歴代誌第二5−7章 「宮に満ちる主の栄光」


アウトライン

1A 奉納 5
   1B 神の箱 1−10
   2B 賛美 11−14
2A 祈り 6
   1B 約束の実現 1−11
   2B 罪の赦し 12−42
      1C 罪がもたらす災い 12−31
      2C 遠くからの祈り 32−39
      3C 執り成し 40−42
3A 神の答え 7
   1B 火 1−10
   2B 声 11−22

本文

 歴代誌第二5章を開いてください、今日は5章から7章までを学びたいと思います。ここでのテーマは、「宮に満ちる主の栄光」です。

1A 奉納 5
1B 神の箱 1−10
5:1 こうして、ソロモンが主の宮のためにしたすべての工事が完成した。そこで、ソロモンは父ダビデが聖別した物、すなわち、銀、金、各種の器具類を運び入れ、神の宮の宝物倉に納めた。

 私たちは前回、ソロモンが神殿を建てるところを学びました。ツロの王フラムと契約を結び、神殿の材料と、また職人が神殿を建てるようにお願いしました。そして、すべてのものが出来上がりました。ソロモンは、自分が作ったものの他に、父ダビデが用意していたものがありました。歴代誌第一の最後のところで、ダビデが用意していた金、銀などの器具がありましたが、それを宝物倉に入れました。そして、最後の最後に残された、最も大切な用具を持ち運びます。次をご覧ください。

5:2 そのとき、ソロモンはイスラエルの長老たち、およびイスラエル人の部族のかしらたちと一族の長たちをすべて、エルサレムに召集した。ダビデの町シオンから主の契約の箱を運び上るためであった。

 主の契約の箱です。ダビデが、オベデ・エドムの家から運び出し、自分の町に持っていていた契約の箱を今、神殿に持って来ます。(ダビデの町は神殿の丘の南に隣接していますから、大した距離ではありません。)契約の箱は、神殿の中心部分の中心をなす用具なので、イスラエルのかしらたち全員を連れてきて、これを運び上る儀式に参加させました。

5:3 イスラエルのすべての人々は、第七の新月の祭りに王のもとに集まった。

 第七の月の祭りは、仮庵の祭りのことです。イスラエルが荒野の旅をしていたとき、神が彼らを守ってくださったことを記念するために、仮庵を作ってそこで寝泊りする祭りです。通常、七日間つづき八日目は全き休みの日です。これは主を喜ぶ、お祝いの時です。

5:4 こうして、イスラエルの長老全員が到着したところで、レビ人たちは箱をにない、5:5 箱と会見の天幕と天幕にあったすべての聖なる用具とを運び上った。これらのものを祭司たち、レビ人たちが運び上った。

 実際に契約の箱を運ぶのは、モーセの律法に書き記されているとおりレビ人が行ないます。契約の箱の他に、箱が安置されていたところにあった聖なる用具もすべて運び上りました。

5:6 ソロモン王と彼のところに集まったイスラエルの全会衆は、箱の前に行き、羊や牛の群れをいけにえとしてささげたが、その数があまりに多くて数えることも調べることもできなかった。

 箱は神殿の中に入れられる前に、イスラエル全会衆によっていけにえがささげられました。神のご臨在そのものを表わす箱ですから、いけにえをささげのはふさわしい行為です。そして、ものすごい頭数をささげたようです。

5:7 それから、祭司たちは主の契約の箱を、定めの場所、すなわち神殿の内堂である至聖所のケルビムの翼の下に運び入れた。5:8 ケルビムは箱の所の上に翼を広げた。ケルビムは箱とそのかつぎ棒とを上からおおった。

 前回学びましたが、神殿の中の内堂すなわち至聖所には、幕屋のときとは異なるものがありました。巨大なケルビムが左右に二つあります。その間に契約の箱を置きました。そのため、ケルビムの翼が契約の箱を覆うようになっています。

5:9 そのかつぎ棒は長かったので、棒の先が内堂の前の聖所から見えていたが、外からは見えなかった。それは、今日までそこにある。

 「今日までそこにある」とありますから、バビロン捕囚後の再建された神殿にもあった、ということでしょうか?契約の箱がどこに行ったかについては、インディージョーンズの映画にも「失われた聖櫃(アーク)」というのがあったぐらいで、人々がもっとも注目している遺物であります。私は逆に見つからないほうが、本質からそれなくて良いと思っていますが・・・。

5:10 箱の中には、二枚の板のほかには何もはいっていなかった。これは、イスラエル人がエジプトから出て来たとき、主が彼らと契約を結ばれたときに、モーセがホレブで入れたものである。

 興味深い一言です。「主の契約の箱」と呼ばれる所以は、主の契約が記された、神の十戒の石の板がその中にあるからです。実は以前、マナのつぼとアロンの杖も入っていましたが、それは荒野の旅を終えて、無事、約束の地に入った後に取り除けたのかもしれません。それぞれ、荒野の旅を守られたこと、またアロンが神に選ばれたを思い出させるための物でしたから、約束の地に入ってからは特に必要なかったのでしょう。

 けれども、契約の石の板はそこに入っています。そして、これが主とイスラエルとの根幹をなすものでした。神とイスラエルとは、契約を持っています。契約において関係を持っています。聖書の中で神が夫でイスラエルが主の妻として描かれていますが、結婚の誓約のように、堅い結びつきを彼らは持っていました。イスラエルの歴史は、まさに、神との契約がイスラエルにどのように働いているのかを眺める歴史でもあります。

 神とイスラエルとの契約は、私たち異邦人と無縁ではありません。いや、私たちキリスト者と神との関係においても根幹をなすものです。イスラエルと結ばれると約束された新しい契約が、神の恵みによって私たち異邦人とも結ばれたのです。イエスさまがパンを裂かれ、ぶどう酒の杯を弟子たちに回されたあの晩餐は、まさに新しい契約をご自分の名を信じる者と交わされたことを思い出させるためのものでした。「これが、あなたがたのために流される新しい契約のしるしです。」と主が言われたように、私たちが永遠の罪の赦しを受け、神との個人的な関係を結ぶことができ、石の板ではなく御霊によって心の板に神の律法が書き記されているあのエレミヤを通しての約束は、キリストが小羊のような尊い血潮を流されたからです。

 イスラエルの歴史が、モーセを通して結ばれた契約がどのように実行されていくのかを眺めるものであるように、私たちキリスト者の歩みは、キリストが流された血がどのように適用されているのか、それを具体的に見ることができる歩みであるのです。罪の中にいた人が、罪から自由にされて、愛と喜び、平安、正義に満ちた生活に変えられているとき、新しい契約の実行を見ることができます。

2B 賛美 11−14
5:11 祭司たちが聖所から出て来たとき、・・列席したすべての祭司が各組の務めの順序にかかわらず身を聖別した。

 歴代誌第一にて、ダビデが祭司たちを二十四の組に分けて、代わる代わる奉仕するように整えましたが、この時はその各組の務めの順序に関わらず一斉に、水洗いをしたり自分のためのいけにえをささげたりして身を聖別して、神の宮で奉仕をする準備をしました。

5:12 また、歌うたいであるレビ人全員も、すなわち、アサフもヘマンもエドトンも彼らの子らも彼らの兄弟たちも、白亜麻布を身にまとい、シンバル、十弦の琴および立琴を手にして、祭壇の東側に立ち、百二十人の祭司たちも彼らとともにいて、ラッパを吹き鳴らしていた。・・

 祭壇の東側というと、ちょうど庭の入口のところでしょう、ダビデが整えた歌うたいの奉仕にあてがわれたレビ人たちが、歌によって神を賛美し始めました。

5:13 ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」と主に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。

 ここですばらしいのは、二点あります。一つは「ひとりでもあるかのように一致して歌声を響かせ」とあります。だれかが目立ってその人に注目が引き寄せられるのではなく、みなが互いを尊んで思いが一つにされています。その時に神の栄光が現われます。ロマ書にて、パウロがこう言いました。「どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。(15:5-6」このことをパウロが言う前に、彼は力のある者は弱い者の弱さをにないなさい、と勧めています。自分を求めるとき、自分の意見、やりたいことを求めるとき、キリストのからだの中で不協和音が出てきます。そのときは、キリストではなく、私たち人間に注目が寄せられています。けれども、互いに重荷を負いあい、互いに相手を優れたものとみなし、愛し合い、仕え合うところには、だれかが・・・ではなくキリストが目立ってきて、そこに神の栄光が宿るのです。

 そしてレビ人たちが歌ったのは、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」という言葉です。これは詩篇の中にも出てくる言葉ですが、主が初めてご自分の栄光をはっきりとモーセにお見せになったときに、紹介された主のお名前でもあります。出エジプト記34章6節です。「主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。『主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。』(34:6-7」神は契約をイスラエルに与えられましたが、その神はいつも、あわれみと恵みをその動機として持っておられます。一方的にあわれみ、愛し、イスラエルを選ばれました。私たちに対しても同じく、「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。(エペソ2:4-6」こうして、一致にある神の栄光、神の恵みの栄光が現われたときに、雲が宮に満ちました。

5:14 祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである。

 モーセが幕屋を立てたときも、このようになりました。栄光の雲が満ちて、そこに入ることができないほどになりました。つまり人間の行為が完全に排除されています。神のみがそこに住まわれます。私たちが神の前で自分をひれ伏させ、みこころにすべて服従しているとき、同じように神のみが見える状態、栄光の雲が満ちる状態へとなります。

2A 祈り 6
1B 約束の実現 1−11
6:1 そのとき、ソロモンは言った。「主は、暗やみの中に住む、と仰せられました。6:2 そこでこの私があなたのお治めになる宮を立てました。あなたがとこしえにお住みになる所を。」

 雲が満ちているために、暗くなっています。神がシナイ山で現われたときも、雲がその頂に降りてきて雷や稲妻がありましたが、同じように今、宮の中にも入ってきている状態です。

6:3 それから王は振り向いて、イスラエルの全集団を祝福した。イスラエルの全集団は起立していた。6:4 彼は言った。「イスラエルの神、主はほむべきかな。主は御口をもって私の父ダビデに語り、御手をもってこれを成し遂げて言われた。6:5 『わたしの民を、エジプトの地から連れ出した日からこのかた、わたしはわたしの名を置く宮を建てるために、イスラエルの全部族のうちのどの町をも選ばず、また、わたしの民イスラエルの上に立つ君主とするためにどんな人も選ばず、6:6 ただ、エルサレムを選んでそこにわたしの名を置き、ダビデを選んでわたしの民イスラエルの上に立てた。』6:7 それで、私の父ダビデは、イスラエルの神、主の名のために宮を建てることを、いつも心がけていた。6:8 ところが、主は、私の父ダビデにこう仰せられた。『あなたは、わたしの名のために宮を建てることを心がけていたために、よくやった。あなたは確かに、そう心がけていた。6:9 しかし、あなたがその宮を建ててはならない。あなたの腰から出るあなたの子どもが、わたしの名のためにその宮を建てる。』6:10 主は、お告げになった約束を果たされたので、私は父ダビデに代わって立ち、主の約束どおりイスラエルの王座に着いた。そして、イスラエルの神、主の名のために、この宮を建て、6:11 主がイスラエル人と結ばれた主の契約が納められている箱をそこに置いた。」

 ソロモンが祝福していますが、その内容は主がご自分の口から語られたとおり、その通りに実現したことです。主がエルサレムとダビデを選び、そして実際に神殿の建てるのはダビデの子である私が行なうように言われていたが、確かにその通りになった、ということです。

 主は言葉によって私たちを動かされます。先ほどの契約の箱にも、神の言葉が書き記された十戒が入っていました。ヨハネの福音書にも、「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」とあります。言葉によって、私たちは神を知ることができ、神との人格的、個人的な交わりをすることができます。こういう気分になった、とか、こういうイメージを描くとか、気分やイメージではなく、言葉によって神を知ることができるのです。

2B 罪の赦し 12−42
 そしてソロモンは、長い祈りを主の前にささげます。

1C 罪がもたらす災い 12−31
6:12 彼はイスラエルの全集団の前で、主の祭壇の前に立ち、両手を差し伸べた。6:13 ソロモンは、長さ五キュビト、幅五キュビト、高さ三キュビトの青銅の足台を作って、これを庭の中央に据えておいたが、その上に立って、イスラエルの全集団の前でひざまずき、両手を天に差し伸べて、6:14a 言った。

 みなに自分の祈りが見えるようにするために、青銅の足台を作りました。青銅は神のさばきを意味していますが、彼はこれから罪を赦し、罪から来る災いから私たちを救い、いやしてくださるように、という祈りをささげます。

6:14b「イスラエルの神、主。天にも地にも、あなたのような神はほかにありません。あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約と愛とを守られる方です。6:15 あなたは、約束されたことを、あなたのしもべ、私の父ダビデのために守られました。それゆえ、あなたは御口をもって語られました。また御手をもって、これを今日のように、成し遂げられました。

 先に話しましたように、イスラエルの神は愛と契約を守られる方です。言葉をとおして約束を必ず守られるような神がイスラエルの神であり、その他の神々と呼ばれているものには、そのような愛も契約もありません。神が天地万物を造られた方だけではなく、私たちの神は愛と契約を持っておられることにおいて独特なのです。私たちの周りで神と呼ばれているものを見てください、次に何をしでかすかわからない、絶えず気持ちや心を変える神々です。愛は持っていません、礼拝者の最善を尽くすようなことはしません。

 インド洋の津波で、インドの東海岸の地域が大打撃を被りましたが、その中の一場面で、これまで神だと思って大切にしていた偶像の数々を、「何も助けてくれなかったではないか、こんなもの要らない!」と言って叩き壊した人がいたそうです。神々と呼ばれているものは何もしてくれませんが、私たちが信じている主イエス・キリストの神は、必ず約束を守られ、愛してやまない方です。

6:16 今、イスラエルの神、主よ。あなたのしもべ、私の父ダビデに約束して、『あなたがわたしの前に歩んだように、あなたの子孫がその道を守り、わたしの律法に歩みさえするなら、あなたには、イスラエルの王座に着く者が、わたしの前から、絶えることはない。』と仰せられたことを、ダビデのために守ってください。6:17 今、イスラエルの神、主よ。あなたのしもべダビデに約束されたみことばが堅く立てられますように。

 約束のどおりにしてください、と祈っています。私たちの最善の祈りは、神のみこころがなるように、という祈りです。神のおことばどおりになる、という祈りです。なぜなら神がお考えになっていることが最善だからです。

6:18 それにしても、神ははたして人間とともに地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。

 ソロモンが建てた宮に、主が住まわれると彼は言いましたが、それは物理的にその中に住むということでは、もちろんありません。イスラエルの神ではない神々は、宮の中に住むような限定された偶像でありますが、イスラエルの神は天地創造の神であり、宇宙でさえも神を入れることはできません。

6:19 けれども、あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。私の神、主よ。あなたのしもべが御前にささげる叫びと祈りを聞いてください。

 何をもって宮の中に住まわれるかと言いますと、祈りと願いを聞いてくださることにおいて住んでくださる、ということです。神は物理的にどこにでもおられます。不信者のそばにもおられます。けれども、主がその人におられる、というとき、それは主がその人を特別に愛し、その人も主を愛し、主を個人的に知っているときに使われます。

6:20 そして、この宮、すなわち、あなたが御名をそこに置くと仰せられたこの所に、昼も夜も御目を開いていてくださって、あなたのしもべがこの所に向かってささげる祈りを聞いてください。

 この神殿が、主との交わりを深めることができる、その分岐点にしてください、とソロモンは祈っています。現在、御霊によってキリストが内に住まわれるようになってからは、私たちは特定の場所に行かなければ祈りを聞かれない、ということはありません。私たち自身が神の神殿になった、とパウロは言っています。ですから、主がソロモンに神殿のご自分の名を置くと約束されたように、私たちも心を合わせて一つになって祈るならば、そこに主がおられて主が聞いてくださいます。

6:21 あなたのしもべとあなたの民イスラエルが、この所に向かってささげる願いを聞いてください。あなたご自身が、あなたのお住まいになる所、天からこれを聞いてください。聞いて、お赦しください。

 ソロモンが一番聞いてほしい祈りと願いは、罪の赦しでした。彼は自分のこと、またイスラエルのことを知っていたのでしょう。あるいは信仰と預言の霊によって、罪の赦しがこれから一番必要になると示されたのかもしれません。これからソロモンは、罪の赦しが必要な具体例を一つ一つ祈っていきます。

6:22 もし、ある人が隣人に罪を犯し、のろいの誓いを立てさせられることになって、この宮の中にあるあなたの祭壇の前に来て、誓うなら、6:23 あなたご自身が天からこれを聞き、あなたのしもべたちにさばきを行なって、悪者にはその生き方への報いをその頭上に返し、正しい者にはその正しさにしたがって義を報いてください。

 二者の間の紛争についての祈りです。だれかが、「お前、このことを俺にやっただろう?」と聞かれて、「いや、俺はやっていない。」と答えたとします。そこで、彼は祭壇のところに来て、「私は彼が言っているようなことを、決して行ないませんでした。もし行なっているのならば、どうかのろいを私にもたらしてください。」と祈ります。実際に、その祈りのとおりにしてください、というのがここでのソロモンの祈りです。

6:24 また、もし、あなたの民イスラエルが、あなたに罪を犯したため、敵に打ち負かされるようなとき、立ち返って御名をほめたたえ、この宮で、御前に祈り願うなら、6:25 あなたご自身が天からこれを聞き、あなたの民イスラエルの罪を赦し、あなたが彼らとその先祖たちにお与えになった地に、彼らを帰らせてください。

 罪を犯せば、それにともなう結果があります。罪を犯したために、いろいろな災いがあります。どうかそれを赦して、救いと回復のみわざを行なってください、という祈りですが、具体的に敵に打ち負かされるという結果が出てきたときのことを想定しています。イスラエルがへりくだって、主の御名をほめたたえ、宮で祈り求めるなら、どうか罪を赦してください。約束の土地に無事に帰らせてください、と祈っています。

6:26 彼らがあなたに罪を犯したため、天が閉ざされ、雨が降らない場合、彼らがこの所に向かって祈り、御名をほめたたえ、あなたの懲らしめによって、彼らがその罪から立ち返るなら、6:27 あなたご自身が天でこれを聞き、あなたのしもべたち、あなたの民イスラエルの罪を赦し、彼らの歩むべき良い道を彼らに教え、あなたの民に相続地としてお与えになったあなたの地に、雨を降らせてください。

 罪を犯したために、雨が降らない、ききんになったという場合です。先ほどと同じように、罪から立ち返って、祈り、御名をほめたたえるなら、雨を降らせてくださいと祈っています。

 興味深いのは、宮の中にまで来なくても、宮に向かって祈ったときにその祈りを聞いてください、と祈っています。助けが必要なすぐその場所で祈ることができます。

6:28 もし、この地に、ききんが起こり、疫病や立ち枯れや、黒穂病、いなごや油虫が発生した場合、また、敵がこの地の町々を攻め囲んだ場合、どんなわざわい、どんな病気の場合にも、6:29 だれでも、あなたの民イスラエルがおのおの自分の疫病と痛みを思い知らされて、この宮に向かって両手を差し伸べて祈るとき、どのような祈り、願いも、6:30 あなたご自身が、あなたの御住まいの所である天から聞いて、赦し、ひとりひとりに、そのすべての生き方にしたがって報いてください。あなたはその心を知っておられます。あなただけが人の子らの心を知っておられるからです。

 ソロモンは大事なことを知っていました。本人以外に主のみが、人の心の中のこと、その中で考えていること、その動機を知っておられます。だから、主が一人一人にその心の状態に応じて報いてください、と祈っています。

6:31 それは、あなたが私たちの先祖に賜わった地の上で彼らが生きながらえる間、いつも彼らがあなたを恐れて、あなたの道に歩むためです。

 祈りに応じて主が事を行なってくださったら、みなが主を恐れるようになる、ということです。

2C 遠くからの祈り 32−39
 ソロモンはさらに祈りの幅を広げています。

6:32 また、あなたの民イスラエルの者でない外国人についても、彼があなたの大いなる御名と、力強い御手と、伸べられた腕のゆえに、遠方の地から来て、この宮に来て祈るとき、6:33 あなたご自身が、あなたの御住まいの所である天からこれを聞き、その外国人があなたに向かって願うことをすべてかなえてください。そうすれば、この地のすべての民が御名を知り、あなたの民イスラエルと同じように、あなたを恐れるようになり、私の建てたこの宮では、御名が呼び求められなくてはならないことを知るようになるでしょう。

 ソロモンは、イスラエル人だけでなく全世界の諸国の民が、この方のみが主であり神であることを知るように、と祈っています。彼の思いには宣教があったのです。イスラエルが神によって選ばれたのは、イスラエルだけの益ではなく、すべての民族が祝福を受けるためでした。現代のユダヤ教は、宣教の思いは一切ありません。内輪だけのものになっています。イエスさまが地上におられた当時も、パリサイ人などは自分たちが神の前に義とされていることだけに思いが集中していました。けれども私たちの神は宣教の神です。自分だけでなく、ご自分の恵みを私たちを通して押し流したいと願っておられます。

6:34 あなたの民が、敵に立ち向かい、あなたが遣わされる道に出て戦いに臨むとき、あなたの選ばれたこの町、私が御名のために建てた宮の方向に向かって、あなたに祈るなら、6:35 天から彼らの祈りと願いを聞いて、彼らの言い分を聞き入れてやってください。

 戦場においても、宮に向かっているとき、その祈りを聞いてください、と祈っています。遠くにいても聞いてください、という祈りです。そして次にソロモンは、さらに一歩踏み込んだ祈りをささげています。

6:36 彼らがあなたに対して罪を犯したため・・罪を犯さない人間はひとりもいないのですから・・あなたが彼らに対して怒り、彼らを敵に渡し、彼らが、遠くの地、あるいは近くの地に、捕虜として捕われていった場合、6:37 彼らが捕われていった地で、みずから反省して悔い改め、その捕囚の地で、あなたに願い、『私たちは罪を犯しました。悪を行なって、咎ある者となりました。』と言って、6:38 捕われていった捕囚の地で、心を尽くし、精神を尽くして、あなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖に与えられた彼らの地、あなたが選ばれたこの町、私が御名のために建てたこの宮のほうに向いて祈るなら、6:39 あなたの御住まいの所である天から、彼らの祈りと願いを聞き、彼らの言い分を聞き入れ、あなたに対して罪を犯したあなたの民をお赦しください。

 ソロモンは人間が罪を犯すものであることを知っていました。またモーセを通して神がかつて、イスラエルに警告しておられたことを思っていたのでしょうか、イスラエルが約束の地から引き抜かれて、捕われの民となることを考えて祈りました。この最悪なことが、実際に起こりましたね。けれども同時に、この祈りをささげた人がいることも、聖書には記述されています。ダニエルです。

 ダニエル書6章を開いてください。バビロン国が倒れて、メディヤの王ダリヨスが治めているときです。王以外に祈願するものはだれでも、獅子の穴に投げ込まれるという禁令が制定された後、それを知りながらダニエルは、10節です、「ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。・・彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。・・彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。」とあります。彼はソロモンが祈ったこの祈りを意識して、エルサレムに向かった祈りを日課としていたのです。

 そして9章を開いてください。そこにはダニエルの祈りが細かく記録されています。2節から読みます。「すなわち、その治世の第一年に、私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。そこで私は、顔を神である主に向けて祈り、断食をし、荒布を着、灰をかぶって、願い求めた。私は、私の神、主に祈り、告白して言った。「ああ、私の主、大いなる恐るべき神。あなたを愛し、あなたの命令を守る者には、契約を守り、恵みを下さる方。私たちは罪を犯し、不義をなし、悪を行ない、あなたにそむき、あなたの命令と定めとを離れました。・・・」ずっと祈りが続いて、それから20節に飛んでください。「私がまだ語り、祈り、自分の罪と自分の民イスラエルの罪を告白し、私の神の聖なる山のために、私の神、主の前に伏して願いをささげていたとき、すなわち、私がまだ祈って語っているとき、私が初めに幻の中で見たあの人、ガブリエルが、夕方のささげ物をささげるころ、すばやく飛んで来て、私に近づき、私に告げて言った。『ダニエルよ。私は今、あなたに悟りを授けるために出て来た。あなたが願いの祈りを始めたとき、一つのみことばが述べられたので、私はそれを伝えに来た。あなたは、神に愛されている人だからだ。そのみことばを聞き分け、幻を悟れ。あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。・・・(20-24節)

 ダニエルがイスラエルの罪を告白して、エルサレムに目を向けてくださるよう祈っているときに、このようにユダヤ人のエルサレム帰還と神殿再建の約束が与えられました。そして実際、歴代誌第二の最後とエズラ記1章を読みますと、ペルシヤ王クロスを通してユダヤ人帰還の発令が出されました。ソロモンが祈ったとおりにダニエルが祈り、そしてその祈りが実際に聞かれたのです。

3C 執り成し 40−42
 そしてソロモンは、最後の願いを、また執り成しをささげています。

6:40 今、私の神よ。お願いします。どうか、この所でささげる祈りに目を開き、耳を傾けてください。6:41 そこで今、神、主よ。あなたもあなたの御力の箱も立ち上がって、休み所におはいりください。神、主よ。あなたの祭司たちの身に救いをまとわせてください。あなたの聖徒たちにいつくしみを喜ばせてください。6:42 神、主よ。あなたに油そそがれた者たちの顔を退けないでください。あなたのしもべダビデの忠実なわざの数々を思い起こしてください。

 契約の箱のため、祭司のため、聖徒たちのため、そして油注がれたイスラエルの王のために祈っています。

3A 神の答え 7
1B 火 1−10
7:1 ソロモンが祈り終えると、火が天から下って来て、全焼のいけにえと、数々のいけにえとを焼き尽くした。そして、主の栄光がこの宮に満ちた。

 ソロモンの祈りを神が聞かれたことを、火をもって示してくださいました。

7:2 祭司たちは主の宮にはいることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。

 再び栄光が宮に満ちました。雲によってかもしれませんし光によってかもしれませんが、栄光が満ちました。

7:3 イスラエル人はみな、火が下り、主の栄光がこの宮の上に現われたのを見て、ひざをかがめて顔を地面の敷石につけ、伏し拝んで、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」と主をほめたたえた。

 先に歌うたいたちが歌った歌詞をイスラエル全員も声に出しました。主はいつくしみ深い、その恵みはとこしえまで、と。

7:4 それから、王と民はみな、主の前にいけにえをささげた。7:5 ソロモン王は牛二万二千頭と羊十二万頭のいけにえをささげた。こうして、王とすべての民は、神の宮を奉献した。7:6 祭司たちは、その務めに従って立ち、レビ人も、主の楽を奏する楽器を手にして立っていた。これは、ダビデ王が作ったものであり、ダビデが彼らの奏楽によって賛美したとき、「主の恵みはとこしえまで。」と主をほめたたえるための楽器であった。また、祭司たちは、彼らの前でラッパを吹き鳴らしており、全イスラエルは起立していた。7:7 ソロモンは、主の神殿の前の庭の中央部を聖別し、そこで、全焼のいけにえと、和解のいけにえの脂肪とをささげた。ソロモンが作った青銅の祭壇では、全焼のいけにえと、穀物のささげ物と、脂肪とを受け入れることができなかったからである。

 大量のいけにえをささげています、そのため庭のところにある祭壇では全然間に合わないので、外庭にいくつかの部分を聖別してそこでもささげました。

7:8 ソロモンは、このとき、彼とともにいた全イスラエル、すなわち、レボ・ハマテからエジプト川に至るまでの大集団といっしょに、七日間の祭りを行なった。

 全イスラエルがレボ・ハマテからエジプト川のところまでとありますが、レボ・ハマテはユーフラテス川の近い町です。かつて主がアブラハムに、「ユーフラテス川からエジプトの川まで」と所有の土地をお示しになりましたが、それに近いぐらいの土地が今、与えられています。

7:9 彼らは第八日目にきよめの集会を開いた。七日間、祭壇の奉献を行ない、七日間、祭りを行なったからである。

 先に話したように、神殿奉献式は仮庵の祭りも兼ねて行なわれました。七日間祭りを行ない、八日目にきよめの集会を行ないました。

7:10 第七の月の二十三日に、彼は民をおのおのの天幕に帰した。彼らは主がダビデと、ソロモンと、その民イスラエルに下さった恵みを喜び、心楽しく帰って行った。

 神の前に祈り、喜び、賛美して、そして大量のバーベキューを食べて、本当にイスラエル人の心は祝福されました。そこでこのような大きな集会があったその直後に、主が個人的にソロモンの心に語りかけておられます。

2B 声 11−22
7:11 こうしてソロモンは、主の宮と、王宮とを建て終え、主の宮と自分の宮殿に対して実施しようとソロモンが思っていたすべてのことをみごとに実現した。7:12a すると、主が夜ソロモンに現われ、彼に仰せられた。

 祝福された集会は本当にすばらしいですが、その後の静けさは身に沁みます。けれども、大きな祝いではなく、このように静まったときに、主が個人的に語られることがあります。確かに、神殿を奉献し、祈りをささげたが、確かにわたしは祈りを聞いたと主はソロモンに確認してくださいます。

7:12b「わたしはあなたの祈りを聞いた。また、わたしのために、この所をいけにえをささげる宮として選んだ。7:13 もし、わたしが天を閉ざしたため雨が降らなくなった場合、また、いなごに命じてこの地を食い尽くさせた場合、また、もし、わたしの民に対して疫病を送った場合、7:14 わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。

 ソロモンの祈りのところで、ずっと、御名を呼び求め、罪から立ち返るならば、このようにしてください、と祈っていたことにお気づきだったでしょうか?その祈りを聞いてくださり、主はイスラエルの民に信仰復興、リバイバルにともなう回復の約束を与えてくださっています。これは私たちキリスト者に対するモデルでもあります。神の民がへりくだり、祈り、主の御顔をしたい求め、悪事から立ち返るなら、私たちも罪の赦しとこの地のいやしを経験できるのです。

7:15 今や、わたしはこの所でささげられる祈りに目を留め、耳を傾けよう。7:16 今、わたしは、とこしえまでもそこにわたしの名を置くためにこの宮を選んで聖別した。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。7:17 あなたが、あなたの父ダビデが歩んだように、わたしの前に歩み、わたしがあなたに命じたことをすべてそのまま実行し、わたしのおきてと定めとを守るなら、7:18 わたしが、あなたの父ダビデに、『あなたには、イスラエルを支配する者となる人が絶えることはない。』と言って契約を結んだとおり、あなたの王座を確立しよう。

 ソロモンが祈ったとおりにすると言われて、それから警告を与えられます。

7:19 しかし、もし、あなたがたがそむいて、あなたがたに授けたわたしのおきてとわたしの命令とを捨て去り、行ってほかの神々に仕え、これを拝むなら、7:20 わたしが彼らに与えた地から、彼らを根こぎにし、わたしがわたしの名のために聖別したこの宮をわたしの前から投げ捨て、これをすべての国々の民の間で、物笑いとし、なぶりものとする。7:21 かつては並びもなく高かったこの宮も、そのときには、そのそばを通り過ぎる者がみな、驚いて、『どういうわけで、主はこの地とこの宮とに、このような仕打ちをされたのだろう。』と言うであろう。7:22 すると人々は、『あの人たちは、エジプトの地から連れ出した彼らの父祖の神、主を捨てて、ほかの神々にたより、これを拝み、これに仕えた。そのために、主はこのすべてのわざわいをこの人たちに下されたのだ。』と言うようになる。」

 残念ですが、その後の歴史は主が警告されたとおりになりました。ソロモンとその後の王たちが主に従っても、その王国の繁栄によって主の真実が現われますが、主に背いても、その後の姿を人々が神の真実を見ることになります。神殿が破壊され、捕囚の民となったのを見て周りの人々は、神はいないのだ、と結論づけるのではなく、主が生きておられて、わざわいを下されたのだ、と神を認めるようになります。

 神は契約の神です。約束を必ず守られる方です。そしてご自分の言葉を実現させることで、ご自分の栄光を現わされます。私たちも、キリストにあって神に選ばれた民です。神のことばが私たちに実現し、それを通して神の栄光が現われます。


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