歴代誌第二34−36章 「すべて書物のとおりに」


アウトライン

1A 最後のリバイバル 34−35
   1B 遅すぎた改革 34
      1C みことば不在の悲劇 1−13
      2C なお有効なへりくだり 14−33
   2B 浅かった改革 35
      1C 王主体のいけにえ 1−19
      2C 関わらなくて良い戦い 20−27
2A 異邦人による支配 36
   1B 引き抜き 1−21
   2B 植え込み 22−23

本文

 歴代誌第二34章を開いてください、今日で歴代誌の学びを終えます。34章から36章です。ここでのテーマは、「すべて書物のとおりに」です。モーセの律法の書、またエレミヤなどの預言書に書かれてあるとおりのことが起こるところを見ていきます。

1A 最後のリバイバル 34−35
1B 遅すぎた改革 34
1C みことば不在の悲劇 1−13
34:1 ヨシヤは八歳で王となり、エルサレムで三十一年間、王であった。

 前回私たちは、ヒゼキヤの治世とその子マナセの治世、それからアモンの治世を読みました。マナセによって、ヒゼキヤが行なった宗教改革はすべて元通りになりました。従来のあらゆる偶像礼拝を行なっただけでなく、天の万象を拝むような新しい形態のものも導入しました。マナセはアッシリヤによってバビロンに捕え移されますが、そこで彼はへりくだり、悔い改めたので、エルサレムに回復し、自分の立てた偶像を破壊しました。けれどもその子アモンは再び偶像礼拝を復活させました。彼は謀反によって殺されました。

 そこでアモンの子ヨシヤは、八歳で王になっています。父が謀反によって殺されたので、それだけ年が早い時期に王となったのです。けれども、年の若さが彼の王としての資質を疎外することはありませんでした。彼はユダの王にとってもっとも大切なことを、もっとも大切にしました。

34:2 彼は主の目にかなうことを行なって、先祖ダビデの道に歩み、右にも左にもそれなかった。34:3 彼の治世の第八年に、彼はまだ若かったが、その先祖ダビデの神に求め始め、第十二年に、ユダとエルサレムをきよめ始めて、高き所、アシェラ像、刻んだ像、および、鋳物の像を除いた。

 ユダの王が霊的に健全に歩んでいるかどうかの量りは、ダビデの道にありました。彼は完璧ではありませんでしたが、主の心を追い求めるそのダビデの心は神をとこしえまでに喜ばせました。ヨシヤは単なる先祖の神としてではなく、ダビデが神に個人的に関係を持っていたように、個人的に知り始めました。第八年すなわち十六歳のときにダビデの神を求め始め、第十二年すなわち二十歳のときに、偶像礼拝を排除する働きを始めています。

34:4 人々は彼の面前で、バアルの祭壇を取りこわした。彼は、その上にあった香の台を切り倒し、アシェラ像と刻んだ像と鋳物の像を打ちこわし、粉々に砕いて、これらのいけにえをささげた者たちの墓の上にまき散らした。34:5 彼は、祭司たちの骨を彼らの祭壇の上で焼いて、ユダとエルサレムをきよめた。

 ヨシュア独特の偶像破壊の方法です。祭壇や像を破壊した後に、その砕いたものを偶像礼拝の祭司たちの墓に撒き散らします。

 そしてこのことを300年前に、イスラエル国に偶像礼拝を初めに導入した男、ヤロブアムに対して、ある人が預言していました。列王記第一13章にて、ヤロブアムが香をたくために祭壇のそばに立っていたときに、神の人がこの祭壇に向かって呼ばわりました。「祭壇よ。祭壇よ。主はこう仰せられる。『見よ。ひとりの男の子がダビデの家に生まれる。その名はヨシヤ。彼は、おまえの上で香をたく高き所の祭司たちをいけにえとしておまえの上にささげ、人の骨がおまえの上で焼かれる。』(2節)」この人は、このことを行なう名前まで挙げています。神のみことばはこれだけ正確に成就するのです。

34:6 彼は、マナセ、エフライム、シメオン、さらにはナフタリの町々でも、至る所で、彼らの剣を用いて同様にした。34:7 イスラエルの全地で、祭壇を取りこわし、アシェラ像と刻んだ像を粉々に砕き、すべての香の台を切り倒してから、彼はエルサレムに帰った。

 ヒゼキヤが前に行なったように、ヨシヤはユダだけでなく北イスラエルに対しても偶像を排除する活動を行ないました。このときには北イスラエルは滅ぼされていますから、北イスラエルの主権を侵すことなくして、その土地で自分のしたいことをすることができました。

 以前も話しましたが、私たちは、あまりにも状態が悪くなっている人を見ると、逆に諦めてしまいます。けれども、神の約束はすべての人が悔い改めて、救いを得ることです。ヨシヤのように神の約束に応答して、神に言われたことを理由に、人間的に望みえない人に対してであっても救いの手を差し伸べるべきです。

34:8 この地とこの宮とをきよめたのは、彼の治世の第十八年で、彼は、その神、主の宮を修理するため、アツァルヤの子シャファン、この町のつかさマアセヤ、エホアハズの子参議ヨアフを遣わした。

 彼は八歳で王となり、十六歳で主を求め始め、二十歳でイスラエルの土地を偶像からきよめましたが、二十六歳の時に神殿改築の事業に携わりました。本当に若くして数々の改革を断行していますが、神は年を関係なくして用いられます。同時期に預言者エレミヤがいましたが、彼が神に召されたときも、「まだ若い、と言うな。(エレミヤ1:7」と主は言われました。

34:9 彼らは、大祭司ヒルキヤのもとに来て、神の宮に納められた金を渡した。これは入口を守るレビ人が、マナセとエフライム、すべてのイスラエルの残りの者、全ユダとベニヤミンから集めたものである。

 前回のヒゼキヤの治世の時に出てきましたが、ユダとベニヤミンだけでなく、イスラエル人で主を信じるレムナント、残りの者たちがいました。北イスラエルが滅んだ後に、エルサレムに来て過越の祭りに参加するようヒゼキヤが呼びかけて、応答した人々です。この人たちがまだユダの地域にいて、神殿のために献金しました。

34:9bそれから、彼らはエルサレムに帰って、34:10 主の宮で工事している監督者たちの手に渡し、さらにそれを主の宮で行なわれる工事をしている者たちに渡して、宮を繕い、修理させた。34:11 彼らは、木工や建築師たちに渡して、切り石やつなぎ材を買わせ、ユダの王たちが荒らした家々に、梁を置いて、これを建てさせた。

 献金は何の不正も着服も、また滞留することなく実際の工事費に充当されました。

34:12 この人々は、この仕事を忠実に行なった。彼らの上には、監督者、メラリ族のレビ人ヤハテとオバデヤ、ケハテ族のゼカリヤとメシュラムがいて、指揮をした。また、すべて楽器を奏するのに巧みなレビ人がいた。

 職人たちが工事をしている間、レビ人らが主への音楽を奏でていました。すばらしいですね、パウロは、「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。(エペソ5:19」と言っています。

34:13 彼らはまた、荷をになう者たちをもつかさどり、各分野の仕事に当たるすべての職人たちの指揮をする役目についた。レビ人の中には、書記、つかさ、門衛などもいた。

 レビ人がさまざまな分野において仕事を行なっていました。

2C なお有効なへりくだり 14−33
34:14 彼らが、主の宮に携え入れられた金を取り出していたとき、祭司ヒルキヤは、モーセを通して示された主の律法の書を発見した。34:15 そのときすぐ、ヒルキヤは書記シャファンに対してこう言った。「私は主の宮で律法の書を見つけました。」ヒルキヤがその書物をシャファンに渡すと、34:16 シャファンは、その書物を王のもとに携えて行き、さらに王に報告して言った。「しもべにゆだねられたことは、すべてやらせております。34:17 彼らは主の宮にあった金を箱からあけて、これを監督者たちの手に、工事をしている者たちの手に渡しました。」

 モーセの律法の書 ― おそらくは創世記から申命記まで ― を祭司ヒルキヤがたまたま見つけました。書記シャファンは、まず神殿工事の進み具合を報告します。

34:18 ついで、書記シャファンは王に告げて、言った。「祭司ヒルキヤが私に一つの書物を渡してくれました。」そして、シャファンは王の前でそれを朗読した。34:19 王は律法のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いた。

 ヨシヤが自分の衣を裂く反応を引き起こした箇所は、おそらくレビ記の26章もしくは申命記28章でしょう。主に聞き従うなら祝福を受けるが、主の戒めを守り行なわないなら、あらゆる災害と疫病に悩まされ、ついには敵によって根絶やし寸前までにされ、約束の地から引き抜かれるというモーセの預言の部分です。まさにかつて、北イスラエルがこのことを行なったために滅び、そして今ユダの国が、モーセが滅びると警告したそのことを行なっていることに気づいたのです。

 これは驚くべきことですが、ヨシヤの時代、モーセの律法が朗読されていなかったどころか、だれも保持してさえもいなかったという事実です。神の御言葉なくして、どうやって神によって生きることができるでしょうか?ホセア書には、「わたしの民は知識がないので滅ぼされる。(4:6」とあります。聖書にはっきりと、あまりにも明白に書かれているのに、主のみこころに反することを平気で行なっているクリスチャンがいます。それは、神の御言葉の知識がないところから来ています。

34:20 王はヒルキヤ、シャファンの子アヒカム、ミカの子アブドン、書記シャファン、王の家来アサヤに命じて言った。34:21 「行って、見つかった書物のことばについて、私のため、イスラエルとユダの残りの者のために、主のみこころを求めなさい。私たちの先祖が、主のことばを守らず、すべてこの書にしるされているとおりに行なわなかったため、私たちの上に注がれた主の憤りは激しいから。」

 律法に書かれていることを理解でき、そして実際的に神が今何をお考えになられているか、伝えることができる人を探しなさい、と命じています。

34:22 そこで、ヒルキヤ、および、王の指名した人々は、女預言者フルダのもとに行った。彼女は、ハスラの子トクハテの子、装束係シャルムの妻で、エルサレムの第二区に住んでいた。

 彼らが探し当てたのは、レビ人の妻で女預言者でした。聖書の中で、このように女性が神のみことばを伝えることで用いられている箇所がいくつかあります。士師の一人であったデボラがそうでしたし、新約時代では幼子のイエスさまのことを語ったアンナという女預言者がいます。私はテモテへの手紙にパウロが書いたように、女が男を支配したり教えてはいけないという戒めを信じていますが、それは女の人が勧めや励ましなどの預言をしてはならないということではない、とも信じています。

34:22b彼らがその旨を彼女に伝えると、34:23 彼女は彼らに答えた。「イスラエルの神、主は、こう仰せられます。『あなたがたをわたしのもとに遣わした人に告げよ。34:24 主はこう仰せられる。見よ。わたしは、この場所とその住民の上にわざわいをもたらす。彼らがユダの王の前で読み上げた書物にしるされているすべてののろいをもたらす。34:25 彼らはわたしを捨て、ほかの神々に香をたき、彼らのすべての手のわざで、わたしの怒りを引き起こすようにした。わたしの憤りはこの場所に注がれ、消えることがない。』

 ヨシュアが驚愕したように、確かに今の状況はモーセの律法に書かれてあることである、だから、その通りにのろいがもたらされる、ということです。

34:26 主に尋ねるために、あなたがたを遣わしたユダの王には、こう言わなければなりません。『あなたが聞いたことばについて、イスラエルの神、主は、こう仰せられます。34:27 あなたが、この場所とその住民についての神のことばを聞いたとき、あなたは心を痛め、神の前にへりくだり、わたしの前にへりくだって自分の衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる。・・主の御告げです・・34:28 見よ。わたしは、あなたを先祖たちのもとに集めよう。あなたは安らかに自分の墓に集められる。それで、あなたは自分の目で、わたしがこの場所とその住民にもたらすすべてのわざわいを見ることがない。』」彼らはそれを王に報告した。

 ヨシュアのへりくだりで、彼自身がわざわいを見ることはないという神のあわれみがありました。彼のへりくだりから私たちは大事なことを学ぶことができます。ヨシュアにとって、自分たちのしていたことが神の怒りを引き起こしていたことに気づいたのは、大きな衝撃だったでしょう。けれども、その金槌で打たれたようなショックを乗り越えて、主の前にひれ伏し、泣いたのは良いことです。豊かな神のあわれみを受けました。神の御言葉が剣のように自分の心を刺しても、それが究極的には私たちを癒すのです。神さまの前で裸でいましょう(ヘブル5:1213)。

34:29 すると、王は使者を遣わして、ユダとエルサレムの長老をひとり残らず集めた。

 ヒゼキヤのことを思い出してください、彼はバビロンによってユダが滅びるという宣言を受けた時、自分が生きているうちはわざわいを見ないのだから、とほっとしていました。きわめて自己中心的ですが、ヨシヤは同じように自分はわざわいは見ないと宣言を受けても、他の人たちのことを気にかけていました。これがキリストの心を自分が持っている証拠です。自分の福利よりも、他の人たちの福利を考えるのです。

34:30 王は主の宮へ上って行った。ユダのすべての人、エルサレムの住民、祭司とレビ人、および、上の者も下の者も、すべての民が行った。そこで彼は主の宮で発見された契約の書のことばをみな、彼らに読み聞かせた。34:31 それから、王はその定めの場所に立ち、主の前に契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、精神を尽くして、主の命令と、あかしと、おきてを守り、この書物にしるされている契約のことばを行なうことを誓った。

 御言葉を聞かせて、主に立ち返る決意を表明させました。

34:32 彼はエルサレムとベニヤミンにいるすべての者を堅く立たせた。エルサレムの住民は、その父祖の神である神の契約に従って行動した。34:33 ヨシヤはイスラエル人の全地から、忌みきらうべきものを除き去り、イスラエルにいるすべての者を、その神、主に仕えさせた。彼の生きている間、彼らはその父祖の神、主に従う道からはずれなかった。

 ユダだけでなくイスラエルも含めて神に立ち返らせました。

2B 浅かった改革 35
 ここまで見ると、イスラエルは神のさばき自体を免れることができるのではないか、と思うかもしれません。けれども実は、ヨシヤやその取り巻きは信仰復興したけれども、ユダとイスラエル全体に対する改革は心の奥にまで広がっていなかったことに気づきます。先ほどのフルダの預言にあるように、神のさばきはやはり下ると宣言されました。そしてヨシヤが王であった時から預言活動を始めたエレミヤは、初めからユダが神から離れていることを宣言しました。ヨシヤ王は続けて宗教改革を行なっていきますが、残念ながら民の心は堕落しきっていたのではないかと思われる部分を読んでいきます。

1C 王主体のいけにえ 1−19
35:1 さて、ヨシヤはエルサレムで主に過越のいけにえをささげた。人々は第一の月の十四日に過越のいけにえをほふった。

 ヨシヤはかつてヒゼキヤがそうであったように、イスラエルの贖いにとって最も大切な過越の祭りを再開させました。

35:2 彼は祭司たちを任命してその任務につかせ、彼らを力づけて、主の宮の奉仕に当たらせた。35:3 それから、彼は、全イスラエルを教え導く者であり、主の聖なる者であるレビ人たちに言った。「聖なる箱を、イスラエルの王ダビデの子ソロモンが建てた宮に据えなさい。もう、あなたがたにとって肩の重荷にはなるまい。そこで今、あなたがたの神、主と、主の民イスラエルに仕えなさい。35:4 イスラエルの王ダビデの文書およびその子ソロモンの書きつけのとおりに、父祖の家ごとに、組分けに従って、用意をしなさい。35:5 あなたがたの同胞であるこの民の者たちが属している父祖の家の区分に従って、聖所に立ちなさい。レビ人にとって、一族の分があるようにしなさい。35:6 それから、過越のいけにえをほふり、身を聖別し、あなたがたの同胞のために用意をして、モーセを通して示された主のことばのとおりに行ないなさい。」

 ヨシヤが先頭に立って、まず祭司を力づけ、それからレビ人を教え導いています。

35:7 ヨシヤは民の者たちに羊の群れ、すなわち、子羊とやぎの子を贈った。すべては、そこにいたすべての人の過越のいけにえのためであった。その数は三万、牛は三千。これらは王の財産の中から出された。

 王は自腹を切って、いけにえを民に提供しています。そしてその数は、かつてヒゼキヤが自腹を切って与えた一千頭の牛と七千頭の羊に比べると、はるかに数が多くなっています。

35:8 彼のつかさたちも、民および祭司たち、レビ人たちに、進んでささげるささげ物として贈り物をした。神の宮のつかさ、ヒルキヤ、ゼカリヤ、エヒエルも、祭司たちに過越のいけにえとして羊二千六百頭、牛三百頭を与えた。35:9 さらに、レビ人のつかさたち、すなわち、カナヌヤとその兄弟シェマヤ、ネタヌエル、およびハシャブヤ、エイエル、エホザバデも、レビ人に過越のいけにえとして羊五千頭、牛五百頭を贈った。

 王室の側近の者たちも、またレビ人のつかさたちもいけにえの贈呈に貢献しました。

35:10 こうして、奉仕の用意ができたので、王の命令のとおりに、祭司たちはおのおのの定めの場所に立ち、レビ人はおのおのの組分けに従って立った。35:11 彼らが過越のいけにえをほふると、祭司たちは彼らの手から血を受け取って注ぎかけ、レビ人は皮をはいだ。35:12 それから、彼らは全焼のいけにえを取り除き、これを民の者たちの父祖の家の各区分に渡し、モーセの書にしるされているとおりに主にささげさせた。牛についても同様にした。

 出エジプト記には、いけにえの子羊は各家であると定められていましたので、そうしています。

35:13 それから、彼らは定めのとおりに、過越のいけにえに火を加えて調理し、聖別されたささげ物を、なべ、かま、平なべなどで調理して、民たち全員のもとに急いで運んだ。

 火で焼くことも、出エジプト記に書かれています。

35:14 そのあとで、彼らは自分たちや祭司たちのための用意をした。アロンの子らである祭司たちは、夜になるまで、全焼のいけにえと脂肪をささげていたからである。そこでレビ人は、自分たちや、アロンの子らである祭司たちのための用意をした。

 奉仕をしている人たちも過越の子羊にあずかることができるように、レビ人が手配しました。

35:15 アサフの子らである歌うたいたちは、ダビデ、アサフ、ヘマン、および、王の先見者エドトンの命令のとおりに、その役目についていた。また、門衛たちは、それぞれの門を守っていた。彼らのうちだれも、その奉仕を離れる必要がなかった。彼らの同族であるレビ人が彼らのための用意をしたからである。

 賛美をリードしている人たちもいけにえにあずかることができるようにしました。

35:16 こうして、この日に、すべて主への奉仕の用意ができ、ヨシヤ王の命令のとおりに過越のいけにえをささげ、主の祭壇で全焼のいけにえをささげるばかりになったので、35:17 そこにいたイスラエル人は、そのとき、過越のいけにえをささげ、七日間、種を入れないパンの祭りを行なった。

 過越の祭りに引き続いて、種なしパンの祝いがあります。

35:18 預言者サムエルの時代からこのかた、イスラエルでこのような過越のいけにえがささげられたことはなかった。イスラエルのどの王も、ここでヨシヤが行ない、祭司たちとレビ人、および、そこにいた全ユダとイスラエル、さらに、エルサレムの住民たちがささげたような過越のいけにえをささげたことはなかった。

 ヒゼキヤもまた、過越の祭りを行ないましたが、ヨシヤが行なった規模のほうがはるかに大きいということです。

 過越の祭りを行なったこと自体は本当にすばらしいことですが、この章を注意深く読むと一つ気づくことがあります。主語がみな、ヨシヤになっていることです。ヨシヤが祭司たちを励まし、レビ人に指示を与え、ヨシヤが自腹を切って民にいけにえを与え、ヨシヤとその取り巻きだけが動いているような印象を受けます。ヒゼキヤの時代には、ユダの民が自発的に、主体的に関わって来たところを読みましたが、ここではその様子を窺い知ることはできません。

 先ほど話したように、改革が表面的だったのです。これはヨシヤの非ではなく、ユダの民がすでに心が神から完全に離れてしまったからです。表面的には応答しているかもしれませんが、内実が伴っていません。その証拠にヨシヤの死後、彼らは再び暗闇へ突入します。女預言者フルダが言ったように、その時さばきがくだらなかったのはヨシヤ個人が生きていた、とも言えるのです。

35:19 ヨシヤの治世の第十八年に、この過越のいけにえがささげられた。

 ヨシヤが二十六歳の時です。そして次はヨシヤの死が書かれていますが、34章の初めに彼は三十一年間王であったと書かれてありますから、三十九歳の時に彼は死にます。

2C 関わらなくて良い戦い 20−27
35:20 すべてこのように、ヨシヤが宮を整えて後、エジプトの王ネコが、ユーフラテス河畔のカルケミシュで戦うために上って来た。そこでヨシヤは、彼を迎え撃ちに出て行った。

 ここの時点で、ユダを取り巻く国際環境が大きく変わっています。しばらくの間、アッシリヤが強大な国として諸地域を君臨していましたが、しだいに弱まり、特にバビロンに対して屈するようになってきました。紀元前612年には首都ニネベが陥落します。新バビロニア帝国の台頭です。

 そこでエジプトはバビロンを脅威と考えました。パロのネコは、北進してアッシリヤを支援することによってバビロンと戦おうとしました。しかし紀元前605年のカルケミシュの戦いにてバビロンに敗れ、バビロンは世界唯一の超大国へとなります。

 今読んだ部分は、紀元前605年のカルケミシュの戦いの前の、ネコによる北進作戦です。ネコは、ユダと戦うつもりは毛頭ありませんでした。しかしヨシヤは、間違った正義感からネコに対峙しようとします。

35:21 ところが、ネコは彼のもとに使者を遣わして言った。「ユダの王よ。私とあなたと何の関係があるのですか。きょうは、あなたを攻めに来たのではありません。私の戦う家へ行くところなのです。神は、早く行けと命じておられます。私とともにおられる神に逆らわずに、控えていなさい。さもなければ、神があなたを滅ぼされます。」

 ここで注目したいのは、ネコはイスラエルの神を信じない不信者だ、ということです。エジプトの神々を拝む多神教の信者であったでしょう。しかし、神は彼の口を通してヨシヤに自制を促しています。

35:22 しかし、ヨシヤは身を引かず、かえって、彼と戦おうとして変装し、神の御口から出たネコのことばを聞かなかった。そして、メギドの平地で戦うために行った。

 メギドの平野ほど戦争が行なわれた所は世界中にない、と言われていますが、地理的に軍事的にも戦場になりやすいところです。主が再臨される前の世界大戦は、ここメギドの平野に世界の軍隊が集結することによって始まります。

35:23 射手たちがヨシヤ王を射たとき、王は家来たちに言った。「私を降ろしてくれ。傷を負ったのだ。」35:24 そこで、家来たちは彼を戦車から降ろし、彼の持っていた第二の車に乗せた。そして、彼をエルサレムに連れ帰った。彼は死んだので、その先祖たちの墓に葬られた。全ユダとエルサレムはヨシヤのために喪に服した。

 あれだけ主を愛していたヨシヤが、実に残念な方法で負傷しています。かつて極悪王アハブが打たれ、死んだのとまったく同じ形で死んでいます。主からの警告があったのにも関わらずそれを無視して、変装して敵の攻撃をかわそうとし、けれども主の警告どおりに打たれました。

 彼の過ちは何だったのでしょうか?それは、神の主権と召しに基づかないところの正義感です。正義感というと聞こえが良すぎますね、はっきり言えば高ぶりです。けれども、人間的には頼もしい行動、愛国的な行動として賞賛されるかもしれません。

 この時の国際環境は、神の主権の中にありました。アッシリヤが弱体化し、バビロンが台頭するという流れの中にありました。まずヨシヤはこのような状況の中に神を認めませんでした。そして、異教徒ネコに対する見下しもあったかもしれません。神は不信者をも用いることがあるのです、だから、あらゆる面おいて主を認めるへりくだりが必要なのです。けれどもヨシヤはそれができませんでした。そのための殉死です。

 私たちは神の御手を認めた上でのへりくだりが必要です。確かに不正ははびこっているかもしれません。筋論が通らない場面に出くわすかもしれません、けれども神はこう言われます。「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。(1ペテロ5:6」義に飢え渇くことは大切です、けれども神は神の方法で、ご自分の正義を行なわれます。

35:25 エレミヤはヨシヤのために哀歌を作った。そして、男女の歌うたいはみな、今日に至るまで、彼らの哀歌の中でヨシヤのことを語り、これをイスラエルのために慣例としている。これらは哀歌にまさしくしるされている。

 この哀歌はおそらく聖書の哀歌とは違うものだと思います。エレミヤが特別に哀歌をつくるほど、彼は慕われていました。

35:26 ヨシヤのその他の業績、すなわち、主の律法にしるされているところに従った彼の忠実な行為、35:27 彼の業績は、最初から最後まで、イスラエルとユダの王たちの書にまさしくしるされている。

2A 異邦人による支配 36
 それでは最後の章を読みます。誰ひとりとしてヨシヤにならう者はいません。

1B 引き抜き 1−21
36:1 さて、この国の民は、ヨシヤの子エホアハズを選んで、彼の父に代えて、エルサレムで彼を王とした。36:2 エホアハズは二十三歳で王となり、エルサレムで三か月間、王であった。36:3 しかし、エジプトの王は、エルサレムで彼を退け、この国に、銀百タラントと金一タラントの科料を課した。36:4 ついで、エジプトの王は、彼の兄弟エルヤキムをユダとエルサレムの王とし、その名をエホヤキムと改めさせた。ネコは、その兄弟エホアハズを捕えて、エジプトへ連れて行った。

 ヨシヤによって怒ったネコは、ユダが立てた王を退けることによってユダを支配しました。思い科料を課して、また当時戦勝国の王が行なっていたように、打ち負かした国の王の名前を自分がつけました。父が子に名をつけるように、自分が支配していることをそのことで示します。

36:5 エホヤキムは二十五歳で王となり、エルサレムで十一年間、王であった。彼は、その神、主の目の前に悪を行なった。36:6 この彼のもとに、バビロンの王ネブカデネザルが攻め上って来て、彼を青銅の足かせにつなぎ、バビロンへ引いて行った。

 エホアハズは、エジプトではなくバビロンに連れて行かれます。この時点で、ネブカデネザルがバビロンの王であり、エジプトにも勝利して強大国になっています。そしてここに書かれているのは第一回目のバビロン捕囚です。紀元前605年の出来事です。

36:7 ネブカデネザルは、主の宮の器具をバビロンに持ち去り、バビロンにある彼の宮殿に置いた。

 エホヤキムと王室にいる者たちを捕え移し、さらに主の宮にあるものを自分の宮殿に持っていきました。この時にダニエルと三人の友人の捕え移されています。ダニエル書の冒頭はこうなっています。「ユダの王エホヤキムの治世の第三年に、バビロンの王ネブカデネザルがエルサレムに来て、これを包囲した。主がユダの王エホヤキムと神の宮の器具の一部とを彼の手に渡されたので、彼はそれをシヌアルの地にある彼の神の宮に持ち帰り、その器具を彼の神の宝物倉に納めた。(1:1-2

36:8 エホヤキムのその他の業績、彼の行なった忌みきらうべきしわざ、彼について露見したことは、イスラエルとユダの王たちの書にまさしくしるされている。彼の子エホヤキンが代わって王となった。36:9 エホヤキンは十八歳で王となり、エルサレムで三か月と十日の間、王であった。彼は主の目の前に悪を行なった。36:10 年が改まるに及んで、ネブカデネザル王は使者を遣わし、彼を主の宮にあった尊い器とともにバビロンに連れて行った。そして、エホヤキンの兄弟ゼデキヤをユダとエルサレムの王とした。

 エホヤキムの次はエホヤキンですが、彼も父同様バビロンに捕え移されました。第二回目のバビロン捕囚(紀元前597年)です。

36:11 ゼデキヤは二十一歳で王となり、エルサレムで十一年間、王であった。36:12 彼はその神、主の目の前に悪を行ない、主のことばを告げた預言者エレミヤの前にへりくだらなかった。

 エレミヤ書に、この攻防が描かれています。神の真実を伝えるエレミヤをゼデキヤは聞きはしますが、エレミヤはバビロンに屈せよとの神の預言を伝えていたので、ユダの住民を恐れて聞き従いませんでした。かえってエレミヤを幽閉します。

36:13 彼はまた、ネブカデネザルが、彼に、神にかけて誓わせたにもかかわらず、この王に反逆した。このように、彼はうなじのこわい者となり、心を閉ざして、イスラエルの神、主に立ち返らなかった。

 今はすでに、異邦人の支配下に入っています。初めにエジプトが、そして次にバビロンですが、これは神のみこころでした。彼らが異教徒の神々を拝んでいるのですから、異教徒に支配されて当然なのです。異教徒からの支配を受けたくなければ、自由でいたいならば、イスラエルの神をあがめれば良いのです。

36:14 そのうえ、祭司長全員と民も、異邦の民の、忌みきらうべきすべてのならわしをまねて、不信に不信を重ね、主がエルサレムで聖別された主の宮を汚した。

 祭司長たちらもいっしょになって偶像礼拝を行なっていました。

36:15 彼らの父祖の神、主は、彼らのもとに、使者たちを遣わし、早くからしきりに使いを遣わされた。それは、ご自分の民と、ご自分の御住まいをあわれまれたからである。36:16 ところが、彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにしたので、ついに、主の激しい憤りが、その民に対して積み重ねられ、もはや、いやされることがないまでになった。

 主のあわれみをないがしろにしたら、もう救いの道はありません。

36:17 そこで、主は、彼らのもとにカルデヤ人の王を攻め上らせた。彼は、剣で、彼らのうちの若い男たちを、その聖所の家の中で殺した。若い男も若い女も、年寄りも老衰の者も容赦しなかった。主は、すべての者を彼の手に渡された。36:18 彼は、神の宮のすべての大小の器具、主の宮の財宝と、王とそのつかさたちの財宝、これらすべてをバビロンへ持ち去った。36:19 彼らは神の宮を焼き、エルサレムの城壁を取りこわした。その高殿を全部火で燃やし、その中の宝としていた器具を一つ残らず破壊した。36:20 彼は、剣をのがれた残りの者たちをバビロンへ捕え移した。こうして、彼らは、ペルシヤ王国が支配権を握るまで、彼とその子たちの奴隷となった。

 第三回バビロン捕囚、紀元前586年のことです。この時点でエルサレムは破壊、ユダヤ人は完全に捕囚の民となりました。イスラエルの歴史は、エジプトの奴隷状態からの解放です。しかし、今、再び奴隷状態に戻っています。罪から自由にされたのに再び罪の奴隷となったら、それほど悲劇的なことはありません。

36:21 これは、エレミヤにより告げられた主のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった。この荒れ果てた時代を通じて、この地は七十年が満ちるまで安息を得た。

 70年間の捕囚期間ですが、神にはまた別のお心がありました。というのは、バビロン捕囚は彼らが偶像礼拝などを行なったことに対するさばきという目的だけでなく、土地を休ませるという目的があったのです。レビ記25章に土地を七年ごとに休ませる、安息年というものがあります。しかし、ソロモンのころから、イスラエル人たちは土地を休ませることをまったくしてこなかったようです。70年間の7倍、490年間土地を休ませていませんでした。そのため、主は、ユダヤ人をその地から引き抜くことによって、ご自分のみこころである土地の安息を実現させました。

 私たちが、神が言われることをかたくなに拒むと、このように神は無理やりその状態に引き込まれるときがあります。同じ休むことを例に挙げれば、あまりにも動きすぎて病気になって、入院ベッドでずっと過ごさなければいけなくなったとしましょう。いつでも動きたいと思っている人ならとても辛いことですが、病気にならないかぎりその人は休むことを拒んだのです。

2B 植え込み 22−23
 このように悲惨な状態にユダヤ人は陥りましたが、しかし同じ歴史を描いている列王記と歴代誌の大きな違いが、次の二節に現われています。歴代誌はユダヤ人が引き抜かれたことだけを述べるのではなく、その後、再び植えられたことを付け加えています。

36:22 ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。36:23 「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神、主がその者とともにおられるように。その者は上って行くようにせよ。』」

 主は、バビロンの王を、ご自分のさばきを下す器として用いられましたが、ペルシヤの王をユダヤ人を回復するための器として用いられました。バビロンの栄華は百年ともたず、ベルシャツァル王はクロスの前で倒れました。そしてクロス王の第一年538年に、エルサレムに帰還せよとの布告を出します。

 エルサレムがバビロンの手に陥った時からしばしば、「異邦人の時」と呼ばれます。イエスさまが弟子たちに、「人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。(ルカ21:24」と言われた異邦人の時です。ユダヤ人は、1948年の建国そして1967年のエルサレム奪還の時まで実質的に独立を獲得していませんでした。けれども、本当に主権を持つことができるのは、メシヤであるイエスさまが戻ってこられて、彼らが神に立ち返る時です。

 こうして歴代誌を学びましたがユダの国の歴史全体を見ていくことができました。神の約束があり、それが彼らの不従順にもかかわらず最後には実現していくところを読みました。けれども、彼らの従順にしたがって神は祝福し、繁栄し、そのいのちを豊かに与えます。私たちも同じです。神の救いは確かです。けれども、そのいのちを豊かに持つには、キリストにとどまることが必要であり、キリストを主とあがめていることです。


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