列王記第一8章 「へりくだる祈り」


アウトライン

1A 契約の箱の移動 1−11
2A 主の祭壇の前にて 12−53
   1B 祝福 12−21
   2B 主のしもべの祈り 22−53
      1C 契約の神 22−30
      2C 罪の赦し 31−53
3A 祝賀 54−66

本文

 列王記第一8章を開いてください。今日はここ8章だけを学びます、ここでのテーマは「ソロモンの祈り」です。今日は、神殿が完成するときにソロモンがイスラエル全員を集めて、神殿奉献祭を開くところを読みます。

1A 契約の箱の移動 1−11
8:1 そのとき、ソロモンはイスラエルの長老たち、およびイスラエル人の部族のかしらたちと一族の長たちをすべて、エルサレムのソロモン王のもとに召集した。ダビデの町シオンから主の契約の箱を運び上るためであった。8:2 イスラエルのすべての人々は、エタニムの月、すなわち第七の新月の祭りに、ソロモン王のもとに集まった。

 イスラエル人が神殿に集められた第七の月ですが、これはちょうど仮庵の祭りの時期と重なります。そして私たちがすでに学んだ6章にて、その最後の節に神殿の完成が第八の月とあります。つまり、ソロモンはイスラエル全員を集めるこの神殿奉献の式によって、神殿を完成させたと考えられます。

 そして、神殿完成のためのメイン・イベントは、契約の箱を移動させることです。次をご覧ください。8:3 こうして、イスラエルの長老全員が到着したところで、祭司たちは箱をにない、8:4 主の箱と、会見の天幕と、天幕にあったすべての聖なる用具とを運び上った。これらの物を祭司たちとレビ人たちが運び上った。

 ダビデの町に安置されていた契約の箱を、そのすぐ北に位置する神殿の丘までレビ人たちが運びました。また、契約の箱の他にも、使われていた祭具を運んでいます。

8:5 ソロモン王、そして彼のところに集まったイスラエルの全会衆が彼とともに、箱の前に行き、羊や牛をいけにえとしてささげたが、その数があまりに多くて数えることも調べることもできなかった。

 ダビデが、オベデ・エドムの家から契約の箱を運び出すときに、ウザが殺された事件を省みて、レビ人に箱を運ばせたときのことを思い出してください(2サムエル6:11−15)。そのとき、箱をかつぐ者たちが六歩進んだとき、ダビデは肥えた牛をいけにえとしてささげた、とあります。ソロモンも同じようなことをしていますが、ダビデのときよりもはるかに、いけにえの数が多かったようです。「あまりにも多くて数えることができなかった」とありますね。この表現、前回の学びで、使われた青銅の量についても使われていましたが、ここにソロモンの治世の特徴が表れています。数えきることができないほどの偉大さがあります。

8:6 それから、祭司たちは主の契約の箱を、定めの場所、すなわち神殿の内堂である至聖所のケルビムの翼の下に運び入れた。8:7 ケルビムは箱の所の上に翼を広げた。ケルビムは箱とそのかつぎ棒とを上からおおった。

 前回の学びを思い出してください、至聖所には大きなケルビムが二つ安置されています。そのケルビムの間に、契約の箱が置かれました。

8:8 そのかつぎ棒は長かったので、棒の先が内堂の前の聖所から見えていたが、外からは見えなかった。それは今日までそこにある。

 今日までそこにある、ということは、この列王記は、神殿がバビロンによって破壊される前、紀元前587年よりも前であることがわかります。

8:9 箱の中には、二枚の石の板のほかには何もはいっていなかった。これは、イスラエル人がエジプトの地から出て来たとき、主が彼らと契約を結ばれたときに、モーセがホレブでそこに納めたものである。

 箱の中には、以前はもう二つの物が入っていました。マナのつぼと、アロンの杖です。マナのつぼは、イスラエルが荒野の旅をしているときに、主が毎朝、イスラエルのために与えられた食物でした。このことを記念するために、つぼに取っておきなさい、と主は命じられました。そしてアロンの杖は、レビ人コラがアロンとモーセに逆らい、彼が滅ぼされた後、イスラエルの民がいまだアロンとモーセに与えられた権威を認めていなかったので、主が、12部族のかしらを集めて、その中でアロンを入れて、だれが、主が祭司として選ばれているかを民に見せるために、行なわれたことでした。契約の箱の前に置かれた12本の杖の中で、アロンの杖だけにアーモンドの実が結ばれ、花が咲きました。

 この二つがないのは、おそらくは、イスラエルが約束の地に行くまでに必要な、一時的な神の証しだったのかもしれません。いずれにしても、契約の箱において大事なのは、この契約の板です。つまり、神のことばです。イスラエルが成り立つのは、主がモーセに与えられたことばによります。この契約の中に主がおられて、主がご自分の臨在を至聖所に現わされます。

8:10 祭司たちが聖所から出て来たとき、雲が主の宮に満ちた。8:11 祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。

 主の栄光の雲です。これはしばしば、シェキナーの栄光と呼ばれますが、主が臨在されていることを現わしており、主が雲の中で、また火の中で現われます。イスラエルの民が荒野の旅をしているとき、昼には雲の柱が、夜には火の柱がありました。そして、モーセが四十日四十夜、シナイ山で主と時間を過ごしていたとき、山は雲で覆われていました。そして幕屋が造られたとき、出エジプト記の最後に、「雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の天幕にはいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。(40:3435」とあります。今、かつて幕屋に雲が満ちたように、新しく立てられた宮に、雲が満ちています。

2A 主の祭壇の前にて 12−53
 そこでソロモンは、驚きべきことを話します。

1B 祝福 12−21
8:12 そのとき、ソロモンは言った。「主は、暗やみの中に住む、と仰せられました。8:13 そこで私はあなたのお治めになる宮を、あなたがとこしえにお住みになる所を確かに建てました。」

 ソロモンは、主が暗やみの中に住む、と言っています。神は光ですから、光の中に住む、というのであれば分かりますが、暗やみの中に住むと言っているのです。これは雲によって暗くなったから、暗やみがあった、と考えられますが、私はそれ以上の意味があると思います。それは、主が暗やみの中に住む人間のところまで来られて、ともに住んでくださる、という意味です。イザヤ書に、メシヤ来臨の次の預言があります。「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。(9:2」罪と不法の中に生きている人々の中に、主は来てくださいます。そして真理のところに来るように招いてくださいます。

8:14 それから王は振り向いて、イスラエルの全集団を祝福した。イスラエルの全集団は起立していた。

 神殿の本堂のほうを見ていたソロモンが、神殿の庭にいるイスラエル人たちの方に向きました。

8:15 彼は言った。「イスラエルの神、主はほむべきかな。主は御口をもって私の父ダビデに語り、御手をもってこれを成し遂げて言われた。」

 主がダビデに語り、約束を与えられました。そして、その約束をご自分の手で成し遂げられました。主は約束し、そしてその約束を成就される方です。語り、その語ったことをご自分で成し遂げる方です。私たちは、その神のみわざの器にしかすぎません。

8:16 わたしの民イスラエルを、エジプトから連れ出した日からこのかた、わたしはわたしの名を置く宮を建てるために、イスラエルの全部族のうちのどの町をも選ばなかった。わたしはダビデを選び、わたしの民イスラエルの上に立てた。8:17 それで私の父ダビデは、イスラエルの神、主の名のために宮を建てることをいつも心がけていた。8:18 ところが、主は、私の父ダビデにこう仰せられた。「あなたは、わたしの名のために宮を建てることを心がけていたために、あなたはよくやった。あなたは確かに、そう心がけていた。8:19 しかし、あなたがその宮を建ててはならない。あなたの腰から出るあなたの子どもが、わたしの名のために宮を建てる。」

 主は、神殿について、建てなさいとか、この町に建てなさい、とか言われませんでした。けれども、主はダビデという人間を選んで、イスラエルの王となさいました。そのダビデが、神の宮を建てたいと思っていたのです。主は、ダビデを選ばれたその選びのゆえに、ダビデの願いを聞き入れられたのです。ただし、ダビデは戦いの人です。平和がやってきて、王国が確立するときに、あなたの子がそれを建てる、と命じられました。

8:20 主は、お告げになった約束を果たされたので、私は父ダビデに代わって立ち、主の約束どおりイスラエルの王座に着いた。そして、イスラエルの神、主の名のために、この宮を建て、8:21 主の契約が納められている箱のために、そこに一つの場所を設けた。その契約は、主が、私たちの先祖をエジプトの地から連れ出されたときに、彼らと結ばれたものである。」

 ソロモンは、主がお告げになったとおり、約束のとおり、と主の約束を強調しています。神が言われること、主のことばは、そのとおりになることを強調しています。そして、モーセを通して結ばれた契約も強調しています。

2B 主のしもべの祈り 22−53
1C 契約の神 22−30
8:22 ソロモンはイスラエルの全集団の前で、主の祭壇の前に立ち、両手を天に差し伸べて、8:23 言った。

 ソロモンは、主の前で祈り始めます。長い祈りです。今日の私たちは、祈るとき、目を閉じて、こうべを垂れて、手を組んで祈りますが、聖書の中では、両手を手に差し伸べて、またひざまずく祈りの姿勢を見かけます。両手を上に差し伸べるのは、天におられる神に対して、自分が服従し、主が言われることを大きく心を開いて受け入れることを意味しています。そして、次から読む祈りは、まさしくそのような態度が現われています。

イスラエルの神、主。上は天、下は地にも、あなたのような神はほかにありません。あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約と愛とを守られる方です。

 主が天地の神であり、他の神々と呼ばれているものとは異なることを強調しています。この方は、天地万物の創造主だけではなく、契約と愛を守られる方、約束を果たし、真実であられる方であることも強調しています。

8:24 あなたは、約束されたことを、あなたのしもべ、私の父ダビデのために守られました。それゆえ、あなたは御口をもって語られました。また御手をもって、これを今日のように、成し遂げられました。8:25 それで今、イスラエルの神、主よ。あなたのしもべ、私の父ダビデに約束して、『あなたがわたしの前に歩んだように、もしあなたの子孫がその道を守り、わたしの前に歩みさえするなら、あなたには、イスラエルの王座に着く人が、わたしの前から断たれない。』と仰せられたことを、ダビデのために守ってください。8:26 今、イスラエルの神。どうかあなたのしもべ、私の父ダビデに約束されたみことばが堅く立てられますように。

 これは今、ソロモンが自分のため、またその子孫のために願っている祈りです。ダビデに対してあなたが約束されたように、どうかこの王座が絶たれることがないように、と祈っています。

8:27 それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。

 非常に大切な聖句が出てきました。神殿を建てたソロモン自身の口から出て言葉です。この神殿に神を入れているのではない、という事実です。神殿は異教の神々において、盛んに行なわれていました。ソロモンの神殿も装飾が豊かですが、異教の神殿はもっと派手で、趣向が凝らされていました。それは、その中に彼らが信じるところの神さまがおられるからです。けれども、ソロモンは分かっていました。この宮どころか、天も、天の天も、主なる神をお入れすることはできないことをです。天文学において、宇宙の大きさが計測されているらしいですが、神はこの膨大な広がりを持つ宇宙をご自分の手の上に乗せているぐらい、小さいものとみなしておられる方です。無限の存在です。

 私たちは、異教徒と同じような間違いを犯してしまいます。それは、神を一定の方法の中に、自分が理解できる、一定の箱の中に入れてしまうことです。このように行なえば、神が働かれる、作用すると考えて、その一定の法則をやろうとしてしまう過ちです。キリスト教会の中で、教会成長のために、宣教のために、いろいろな方法が語られます。けれども、主がその中にないのであれば、どのような手法であっても無意味なのです。大事なのは、目に見える手法ではなく、祈りを聞かれる主との関係であります。

8:28 けれども、あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。私の神、主よ。あなたのしもべが、きょう、御前にささげる叫びと祈りを聞いてください。

 ソロモンが宮を建てた、その大きな動機の一つは、祈りでした。そして祈りでも、願い、そして叫びを聞いてほしい、というものでした。

8:29 そして、この宮、すなわち、あなたが『わたしの名をそこに置く。』と仰せられたこの所に、夜も昼も御目を開いていてくださって、あなたのしもべがこの所に向かってささげる祈りを聞いてください。

 神殿に神の名前が置かれる、というのは、神の本質やご性質がはっきり現われる、と言い換えることができます。つまり、ソロモンはこの場が、主がはっきりとおられて、そしてそのご性質にしたがって祈りを聞いてくださるところにしてほしい、と願っているのです。

8:30 あなたのしもべとあなたの民イスラエルが、この所に向かってささげる願いを聞いてください。あなたご自身が、あなたのお住まいになる所、天にいまして、これを聞いてください。聞いて、お赦しください。

 主なる神がおられるのは、天であります。ハバクク2章20節にも、「しかし主は、その聖なる宮におらえる。(2:20」とあります。ここが大事です。私たちの祈りは、キリストにあって天におられる父なる神に聞かれています。エペソ書2章6節には、「(あわれみ豊かな神は、私たちを)キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」とあります。ですから、神は生きておられ、私たちの願いをそのみこころに沿って聞いてくださるのです。

 そしてソロモンが聞いてほしい願いと叫びは、おもに、罪の赦しであることに注目してください。「聞いて、赦してください」とあります。彼はわかっていました、申命記におけるモーセの預言から、また、彼自身の人間の観察から、彼らがもっとも必要としていることは、罪の赦しである、ということです。彼らが神に従順でありつづけるのか、というとそうではなく、不従順であり、うなじのこわい民であり、モーセは、主に背くことによるのろいを話していました。人間がいかに堕落しているのか、弱い存在なのかをソロモンは知っており、それでこの神殿が、罪を赦されるために祈る、その祈りを聞いてくださるところにしてもらいたいと願ったのです。

2C 罪の赦し 31−53
 31節から53節までに、罪が赦されるための具体的な七つの場合をソロモンが述べています。

8:31 ある人が隣人に罪を犯し、のろいの誓いを立てさせられることになって、この宮の中にあるあなたの祭壇の前に来て誓うとき、8:32 あなたご自身が天でこれを聞き、あなたのしもべたちにさばきを行なって、悪者にはその生き方への報いとして、その頭上に悪を下し、正しい者にはその正しさにしたがって義を報いてください。

 一つ目は、イスラエル人たちの係争についてです。だれかが他者に罪を犯して問題になり、お互いに譲らないとき、この宮で祈るのであれば、公正なさばきを下してください、とソロモンは祈っています。私たち人間には、究極的には公正な判断を下すことはできません。けれども、主はすべてを知っておられます。そこで、祈りが届けられ、本当に悪を行なったものがさばかれて、無罪のものを罪人にしたり、有罪の者を無罪にしたりしないでください、と祈っています。

8:33 また、あなたの民イスラエルが、あなたに罪を犯したために敵に打ち負かされたとき、彼らがあなたのもとに立ち返り、御名をほめたたえ、この宮で、あなたに祈り願ったなら、8:34 あなたご自身が天でこれを聞き、あなたの民イスラエルの罪を赦し、あなたが彼らの先祖たちにお与えになった地に、彼らを帰らせてください。

 二つ目は、敗戦における祈りです。ソロモンは、罪を犯すことと、敵に打ち負かされることを、直接的に関連づけて話しています。事実、イスラエルの民は主の前で悪を行なっているときに、周囲の住民や国々に打ち負かされ、悔い改めて主に立ち返るときに、主はあわれんで、救いと勝利を与えてくださいました。

 私たちも、霊の敵であり悪魔に対して、同じような強さと弱さを持っています。私たちが罪を犯しつづけていくとき、神は私たちの周りにおいておられる守りを取って、サタンが攻撃してもよいようにされることがあります。それは、私たちが自分の罪の結果を知って、その罪を憎み、神に立ち返ることを望んでおられるからです。問題の根源であり、罪によって主との関係が損なわれたことを修復することが、一番大切です。

8:35 彼らがあなたに罪を犯したため、天が閉ざされて雨が降らない場合、彼らがこの所に向かって祈り、御名をほめたたえ、あなたの懲らしめによって彼らがその罪から立ち返るなら、8:36 あなたご自身が天でこれを聞き、あなたのしもべたち、あなたの民イスラエルの罪を赦し、彼らの歩むべき良い道を彼らに教え、あなたの民に相続地としてお与えになったあなたの地に雨を降らせてください。

 三つ目の罪を犯したことによる結果の具体例は、雨が降らないことです。ここでも、単に雨が降らないから、どうか降らせてください、と願い求めるのではなく、まず自分たちが主に自分の罪を認め、そして主によってその正しい道を教えられて、それから主が雨を降らせてくださる、という順番になります。ここでも大事なのは、状況が良くなることではなく、状況をとおして主との関係を保つことにあります。

8:37 もし、この地に、ききんが起こり、疫病や立ち枯れや、黒穂病、いなごや油虫が発生した場合、また、敵がこの地の町々を攻め囲んだ場合、どんなわざわい、どんな病気の場合にも、8:38 だれでも、あなたの民イスラエルがおのおの自分の心の悩みを知り、この宮に向かって両手を差し伸べて祈るとき、どのような祈り、願いも、8:39 あなたご自身が、あなたの御住いの所である天で聞いて、赦し、またかなえてください。

 四つ目の場合は、疫病やその他の災いです。先ほどの場合でもそうですが、祈るときに、必ずしも宮のところまで来なくても良いです。宮に向かってその場所から祈れば、主が天において聞いてくださっています。

ひとりひとりに、そのすべての生き方にしたがって報いてください。あなたはその心を知っておられます。あなただけがすべての人の子の心を知っておられるからです。8:40 それは、あなたが私たちの先祖に賜わった地の上で彼らが生きながらえる間、いつも彼らがあなたを恐れるためです。

 ソロモンは、人の心は人によって量り知ることはできないことを知っていました。動機はその人の霊、また神の御霊しか知らないことです。ですから、主がその動機にしたがってさばいてくださいますように、と祈っています。ここに、主に対する健全な畏れが生じます。それは、だれも見ていなくても、すべての人をごまかせても、心を見ておられる主が正しくさばいてくださる、という真理です。

8:41 また、あなたの民イスラエルの者でない外国人についても、彼があなたの御名のゆえに、遠方の地から来て、8:42 ・・彼らは、あなたの大いなる御名と、力強い御手と、伸べられた腕について聞きますから。・・この宮に来て祈るとき、8:43 あなたご自身が、あなたの御住まいの所である天でこれを聞き、その外国人があなたに向かって願うことをすべてかなえてください。そうすれば、この地のすべての民が御名を知り、あなたの民イスラエルと同じように、あなたを恐れるようになり、私の建てたこの宮では、御名が呼び求められなくてはならないことを知るようになるでしょう。

 五つ目の具体例は、なんと、外国人の祈りも聞いてください、というものです。旧約聖書を注意深く読みますと、神の祝福と契約にあずかっているのは、イスラエル人だけでなく、異邦人もあずかることができる、ということに気づきます。主がアブラハムに約束されたのは、彼の子孫が大いなる国民になることだけでなく、彼によってすべての民族が祝福を受けることでした(創世記12:3参照)。ですから、ソロモンは外国人の祈りも聞いてください、とお願いします。

 ソロモンは、「彼らは、あなたの大いなる御名と、力強い御手と、伸べられた腕について聞きますから」と言っていますが、これはイスラエルのエジプト脱出の出来事です。この出来事のゆえに、ヨシュアの時代、エリコの住民がイスラエルを非常に恐れました。この出来事のゆえに、数百年後に、ペリシテ人が神の箱を持ってきたイスラエル人たちを恐れました。主は、出エジプトを全世界への証しにすることを考えられていたのです。

 そしてソロモンは、「この地のすべての民が御名を知る」ことを望んでいます。これがイスラエルの使命です。けれども時代を経て、ユダヤ人たちは守りの姿勢に入りました。ユダヤ人だけが御名を知ればよい、異邦人には関係のないことだ、という態度になってきました。けれども、宣教命令は、新約時代の信者たちだけでなく、旧約時代から出されていたことなのです。

8:44 あなたの民が、敵に立ち向かい、あなたが遣わされる道に出て戦いに臨むとき、あなたの選ばれた町、私が御名のために建てた宮の方向に向かって、主に祈るなら、8:45 天で、彼らの祈りと願いを聞いて、彼らの言い分を聞き入れてやってください。

 六つ目の具体例は、戦争をしているときに、イスラエル軍がいのる祈りを聞いてください、というものです。現代でも具体的に、イスラエル軍は戦地で祈っていることでしょう。また、米軍も本土では、彼らのために祈っているクリスチャンたちはたくさんいます。そしてお隣、韓国は徴兵制ですから、多くのクリスチャンの若者が軍役に従事しなければいけません。そのとき、自分の家族から離れ、彼女から離れるだけでなく、自分が慣れ親しんでいる教会からも離れます。このような時でさえも、主が祈りを聞いてくださり、具体的な祈りの課題を取り扱ってくださるのです。

8:46 彼らがあなたに対して罪を犯したため・・罪を犯さない人間はひとりもいないのですから・・あなたが彼らに対して怒られ、彼らを敵に渡し、彼らが、遠い、あるいは近い敵国に捕虜として捕われていった場合、

 最後の七つ目です。そして七つ目が、最も長くなっています。それは、約束の地からイスラエル人たちが引き抜かれて、捕虜として捕え移されていった場合です。このような状況をソロモンが想像できているわけですが、レビ記や申命記に、モーセがすでにこのような最も屈辱的で、悲惨なイスラエルの境遇を預言していました。

 ソロモンは、「罪を犯さない人間はひとりもいないのですから」と言い添えています。彼は人間の罪性についてよく知っていました。「すべての人が罪を犯し、神の栄誉を受けることができない(ローマ3:23参照)」と言ったパウロの言葉は、ソロモンの口からも発せられていました。私たちは、自分が何でこんなに罪深いものだろうか、なんでこんなに自分で憎むようなことを行なってしまったのか、と悔いるときがあります。けれども主は初めから、そのことをご存知で、それでこのような汚れた者に近づいてくださり、あわれみと回復のみわざを行なってくださいます。

8:47 彼らが捕われていった地で、みずから反省して悔い改め、捕われていった地で、あなたに願い、「私たちは罪を犯しました。悪を行なって、咎ある者となりました。」と言って、8:48 捕われていった敵国で、心を尽くし、精神を尽くして、あなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖に与えられた彼らの地、あなたが選ばれたこの町、私が御名のために建てたこの宮のほうに向いて、あなたに祈るなら、

 このソロモンの祈りをそのまま実行していた人がいます。ダニエルです。イスラエルの民は、事実、バビロンによって捕囚の民となりました。その中の一人がダニエルですが、彼は一日に三度、窓を開けて、エルサレムのほうを向いて、祈っていたという記録がダニエル書にあります(6:10)。そして、ダニエル書9章には、ダニエルが祈っていたことが記録されていますが、そこには、「私たちが罪を犯しました。あなたは正しい方で、正しいことを行なったのです。」という言葉が繰り返されています。ソロモンが祈ったとおりです。さらに、ダニエルは、あなたの御名が置かれている聖所に、再び光を輝かせてください、と祈っています。そこで御使いガブリエルが来て、イスラエルの民と聖所について、七十週の預言をダニエルに伝えたのです。

8:49 あなたの御住まいの所である天で、彼らの祈りと願いを聞き、彼らの言い分を聞き入れ、8:50 あなたに対して罪を犯したあなたの民を赦し、あなたにそむいて犯したすべてのそむきの罪を赦し、彼らを捕えていった者たちが、あわれみの心を起こし、彼らをあわれむようにしてください。

 このことも実現しました。エズラ記を読みますと、その初めに、ペルシヤの王クロスによって、主の民に属する者は、エルサレムに上り、主の宮を建てるようにせよ。」との命令が出されたことが記録されています。バビロンが倒れて、その後、メディヤ・ペルシヤ国が始まりましたが、そのユダヤ人を捕らえている王が、彼らをあわれんだくれたのです。

 そして最後に、祈りのまとめをソロモンはしています。8:51 彼らは、あなたの民であり、あなたがエジプトから、すなわち鉄の炉の中から連れ出されたあなたご自身のものであるからです。8:52 どうか、あなたのしもべの願いと、あなたの民イスラエルの願いとに、御目を開き、彼らがあなたに叫び求めるとき、いつも彼らの願いを聞き入れてください。8:53 あなたが彼らを地上のすべての国々の民から区別してご自身のものとされたのです。神、主よ。あなたが私たちの先祖をエジプトから連れ出されたとき、あなたのしもべモーセを通して告げられたとおりです。」

 祈りを聞いてくださる根拠として、あなたが選ばれた民だから、とソロモンは言っています。イスラエルの行ないは、そのさばきを受けるにふさわしい行ないだけれども、けれども、あなたがその民を選ばれたのですから、お願いします、と言っています。これはとても効果的な祈りです。私たちが行なったことにしたがって、あたかも報酬を得るかのように祈るのではなく、一方的なあわれみと恵みを、主のご性質にしたがって注いでくださるようお願いするのです。

3A 祝賀 54−66
8:54 こうして、ソロモンは、この祈りと願いをことごとく主にささげ終わった。彼はそれまで、ひざまずいて、両手を天に差し伸ばしていた主の祭壇の前から立ち上がり、8:55 まっすぐ立って、イスラエルの全集団を大声で祝福して言った。

 ソロモンは、青銅の祭壇の前に造った舞台の上にいました。ソロモンは王ですから祭司と異なり、一般のイスラエル人と同じように祭壇のところまでしか入ることはできなかったのです。

8:56 約束どおり、ご自分の民イスラエルに安住の地をお与えになった主はほむべきかな。しもべモーセを通して告げられた良い約束はみな、一つもたがわなかった。

 主はモーセをとおして、流浪の民であったイスラエルに安住の地を約束されました。そして今、敵に脅かされることなく、安心して暮らすことができる国が与えられ、そしてその象徴として、移動式ではない固定された神殿が建てられました。

 良い約束はみな、一つもたがわなかった、という自信に満ちた宣言をソロモンはしていますが、私たちも同じ宣言をすることができます。聖書に書かれている、主の約束はたった一つも間違うことなく実現している、ということです。

8:57 私たちの神、主は、私たちの先祖とともにおられたように、私たちとともにいて、私たちを見放さず、私たちを見捨てられませんように。8:58 私たちの心を主に傾けさせ、私たちが主のすべての道に歩み、私たちの先祖にお命じになった命令と、おきてと、定めとを守るようにさせてください。8:59 私が主の御前で願ったことばが、昼も夜も、私たちの神、主のみそば近くにあって、日常のことにおいても、しもべの言い分や、御民イスラエルの言い分を正しく聞き入れてくださいますように。

 ソロモンは三つのお願いをしていますが、一つ目は主がともにおられること、二つ目は、彼らが主に心を傾けること、そして三つ目に、主が祈りと願いを聞いてくださることです。私たちはとかく、自分の願いがかなえられることを優先しますが、祈りが聞かれるよりももっと大事なことは、主が近くにおられて、そして私たちも主に心を合わせていることです。それから具体的な祈りの課題があります。

8:60 地上のすべての国々の民が、主こそ神であり、ほかに神はないことを知るようになるためです。

 先に話しましたように、イスラエルには宣教使命がありました。イスラエルが祝福されることによって、地上のすべての民が主を知るようになる、という目的がありました。

8:61 あなたがたは、私たちの神、主と心を全く一つにし、主のおきてに歩み、今日のように、主の命令を守らなければならない。

 主と心を一つにします。ヤコブは手紙の中で、「二心の人たち。心を清くしなさい。(4:8」と言っています。

8:62 それから、王と王のそばにいたイスラエル人はみな、主の前にいけにえをささげた。8:63 ソロモンは主へのいけにえとして和解のいけにえをささげた。すなわち牛二万二千頭と羊十二万頭。こうして、王とすべてのイスラエル人は主の宮を奉献した。

 和解のいけにえをささげました。これは交わりを意味しており、ここで行なわれているのは祝会のようなものです。主の前でバーベキューを楽しんでいます。

8:64 その日、王は主の神殿の前の庭の中央部を聖別し、そこで、全焼のいけにえと、穀物のささげ物と、和解のいけにえの脂肪とをささげた。主の前にあった青銅の祭壇は、全焼のいけにえと、穀物のささげ物と、和解のいけにえの脂肪とを受け入れるには小さすぎたからである。

 青銅の祭壇の他に、他のいけにえをささげるものを用意しました。

8:65 ソロモンは、このとき、彼とともにいた全イスラエル、すなわち、レボ・ハマテからエジプト川に至るまでの大集団といっしょに、七日と七日、すなわち十四日間、私たちの神、主の前で祭りを行なった。

 レボ・ハマテは、レバノンよりも北、シリヤのところにあります。そこまで支配圏を持っていました。そして、十四日間祭りを行なったとありますが、七日間分は仮庵の祭りだったからです。

8:66 八日目に、彼は民を去らせた。民は王に祝福のことばを述べ、主がそのしもべダビデと、その民イスラエルとに下さったすべての恵みを喜び、心楽しく彼らの天幕へ帰って行った。

 心楽しく帰りました。主を喜んでいる姿です。そして次回学ぶ9章には、この楽しい祝会の後の静けさの中で、主がソロモンに語られる場面が出てきます。それは、祝福とそして警告の言葉でした。ソロモンが祈ったとおりに、イスラエルの民がその地から引き抜かれて、宮も廃墟になることをお語りになっています。

 ソロモンが言ったように、罪を犯さない人はひとりもいません。そして、私たちに最も必要なのは、神のあわれみと、罪の赦しです。ソロモンは、このような光り輝く、豪華な神殿を造ったけれども、その本質を見失っていませんでした。実際的な問題の中で、主を見上げて、主が祈りに答えてくださるその営みが一番大事であることを知っていたのです。私たちもこれが必要です。日々の大きな出来事がありますが、大事なのは、主のあわれみが日ごとに新しくされていることです。


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