黙示録14章 「神の勝利



アウトライン

1A 贖われた14万4千人 1−5
   1B 新しい歌 1−3
   2B 童貞 4−5
2A 神の激しい怒り 6−20
   1B 中空を飛ぶ御使い 6−13
      1C 永遠の福音 6−7
      2C 大バビロンの倒壊 8
      3C 火と硫黄の苦しみ 9−13
   2B 人の子の刈り取り 14−20
      1C 実った穀物 14−16
      2C 酒ぶねから出る血 17−20

本文

 黙示録14章を開いてください。ここでのテーマは「神の勝利」です。私たちは前回にて、一つの大きな区切りを読みました。それは、天から下って来た力強い御使いが開かれた巻き物を持ち、それをヨハネに食べさせたところから始まります。10章です。ヨハネはそれを口にすると、口には甘かったけれども腹には苦いものでした。なぜなら、「もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない」からです(11節)。そこで私たちは、11章にて、エルサレムの神殿のところで、1260日間預言をしたふたりの証人を読みました。それから12章にて、イスラエルを追いかける竜、すなわち悪魔について読みました。イスラエルが荒野に逃げて、そこで神によって養われるのを知ったので、悪魔はイエスのあかしを守る者たちに対して戦おうと、海辺に出てきました。

 そこで13章にて、獣が海から出てきたのを見ました。獣に悪魔のすべての権威、位、力が与えられて、死んだように見えたが生き返り、人々は獣と竜を拝むようになりました。そしてもう一匹の獣、偽預言者が現われ、獣の像を拝むように地上のすべての者に命じます。そして獣の名が記されている六百六十六の刻印を押し、この刻印がない者は、売ることも買うこともできないようにされました。こうして、悪魔によって力が与えられた獣、反キリストは、聖徒たちに戦いを挑み、勝利することが許されたのです。

 このように暗黒の世界、おそろしい悪魔の世界を見てきました。けれども、このことによって私たちは敗北感を抱いたり、落胆したりしてはいけません。主はどのようなことが起こっているときでも、御座におられ、すべてのことを掌握されています。14章は、そうした主の主権的な働きと、これから最後に行なわれる神のさばきについての予告を読んでいきます。

1A 贖われた14万4千人 1−5
1B 新しい歌 1−3
 また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。

 13章の、獣の国と場面はがらっと変わって、小羊なるイエスさまが登場されています。小羊は、「シオンの山」の上に立っておられます。シオンの山とは、エルサレムの町を構成するいくつかの山の一つです。イスラエルの地図を見ますと、その国の中心部は山々が南北に連なっており、エルサレムの町が最も高いところとなっています。ですから昔、エブス人が住んでいたとき、その地形が強固な要塞となっていたのです。

 主は、戻ってこられるとき、エルサレムのオリーブ山のところに戻って来られます。「その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。(ゼカリヤ14:4」覚えていますか、イエスさまがオリーブ山で昇天された後、同じ姿で戻って来られるとふたりの人が弟子たちに話しました(使徒1:11)。そして主は、このエルサレムから世界を統治され、みことばを語られます。「多くの民が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。』それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。 (イザヤ書2:3」したがって、ここシオンの山に立っている小羊とは、再臨されて地上に戻ってきているイエスさまの姿を表しているのです。詩篇二篇6節には、「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」とあります。

 また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。

 額に神の名がしるされている14万4千人の人たちとは、黙示録7章に出てきたイスラエル12部族からなる神のしもべたちです。彼らに神の印が押されるまでは、木や海にどんな害も加えてはいけないと御使いが言いました。彼らが患難時代の初めのときに、神によって選ばれて、神のあかしをするように召されました。7章の後に、第七の封印が解かれて、七つのラッパが吹き鳴らされ、とてつもない災いと、また聖徒たちに対する迫害がありましたが、その中にいても、彼らは生き残り続けたのです。そして今ここで、再臨の主とともにシオンの山の上にいます。

 私は天からの声を聞いた。大水の音のようで、また、激しい雷鳴のようであった。

 小羊と14万4千人がシオンの山にいるところで、天から声が聞こえました。大水の音、激しい雷鳴とのことですが、これはおそらく御座のすぐそばにいるケルビムが動いた音であろうと思われます。エゼキエル書1章24節にこう書いてあります。「彼らが進むとき、私は彼らの翼の音を聞いた。それは大水のとどろきのようであり、全能者の声のようであった。それは陣営の騒音のような大きな音で、彼らが立ち止まるときには、その翼を垂れた。

 また、私の聞いたその声は、立琴をひく人々が立琴をかき鳴らしている音のようでもあった。

 かつてダビデの時代のとき、人々は立琴をもって主をほめたたえましたが(詩篇144:9)、天においても、立琴を引くその音があります。それは次に出てくる、主への賛美の歌に合わせて奏でるためです。

 彼らは、御座の前と、四つの生き物および長老たちの前とで、新しい歌を歌った。

 今、14万4千人の人たちは地上にいますが、彼らの歌は、天にある御座、そして黙示録4章から頻繁に出てくる四つの生き物、長老たちの前に届いています。四つの生き物、長老たちは、主を賛美し、礼拝するときに登場していますが、今地上での賛美の歌がそのまま天に入ってきているのです。

 私たちの祈りは、私たちがキリストのうちにいるため、天にそのまま届けられています。キリストが神の右に着かれているので、私たちが地上で祈っても、そのまま神の御座のところで聞かれているのです。こんなにも天は私たちに近い存在です。賛美と礼拝も同様に、御霊によって私たちは神の宮となっており、そのまま天に直結しています。私たちはこの地上において、天の前味を味わうことが許されています。

 そして、これが「新しい歌」とあります。私たちが新しいものではなく、古いものを歌うのであれば、それはその当時、神にふれられた歌であっても、今、神に触れられてうたっているものではなくなります。聖書には、「内なる人は日々新たにされています。(2コリント4:16)」と書かれています。私たちと主との関わりは、昔ではなく、絶えず今、保ち続けるものです。

 しかし地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった。

 この14万4千人は、地上から贖われた、すなわち大患難を生き残って、主が戻って来られるところまで生きていた人々です。彼らはちょうど、洪水の中で救われた、箱舟の中にいたノアのようです。洪水というさばきがありましたが、そのさばきを通りながらも、なお生き残り、新しい世界へと導かれたように、14万4千人も大患難を通りながらもなお生き残り、神の国の中に入ります。教会は、ノアの曾おじいさんのエノクのようです。エノクは生きながらにして天に引き上げられましたが、洪水という神のさばきを通らずして、救われた人です。教会は、神の怒りの中を通らないことによって救われます。

2B 童貞 4−5
 彼らは女によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。

 14万4千人の人たちが実際の童貞なのか、それとも比喩的な表現であり、神に対する貞潔を守っていることを表しているのか、この箇所の解釈について意見が分かれています。純潔についての比喩は、例えば、イザヤ書37章22節に、「処女であるシオンの娘」とイスラエルが表現されています。けれども、どちらにしてもここで強調されていることは「汚されなかったこと」、すなわち、神への貞潔を守ったことであります。13章にて、全世界のすべての住民に、獣の刻印を押されるという強制が行なわれたのを見ました。非常に汚れた行為ですが、14万4千人はこれらの強制をも受けずに、汚されなかったと言えます。

 
彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く。

 彼らが汚されなかったのは、小羊が行くところに、どこでもついて行ったからです。彼らはイエスさまから決して離れることがありませんでした。これが聖潔の秘訣です。イエスさまがどこにおいても自分のそばにおられることを意識することです。けれども、14万4千人とは異なり、クリスチャンは、「キリストのうち」にいる存在です。ですから、キリストにあって神が私たちのうちで行なってくださったことを思うとき、私たちは聖さの中に自分を保っていることができます。

 彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。

 初穂」は、レビ記23章に出てくる言葉です。「初穂の祭り」というものが、過越の祭りの三日目に行なわれます。大麦の収穫があるとき、まず初めに主におささげするというのが、その主旨です。それから50日後に五旬節、ペンテコステがありますが、これは小麦の初穂を主にささげる祭りです。ですから初穂は、これからの収穫を予告するものであり、贖われた者の初穂ということは、これから14万4千人のほかに、数多くのイスラエル人たちが贖われるという意味です。

 神は、イスラエルを見捨てられていないというのは、旧約聖書に数多く書かれてる預言であり、そしてパウロが、霊的真理としてはっきりと宣言している事実です。イスラエルが見捨てられたことになるのか?という問いに、「絶対にそんなことはありません」とローマ11章1節で答えています。そしてパウロは、異邦人の完成が終わったらイスラエルが救われる、と預言しています。患難時代に入ってから、14万4千人が神のしもべとなりました。そして二人の証人によって、エルサレムに住む人々が神をあがめ、イスラエル人の間にイエスを信じる人たちが現われ始めます。そして、荒野に逃げたイスラエル人たちは、メシヤが戻って来られるのを見て、イエスこそメシヤであることを知り、世界中のイスラエル人がイエスがメシヤであることを知ります。このように、イスラエルの救いの初穂として、14万4千人が立てられるのです。

 彼らの口には偽りがなかった。彼らは傷のない者である。

 傷のない」というのは、これまた旧約の律法の中で定められているものであり、神にささげる動物のいけにえは、傷があるものは受け入れられませんでした。足が骨折している羊は主は受け入れられませんでした。傷や欠陥があってはならないのです。ですから、14万4千人は、口に偽りがないなど、主に受け入れられないものを持っていなかった、清められていた人たちであることが分かります。特に、大患難時代において、偽らずにキリストを告白することは、尋常ではない苦しみを受けます。それでも真実を語ります。

 私たちクリスチャンは、傷もしみもない、小羊のようなキリストの尊い血潮によって贖い出されたと第一ペテロ1章19節に書いてあります。さらに、私たちはキリストのうちにいるので、神が私たちをご覧になるときは、私たちではなくキリストを見てくださいます。ですから、神は、御前で聖く、傷のない者にしようとされた、とエペソ1章4節に書かれています。

2A 神の激しい怒り 6−20
 こうして、獣の国の中においても、14万4千人は汚されることなく、しかも生き残っていることができます。主のあかしは完全に途絶えることはありませんでした。主の勝利です。

1B 中空を飛ぶ御使い 6−13
 そこで次に、これから起こる神の激しい怒りのさばきを予告する御使いたちが登場します。

1C 永遠の福音 6−7
 また私は、もうひとりの御使いが中天を飛ぶのを見た。

 御使いが中天を飛んでいます。以前、第五の御使いのラッパ、第六と第七の御使いのラッパが吹き鳴らされる前に、「わざわいが来る、わざわいが来る、わざわいが来る」と叫んだ、中空を飛んでいたわしがいました。その後に三つのわざわいが下ったのですが(8:13)、そのわしはわざわいの予告をしたのです。同じように御使いは、これから起こることを予告しており、私たちはこれから読んでいく箇所が、主が再臨されるまでの比較的長い期間が描かれていることに気づきます。

 彼は、地上に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。

 驚くことに、このような大患難の極みに達しようとしている時期にさしかかっているにも関わらず、福音宣教が行なれます。主は最後の最後まで救いの御手を差し伸べておられます。そして、聖書には「異邦人の完成のなる時(ローマ11:25)」と書かれていますが、主がお救いになろうとされている異邦人をすべて救われる時が大患難時代においてであり、それが完成した後にイスラエルを国民的に、全体的にお救いになるのです。ヨエル書に、「主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。(2:31−32)」とありますが、大患難の時も福音によって救われる人たちがいるのです。またイエスさまが、「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。(マタイ24:14)」と言われました。

 ここで興味深いのは、福音を携えているのが「御使い」であるということです。主は、私たちが仮にまったく福音を宣べ伝えなくても、どんな方法をお使いになっても福音を人々が聞くことができるようにされます。私たちは絶対に必要な存在ではなく、私たちはただ、主の恵みとあわれみによって、この働きに加えていただいている存在にしか過ぎないのです。コリント第一1章には、「神は、・・・愚かな者を選び(26節)」と書かれています。また、エペソ1章6節には、「恵みの栄光が、ほめたたえられるためです」と書かれています。私たち罪人が救われることによって、あえて神が愚か者を選ばれることによって、神の恵みのすばらしさがますます現われるために、神はあえて私たちを福音宣教の器にされています。私たちは神の恵みを、自分の姿をもって証しすることができるのです。私たちがいなければ、福音が伝わらないではなく、私たちがいるにも関わらず、福音が伝わるのです。

 彼は大声で言った。「神を恐れ、神をあがめよ。」

 福音の目的は、それを聞いて信じた人が、「神を恐れ、神をあがめ」ることです。幸福の科学のように、私たちの幸福や安寧が第一目的ではありません。神に栄光を返すことが第一目的です。

 神のさばきの時が来たからである。

 これから神の激しい怒りが地上に下ります。獣の国の一員になったこと対する、神のさばきが下ります。

 天と地と海と水の源を創造した方を拝め。

 この真理は福音の基本です。ロマ書1章には、「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。(20節)」とあります。創造主を被造物によって知っているのにそれを拝まないというのが、不義と不正の始まりです。私たちも、八百万の神を信じている人々に対して、はっきりと万物を創造された方を伝えなければいけません。

2C 大バビロンの倒壊 8
 また、第二の、別の御使いが続いてやって来て、言った。「大バビロンは倒れた。倒れた。」

 この箇所から黙示録の中で大きなテーマの一つになっている「バビロン」という町が登場します。16章の最後のところに、大バビロンが倒れることが再び書かれており、そして17章と18章にて、長い紙面を割いて、主はヨハネにバビロンの崩壊について啓示を与えておられます。19章にて、主が地上に再臨される場面が出てくるのですから、大バビロンの存在は霊的に非常な大きな意味を持っています。

 バビロンは、聖書の中において、イスラエルとエルサレムの町が滅ぼされ、ユダヤ人を捕囚の民とした、ネブカデネザル王による国として登場します。けれども、その前からバビロンは、神のご計画の中では創世記のところから登場しています。創世記10章にて、ニムロデという人物が最初の権力者になったことが書かれていますが、彼は神に反抗する権力者でした。シヌアルの地で町々を建てたことが書かれていますが、そこはバビロンの地域です。実はイザヤ書によると、バビロンに対する預言の中で、天地創造を神が行なわれる前に、ルシファーが天から堕落して悪魔になったことが預言されており、エデンの園にて蛇として現われるのですが、そこもバビロンの地です。さらに、人々が地に満ちるように、と主は命じられていたのに、一つのところに集まって、町を建てて、塔を建てて、天にまで届き、自分の名をあげようとしたのはバビロンの地です。主は言葉をばらばらにされましたが、それは強制的に彼らが地上に散らばっていき、そこでへりくだった生活を送るようにするためでした。私たちは、言葉が一つであれば本当に便利なのにと思いますが、もし一つであれば、神に反抗し、自らを神にしようとする動きを一致して行なってしまうことでしょう。

 そしてこの町を首都として、ネブカデネザルが人類の歴史において初めて、世界帝国を築きました。そしてバビロンが、イスラエルとエルサレムの町を滅ぼすために主に用いられました。このように、バビロンは、相集まって神に反抗して、自分たちを神にしようとする動きの代表格であります。このことから私たちは、ヒューマニズム、つまり人間を中心にして世界をまとめようとする動きを警戒しなければいけないことが分かります。経済統合、政治統合、そして宗教の統一はまさにバビロンの動きです。

 バビロン国は、ダニエル書に記録されているように、メディヤ・ペルシヤ国によって滅ぼされました。それでもバビロンの町は、世界経済や世界政治の中心地として、メディヤ・ペルシヤ帝国は用い続けましたし、またギリシヤのアレキサンダー大王も用い続けました。ローマに代わってから廃れはじめ、それからは廃墟の町となりました。このことが、イザヤ書13−14章と、エレミヤ書50−51章に克明に描かれています。(時間のある方は、ぜひ読んでみてください。)今私たちが読んだ、「バビロンが倒れた。バビロンは倒れた。」という言葉は、イザヤ書21章9節からの引用です。

 けれども、ヨハネが黙示録を書いているのは紀元90年代ですから、とっくの昔にバビロンは滅んでいるはずなのに、再び登場します。つまり、再び現われることになります。ゼカリヤ書に、終わりの時にシヌアルの地に「罪悪」と呼ばれている、エパ枡の中にいる女の姿がふたり出てきます。彼女たちはシヌアルの地で自分たちのための神殿が建てられる、との預言があります(ゼカリヤ5:5−11)。そこで文字通り、今のイラクの地にバビロンが建設されるのか、あるいは、バビロンに代表された相集まって神に反抗する中心地が他に出来るのかは分かりませんが、いずれにしても終わりの時にバビロンが建て上げられるのです。

 激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。

 大バビロンの罪悪とは、「不品行」というぶどう酒をすべての国々に飲ませることです。覚えていますでしょうか、七つの教会に対するイエスさまのことばが記されている黙示録2章と3章の中に、テアテラにある教会のことが書かれていました。そこに、イゼベルと呼ばれる女預言者が教会の中におり、「わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。(2:20)」とイエスさまは叱責しておられます。彼女が実際の不品行を教会のスタッフたちに行なわせていたと考えられますが、それだけではなく、霊的姦淫つまりイエスさま以外のものを拝ませる偶像礼拝を行なわせていた、と考えられます。したがってバビロンは、偽りの宗教制度でもあることが分かります。詳しいことは、黙示録17章の学びのときに見ていきましょう。

3C 火と硫黄の苦しみ 9−13
 また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。

 第三の御使いは、獣の国において獣に従い、拝んだ者たちに対する神の怒りを予告しています。バビロンが倒れた後に獣と偽預言者も滅びます。覚えていますか、前回の学びにおいて、偽預言者が反キリストである獣の像を拝むように、全世界の住民に要求し、獣の名の数字を自分の額か、右手にその刻印を押さなければいけませんでしたが、それを拒む聖徒たちは売り買いができず、餓死して死んでいきます。けれども今、刻印を受けた者たちのほうが、神によってさばかれて死ななければいけません。

 ここで、彼らは刻印を受けるときに、獣の像を拝んでいることが前提として書かれていることに注目してください。単に刻印を受けるのではなく、獣に対する忠誠をたとえ心がともなっていなくても行なっているのです。偶像礼拝は、心がともなっていないから形だけ行なうのなら大丈夫ではないのです。それは、偶像の背後にある悪霊を拝むことであり、私たちは形においてもそれを避けなければいけないことが分かります。

 そしてここに「神の怒りのぶどう酒」という言葉が出てきました。詩篇には、「主の御手には、杯があり、よく混ぜ合わされた、あわだつぶどう酒がある。主が、これを注ぎ出されると、この世の悪者どもは、こぞって、そのかすまで飲んで、飲み干してしまう。(75:8)」とあり、悪者が神のさばきを受けることが、ぶどう酒を飲むこととして表現されています。さらに、「神の怒り」という言葉ですが、ギリシヤ語には、怒りを意味する言葉として「スモス」と「オルゲー」があります。スモスは、ちょうど裁判官が犯罪人に刑の執行を行なわなければいけない時のように、きわめて冷静に、理性的に考えて現わす怒りのことです。けれどもオルゲーは、熱情のこもった「これでもかあ!」と叫ぶような怒りの現われです。新約聖書ではスモースがよく使われますが、ここ黙示録にて、「神の激しい怒り」とか、「神の怒りのぶどう酒」のところには、オルゲーが使われています。

 主はあわれみ深く、情け深い神です。怒るにおそく、恵みとまことに富んでおられる方です(出エジプト34:6)。主の寛容を考えると、気が遠くなるほどです。なぜここまで主は忍耐しておられるのか、なぜ悪者を滅ぼされないのか、と私たちは思ってしまいます。私たちは自分にはあわれみを求め、人にはさばきを求めますが、悪い人たちを見てそう思うのです。また、世の中を見ると、とことんまで悪くなっています。なぜ主はこのままにしておられるのか、と不思議に思うことがしばしばです。けれども主は、ご自分に似せて人をお造りになられたことをよく知っておられます。ご自分が自由意志を持っておられるように、人も自由意志をもっていなければいけません。ですから、人が善と悪のどちらかを選ぶ選択を与えなければいけません。そのため、主は彼らが自ら悔い改めて、ご自分に立ち返ることを忍耐して待っておられるのです。

 けれども、人の自由意志を神が尊重されるということは、彼らが自ら滅びを刈り取るという選択も尊重しなければいけません。自分たちの選択に対する責任を問われます。主は、行き着くところまで忍耐されて、それでも悔い改めないのであれば、これまでの行ないに応じた報いを行使されるのです。

 また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。

 火と硫黄というのは、ゲヘナのことです。獣と偽預言者だけではなく、彼らに付き従った者たちもゲヘナに投げ込まれます。そしてただ火と硫黄の池にて苦しむだけではなく、「聖なる御使いと小羊との前で」苦しみます。恐ろしいですね。彼らは、絶えず小羊を認めながら生きなければいけません。自分たちが神の聖なる基準に照らし合わされて、それゆえに罪の定めと責めを絶えず意識しながら生きなければいけないのです。

 そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。

 苦しみは「永遠」に続きます。ここのギリシヤ語は「世々限りなく」という言葉が使われており、なんらぼかされていません。そして、彼らは「昼も夜も休みを得」ません。地獄というものを少し考えてみましょう。地獄とは、聖なる神が人々に対して、「わたしの基準を満たすために、自分自身で贖いをしなければいけない。」と要求するところです。今私たちは、「神もキリストも要らないよ。自分で何とかやっていけるから。」という言葉を聞きますが、実際に、そのような人たちの願いをかなえてあげられるところです。自分の行ないによって神の基準に沿うように贖わせるところです。

 けれども、もちろん、自分の行ないによって神の基準に達することはできません。その度に、自分を罪に定めなければいけません。「ああ、こういう良いことをしたつもりだったけれども、実に高慢であった。」など、自分が良いことを行なっているつもりが、聖なる神の前ではみな汚れた着物のようなのです。ですから、絶えず焦燥感の中で生きなければいけません。自分が神の基準に達成できないことに葛藤を覚えなければいけません。昼も夜も休みはないのです。いつまでも達成できませんから、永遠にこの苦しみは続くのです。イエスさまは、「信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。(ヨハネ3:18)」と言われましたが、今、この地上にいる間に、神の恵みによる救いと、無代価で与えられる永遠のいのちを拒み、自分の行ないで生きていきたいのであれば、地獄もそのようなところなのです。

 神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。

 主が自分たちを苦しめる者たちに対して復讐をしてくださることを知るとき、今の苦しみを甘んじて受けることができます。自分が仕返しをするのではなく、すべてのさばきを主にゆだねます。

 また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」

 聖徒たちはことごとく殉教していきますが、その死によって神の怒りのぶどう酒を飲まずにすみます。イエスさまは、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。(マタイ10:28)」と言われましたが、ほんとうに恐れなければいけないのは、人ではなく神です。

 御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。」

 ゲヘナにいる人々とは対照的に、天においてはすべての労苦から解き放たれて、休むことができます。ヘブル4章11節には、「私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め」とありますが、天国に入るときに、私たちに安息が与えられます。地上では労苦があります。それは愛の労苦です。そこで同じくヘブル書の6章10節にはこう書いてあります。「神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」愛が動機となって行なったその行ないは、この世では認められなくても、天では必ず覚えられています。そこで、この黙示録の箇所でも、「彼らの行ないは、彼らについて行くからである」とあります。

2B 人の子の刈り取り 14−20
1C 実った穀物 14−16
 また、私は見た。見よ。

 この「見よ」という言葉は、14章の1節にも出てきました。小羊がシオンの山の上におられる光景でしたが、ここでまた、別の光景をヨハネは見ます。

 白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭いかまを持っておられた。

 「白い雲」「人の子」との二つの言葉で、この方がイエス・キリストであり、地上に再臨される姿であることが分かります。ダニエル7章13節に、「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ」とあり、イエスさまは大祭司の前で、「人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。(マルコ14:62)」と言われました。主の再臨です。

 イエスさまが、金の冠をかぶり、そして手に鋭いかまを持っておられます。そこで次の御使いの声があります。すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。「かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。」

 この刈り取りは何を意味しているのでしょうか?マタイの福音書13章における、天の御国の奥義について思い出してください。イエスさまが、たとえによって天の御国の奥義をお語りになりました。四つの種類の土と蒔かれた種についてのたとえがあります。その他に、毒麦と良い麦が同じ畑にまかれたたとえがありますが、主人は、「毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。(13:29−30)」と言いました。けれども、「収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。(同30節)」と言っています。そしてこの意味を弟子たちにイエスさまが解き明かされました。「人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。(41−42節)」主が戻って来られるときに、獣の国の中にいる者どもを取り集められ、地獄に投げ込むということです。

 興味深いのは、「地の穀物は実った」というところです。この直訳は、「収穫はかわいた」となっています。つまり、実って、実り過ぎて、水気を失い乾き始めた、ということです。主はここまで待って、悪者たちにも悔い改めるよう時間を延ばしておられましたが、もう収穫がかわくほどになっているので、今刈り取りを行なわれるのです。

 そこで、雲に乗っておられる方が、地にかまを入れると地は刈り取られた。

2C 酒ぶねから出る血 17−20
 また、もうひとりの御使いが、天の聖所から出て来たが、この御使いも、鋭いかまを持っていた。すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。

 火を支配する権威をもった御使いとは、たぶん、聖所にある香壇の火を地に投げつけたところの御使いでしょう。七つのラッパが吹き鳴らされるとき、香壇の火を香炉に入れて、それで地に投げつけました。香の煙が立ち上ったとき、それは「聖徒たちの祈りとともに(8:4)」とありましたから、聖徒たちの祈りが聞かれるかたちで、今、刈り取りが行なわれます。

 その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。

 すでに熟している」ぶどうです。熟しすぎて、はちきれんばかりになっているぶどうです。ここにも、主が最後の最後まで忍耐されている姿が現われています。

 そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。

 酒ぶね」はぶどうの実を入れて、それを足で踏みつぶすことによってぶどう汁を集めます。フランスの田舎では、裸足でぶどうを踏んでいる人々の姿を見かけますが、あれが酒ぶねです。今、「神の激しい怒りの大きな酒ぶね」とありますが、これは神が激しく怒られて、ご自分に歯向かう諸国の軍隊をことごとく打ち倒すことを意味しています。つまりハルマゲドンの戦いです。

 その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。

 都の外」とありますが、エルサレムの外ということです。そしてぶどう汁ではなく、文字通り血が酒ぶねから噴き出します。それが、馬のくつわの高さほどに1600スタディオン、296キロメートルにまで及びます。非常に生々しい光景ですが、主が諸国の軍隊を倒されることは、旧約聖書の預言書に、また黙示録19章に詳しく描かれています。

 この296キロという距離は、イザヤ書の預言から何を意味しているかを推測することができます。イザヤ書63章をお開きください。1節から6節までを読みます。「エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。」「正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。」「なぜ、あなたの着物は赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ。わたしは見回したが、だれも助ける者はなく、いぶかったが、だれもささえる者はいなかった。そこで、わたしの腕で救いをもたらし、わたしの憤りを、わたしのささえとした。わたしは、怒って国々の民を踏みつけ、憤って彼らを踏みつぶし、彼らの血のしたたりを地に流した。」

 イエスさまが戻ってこられるのは、1節によると「ボツラ」であることが分かります。これは、現在のヨルダン国のペトラに位置する町です。覚えていますか、イスラエルが荒野に逃げて、ひと時、ふた時、半時の間、神に養われるのは、このボツラの地域です。反キリストがイスラエルを根絶やしにしようとして、ここに住む彼らのところにやってきて、また世界からハルマゲドンに集まってきた軍隊も、イスラエルを滅ぼそうとします。エルサレムの外の地域から、このヨルダンのボツラまでの距離が、だいたい300キロメートルなのです。この一体に、世界の軍隊がイエスさまの攻撃によって滅び、血を流し死んでいくというのが、最後のシナリオなのです。そしてもちろん、ボツラへ向かったイエスさまは、オリーブ山に立たれて地上に再び戻ってこられます。

 こうして14章を見ましたが、獣の国に聖徒たちが負かされているように見えたが、実は主がすべてを掌握されて、獣の国にいる者どものの行ないに応じて報いられることが分かりました。私たちは、ますます自分たちでは理解できない世界の中に生きていますが、主は勝利をすでに収めておられます。


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