ローマ人への手紙12章 「霊的な奉仕

アウトライン

1A ささげることによって 1−2
   1B 動機 − 神のあわれみ 1
   2B 方法 − 自分を変える 2
2A 賜物を用いることによって 3−8
   1B 土台 − 思い上がらない 3
   2B 理由 − キリストのからだ 4−5
   3B 態度 − 実直さ 6−8
3A 互いに愛し合うことによって 9−21
   1B 特徴 − 偽りがない 9−13
   2B 命令 14−21
      1C 人との関係において 14−16
      2C 悪に対する反応において 17−21

本文

 ローマ人への手紙12章を開いてください。私たちはとうとう、神の義の教えの部分を終えて、クリスチャンの実際的な生活の勧めの部分に入っていきます。ここでのテーマは、「霊的な奉仕」です。パウロは121節で、「これこそ、霊的な礼拝です。」と言いました。これは、英語ですと、reasonable serviceつまり、奉仕とも訳せるところです。それでは、一節から読んでみましょう。

1A ささげることによって 1−2
1B 動機 − 神のあわれみ 1
 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

 私たちクリスチャンの人生または生活は、神への供え物としてささげる生活です。これは、教会の活動に自分を費やすことではなく、自分の意思、感情、思いを神にすべてゆだねてしまう、と言うことができます。自分の人格のすべてを、神のものとしてささげることです。人が造られてから、その人生は、神への供え物としての人生でした。アダムの子アベルは、羊の初子を主におささげしました。また、ノアは、洪水の後の箱舟から出てきたとき、全焼のいけにえをささげました。それからのアブラハム、イサク、ヤコブが全焼のいけにえをささげたことは、多くの個所で出てきます。レビ記は、全焼のいけにえのささげ方から始まりますが、それはまさに、私たち人間の基本であり、本質だからです。黙示録では、「あなたの喜びのゆえに、万物は存在しているのですから。(
4:11参照)」と書かれています。私たちは、創造主の手の中に入っており、創造主の所有物なのです。

 しかし、このような献身は、神のあわれみ抜きにして行なうことはできません。パウロは、「神のあわれみのゆえに、お願いします。」と言っています。私たちは自分のすべてを、自分の人格の中心のなるところを、他の存在に明け渡すことなど、決してできません。もし、明け渡す相手が、絶対的に信頼に値する存在であると分からなければ、自分をいけにえとしてささげることなどできないのです。ですから、私たちがクリスチャン生活を送るうえで、まず知らなければならないのは、神のあわれみなのです。いかに自分が神のために働くことができるか、ではなく、神がいかにあわれみ深い方なのかを知らなければいけません。そこで思い出してください。ローマ書11章は、神のあわれみについて教えていました。1130節からですが、「ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。(11:30-32」とあります。神がなぜイスラエルを選ばれたのか、それは、アダムの罪によって死の恐怖に閉じ込められていた全人類にあわれみを示すためでした。私たちには決して想像することもできないような、神のあわれみの豊かさがあり、パウロは、神のとてつもない深いご計画の前で、口を開いて立ち尽くすのみでした。そのあわれみのゆえに、パウロは、あなたがたにお願いがあります。神に受け入れられる、聖い、生ける供え物として自分のからだをささげてください、と言っているのです。

 12章から15章までは、クリスチャンが具体的に、どのように生きていけばよいか書いていますが、その基となっているのが、この「ささげる生活」であり、その献身の動機が「神のあわれみ」なのです。ささげなければ、私たちの生活はすべて空回りします。また、神のあわれみを知らなければ、私たちはささげることさえできません。

2B 方法 − 自分を変える 2
 そして、自分をささげるときには、どのようなことを行なえば良いか、その方法について次に書かれています。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

 二つの命令が書かれていますが、これは一度に行なうことです。この世と調子を合わせないのと同時に、自分を変えることを行ないます。この二つの動詞、「調子を合わせる」と「自分を変える」に注目してみたいと思います。「調子を合わせる」は、英語で
conformであり、ギリシヤ語では、ススケマティゾォーであります。外側のかたちに自分を合わせる、という意味です。例えば、巷で流行っている服を、自分も身に着けるのは、これに当たります。その一方、「自分を変える」のは、英語でtransformであり、ギリシヤ語では、メタノエオーです。これは、内側から変化することを意味し、例えばいもむしが蝶に変態するときは、この言葉を使います。つまり、私たちは、外側のものに自分を合わせてはならず、むしろ、内側から変えられて、それを外側に表さなければいけない、と言うことです。私たちは、御霊によって新たに生まれました。外側ではなく、内側の霊が新生しました。この内側で起こったことを、外側に表すのが自分を変えることであり、外側にあるこの世のものに同調するのではありません。

 私たちは、外側の調和を考えて生きる社会の中に住んでいます。自分の周りにある状況に自分を合わせる人が良い人であると考えられています。そのため、他の人たちと同じように考えなければいけない、同じように動かなければいけないというプレッシャーを絶えず受けています。違うことを行なうと、とてつもない孤独感を抱いてしまうのです。それが教会の中に入り込むと、体裁は整っているようで、実質的な喜びがない、愛がないところになってしまうのです。それは、内なる人を外に表すのではなく、周りの雰囲気に自分を合わせようとしているからです。それは、ほんとうの献身ではありません。ほんとうの献身は、あくまでも、神と私たちとの個人的な交わり、内なる人が強められる結果として発生するものです。

 そこで、どのようにして自分を変えるのかと言うと、「心の一新」によって変えます。これはどういうことでしょうか。簡単にたとえれば、コンピューターに、古いメモリーを消去して、代わりに新しいメモリーを入れることです。私たちは新たに生まれましたが、古い習慣、古い考え方が数多く思いの中に染み付いています。けれども、みことばの光の中に照らされて、それが間違っていると気づきます。そのときに、自分の考え方を捨てなければいけません。そして、新しい考え方を取り入れます。このようにして、心の一新をすることができ、その結果自分を変えることができるのです。だから、このように、神のみことばを学ぶことは、クリスチャン生活にとって欠かすことができません。

 そして、自分を変えることによって、何をすることができるかと言うと、神のみこころを知ることができます。「神のみこころは何か、わきまえ知る」とパウロは言いました。私たちのクリスチャン生活は、神のみこころをわきまえ知ること以外に、何ら意味あることは生まれてきません。自分が何らかの活動を行なっていても、それが神のみこころにかなっていないなら、神の前では無に等しいです。カインは、地の作物を神にささげて、それを受け入れてもらえませんでした。それは、彼が神のみこころを求めなかったためであり、それは聖書が語っている献身ではないのです。パウロは、手紙の中で、「神のみこころによる、キリスト・イエスの使徒」と自分を呼んでいます。自分で使徒となることを志願したのではなく、神によって使徒とされたのです。このように、私たちは、神のみこころによってこうなっているのです、という確信を持ちながら歩まなければいけないのです。そのためには、神のみこころは何であるかをたえず求めて、それをわきまえ知る作業をしていかなければなりません。

2A 賜物を用いることによって 3−8
 こうしてパウロは、霊的な奉仕、つまり、クリスチャン生活とは、自分のからだを神にささげることであると言いました。そして、次に、この奉仕において、私たちは、神に与えられた賜物を用いなければいけないことをパウロは次に教えています。

1B 土台 − 思い上がらない 3
 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。

 神は、私たちがキリストを信じたときに、それぞれに信仰を与えられました。私たちは自分でキリストを信じているのですが、同時に、神がその信仰を分け与えてくださった、と言えるのです。そして、クリスチャンとして歩んでいると、次第に、自分が信じていること、当たり前だと思っていることが、他人には分からないことに遭遇します。例えば、「ああ、あの道ばたで、たむろしている若者がいる。彼らには希望が必要だ。イエスさまのことを伝えたい。」と思うようになったとします。これは、クリスチャンとして生きるためには、当たり前のことであると考えます。けれども、他の人はそれを行なっていないのです。なぜなら、それは神からの与えられた信仰だったからです。他の人には見えないけれども、自分自身が見えること、他の人にはできないけれども、自分は自然に行なえることがあります。それが賜物であり、その賜物は神が分け与えてくださった信仰によって出てくるものなのです。


 そこで私たちは、その賜物を用いることによって奉仕をします。賜物を用いることは、クリスチャンとして生きるにはあまりにも当たり前のことであり、イエスさまがたとえで話された、「当たり前のことをしたまでです。」というしもべであります。けれども、それを特別視する傾向を、私たちは持っています。あの人には、すばらしい賛美の賜物がある。あの人は、いやしの賜物を持っている。あの人は、すばらしいメッセージをするなど、クリスチャンが神に仕えているというよりも、その賜物を持ち上げてしまうのです。そこでパウロは、「だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。」と言っているのです。あなたは、何も特別なことをしていないでしょう。神に与えられた信仰に応じて、神にお仕えしているにしか過ぎないでしょう。単純に、その賜物を用いなさい。それを特別に扱ってはいけません、とパウロはここで戒めているのです。使徒行伝を読んでください。その中で、パウロのメッセージがいかにすばらしいか、人々がほめている場面が出てくるでしょうか。いいえ、神をあがめることはあっても、パウロに対する反応はありませんでした。また、パウロがいやしの賜物、奇蹟の賜物を用いたとき、だれかパウロをあがめたでしょうか。いくつかの場面で、パウロがあがめられそうになったことがありましたが、そのとき彼は、着物を引き裂いて、自分はあなたがたと同じ人間であると訴えました。パウロは、ただ苦しんでいる人がかわいそうなので、奉仕をしなければならないと思って、その人のために祈ったり、信仰のことばを話したりするのです。あくまでも、愛が動機であり、主にお仕えすることが動機になっています。

2B 理由 − キリストのからだ 4−5
 そして、私たちが自分に与えられた賜物を用いなければいけない理由が次に書かれています。一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。

 私たちはからだの器官であり、教会はキリストのからだです。それぞれが異なる働きをしますが、けれども、すべての人が必要であり、すべての人が賜物を用いることによって教会が機能します。「私は、この教会では用がない人だ。」と思わないでください。ただ、神のみことばを聞きに来ること、それによって喜びに満たされていることも、人々への励まし、慰めになるのです。賜物を用いることによって、他の人々の徳が高まり、一人一人がキリストの現実をさらに知っていき、そして成長していきます。


3B 態度 − 実直さ 6−8
 そしてパウロは、具体的な賜物を列挙しています。私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。

 それぞれの賜物についてかいつまんでお話します。預言の賜物は、神のみことばを告げ知らせることです。今でも個人に対して、また地域に対しての預言もあります。けれども、教会が行なうべき務めは、主に、書かれた神のみことばを、つまり説教することが預言の働きになります。そして、奉仕ですが、これは物質面での奉仕です。会計であったり、具体的な物質的な事柄について奉仕することです。そして、教える人、これはむろん、聖書を教えることに他なりません。勧めは、簡単に言うと、「ほら、教わったことを行ないなさい!」と言うことです。もう原則はわかった。だから、それを実行しなさい、という人々です。人を行動へと駆り立ててくれるのに得意な、兄弟姉妹がいますね。その人は勧めの賜物を持っています。そして、分け与えるというのは、まさに与えることにおいて賜物を持っている人です。教会への献金、事欠いている人に与えること、これが分け与える賜物です。そして指導する賜物があります。これは教会全体を管理すること、監督することであります。そして、慈善とありますが、これは「あわれみ」と言ったほうがよいでしょう。その人のそばにいると、慰められる、励まされる、というような人はあわれみの賜物があります。


 賜物はコリント人への第一の手紙12章にも列挙されていますが、ここで注目していただきたいのは、パウロの勧め方です。「預言であれば、預言しなさい。」「奉仕であれは奉仕しなさい。」「勧めの人は勧めてください。」「分け与える人は押しますに与えてください。」「指導は熱心にしてください。」…非常に淡白な言い方をしています。賜物を持っていることよりも、持っている賜物をそのまま使っていくことに強調点が置かれています。私たちは、自分が何か特別なことができなければ、教会で奉仕することはできないと思ってしまいます。けれども、私たちには神に分け与えられた信仰の量りがあります。神さまに自分自身をおささげして、心の一新によって自分を変えていく生活を営んでいるときに、クリスチャンとして当然のこととして思っていることが、実は神からの賜物であることが、しばしばあるのです。これを迷わずに行なっていきなさい、とパウロは基本的に勧めています。

3A 互いに愛し合うことによって 9−21
 そしてパウロはさらに、霊的な奉仕について述べます。9節からは、「互いに愛し合うこと」これが霊的な奉仕であると言っています。

1B 特徴 − 偽りがない 9−13
 愛には偽りがあってはなりません。

 私たちは、教会で何ができるか、教会のために何をしようかといろいろ考えますが、それは非常に単純なことで、兄弟たちを愛していくことであります。私たちは来ている人たちのために、祈ることができます。気にかけることができます。その人に電話をかけたり、手紙を出したり、食事にさそうことができます。その人を祝福したいと思うその愛が、教会にとって、もっとも大きな奉仕です。パウロはまず、愛に偽りがあってはならない、と言います。偽善者になってはいけない。愛していると言いながら、それと相反することを行なってはいけないと勧めています。

 悪を憎み、善に親しみなさい。

 これも人を愛することです。私たちは、悪を憎むことを愛することであると知らなければいけません。悪いことをしている人を見て、その人のために涙を流して祈らなければいけません。「そのままでいいのだよ。」と言うのは、真の愛ではありません。悪を憎み、そして善に親しまなければならないのです。


 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。

 兄弟愛というのは、親しみと言いかえることができるでしょう。あなたは自分たちの仲間だよ。きょうは元気かい。今週は何が起こったの?そのような何気ない問いかけが、私たちには必要不可欠です。そして、尊敬を持って自分よりもまさっていると思います。その人の人格を尊んで、敬うことです。たとえ、意見の対立が起こっても、決して礼儀を失せず、慎み深くすることです。

 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

 主にお仕えすることで忙しくなることを恐れないでください。私たちは勤勉で、霊に燃えて奉仕しているところで、互いに愛することができます。教会における奉仕は、何らかのプロジェクトを達成するためではありません。その奉仕によって、その過程を通して私たちは、互いに愛することを学び、そして実際に互いに愛し合っていくことができるのです。そこで生じてくる問題を共有し、共に祈り合い、励まし合い、慰め合うことができます。ですから、教会における奉仕は、それぞれの場において個人的に証しをすることと同じくらい大切なことなのです。

 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。


 クリスチャンに必要なのは望みです。天における望みです。それを望んでいるときに喜びがあります。そして患難がありますが、それに耐えるのも、クリスチャンの特徴です。それから耐えず祈りに励みます。祈りは呼吸のようなものであり、私たちはすべてのことの前に祈る習慣を持たなければいけません。

 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。

 
もてなしも大事です。お互いに食事に誘ったりするとき、私たちは議論し合うことはできませんね。そこには喜び、楽しみ、励ましがあります。もてなすことで、私たちの間にある愛がはぐくまれるのです。


2B 命令 14−21
 そしてパウロは、教会の中だけではなく、外においても愛していかなければいけないことについて、勧めをしています。

1C 人との関係において 14−16
 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。

 
私たちに迫害することは、必ず出てきます。いやがらせをしたり、冷たい態度で臨む人たちがいます。そのときに、私たちは祝福しなければならない、と命じられています。そのようなことができるものか、と思ってしまいます。けれども、コロサイ書1章には、「神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐を寛容を尽くし」と書いてあります。神の全能の力が、私たちが人を愛するときに働くのです。そのため、迫害する者にも親切にすることができるような力が与えられます。

 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。


 これは、私の好きな聖句です。仲間が成功したとき、私たちはいっしょに喜びます。悲しんでいるとき、ともに悲しんで祈ります。

 互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。

 互いに一致するための鍵は、へりくだることです。身分の低い者に順応することです。例えば、能力があって活発な若い人々もすばらしいですが、寝たきりで、外に出て行くことができない兄弟姉妹もいます。教会が成長して、人数が増えている教会もあれば、少ない人数で、牧師もおらず、礼拝を守っている兄弟姉妹もいます。このように、身分の低い人々に順応することによって、私たちはへりくだることができ、そこで一致を持つことができるのです。


2C 悪に対する反応において 17−21
 そして、パウロは、悪を自分に行なう者に対して、どのように愛していけばよいのか、その対応の仕方について教えています。だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。

 
悪を行なう人に対して悪を行なわない、というのが大原則です。そして、周りの人たちが、これは良いことであると思われることを行ないます。例えば、自分が中傷を受けたとしましょう。そのときに、相手を中傷し返すのではなく、神さまから自分に与えられている奉仕を、もくもくと行なっていけばよいのです。そのことについて、だれも文句を言うことはできないでしょう。

 あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。


 自分に関する限り、というのが大事な個所です。イエスさまは、「わたしは平和をもたらすためではなく、分裂です。」と言われました。私たちがつまずかせようとしなくても、つまずく人々は起こるのです。けれども、私たちからあえてつまずきを置くことはしてはいけない、というのが、ここでパウロが言いたいことです。自分に関する限り、すべての人と平和を保ちます。


 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」

 クリスチャンは、悪を悪に報いないことにおいて、消極的ではなく、積極的になることができます。なぜなら、私たちに代わって怒ってくださる神がおられるからです。復讐を神が行ってくださいます。私たちは、さばきについて健全な考えを持たなければいけません。例えば、新聞で、ある女性に暴行を働き、強姦した上で殺したという事件を読んだとします。あまりにも痛々しく、私たちは怒りに満ちます。このような世に住んでいると、憤りと悲しみでいっぱいになります。その悪に対して、私たちは耐えられなくなります。けれども、そのときに思い出していただきたいのは、神の復讐です。神は、加害者に対して、被害者に対して行なった同じ程度の報いを、神によって与えられるということです。そこで私たちの心に平静が戻ります。神が、その者の行ないに応じて報いられることを、日々の生活の中でも当てはめるのです。これが神の怒りに任せることです。


 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

 私たちは、善を行なうことに対して、積極的だけではなく、攻撃的でさえあります。悪に対して悪で報いるときに、私たちは負けなのです。善で報いるときに、悪を行うものたちに対して勝ち誇ることができます。自分に悪いことをした人が、苦境に立たされるときがあります。事欠いて、助けを必要とするときがあります。そのときに、私たちはその人に対して善いことをすることができます。そうすると、その人は一番、キリストの愛を知ることになるでしょう。神の愛が、もっとも鮮明に見えてくるでしょう。私たちは、このようにして神にお仕えしていくことができます。


 こうしてさまざまな勧めがありました。この一つ一つは、細かく説明するまでもなく、心に留めて、思い巡らして、示されたところにしたがって行動するあるのみです。お祈りしましょう。


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