「自分」から離れる  2001/08/23

「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。(ピリピ2:1−21)」

ピリピにある教会は、神の恵みに満ちた教会でした。パウロはこのことを思って、神に感謝して祈っていました。けれども、教会の中に、確執があったようです。4章の前半を読みますと、二人の女執事が対立していたことがわかります。

教会の中には、ときに不協和音が鳴り響きます。主の麗しい御霊の働きがあり、キリストの愛と恵みを感じ取れるときにさえ、ある人と他の人との意見が合わずに前進することができなかったり、あるグループと他のグループとの間に見えない壁ができたりします。その原因と解決法を、パウロはピリピ書2章で書いていますが、原因は、「自分自身を求めて、キリストを求めていない。」ことです。何らかの確執や対立があるとき、その思いは、「自分は、自分は、自分は・・・」となっていることに気づくでしょう。

キリストを求めるとは、単に個人的な必要を求めるこどだけではありません。パウロが、キリストの福音が宣べ伝えられていることを考えるときに、自分が囚人であることさえも喜び、自分に反対している人たちのことさえも喜んだように、「自分」というものから離れて、他者のことを顧みることができるようになります。それは、神の身分を捨て、人の姿になり、十字架に至るまでの、自分を無にする道を歩まれたキリストご自身が、その人の思いを支配され、その人の生活を導かれるからです。

私は、自分の奉仕において、同労者がいてほしいと願います。自分と同じような信仰を持ち、同じような考え方をしている人を求めます。けれども、本当に一つになって共に働くことができるのは、表面的な、信仰・神学上の一致ではなく、自分がミニストリーをする相手をだれだけ思いやっているか、その思い入れがある人なのです。パウロはテモテのことを、こう言っています。「テモテのように私と同じ心になって、“真実にあなたがたのことを心配している者は”、ほかにだれもいないからです。(ピリピ2:20)」一致は、キリストの思いによって、自分のことだけではなく他人のことを顧みることによってもたらされます。


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