えておられます。

3B ペテロの姑から始まった癒し 14−17
14 それから、イエスは、ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になった。15 イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。16 夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。17 これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」

 今、カペナウムに行けば、イエス様が教えられたシナゴーグの跡があり、そしてペテロの家の跡もあります。ここにペテロの家がありました。ペテロには姑がいました。つまり彼には妻がいたのです。パウロもペテロに妻がいたことを言及しています(1コリント9:5)。イエス様は彼女の熱病を癒されました。

 すると、そのことがきっかけで人々が多くの悪霊につかれた者を連れてきました。病気の人も来ました。そしてこれらのことが、イザヤ書にある預言だというのです。覚えていますか、ここの箇所は主のしもべが、イスラエルの民の咎を身代わりに背負われて、ご自身が打ち傷を負われたという、キリストのむち打ちと十字架の預言の部分です。前後も読んでみましょう。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。(53:4-6

 ここでは、肉体における傷、打ち傷が、イスラエルの咎のゆえだとしています。神に対する咎、すなわち霊的なことが、肉体における罰によって処理されました。そして、「いやされた」という言葉も使われています。ここマタイによる福音書では、肉体における癒しを意味していますが、ペテロ第一224節では、罪の赦しという魂の癒しについて話しています。つまり、これはどちらも意味することです。要は、私たちの肉体における安息と平安は、魂における安息と平安と密接に結びついている、ということです。

 私は決して医薬に反対する者ではありません。けれども私個人は、以前にもまして病院に行くことがなくなりました。肉体で起こっていることを肉体で起こっていることとして、つまり体の中の化学物質の動きだけを見て投与するやり方よりも、祈り、また神の御心の中に生きていくことによって、全人的な癒し、つまり魂から波及するところの肉体にまで及ぶ癒しを求めているからです。

 聖書では、ヤコブ書でこう話しています。「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。(ヤコブ5:14-16」長老によるオリーブ油を塗ることによっていのる祈りがあり、そして互いに罪を言い表し、そして互いのために祈ることによって赦しが与えられることが、隣り合わせで書かれています。お互いに関連しているからです。

 そしてここの話に戻りますと、イエス様はご自分の権威をご自分のために用いられたのではなく、病の中で用いられたということが注目に値します。その病を負っていかれたのです。そしてその病の癒しの延長線上に、ご自身が十字架につけられ、私たちの罪を負っていかれました。私たちのうちにキリストを人々が見出すとしたら、私たちもキリストにあって互いの重荷を負うところから、キリストの権威が現れます。

2A 人生に対して 18−22
 ここまでは主が、病に対してご自身の権威を示されたところを見ましたが、次は人の人生に対する権威の現れです。

18 さて、イエスは群衆が自分の回りにいるのをご覧になると、向こう岸に行くための用意をお命じになった。19 そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」20 すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」21 また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」22 ところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」

 ひとりは律法学者、もう一人は弟子です。それぞれは異なる問題を持っていましたが、「キリストの権威に自分の人生を服する」というところにおいての問題点は共通しています。

 まず律法学者について考えてみたいと思います。彼がイエス様を呼んだときはなんと言っていますか?「先生」です。これはユダヤ教のラビのことです。イエスをラビとして尊んでいますが、自分の主とはなっていません。その彼に対して、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」と言われました。主は、病んだ人々、弱い人々、解放される人々のところに飛んでゆき、宣教を行なわれました。このような生活において、自分の定着した寝るところもなくなるのだ、と言われています。つまり、イエスについていくことについての犠牲を計算に入れずに、「ついていきます」と言っているのです。キリストの弟子になるには、よく考えて、それで実行に移すという決意が必要です。

 次に、今度はイエス様が「ついて来なさい」と言われているのに、「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」と言って躊躇っています。ユダヤ人にとって、朝に行なわなければいけない祈りは、「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。(申命記6:4」であるそうです。けれども、父が亡くなったという時はその祈りもせずに葬りに行ってよい、とされていました。したがってイエス様がここで言われているのは、「どのようなことよりも、わたしの命令を第一としなさい。」ということです。それが大事なものとみなされていることも、キリストの権威に優るものはないのです。

 ちなみに、イエス様が「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」と言われているのは、命の主であるご自身よりも、既に死んでしまった人のことを優先させることをしてはいけない、という意味合いで言われています。初めの「死人たち」は、霊的に死んだ人々のことです。

3A 自然と超自然に対して 23−34
 病に対する権威、人の人生に対する権威に続き、今度は自然界と超自然界に対する権威を示されています。

1B 嵐に対する権威 23−27
23 イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。24 すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。25 弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」26 イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。27 人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

 旧約聖書を読むと、海についてのことはあまりよく言われていません。特に大波や嵐については、例えばダニエル書7章にある幻の中では、荒れ狂う世界の諸大国の興亡を表しています。洪水は軍隊が一斉に動く様子であります。

 けれどもイエス様がぐっすり眠ってしまわれています。そして起き上がり、その嵐を静められました。この出来事と、預言者ヨナのことが少し似ています。ヨナは神の御顔を避けて、ヨッパからタルシシュ行きの船に乗りました。すると、主からの大風が海に吹き付けたので嵐になりました。ところがヨナは、船底でぐっすり眠っていたのです。いろいろな民で構成されていた水夫たちは、各々自分の国の神の名によって叫び求めましたが、一向に嵐が収まりません。それで船長がヨナを起こしたのです。ヨナは答えました。「私はヘブル人です。私は海と陸を造られた天の神、主を礼拝しています。(1:9」ヨナは、自分を海に放り投げれば嵐は静まると言って、彼らはそれをためらいましたが、ますます嵐が酷くなるので、海に投げ込みました。それで海が静かになり、彼らはヤハウェなる神を恐れた、とあります。

 弟子たちは、このヨナの話をもちろん知っているはずです。嵐を静めることのできる方は、ただヤハウェなる神だけです。ヨナは海に投げ入れられましたが、イエス様はしかりつけられました。つまり、イエスご自身がヤハウェなる神であるということです。天と地にあるすべてのものを造られ、支配されておられる方だ、ということです。

 弟子たちに対してイエス様は、「信仰の薄い者たちだ」と言われています。なぜなら、異邦人である百人隊長の信仰は、主の権威を認めるところから来ていたのに、弟子たちは自然界に対してこの方が力を持っておられることを信じられなかったのです。私たちは、自分の生活のあらゆる面に主の権威があることを認めているでしょうか?この方が風や湖までに権威を現されたのですから、生活のどのような物理的な場面においても、そこには主の権威があることを認めなければいけません。

2B 悪霊追い出し 28−34
28 それから、向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、悪霊につかれた人がふたり墓から出て来て、イエスに出会った。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。

 「ガダラ人の地」とあります。ガリラヤ湖の南東部分は、デカポリス地方の一部になっていました。デカポリスはギリシヤ時代に立てられた十の都市連合でありますが、それ以降、異邦人の影響が極めて大きなところであります。湖の南東にガダラという、デカポリスの一つの町があります。今はヨルダン領にありますが、その遺跡に行けばイスラエルのガリラヤ湖を見下ろすことができます。

 そこにおぞましい悪霊の力がありました。嵐が自然界における恐ろしい力であれば、悪霊は超自然界における恐ろしい力です。実は、この世界というのは、初めは目に見えないものによって成り立っていました。神が初めからおられ、それから神は天使を造られました。天地を創造し、エデンの園においてすでにそこに悪魔がいたのですから、目に見えない世界が見える世界の前に存在していたのです。

29 すると、見よ、彼らはわめいて言った。「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」

 イエス・キリストの本質を、霊の世界にいる悪霊どもはすでに知っていたのです。イエスが神の子であることを初めにはっきり言ったのは、他でもない悪霊だったのです。「まだその時ではない」と彼らは叫んでいますが、それは定められた審判の時です。白い大きな御座であり、悪魔が千年王国の後、ゲヘナに投げ込まれるように、悪霊どもも投げ込まれます。

 悪霊は悪魔の手下どもです。悪魔は堕落した天使であり、悪霊はその天使の下で動いています。悪魔が天から追放された後に、多くの堕落した天使は、ユダの手紙によると暗闇のところに閉じ込められました。けれども、空中において悪魔が動いている中で同じように動いている悪霊どももいます。それが、神がメシヤをこの世に遣わされてからは活発になっていたと考えられます。

 悪霊でさえ、イエスを見て震えおののいていたのは興味深いです。最後の審判の時を彼らは恐れていたのです。ヤコブ書には「あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。(2:19」神の審判を恐れることと、神に従順になって信じることは異なります。私たちに必要なのは、ただ聞いて恐れているのではなく、むしろ、へりくだって、神の憐れみを請うことです。

30 ところで、そこからずっと離れた所に、たくさんの豚の群れが飼ってあった。31 それで、悪霊どもはイエスに願ってこう言った。「もし私たちを追い出そうとされるのでしたら、どうか豚の群れの中にやってください。」32 イエスは彼らに「行け。」と言われた。すると、彼らは出て行って豚にはいった。すると、見よ、その群れ全体がどっとがけから湖へ駆け降りて行って、水におぼれて死んだ。

 豚の群れを飼っていた、というところに違和感を抱く人がいたら、その人は旧約聖書をきちんと読みこなしている人です。豚は汚れているとみなされている動物の一つです。それを飼っているというところから、彼らは律法に違反することを行なっていました。

 そして悪霊どもが自分たちの棲む体がなくなることを焦っています。霊のみで体がないという状態は極めて恐ろしい状態であることがここから推測されます。人間の霊も同じであり、「私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。(2コリント5:2-3」とパウロは言いました。復活の体が与えられます。私たちは死んで魂が天に入るだけでなく、必ずこの地上の体と連続した天からの体が存在するのです。

 そして、海に豚がなだれ込んだ、とあります。ガリラヤ湖東には、唯一、なだれ込むことのできる斜面があります。そしてマルコ書には二千匹ほどの豚であったとあります。ものすごい光景だったことでしょう。聖書には、海底が、罪が葬られるところとして描かれています。「もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。(ミカ7:19」そしてヨナ書には、ヨナ自身が海底まで沈んだときに、「穴」から引き上げられたと言っています(2:1)。これは、陰府につながるところのことを話しているのでしょう。陰府は、地の奥底、また海の奥底にあると考えられたわけです。実際、悪霊どもはこの後に底知れぬところに閉じ込められた、と考えられます。

33 飼っていた者たちは逃げ出して町に行き、悪霊につかれた人たちのことなどを残らず知らせた。34 すると、見よ、町中の者がイエスに会いに出て来た。そして、イエスに会うと、どうかこの地方を立ち去ってくださいと願った。

 なぜ彼らは恐れたのでしょうか?もちろん、豚が一挙になだれ込むことは恐ろしい光景だったと思いますが、二人の男が悪霊どもにつかれていて暴れている状態がなくなったのです。彼らの恐れは、イエス様にある聖さに触れたからです。本来は飼うべきではない豚にイエス様が手を出されたからです。自分たちのしている普段の生活が、実は神の聖さの中では裁かれなければいけないことを感じたからです。ビジネスを取られてしまった、という恐れもあったことでしょう。

 私たちは、どんなに状況が酷くても、実はそれを好んでいることがあります。「私は、この欲望が嫌いだ。なくなってくれたら、なんと良いことだろうか。」と言っても、実際になくなったら、落ち着かなくなるのです。アメリカで起こったことですが、麻薬漬けの女性がイエス様を信じてやめました。そうしたら父が、「イエスを信じるぐらいなら、麻薬漬けの娘のほうが良かった。」と言ったのです。なんと恐ろしいことでしょうか。けれども、人は暗闇を愛して、光のほうに来ないという神の裁きがあります。

 こうして私たちは、イエス・キリストには権威があることを見ました。病から始まりました。イエス様は病の中で権威を用いられ、人々に憐れみの働きをされます。そして人生に権威を持っておられました。どんな関係よりも、主を第一にするのです。また、一時的な感情に拠らないで、主に従っていく時の犠牲についてよく考えることです。そして、生活のあらゆる領域、物理的なことも、目に見えないことも、主が権威を持っておられることを知ります。

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