黙示録1章 「イエス・キリストの黙示」

アウトライン

1A ヨハネのあかし 1−8
   1B 預言のことば 1−3
   2B あいさつ 4−8
      1C 三位一体の神 4−5
      2C キリストのみわざ 6−8
2A あなたの見た事 9−20
   1B 大きな声 9−11
   2B 人の子のような方 12−16
      1C 栄光の御姿 12−16
      2C 右手 17−20

本文

 今日から黙示録を学びます。今日は1章を学びますが、今日のメッセージ題は、「イエス・キリストの黙示」です。

1A ヨハネのあかし 1−8
1B 預言のことば 1−3
 イエス・キリストの黙示。

 「黙示録」の題名は、「ヨハネの黙示録」となっていますが、これは正確な名前ではありません。ここに書かれているように、「イエス・キリストの黙示」が題名です。

 「黙示」という言葉ですが、この日本語の意味を広辞苑で調べると、次のようにありました。

(1)はっきりといわず暗黙の中に意思を表示すること。
(2)キリスト教で、啓示のこと。

 私たちが「黙示」という言葉から連想するのは、一番目の意味、つまり、「暗黙の中に意思を表示すること」ですね。そこで、多くの人が、黙示録について、大きな誤解をしています。黙示録は、読んでいて理解するのに難解であり、その意味が秘められて、暗号のようになっている。この本は、その意味が明らかにされていない、隠されたとところの書物である、と言います。実際、このように言う人々もいます。「黙示録は黙示文学であり、その意味が、あえて分からないように暗号のように書かれている。当時のクリスチャンたちは、ローマによる迫害を受けていたので、その意味が分からぬよう、ヨハネが象徴的表現を使って書いた。」けれども、この誤解は、ここで使われているギリシヤ語「アポカリプシス」の意味を調べればすぐに解けます。

 「アポカリプシス」とは、「覆いが除かれる」という意味です。ちょうど、市役所の前に、有名な彫刻家の彫刻の除幕式があることを想像してみてください。町の人々が集まってきて、市長があいさつをします。楽団がファンファーレの音楽を奏でて、そしてついに、彫刻を覆っていた幕が取り除かれます。そして、今まで隠されていたその彫刻の全容が、はっきりと現われ、明らかにされます。これが、「アポカリプシス」の意味です。ですから、黙示録は、人に分からないように、難しく書かれた書物ではなく、むしろ、これまで明らかにされていなかった全容を、はっきりと、一気に現わす書物なのです。

 したがって、「イエス・キリストの黙示」というのは、イエス・キリストの全容が明らかにされる、イエス・キリストが現われる、という意味になります。コリント人への手紙第一13章では、「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔を合わせて見ることになります。(12節)」とあります。当時は、青銅を磨いたものを鏡に使っていたので、自分の顔はぼんやりとしか見えません。けれども、主が再び戻って来られるときに、私たちは顔と顔を合わせるように、主をはっきりと見ることができます。ヘブル書の著者は、「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。(1:1−2)」と言いましたが、神のことばであるイエスさまを、私たちは黙示録をとおして、はっきりと見ることができるのです。だから、この本を読むことは、わくわくします。これまで明らかにされていなかった、終わりの時について明らかにされ、何よりも、私たちが愛する主イエス・キリストの姿を、はっきりと見ることができるからです。

 これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。

 すぐに起こるはずの事」とヨハネは言っていますが、ヨハネがこれから書き記すことは、すぐに起こりえる、差し迫ったこととして書き記します。黙示録の終わりにも、主ご自身が、「見よ、わたしはすぐに来る。(22:12)」「しかり。わたしはすぐに来る。(22:20)」と言われています。私たちが黙示録を読むときに、読んでいる事柄が差し迫っていることとして読むことが必要です。黙示録には、世界で起こること、イスラエルで起こることについて書かれていますが、これらのことを自分とは関係がない、自分には自分の生活があると考えて読むのならば、黙示録に約束されている祝福にあずかることはできません。今にも起こるはずのこととして、切迫した思いをもって読むならば、この書は自分に大きな益をもたらします。

 そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。

 黙示録は、初めに、父なる神によって語られました。それをキリストが受けとめ、キリストは御使いたちにそのことばを託されて、御使いがヨハネに語りました。黙示録には、ヨハネと御使いとの会話がたくさん出てきます。父なる神からキリストへ、キリストから御使いへ、御使いからヨハネという経路をたどっています。

 ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。

 黙示録の最終的な受け手は、この手紙を読んでいる教会の人々、すなわち私たち自身です。ヨハネは、これを朗読することを勧めています。当時は、現代のような印刷術がありませんでしたから、手紙が諸教会に回って、それを指導者が会衆に読み聞かせる方法を取っていました。そして、これを聞くだけでなく、「書かれてあることを心に留める人は幸い」とあります。「心に留める」は、「守る」とも訳すことができます。つまり、黙示録は、聖書研究の研究室にこもって、学究的に調べるものではなく、他の聖書の書物と同じように、そのことばに聞き従っていく類のものです。ただ知るだけではなく、従順に従っていきます。

 時が近づいているからである。

 ここで書かれている「時」とは、特定の時、すなわち終わりの時のことです。黙示録を読むときは、旧約聖書のダニエル書を知る必要があります。黙示録の大きな流れは、ダニエル書の預言と神のプラグラムに沿って書かれているからです。ダニエルに対して、御使いは、「ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと探り回ろう。(12:4)」と言いました。時が来るまで、秘められて、封じられているのがダニエル書です。しかし、黙示録は、その時がやって来て、封じるのではなく、開かれている書物となっています。神の小羊が、七つの封印を解く場面が6章から始まりますが、黙示録によって終わりの時に起こることが、一挙に開かれています。

2B あいさつ 4−8
 そして次に、ヨハネは、他の使徒たちの手紙と同じように、あいさつを書いています。

1C 三位一体の神 4−5
 ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。

 ヨハネは、小アジヤ、すなわち現在のトルコにある諸教会の監督をしていたようです。ヨハネが死ぬときには、エペソにて監督を行なっていたとの記録があります。そして、「七つの教会」とありますが、黙示録では、主イエス・キリストが、七つの教会に対してお語りになっています。けれども、アジヤには、実際七つ以上の教会がありました。例えば、パウロが書いた「コロサイ人への手紙」がありますが、コロサイの町は、アジヤ地方にあります。けれども、この七つの教会に含まれていません。黙示録2章と3章を読み進めると分かりますが、この手紙は、個々の七つの教会に宛てられた手紙でありながら、諸教会全体に対して語られたものです。「御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。(2:7など)」とあります。

 「七」という数字は、聖書に頻繁に出てくる数字です。神は六日で天地を創造されて、七日目に休まれました。主が、例年行なわれる祭りを定められたとき、過越の祭りから七を七つかけて、49日後の翌日に、五旬節、ペンテコステをお定めになりました。ヨシュアがエリコを陥落させるときに、一日に一周エリコの町のまわりを回って、七日目に七周まわって、それからときの声を上げました。イエスさまが、ペテロに人を赦さなければいけない回数を聞かれたときに、「七の七十倍赦しなさい」と言われました。このように「七」という数字が出てくる個所に注目しますと、共通しているのが、「完全」という言葉です。神が完全な方でありますが、完全に行なわれることや、完全である状態のときに「七」が使われています。ですから、「七つの教会」といわれるときに、これはすべての時代の、すべての教会を指していると考えることができます。

 常にいまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。

 パウロの手紙では、「父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。」という言い回しがありましたが、ここでも、「恵みと平安が、あなたがたにあるように」と書かれています。そして面白いのは、その恵みと平安の源であられる神が、三位一体の神として紹介されていることです。「常にいまし、昔いまし、後に来られる方」は、父なる神です。「七つの御霊」は、聖霊です。そして、イエス・キリストです。

 「常にいまし、昔いまし、後に来られる方」というのは、神が永遠に生きておられることを意味しています。そして「七つの御霊」というのは、七つの教会に対して七つの御霊がおられるということで、御霊がどの教会にもあまねく働いておられることを意味するのでしょう。

 イエスさまについては、初めに、「忠実な証人」と紹介されています。主が地上に再臨されるときに、その白い馬に乗って来られる方は、「忠実また真実(19:11)」と呼ばれています。イエスさまは、何に対して忠実であられ、何の証人となられたのでしょうか?父なる神ですね。イエスさまは、十字架につけられる直前に、ピリポから、「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。(ヨハネ14:8)」と頼まれました。イエスさまは答えられました。「ピリポはイエスに言った。『主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。』イエスは彼に言われた。『ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。』(ヨハネ14:8−9)」イエスさまを見れば父を見る、というぐらい、イエスさまは、父なる神を正確にあかしされていたのです。

 私たちは、「イエス・キリストの証人」として立たせられています。私たちを見たら、キリストがどのような方かがわかる、というようなとき、私たちはキリストの証人となります。これは私たちの力ではとうてい無理です。ご聖霊の助けによって可能となります。

 そしてイエスさまは、「死者の中から最初によみがえられた方」と紹介されています。「最初に」というのは、単に順番を指しているのではありません。「すべてのものにまさって」と言う意味です。イエスさまは、決して朽ちることのない姿でよみがえられました。そしていつかまた死ぬのではなく、いつまでも生きている形でよみがえられました。「わたしはいのちです。よみがえりです。」と主は言われましたが、主を信じている者、キリストのうちにいる者たちも、同じように、復活にあずかります。

 それから、イエス・キリストは、「地上の王たちの支配者」と言われています。主は父なる神の右に座しておられますが、主が地上に戻って来られるとき、神の御国を立ててくださいます。その時、地上の支配者たちは、イエスを絶対的主権者として、この方に従い、服従します。

2C キリストのみわざ 6−8
 ヨハネは続けて、イエスさまのみわざを語っています。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。

 イエスさまは、私たちを「愛して」くださいました。ご自分のいのちを捨てるほどに愛してくださいました。悪魔は私たちを罪に定めようとして、「お前はだめだ。クリスチャンと呼ぶことはできないような罪を犯している。神にもあまりよく思われていないよ。」とささやきかけますが、そのような声を否みましょう。神は愛です。そして、イエスさまは私たちを「罪から解き放」つために、血を流してくださいました。私たちが自由になるのは、自分の頑張りではなく、唯一、キリストの血を仰ぐことです。キリストの血によって私たちの良心がきよめられ、罪意識から解放され、自由に愛をもって主にお仕えすることができるようになります。

 そしてイエスさまは、私たちを「王国」とし、「祭司」としてくださいました。イエスさまは、地上に戻ってこられてから神の国を立てられますが、その時に私たちを共同の統治者としてくださいます。主とともに世界を治めます。多くのクリスチャンが、自分のことだけの信仰になってしまっていますが、その理由は、キリストの愛と流された血を知っていても、自分がキリストとともに世界を管理するというまでのビジョンが与えられていないからです。私たちは、この世界をも支配するのです。したがって、その信仰は、いかなる世の勢力や権力に対しても、高らかに勝ち誇るものであり、国家権力によって命が取られても、堅く立っていることができるのです。

 見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。

 先ほどから、主が地上の王たちの支配者、私たちが王国であり祭司であるなど、神の国についてのことが書かれていましたが、それをもたらす出来事が、ここに書かれています。つまり、キリストの地上への再臨です。黙示録の中心テーマが、キリストの再臨になっています。19章後半部分に、白い馬に乗られたイエス・キリストの姿があります。神とキリストに反抗してハルマゲドンに集まってくる王たちが、再臨のキリストによって滅ぼされます。この出来事に至るまでの経緯を、私たちは1章から19章までに読んでいきます。そして20章以降は、キリストが地上に来られた後の神の国と、新天新地について書かれています。

 キリストが「雲に乗ってこられる」のは、ダニエル書に預言されていますし、また主ご自身も証言されました。そして、「すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。」というのは、ゼカリヤ書12章10節にある預言です。「彼を突き刺した者たち」というのは、ユダヤ人のことです。ユダヤ人の宗教指導者が、イエスに私刑を行ない、ローマ総督ピラトに引き渡しました。今、ほとんどのユダヤ人がキリストを信じていないし、また神も信じていません。無神論者です。しかし、聖書には、イスラエルを試す、「ヤコブの苦難」とも言われる大患難が預言されています。私たちは、6章から19章までにその時期を学びます。その大患難を通して、心を頑なにしていたユダヤ人たちは、砕かれて神を求めるようになります。そしてハルマゲドンの戦いにおいて、自分たちが滅亡する危機に瀕しているときに、彼らは自分たちの救い主メシヤを求めるのです。その時に、メシヤが雲に乗って来られます。すると、彼らは、メシヤは、自分たちの先祖がかつて十字架につけた、あのナザレ人イエスであることを知るのです。そこで彼らは、初子を失って激しく泣くように嘆きます。その悔い改めによって、罪と汚れのきよめの泉が開かれて、彼らは新生します。

 神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

 アルファは、ギリシヤ語の初めのアルファベットで、オメガは最後のアルファベットです。他の写本では、「アルファであり、オメガである。最初であり、最後である。」と書かれています。神は、いつもでも生きておられる万物の支配者、ということです。

2A あなたの見た事 9−20
 こうして、黙示録の導入部分を読みました。同じ使徒ヨハネだけあって、ヨハネによる福音書の書き出しと似ています。初めに書全体のテーマを書いて、そして中身に入ります。9節からは、続けて、イエス・キリストの黙示、イエス・キリストの現われについて見ます。

1B 大きな声 9−11
 私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

 ヨハネは自分のことを、「あなたがたの兄弟であり」と言っています。彼は12使徒の一人であり、しかも柱とされていた三人の一人です。(ヨハネのほかに、ペテロと、イエスさまの半兄弟ヤコブがいました。)そして、この時は紀元90年代であり、生きている使徒はヨハネだけでした。他の使徒は、殉教しています。このような状況であれば、彼が教会の長とされて、神と人々との間の仲介役になるような、霊的階級制度が生まれてもおかしくありません。しかし、これほど主から権威が与えられ、教会を監督して、指導していた重要人物が、自分のことを「あなたがたの兄弟」と呼んでいるのです。

 これはイエス・キリストの福音が、このような性質のものだからなのです。キリストにあって、すべての人は神の前で平等です。神にとって使徒ヨハネが大切であったのと、まったく同じように、他の信徒たちも神にとっては大切なのです。現代版にすれば、神にとってビリーグラハムが大事であるのとまったく同じように、神は私たちのことを重要だと思われています。ビリーグラハムの祈りを神がすぐに聞いてくださるように、私たちの祈りも神はすぐに聞いてくださいます。そこにはなんら差別はなく、神にだれかがより近づいており、だれかが遠く離れていることは、一切存在しないのです。これが、新約時代の奥義であり、キリストが、すべての壁をこわしてくださり、大胆に神の御座に近づくことができるようにしてくださったのです。

 そしてヨハネは、「あなたがたとともにイエスにある苦難」と言っていますね。「私とあなたがた」ではなく、「私たち」なのだよ。ともに苦しみにあずかっているのだよ、ということです。信者だけが苦しみ、指導者が楽をしているような状態は、キリストの教会ではありません。指導者がともに兄弟たちと生活をしているのです。そして、「御国の忍耐」とありますが、これは、主が再臨されることをじっと耐え忍びつつ、待ち望むことを意味しています。ヤコブは手紙の中で、「あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。(5:8)」と言いました。

 そしてヨハネが黙示録の啓示を受けたときは、彼は「パトモス島」に流されていました。ローマ皇帝ドミティアヌスの時に、クリスチャンに対する第二回目の大迫害がありました。第一回目は皇帝ネロの時で、その時にパウロとペテロが殉教しています。第二回目の大迫害のときに、ヨハネはパトモス島に流刑されました。96年にドミティアヌスが死んだので、ヨハネはエペソに戻り、再び教会の監督を始めた、という歴史的な記録があります。その時に、ヨハネは、パトモス島で受けたイエス・キリストの啓示を書き記したかもしれません。

 私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。

 この「主の日」についてですが、これが日曜日であるという解釈があります。というのは、教会は早くから、日曜日を礼拝の日に定めていたからです。イエスさまは、安息日が終わった明け方によみがえられました。教会は、日曜日に行なわれる五旬節のときに誕生しました。使徒行伝にも、週の始めにパン裂きをしていたという記事があります。

 けれども聖書では、「主の日」という言葉は、終わりのときに起こる、大患難のことを指しています。テサロニケ人への手紙で、このことを学びましたね。旧約聖書において、主の復讐の日、怒りの日、恐ろしい日として描かれていました。新約聖書にも、同じ意味で使われています。ですから、ここは「終わりの日」と捉えることが適切です。ヨハネは、終わりの日に起こることを御霊によって感じて、そこで、終わりの日に聞くようなラッパの音を聞きました。ちなみに、御霊によってヨハネはいろいろな場面に移っていきますが、これは過去に預言者エゼキエルが同じ体験をしています。

 その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」

 ヨハネがこれから見るものを書き記して、七つの教会に書き記しなさいと命じています。

2B 人の子のような方 12−16
 この声の持ち主の姿が次に出てきます。

1C 栄光の御姿 12−16
 そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。

 金の燭台は、ご存知のとおり、幕屋の中にあったものです。ミノラーとも呼ばれます。今、この燭台が、教会を表しているものとされています。燭台に光がともされていたのように、教会にも聖霊による火と光がともされています。パウロは、「光の子どもらしく歩みなさい。(エペソ5:8)」と言いました。

 それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。

 人の子のような方」そうです、イエス・キリストです。ダニエル書において、メシヤのことが「人の子」と呼ばれています。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

 この姿は、ダニエル書10章においても出てきました。天におけるイエスさまの栄光の御姿です。私たちは福音書において、イエスさまの地上の姿を見ることができますが、黙示録では、天で起こっていることが、詳しく描かれています。そして、もう死んだが生きかえって、今も生きておられるところのイエスさまが、教会に対して語るべきメッセージを持っておられる、ということです。

2C 右手 17−20
 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。

 ダニエルは、主の御姿を見て死人のようになってしまいましたが、ヨハネも倒れて死人のようになってしまいました。神の本当の姿に出会った人は、このように神の前には立てなくなるほど、へりくだされます。自分はまだ大丈夫だ、と思っている人は、本当の意味でまだ神に出会っていないのです。イエスさまは、「心の貧しい者は幸いです。天の御国を受け継ぎます。」と言われましたが、主に出会った人は、心貧しくされます。

 しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。

 先ほど、父なる神が「最初であり、最後である」と呼ばれていましたが、イエスさまも、最初であり、最後であると言われています。御父と御子は一つです。

 わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。

 私たちは今、イエスさまを目で見ることができないため、主がともにおられて、真ん中におられることを忘れてしまいます。そこで、あたかも主が死んでしまっているかのように思って、悪い行ないをするようになります。けれども、黙示録2章、3章を読めば、生き残っている使徒は老齢のヨハネしかいなくても、全教会の主として、イエスさまが力強く働いておられ、教会を見ておられることを知ります。私たちも今、主が何を自分たちにお語りになっているのかを聞く備えをしなければいけません。

 また、死とハデスとのかぎを持っている。

 イエスさまは、十字架で死なれた後に、ハデスにいる旧約の聖徒たちを解き放ち、天にまで連れて行かれたと、エペソ書4章8節にあります。主がハデスの門を開く鍵を持っておられ、また死の門のかぎを持っておられます。終わりの時に、白い大きなさばきの御座にて、死とハデスが開かれて、死者がよみがえり、神の前でさばきを受けます。

 そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。

 ここは、黙示録全体の構成を把握するのに、鍵となる重要聖句です。黙示録は、三つの部分に分けることができます。一つは、「あなたの見た事」です。ヨハネは今、天におけるイエスさまの栄光の御姿を見ました。ですから、黙示録1章を、「あなたの見た事」に区分けできます。そして、「今ある事」は、イエスさまがこれからメッセージを送られる、教会の事です。黙示録2章と3章に書かれています。この2章分を、「今ある事」として区分けできます。そして、教会の事の後に、「この後に起こる事」があります。4章1節をご覧ください。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」とあります。今ある教会の後に起こること、教会が携挙された後に起こることが、黙示録4章以降に書かれています。ですから、4章から最後の22章までを、「この後に起こる事」として括ることができます。

 このアウトラインを頭に入れて、黙示録全体を読めば、また先ほど話した19章後半に出てくるイエスさまの再臨がクライマックスであることを頭に入れて読めば、細部の表現にとらわれて、右往左往するのではなく、大きな流れとして黙示録を読むことができます。実は、黙示録は、あたかも交響曲が奏でられているように、その話の流れに秩序があります。アウトラインを最も作りやすい書物の一つです。読み方がわかれば、これほど付いて行くのにたやすい書物はありません。ここで苦手意識を払拭しましょう!

 わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。

 先ほど話しましたように、イエスさまは教会の真ん中におられます。全時代の全教会の真ん中に、主がおられます。そして、七つの星が御使いであるとありますが、2章1節には、「エペソにある教会の御使いに書き送れ」とあるように、天使のことではないかもしれません。この言葉のもともとの意味は、「メッセンジャー」ですから、教会に立てられている預言者や牧者であるとも考えられます。主が今、地上に教会に対し、評価を行なわれます。

 このように、黙示録の初めから、「イエス・キリストの黙示」がありました。主の栄光の御姿が描かれていました。そして、主が再び地上に戻って来られることによって、キリストがご自分を明らかにしてくださいます。また、イエスさまは、「わたしは最初であり、最後である」「わたしはよみがえりである」と言われて、ご自分を明かされています。また、イエスさまは、「忠実な証人」であり、「私たちを愛された方」であり、「血を流して、罪から解き放ってくださった方」であり、「地上の王たちの支配者」であられる方です。どんどん、どんどん、主の正体が露にされて、その本質が全開されます。私たちは、この方を今はぼんやり見ておりますが、黙示録をとおして、ますます主ご自身を知って、この方と顔と顔を合わせて会うときを待ち望みましょう。


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