列王記第二5章 「異教徒の救い」


アウトライン

1A 小さなところに働く主 1−14
   1B イスラエルの娘 1−7
   2B ヨルダン川の浸水 8−14

2A この世との問題 15−27
   1B 仕事上の義務 15−19
   
2B 金銭的報酬 20−27

本文

 列王記第二5章を開いてください。今日は5章だけを学んで行きたいと思います。ここでのメッセージ題は、「異教徒の救い」です。主が、エリシャによって、シリヤの将軍ナアマンをいやす出来事を読んでいきます。

1A 小さなところに働く主 1−14
1B イスラエルの娘 1−7
5:1 アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士ではあったが、らい病にかかっていた。

 5章は、アラムあるいはシリヤ王の将軍であり、勇士であるナアマンの話になっています。彼のらい病がいやされる話ですが、私たちはここから多くのことを学ぶことができます。一つ、彼は異邦人の将軍である、ということです。主イエスがこう言われました。「また、預言者エリシャのときに、イスラエルには、らい病人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。(ルカ4:27」主は、新約時代からではなく旧約時代から、すでにご自分のわざを示しておられましたが、それは信仰とみことばへの従順によるものでした。イスラエルには、これまで私たちが列王記を読んできたとおり、王もまた多くの民も不信仰になっており、自分たちの神を受け入れていなかった状況がありましたが、異邦人であっても、ヤハウェを信じる信仰によって、神の働きの中に加えられることを意味しています。そして私たち日本人も、異邦人です。とくに、キリスト教の伝統や文化を持っておらず、異教社会に生きています。その中で、ナアマンが神の働きの中に加えられたように、私たちも加えられることを教えてくれます。

 そして二つ目に、ナアマンは有能な人材であったことです。戦争で多くの勝利を収めていたため、王から有能な人材として重んじられていました。しかし、彼には弱さがあったのです。らい病をわずらっていました。人々に認められて、何一つ不自由ない生活を送っているような人でも、自分でも回りでもどうすることもできない弱さや引け目があるものです。私はここから、この日本社会で一生懸命働いているビジネスマンのことを思います。有能で、一生懸命会社のために働いている人が、どのようにしてまことの神に導かれるのかという課題と、ナアマンの姿がだぶって見えます。もちろんビジネスマンに限らず、それぞれの分野で実直に働き、あるいは勉強している人々すべてが、このナアマンと相通ずる部分があるのではないかと思います。

5:2 アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から、ひとりの若い娘を捕えて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていたが、5:3 その女主人に言った。「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのらい病を直してくださるでしょうに。」

 当時のイスラエルの状況は、北からシリヤによる攻撃に悩まされていたときでした。かつてアハブが、ベン・ハダデ一世に攻められたけれども、主がともにおられて勝利したところを学びました。それで、シリヤがイスラエルに略奪に来たときに、一人の少女を捕えてきました。ナアマンとその妻は彼女によくしてやったのでしょうか、この娘はナアマンのらい病のことを気にかけています。

 そしてエリシャのことを話しました。彼女には、エリシャを通して、らい病がいやされるという信仰があったのです。この彼女の信仰が、最後にナアマンをいやす力となりました。このような若い子でも、主によって大きく用いられる器になりえます。

 以前、宣教会議で、17歳の若い青年の証しを聞きました。ロンドンで、たむろしている若者に公園で伝道を始めたら、カルト団体か何かに間違われて、捕えられたか、大変なことになりました。けれども、あるクリスチャンの弁護士が、「そんなことをしたら、逆にあなたがたが違法行為を行なっていますよ。」と圧力をかけたそうで、それで、ロンドン警察が「カルバリーチャペル」という名を出して、カリフォルニアのオレンジ郡の警察に連絡して、この団体は大丈夫なのか?と聞いてみたそうです。そうしたらオレンジ郡の警察は、カルバリーチャペルは非常に評判のよい教会であることを話して、それでこの若者たちは続けて伝道でき、なんとその伝道活動を他の人たちに妨げられることのないよう、保護さえしたそうです。たった数人の若者が、米英の警察を動かして伝道をすることができるようにさせた、という証しですが、ここのイスラエル人少女の信仰に通じるものがあるかもしれません。

5:4 それで、ナアマンはその主君のところに行き、イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、と告げた。5:5 アラムの王は言った。「行って来なさい。私がイスラエルの王にあてて手紙を送ろう。」そこで、ナアマンは銀十タラントと、金六千シェケルと、晴れ着十着とを持って出かけた。5:6 彼はイスラエルの王あての次のような手紙を持って行った。「さて、この手紙があなたに届きましたら、実は家臣ナアマンをあなたのところに送りましたので、彼のらい病から彼をいやしてくださいますように。」

 シリヤはイスラエルとはいつも戦争をしていたわけではなく、この時点では平和を保っていたと考えられます。シリヤの王ベン・ハダデ二世は、自分の重鎮であるナアマンのために、イスラエル王宛ての手紙を送りました。また、ナアマン自身も、自分も国の指導者の一人でありますから、それ相応の贈り物を用意して、イスラエル国に敬意を払おうとしています。

5:7 イスラエルの王はこの手紙を読むと、自分の服を引き裂いて言った。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、らい病を直せと言う。しかし、考えてみなさい。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」

 イスラエルの王ヨラムは、自分がナアマンを治癒しなければいけないと勘違いしたのでしょう。そして、これは再びイスラエルを攻めてくる言いがかりではないかとまで疑っています。彼は、ナアマンの妻の女奴隷のイスラエル人の少女と違って、預言者エリシャのことが思い浮かびませんでした。神の働きを受け入れようとしない人は、ヨラムのように、存在していても関心がないので、神の働きを見ることができません。

2C ヨルダン川の浸水 8−14
 将軍や国の王が動いて、ずいぶん仰々しい儀礼を行なっていますが、エリシャはこのような面倒くさいことからは無縁の存在でした。

5:8 神の人エリシャは、イスラエルの王が服を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人をやって言った。「あなたはどうして服を引き裂いたりなさるのですか。彼を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」5:9 こうして、ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立った。5:10 エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」

 エリシャは、ナアマンが来ても、自分で会いに行くことをせず、使い(おそらくは、ゲハジ)をやって、ヨルダン川で七たび身を洗いなさい、とだけ告げました。それに対してナアマンが怒ります。

5:11 しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このらい病を直してくれると思っていたのに。5:12 ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。」こうして、彼は怒って帰途についた。

 まじめな人、実直な人でも、プライドがあることをよく表わしている箇所です。神の御業の中では、有能な人も、無能な人も、位の高い人も低い人も、ありません。みな平等に、主の恵みとあわれみのわざにあずかることができます。けれども、私たちのプライドが、その恵みのわざが自分に行なわれるのを妨げるのです。「こんなことやったら恥ずかしい」とか、「この牧師、ずいぶん失礼なアドバイスするわね!」と怒ってみたりします。ナアマンのようなまじめな人でも、いや、まじめだからこそ引っかかる問題でしょう。

5:13 そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい。』と言っただけではありませんか。」

 このしもべは、冷静になっていました。ヨルダン川にいって七たび洗う、なんていうこと、物理的に考えたら、何の苦労も要りません。でも、彼はよく分かっていましたが、もっとむずかしいことをエリシャが命じたら、あなたはそれをやろうとしたでしょう、と言っています。簡単なことができずに、難しいことだったらやろうとするというのは、人間の姿をよく表しています。

 私たちが伝道をするときに、いつも直面するのは、「イエスを自分の救い主として受け入れる」という、もっとも理にかなって、簡単なことが出来ない人が、なんと多いことか、ということです。必ず、「もっと人生の経験を踏んでから、入信を考えてみたいと思います。」とか、「もっと聖書の勉強をしなければ、キリスト教徒にはなれないでしょう。」とか、「煙草をやめて、お酒もやめなければ、クリスチャンになれないんでしょう?」とか、自分で救いを難しくさせているのです。

 これは、プライドのせいです。簡単であれば、自分を誇ることはできません。難しいければ、それを成し遂げたら、自分を誇ることができます。だから、簡単な、<信仰の従順>という方法ではなく、自分の行ないによる救いを求めるのです。けれども、ナアマンは、へりくだること、そして従順に聞き従うことを選びとりました。

5:14 そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。

 言われたことをそのまま行ないました。これが信仰です。主が言われているとおりに信じて、聞き従います。「七」という数字は聖書の中で完全数、または神のことを表わしていますが、七度浸かりました。

 そして、幼子の肌のようにきれいになりました。これは物理的だけでなく、象徴的に捉えてもいいと思います。つまり、有能だけれども、プライドの高いナアマンが、神の前で幼子のようになることができた、ということです。

2B この世との問題 15−27
1C 仕事上の義務 15−19
5:15 そこで、彼はその一行の者を全部連れて神の人のところに引き返し、彼の前に来て、立って言った。「私は今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました。それで、どうか今、あなたのしもべからの贈り物を受け取ってください。」

 すばらしいですね、ナアマンはらい病が直っただけでなく、心も変えられました。イスラエルの神、ヤハウェが唯一の神であることを告白しています。我々日本人も、同じような告白が必要です。神々といわれているものはあるけれども、イエスを死者の中からよみがえらせた神のみが、まことの神であり、唯一です、という告白です。

5:16 神の人は言った。「私が仕えている主は生きておられる。私は決して受け取りません。」それでも、ナアマンは、受け取らせようとしきりに彼に勧めたが、彼は断わった。

 ナアマンは回心しましたが、もちろん、異邦人としての慣習はそのまま残っています。病院にいったら高いお金を払うのに、こんな良いことをしていただいたのだから、お礼をするのは当たり前でしょう、という考えです。けれども、エリシャは断わりました。エリシャは、神の働きのためにこの世における仕事の報酬であるかのように、お金を受け取ってはいけないことを知っていたからです。

 私も、いろいろな場所で奉仕している中で、お金のことで問題、いや、いろいろ考えさせられることがあります。ある人から、「どうか、私たちの集まりで聖書を教えて来ていただけませんか?謝礼はおいくらでしたら・・・」と尋ねられました。私には、神の恵みによる奉仕なのだから謝礼を受け取るという概念さえないのですが、それでも相手の信仰の度合いを尊重して、「ご自分で祈って、定めた額で良いです。」と答えました。そうしたらしばらく経って、「経済的に苦しいので、もう来られなくて構いません。」とおっしゃれました。私は、「ただでも、お伺いしますよ」と言って、続けて教えることになりました。

 むろん、人が神の恵みを分け与えたいということで、奉仕者に金銭的援助を与えるのは、聖書に書いてあることですが、けれども、それは自発的な、一方的な神から与えられた恵みにしたがったものであり、雇用関係のようなものではないです。この世では、占い師や、いやキリスト教会の中でさえ、いやしや奇蹟を行なった報酬をして、人々からお金をたくさん受け取っている人がいます。しかし、これはエリシャの態度とは大きく異なります。

5:17 そこでナアマンは言った。「だめでしたら、どうか二頭の騾馬に載せるだけの土をしもべに与えてください。しもべはこれからはもう、ほかの神々に全焼のいけにえや、その他のいけにえをささげず、ただ主にのみささげますから。5:18 主が次のことをしもべにお許しくださいますように。私の主君がリモンの神殿にはいって、そこで拝む場合、私の腕に寄りかかります。それで私もリモンの神殿で身をかがめます。私がリモンの神殿で身をかがめるとき、どうか、主がこのことをしもべにお許しくださいますように。」

 ここには、ナアマンの心の誠実さと、また、彼が回心したばっかりの信者であることをよく表わしています。彼は、イスラエルの神のみがまことの神であり、他の神々に仕えることは罪であるという知識を持ちました。けれども、その他の知識はないので、第一に、イスラエルの土地からの土でないとヤハウェへの祭壇を築けないと考えました。すべてのものは信仰によってきよめられるのですから(ローマ14:23など)、別にシリヤの土を用いても構わないのですが、彼はイスラエルの土にこだわりました。

 第二に、自分の主君への忠誠のために、偶像の神に身をかがめてしまうけれども、よろしいですか?と聞いています。これは、神の知識が十分にあれば、できないことです。十戒の中に、他の神々を拝んではならない、あるいはひれ伏してはならない、とあります(出エジプト20:5。英語では、bow downとなっている。)。そして、同じような状況にいたダニエルの友人三人は、ネブカデネザルが造った全身金の像を、王に仕えるための儀礼であっても、ひれ伏したり、拝むことをしませんでした。けれども、彼は異邦人であり、かつ回心したばかりの信者です。現代で言うならば、救われたばかりの、赤ちゃんクリスチャンなのです。

 私たちは常に、相手の信仰の量りを知る必要があります。新生したばかりのクリスチャンが、十分な神の知識を持っていないために、普通ならやってはいけないことを行なっているとします。けれども、それを今の段階で戒めたり、きつく止めるように言ったら、たとえ行なったとしても信仰によるものではなく、強制になるでしょう。神がその人を成長させ、恵みによって強くされたときに、自分の信仰で止めることができるようにすることが大事です。特に、この日本では、キリスト教の伝統や文化がないですから、このような間違いが多いでしょう。けれども、忍耐深くなって、その人に接しつづけ、ご聖霊が気づかせるように待つことが必要でしょう。

5:19 エリシャは彼に言った。「安心して行きなさい。」そこでナアマンは彼から離れて、かなりの道のりを進んで行った。

 ここで、「安心して行きなさい」と言っているだけで、リモンの神に身をかがめることをやってよい、とは言っていないことに注意してください。もしかしたら、ナアマンは本当に身をかがめなくてよい状況が、神によって設けられたかもしれません。信仰の成長段階によって霊的世話をすることと、真理の妥協とは別問題です。例えば、新生したばかりのクリスチャンが、仏壇に手を合わせているのを、赤ちゃんクリスチャンだからということで受けとめることはできても、「それならば、クリスチャンは、仏壇の前で手を合わせても良いのだ。」ということにはならないからです。

2C 金銭的報酬 20−27
5:20 そのとき、神の人エリシャに仕える若い者ゲハジはこう考えた。「なんとしたことか。私の主人は、あのアラム人ナアマンが持って来た物を受け取ろうとはしなかった。主は生きておられる。私は彼のあとを追いかけて行き、必ず何かをもらって来よう。」

 ゲハジの心に貪欲が出てきました。

5:21 ゲハジはナアマンのあとを追って行った。ナアマンは、うしろから駆けて来る者を見つけると、戦車から下りて、彼を迎え、「何か変わったことでも。」と尋ねた。5:22 そこで、ゲハジは言った。「変わったことはありませんが、私の主人は私にこう言ってよこしました。『たった今、エフライムの山地から、預言者のともがらのふたりの若い者が私のところにやって来ましたから、どうぞ、彼らに銀一タラントと、晴れ着二着をやってください。』」

 しばしば、十戒の最後の戒めである「欲しがってはならない」という言葉は、他の罪の源であると言われます。むさぼるから、人を殺すし、姦淫を犯すし、親に逆らいます。ここでゲハジは、ナアマンの財産をむさぼったために、自分の主人エリシャの名を使って、嘘をつくという罪を犯しました。

5:23 するとナアマンは、「どうぞ。思い切って二タラントを取ってください。」と言って、しきりに勧め、二つの袋に入れた銀二タラントと、晴れ着二着を、自分のふたりの若い者に渡した。それで彼らはそれを背負ってゲハジの先に立って進んだ。

 ゲハジが願った一タラントの二倍、二タラントをナアマンは与えました。そのため、ゲハジ一人では重過ぎるので、ナアマンは二人の若い者に持たせました。

5:24 ゲハジは丘に着くと、それを彼らから受け取って家の中にしまい込み、ふたりの者を帰らせたので、彼らは去って行った。5:25 彼が家にはいって主人の前に立つと、エリシャは彼に言った。「ゲハジ。あなたはどこへ行って来たのか。」彼は答えた。「しもべはどこへも行きませんでした。」

 二回目の嘘です。人は一度罪を犯すと、その罪を隠すために他の罪も犯します。どこへの行かなかった、と答えています。

5:26 エリシャは彼に言った。「あの人があなたを迎えに戦車から降りて来たとき、私の心もあなたといっしょに行っていたではないか。今は銀を受け、着物を受け、オリーブ畑やぶどう畑、羊や牛、男女の奴隷を受ける時だろうか。」

 エリシャはみな、お見通しでした。エリシャには、知識の言葉の賜物が与えられていました。人に起こっている状況にについて、超自然的な形で示される、ということです。ゲハジの思いの中で展開していたことを、エリシャはずばり述べています。「このお金と着物で、何をしようかな?そうだ、オリーブ畑を作って、羊や牛も持とう。それから男女の奴隷も良いなあ。」という思いが、ゲハジの頭の中に走っていたのです。今であれば、「このお金があれば、そうだ、一戸建ての家を購入できるし、欲しかった新車も買える。」でしょうか。

5:27 「ナアマンのらい病は、いつまでもあなたとあなたの子孫とにまといつく。」彼は、エリシャの前から、らい病にかかって雪のように白くなって、出て来た。

 この章の最後は、厳粛な真実で終わっています。主に仕える者が、神の栄光を、お金なり、またへつらいの言葉でもって横取りするものなら、神のさばきがあることが描かれています。知識が少ししか与えられていない者は少しの責任ですが、多く与えられている者は多く任されます。ヤコブが、多くの者が教師になってはいけないと言っているのは、それが理由です。

 ナアマンを通しての主の奇蹟にしても、ゲハジを通しての神の厳しさにしても、共通しているのは、クリスチャン生活はシンプルだ、ということです。ナアマンは、幼子のようになって、へりくだって、信仰の従順を学びました。そしてエリシャのように、神の器は、神の恵みを分かち合う器であり、人から見返りを受けるのではなく、ただ主に仕えるしもべなのだ、ということです。主が言われることを行なって、自分自身が主の恵みを楽しむ、というシンプルさの中で生きるとき、神が意図されたように私たちは生きていくことができます。


「聖書の学び 旧約」に戻る
HOME