ピリピ人への手紙2章 「キリストの思い」


アウトライン

1A へりくだり 1−11
   1B 一致 1−4
   2B キリストのうちにある心構え 5−11
      1C 十字架までの従順 5−8
      2C 高められるキリスト 9−11
2A 救いの達成 12−18
   1B 従順によって 12−16
   2B 注ぎの供え物 17−18
3A 同じ心 19−30
   1B 真実に心配している者 19−24
   2B 慕い求めている者 25−30

 ピリピ人への手紙2章をお開きください。ここでのテーマは「キリストの思い」です。

 私たちは1章において、キリストだけ、という生き方をしなければならないことを学びました。「生きるのもキリスト、死ぬのもまた益です」です。ゆえに、パウロは、自分が牢獄の中にいても、キリストが宣べ伝えられているのであるから喜ぶし、死ぬことになっても喜んでいます。けれども、その喜びがさらに増し加わるために、パウロは一つのお願いをしています。それは、「一つになってください」というお願いです。

1A へりくだり 1−11
1B 一致 1−4
 こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。

 この前も話しましたように、ピリピにある教会は、愛に満ちあふれていた教会でした。宣教をしているパウロに幾度となくささげものをしました。彼らは裕福ではなかったのではなく、逆に、迫害の中にいて経済的に困窮していたのです。愛と慰めに満ちた教会だったのです。けれども、一つ問題があって、それは、教会の執事だったのでしょうか、二人の姉妹の間に確執があったようです。そのため、教会全体にも、ぎくしゃくしたものがあったようです。そこで、パウロはここで、一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください、とお願いしています。彼らは迫害の中にいました。

 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。

 なぜ、教会の中に不協和音が起こるかと言いますと、その原因は「自己中心」と「虚栄」であることが、この個所から分かります。自分を求めているために、それぞれが自分自身のアジェンダを持ち、そのために確執が起こります。そのときの自分の心の姿は、「あの人は分かっていない。」とか「レベルが低い」というものです。けれども、そこで、相手を自分よりもすぐれていると思うへりくだりが必要になります。

 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。

 私たちが一致について考えるとき、一つの意見統一をしなければならない、とか、同じ聖書解釈を持たなければいけないとか、同じ活動をしなければいけないと考えます。けれども、それは表面上のことです。むしろ、自分の心構えが大切になってきます。どれだけ、自分のことではなく、他の人のことを考えているか、そして祈り、愛し慕っているかに関わってくるのです。自分ではなく、他人のことを考える、これが大切です。

2B キリストのうちにある心構え 5−11
1C 十字架までの従順 5−8
 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

 私たちが自分だけではなく、他人のことを顧みるとき、見るべきところはキリスト・イエスです。キリストを見ながら、私たちは思いを自分から他人へと移すことができます。

 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

 これは神の受肉のことを話しています。神が人となった、ということです。「ことばは肉となって、私たちの間に住まわれた。(ヨハネ1:14)」とありますね。そこでパウロは、この出来事を、私たちがへりくだるときのモデルにしているのです。神の御姿、すなわち神そのものであられるのに、そのあり方に固執されなかった。つまり全知全能、全権であることに固執されなかった。そして、人という限界のある、さまざまな法則の中に生きる存在となられて、仕える姿をとられました。同じように、私たちも、自分が与えられている権利を放棄する自由が与えられています。そして仕えることができます。

 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

 これは、キリストがお生まれになってから、十字架に至るまでの道についてのことです。イエスさまは人間としてお生まれになっただけではなく、人間の中でも卑しい存在になられました。死ぬためにお生まれになりました。そして単に死ぬのではなく、十字架という極刑によって、極悪人であるというレッテルを張られて死なれることになったのです。

2C 高められるキリスト 9−11
 そして、キリストは高められました。これが聖書全体を通して貫かれている法則ですが、「低くされる者が高められ、高められる者が低くされる」というものです。

 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

 イエスは、すべての名の上にまさる名を与えられました。そして、すべての者が、「イエス・キリストは主である。」と告白します。けれども、「あれ、これはクリスチャンだけの告白ではないのか。」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。そうですね、確かにこの地上において、自らの意思で、イエスを主と告白するのがクリスチャンです。けれども、この地上でイエスを主と告白しなければ、天において強制的にイエスを主と告白しなければいけないときが、やって来ます。

 黙示録20章には、白い大きな御座の前に、すべての人が出てくることが書かれています。そして、ひとりひとりが、それぞれの行ないに応じてさばかれるとあります。ここで、人は、無理にでも、「イエス・キリストは主です」と告白せねばならないのです。ですから、いずれにしても、イエスが主であると告白します。それが、地上における救いに至る告白であるのか、それとも天における、さばきに至る告白であるのかの違いなのです。

2A 救いの達成 12−18
1B 従順によって 12−16
 そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。

 パウロは今、ローマにある家で囚人になっています。ピリピの人たちと離れているわけですが、彼は、私があなたがたといるときだけではなく、いないときも、いやいないからこそ従順でありなさい、と勧めています。教会の指導者がいるときは、安心して事を行なうことができますよね。また、見られているという動機も働きますから、きちんと行ないます。けれども、いなくなると、教えられたところから離れていく傾向があります。しかし、本当に教えられたことを受け入れたどうかは、指導者がいないときにこそ試される、ということなのです。

 そして、パウロは「救いを達成しなさい」と言っています。これは、どういうことでしょうか?次の切をご覧ください。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。

 パウロは1章において、「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は確信しています。(1:6)」と言いました。この良い働きは、神が私たち志において行なわれます。私たちが主を喜びとするとき、主は私たちの心に、ご自分の願いを置かれます。例えば、「あの人がぜひ救いにあずかってほしい。」と強く願うようになったとき、それは自分が願ったのではなく、主を喜びとしているあなたの心に、ご自分の願いを置かれたからなのです。

 すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。

 私たちは、主にあって願ったことを行なっていくのですが、それには多くの労苦がともないます。あの人が救われてほしいと願っているのに、なかなかイエスさまを信じてくれない、と思う時がありますね。そこで、自分が個人伝道をしていることは、はたして益になっているのか疑い出すこともあるでしょう。しかし、何事も疑わずに、しっかりと行ないなさいとパウロは勧めているのです。

 主が自分に願いを置いてくださっていることを、私たちは確信を持つべきでしょう。そして、それをつぶやかずに、疑わずに行なうのです。すると、このことを始められたのは神ご自身なのですから、神はかならず、それをキリストの日までに完成してくださるのです。これを、パウロは「救いの達成」と呼んでいます。

 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。

 この世は、曲がって邪悪になっています。聖書によると、世の終わりが近づけはそれだけ、世は不法がはびこり、愛が冷え、人々は神に背を向けるようになる、と教えています。そのようなときに、神は人々の心の中に志を立てさせ、ご自分の良い働きを行われようとします。私たちはそのことに従順になっていれば、必ずや暗やみの中の光として輝く、ということを話しています。

 そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。

 キリストが再び戻って来られるとき、ピリピ人たちに多くの実が結ばれているのをパウロが見ることができれば、ああ、自分が労苦して教えていたことはむだではなかった、と知ります。

2B 注ぎの供え物 17−18
 たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください。

 もしピリピ人たちが、実を結ぶようなことになれば、私は今、死ぬようなことになっても大いに喜びます、ということをここでパウロは言っています。注ぎの供え物というのは、牛や羊のいけにえをささげて、祭壇の上で火で焼くときに、ともに添えてささげるぶどう酒のことを指しています。パウロは、自分自身が、この注ぎの供え物になっても構わない。いや、光栄なことであり、喜ばしいことである、と言っています。ああ、パウロはなんと、ピリピの人たちのことを愛していたことでしょうか!

 パウロは、自分が死ぬことを喜んでください、と言っていますが、けれども、それは悲しんではいけないということではありません。愛する人が死ぬとき、悲しみが現われるのはごく自然なことです。パウロ自身、この章を読み勧めると、エパフロデトが死ななかったので、悲しみに悲しみが重なることがないように神がしてくださった、と言っています。けれども、この悲しみは、彼らのためではなく、自分たちのためであることを知ることが必要でしょう。この地上の幕屋から、天に用意された神の建物に移された人は、何の問題もないどころが、天における栄光にあずかっているのです。葬式というのは、その人のためではなく、私たちのためです。私たちが、悲しみのプロセルを経るために必要な、主を礼拝するときであります。

3A 同じ心 19−30
1B 真実に心配している者 19−24
 しかし、私もあなたがたのことを知って励ましを受けたいので、早くテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって望んでいます。

 パウロは、今自分の傍らにいるテモテを、ピリピの人たちのところに送ることを考えています。近況報告を聞いて、自らが励ましを受けたいと願っています。

 テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。

 パウロは2章2節において、ピリピの人たちに、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください、とお願いしましたが、パウロとテモテの心は一つになっていました。どのようにして一つになっていたのでしょうか?「真実にあなたがたのことを心配している」ことにおいて、同じ心になっていたのです。私たちが共に主のために働く同労者として、必要な資格はこれです。自分たちと同じように、仕え養うべき人々のことを気にかけ、自分のことを顧みぬほど愛し慕っているかどうかが大切であります。人のことを思う思いによって、一つとされるのです。

 だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。

 これは、本質をついた痛い現実です。なぜ同じ心になれないのか、というと、一人一人が自分のことを考えていて、キリスト・イエスのことを求めていないからなのです。キリストを求めている人は、自分のことを思わず他人を顧みることができます。キリストを信じている、私はキリストをとても求めていますと言っても、自分だけの世界をつくり、他のクリスチャンのことを気にかけていない人は、キリストではなく実は自分自身を求めているのです。

 私たちは、自分が弱まっているときや困っているときに、どれだけの人が自分のそばにいてくれるのかによって、その教会がキリストを求めているか、それとも自分自身を求めているかを知ることができます。だれかが入院しているときに、だれも見舞いにこなかった。これは自分のことを求めている教会です。パウロが牢屋の中に入っているとき、ともにいたのは、テモテとその他少数の人たちだけだったのでしょう。私たちもこのことを戒めとしたいものです。

 しかし、テモテのりっぱな働きぶりは、あなたがたの知っているところです。子が父に仕えるようにして、彼は私といっしょに福音に奉仕して来ました。ですから、私のことがどうなるかがわかりしだい、彼を遣わしたいと望んでいます。しかし私自身も近いうちに行けることと、主にあって確信しています。しかし私自身も近いうちに行けることと、主にあって確信しています。

 パウロにとって、テモテをピリピに遣わすことは大きな犠牲でした。いつもそばにいてほしいわけです。けれども、ピリピ人のことを慕うその思いから、テモテを送ることを決めています。

2B 慕い求めている者 25−30
 このように、ピリピ人のことを本当に気にかけているテモテがいました。それだけではありません。エパフロデトの存在がいます。

 しかし、私の兄弟、同労者、戦友、またあなたがたの使者として私の窮乏のときに仕えてくれた人エパフロデトは、あなたがたのところに送らねばならないと思っています。彼は、あなたがたすべてを慕い求めており、また、自分の病気のことがあなたがたに伝わったことを気にしているからです。

 エパフロデトは、ピリピの教会からの使者とあります。彼がやって来て、パウロの窮乏の世話をしてくれていました。彼はとても心配していますが、それは自分の病気のことではなく、逆にピリピ人たちが、自分の病気のことを聞いて、気を重くしているのではないかと思って、気にしているのです。このエパフロデトも、自分のことを顧みない、他人のことを思っている人、キリストを求めている人だと言えます。

 ほんとうに、彼は死ぬほどの病気にかかりましたが、神は彼をあわれんでくださいました。彼ばかりでなく私をもあわれんで、私にとって悲しみに悲しみが重なることのないようにしてくださいました。

 死ぬほどの病気になったようです。けれども、死に至らず、パウロは悲しみにくれることはありませんでした。

 そこで、私は大急ぎで彼を送ります。あなたがたが彼に再び会って喜び、私も心配が少なくなるためです。ですから、喜びにあふれて、主にあって、彼を迎えてください。

 パウロは、テモテと同じく、エパフロデトを送ることも犠牲をともないました。いつも仕えてくれる人がいなくなるのですから。けれども、パウロは、ピリピ人たちを思う思いから、彼もピリピ人に送ることを決めています。

 また、彼のような人々には尊敬を払いなさい。なぜなら、彼は、キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。彼は私に対して、あなたがたが私に仕えることのできなかった分を果たそうとしたのです。

 ピリピ人たちが果たそうとしてもできなかったパウロの世話を、エパフロデトはしていました。このように、とてつもない奉仕をした人を、軽率に扱うのでは決してなく、敬ってください、とパウロはお願いしています。彼はとても謙遜な人だったのでしょう。あまり目立たなかったのかもしれません。そこでパウロは、あえてこのように尊敬してください、と言い添えています。

 こうして2章を見てきました。キリストを思う思いは、必ず自分から離れて、他の人のことを顧みることであることを知ることができました。私たちは、どれだけ他の人を顧みているでしょうか?どれだけ、自分のことを忘れるほど、他の人のことを慕い、気にしてあげているでしょうか?自分自身を求めるのではなく、キリストを求めるというのは、こういうことなのです。


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