ローマ人への手紙14章 「兄弟を受け入れる


アウトライン

1A さばいてはいけません 1−12
   3つの理由
   1B 神がすべての人を受け入れてくださったから 1−4
   2B 主にあって行なっているから 5−9
   3B 神に申し開きをするから 10−12
2A つまずかせてはいけません 13−23
   3つの分野
   1B 妨げとなるものを置かない決意 13−15
   2B 霊的成長に役立つことの追求 16−21
   3B 自分自身で信仰を保つ責任 22−23

本文

 ローマ人への手紙14章を開いてください。ここでのメッセージ題は、「兄弟を受け入れる」であります。

1A さばいてはいけません 1−12
 早速、1節をご覧ください。あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。

 パウロは、「受け入れなさい」という勧めから始めています。信仰を持っている人たちを受け入れなさい、教会に集っている兄弟たちを受け入れなさい、と言うことです。これは、神がキリストにあって私たちを受け入れてくださるのと同じギリシヤ語が使われています。主が私たちを受け入れてくださったように、私たちも他の人を受け入れなければいけません。


 クリスチャンたちの集まりにおいて、互いに受け入れるために、まず「さばいてはいけない」とパウロは言っています。私たちは、他の信者をさばかないことによって、その人を受け入れることになります。さばく、ということばの意味を明らかにしなければいけません。主イエスさまは、「さばいてはいけません。さばかれないためです。」と言われましたが、その一方、パウロは、コリント人への第一の手紙の中で、教会の内部にいる人たちをさばきなさい、と勧めています(5章)。主が、「さばいてはいけません。」と命じられたときのさばきは、その人の行動よりも態度の問題であります。たとえ正しいことを話していても、その話しぶりが、相手を見下げているように話していたり、自分は絶対に間違っていないことを主張してみたり、また、相手の動機を知っているかのように話したりすれば、それは、禁じられたさばきであります。

 パウロは、「信仰の弱い人を受け入れなさい」と言いました。つまり、信仰には、強かったり、あるいは弱かったりして、いろいろな姿があることを知ることができます。確かにローマ書12章には、「神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」とあるとおり、それぞれに分け与えられた信仰の量りは異なってくるのです。だから、私たちは、同じ主を信じていながら、異なる意見を持っているわけです。そのときに、相手の意見をさばいてはいけません。けれども、もちろん、これは救いに関わるような大切な真理についてまでも、さばいてはいけない、ということではありません。パウロが他の手紙に書いたように、神の国に入ることができないような悪い行ないを教会の中に持ちこんでいる人は、交わりから取り除く必要があります。例えば、不品行、偶像礼拝、異端、争いなどを教会の中に持ちこんでいるならば、教会は、適切な処置を取らなければいけません。それがコリントの第一の手紙5章に書いてあることです。あくまでも、相手を受け入れるとは、信仰において異なる点においてです。

1B 神がすべての人を受け入れてくださったから 1−4
 それでは、救いとは特に関わりのない、信仰の違いとはどのよなものなのでしょうか。パウロが、実際に起こっていた具体例をあげています。何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。

 
野菜だけを食べる人と何でも食べる人が教会の中にいました。当時の異教社会において、市場で売られている肉は、店頭に並べられる前に偶像の宮にささげられます。ですから、肉そのものが汚れていると考えた人たちは、肉を食べることを避けて、野菜だけを食べました。その一方、その肉はあくまでも肉であり、神から与えられた食物だから感謝をしていただけばよい、という考えがありました。ローマにいる信者たちは、偶像礼拝をしないということにおいては一致しており、聖書は、偶像礼拝をする者は神の国に入れない、とはっきりと告げています。けれども、偶像に関する細かいところにおいて、神の真理をどのように当てはめればよいかについて意見が分かれていたのです。


 私たちの社会も、これに似たことがたくさんありますね。当時のローマ社会と同じく、私たちは偶像礼拝について、具体的な細かい事柄において意見が分かれます。例えば、仏教の葬式にどこまで関わることができるかなどです。ある人は、葬式に参加することそのものが偶像礼拝につながる、と言います。またある人は、参加するけれども、直接的に偶像の背後にある悪霊と交わる儀式を避けるべきである、と考えます。例えば焼香などは避けるべき、と言うものです。私個人は、この意見であります。けれども、私に洗礼を授けてくださった牧師は、焼香はあくまでも、香という物質であって無意味であるから、他の不信者をつまずかせないためにそれを行なう、と言いました。みな、偶像礼拝を避けているのですが、意見がこれだけ違うのです。

 食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。

 
私たちがなぜ、他の人をさばいてはいけないか。その理由が、ここに書いてあります。神がその人を受け入れておられるからです。神が受け入れておられるのに、私たちが受け入れないならば、私たちは、神のみこころに背いている、罪を犯していることになります。食べる人は食べない人を侮ってはならない、とパウロは言っています。自由にふるまっている人は、制約を受けている人を見て、侮りの思いがでてきてしまいますね。「あの人、あんなこともできないんだってさ?ばかみたい!」なんて感じです。また、逆に、肉は食べないという制約を受けている人は、自由にふるまっている人をさばいてしまいます。「あの人、あんなことをやっている。なんてひどいことでしょう!」とさばいてしまうのです。このどちらもいけない、とパウロは言っています。


 あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。

 さばくというのは、主が行なわれることに自分が立ち入ることです。主と人との関係の中に、自分が入っていくことであり、それゆえさばくことは罪であります。私たちは、他の兄弟をさばく権利は持っていません。その兄弟をさばかれるのは主ご自身であり、私たちではありません。


2B 主にあって行なっているから 5−9
 そこでパウロは、私たちクリスチャンの本質的な生活について語り始めます。それは、私たちが生活の中で行なうことは、他の人間に対してではなく主に対してのものである、あくまでも主と私たちとの個人的な関係によって行っているのだ、と言っています。

 ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。

 
初代教会の中には、安息日を守っているユダヤ人がいました。神は、「イスラエル人はこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。(出エジプト
31:16」とイスラエルに命じられております。したがって、イエスさまを信じたあとも、安息日を守らなければいけない、と考えました。けれども、他の人たちは、安息日は本体であるイエス・キリストが来るまでの影であって、今はすべての日が大切であり、毎日、主を礼拝しなければいけない、と考えていました。初代教会の信徒たちの中は、毎日集まって、パンを裂き、主を賛美していた、と使徒行伝にあります。

 そこでパウロはこう言います。日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。

 日を守る人が日を守るときに、それは、救われるためではなく神に感謝するために守っています。救われるためにそのようなことを行なっているのなら、それはガラテヤ書に書いてあるような、恵みからはずれてしまう異なる福音ですが、そうではなく、神に感謝して、神を礼拝したいと思って日を守っているのです。同じように、肉を食べない人も、偶像礼拝を避けたいと思って食べていないのであり、神に感謝する目的でそれを行なっています。つまり、日を守っている、肉を食べないことが大事なのではなく、それらをとおして神に感謝していることが大切なのです。


 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。

 
人を相手にするのではなく、主を相手にする生活、これがクリスチャン生活です。私たちが行なうことはみな、主との個人的な関係において出てくるものでなければいけません。私たちは、このようにして集まっていますが、だれもある意味で、他の人の指示を仰ぐ必要はありません。もちろん、主は、他の兄弟を用いて、アドバイスを与えたりしますが、そのことに縛られる義務は何一つとしてないのです。それは、すべての人が主に対して義務を負っており、一人ひとりは互いに自由なのです。


3B 神に申し開きをするから 10−12
 けれども、これは大きな責任を伴います。ある意味で、人にさばかれるよりも、もっと重大な結果を招きます。なぜなら、私たちは目に見えない主に対して、自分の行なっていることに対して申し開きをしなければいけないからです。

 それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。次のように書かれているからです。「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」

 
ここの「神のさばきの座」というのは、ギリシヤ語の異本において、「キリストのさばきの御座」となっています。聖書には、いろいろな種類のさばきについて教えています。けれども、主なものは、黙示録
20章に書かれている、「大きな白い御座」と、ここの「キリストのさばきの御座」の二つです。大きな白い御座は、千年王国が終わり、すべての物が滅び去り、新しい天と地が造られる前に存在します。父なる神ご自身が、おのおのの行ないに応じてさばかれて、いのちの書に記されていない者は火と硫黄の池に投げ込まれます。これが、パウロがローマ書においてさまざまなところで語っている、「罪に定められる」と言うことです。キリスト・イエスにある者は、決して罪に定められることはありません、という言葉を私たちは知っています。キリストにある者は、このさばきの御座で罰を受けることはありません。

 もう一つの「キリストのさばきの御座」は、私たち教会が天に引き上げられたときに、私たち信者が受けるさばきです。パウロは、コリント人への第二の手紙で、「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。(5:10」と言いました。これは罰を受けるさばきではなく、賞を受け取るさばきです。ここの原語はビーマであり、オリンピックの選手が審査員から表彰を受けるときの褒美のことを話しています。イエスさまから、「よくやった、忠実な良いしもべだ。」とほめられるさばきであります。それでは、私たちがどのような基準でさばかれるのでしょうか。コリント第一4章には、「暗やみのことを明るみに出し、心の動機も明るみに出される。(4:5参照)」と書かれています。目に見える成果ではなく、それらのことを行なったときの動機によってさばかれるのです。イエスさまは、人に見られるために行なう善行は、すでに報いを受けるので、天においては報いが残されていない、と教えられました。また、いやいやながら、強いられるようにして行なったことについては天において報いはありません。コリント第一3章には、これらの動機で行なったものはみな、火によって焼かれて、残ったものによって報いを受ける、と書かれています。これがキリストのさばきの座です。

 こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。

 私たちが、この地上で行なっていることについて、すべて申し開きします。自分についてすべて判定してくださる方が、私たちを見ております。ですから、私たちは互いにさばく必要はなく、むしろ自分自身をさばいていかなければいけません。今していることは、主に喜ばれることなのかどうか、おのおのが判断をしなければいけません。そして、イエスさまが私たちのために戻って来られるとき、すべての判定が下されるのです。ここに、「おのおの自分のことを」とありますね。「あの人が、私にこんなことをしたから、私はこれこれのことを行なったのです。」という言い訳はできません。自分がどのように反応したか、そのことで責任が問われるのです。人間は主体性のある、責任を負った存在なのです。


2A つまずかせてはいけません 13−23
 このように、兄弟たちを受け入れるときに、さばいてはいけないことを知りました。それは、その兄弟をも主が受け入れてくださっていること、また私たちは人に対してではなく主に対してすべてのことを行なっていること、そして、主に対して申し開きをしなければいけないことが分かりました。そしてパウロは、次に、「つまずいてはいけません」という勧めをします。

1B 妨げとなるものを置かない決意 13−15
 ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。

 私たちは、自分よりも自由にふるまっている人を見て、さばいてしまう過ちを犯しますが、逆に、自分が自由にふるまうこおによって、人をつまずかせてしまうことがあります。自分が自由ではないときは、他の人をさばいてしまうのですが、自由である分野については、自由でない人をつまずかせてしまうのです。パウロは、そのことについてこれから話します。つまずき、というのは、キリストとの歩みをつまずかせることです。私たちの目標は、キリストをより知って、キリストとの交わりをよく深めることです。けれども、他の事柄によってそれが妨げられて、キリストを知るところからずれた歩みを始めるときに、「つまずいた」ということになります。そこで、パウロは、「つまずきになるようなものを置かないように決心しなさい」と言っています。決心すること、決意することが必要です。さばくときには、私たちはその態度が問われていました。意見を言うときの言い方です。けれども、ここでは態度ではなく実際の行動です。自分は良かれと思って、何気なく行なうことが、相手に傷を与えることがあります。ですから、私たちは決意が必要になり、つまずかせないように、あることを控えるようにしなければなりません。


 主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。

 これは、良心についての説明です。私たちが何かを行なうとき、その行ないにとって聖書に書かれている罪であるかどうかが、人によって変わってくるものがあります。この場合では、偶像礼拝でした。偶像に供えられた肉を食べることそのものが、偶像礼拝の罪とつながっている人がいたのです。ですから、汚れている人と認める人にとっては、汚れたものになります。パウロは、肉はあくまでも肉であり、感謝して食べればきよめられると信じていました。けれども、それによって汚れると認める人にとっては、実際に汚れたものであると言っています。私たちに大切なのは、その食べ物が実際に汚れているかどうかではなく、その良心が汚されるかどうかなのです。だから、パウロは、自分にとってはきよいものだが、その同じものが他の人にとっては汚れている、と言っているのです。


 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。

 
自分が自由にふるまうことが悪いわけが、ここに書かれています。愛によって行動していない、愛によって歩んでいないことであります。私たちキリストを信じる者は、自分の罪のためにご自分のいのちまでお捨てになった神の愛を信じています。私たちひとりひとりは、キリストにあって、それほど高価で、尊い存在です。けれども、自分の自由なふるまいによって、他の人がキリストとの歩みを後ずさりさせるきっかけを作るのであれば、その人を神が大事にされているようには大事にしていないことになります。私たちが自由に行なっていることを、なぜわざわざ控えるのか。それは、他の兄弟を愛しているからに他なりません。


2B 霊的成長に役立つことの追求 16−21
 このように、つまずかせないためには、妨げになることを置かない決意をしなければいけません。次に、もっと積極的に求めなければいけないこと、追求しなければいけないことについてパウロは語っています。

 ですから、あなたがたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい。なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。


 教会は、後に来る神の国の霊的な祝福を前味として受け取っています。それが義と平和と聖霊による喜びです。これらが教会を教会たらしめる特徴であり、その他の事柄は、義と平和と聖霊による喜びを達成するために存在します。コロサイ人への手紙には、「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。(
3:11」と書いてあります。私たちイエスを信じる者たちのうちにキリストがおられ、そして私たちが集まれば、キリストにお会いすることができるのです。私たちは、イエス・キリストという人格ある方に出会うために、教会として集っています。私たちが、ある意見で一致しているから教会に集うのではありません。ある聖書の教理のために集まるのでもなく、福音宣教のやり方が一致しているから集まるのでもありません。パウロは、このことを、「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」と言っています。

 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。

 私たちが教会として集まるとき、このことを追い求めます。平和に役立つこと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めます。相手を励ますために、私たちは集まっています。相手が、キリストにあって成長するために仕えます。クリスチャン同士が、お互いことを気遣って、お互いがどうしているのかを知って、思いやり、祈ってあげ、励ますことができているのはとてもすばらしいことです。このようなことのために、私たちが集まっていることを忘れてはいけません。

 食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。すべての物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような人のばあいは、悪いのです。肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまずきになることをしないのは良いことなのです。


 私たちが霊的成長を追い求めているとき、それを妨げるようなものは退けなければいけません。ここの場合は食べ物でした。肉を食べること、ぶどう酒を飲むことは、私たちが義と平和と聖霊による喜びを求めるときに妨げになってしまいます。教会を教会たらしめる中心的事柄からそれてしまいます。ですから、肉を食べないで、ぶどう酒を飲まないでいるほうが良いのです。


3B 自分自身で信仰を保つ責任 22−23
 けれども、パウロは同時に、「すべての物はきよいのです。」と言っています。自分の確信によると正しい事柄について、私たちはどのように守っていけば良いのでしょうか。それが次に書かれています。あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。

 意見が分かれる事柄については、それを人に押し付けることをせず、自分の信仰として神の前で保っています。私たちは、自分たちの確信を、他の人々と深く関わらないところ、影響しないところで守ることができます。

 しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。

 確信がないのに行なえば、罪を犯したことになります。ある人にとっては肉を食べることは良いことであるという確信がありますが、その人は、他の人につまずきを与えないことを確かめてから行なうことができます。けれども、もし肉を食べると汚れると思っている人は、同じことを行なったら罪を犯したことになります。パウロは、「信仰から出ていないことは、みな罪です。」と言っていますが、ローマ人への手紙のテーマは「信仰による義」でした。私たちは、具体的生活の中で、それぞれに与えられた信仰に従って生きなければいけません。それゆえ、私たちの良心は、とても大切なものであり、そのためにパウロはこの
14章にある事柄について取り扱っています。

 パウロは、私たちはキリストを信じる信仰によって、自由にされていることを話しました。ガラテヤ書には、「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。(5:1)」と言っています。けれども、その信仰は、神がおのおのに分け与えてくださっているものであり、個々の事柄については強弱の差があります。ある人には信仰によってできることが、他の人にはできないことがあります。そこで起こってくる問題は、さばくことと、人をつまずかせることです。信仰の弱い人は、強い人をさばく傾向にあります。また、信仰の強い人は弱い人につまずきを置いてしまう傾向にあります。けれども、さばくのは主であり、また私たちは主にさばかれます。また、私たちの自由は愛によって制約を受けなければならず、義と平和と喜びを追求しなければなりません。個々の具体例を挙げれば、数限りなく出てきますが、そのときに、「さばかない」と「つまずかせない」という二つの勧めを思い出してください。これらのことを思っていれば、私たちは、どのような異なる意見を持っていても、信仰の持ち方が異なっていても、互いに受け入れることができます。互いに愛し合って、互いに霊的に成長することができます。


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