ローマ人への手紙10章 「信仰のことば」


アウトライン

1A 知ること 1−13
   1B キリストの行ない 1−5
   2B 救いの近さ 6−11
   3B 分け隔てのない召し 12−13
2A 従うこと 14−21
   1B 宣教をする義務 14−15
   2B 聞くことによる従順 16−21

本文

 ローマ人への手紙10章を開いてください。ここでのテーマは、「信仰のことば」です。

 パウロは、9章から、イスラエルに焦点を当てて話しを進めています。神は、イスラエル民族に対して祝福を約束されていました。けれども、イスラエルの多くの者が福音を受け入れず、逆に異邦人の多くが福音を受け入れています。それでは、神のご計画は無効になったのか、という疑問を抱きますが、決してそんなことはない、とパウロは言っています。ユダヤ人の多くが福音を受け入れないのは、むしろ神のご計画どおりのことが起こったのだ、とパウロは言います。神の選びがあること。神の主権があること。そして、神の預言があって福音を受け入れなかった、と言っています。このように9章は、イスラエルが福音を受け入れなかったことについて、神の視点からの理由が述べられていました。10章は、その反対です。イスラエル人が福音を受け入れないのは、イスラエル側に問題があるからで、神の責任ではないと、パウロは10章において述べます。その問題点を説明しますが、それは、「信仰のことば」について知らなかったからだ、と言います。そこで、これから私たちが学ぶのは、信仰のことばについてです。

1A 知ること 1−13
 それでは一節をごらんください。

1B キリストの行ない 1−5
 兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。

 この彼らとは、もちろんイスラエル人のことです。パウロは9章の冒頭で、彼らのためであれば、自分がのろわれてもよい、とまで言いました。ここで、同じ願いを表明しています。9章においては、その願いを表明したあと、神のご計画とみことばについて話しましたが、
10章においては、イスラエルが福音について無知であり、また福音のことばに聞き従わなかったことを話します。けれども、ここから私たちクリスチャンが陥る過ちについても知ることができます。信仰による義ではなく、自分の行ないに拠り頼んでしまう性質は、ユダヤ人だけではなく、聖書を信じている異邦人にも当てはまることなのです。

 私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。

 
熱心であるが、問題は知識がなかったことである、とパウロは言っています。宗教的なユダヤ人ほど、神に対して熱心な人たちはいません。その神への献身や善行は、私たちクリスチャンでさえ決して及ぶものではないでしょう。けれども、厳しい現実があります。それは、知識がなければ、いくら誠実であり熱心であっても、無意味であることです。時には危険でさえあります。パウロは、このようなことを書いていますが、自分自身がそうであったことを証ししています。ピリピ人への手紙において、「その熱心は教会を迫害したほどで」あったと言っているし
(3:6)。けれども、それは、「信じていないときに知らないでしたこと」だったと、テモテへの手紙で書いています(Tテモテ1:13)。けれども、彼らにいわゆる知識がなかったのか、というとそうではありません。むしろ、聖書についての知識は、とてつもなくたくさんありました。正統派ユダヤ教のラビは、十代のうちに旧約聖書すべてを一字残らず暗記していると言われています。いわゆる知識が不足しているのではありません。そうではなく、ある知識について知らなかったのです。

 パウロは次のように言います。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。

 神の義について知らなかった、つまり、神のご性質について、神に従うことについて知りませんでした。ユダヤ人たちは、神を知ろうとするよりも、その前に、自分自身を追及してしまいました。けれども、聖書は、まず神ありきの物語を貫いています。神がおり、神がまず事を成し遂げ、それから人間が応答している歴史を描いています。逆ではありません。人が何かを行なって、それに神が反応されるのではありません。人間中心ではなく神中心の世界なのです。そこで、私たちクリスチャンはどうでしょうか。教会の中で、あるいはクリスチャンの団体の中で、私たちがどのようなことを神に対して行なえば良いのかについて重点が置かれていないでしょうか。このようなプログラムを行なえば、神が働いてくださる。これだけ祈れば、神が動いてくださる。これだけ賛美すれば神が祝福してくださる、など、人間が何かを行なってそれから神が反応してくださる、というような考えを持っています。けれども、真実はその反対です。まず神を知ってください。神がどのようなすばらしい方なのかを知ってください。神が、どのようなみわざを行なわれるかを知ってください。そうすると、自ずと私たちの心に神への愛が生まれます。その愛にもとづいて行動するときに、初めて神に喜ばれる生活を歩むことができるのです。


 そこでパウロは、次にこう言います。キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。

 キリストが律法を終わらせた、あるいは成就してくださいました。キリストが、しなければいけないすべてのことを行なってくださいました。この世に生まれてくださり、そして十字架につけられるまでの生涯そのものが、律法の成就であり、それでしなければいけないすべてのことば完了したのです。ですから、私たちの責任は、たった一つしかありません。信じることです。信じること以上に、私たちの側で正しいことをすることはできません。なぜなら、キリストが律法の完成であり、キリストよりも正しいことは何一つ存在しないからです。

 モーセは、律法による義を行なう人は、その義によって生きる、と書いています。

 
信仰による義は、キリストが行なわれたことに拠り頼んで生きるのですが、律法による義は、自分が行なうことに拠り頼みます。けれども、問題は、それを守ることができないことです。これについて、使徒ペテロは、「私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびき(使徒
15:10」と言って、それは不可能だと言いました。ヤコブは、「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。(ヤコブ2:10」と言いました。

2B 救いの近さ 6−11
 そこで信じるとは、どういうことか。キリストを信じるとは、どのようにすることなのか。その信仰についてパウロはさらに深く語り始めます。

 しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。


 パウロは、モーセが語った言葉から続けて引用しています。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」というのは、救われるために天に上るようなわざを行わなければいけないのか、と言うことです。けれども、すでにキリストが天から下り、人となって私たちの間に現れてくださいました。ですから、そのようなことをする必要はありません。また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」は、これも救われるために地の底にくだらなければいけないのか、という問いです。キリストがすでに葬られて、よみがえられたのですから、そのような必要はありません。主が、救われるために必要なことはすべてしてくださいました。それでは、何をしなければいけないかと言うと、信仰のことばを語ることです。ここの「ことば」とはレーマというギリシヤ語であり、語られることばのことを指しています。書かれているロゴスという言葉とは区別されています。ですから、私たちの心と口の問題であり、モーセは、「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」と言っています。


 私たちはとかく、いまのクリスチャン生活がうまくいかないのは、ある特定のことを行なっていないからだ、と考えてしまいがちです。このような伝道さえすれば、満足できるのに。このような奉仕さえできれば、クリスチャンとしてきちんと歩むことができるのでは、とか考えてしまいます。けれども、問題は、外側の環境を変えることではなく、自分の心と口ほどに近いことを知らなければいけません。私たちは、神との関係を持っていると言いますが、神を信じて歩むことほど難しいことはありません。アブラハムの足跡に倣う者が、信仰の義を得ることを学びましたが、アブラハムのようにどれほど、私たちが神を個人的に知っており、神の約束を信じているでしょうか。その神との関係の中にいるときに、アブラハムのように祝福される、つまり、周りの環境が変わってくるのです。問題は、天に上ったり、地に下ったりするような行為ではなく、口と心ほどに近いところにあるのです。

 そこで、パウロはこう言っています。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」信仰によって義と認められるとは、パウロたちが宣べ伝えている福音を心で信じて、そして口で告白することによるものです。ことさらに、何か他にしなければいけないことはありません。ただ気をつけなければいけないのは、「イエスを主」と告白することにあります。イエス・キリストを、自分の人生と生活の主として心にお迎えしないかぎり、この告白はできません。したがって、ただ、「イエスさまを信じます。」と口で言ってもらうだけでは、その人は救われません。心からの主イエスへの信頼によって、その人は救われます。

3B 分け隔てのない召し 12−13
 このように信仰による義は、心と口にある問題であることが分かりましたが、さらに、分け隔てのない救いにも、その特徴があります。ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。

 
ユダヤ人であっても、異邦人であっても、呼び求める者はだれでも救われます。ユダヤ人は、割礼と受けて、モーセの律法を守り行なうことによってはじめて神によって救われると考えました。そして、異邦人は改宗することによって、つまり、彼らの割礼を受け、律法を守り行なうことによって、神との契約の中に入ることができると信じていました。けれども、神との関係を持つ方法が、どの時代であっても、また、どの民族であっても、信仰によってであったことを彼らは見失っていました。ユダヤ人は、さまざまな神についての事柄をゆだねられた選びの民ですが、彼らもこの原則を無視してはならなかったのです。


 私たちクリスチャンはどうでしょうか。私たちはとかく、自分たちを未信者と区別している傾向があります。けれども、神の御前では、どのような人も同じレベルに立っているのであり、信仰によって神に近づかない限り、主の御名を呼び求めないかぎり、救われることはできないのです。このようなことを言うと、「それでは救いは失われるの?」と聞かれるかもしれません。もちろん失われませんが、私たちが初めに福音を信じるときのように、信仰をもって近づかなければ、神との交わりを行なうことはできないのです。もし信仰をもって近づいていないなら、私たちが自分をクリスチャンというときは、決まって、洗礼を受けているからとか、教会に所属しているからとか、また、宗教活動を行なっているからとかに拠り頼んでいます。けれども、それはユダヤ人と同じ過ちを犯しているのです。信仰によってのみしか神に近づけないのに、クリスチャンという人種とそうではない人との間に区別をつけてしまっています。パウロは、「同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して、恵み深くあられるからです。」と言いました。すべての人の主です。そして、私たちも主を呼び求めなければいけません。

2A 従うこと 14−21
 こうして、イスラエル人が持っていた問題は、信仰の義について知らなかったことが分かりました。信仰による義とは、私たちの行為ではなく、神の行為によりたのむものです。そして、口と心にある問題であり、それゆえ、だれにも分け隔てなくその門戸は開かれています。そして、14節から、この信仰による義にともなう義務について語ります。信仰の義を得るために必要な責任について語ります。

1B 宣教をする義務 14−15
 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」

 パウロは、信仰による義を手に入れるには、宣教活動が必要です。もし、律法による義によって救われるのであれば、人が行なえばよいのですから、言い広めることはしなくてよくなります。けれども、信仰による義は、心と口によるものであり、心に語られる神のことばによります。ですから、人に聞かせることが必要となり、聞かせるなら、その人のところまで足を運ばなければいけません。それが、パウロがここで言っていることです。信仰による義には、宣教が必要前提条件なのです。私がイスラエル旅行をして、ユダヤ人の生活について注意深く観察してみようと思いました。そこで知ったことは、彼らが内向的であることでした。離散した民は、各地で共同体を形成して、自分たちの民族性を維持したのですが、その周囲の人々は彼らがしている活動に参加するようなことはなかったのです。外部に対して、自分の信じていることを信じてもらおうとするような行動には移しませんでした。

 けれども、聖書にはイスラエルは世界の光であり、異邦人に光を宣べ伝えなければならない使命が記されています。イエスさまが地上におられたときは、イスラエルの預言者の働きとして、この宣教活動をなさいました。ユダヤ人だけではなく、異邦人にも近づかれました。ユダヤ人は汚れから離れなければいけないのですが、けれども、その中にいる人々を救い出さなければいけない使命を持っていたのです。私たち異邦人クリスチャンも同じですね。世の汚れから離れていなければいけませんが、世から隔離されてはいけません。だから、イスラエルはこの点において、失敗してしまっているのです。ユダヤ人は、パウロが行なっていたことを嫌います。ユダヤ人の教えを異邦人に伝えていたからです。けれども、真理はその逆であり、パウロは実に、ユダヤ的なことを、聖書的なことを行なっていました。イスラエルの救い主を異邦人に伝えていたのですから。


2B 聞くことによる従順 16−21
 そして、信仰の義についてのもう一つの義務は、従うことです。しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。」とイザヤは言っています。そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

 聞く、ということには、必ず従うという要素が含まれます。「聞こえている」と「聞いている」には大きな違いがあります。聞いているのであれば、その人はその聞いている内容に影響され、その内容に基づいた行動を取るようになります。たとえば、飛行機に乗ったとしましょう。離陸するときに、究明道具の使い方についての説明があります。乗客の多くの人は、聞いてはいますが必死に聞いているわけではありません。けれども、実際に乱気流に巻き込まれて、機体が激しく揺れているとき、その機内放送の指示を、一語もらさず聞き入ろうとします。それが聞くことであり、キリストについてのみことばをそのように聞くので、キリストを信じるにいたり、その信仰にともなう行ないが生じるのです。


 イスラエルは、こうした意味での従うことについて知りませんでした。確かに、神の律法を守り行なうとしました。けれども、神が言われる方法を、神が指示されることを全面的に聞き入れてはいなかったのです。どんなに誠実に行動しても、悪気がなかったとしても、指示に従わなければ、意味がないのです。会社の中で、上司に指示されていないことを自分が勝手に行なって、「こんなに一生懸命やったのに…。」と言うことはできませんね。同じように、イスラエルは、神がご自分のひとり子を、罪からイスラエルを救う方として彼らに遣わされたということ。この方に救いを呼び求めることによって救われるというメッセージを聞いていました。そのことは聞き流して、「私は断食をこれだけしています。施しをこれこれしています。」というような事柄が頭から離れていなかったのです。これは、私たちも同じです。自分自身で、「これこれを行なえば、クリスチャンとして、また教会員としてまともであろう。」と考えます。けれども、それは神に対する従順ではなく、逆に不従順を招きます。また、聞くことからはじまり、聞くことはキリストについてのみことばによるのです。聞くことが先行し、それに従うのです。

 でも、こう尋ねましょう。「はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。」むろん、そうではありません。「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた。」

 イスラエルは、福音のことばを聞いている、とパウロは言っています。パウロがこの手紙を書いているときには、ユダヤ人が住むあらゆるところで、すでに福音は宣べ伝えられていました。

 でも、私はこう言いましょう。「はたしてイスラエルは知らなかったのでしょうか。」まず、モーセがこう言っています。「わたしは、民でない者のことで、あなたがたのねたみを起こさせ、無知な国民のことで、あなたがたを怒らせる。」またイザヤは大胆にこう言っています。「わたしは、わたしを求めない者に見いだされ、わたしをたずねない者に自分を現わした。」
神の義を追い求めていなかった異邦人が、神の義を得ました。異邦人は、そのまま聞いたことを信じたので救いにあずかったのですが、イスラエル人は、聞く前に、自分自身でなすべきことを作り上げていました。


 またイスラエルについては、こう言っています。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」

 イスラエルは、このように福音に対して不従順なのですが、主は、一日中、手を差し伸べておられる、とあります。主は、イスラエルをこよなく愛しておられるのです。福音に対してかたくななのですが、何とかして彼らが救われることを願っておられます。そこで、
11章が始まります。神は、イスラエルを選んでおられ、彼らを救われることをパウロは話しています。9章も、イスラエルが救われていないことを悲しむことから始まりましたし、10章も救われることを願っているという言葉で始まりました。そして、11章は、神がイスラエルの民を決してお見捨てになっていないこおから始めます。イスラエルに対する神の変わりない愛とあわれみを知るときに、私たちは、愛とは何なのか、アガペの愛は何であるかを知っていくことができます。


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