ローマ人への手紙16章 「主にある兄弟姉妹


アウトライン

1A 同労者について 1−16
   1B 推薦 1−2
   2B あいさつ 3−16
2A 勧めにおいて 17−26
   1B 分裂を起こす者への警戒 17−20
   2B 宣教チーム 21−24
   3B 堅く立たせることができる方 25−27

本文

 ローマ人への手紙16章を開いてください。とうとう最後の章になりました。ここでのメッセージ題は、「主にある兄弟姉妹」です。

 私たちは今まで、信仰による義についての教えと、キリストとの歩みについて学んできました。けれども、その手紙を受け取って読む人々の姿、またパウロとともにいる周りの人々についてのことは知ることができませんでした。けれども、この章には、数多くの具体名が記されています。このパウロの手紙を、どのような人たちが読んでいたのか、なぜパウロがこのような内容の手紙を書いたのか、それをこの章から垣間見ることができます。

1A あいさつの中に 1−16
 パウロは、15章の終わりで、「どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。」と言って、この手紙を終えようとしています。けれども、彼は言い残したことを思い出して、また話し始めます。そして再び祝祷をして終えようとしますが、また言い残したことを思い出して、付け加えます。この繰り返しによって16章が出来あがりますが、私たちも、話しが尽きない友といっしょにいるときに、「さようなら」とあいさつしても、玄関先で再び話しこんでしまいますね。パウロも、ローマにいる聖徒たちに対して、親しみを持ち、自分のことを心を開いて分かち合っているのです。

1B 推薦 1−2
 それでは1節を読みます。ケンクレヤにある教会の執事で、私たちの姉妹であるフィベを、あなたがたに推薦します。どうぞ、聖徒にふさわしいしかたで、主にあってこの人を歓迎し、あなたがたの助けを必要とすることは、どんなことでも助けてあげてください。この人は、多くの人を助け、また私自身をも助けてくれた人です。

 パウロがフィベという女性を、ローマにいる聖徒たちに推薦しています。彼女がこの手紙を受け取って、ローマにある教会に送り届けることになるからです。ケンクレヤは、コリントの町に隣接する港町です。彼女は教会において執事をしながら、なおかつ商売をしていたのかもしれません。ローマに行く仕事の用事があったので、それでこの手紙を彼女に託したのだと思われます。ローマにいる人々にとっては、フィベは初めての人なので、パウロは彼女を推薦して、彼女が受け入れられるように配慮したのです。パウロは、「聖徒にふさわしいしかたで、主にあってこの人を歓迎してください。」と言いました。私たちは、新しく自分たちの集会に来る人々を、聖徒として、主に御名のゆえに受け入れなければいけません。新しく来る人々が、違和感を持たず、疎外感を抱かないで、自分も仲間の一人であることを知ることができるような姿勢を、私たちは持たなければいけません。


 ところで、このフィベは執事という働きに従事していました。教会の物質的な必要に仕えていた人です。女性であるのにも関わらず、重要な働きを行なっています。この後も、多くの女性の名前が現われますが、私はパウロが、女性に対して、男性と同じように深い尊敬を払っていることを見るこができます。教会の中では、女性は男性と同じように奉仕することができます。唯一、女性が教会の中で出来ないのは、第一テモテ2章12節によると、男を教えて支配することです。けれども、祈ることも、預言することも、勧めをすることも、奉仕をすることも、みなすることができます。教会は、キリストにあって、男と女が一つになったところです。

2B 同労者 3−16
 キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。

 ここから、ローマにいる人々へのあいさつになります。パウロは一度もローマに行ったことがありませんが、そこにはすでに自分の知っている人がたくさんいました。ローマは世界の中心地ですから、他の地域で主のみことばを信じた人々がローマに行って、福音を宣べ伝えていました。その一人が、一組がプリスカとアクラです。


 プリスカとアクラは、使徒行伝と書簡において6回も登場する夫婦です。プリスカはプリスキラとも呼ばれる女性で、その夫がアクラです。二人はいつも一つのチームになって動いていたようですが、プリスカがいろいろ前に出て奉仕をしていたのだと思われます。彼らはもともとローマに住んでいました。二人ともユダヤ人ですが、ローマのクラウデオ帝が反ユダヤ主義の政策を取り、ユダヤ人たちをローマから追放してしまいました。そこで二人はコリントに移り住んでいましたが、そこでパウロは、二人に出会います。パウロは天幕作りの仕事を持っていますが彼らも同業者だったので、ともに働くようになりました。彼らはエペソに行きました。プリスキラとアクラはそこにとどまりましたが、パウロはエルサレムに向かい、それからアンテオケに行って、そして再びエペソに行きました。パウロがエペソに戻ってくる前に、エペソにはアポロという雄弁家がいました。彼はイエスについて力強く論証していましたが、聖霊のバプテスマについて知りませんでした。そこでプリスカとアクラは彼に、もっと正確に神の道を教えました。後でパウロが来て、エペソにいる信者のために祈り、信者たちは聖霊のバプテスマを受けました。その間に、ローマにおけるユダヤ人追放勅令は解けたのでしょう。プリスキラとアクラはローマに戻ったようです。

 こうした二人をパウロは、「同労者」と呼んでいます。主にあってともに労した仲間です。この労苦の中でパウロと二人の間には兄弟愛が生じました。パウロは、他にも主にある同労者、主にあって労苦している人々の名前を挙げて、あいさつをしています。箴言には、「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。(17:17」とあります。また、パウロがキリストのからだについて話しているとき、「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。(Tコリント12:26」と言いました。福音宣教のためにともに労することによって生じてくる愛があるのです。

 この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。

 プリスキラとアクラは、パウロのいのちを守るために、自分のいのちの危険をも冒すようなことさえしたほど、パウロを主にあって愛していました。使徒ヨハネは、「ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。(Tヨハネ
3:18」と言いました。行ないのともなう真実な愛です。

 この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。

 
二人はユダヤ人でありましたが、彼らは異邦人に対しても主の愛を注いでいました。

 またその家の教会によろしく伝えてください。


 彼らはいろいろなところに移り住みましたが、それぞれの場所で自分の家を開放しました。そこで聖書の学びを行ない、礼拝を守り、それで教会が出来あがりました。それで家の教会があります。プリスキラとアクラは、いろいろな面において、主にふさわしい労働者です。


 パウロは続けて、他の人々へのあいさつします。私の愛するエパネトによろしく。この人はアジヤでキリストを信じた最初の人です。

 パウロは初めに小アジヤにおける宣教を始めましたが、エパネトはその初穂です。パウロにとっては、とても意味深い人になっているのでしょう。エパネトを「私の愛する人」と呼んでいます。

 あなたがたのために非常に労苦したマリヤによろしく。


 この労苦は、「疲弊するまで労働する」という意味です。このマリヤは、へとへとになるまで、ローマの聖徒のために労したようです。バランスが必要ですが、私たちはキリストの愛に駆り立てられるとき、自分を省みずに労して働くことがあります。無理をしないことは大切ですが、無理をしてまで人を助けようとする愛を、主は私たちに与えてくださるのです。


 私の同国人で私といっしょに投獄されたことのある、アンドロニコとユニアスにもよろしく。この人々は使徒たちの間によく知られている人々で、また私より先にキリストにある者となったのです。

 アンドロニコとユニアスは、パウロといっしょに投獄されたようです。ここも苦しみの中の兄弟愛があります。そして、この二人はどちらも女性です。「使徒たちの間でよく知られている」と書いてありますが、これは正確には、「よく知られた使徒たちの一人」と訳したほうが良いでしょう。彼女たちは使徒たちだったのです。もちろん12使徒のうちの一人ではありません。ギリシヤ語で聖書を読むと、「遣わされる」という言葉は、「使徒とされた」と訳すことができるのです。例えばバルナバもそういう意味で使徒でした。ですから、女性たちも、使徒の働きをすることができるほど、女性は教会で用いられていたのです。そして、彼女たちはエルサレムにおいてキリスト者となったのでしょう。「私より先にキリストにある者となったのです。」とパウロは言っています。


 主にあって私の愛するアムプリアトによろしく。キリストにあって私たちの同労者であるウルバノと、私の愛するスタキスとによろしく。

 主にあって愛する、という言葉が繰り返されています。自分ではなく、主にあってパウロは人々を愛していました。私たちは、自分の立場ではなくて、主の立場にあって愛しているでしょうか。妻は、妻であるまえに主にある姉妹です。また息子は、自分の息子である前に、主にある兄弟です。主が見ているように人を見ていく習慣を私たちは身につけなければいけません。

 キリストにあって練達したアペレによろしく。


 練達したとは、さまざまな試験を通って、合格の証印をおされることを意味します。つまり、アペレは、本当のキリスト者であると太鼓判を押されているわけです。パウロの手紙には、最初はキリスト者として、また同労者として働いていた者たちが、後になって離れていく人々の名前も出てきます。試練や、自分にとって都合の悪いことが起こると離れてしまう人たちがいるなかで、このアペレは、真の信仰を持っていました。


 アリストブロの家の人たちによろしく。私の同国人ヘロデオンによろしく。ナルキソの家の主にある人たちによろしく。これらは、家の教会の人たちです。主にあって労している、ツルパナとツルポサによろしく。主にあって非常に労苦した愛するペルシスによろしく。主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私との母によろしく。

 ルポスの母は、もちろんパウロの肉親ではありません。けれども、霊的に母と呼ぶことができたほどの関係があったようです。

 アスンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマスおよびその人たちといっしょにいる兄弟たちによろしく。この兄弟ももちろん、霊的な兄弟です。神の家族の一員です。フィロロゴとユリヤ、ネレオとその姉妹、オルンパおよびその人たちといっしょにいるすべての聖徒たちによろしく。

 
聖徒たちという言葉は、もちろん「聖なる者とされた人たち」という意味ですが、私たちはみなキリストにあって、聖なる者とされました。ですから、聖徒なのです。


 あなたがたは聖なる口づけをもって互いのあいさつをかわしなさい。キリストの教会はみな、あなたがたによろしくと言っています。

 口づけは、もちろん、当時の社会においてあいさつとして行なっていました。聖なる口づけとは、主にあってあいさつをする、ということであります。これは、ただ「おはようございます」と言うことではなく、今見てきたように、主にあって抱いている兄弟愛に裏付けされたあいさつです。こうした兄弟愛を抱くには、私たちが単に、聖書を学ぶために教会に来るだけでは身につけることはできません。主にあって共に労していることが必要なのです。強いられてでもなく、いやいやながらでもなく、キリストの愛に満たされて、それがあふれ出て来る結果、ともに労します。そうした進んでともに労し、そしてその中に、互いのあいさつを交わすことができるのです。


2A 勧めの中に 17−27
1B 警戒 17−20
 そしてパウロは次に、このような麗しい交わりを破壊する要素について、警戒するように勧めています。兄弟たち。私はあなたがたに願います。あなたがたの学んだ教えにそむいて、分裂とつまずきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざかりなさい。

 分裂とつまずきを引き起こす人たちです。彼らは、自分たちが学んだ教え、つまり聖書の教えにそむいている人たちです。そのような人が教会の中にいると、その人は必ず分裂とつまずきを引き起こします。だから、警戒しなければいけません。パウロは、「彼らから遠ざかりなさい。」と言いました。彼らを攻撃して、彼らと対抗しなさい、とは言っておらず、「遠ざかりなさい」と言っています。悪に対しては、対抗するのではなく関わりをもたない、遠ざかることが必要です。


 そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです。彼らは、なめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましているのです。

 
このような人が教会やまたはその他の活動に参加しようとするのは、紛れもなく自分たちのところに人を引き寄せたいからです。自分たちの活動がさらに大きくなり、前進するために、教会にいる人々を利用しようとします。そして彼らの特徴は、なめらかなことば、へつらいのことばを話すことです。一見、すばらしいクリスチャンだなあと思わせるようなことを話すのですが、教会の中で仕えるのではなく、自分たちのグループに人を寄せ集めようとするためにそのようなことを行ないます。だから、純朴な人、警戒心を持っていない人たちは、だまされてしまいます。


 あなたがたの従順はすべての人に知られているので、私はあなたがたのことを喜んでいます。しかし、私は、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあってほしい、と望んでいます。

 
ローマにいる聖徒たちに、パウロは、このような人々が教会に入り込んでくるという現実を知ってほしい、というところにありました。主のおことばを借りれば、鳩のようにやさしくあるだけでなく、蛇のようにさとくなってください、と言うことです。自分たちが思いもよらないところで入り込んでくることがよくあるのです。現代の教会にも、さまざまな異端が忍び込んでいます。エホバの証人、モルモン教、統一協会だけではなく、名が知られていない異端がたくさんあります。私が経験したのは、
MSという韓国人の元統一協会員が教祖となっている異端です。また、東京キリストの教会の人たちにも、私は何回か、その集会に誘われたことがあります。また、教えは異端ではないけれども、その行ないにおいて異端のグループもいます。姦淫、暴力、詐欺などを公然と行なっている教会がありますが、これらも異端です。

 このような異端のグループ、また教会の人々を自分たちのところに引き寄せようとしている団体の存在を知ることは大切ですが、パウロは同時に、「善にはさとく、悪にはうとくあってほしい」と言っています。悪いものについて、私たちはとかく好奇心を持ってしまいます。例えば、占いが今流行っているが、それはいったい何だか調べてみよう、などとしてしまうことです。けれども、偽りの教え、悪い行ないについて心を留めるのではなく、善にさとくなりなさいとパウロは言っています。人の徳を高めること、基本的な聖書の教え、また基本的なクリスチャンとしての歩み、これらは私たちの知的好奇心を刺激することはありませんが、このようなものにいち早く飛びつくように、とパウロは勧めているのです。

 平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。

 
パウロは今、悪にはうとくありなさい、と言ったので、これらの悪を神が根絶してくださる約束を話しています。自分たちに分裂やつまずきを引き起こすような悪は、神が打ち滅ぼしてくださり、平和をもたらしてくださいます。「あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。」とありますが、これは、創世記3章において、主が蛇に語られたことばです。女の子孫、つまりキリストがおまえの子孫、つまり反キリストの頭を踏みくだいていだいさいます。主が地上に来られるとき、私たちも天から主とともに来ます。主イエス・キリストは、反キリストと偽預言者を滅ぼして、火と硫黄の池に投げ込まれます。サタンは、鎖につながれて、底知れぬところに行きます。そして神の国が立てられて、平和がこの地上を支配するのです


2B 宣教チーム 21−24
 今、パウロは祝祷をしましたが、また語り始めます。私の同労者テモテが、あなたがたによろしくと言っています。

 
先ほどは、パウロが、ローマにいる聖徒たちにあいさつをしていましたが、今度はパウロのそばにいる人たちが、彼らにあいさつをしています。初めに、テモテがあいさつをしています。パウロは「私の同労者」と言っていますが、他の個所では、「私の子」とも言っています。テモテこそ、パウロのかたわらにずっといた人であり、パウロが考えていることをいち早く理解した人でもあります。

 また私の同国人ルキオとヤソンとソシパテロがよろしくと言っています。

 
ルキオという名前は、使徒行伝
13章のアンテオケにある教会の指導者の一人として出てきます。預言者あるいは教師だったようです。この二つは同一人物かもしれません。ヤソンは、使徒行伝17章に出てくる人物です。彼はテサロニケにいて信者となりましたが、彼はパウロたちを自分の家に招いたようです。そのときユダヤ人が暴動を起こして、ヤソンの家を襲い、町の役人のところに引っ張り出して来ました。このような迫害を受けた兄弟が、今、パウロのそばにいます。さらにソシパテロは、使徒行伝20章4節に現われるベレヤ人ソパテロと同一人物かもしれません。彼は、コリントからエルサレムに向かっているパウロとともにいる一行の一人でした。

 この手紙を筆記した私、テルテオも、主にあってあなたがたにごあいさつ申し上げます。

 
いきなり、口述筆記をしている筆記者があいさつしています。ローマ人への手紙は、他の手紙と同じように、口で話すことばを筆記させることによって、記されています。彼もキリスト者であり、パウロといっしょにいた者の一人でした。

 私と全教会との家主であるガイオも、あなたがたによろしくと言っています。市の収入役であるエラストと兄弟クワルトもよろしくと言っています。


 ガイオの名前は、次のページのコリント人への第一の手紙1章に現われます。パウロは、クリスポとガイオのほか、バプテスマをさずけたことがない、と言っています。このガイオの家にパウロは泊まっていたようです。全教会の家主と言っていますから、いくつかある家を教会のために開放していたのかもしれません。また、使徒行伝にも、エペソにおいてガイオという名前の人物がパウロの一行として登場します。エラストはコリントの市の収入役です。彼の名前は、今でもコリントの遺跡に記されているのを見ることができます。彼は使徒行伝
1922節とテモテへの第二の手紙4章20節にも、パウロの一行の一人として登場します。ガイオもエラストも比較的裕福な人でありながら、自分の財産を主のためにささげてパウロと旅をした人々でありました。

 このように、パウロは、一人で宣教旅行を行なったのではなく、チームで行ないました。彼を助けてくれる人が周りにいたので、使徒行伝で見ることのできる働きを行なうことができたのです。私たちの宣教は、一人で行なうのではなく、このようにチームで行なうものです。

 そして、24節がありませんが、新改訳には下の欄の脚注に記されています。私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたがたとともにありますように。パウロは、主イエス・キリストの恵みによって何回も手紙を締めくくろうとしています。これが私たちクリスチャンの基本の基本であり、主イエス・キリストの恵みを知り、そこにとどまりつづけることがクリスチャン生活のすべてです。

3B 祝祷 25−27
 そして最後に、パウロは長い頌栄をしています。祈っているのですが、そのなかで神をほめたたえています。私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現わされて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅く立たせることができる方、知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。

 パウロは、まず、私の福音とイエス・キリストの宣教と言っています。主がパウロに啓示してくださった真理を、パウロは人々に宣べ伝えました。私たちも、この福音を宣べ伝えなければいけません。そして、この福音は、奥義の啓示であると言っています。奥義とは、世々に渡って長い間隠されていたけれども、今、現われさたものです。預言者たちは、神の命令に従って、将来に起こることについて語りました。預言者たち自身も、その意味するところは理解することができなかったのですが、とくかく、語りなさいと主が命じられたことを語ったのです。それが、信仰の従順によってあらゆる国の人々に知らされる真理でした。律法の行ないではなく、信仰によって義と認められること。そして、ユダヤ人だけではなく異邦人もその救いにあずかることができること。これらは、預言者たちによってすでに語られていました。けれども、理解できなかったのです。今、このパウロに主がこの真理を悟らせてくださり、それゆえパウロは、福音をくまなく世界中に宣べ伝えました。そしてパウロは、この奥義の啓示によって、あなたがたが堅く立つことができる、と言っています。ふりまわされるのではなく、堅く立つことができるような真理、それが福音です。花はしぼみ、草はかれるが、主のみことばは永遠に残るとあります。私たちも、この滅びゆく世界の中に生きていて、揺らぐことなく生きることができます。


 そして最後にパウロは、「知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって御栄えがありますように。アーメン。」と言っています。この奥義は実に知恵に富んでいます。パウロも、イスラエルの選びと、異邦人への神のあわれみについて語っているとき、神の知恵と知識は、なんと富んでいることなのでしょうか、と言いました。福音は、このように神の知恵と知識が満ち満ちているメッセージなのです。次回は、コリント人への第一の手紙を学びます。そこには、この世の知恵に対するキリストの十字架の力について書かれています。パウロは、ローマ人への手紙に書かれているような、知恵と知識に富んだ神の奥義を語りたかったのですが、彼らがあまりにも霊的に幼稚だったので、彼らの過ちを一つ一つ正してあげなければいけませんでした。私たちも、その手紙をとおして、私たちが陥ってしまう過ちに気づき、それを正していただいて、神の福音に堅く立つものとさせていただくことができます。

 これでローマ人への手紙が終わります。そして今日は、主にある兄弟姉妹、という題でした。私たちはのように聖書の学びをしていますが、この学びだけではクリスチャン生活は片手落ちであります。パウロがこの手紙を書けたのは、主にあってともに労する兄弟姉妹たちがいたからです。ともに労苦する中において、私たちは初めて兄弟愛を知ることができ、そして、互いに本当の意味であいさつを交わすことができます。


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