サムエル記第一3−4章 「イ・カボデ(栄光去る)」


アウトライン

1A 神の声 3
   1B 主を知るサムエル 1−14
      1C 四度目の正直 1−9
      2C 耳鳴る事 10−14
   2B 預言者サムエル 15−21
      1C すべてを明かす役目 15−18
      2C ことばによる顕現 19−21
2A 奪われた神の箱 4
   1B 敗戦 1−11
      1C 契約の箱の持ち出し 1−4
      2C 奮い立つペリシテ人 5−11
   2B 二人の死 12−22
      1C エリ 12−18
      2C ピネハスの妻 19−22

本文

 サムエル記第一3章を開いてください。今日は3章と4章を学びます。ここでてのメッセージ題は、「イ・カボデ(栄光去る)」です。前回の学びにて、祭司エリに神の人がやって来て、神のさばきのことばを告げたところを読みました。エリ家の者たちは、祭司職からはずされて、長生きすることはできないという預言でした。そして、そのしるしとして、彼の息子ホフニとピネハスが死ぬ、という預言がなされました。今日はこのことが実際に起こる場面を読んでいきます。

1A 神の声 3
1B 主を知るサムエル 1−14
1C 四度目の正直 1−9
 少年サムエルはエリの前で主に仕えていた。

 サムエルは、乳離れの時に母ハンナの手から離れて、祭司エリのもとで仕えるようになりました。そして彼も成長し、少年になっています。

 そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。

 これがイスラエルの当時の霊的状態でした。主が語られることがほとんどない状態です。イスラエル人が、主の前に悪を行なっていた士師記の状態のことを思い出してください。主が言われていることから遠く離れてしまい、偶像に仕えていたので、彼らは神の声を聞く能力がかなり落ちていました。麻痺していました。主が語ろうとされても、彼らの霊の耳がその周波数に合わせることができず、それで、まれにしか主のことばがなく、幻もありませんでした。私たちも同じように、主が語っておられることをないがしろにして、自分が欲するままに生きていれば、神のことばを聞いて、理解することができない、霊的枯渇状態に陥ることになります。


 その日、エリは自分の所で寝ていた。・・彼の目はかすんできて、見えなくなっていた。・・神のともしびは、まだ消えていず、サムエルは、神の箱の安置されている主の宮で寝ていた。

 エリはかなり年を取っており、目が見えなくなって来ていました。そして彼は主の幕屋の外の自分の天幕で寝ていました。一方、サムエルは主の宮から離れることなく、その中で寝ていました。「神のともしび」とありますが、これは聖所の中にある燭台のことです。これは日々、灯しておかなければいけないものでした。

 そのとき、主はサムエルを呼ばれた。彼は、「はい。ここにおります。」と言って、エリのところに走って行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。エリは、「私は呼ばない。帰って、おやすみ。」と言った。それでサムエルは戻って、寝た。主はもう一度、サムエルを呼ばれた。サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。エリは、「私は呼ばない。わが子よ。帰って、おやすみ。」と言った。サムエルはまだ、主を知らず、主のことばもまだ、彼に示されていなかった。

 サムエルはエリに非常に忠実な子でした。主からの声を彼はエリからのものだと思って、すぐに起き上がって、彼のところにやって来ています。けれども、ここに書かれているとおり、主からの語りかけを彼はまだ受けていませんでした。 サムエルはエリのために忠実に働き、主の幕屋に仕えていましたが、それが同時に、彼が主のことを知っていたことにはなりません。個人的な関係を持つには、ここに書かれている、主の呼びかけを自分が聞き取ることから始まります。これまで神についての事柄を聞いて来たけれども、神についてではなく、神ご自身からの語りかけが自分の心にあるとき、その時自分が応答したら、その人は神との生きた、人格的な、個人的な関係の中に入ります。けれども、それがなければ、子どもであっても、大人であっても、教会生活を送っていても、主を知ることはありません。

 ですからサムエルは主をまだ知らなかったのですが、けれども、彼は主を知ることができる素地が整っていました。それは神の祭司エリの言うことにきちんとしたがっていたことです。神によって立てられた権威に従うことによって、子供が神を知ることができるようになるのです。とくに子にとっては、両親の言うことに聞き従うことが、神に聞き従うことにつながります。

 主が三度目にサムエルを呼ばれたとき、サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。そこでエリは、主がこの少年を呼んでおられるということを悟った。それで、エリはサムエルに言った。「行って、おやすみ。今度呼ばれたら、『主よ。お話しください。しもべは聞いております。』と申し上げなさい。」サムエルは行って、自分の所で寝た。

 エリは三度目になって、主がサムエルに語っておられることを悟りました。

2C 耳鳴る事 10−14
 そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。

 主が二度、彼の名前を呼んでおられます。これは、主がモーセに燃える柴の中で現われたとき、「モーセ、モーセ」と呼ばれたときと同じですね。また、パウロがクリスチャンを捕らえようとダマスコに向かう途上で、イエスさまが彼に会われて、「サウロ、サウロ。(使徒9:4)」と呼ばれました。親しみを込めた、個人的な呼びかけです。

 サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。

 とても簡単な答えですが、これが私たち人間がなかなかできないことです。第一に「お話ください」という答えは、「あなたが言われることは、何でも聞きます」という姿勢に他なりません。つまり、自分が聞きたいことと、聞きたくないことを選り分けるのではなく、すべてを聞き、受け入れます、ということです。伝道者グレッグ・ローリーは、自分の息子たちが、「掃除しなさい」という親の声は聞き取れないようだが、「アイスクリームがあるぞ」とか「ディズニーランドに行こう」と、たとえ小さな声で話しても、必ず聞きつけてやってくる、と言っていましたが、私たちは普通、選り分けるような聞き取り方をしています。けれども、主からはすべてを聞きます。

 第二に、「しもべは聞いております」というのは、ただ聞くだけでなく、聞き従う姿勢を表しています。しもべですから、主人の言うことは、そのまま行ないます。私たちはとかく、神のみことばを“理解”しようとします。自分の理解の範囲で、自分が統合できるように、自分の力の範囲内で神のみことばを治めようとさえします。けれども、本当は、自分が理解するのではなく、神に支配される、神のみことばに支配されるように、聞いていくのが正解です。前者は私たちの知識を増し加え、高慢にしますが、後者は私たちをへりくだらせ、キリストの似姿へと変えられます。

 主はサムエルに仰せられた。「見よ。わたしは、イスラエルに一つの事をしようとしている。それを聞く者はみな、二つの耳が鳴るであろう。」

 二つの耳が鳴る、というのは、これから語ることが、あまりにも衝撃的で、耳にこだまして残る、ということです。

 その日には、エリの家についてわたしが語ったことをすべて、初めから終わりまでエリに果たそう。わたしは彼の家を永遠にさばくと彼に告げた。それは自分の息子たちが、みずからのろいを招くようなことをしているのを知りながら、彼らを戒めなかった罪のためだ。だから、わたしはエリの家について誓った。エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物のささげ物によっても、永遠に償うことはできない。

 前に神の人がエリに告げたことばと同じことを主はサムエルに語られました。

2B 預言者サムエル 15−21
1C すべてを明かす役目 15−18
 サムエルは朝まで眠り、それから主の宮のとびらをあけた。サムエルは、この黙示についてエリに語るのを恐れた。

 サムエルが忠実に従っていたエリに対する神のさばきなど、決して言えたものではない、と彼は思ったことでしょう。この啓示を語るのを恐れました。

 ところが、エリはサムエルを呼んで言った。「わが子サムエルよ。」サムエルは、「はい。ここにおります。」と答えた。エリは言った。「おまえにお告げになったことは、どんなことだったのか。私に隠さないでくれ。もし、おまえにお告げになったことばの一つでも私に隠すなら、神がおまえを幾重にも罰せられるように。」

 エリがすべてを告げる、とようにと命じています。これは、先ほど話したように非常に大切なことです。けれども、すべてを語ることは、非常に辛いときがあります。聞く人にとって耐えがたいこと、痛いこと、怒らせるようなこと、ある時は殺そうとさえ思わせるような内容であるかもしれません。けれども預言者は、それでも語らなければいけません。

 これは、新約時代に生きているキリスト者についても同じことです。パウロは、「愛をもって真理を語る」(エペソ4:15)について話しました。教えの風があったり、自分たちの都合に合わせて教師を寄せ集めて、作り話にそれるということもパウロは話しましたが、私たちは神のみことばを、時が良くても、悪くても語らなければいけない、と促されています。サムエルはすべてを語りました。

 それでサムエルは、すべてのことを話して、何も隠さなかった。エリは言った。「その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように。」

 エリは、先に神の人が語ったことを、サムエルの言葉から確認することができました。そして、「主がみこころにかなうことをなさいますように」と言って、エリは主のさばきを甘んじて受ける覚悟ができていました。ゆだねた心です。

2C ことばによる顕現 19−21
 サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とされなかった。

 サムエルは、主にあって成長しました。主がともにおられ、主との個人的な関係を強めました。そして、サムエルは神のことばを語り、それが実現しないで空しく帰ることはありませんでした。

 こうして全イスラエルは、ダンからベエル・シェバまで、サムエルが主の預言者に任じられたことを知った。

 しばしば、イスラエル全土を言い表すとき、「ダンからベエル・シェバまで」という表現が使われます。ダンはガリラヤ北部の町であり、ベエル・シェバは、ヘブロンよりも南にある町です。

 主は再びシロで現われた。主のことばによって、主がご自身をシロでサムエルに現わされたからである。

 主が初めにサムエルに現われて、「サムエル、サムエル」と呼びかけられたように、主は再び現われてくださいました。そして、「主のことばによって」、サムエルに現われた、とあります。主のことばが、サムエルが主との関係を持つ、死活的な要素でありました。これは今も変わりません。神は、終わりの時には御子によって私たちに語られる、とヘブル書1章にありますが、私たちが主のみことばを聞くときに、主との交わりを行なうことができます。ことばによる交流です。

2A 奪われた神の箱 4
1B 敗戦 1−11
1C 契約の箱の持ち出し 1−4
 サムエルのことばが全イスラエルに行き渡ったころ、イスラエルはペリシテ人を迎え撃つために戦いに出て、エベン・エゼルのあたりに陣を敷いた。ペリシテ人はアフェクに陣を敷いた。

 サムエルが主の預言者として全イスラエルに知れ渡っていたころ、ペリシテ人がイスラエルを支配していました。ペリシテ人は、地中海沿岸地域に住む海洋民族であり、ヨーロッパや北アフリカの地中海沿岸地域にもいた民族です。彼らは当時、イスラエルが持っていなかった、鉄で出来た武器を持っており、非常に強い民でした。今、イスラエル人とペリシテ人が相対しています。

 ペリシテ人はイスラエルを迎え撃つ陣ぞなえをした。戦いが始まると、イスラエルはペリシテ人に打ち負かされ、約四千人が野の陣地で打たれた。民が陣営に戻って来たとき、イスラエルの長老たちは言った。「なぜ主は、きょう、ペリシテ人の前でわれわれを打ったのだろう。シロから主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう。そうすれば、それがわれわれの真中に来て、われわれを敵の手から救おう。」

 3章のはじめには、主のことばがまれにしかなかった、とありますが、ここにも当時のイスラエルの霊的状態を典型的に表している出来事が記されています。彼らは、神ご自身ではなく、神の箱自体に何か力があると考えていました。主がみことばによってご自分を現わしておられ、そして主との正しい関係が彼らを強くするのにも関わらず、彼らはお守りのようにして神の箱を取り扱っていたのです。

 私たちが、主との人格的な関係ではなく、主についての事柄について夢中になると、同じような過ちを犯します。祈ることは大切です。けれども、主ご自身よりも、祈ること自体を大事にするなら、おかしくなります。伝道も大切です。けれども、主のしばらしさを自分自身が体験せずに、伝道をしていれば良いと考えたらおかしくなります。聖書の学びも、また信徒たちとの交わりも、それが自己目的化するなら、また、クリスチャンの歩みが教会のプログラムを動かしていくことを中心にするなら、私たちは神の箱によって勝利を得ようとしているイスラエル人と同じです。

 そこで民はシロに人を送った。彼らはそこから、ケルビムに座しておられる万軍の主の契約の箱をかついで来た。エリのふたりの息子、ホフニとピネハスも、神の契約の箱といっしょにそこに来た。

 契約の箱を連れてくるときに、エリの息子二人もいっしょに行きました。


2C 奮い立つペリシテ人 5−11
 主の契約の箱が陣営に着いたとき、全イスラエルは大歓声をあげた。それで地はどよめいた。

 実にむなしいです。大歓声をあげ、地がどよめきましたが、ここには人の熱気はあっても、神の息吹はありませんでした。熱心さや勢いはあっても、主の御霊はおられなかったのです。宗教的な熱気は、必ずしも主がそこにおられることを保証するものではありません。

 ペリシテ人は、その歓声を聞いて、「ヘブル人の陣営の、あの大歓声は何だろう。」と言った。そして、主の箱が陣営に着いたと知ったとき、ペリシテ人は、「神が陣営に来た。」と言って、恐れた。

 ペリシテ人は異教徒であり、木や石で出来たものを神と呼んでいたのですから、主の箱を神であるとみなしても、おかしくありません。彼の神理解はこれだけのものでした。けれども問題は、イスラエルが異教徒と同じような理解しか持っていなかったことです。

 そして言った。「ああ、困ったことだ。今まで、こんなことはなかった。ああ、困ったことだ。だれがこの力ある神々の手から、われわれを救い出してくれよう。これらの神々は、荒野で、ありとあらゆる災害をもってエジプトを打った神々だ。」

 これはすごいことです、主がエジプトを打たれたときからすでに500年ちかく経っているのに、それでもまだペリシテ人たちは、そのことを恐れていました。主がエジプトで行なわれたことは、このように世界中にご自分の栄光を現わすためでした。

 そして大事なのは、イスラエルの神を知らない彼らのほうが、神が行われたことについて恐れを抱いていることです。世の中の人たちのほうが、神の働きに気づいていた、ということです。これもキリスト教会においても、起こりえることでしょう。世の中の人たちのほうが、分かっている場合があります。世の中の人のほうが主が世界で行なわれていることに気づいていて、クリスチャンが教会内部でその中のことにしか関心がないとき、主がいかに偉大な方であるかを忘れてしまうときがあります。

 さあ、ペリシテ人よ。奮い立て。男らしくふるまえ。さもないと、ヘブル人がおまえたちに仕えたように、おまえたちがヘブル人に仕えるようになる。男らしくふるまって戦え。」こうしてペリシテ人は戦ったので、イスラエルは打ち負かされ、おのおの自分たちの天幕に逃げた。そのとき、非常に激しい疫病が起こり、イスラエルの歩兵三万人が倒れた。

 神の箱はありましたが、神はおられませんでした。彼らは負けただけでなく、疫病によって倒れています。

 
神の箱は奪われ、エリのふたり息子、ホフニとピネハスは死んだ。

 神の人が言ったとおりになりました。


2B 二人の死 12−22
1C エリ 12−18
 その日、ひとりのベニヤミン人が、戦場から走って来て、シロに着いた。その着物は裂け、頭には土をかぶっていた。

 着物を裂いて、頭にちりをかぶるのは、ユダヤ人たちが泣き悲しんでいることを表すジェスチャーでした。

 彼が着いたとき、エリは道のそばに設けた席にすわって、見張っていた。神の箱のことを気づかっていたからである。

 エリは、はらはらしていました。それは二人の息子のことではなく、神の箱のことでした。息子はあれだけ悪事を行なっていましたから、気に留められるに値しない人物たちでしょう。

 この男が町にはいって敗戦を知らせたので、町中こぞって泣き叫んだ。エリが、この泣き叫ぶ声を聞いて、「この騒々しい声は何だ。」と尋ねると、この者は大急ぎでやって来て、エリに知らせた。エリは九十八歳で、その目はこわばり、何も見えなくなっていた。その男はエリに言った。「私は戦場から来た者です。私は、きょう、戦場から逃げて来ました。」するとエリは、「状況はどうか。わが子よ。」と聞いた。この知らせを持って来た者は答えて言った。「イスラエルはペリシテ人の前から逃げ、民のうちに打たれた者が多く出ました。それにあなたのふたりの子息、ホフニとピネハスも死に、神の箱は奪われました。」彼が神の箱のことを告げたとき、エリはその席から門のそばにあおむけに落ち、首を折って死んだ。年寄りで、からだが重かったからである。彼は四十年間、イスラエルをさばいた。

 ベニヤミン人は二人の息子の死も知らせましたが、エリは神の箱が奪われたことを聞いて、それで死にました。それもそのはずです。主はモーセに、契約の箱の、贖いの蓋のケルビムの間でわたしは語る、と言われました。そしてそこは燭台の灯火がないのに、ひかっているところでした。シェキナーとも呼ばれる、主の栄光です。主が会ってくださるところの契約の箱が奪われる、というのは、こうした主の臨在と栄光、そして贖いが取り去られてしまったことをさえ意味するものでした。それでエリはショックで死んだのです。

2C ピネハスの妻 19−22
 死んだのはエリだけではありません。ピネハスの妻も続けて死にます。彼の嫁、ピネハスの妻は身ごもっていて、出産間近であったが、神の箱が奪われ、しゅうとと、夫が死んだという知らせを聞いたとき、陣痛が起こり、身をかがめて子を産んだ。

 ピネハスの妻には、何も残されませんでした。神の箱がなく、自分の夫もしに、そしてしゅうとが死にました。

 彼女が死にかけているので、彼女の世話をしていた女たちが、「しっかりしなさい。男の子が生まれましたよ。」と言ったが、彼女は答えもせず、気にも留めなかった。

 出産のときに母親が死ぬことは、昔はそんなにめずらしいことではありませんでした。けれども、出産の喜びはなく、放心状態となっていました。

 彼女は、「栄光がイスラエルから去った。」と言って、その子をイ・カボデと名づけた。これは神の箱が奪われたこと、それに、しゅうとと、夫のことをさしたのである。

 イ・カボデです。「栄光が去った」という意味です。

 彼女は、「栄光はイスラエルを去りました。神の箱が奪われたから。」と言った。

 神の箱がない今、栄光がイスラエルを去りました。神の箱がないイスラエルは、ちょうど心臓のない人間のようなものであり、人間のような形はしていても、人間としての機能を果たさない状態であります。主がともにおられるからこそのイスラエルであり、主がおられないイスラエルは、張りぼてでしかありません。

 その原因は、彼らに神のみことばが枯渇していたからです。そして、みことばを聞くことができるような霊の耳を持っていなかったからです。表面的な、宗教的なことには熱心でしたが、心を尽くした、主との個人的な関係を持っていませんでした。ですから大事なのは、サムエルが主の声を聞いたときの姿勢です。お話ください、しもべは聞いております、という姿勢です。主が語られることは何でも聞き、そしてそれに聞き従います、という用意の出来た心です。ここに、主との関係が出来上がります。そして表面的な宗教的行為ではなく、生きた関係から出てくる、神の力が現われます。


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