サムエル記第一15−16章 「王位の移行」


アウトライン

1A 神に退かれた者 − サウル 15
   1B 不完全な従順 1−9
      1C アマレク人の聖絶 1−3
      2C 最良を惜しむ心 4−9
   2B 自己欺瞞 10−23
      1C 責任転換 10−16
      2C いけにえにまさる御声 17−23
   3B 面目 24−35
2A 神に選ばれた人 − ダビデ 16
   1B 主へのいけにえ 1−5
   2B 人の内側 6−13
   3B 琴をひく者 14−23

本文

 サムエル記第一15章を開いてください。今日は15章と16章を学びます。ここでのテーマは、「王位の移行」です。サウルが王位から退けられて、神はダビデに油を注がれます。

1A 神に退かれた者 − サウル 15
1B 不完全な従順 1−9
1C アマレク人の聖絶 1−3
 サムエルはサウルに言った。「主は私を遣わして、あなたに油をそそぎ、その民イスラエルの王とされた。今、主の言われることを聞きなさい。万軍の主はこう仰せられる。『わたしは、イスラエルがエジプトから上って来る途中、アマレクがイスラエルにしたことを罰する。今、行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。容赦してはならない。男も女も、子どもも乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも殺せ。』」

 サムエルが新たにサウルに対して、神のことばとその命令を伝えます。覚えておられるでしょうか、サムエルがサウルに油注ぎをしたときに、ギルガルに行って待っていなさい、そこで私が全焼のいけにえと和解のいけにをささげる、そしてあなたがすべきことを伝えよう、とサムエルは言いました。けれどもサウルは、七日待ってもサムエルがやって来なかったので、自分自身で全焼のいけにえをささげました。このことで、サムエルは王位はサウルから、主のみこころにかなう者に移されることを話しました。

 そこで、ここでもう一度チャンスを与えるようなかたちで、主はサムエルを通してサウルに、主の命令をされています。それはアマレクを打ち、すべてを聖絶せよ、という命令です。戦う者たちだけでなく、女も乳飲み子も、家畜もみな殺せ、という命令です。

 これは一見、あまりにも過酷な命令のように聞こえます。けれども、なぜ主がそのようなことをお考えになっているのかは、アマレク人の歴史を見るとよく分かります。「わたしは、イスラエルがエジプトから上って来る途中、アマレクがイスラエルにしたことを罰する。」と主は言われていますが、モーセ率いるイスラエルの民が荒野を歩いていたときに、体力的に弱い人々が後ろのほうにいたのですが、彼らを狙ってイスラエルを襲撃してきたのがアマレク人です。モーセはヨシュアを戦いの指導者に立てて、自分はアロンとフルとともに丘に上って、手と杖を上げていました。主がその戦いを勝たせてくださいましたが、そのこと以降、アマレク人は機会さえあればイスラエルを襲うようになりました。

 そこで主はアマレク人を聖絶することを前から命令されていました。申命記からです。「あなたがたがエジプトから出て、その道中で、アマレクがあなたにした事を忘れないこと。彼は、神を恐れることなく、道であなたを襲い、あなたが疲れて弱っているときに、あなたのうしろの落後者をみな、切り倒したのである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたの神、主が、周囲のすべての敵からあなたを解放して、休息を与えられるようになったときには、あなたはアマレクの記憶を天の下から消し去らなければならない。これを忘れてはならない。(25:17-19」したがって、今サウルを通して、主がこのことを行なわれようとされました。

2C 最良を惜しむ心 4−9
 そこでサウルは民を呼び集めた。テライムで彼らを数えると、歩兵が二十万、ユダの兵士が一万であった。サウルはアマレクの町へ行って、谷で待ち伏せた。サウルはケニ人たちに言った。「さあ、あなたがたはアマレク人の中から離れて下って行きなさい。私があなたがたを彼らといっしょにするといけないから。あなたがたは、イスラエルの民がすべてエジプトから上って来るとき、彼らに親切にしてくれたのです。」そこでケニ人はアマレク人の中から離れた。

 サウルは有能な将校です。数多くの兵を招集し、アマレクの町で待ち伏せする戦法を取りました。けれども近くにはケニ人がいました。ケニ人は、モーセたちが荒野の旅をしているときに、道案内をしてくれた人々です。サウルはともに滅ぼすことを望みませんでした。

 サウルは、ハビラから、エジプトの東にあるシュルのほうのアマレク人を打ち、アマレク人の王アガグを生けどりにし、その民を残らず剣の刃で聖絶した。しかし、サウルと彼の民は、アガグと、それに、肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しみ、これらを聖絶するのを好まず、ただ、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶した。

 サウルは主の命令に従いましたが、完全に従いませんでした。アマレク人を打ちましたが、その王アガグと、家畜のうち最良のものを惜しんで、残しておきました。後からサムエルが指摘しますが、不完全な従順は実は完全な不従順です。サウルは、自分は主に従ったと思っていましたが、まったく逆で、偶像礼拝の罪を犯していたのと同じである、と言われます。

 サウルはいろいろ、アガグを生かし、また最良の家畜を残していくにふさわしい理由を見つけることができるでしょう。しかし、人間が良かれと思って行なうことが、実はその先は暗やみ、という場合が実に多いのです。聖書を読み進めますと、ダビデが後でアマレク人と戦う場面が出てきます。サウルがすべての人を殺さなかったようです。そしてずっと後、500年ぐらい後に、メディヤ・ペルシャ帝国のときに、王アハシュエロスのところにアガグ人ハマンがいました。彼はユダヤ人モルデカイに腹を立てて、彼だけでなくユダヤ人全員を殺し、ユダヤ民族の全滅を命じる法令から取り付けます。そして、エステル記には主がハマンの陰謀を無きものにされ、エステルの働きによって、かえってユダヤ人を殺そうと思っていた者を死刑にするようになりました。このハマンはアガグ人であり、つまりアマレク人の王アガグの子孫なのです。

 アマレク人は過去にイスラエルを襲っただけでなく、実はユダヤ人全体を滅ぼす可能性を常に秘めていた人々であることを神は初めから知っておられて、それで聖絶を主は命じられていたのです。サウルが自分の理由づけでアマレク人を聖絶しなかったばかりに、後の歴史でイスラエル人自身が今度は、滅ぼされそうになったのです。ちなみに、ここからアマレク人はしばしば、私たちの肉を表していると言われます。つまり、肉は改良して、改善するようなものではなく、殺さなければいけないものだ、ということです。肉の欲望を生かしておけば、今度はその欲望の奴隷になって、自分は死に至るようになる、ということです。殺すか、殺されるかの二者択一です。したがって、サウルはとんでもない過ちを犯しました。

2B 自己欺瞞 10−23
1C 責任転換 10−16
 そのとき、サムエルに次のような主のことばがあった。「わたしはサウルを王に任じたことを悔いる。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ。」それでサムエルは怒り、夜通し主に向かって叫んだ。

 サムエルはサウルのことを愛していたに違いありません。サウルが主に従順でなかったために、王位を取られることを神から告げられたとき、そのことのゆえに気が狂いそうに苦しみました。

 翌朝早く、サムエルがサウルに会いに行こうとしていたとき、サムエルに告げて言う者があった。「サウルはカルメルに行って、もう、自分のために記念碑を立てました。それから、引き返して、進んで、ギルガルに下りました。」

 サウルの高慢と虚栄が再び出てきています。自分のために記念碑を立てています。

 サムエルがサウルのところに行くと、サウルは彼に言った。「主の祝福がありますように。私は主のことばを守りました。」

 なんとサウルは、自分自身を欺いてしまっていることでしょうか。主のことばをまったく守っていないときに、守りましたと言い、主の悲しみがあるときに、主の祝福がありますように、と言っています。

 しかしサムエルは言った。「では、私の耳にはいるあの羊の声、私に聞こえる牛の声は、いったい何ですか。」サウルは答えた。「アマレク人のところから連れて来ました。民は羊と牛の最も良いものを惜しんだのです。あなたの神、主に、いけにえをささげるためです。そのほかの物は聖絶しました。」

 彼はここで二つの過ちを自ら証言しています。一つは、自分が家畜の良いものを惜しんだ、と言わずに、民が惜しんだと責任転換をしていることです。これはアダムが罪を犯したときに、アダムとエバが犯した過ちと同じ過ちです。責任転換するところには、神との真の関わりは持てません。そしてもう一つは、最も良いものを惜しんだ理由が、あなたの神、主にいけにえをささげるためであると、弁解していることです。あたかもサムエルのためにしてあげたかのような言い方はずいぶん横柄でありますが、自分の頭の中で勝手に自分が行なったことを正当化しています。

 サウルは礼拝の心を持っていたのでしょうか?いいえ、その逆です。彼が礼拝の心を持っていたら、むしろ、主が言われたとおりに、最も良いものを真っ先に打ち滅ぼしたことでしょう。主を礼拝するということは、自分にとってもっとも高価なもの、大切なもの、最も良いものをおささげすることです。アブラハムは、そのひとり子イサクをささげようとしました。兄に殺されたアベルは、子羊の最良のものを神にささげました。私たちが、自分のもっとも大切なものを神に明け渡すときに、そのときに初めて、神を礼拝する姿勢に入ります。

 サムエルはサウルに言った。「やめなさい。昨夜、主が私に仰せられたことをあなたに知らせます。」サウルは彼に言った。「お話しください。」

 サウルの弁解に呆れ果てて、サムエルは「だまりなさい!」といさめました。

2C いけにえにまさる御声 17−23
 サムエルは言った。「あなたは、自分では小さい者にすぎないと思ってはいても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。主があなたに油をそそぎ、イスラエルの王とされました。主はあなたに使命を授けて言われました。『行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを絶滅させるまで戦え。』あなたはなぜ、主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目の前に悪を行なったのですか。」

 サムエルはサウルの過ちを明らかにしています。問題なのは、彼が分捕り物を持っているか、持っていないか、という具体的なことではなく、分捕り物も主のものであり、聖絶しなければいけないという主の命令をないがしろにした、ということなのです。パウロはコリント第一7章のところで、召されたとき無割礼の者は割礼を受けなくてよいし、割礼を受けたものは元に戻す必要もない、大事なのは割礼、無割礼ではなく、主の命令を守ることである、と言っています。外見の行為ではなく、主の御声に聞き従っているかどうかが大事なのです。

 サウルはサムエルに答えた。「私は主の御声に聞き従いました。主が私に授けられた使命の道を進めました。私はアマレク人の王アガグを連れて来て、アマレクを聖絶しました。しかし民は、ギルガルであなたの神、主に、いけにえをささげるために、聖絶すべき物の最上の物として、分捕り物の中から、羊と牛を取って来たのです。」

 再び民のせいにしています。民が実際にそうしたかったのでしょうが、前回も話したように、サウルの弱さは、人を恐れるところにありました。それゆえに、神を畏れることがないがしろにされていました。

 するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

 非常に有名な聖句です。また、聖書全体に貫かれている原則です。イザヤ書など預言書にも、数多く、表向きのささげものを主が嫌がり、もううんざりしているとまで書かれています。神へのいけにえは、砕かれた心であり、悔いた心であると、ダビデは罪の告白をした詩篇において言いました(51篇)。イエスさまは、当時の宗教指導者たちを、イザヤ書を引用して、「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。(マルコ7:6)」と言われました。

 私たちは、自分に何かしら咎があると、自分に落ち度があると気づいていると、それをそのまま主の前に持っていくことをせず、行ないで隠そうとします。良い行ないで、自分の弱さを繕うことを試みるのですが、それがしばしば、信仰生活や教会生活で達成しようとさえするのです。主の単純な命令にしたがっていないのに、自分は神さまに精一杯ささげていますから、神さまに良く思われているのですと考えていたら、大間違いです。主への礼拝は、砕かれた心、悔いた心から始まります。そして、主が命令されていることを、自分の一番大切にしているものを明け渡してでも、行なうところにあります。そのときに礼拝が儀式ではなく、生活や人生そのものになるのです。

 まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。

 占いや偶像礼拝をしたら、すぐにそれは罪であると分かります。けれども、主のことばにそむくことは、私たちがもっとも霊的であると思っているときにさえ行ってしまうのです。

3B 面目 24−35
 サウルはサムエルに言った。「私は罪を犯しました。私は主の命令と、あなたのことばにそむいたからです。私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです。どうか今、私の罪を赦し、私といっしょに帰ってください。私は主を礼拝いたします。」

 サウルは非常に浅はかな罪の告白をしています。彼は、主に対して罪を犯したから悲しんでいるのではありません。読み進めると分かりますが、自分の面目が失われるから、罪を犯しました、と言っています。私たちが罪を犯すとき、それが人に知られてしまうのを恐れて、それに罪意識を強く感じるか、あるいは主ご自身を、その命令を守らなかったことによって悲しませていることを、自分も悲しんでいるのか、考えてみる必要があります。

 すると、サムエルはサウルに言った。「私はあなたといっしょに帰りません。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたをイスラエルの王位から退けたからです。」サムエルが引き返して行こうとしたとき、サウルはサムエルの上着のすそをつかんだので、それが裂けた。サムエルは彼に言った。「主は、きょう、あなたからイスラエル王国を引き裂いて、これをあなたよりすぐれたあなたの友に与えられました。実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔いることもない。この方は人間ではないので、悔いることがない。」

 先ほど、主は、「わたしはサウルを王に任じることを悔いる」と言われましたが、ここでは悔いることもない、と書かれています。この二つは矛盾していません。王に任じたことを悔いるのほうは、本当に残念に思う、という悲しみです。そして後者は、もう変更することはない、という意味です。つまり、サムエルではなく、もっとすぐれた者が王になることは変更されることはない、ということです。主は人がご自分が意図していることと反対のことをしているのをご覧になって悲しまれる方であり、同時に、ご自分が計ったことは変更するような移り気な方ではないのです。

 サウルは言った。「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください。どうか私といっしょに帰って、あなたの神、主を礼拝させてください。」それで、サムエルはサウルについて帰った。こうしてサウルは主を礼拝した。

 繰り返しますが、サウルにとっての最大の価値観は、面目です。人の目を気にすることが、主の目を気にすることよりも大事になっていました。私たちにとって、何が主よりも大事になっているでしょうか?もしその大事になっている部分があれば、することなすこと、サウルのような空回りの生活を送らなければいけなくなります。

 その後、サムエルは言った。「アマレク人の王アガグを私のところに連れて来なさい。」アガグはいやいやながら彼のもとに行き、「ああ、死の苦しみは去ろう。」と言った。

 ああ、これで解放されるか、とアガグはほっとしています。

 サムエルは言った。「あなたの剣が、女たちから子を奪ったように、女たちのうちであなたの母は、子を奪われる。」こうしてサムエルは、ギルガルの主の前で、アガグをずたずたに切った。

 モーセの時代以来アマレク人がイスラエルに行なったことを、今度はアマレク人の中で行われる、とサムエルは宣言して、アガグをずたずたに切りました。

 サムエルはラマへ行き、サウルはサウルのギブアにある自分の家へ上って行った。サムエルは死ぬ日まで、二度とサウルを見なかった。しかしサムエルはサウルのことで悲しんだ。主もサウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。

 サウルの悲しみ、ひいては主ご自身の悲しみが伝わってきます。ギブアとラマの間は10キロちょっとしかありませんが、それでもずっと二人は会いませんでした。ただ、サムエルが死んだ後、二人が会うことになります。女の魔術師に頼んで、サウルがサムエルにやってきてもらうよう、頼むときです。それはサムエル記第一の最後のところで学びます。

2A 神に選ばれた人 − ダビデ 16
 それでは、今度は主が新たに選ばれる王、ダビデが油注がれるところを見ていきます。

1B 主へのいけにえ 1−5
 主はサムエルに仰せられた。「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たして行け。あなたをベツレヘム人エッサイのところへ遣わす。わたしは彼の息子たちの中に、わたしのために、王を見つけたから。」

 サムエルはサウルのことを本当に思っていたのでしょう。いまだ忘れることができず、悲しみの中に沈んでいました。けれども、思いの転換をしなければいけないときがあります。主が、いつまで悲しんでいるのか、と言われています。私たちが思いの中に沈んでいるとき、主は、「さあ、立って、わたしが命じることを行いなさい。」と呼びかけられます。

 サムエルは言った。「私はどうして行けましょう。サウルが聞いたら、私を殺すでしょう。」主は仰せられた。

 サウルはこれまで見てきたところによると、虚栄心が強いだけでなく、怒りやすい人であったようです。ヨナタンを殺そうとまでしました。だから、今、このことを聞いたらサウルが私を怒って、殺すかもしれないと思いました。

 「あなたは群れのうちから一頭の雌の子牛を取り、『主にいけにえをささげに行く。』と言え。いけにえをささげるときに、エッサイを招け。あなたのなすべきことを、このわたしが教えよう。あなたはわたしのために、わたしが言う人に油をそそげ。」

 主にささげものをする、という言い訳をする、いや、実際にそれを行ないます。いけにえを主にさげるにあたって、そこでエッセイの家の中から主が油注がれる人をサムエルに教えられます。

 サムエルは主が告げられたとおりにして、ベツレヘムへ行った。すると町の長老たちは恐れながら彼を迎えて言った。「平和なことでおいでになったのですか。」

 特別なイベントがあるわけでもないのにサムエルがやって来たのは、よほど大事なことが、何か問題が起こっているか、戦いのときか、そういうときしかない、とベツレヘムの人たちは思ったのでしょう。

 サムエルは答えた。「平和なことです。主にいけにえをささげるために来ました。私がいけにえをささげるとき、あなたがたは身を聖別して私といっしょに来なさい。」こうして、サムエルはエッサイとその子たちを聖別し、彼らを、いけにえをささげるために招いた。

 平和なことで、いけにえをささげる、とサムエルがいっていますから、これは和解のいけにえであると考えられます。主にささげものをしたら、主の前で、その肉を食べます。食事会のようなものです。

2B 人の内側 6−13
 彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、「確かに、主の前で油をそそがれる者だ。」と思った。しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

 長男のエリアブが連れて来られましたが、彼は容姿が良かったようです。けれども主はきっぱりと、容貌や背の高さを見てはならない、人はうわべを見るが、主は心を見る、と言われています。

 ここにサウルとダビデの選び方の違いが現われています。サウルは、人の目にふさわしい王でした。人間的には、王としてのあらゆる素質を備えていました。けれども、彼には決定的に欠けた部分があり、それは神との関係だったのです。その一方ダビデは、一節で主は、「わたしのために、王を見つけた」と言い、3節には、「わたしのために、油を注げ」と言われています。主の目にふさわしい王です。そしてその決め手は、外見ではなく中身、内側です。心が主と一つになっているかどうか、でした。

 これからダビデの生涯を見ていくことになりますが、彼はその名が「愛された者」であり、神に愛された者です。彼はアブラハムよりもさらに数多く名前が出てくる人物であり、メシヤなるイエスは、「ダビデの子」と呼ばれました。それは、ここにあります。彼の心です。主を慕い、礼拝する心を持っていたのです。

 エッサイはアビナダブを呼んで、サムエルの前にすすませた。サムエルは、「この者もまた、主は選んでおられない。」と言った。エッサイはシャマを進ませたが、サムエルは、「この者もまた、主は選んではおられない。」と言った。こうしてエッサイは七人の息子をサムエルの前に進ませたが、サムエルはエッサイに言った。「主はこの者たちを選んではおられない。」

 長男から次男、三男へと年長順に進ませましたが、主はだれも選んでおられませんでした。

 
サムエルはエッサイに言った。「子どもたちはこれで全部ですか。」エッサイは答えた。「まだ末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています。」

 なんとダビデは、子どもとして連れて来られもしませんでした。彼は羊の番をしています。イスラエルに行ったときに思い出しますが、ちょうどダビデが羊飼いをしていたベツレヘムの近郊で、羊の番をしていた少年少女に出会いました。素朴な子たちです。ダビデのそんな子の一人だったのでしょう。

 けれども、「羊の番」というのが、ダビデの生涯のすべてを物語っているかもしれません。彼が羊を養い育てるように、彼はイスラエルの民を牧しました。サウルのように人間の王として上に君臨しようとしたのではなく、外敵から守り、迷っている者を探し出すその純粋な心で治めていました。詩篇70篇70−72節にこう書いてあります。「主はまた、しもべダビデを選び、羊のおりから彼を召し、乳を飲ませる雌羊の番から彼を連れて来て、御民ヤコブとご自分のものであるイスラエルを牧するようにされた。彼は、正しい心で彼らを牧し、英知の手で彼らを導いた。」そして、彼自身は主を自分の羊飼いとしてみなしていました。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。 (詩篇23:1」この彼の神への心が、彼をメシヤを輩出する先祖となさしめたのでしょう。

 サムエルはエッサイに言った。「人をやって、その子を連れて来なさい。その子がここに来るまで、私たちは座に着かないから。」エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。主は仰せられた。「さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ。」

 男の子は、とってもしっかりとした、目が美しい子でした。

 
サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰った。

 こうして、かつてサウルに主の霊がくだったように、ダビデの上にも下りました。

3B 琴をひく者 14−23
 それとは対照的に、サウルは悪霊に悩まされるようになります。主の霊はサウルを離れ、主からの悪い霊が彼をおびえさせた。

 主から来るものはすべて完全であり、良いものであるとヤコブの手紙に書いてありますが、ここでは主からの悪い霊、と書かれています。この疑問に対する答えは簡単です。主の霊が離れたので、悪霊の攻撃にさらされた、ということです。主の守りの盾が取り除けられると、悪霊が行動するのを主が許されます。サウルは王位が退けられたので、その油注ぎである御霊も彼から離れていきました。

 そこでサウルの家来たちは彼に言った。「ご覧ください。神からの悪い霊があなたをおびえさせているのです。わが君。どうか御前にはべるこの家来どもに命じて、じょうずに立琴をひく者を捜させてください。神からの悪い霊があなたに臨むとき、その者が琴をひけば、あなたは良くなられるでしょう。

 いわゆる現在の、環境音楽のような類のセラピーでしょうか。思いと心を静めれば、悩みは去る、ということです。 かつて、キリスト教会には精神病をみな、悪霊のせいにする傾向があったそうです。けれども精神病になる原因が解明されるにつれ、化学物質の分泌のバランスがくずれる結果として精神病になる場合があり、薬によって直る場合があります。ですから、精神的病にかかっている人がみな悪霊の影響を受けているとは決して言えません。けれども現在はその反対の極端になっている傾向があります。つまり、霊的な問題があって精神的な病になっているにも関わらず、それを認めないで単に精神の病と診断することです。私たちの病の中には、サウルのように、神との関係に何か良くないものがあって、それで引き起こされている場合もあります。

 そこでサウルは家来たちに言った。「どうか、私のためにじょうずなひき手を見つけて、私のところに連れて来てくれ。」すると、若者のひとりが答えて言った。「おります。私はベツレヘム人エッサイの息子を見たことがあります。琴がじょうずで勇士であり、戦士です。ことばには分別があり、体格も良い人です。主がこの人とともにおられます。」

 ダビデに主の霊が下っていたので、彼は戦うことにも優れていたのでしょう。

 そこでサウルは使いをエッサイのところに遣わし、「羊の番をしているあなたの子ダビデを私のところによこしてください。」と言わせた。それでエッサイは、一オメルのパンと、ぶどう酒の皮袋一つ、子やぎ一匹を取り、息子ダビデに託して、これをサウルに送った。ダビデはサウルのもとに来て、彼に仕えた。サウルは彼を非常に愛し、ダビデはサウルの道具持ちとなった。

 以前、ヨナタンと道具持ちがペリシテ人の陣営にはいった話を読みましたが、同じようにダビデはサウルの道具持ちとなりました。

 サウルはエッサイのところに人をやり、「どうか、ダビデを私に仕えさせてください。私の気に入ったから。」と言わせた。神からの悪い霊がサウルに臨むたびに、ダビデは立琴を手に取って、ひき、サウルは元気を回復して、良くなり、悪い霊は彼から離れた。

 ダビデの立琴は、サウルをいやしました。ダビデが何を弾いていたのかはわかりませんが、詩篇をあれだけ記すことができたのですから、おそらくは主についての音楽を奏でていたに違いありません。羊飼いでありながら彼は、その多くの時間を主のことを考え、思い耽りながら一日を過ごしていたのでしょう。彼が主の心を持っていた理由がよく分かります。彼は主を慕わしい方として、いつも仰いでいたということです。神との関係が深いところで確立していたことです。

 こうしたサウルの退位とダビデの選びを読みました。二人の対照的な人物です。人の目を気にするサウルと、主の御顔を仰ぎ見るダビデです。私たちはどちらになりたいでしょうか?


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