申命記1−4章 「主の命令への従順」

アウトライン

1A 歴程において 1−3
   1B 不従順による放浪 1
      1C 11日間のはずだった旅程 1−4
      2C 神の真実への不信仰 5−46
   2B 従順による前進 2
      1C 戦ってはいけない民 1−23
      2C 根絶すべき民 24−37
   3B 従順による占領 3
      1C 二部族半への所有地 1−22
      2C モーセ自身の不従順 23−29
2A 勧告において 4
   1B 唯一なる神 1−40
      1C 主の唯一の要求 1−9
      2C ホレブでの火なる神 10−24
      3C これからの道 25−31
      4C 偉大な国民 32−40
   2B 三つの逃れの町 41−49

本文

 申命記1章を開いてください、私たちは今日から申命記を学んでいきます。申命記は、モーセ五書と呼ばれる創世記から申命記までの五書の最後になります。「律法」とも呼ばれるのがこの五書であり、今後のイスラエルの歴史、ひいては私たちキリスト者がなぜキリストが必要なのか、その福音を知るための、とても大切な土台となっています。

 私たちは前回までの民数記の学びで、イスラエルの民がヨルダン川の東岸にいることを学びました。モーセがしなければいけない神から与えられた務めがあります。モーセは、約束の地に入らずそこで死ななければならなかったからです。そこで彼は、イスラエル人に最後の説教を行います。その説教が申命記です。「申命」というのは中国語聖書から借りたものであり、「繰り返し命じる」という意味があるそうです。モーセは、これまで主がモーセに与えられた律法を繰り返し命じます。けれども、それは新しい世代に対して、これから約束の地に入る新しい世代に対して、指導者としての愛情を込めて語っている言葉です。その愛情はもちろん主ご自身から来ています。申命記は、「主からイスラエルへの愛の書」と言っても良いでしょう。契約に基づく愛、つまり夫が妻を愛している愛につながるものがあります。

 申命記の全体の流れは、今日学ぶ1章から4章までは、これまでイスラエルが辿った歴史をふりかえっている部分です。その辿ってきた歴史を踏まえてモーセは、「主の命令に従いなさい」と強く促します。5章から26章までが申命記の中心部分になりますが、律法を教えています。その中で5章から11章までが十戒を教え、12章から26章まではさらに具体的で、細かい掟を教えています。そして27章から30章までに、律法への従順にともなう祝福と、不従順によってもたらされる呪いを宣言しています。この宣言をもってモーセは、31章から34章で後継者であるヨシュアへの言葉、そしてイスラエルへの歌、十二部族への祝福を行い、死にます。今日は申命記の骨格である、「主の命令を守り行ないなさい」というメッセージに至る歴史的経緯を学びます。

1A 歴程において 1−3
1B 不従順による放浪 1
1C 11日間のはずだった旅程 1−4
1:1 これは、モーセがヨルダンの向こうの地、パランと、トフェル、ラバン、ハツェロテ、ディ・ザハブとの間の、スフの前にあるアラバの荒野で、イスラエルのすべての民に告げたことばである。1:2 ホレブから、セイル山を経てカデシュ・バルネアに至るのには十一日かかる。1:3 第四十年の第十一月の一日にモーセは、主がイスラエル人のために彼に命じられたことを、ことごとく彼らに告げた。1:4 モーセが、ヘシュボンに住んでいたエモリ人の王シホン、およびアシュタロテに住んでいたバシャンの王オグをエデレイで打ち破って後のことである。

 申命記の紹介文です。今、説明したようにヨルダン川の東岸にいますが、「アラバの荒野」で告げた言葉、となっています。「アラバ」というのは、ガリラヤ湖、ヨルダン川、死海、紅海をつなぐ南北の低地のことを指しています。そこにはシリヤからアフリカまで地溝が走っており、実に世界で最も低い陸地を形成しています。

 そして驚くべきことは、「ホレブ」すなわちシナイ山から、約束の地に入る境になっている「カデシュ・バルネア」までは、たった11日しかかかりません。それなのに、3節には「第四十年」とあります。イスラエルがエジプトを出て四十年目であります。11日が四十年弱かかってしまったのです。それはひとえに「イスラエルの不従順」のためですが、その歴史的経緯をモーセが説明していきます。

2C 神の真実への不信仰 5−46
1:5 ヨルダンの向こうの地、モアブの地で、モーセは、このみおしえを説明し始めて言った。1:6 私たちの神、主は、ホレブで私たちに告げて仰せられた。「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。1:7 向きを変えて、出発せよ。そしてエモリ人の山地に行き、その近隣のすべての地、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海辺、カナン人の地、レバノン、さらにあの大河ユ一フラテス川にまで行け。1:8 見よ。わたしはその地をあなたがたの手に渡している。行け。その地を所有せよ。これは、主があなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた地である。」

 シナイ山のところで、主はイスラエルの民に十戒を与えられ、また他の教えを与えられました。出エジプト記の後半からレビ記です。一ヶ月間シナイ山のふもとにいましたが、向きを変えて出発しなさいと主が命じられています。

 そして、ここにある約束の地の名称が、イスラエルの地を知るのに大切になります。「アラバ」は今、説明したとおりです。そして「山地」とありますが、これはイスラエルの真中を南北に走っている山地のことを話しています。南からユダの山地、そしてエルサレムより北にはサマリヤの山地があります。さらに、東西に走っているイズレエル平野より北にはガリラヤ地方があります。そこも山地になっています。次に「低地」とあります。これは、「シェフェラ」とも呼ばれるところで、地中海沿岸地域と山地との間にある部分です。そして「海辺」は地中海沿岸のことです。そして「カナン人の地」は、これらの地域一帯のことを指しています。そして「レバノン」は、それよりも北にある地域一帯です。そしてさらに北に、「ユーフラテス川」があります。主がかつてアブラハムに約束された境です。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。(創世15:18」と主は言われました。

1:9 私はあの時、あなたがたにこう言った。「私だけではあなたがたの重荷を負うことはできない。1:10 あなたがたの神、主が、あなたがたをふやされたので、見よ、あなたがたは、きょう、空の星のように多い。1:11 ・・どうかあなたがたの父祖の神、主が、あなたがたを今の千倍にふやしてくださるように。そしてあなたがたに約束されたとおり、あなたがたを祝福してくださるように。・・1:12 私ひとりで、どうして、あなたがたのもめごとと重荷と争いを背負いきれよう。1:13 あなたがたは、部族ごとに、知恵があり、悟りがあり、経験のある人々を出しなさい。彼らを、あなたがたのかしらとして立てよう。」1:14 すると、あなたがたは私に答えて、「あなたが、しようと言われることは良い。」と言った。1:15 そこで私は、あなたがたの部族のかしらで、知恵があり、経験のある者たちを取り、彼らをあなたがたの上に置き、かしらとした。千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長、また、あなたがたの部族のつかさである。1:16 またそのとき、私はあなたがたのさばきつかさたちに命じて言った。「あなたがたの身内の者たちの間の事をよく聞きなさい。ある人と身内の者たちとの間、また在留異国人との間を正しくさばきなさい。1:17 さばきをするとき、人をかたよって見てはならない。身分の低い人にも高い人にもみな、同じように聞かなければならない。人を恐れてはならない。さばきは神のものである。あなたがたにとってむずかしすぎる事は、私のところに持って来なさい。私がそれを聞こう。」1:18 私はまた、そのとき、あなたがたのなすべきすべてのことを命じた。

 かつて、エジプトを出てシナイ山に近づいた時に、モーセは舅イテロからこの助言を受けていました。モーセ独りでは、イスラエル人の間で起こった争いを仲裁することはできません。千人、百人、五十人、十人の単位で長を定め、代わりに裁きます。モーセはそれでも解決が難しい問題だけ裁きますが、これをシナイ山から離れる時にも必要性を感じて、イスラエルの民に勧めました。

 そして、モーセは正しく裁くことを教えました。人をかたよって見ないことを教え、神のみを恐れ裁くことを教えました。これは私たちの肉の性質に反することです。私たちは、必ず偏って見る傾向があります。ヤコブは自分の手紙の中で、教会の中で貧しい人と富んだ人がいて、富んだ人をまず良い席に着かせる姿を見て、こう責めています。「あなたがたは、自分たちの間で差別を設け、悪い考え方で人をさばく者になったのではありませんか。(ヤコブ2:4」それをなくすには、ヤコブは、「あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。(同1節)」と言っていいます。栄光に輝く主イエス・キリストを見ることです。

1:19 私たちの神、主が、私たちに命じられたとおりに、私たちはホレブを旅立ち、あなたがたが見た、あの大きな恐ろしい荒野を、エモリ人の山地への道をとって進み、カデシュ・バルネアまで来た。1:20 そのとき、私はあなたがたに言った。「あなたがたは、私たちの神、主が私たちに与えようとされるエモリ人の山地に来た。1:21 見よ。あなたの神、主は、この地をあなたの手に渡されている。上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、主があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない。」1:22 すると、あなたがた全部が、私に近寄って来て、「私たちより先に人を遣わし、私たちのために、その地を探らせよう。私たちの上って行く道や、はいって行く町々について、報告を持ち帰らせよう。」と言った。1:23 私にとってこのことは良いと思われたので、私は各部族からひとりずつ、十二人をあなたがたの中から取った。1:24 彼らは山地に向かって登って行き、エシュコルの谷まで行き、そこを探り、1:25 また、その地のくだものを手に入れ、私たちのもとに持って下って来た。そして報告をもたらし、「私たちの神、主が、私たちに与えようとしておられる地は良い地です。」と言った。

 モーセは、独裁的に、一方的にイスラエルに命じて指導したのではなく、先ほどのようにイスラエルに「裁く者たちを立てよう」と奨励し、またここにあるようにイスラエルから出てきた提案を受け入れています。民数記では、主が十二人のイスラエル部族のかしらを偵察に行かせなさいと命じたことが書き記されていましたが、元々はイスラエル人が願い出たことでした。そしてそれをモーセは主に尋ね求め、主が「そうしなさい」と命じられたという経緯があったことが分かります。

1:26 しかし、あなたがたは登って行こうとせず、あなたがたの神、主の命令に逆らった。1:27 そしてあなたがたの天幕の中でつぶやいて言った。「主は私たちを憎んでおられるので、私たちをエジプトの地から連れ出してエモリ人の手に渡し、私たちを根絶やしにしようとしておられる。1:28 私たちはどこへ上って行くのか。私たちの身内の者たちは、『その民は私たちよりも大きくて背が高い。町々は大きく城壁は高く天にそびえている。しかも、そこでアナク人を見た。』と言って、私たちの心をくじいた。」1:29 それで、私はあなたがたに言った。「おののいてはならない。彼らを恐れてはならない。1:30 あなたがたに先立って行かれるあなたがたの神、主が、エジプトにおいて、あなたがたの目の前で、あなたがたのためにしてくださったそのとおりに、あなたがたのために戦われるのだ。1:31 また、荒野では、あなたがたがこの所に来るまでの、全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、主が、あなたを抱かれたのを見ているのだ。1:32 このようなことによってもまだ、あなたがたはあなたがたの神、主を信じていない。1:33 主は、あなたがたが宿営する場所を捜すために、道中あなたがたの先に立って行かれ、夜は火のうち、昼は雲のうちにあって、あなたがたの進んで行く道を示されるのだ。」

 モーセは、はっきりとイスラエルが主の命令に逆らったことを思い起こしています。命令に逆らったので約束の地に入れなかったのです。そして、ここのやり取りの中で大切なのは、「主の善」に対するイスラエルの不信であります。「神は良い方である」というを信じられていないことです。26節をご覧ください、「主は私たちを憎んでおられるので」とあります。そこでモーセは反論して、主がこれまでどれほどイスラエルに良くしてくださったのかを話しました。私たちの罪の中で、もっとも愚かなものの一つがこの不信です。主が自分に対して良い方であること、慈しみ深い方であることを疑うことです。私たちが目の前にある困難や試練を見て、そのように疑います。目の前のことを見て、これまで主が自分に真実を尽くしてくださったことを忘れます。

1:34 主は、あなたがたの不平を言う声を聞いて怒り、誓って言われた。1:35 「この悪い世代のこれらの者のうちには、わたしが、あなたがたの先祖たちに与えると誓ったあの良い地を見る者は、ひとりもいない。1:36 ただエフネの子カレブだけがそれを見ることができる。彼が踏んだ地を、わたしは彼とその子孫に与えよう。彼は主に従い通したからだ。」1:37 主はあなたがたのために、この私に対しても怒って言われた。「あなたも、そこに、はいれない。1:38 あなたに仕えているヌンの子ヨシュアが、そこに、はいるのだ。彼を力づけよ。彼がそこをイスラエルに受け継がせるからだ。1:39 あなたがたが、略奪されるだろうと言ったあなたがたの幼子たち、今はまだ善悪のわきまえのないあなたがたの子どもたちが、そこに、はいる。わたしは彼らにそこを与えよう。彼らはそれを所有するようになる。1:40 あなたがたは向きを変え、葦の海への道を荒野に向かって旅立て。」

 主は、「この悪い世代」と言っていますが、当時の二十歳以上の成年のことであります。そして約四十年かけて彼らが荒野で死ぬままにさせました。福音書において、イエス様も同じように、ご自分を受け入れない不信仰なユダヤ人のことを、「今の時代」とか「悪い、姦淫の時代」と言われました。主が地上で公生涯を送られたのは、だいたい紀元30年頃のことですが、その四十年後、紀元70年に、ユダヤ人の神殿がローマによって破壊されたのです。つまり、イスラエル人は過去に先祖が犯した過ちを繰り返したことになります。

 そして興味深いのは、モーセに対しても主が怒られた、とあることです(37節)。これを主が行なわれるのは四十年近く経ってからのことですが、モーセは自分に身に起こったことを回想しています。「あなたがたのために」と彼は言っていますが、これは民に責任をなすりつけているのではなく、モーセも彼らと同じ、不平や不信の罪を犯した、ということです。岩を彼は二度打ちました。主がただ、岩に命じなさいと命じられたにも関わらず、「逆らう者たちよ!」と怒って打ったのです。

1:41 すると、あなたがたは私に答えて言った。「私たちは主に向かって罪を犯した。私たちの神、主が命じられたとおりに、私たちは上って行って、戦おう。」そして、おのおの武具を身に帯びて、向こう見ずに山地に登って行こうとした。1:42 それで主は私に言われた。「彼らに言え。『上ってはならない。戦ってはならない。わたしがあなたがたのうちにはいないからだ。あなたがたは敵に打ち負かされてはならない。』」1:43 私が、あなたがたにこう告げたのに、あなたがたは聞き従わず、主の命令に逆らい、不遜にも山地に登って行った。1:44 すると、その山地に住んでいたエモリ人が出て来て、あなたがたを迎え撃ち、蜂が追うようにあなたがたを追いかけ、あなたがたをセイルのホルマにまで追い散らした。1:45 あなたがたは帰って来て、主の前で泣いたが、主はあなたがたの声を聞き入れず、あなたがたに耳を傾けられなかった。1:46 こうしてあなたがたは、あなたがたがとどまった期間だけの長い間カデシュにとどまった。

 約束の地に入らなかったのも、イスラエルの不従順によるものですが、主が放浪を宣言された後で約束の地に入ろうとしたのも、同じように不従順でした。同じことをしているのですが、主が命じられていることに聞き従うのではなく、「とにかくやってみよう」としていることに問題があります。

 イスラエルは、自分が行った罪の結果を、懲らしめとして、教訓として学ぶ時間が必要でした。それが四十年の荒野での放浪という期間でした。そして主は彼らを滅ぼすことを意図してはおらず、新しい世代が約束の地に入るようにしてくださったのでした。その悔い改めの期間を経ることなく、また同じことをしようとしても成功しません。私たちは主の前でじっくり時間を取る必要があります。「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。(ヘブル12:11

2B 従順による前進 2
 次2章は、四十年近く経った後の話に飛びます。

1C 戦ってはいけない民 1−23
2:1 それから、私たちは向きを変え、主が私に告げられたように、葦の海への道を荒野に向かって旅立って、その後、長らくセイル山のまわりを回っていた。2:2 主は私にこう仰せられた。2:3 「あなたがたは長らくこの山のまわりを回っていたが、北のほうに向かって行け。2:4 民に命じてこう言え。あなたがたは、セイルに住んでいるエサウの子孫、あなたがたの同族の領土内を通ろうとしている。彼らはあなたがたを恐れるであろう。あなたがたは、十分に注意せよ。2:5 彼らに争いをしかけてはならない。わたしは彼らの地を、足の裏で踏むほども、あなたがたには与えない。わたしはエサウにセイル山を彼の所有地として与えたからである。2:6 食物は、彼らから金で買って食べ、水もまた、彼らから金で買って飲まなければならない。2:7 事実、あなたの神、主は、あなたのしたすべてのことを祝福し、あなたの、この広大な荒野の旅を見守ってくださったのだ。あなたの神、主は、この四十年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった。」2:8a それで私たちは、セイルに住むエサウの子孫である私たちの同族から離れ、アラバへの道から離れ、エラテからも、またエツヨン・ゲベルからも離れて進んで行った。

 彼らに対して主が、北上する命令を出しました。彼らはエドムの地を通過しようとしていましたが、彼らがイスラエルを警戒しようとも、決して応戦してはならないことを命じられました。それは、エドム人の父祖エサウがヤコブの兄だからです。

 そして彼らはそれにきちんと従いました。ここがモーセの言いたいことです。古い世代のイスラエルとは異なり、彼らは主からの戒めにしっかり聞き従ったのです。そして主は、「あなたの神、主は、この四十年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった。」といわれて、その荒野の四十年間でさえも、主が祝福してくださったことを思い起こさせておられます。主が良くしてくださったことを思い起こし、たとえ自分の理解や目に見えるところではそうではないと教えても、主の声だけに聞き従うのです。

2:8bそして、私たちはモアブの荒野への道を進んで行った。2:9 主は私に仰せられた。「モアブに敵対してはならない。彼らに戦いをしかけてはならない。あなたには、その土地を所有地としては与えない。わたしはロトの子孫にアルを所有地として与えたからである。2:10 ・・そこには以前、エミム人が住んでいた。強大な民で、数も多く、アナク人のように背が高かった。2:11 アナク人と同じく、彼らもレファイムであるとみなされていたが、モアブ人は彼らをエミム人と呼んでいた。2:12 ホリ人は、以前セイルに住んでいたが、エサウの子孫がこれを追い払い、これを根絶やしにして、彼らに代わって住んでいた。ちょうど、イスラエルが主の下さった所有の地に対してしたようにである。・・2:13 今、立ってゼレデ川を渡れ。」そこで私たちはゼレデ川を渡った。

 エドムの地の北にはモアブの地がありますが、主は同じ理由で戦ってはならないと命じておられます。モアブはアブラハムの甥ロトの子です。そして「ゼレデ川」とありますが、これは死海の南端に水が入っていく、モアブとエドムの国境にもなっている渓谷です。これからゼレデ川を渡って、そしてモアブの地に入ります。

2:14 カデシュ・バルネアを出てからゼレデ川を渡るまでの期間は三十八年であった。それまでに、その世代の戦士たちはみな、宿営のうちから絶えてしまった。主が彼らについて誓われたとおりであった。2:15 まことに主の御手が彼らに下り、彼らをかき乱し、宿営のうちから絶やされた。

 出エジプトからヨルダン川のところまでの旅程が四十年かかりましたが、シナイ山を出たのは第二年目であり、そしてこれからの道がありますので、厳密に荒野の放浪の期間は38年になります。そして、具体的に古い世代が存続していたのはゼレデ川のところまでであったことがここから分かります。

2:16 戦士たちがみな、民のうちから絶えたとき、2:17 主は私に告げて仰せられた。2:18 「あなたは、きょう、モアブの領土、アルを通ろうとしている。2:19 それで、アモン人に近づくが、彼らに敵対してはならない。彼らに争いをしかけてはならない。あなたには、アモン人の地を所有地としては与えない。ロトの子孫に、それを所有地として与えているからである。2:20 ・・そこもまたレファイムの国とみなされている。以前は、レファイムがそこに住んでいた。アモン人は、彼らをザムズミム人と呼んでいた。2:21 これは強大な民であって数も多く、アナク人のように背も高かった。主がこれを根絶やしにされたので、アモン人がこれを追い払い、彼らに代わって住んでいた。2:22 それは、セイルに住んでいるエサウの子孫のために、主が彼らの前からホリ人を根絶やしにされたのと同じである。それで彼らはホリ人を追い払い、彼らに代わって住みつき、今日に至っている。2:23 また、ガザ近郊の村々に住んでいたアビム人を、カフトルから出て来たカフトル人が根絶やしにして、これに代わって住みついた。・・

 エドム、モアブに続いて、アモン人とも戦ってはいけないと主は命じられます。アモンもモアブと同じくロトの子です。アモン人はモアブの北東に住んでいた民でした。

 そして興味深いことに、先ほど読んだ箇所においても、ここにおいても、エドム、モアブ、アモンそれぞれにおいて、かつて先住民がいたことが書かれています。その先住民を追い払って住んでいたことが分かります。しかも、アモン人のところには、巨人レファイムが住んでいたことが書かれています。つまりここから分かるのは、イスラエルが恐れて約束の地に入らなかった理由として、アナク人という巨人を上げていたけれども、実は主は、イスラエルだけにではなく、エドム、モアブ、アモン人に対してその追い散らす力を与えておられたということです。まことの神を信じていない人でさえ、神はその主権の中で行わせてくださっていることを、神の民が信じることができなかったという教訓がここにあります。

 そしてモーセは、「カフトル」から出てきた民のことを話していますが、これは地中海に浮かぶクレテ島のことです。これはペリシテ人のことです。彼らはクレテから始まる、地中海沿岸地域に住みつき、イスラエルの地ではガザ地区辺りに住んでいた民族であります。

2C 根絶すべき民 24−37
2:24 立ち上がれ。出発せよ。アルノン川を渡れ。見よ。わたしはヘシュボンの王エモリ人シホンとその国とを、あなたの手に渡す。占領し始めよ。彼と戦いを交えよ。2:25 きょうから、わたしは全天下の国々の民に、あなたのことでおびえと恐れを臨ませる。彼らは、あなたのうわさを聞いて震え、あなたのことでわななこう。」

 主は三度も「争うな」と命じておられましたが、今は「戦え」と命じておられます。アルノン川が、モアブの北の国境線になっており、そこを越えるとエモリ人シホンの国になります。

2:26 そこで私は、ケデモテの荒野から、ヘシュボンの王シホンに使者を送り、和平を申し込んで言った。2:27 「あなたの国を通らせてください。私は大路だけを通って、右にも左にも曲がりません。2:28 食物は金で私に売ってください。それを食べます。水も、金を取って私に与えてください。それを飲みます。徒歩で通らせてくださるだけでよいのです。2:29 セイルに住んでいるエサウの子孫や、アルに住んでいるモアブ人が、私にしたようにしてください。そうすれば、私はヨルダンを渡って、私たちの神、主が私たちに与えようとしておられる地に行けるのです。」2:30 しかし、ヘシュボンの王シホンは、私たちをどうしても通らせようとはしなかった。それは今日見るとおり、彼をあなたの手に渡すために、あなたの神、主が、彼を強気にし、その心をかたくなにされたからである。

 主が、「戦え」と命じられましたが、初めから相手が平穏に暮らしているのに虐殺したのではありません。ちょうどかつてエジプトを出るときに、モーセがパロのところに行って、「民を出て行かせてください」と願い出たときにパロが心を強情にして出て行かせなかったので、主がエジプトに対して戦われたのと同じです。けれども主は、彼らが心をかたくなにすることを知っておられました。それで、初めから「戦いなさい」と命じられていたのです。

2:31 主は私に言われた。「見よ。わたしはシホンとその地とをあなたの手に渡し始めた。占領し始めよ。その地を所有せよ。」2:32 シホンとそのすべての民が、私たちを迎えて戦うため、ヤハツに出て来たとき、2:33 私たちの神、主は、彼を私たちの手に渡された。私たちは彼とその子らと、そのすべての民とを打ち殺した。2:34 そのとき、私たちは、彼のすべての町々を攻め取り、すべての町々・・男、女および子ども・・を聖絶して、ひとりの生存者も残さなかった。2:35 ただし、私たちが分捕った家畜と私たちが攻め取った町々で略奪した物とは別である。2:36 アルノン川の縁にあるアロエルおよび谷の中の町から、ギルアデに至るまで、私たちよりも強い町は一つもなかった。私たちの神、主が、それらをみな、私たちの手に渡されたのである。2:37 ただアモン人の地、ヤボク川の全岸と山地の町々には、私たちの神、主が命じられたとおりに、近寄らなかった。

 ヤボク川は、ガリラヤ湖と死海の中間辺りに到達する川ですが、ギルアデはそのヤボク川からガリラヤ湖の直前のところでヨルダン川に到達するヤムルク川までの一帯を指しています。

3B 従順による占領 3
1C 二部族半への所有地 1−22
3:1 私たちはバシャンへの道を上って行った。するとバシャンの王オグとそのすべての民は、エデレイで私たちを迎えて戦うために出て来た。3:2 そのとき、主は私に仰せられた。「彼を恐れてはならない。わたしは、彼と、そのすべての民と、その地とを、あなたの手に渡している。あなたはヘシュボンに住んでいたエモリ人の王シホンにしたように、彼にしなければならない。」3:3 こうして私たちの神、主は、バシャンの王オグとそのすべての民をも、私たちの手に渡されたので、私たちはこれを打ち殺して、ひとりの生存者をも残さなかった。3:4 そのとき、私たちは彼の町々をことごとく攻め取った。私たちが取らなかった町は一つもなかった。取った町は六十、アルゴブの全地域であって、バシャンのオグの王国であった。3:5 これらはみな、高い城壁と門とかんぬきのある要害の町々であった。このほかに、城壁のない町々が非常に多くあった。3:6 私たちはヘシュボンの王シホンにしたように、これらを聖絶した。そのすべての町々・・男、女および子ども・・を聖絶した。3:7 ただし、すべての家畜と、私たちが取った町々で略奪した物とは私たちのものとした。

 ヤムルク川を越えると、そこは現代のゴラン高原であるバシャンになります。シホンにしたのと同じように戦いなさい、という命令を受けて、それで戦いました。このようにして、彼らの戦いは、一歩一歩、主からの命令に聞き従うことによって成し遂げられました。

3:8 このようにして、そのとき、私たちは、ふたりのエモリ人の王の手から、ヨルダンの向こうの地を、アルノン川からヘルモン山まで取った。3:9 ・・シドン人はヘルモンをシルヨンと呼び、エモリ人はこれをセニルと呼んでいる。・・3:10 すなわち、高原のすべての町、ギルアデの全土、バシャンの全土、サルカおよびエデレイまでのバシャンのオグの王国の町々である。3:11 ・・バシャンの王オグだけが、レファイムの生存者として残っていた。見よ。彼の寝台は鉄の寝台、それはアモン人のラバにあるではないか。その長さは、規準のキュビトで九キュビト、その幅は四キュビトである。・・

 「ヘルモン山」は、ゴラン高原の北、現代イスラエルとレバノンの国境にある山で、そこがヨルダン川などの水源になっています。モアブの国境のアルノン川からこのヘルモン山までがイスラエルの占領地となりました。

 そして、先ほどレファイム人が出ていましたが、バシャンの王オグはその生き残りであったとあります。鉄の寝台で縦が約四メートル、幅が約1.8メートルありますが、それだけ巨大でした。ですから主は、敵の大きさに関わらず勝利を与えてくださるのです。

3:12 この地を、私たちは、そのとき、占領した。アルノン川のほとりのアロエルの一部と、ギルアデの山地の半分と、その町々とを私はルベン人とガド人とに与えた。3:13 ギルアデの残りと、オグの王国であったバシャンの全土とは、マナセの半部族に与えた。それはアルゴブの全地域で、そのバシャンの全土はレファイムの国と呼ばれている。3:14 マナセの子ヤイルは、ゲシュル人とマアカ人との境界までのアルゴブの全地域を取り、自分の名にちなんで、バシャンをハボテ・ヤイルと名づけて、今日に至っている。3:15 マキルには私はギルアデを与えた。3:16 ルベン人とガド人には、ギルアデからアルノン川の、国境にあたる川の真中まで、またアモン人の国境ヤボク川までを与えた。3:17 またアラバをも与えた。それはヨルダンを境界として、キネレテからアラバの海、すなわち、東のほうのピスガの傾斜地のふもとにある塩の海までであった。

 地図を見ていただければ分かりますが、マナセ半部族はバシャンとギルアデの一部を、ガドとルベンにはギルアデの残りとアルノン川までが与えられています。

3:18 私はそのとき、あなたがたに命じて言った。「あなたがたの神、主は、あなたがたがこの地を所有するように、あなたがたに与えられた。しかし、勇士たちはみな武装して、同族、イスラエル人の先に立って渡って行かなければならない。3:19 ただし、あなたがたの妻と子どもと家畜は、私が与えた町々にとどまっていてもよい。私はあなたがたが家畜を多く持っているのを知っている。3:20 主があなたがたと同じように、あなたがたの同族に安住の地を与え、彼らもまた、ヨルダンの向こうで、あなたがたの神、主が与えようとしておられる地を所有するようになったなら、そのとき、あなたがたは、おのおの私が与えた自分の所有地に帰ることができる。」3:21 私は、そのとき、ヨシュアに命じて言った。「あなたは、あなたがたの神、主が、これらふたりの王になさったすべてのことをその目で見た。主はあなたがたがこれから渡って行くすべての国々にも、同じようにされる。3:22 彼らを恐れてはならない。あなたがたのために戦われるのはあなたがたの神、主であるからだ。」

 ガド、ルベン、マナセ半部族には、前回学んだように、軍務につく成年男子はヨルダン川を渡らなければいけないと命じて、そしてヨシュア自身には主が戦ってくださることを強く言い渡しています。先ほどと同じように、「主がこれまで良くしてくださったのだから、なおのこと主は未来にも真実を尽くされる」ということです。21節に、「これらふたりの王になさったすべてのことをその目で見た」とあります。

 私たちにも、この経験が必要です。主がこのように勝利してくださったのだから、だからこれからの困難にも主は勝利を与えてくださるという経験です。パウロが、死を覚悟したほどの激しい圧迫から神が救い出してくださったことを考えながら、こう話しています。「ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。(2コリント1:10」過去、現在に受けている主の恵みによって、将来に信仰を置きます。

2C モーセ自身の不従順 23−29
3:23 私は、そのとき、主に懇願して言った。3:24 「神、主よ。あなたの偉大さと、あなたの力強い御手とを、あなたはこのしもべに示し始められました。あなたのわざ、あなたの力あるわざのようなことのできる神が、天、あるいは地にあるでしょうか。3:25 どうか、私に、渡って行って、ヨルダンの向こうにある良い地、あの良い山地、およびレバノンを見させてください。」3:26 しかし主は、あなたがたのために私を怒り、私の願いを聞き入れてくださらなかった。そして主は私に言われた。「もう十分だ。このことについては、もう二度とわたしに言ってはならない。3:27 ピスガの頂に登って、目を上げて西、北、南、東を見よ。あなたのその目でよく見よ。あなたはこのヨルダンを渡ることができないからだ。3:28 ヨシュアに命じ、彼を力づけ、彼を励ませ。彼はこの民の先に立って渡って行き、あなたの見るあの地を彼らに受け継がせるであろう。」3:29 こうして私たちはベテ・ペオルの近くの谷にとどまっていた。

 モーセは当然ながら、自分自身も約束の地を見たいと願っていました。けれども主は、「もう十分だ」ときっぱりと言われています。なぜならモーセは、イスラエルの不従順の代表者でもあったのです。モーセは忠実な僕です。けれども一度だけ、不従順になりました。その不従順の行為が、約束の地に入れない根拠となりました。他のイスラエルの民は不従順の罪を繰り返し、その罪で死んでいったので、モーセと彼らを同列に並べることはできません。けれども、モーセはこうした不従順の彼らをも代表しなければいけなかったのです。

2A 勧告において 4
 そこでモーセは、自分の例も引き合いに出して、主の命令に従わなければいけないのかを強く勧め始めます。そしてヨシュアが新しい指導者になりますが、自分がいなくなった後に彼らが生き残っていくことのできる唯一の道は、主の命令に聞き従うことであります。

1B 唯一なる神 1−40
1C 主の唯一の要求 1−9
4:1 今、イスラエルよ。あなたがたが行なうように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えようとしておられる地を所有することができる。4:2 私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を、守らなければならない。4:3 あなたがたは、主がバアル・ペオルのことでなさったことを、その目で見た。バアル・ペオルに従った者はみな、あなたの神、主があなたのうちから根絶やしにされた。4:4 しかし、あなたがたの神、主にすがってきたあなたがたはみな、きょう、生きている。4:5 見なさい。私は、私の神、主が私に命じられたとおりに、おきてと定めとをあなたがたに教えた。あなたがたが、はいって行って、所有しようとしているその地の真中で、そのように行なうためである。4:6 これを守り行ないなさい。そうすれば、それは国々の民に、あなたがたの知恵と悟りを示すことになり、これらすべてのおきてを聞く彼らは、「この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ。」と言うであろう。4:7 まことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民が、どこにあるだろうか。4:8 また、きょう、私があなたがたの前に与えようとしている、このみおしえのすべてのように、正しいおきてと定めとを持っている偉大な国民が、いったい、どこにあるだろう。4:9 ただ、あなたは、ひたすら慎み、用心深くありなさい。あなたが自分の目で見たことを忘れず、一生の間、それらがあなたの心から離れることのないようにしなさい。あなたはそれらを、あなたの子どもや孫たちに知らせなさい。

 これが、ホレブからベテ・ベオルの谷まで来た教訓であります。主の命令に聞き従いなさい、ということです。ぜひ午前礼拝の説教をお聞きください、そこに詳しく主の命令のすべてを聞くこと、主の命令が生活のすべてに行渡ることの重要性を話しています。

 イスラエルの民の特権は、主の言葉による知恵と悟りがある、ということの他に7節によると、「近くに主がおられる」ということがあります。私たちキリスト者も忘れないようにしたいと思います。私たちキリスト者がキリスト者でいて良かった、と思われることは、この聖書の言葉を持っていることと、そして祈れば主が応えてくださるほど近くにいてくださる、ということです。多くの宗教は、多額の献金をしなさい、何千回も同じ言葉を繰り返しなさい、など多くのことを経て後、もしかしたら祈りが聞き届けられるかもしれない、というものです。私たちの神は違います。「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。(マタイ6:8

2C ホレブでの火なる神 10−24
4:10 あなたがホレブで、あなたの神、主の前に立った日に、主は私に仰せられた。「民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしのことばを聞かせよう。それによって彼らが地上に生きている日の間、わたしを恐れることを学び、また彼らがその子どもたちに教えることができるように。」4:11 そこであなたがたは近づいて来て、山のふもとに立った。山は激しく燃え立ち、火は中天に達し、雲と暗やみの暗黒とがあった。4:12 主は火の中から、あなたがたに語られた。あなたがたはことばの声を聞いたが、御姿は見なかった。御声だけであった。4:13 主はご自分の契約をあなたがたに告げて、それを行なうように命じられた。十のことばである。主はそれを二枚の石の板に書きしるされた。4:14 主は、そのとき、あなたがたにおきてと定めとを教えるように、私に命じられた。あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地で、それらを行なうためであった。4:15 あなたがたは十分に気をつけなさい。主がホレブで火の中からあなたがたに話しかけられた日に、あなたがたは何の姿も見なかったからである。4:16 堕落して、自分たちのために、どんな形の彫像をも造らないようにしなさい。男の形も女の形も。4:17 地上のどんな家畜の形も、空を飛ぶどんな鳥の形も、4:18 地をはうどんなものの形も、地の下の水の中にいるどんな魚の形も。4:19 また、天に目を上げて、日、月、星の天の万象を見るとき、魅せられてそれらを拝み、それらに仕えないようにしなさい。それらのものは、あなたの神、主が全天下の国々の民に分け与えられたものである。

 主は、9節で、「ただ用心深くしていなさい。主がなされたことを忘れないようにしなさい。」と命じられましたが、その主がなされたことは、十戒を与えられたときのことです。その時に、御姿はなく、ただ火の中からの声だけでありました。これが主の本質であり、形を造ってはいけないというのが主からの戒めです。イスラエルはエジプトから出てきました。そこにある偶像崇拝には慣れ親しんでいました。けれども、その習慣を注意して離れなさい、と主は命じられています。

 私たち人間の心は不思議にも、目に見えるものに引き寄せられます。すべて目に見える良きものは、目に見えない神から来ているにも関わらず、その目に見えるものに情熱を傾けます。パウロもこう説明しました。「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。(ローマ1:20-23

 私たちの目に見えてくるものは、どんなものでも偶像になります。まことの神以外のもので、自分が情熱を傾け、それに依存して生きるのであればそれがそのまま偶像になります。私たちは、万物を支配しながら生きているでしょうか、それともその被造物に支配されて生きているでしょうか?まことの自由は、まことの神にのみの支配を受けて、その他のものを神の御心に従って管理していくことにあります。

 そして私たちが、目に見えない生きた神と親しくなる方法は、まさしく御声と御言葉によるものです。ですから、このようにしっかりと御言葉によって神を知り、また口をもって言葉によって神を賛美し、信仰告白を言葉で行なうことによって初めて神を知ることができます。もちろん主は幻によってご自身を示されることもあります。けれども、私たちの感覚以上に、不動の約束の言葉が生ける神との交わりを可能にするのです。

4:20 主はあなたがたを取って、鉄の炉エジプトから連れ出し、今日のように、ご自分の所有の民とされた。4:21 しかし、主は、あなたがたのことで私を怒り、私はヨルダンを渡れず、またあなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる良い地にはいることができないと誓われた。4:22 私は、この地で、死ななければならない。私はヨルダンを渡ることができない。しかしあなたがたは渡って、あの良い地を所有しようとしている。4:23 気をつけて、あなたがたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れることのないようにしなさい。あなたの神、主の命令にそむいて、どんな形の彫像をも造ることのないようにしなさい。4:24 あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神だからである。

 ここに、とても大事な神の本質がここに書かれています。「あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神だからである。」とあります。これは、ヘブル書にも引用されている主の本質です。「神は・・・である」という言葉が聖書にはいくつかありますが、例えば「神は愛です。」はその一つです。「神は光です」というのもあります。そしてここでは、「焼き尽くす火です」というのもあるのです。

 火の中に主が現れましたがその火は神の聖さを表していると同時に、愛を表しています。「ねたむ神」というところにそれが表れています。誰かが「愛の反対語」という問いをした時に、「憎む」というのは間違った答えである、「無関心」が反対語だ、という話を聞いたことがあります。主の愛は、私たちをねたむ程に愛しておられる愛です。私たちが自分の心の思うままに生きているときに、そのままでいいんだよ、と言っていられるような愛ではないのです。私たちが道を外して生きているときに、胸が張り裂けそうになり、何とかしてご自身のところに引き戻そうとするのがその愛です。

 申命記の主題になっていきますが、それは主が私たちをご自身のものにする、という熱い愛であります。主は私たちのためにキリストを十字架につけました。「神が愛だというのは良いんだけれども、別に十字架にまでかかってくれなくて良かったのに。」と私たちの人間的な思いは言います。けれども主は熱情を持っておられます。私たちが罪の中で死に、その状態でご自身がお裁きになるのを神ご自身が最も嫌がっておられるのです。だから、私たちがまだ神にそっぽを向いているときにでさえ、ご自身の独り子を死に渡すことさえされたのです。ここに愛があるのです。私たちは申命記を通して、私たち人間が普通に考える「愛」と神の愛の違いを知ることができます。

3C これからの道 25−31
4:25 あなたが子を生み、孫を得、あなたがたがその地に永住し、堕落して、何かの形に刻んだ像を造り、あなたの神、主の目の前に悪を行ない、御怒りを買うようなことがあれば、4:26 私は、きょう、あなたがたに対して、天と地とを証人に立てる。あなたがたは、ヨルダンを渡って、所有しようとしているその土地から、たちまちにして滅びうせる。そこで長く生きるどころか、すっかり根絶やしにされるだろう。4:27 主はあなたがたを国々の民の中に散らされる。しかし、ごくわずかな者たちが、主の追いやる国々の中に残される。4:28 あなたがたはそこで、人間の手で造った、見ることも、聞くこともせず、食べることも、かぐこともしない木や石の神々に仕える。4:29 そこから、あなたがたは、あなたの神、主を慕い求め、主に会う。あなたが、心を尽くし、精神を尽くして切に求めるようになるからである。4:30 あなたの苦しみのうちにあって、これらすべてのことが後の日に、あなたに臨むなら、あなたは、あなたの神、主に立ち返り、御声に聞き従うのである。4:31 あなたの神、主は、あわれみ深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの先祖たちに誓った契約を忘れない。

 主は、偶像を避けなさいという戒めと、彼らと約束の地の所有の定めがつながっていることを教えておられます。そして、これは将来イスラエルに起こる預言となっています。イスラエルがこれから偶像に引き寄せられ、そのためにこの地から引き抜かれます。そして離散の地で、偶像に仕えることの奴隷状態を味わいます。そこから主に彼らが立ち返ります。そして主は彼らを救ってくださいます。これがレビ記26章にてモーセが話したことですし、また申命記の終わりでもモーセが再び詳しくこのことを説明します。

4C 偉大な国民 32−40
4:32 さあ、あなたより前の過ぎ去った時代に尋ねてみるがよい。神が地上に人を造られた日からこのかた、天のこの果てからかの果てまでに、これほど偉大なことが起こったであろうか。このようなことが聞かれたであろうか。4:33 あなたのように、火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きていた民があっただろうか。4:34 あるいは、あなたがたの神、主が、エジプトにおいてあなたの目の前で、あなたがたのためになさったように、試みと、しるしと、不思議と、戦いと、力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力とをもって、一つの国民を他の国民の中から取って、あえてご自身のものとされた神があったであろうか。4:35 あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であって、ほかには神はないことを、あなたが知るためであった。

 イスラエル自身は当たり前のようにしてしまっていることかもしれません。けれども、シナイ山で火の中からの神の声を聞いてなお生き残っている、エジプトにおいて力強い業を見せる、このような民は他にはいません。私たちはどうでしょうか?この聖なる神に、キリストが注がれた血によって完全に罪が洗い清められている。そして、キリストがよみがえられたことによって、私たちにも永遠の命が与えられている。ただ信じていることによって、神の国の相続が約束されている。これほど偉大な国民が他にいるだろうか?というjことです。

 そして、主がこれらのことを通して願っておられるのは、イスラエルにとって主だけがただ独りの神だということを知ることです。

4:36 主はあなたを訓練するため、天から御声を聞かせ、地の上では、大きい火を見させた。その火の中からあなたは、みことばを聞いた。4:37 主は、あなたの先祖たちを愛して、その後の子孫を選んでおられたので、主ご自身が大いなる力をもって、あなたをエジプトから連れ出された。4:38 それはあなたよりも大きく、強い国々を、あなたの前から追い払い、あなたを彼らの地にはいらせ、これを相続地としてあなたに与えるためであった。今日のとおりである。4:39 きょう、あなたは、上は天、下は地において、主だけが神であり、ほかに神はないことを知り、心に留めなさい。4:40 きょう、私が命じておいた主のおきてと命令とを守りなさい。あなたも、あなたの後の子孫も、しあわせになり、あなたの神、主が永久にあなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生き続けるためである。

 これでモーセの説教の一区切りが終わります。37節に、「主は、あなたの先祖たちを愛して、その後の子孫を選んで」とあります。主が、「わたしだけが神なのだ」と言われていること、主がねたんでおられること、これはひとえに神が愛している、ということなのです。主が夫であれば、私たちにとって愛すべき人はこの方のみなのだ、ということです。けれども私たちは実に、心が迷いますね。実に他のものに心が引き寄せられます。だからモーセがイスラエルに対して語っているように、私たちも用心して、慎み深くして、主の命令に目を留めていくのです。そして、独り子を与えてくださったほどに愛してくださった神に、十分な応答をすることができるようにするのです。 

2B 三つの逃れの町 41−49
4:41 それからモーセは、ヨルダンの向こうの地に三つの町を取り分けた。東のほうである。4:42 以前から憎んでいなかった隣人を知らずに殺した殺人者が、そこへ、のがれることのできるためである。その者はこれらの町の一つにのがれて、生きのびることができる。4:43 ルベン人に属する高地の荒野にあるベツェル、ガド人に属するギルアデのラモテ、マナセ人に属するバシャンのゴランである。

 前回の民数記の最後の学びで、逃れの町が六つあることを習いましたが、ここで東側の二部族半に三つの町をあてがっています。その一つマナセ族の「ゴラン」がありますが、この町から今の「ゴラン高原」という名称が出来ました。

4:44 これはモーセがイスラエル人の前に置いたみおしえである。4:45 これはさとしとおきてと定めであって、イスラエル人がエジプトを出たとき、モーセが彼らに告げたのである。4:46 そこは、ヨルダンの向こうの地、エモリ人の王シホンの国のベテ・ペオルの前の谷であった。シホンはヘシュボンに住んでいたが、モーセとイスラエル人が、エジプトから出て来たとき、彼を打ち殺した。4:47 彼らは、シホンの国とバシャンの王オグの国とを占領した。このふたりのエモリ人の王はヨルダンの向こうの地、東のほうにいた。4:48 それはアルノン川の縁にあるアロエルからシーオン山、すなわちヘルモンまで、4:49 また、ヨルダンの向こうの地、東の、アラバの全部、ピスガの傾斜地のふもとのアラバの海までである。

 以上、モーセが語った所と時を説明してまとめています。次回は、申命記の中心部分、十戒をはじめとする律法の教えの部分に入ります。

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