列王記第二1−2章 「義の使者」


アウトライン

1A 火によるさばき 1
   1B 毛衣と革帯 1−8
   2B 告げた言葉の成就 9−18
2A 生きたままの昇天 2
   1B エリヤの霊 1−18
      1C 離れないエリシャ 1−11
      2C 二倍の分け前 12−18
   2B エリシャの奇蹟 19−25

本文

 列王記第二1章を開いてください。1章と2章を学びます。ここでのテーマは、「義の使者」です。エリヤの預言活動の、最後の部分を観ていきます。

1A 火によるさばき 1
1B 毛衣と革帯 1−8
1:1 アハブの死後、モアブがイスラエルにそむいた。

 前回、列王記第一の最後の部分を学びましたが、そこでアハブが死にました。彼の死後、モアブがイスラエルに背いています。次回学ぶ3章に、その詳しいことが書かれています。

1:2 さて、アハズヤはサマリヤにある彼の屋上の部屋の欄干から落ちて病気になった。彼は使者たちを遣わし、「行って、エクロンの神、バアル・ゼブブに、私のこの病気が直るかどうか、伺いを立てなさい。」と命じた。

 アハズヤは、アハブの息子です。列王記第一の最後の部分に、彼の生涯についてこう書いてあります。「彼は主の目の前に悪を行ない、彼の父の道と彼の母の道、それに、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの道に歩んだ。すなわち、彼はバアルに仕え、それを拝み、彼の父が行なったと全く同じように行なって、イスラエルの神、主の怒りを引き起こした。(22:52-53」ヤロブアムの道に歩んだだけでなく、彼の父アハブの道にも歩みました。そこで、ここ1章2節に出てくるような、背教的発言が出てきます。自分が病気になったとき、イスラエルの神であるヤハウェにいやしを求めるのではなく、エクロンすなわちペリシテ人たちが拝む、バアル・ゼブブに伺いを立てようとしています。ちなみに、バアル・ゼブブは蝿の神々という意味です。

1:3 そのころ、主の使いがティシュベ人エリヤに告げた。「さあ、上って行って、サマリヤの王の使者たちに会い、彼らに言え。『あなたがたがエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに行くのは、イスラエルに神がいないためか。1:4 それゆえ、主はこう仰せられる。あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」それで、エリヤは出て行った。

 以前、アハブがナボテの畑を奪い取りに行こうとしたとき、エリヤに主のことばがあったように、アハズヤの悪に対しても、主がエリヤに言葉を残しておられます。「主の使い」は、旧約聖書の中で、主ご自身、神ご自身と同一にされており、受肉前のイエス・キリストだと考えられます。

1:5 使者たちがアハズヤのもとに戻って来ると、彼は、「なぜあなたがたは帰って来たのか。」と彼らに尋ねた。1:6 彼らは答えた。「ひとりの人が私たちに会いに上って来て、こう言いました。『あなたがたを遣わした王のところに帰って行き、彼に告げなさい。主はこう仰せられる。あなたが人をやって、エクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てるのは、イスラエルに神がいないためか。それゆえ、あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」1:7 アハズヤは彼らに尋ねた。「あなたがたに会いに上って来て、そんなことをあなたがたに告げた者は、どんな様子をしていたか。」1:8 彼らが、「毛衣を着て、腰に皮帯を締めた人でした。」と答えると、アハズヤは、「それはティシュベ人エリヤだ。」と言った。

 アハズヤは、すぐに彼がエリヤだと分かりました。毛衣を着て、腰に皮帯をしていることも知っており、彼が気にしていた、いや憎んでいた存在です。この「毛衣」は、たぶん荒布と同じような素材であったと考えられます。イスラエル人が荒布を身につけるときは、罪を犯したときにそのことを悲しむ時です。つまり、その服装自体、人々に悔い改めを求める格好をしていました。エリヤの活動は、とことんまで堕落し、神に背を向けている王や民に、神の義を明らかにして、悔い改めを呼びかけるそれでありました。

 似たような活動をした人を、新約時代に見ることができます。バプテスマのヨハネです。実際、彼はエリヤの霊と力でキリストの前ぶれをすると、御使いガブリエルがザカリヤに告げました。彼は、エリヤと同じように、らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締めていました。そして、イスラエル人に対して、「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。(ルカ3:7」と叫んで、イスラエル人たちの罪を真正面から指摘し、悔い改めを呼びかけました。このバプテスマのヨハネは、ヘロデの悪事を指摘したとき、その妻ヘロデヤがヨハネを斬首するように仕向け、殺されましたが、同じように、エリヤはアハズヤの悪事を指摘することによって、アハズヤによって殺されそうになります。

2B 告げた言葉の成就 9−18
1:9 そこで、アハズヤは五十人隊の長を、その部下五十人とともにエリヤのところに遣わした。彼がエリヤのところに上って行くと、そのとき、エリヤは山の頂にすわっていた。彼はエリヤに、「神の人よ。王のお告げです。降りて来てください。」と言った。

 「神の人よ」と呼びかけていますが、これは預言者の呼称となっていたのでしょう。今で言うなら、「牧師さんよ」ということでしょうか。五十隊の長が信仰心による尊敬から発した言葉ではないでしょう。

1:10 エリヤはその五十人隊の長に答えて言った。「もし、私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたと、あなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。」すると、天から火が下って来て、彼と、その部下五十人を焼き尽くした。

 興味深いのは、五十隊の長が、「王のお告げだ、降りて来い」と言ったことに対して、天からの火が同じように下ってきたことです。英語ですと、どちらもcome downです。王の全権を携えている使者が、神の全権を携えている預言者によって、さばかれています。

1:11 王はまた、もうひとりの五十人隊の長を、その部下五十人とともにエリヤのところに遣わした。彼はエリヤに答えて言った。「神の人よ。王がこう申しております。急いで降りて来てください。」1:12 エリヤは彼らに答えて言った。「もし、私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたと、あなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。」すると、天から神の火が下って来て、彼と、その部下五十人を焼き尽くした。

 アハズヤは、五十人隊が滅んだことで悔い改めに導かれず、かえってさらなる五十隊を遣わしています。五十隊の長が、「急いで降りて来なさい」と「急いで」を付け加えています。もっと、強く出ていることが分かります。けれども、同じように火によって滅ぼされました。

1:13 王はまた、第三の五十人隊の長と、その部下五十人を遣わした。この三人目の五十人隊の長は上って行き、エリヤの前にひざまずき、懇願して言った。「神の人よ。どうか私のいのちと、このあなたのしもべ五十人のいのちとをお助けください。1:14 ご承知のように、天から火が下って来て、先のふたりの五十人隊の長と、彼らの部下五十人ずつとを、焼き尽くしてしまいました。今、私のいのちはお助けください。」

 面白いですね、アハズヤは懲りずに五十人隊をさらに派遣しましたが、五十人隊長のほうが命乞いをして、事の重大性を知っています。「私は家族持ちです!言われていることを行なっているだけです。命だけは助けてくだせえ!」と言うことですね。

1:15 主の使いがエリヤに、「彼といっしょに降りて行け。彼を恐れてはならない。」と言ったので、エリヤは立って、彼といっしょに王のところに下って行き、1:16 王に言った。「主はこう仰せられる。『あなたが使者たちをエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てにやったのは、イスラエルにみことばを伺う神がいないためか。それゆえ、あなたは、上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」

 ヤハウェに祈ればいやされたかもしれないが、生きてもいない神に願っても死ぬだけだ、ということです。私たちは、病気になったときに、偶像の神に頼もうとはしないと思いますが、それでも主にいやしを求めるよりは、すぐに医者にいやしを求めてしまいますね。主は医者を用いてくださいますが、初めに主に求めるべきです。

1:17 王はエリヤが告げた主のことばのとおりに死んだ。そしてヨラムが代わって王となった。それはユダの王ヨシャパテの子ヨラムの第二年であった。アハズヤには男の子がなかったからである。1:18 アハズヤの行なったその他の業績、それはイスラエルの王たちの年代記の書にしるされているではないか。

 アハズヤに対する神のさばきは、男の子がいないことにも現われています。アハブの別の息子であるヨラムが王になりました。南北の王が同名なので、混同しないように注意してください。

 ところで、このときまだユダではヨシャパテが王でした。けれどもここで、ヨシャパテの子ヨラムの第二年とあります。これは、ヨシャパテとその子ヨラムの共同摂政だと考えられます。

2A 生きたままの昇天 2
 そして次に、エリヤが生きたまま天に上がっていく場面を読んでいきます。

1B エリヤの霊 1−18
1C 離れないエリシャ 1−11
2:1 主がエリヤをたつまきに乗せて天に上げられるとき、エリヤはエリシャを連れてギルガルから出て行った。2:2 エリヤはエリシャに、「ここにとどまっていなさい。主が私をベテルに遣わされたから。」と言ったが、エリシャは言った。「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、彼らはベテルに下って行った。

 ヨルダン川の西のすぐ横に、ギルガルという町がありますが、ここのギルガルは別の町のようです。ベテルよりもさらに北にギルガルがありますが、そこからエリヤとエリシャは出発しています。

2:3 すると、ベテルの預言者のともがらがエリシャのところに出て来て、彼に言った。「きょう、主があなたの主人をあなたから取り上げられることを知っていますか。」エリシャは、「私も知っているが、黙っていてください。」と答えた。

 エリヤは、預言者のともがら、すなわち、預言者学校のようなものを、各地に持っていました。預言活動をするための学徒たちですから、エリヤが主によって取り去られることも、預言の霊によって知らされていました。そのことをエリシャに告げましたが、エリシャも知っていました。けれども、彼は「黙っていてください」と言って、ひと時もエリヤから離れないと決めていたようです。

2:4 それからエリヤは彼に、「エリシャ。ここにとどまっていなさい。主が私をエリコに遣わされたから。」と言った。しかし、彼は言った。「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、彼らはエリコに来た。2:5 エリコの預言者のともがらがエリシャに近づいて来て、彼に言った。「きょう、主があなたの主人をあなたから取り上げられることを知っていますか。」エリシャは、「私も知っているが、黙っていてください。」と答えた。

 エリコの町に行くときも、ギルガルの町と同じようなことが起こりました。エリヤがとどまっていなさい、と言ったのに、「いやです、私は付いて行きます。」とエリシャが答え、預言者のともがらは、「主人は取り上げられる」と告げたら、彼は「わかっている、黙っていてください」と答えています。

2:6 エリヤは彼に、「ここにとどまっていなさい。主が私をヨルダンへ遣わされたから。」と言った。しかし、彼は言った。「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、ふたりは進んで行った。2:7 預言者のともがらのうち五十人が行って、遠く離れて立っていた。ふたりがヨルダン川のほとりに立ったとき、2:8 エリヤは自分の外套を取り、それを丸めて水を打った。すると、水は両側に分かれた。それでふたりはかわいた土の上を渡った。

 ものすごい神の力です。かつてヨシュアによって、ヨルダン川の水が堰き止められたように、エリヤは自分の外套で、ヨルダン川を分けています。

2:9 渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」すると、エリシャは、「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように。」と言った。2:10 エリヤは言った。「あなたはむずかしい注文をする。しかし、もし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことがあなたにかなえられよう。できないなら、そうはならない。」

 エリシャが、ここまで食らいついてエリヤを離れなかったその動機が、ここで明らかにされています。エリヤの霊の二倍の分け前が欲しかったのです。つまり、神の御霊がエリヤを通して働かれていたように、いやそれ以上に自分にも働いてくださるように、という願いです。彼は霊的な事柄について貪欲でした。私たちは、ここまで御霊の事柄に飢え渇きを抱いているでしょうか?イエスさまは、「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。(マタイ5:6」と言われました。なるべく世の事柄に関わって、それでクリスチャンの境界線を逸脱しないようにする、というクリスチャン風世渡りを、私たちは行なってしまいます。けれども、エリシャのように、義に飢え渇き、主に用いられることを貪欲に求める姿勢は大事です。

2:11 こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現われ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。

 火が戦車と馬の形を取っているのは、神の戦い、霊の戦いを意味しています。エリヤは、飢饉をイスラエルに送ったり、バアルの預言者と対峙したように、霊の戦いの戦士でした。その姿で天に引き上げられています。

 ところで、エリヤの預言の活動は、モーセの律法授与の活動と切っても切り離せない関係になっています。神の契約と律法がモーセを通して与えられましたが、それから遠く離れているイスラエルに、神への回帰を呼びかけているのが、預言の働きだからです。ですから、シナイ山に火が現われ、そこから十戒を主が与えられたように、エリヤの働きでも火がたくさん出てきました。また、エリヤがイゼベルの手から逃げたとき、彼はモーセに主が現われ、律法を与えられたホレブ山まで行きました。そしてエリヤはモーセと同じように、水を分ける奇蹟を今、行ないました。

 この二人が、姿かたちが変貌したイエスのところにいたことは、不思議ではありません。モーセによって与えられた律法を、キリストが成就しに来られました。そして、預言者たちはキリストのことを、詳細に至るまで預言しました。律法の代表者であるモーセと、預言者の代表者であるエリヤの間にキリストがおられることによって、聖書の中心がキリストご自身であることがよく分かります。

 そしてエリヤは、旧約聖書の最後マラキ書の、最後のところに預言されています。「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。(マラキ4:5」主が、火によって、不法を行なう者どもを滅びし尽くすさばきを行なわれる前に、エリヤが再び現われ、人々に悔い改めを促す働きを行ないます。バプテスマのヨハネは、エリヤに働いた同じ神の御霊によって、同じような働きを行ないましたが、エリヤ本人ではありませんでした。主は、「エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです。(マタイ17:11」と言われています。

 そして私は、黙示録11章に出てくる二人の証人が、エリヤとモーセではないかと思っています。開いて読んでみましょう。「『・・・それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。』彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており、また、水を血に変え、そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。(3-6節)」アハズヤに遣わされた五十人隊を火で焼き尽くしたように、この二人も、害を加えようとする者たちを焼き尽くします。また、エリヤが祈って、雨が降らなくなったように、この二人は天を閉じる力を持っています。また、モーセはナイル川を血に変えましたが、この二人も水を血に変えることができます。

 彼らは、反キリストによって殺されますが、三日半の後、息を吹き返します。そして天に引き上げられますが、このことによって多くの者が恐怖に満たされ、天の神をあがめた、とあります。神の義を伝える使者たちです。私たちも、神の義であるイエス・キリストの福音を携えている者たちです。いろいろなことが起こっても、害を及ぼそうとする者がいても、主からの使命を全うするときまで、主ご自身が私たちを守ってくださいます。そして、人々が天の神をあがめるように、私たちの働きの中から、神をあがめる人々が出てきます。

2C 二倍の分け前 12−18
2:12 エリシャはこれを見て、「わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち。」と叫んでいたが、彼はもう見えなかった。そこで、彼は自分の着物をつかみ、それを二つに引き裂いた。

 彼は、自分が尊敬していた、親愛の師匠がいなくなったので、非常に悲しんでいます。けれども、エリシャが求めた二倍の分け前は、彼のこれからの生涯の中にはっきりと現われてきます。

2:13 それから、彼はエリヤの身から落ちた外套を拾い上げ、引き返してヨルダン川の岸辺に立った。2:14 彼はエリヤの身から落ちた外套を取って水を打ち、「エリヤの神、主は、どこにおられるのですか。」と言い、彼が再び水を打つと、水が両側に分かれたので、エリシャは渡った。

 ここから、エリヤからエリシャに預言の活動が引継がれています。

2:15 エリコの預言者のともがらは、遠くから彼を見て、「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている。」と言い、彼を迎えに行って、地に伏して彼に礼をした。

 預言者たちも、エリシャがエリヤの後継者にされていることを認めました。

2:16 彼らはエリシャに言った。「しもべたちのところに五十人の力ある者がいます。どうか彼らをあなたのご主人を捜しに行かせてください。主の霊が彼を運んで、どこかの山か谷に彼を投げられたのかもしれません。」するとエリシャは、「人をやってはいけません。」と言った。2:17 しかし、彼らがしつこく彼に願ったので、ついにエリシャは、「やりなさい。」と言った。それで、彼らは五十人を遣わした。彼らは、三日間、捜したが、彼を見つけることはできなかった。2:18 彼らはエリシャがエリコにとどまっているところへ帰って来た。エリシャは彼らに言った。「行かないようにと、あなたがたに言ったではありませんか。」

 預言者たちは、エリヤが取り去られることは知っていましたが、天に上ったことは知りませんでした。それで、御霊が彼をどこかに連れていってしまわれた、と思いました。けれども、見つかりません。これで、完全にエリシャに、預言の使命が託されていることを彼らは知りました。

2B エリシャの奇蹟 19−25
 エリシャを通しての奇蹟が続きます。

2:19 この町の人々がエリシャに言った。「あなたさまもご覧のとおり、この町は住むのには良いのですが、水が悪く、この土地は流産が多いのです。」

 エリコの町のことです。塩分が水に含まれていたのでしょか、作物が育ちません。

2:20 すると、エリシャは言った。「新しい皿に塩を盛って、私のところに持って来なさい。」人々は彼のところにそれを持って来た。2:21 エリシャは水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで言った。「主はこう仰せられる。『わたしはこの水をいやした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』」2:22 こうして、水は良くなり、今日に至っている。エリシャが言ったことばのとおりである。

 塩を盛るのは、もちろん塩に効用があるからではありません。このようなデモンストレーションを通して、主が奇蹟を行なわれることを人々に示したのです。イエスさまが人をいやされるとき、つばきを地面にかけて、それで粘土をつくって、それを盲人の目に付けられたりしました。その方法を採用しなくても良かったのですが、何らかの方法を取られたのです。

2:23 エリシャはそこからベテルへ上って行った。彼が道を上って行くと、この町から小さい子どもたちが出て来て、彼をからかって、「上って来い、はげ頭。上って来い、はげ頭。」と言ったので、2:24 彼は振り向いて、彼らをにらみ、主の名によって彼らをのろった。すると、森の中から二頭の雌熊が出て来て、彼らのうち、四十二人の子どもをかき裂いた。

 ここは、理解するのが難しい箇所ですが、二・三点指摘したいと思います。まず、「小さな子ども」と訳されているのは、他の箇所で「若者」になっています。つまり、小学校低学年の男児ではなく、十代の子たちであります。そして、「かき裂いた」とありますが、必ずしも食い殺したのではありません。

 けれども、それでも彼らに対する神のさばきであることには、変わりません。先に、アハズヤがエリヤに害を与えようとしたように、この子どもたちも害を加えようとしています。それに対する、神のさばきがここに現われています。エリシャの個人的憎しみによるものではありません。

2:25 こうして彼は、そこからカルメル山に行き、そこからさらに、サマリヤへ帰った。

 エリシャは、エリヤが来た道を辿りました。そして天から火が下ったあのカルメル山にもやって来ました。 こうしてエリシャの働きに入っていきます。「二倍の分け前」を求めたように、これから、二倍の奇蹟を見ることができます。


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