申命記12−13章 「主にとって正しいこと」

 

1A 選ばれた場所 12
   1B してはいけないこと 1−14
      1C 偶像をそのままにする 1−7
      2C 自分の目に正しいことをする 8−14
   2B 主が賜わる祝福 15−28
      1C 肉を食べる 15−19
      2C 領土が広くされる 20−28
   3B 偶像に対する警告 29−32
2A そそのかし 13
   1B 偽預言者のしるし 1−5
   2B 身内の者のさそい 6−11
   3B 町中の迷い 12−18
 

本文

 申命記12章を開いてください。今日は12章と13章を学びます。ここでのテーマは、「主にとって正しいこと」です。もう一度、申命記11章までのことをおさらいしましょう。モーセとイスラエルの民は、今、ヨルダン川の東にあるモアブの地にいます。ここで彼は、イスラエルの民に最後のことばを話します。主が命じておられている戒めがあるのですが、それに聞き、守り行なうようにと勧めています。

 その戒めは、これまで出エジプト記、レビ記、民数記で語られてきたこととかなり重複しますが、申命記での特徴は、主がイスラエルを愛し、またイスラエルが主を心を尽くして愛するという、愛の関係です。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」という有名な御言葉は、申命記6章5節のことばです。また、「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれた」とも書かれています。

 モーセは、1章から4章までに、エジプトを出てからモアブの地まで来たその行程を話しました。そこでの強調点は、主の言われていることに聞き従っていたかどうか、ということでした。人の声ではなく、主の御声を聞いていたか。私は、妻から頼まれたことを忘れるとき、「私の言っていること聞いていないでしょ!」と言われるのですが、このようなことが主からの語りかけを受けているときに起こってしまうことです。その教訓をモーセはイスラエルの民に話しています。

 5章から実際に、主からの戒めについて語り始めました。十戒から始まり、主を恐れて、みことばをしっかりと刻み込むようにという命令、異邦の民をことごとく滅ぼし、彼らと婚姻関係を結んではいけないという戒めなどがありました。そして、約束の地で祝福されたときに、「自分の力で豊かになったのだ」と言わないようにという戒めもありました。祝福されると、自分がどこから来たかを忘れてしまいます。さらに、異邦の民を追い出しているときに、自分が正しいからだ、と思わないようにとも言っています。自分はそれほど悪い人間ではない、と思うようになる弱さがありますね。これらはみな、主を自分の夫のようにして、慕い求め、愛していくときの妨げになります。だから、戒めをモーセは与えました。

 そして12章に入りますが、12章から、5章から11章までに語られた原則的なことを、具体的な場面に適用させています。主を愛し、心を尽くして愛するためにはどういうことをしなければならないかについて、書いています。この具体的なことは26章まで続きます。今日は初めの2章に焦点を当てたいと思います。

1A 選ばれた場所 12
1B してはいけないこと 1−14

1C 偶像をそのままにする 1−7
 これは、あなたの父祖の神、主が、あなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたがたが生きるかぎり、守り行なわなければならないおきてと定めである。あなたがたが所有する異邦の民が、その神々に仕えた場所は、高い山の上であっても、丘の上であっても、また青々と茂ったどの木の下であっても、それをことごとく必ず破壊しなければならない。彼らの祭壇をこわし、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を火で焼き、彼らの神々の彫像を粉砕して、それらの名をその場所から消し去りなさい。あなたがたの神、主に対して、このようにしてはならない。

 主が与えられる土地に、他の神々の名を残してはならない、消し去りなさいという命令です。カナン人たちは、その偶像を特別な場所、高い山の上とか丘の上、木の下などに据えていました。これは、日本などアニミズムの宗教を持つ国ならどこででも見かけるものです。これらを粉砕しなさい、と命じています。

 ただあなたがたの神、主がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ぶ場所を尋ねて、そこへ行かなければならない。あなたがたは全焼のいけにえや、ほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、誓願のささげ物、進んでささげるささげ物、あなたがたの牛や羊の初子を、そこに携えて行きなさい。その所であなたがたは家族の者とともに、あなたがたの神、主の前で祝宴を張り、あなたの神、主が祝福してくださったあなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。

 今、モーセが教えようとしているのは、約束の地における礼拝です。所有の土地にはいっさい偶像の名を置かず、粉砕し、そして、選ばれた場所でいけにえをささげます。ヨシュア記以降を読みますと、初めはシロというところに幕屋が置かれて、サムエル記第一には、それがギルガルに移されました。ダビデの時にエルサレムへと移されて、神殿がソロモンの時に建てられました。いろいろ移動はしていますが、選ばれた場所で礼拝をささげることが、ここでのポイントです。

 そして、礼拝は全焼のいけにえと他のいけにえです。全焼のいけにえは、主への献身を表しています。また収穫物の十分の一をささげますがこれは13章にさらに詳しく書かれています。そして奉納物は、幕屋の奉仕に必要なものをささげるささげものです。誓願のささげ物は、何か自分が志を立てて、一つのことを、責任を持って行なうことを示すささげものです。そして進んでささげるささげ物とありますが、ささげ物で大切なことは、人に言われてではなく、自発的な神への応答であることです。人に言われて動くのでは、それは礼拝ではありません。主に自発的に応答し、それを行動に出して表すことが必要です。そして、牛と羊の初子ですが、これは自分のものではなく、すでに神のものとされています。必ずささげなければいけません。初めのもの、最初のもの、また最上のものを主にささげることにより、主がもっとも大切な方であることを知ることができます。イエスさまも、金持ちの宗教家たちの献金ではなく、貧しいやもめの献金が天において多くささげられたと言われましたが、犠牲がともなって初めてそれが礼拝となります。自分ができるときに礼拝をする、というのは、主に可能性をかけるのではなく、自分に可能性を置いていることです。主ではなく、自分の世界に生きることになります。

 そしてこれらを携え上って行くとき、家族とともに祝宴を張ります。主が与えられたものを喜び楽しむ、とありますが、私たちの礼拝の特徴は喜びです。「主を喜ぶことが、あなたの力です」とネヘミヤが言いましたが、礼拝は気を重くしてまじめになることではなく、心の奥底から湧き出る喜びと楽しみに特徴づけられています。

2C 自分の目に正しいことをする 8−14
 8節です。あなたがたは、私たちがきょう、ここでしているようにしてはならない。おのおのが自分の正しいと見ることを何でもしている。あなたがたがまだ、あなたの神、主のあなたに与えようとしておられる相続の安住地に行っていないからである。

 ここに大事な言葉が出てきました。「おのおのが自分の正しいと見ることを何でもしている。」とうう言葉です。自分が良かれと思って行動することです。神が言われたことを行なうのではなく、いつも、「こうしたら、ああなって、それでこの人がこう言うからああ動いて・・・」と、計算の中で生きていることです。自分の判断で生きています。けれども、それは信仰者の態度ではありません。信仰者は信仰によって動きます。自分には判断がつかなくても、主がおっしゃられていることに従っていくことです。理解できなくても従順になることです。

 あなたがたは、ヨルダンを渡り、あなたがたの神、主があなたがたに受け継がせようとしておられる地に住み、主があなたがたの回りの敵をことごとく取り除いてあなたがたを休ませ、あなたがたが安らかに住むようになるなら、あなたがたの神、主が、御名を住まわせるために選ぶ場所へ、私があなたがたに命じるすべての物を持って行かなければならない。

 5節にも出てきた表現ですが、選ばれる場所は、主がご自分の御名を住まわせるところです。御名が住むというのは、主ご自身を知っていくということであり、主のご性質、みわざを十分に知ることができるところです。主イエス様が言われました。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。(マタイ18:20」私たちは、クリスチャンが主の御名において集まるところで、礼拝をささげることができます。主が自分のうちにおられるのだから、ひとりで礼拝することはできるではないか、と考えることができるかもしれません。しかし、ここで大事なことがあります。モーセは、「おのおのが自分の正しいと見ることをしている」と言いました。自分で主を礼拝しているようなつもりでも、実は自分が正しいと思うようなことをしているにしかすぎないということです。悪い意味の、クリスチャン個人主義とでも申しましょうか、集まって、主イエス・キリストに出会うところには、互いに責任関係が生まれます。ともに主にあって働き、祈りあい、仕え合います。その時に、自分が正しいと思うことではなく、主が正しいと思われていることは何かを求めることができます。「鉄が鉄を研ぐ」という御言葉がありますが、主にあって集まるところにこそ、自分の思いが、自分勝手なものから主へのものへときよめられていくのです。

 あなたがたの全焼のいけにえとそのほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、それにあなたがたが主に誓う最良の誓願のささげ物とである。あなたがたは、息子、娘、男奴隷、女奴隷とともに、あなたがたの神、主の前で喜び楽しみなさい。また、あなたがたの町囲みのうちにいるレビ人とも、そうしなさい。レビ人にはあなたがたにあるような相続地の割り当てがないからである。

 ともに主の前で喜び楽しむとき、7節には家族とともにありましたが、ここでは奴隷も、またレビ人も祝います。レビ人は、その生活をその町の人々に支えられています。彼らは主への奉仕のために召されている人々です。このような人たちをないがしろにしてはいけません。教会も同じです。主への奉仕にたずさわっている人々が、なるべくその物質的必要を教会によって支えられていくときに、その教会が健全となっていきます。

 全焼のいけにえを、かって気ままな場所でささげないように気をつけなさい。ただ主があなたの部族の一つのうちに選ぶその場所で、あなたの全焼のいけにえをささげ、その所で私が命じるすべてのことをしなければならない。

 自分勝手な礼拝、というのが存在します。自分に都合の良いことばかりを聞き、そうでないものは捨てるという、自分を中心として礼拝です。主をあがめているようですが、実は自分をあがめてしまっています。そして、自分の好きな方法で礼拝をささげると、そこには偶像が生まれます。自分だけの世界、自分だけの宮ができ、そこに祭司を雇うという、士師記に出て来るミカのようになるのです。(士師記17章)主はこれを忌み嫌われます。私たちははたして、他のクリスチャンと共有している、一つの思い、一つの幻、一つの信仰を教会の中で持っているでしょうか。御霊が教会に語られていることがあり、それを聞いていくのが一人一人に課せられている役目です。そして、その導きは、教会の指導者に与えられ、牧師が主によって導かれることによって教会が導かれていきます。この幻をつかみ取ることがとても大事です。

2B 主が賜わる祝福 15−28
 このような、選ばれた場所で礼拝をささげることができる、しっかりとした土台を据えた民は、主が与えてくださる祝福を受け取る能力が身につきます。

1C 肉を食べる 15−19
 しかしあなたの神、主があなたに賜わった祝福にしたがって、いつでも自分の欲するとき、あなたのどの町囲みのうちでも、獣をほふってその肉を食べることができる。汚れた人も、きよい人も、かもしかや、鹿と同じように、それを食べることができる。

 肉を食べることについてですが、ささげものとしての家畜、牛や羊以外のきよい動物は、食べて良いようになっています。主が与えられたものを楽しむことができます。

 ただし、血は食べてはならない。それを地面に水のように注ぎ出さなければならない。

 肉を食べるときに気をつけなければいけないのは、血を食べないことです。周りの異教の神々においては、むしろ血を飲むことがその宗教儀式にさえなっていることがあります。もし、イスラエルの民が自分たちの礼拝をしっかり守っていなければ、用意にそうしたならわしに従ってしまうことになります。けれども、しっかりしているならば、自分たちだけでも、主を中心とした生活をすることができるのです。

 あなたの穀物や新しいぶどう酒や油の十分の一、あるいは牛や羊の初子、または、あなたが誓うすべての誓願のささげ物や進んでささげるささげ物、あるいは、あなたの奉納物を、あなたの町囲みのうちで食べることはできない。ただ、あなたの神、主が選ぶ場所で、あなたの息子、娘、男奴隷、女奴隷、およびあなたの町囲みのうちにいるレビ人とともに、あなたの神、主の前でそれらを食べなければならない。あなたの神、主の前で、あなたの手のすべてのわざを喜び楽しみなさい。

 主にささげるべきものはみな、選ばれた所で食べなければいけません。礼拝というと、重々しい響きがありますが、このように、主に祈って、感謝して食事をするとき、それは礼拝ということになります。パウロはテモテに言いました。「神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。神のことばと祈りとによって、聖められるからです。(Tテモテ4:4−5)

 あなたは一生、あなたの地で、レビ人をないがしろにしないように気をつけなさい。

2C 領土が広くされる 20−28
 あなたの神、主が、あなたに告げたように、あなたの領土を広くされるなら、あなたが肉を食べたくなったとき、「肉を食べたい。」と言ってよい。あなたは食べたいだけ、肉を食べることができる。もし、あなたの神、主が御名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、私があなたに命じたように、あなたは主が与えられた牛と羊をほふり、あなたの町囲みのうちで、食べたいだけ食べてよい。かもしかや、鹿を食べるように、それを食べてよい。汚れた人もきよい人もいっしょにそれを食べることができる。

 ここでモーセが語っているのは、領土が拡大されて、シロなりギルガルなり、主の幕屋が置かれている場所が遠くなったときの話です。そのときは、羊でも牛でも自分たちのところで食べて良いことになっています。領土が拡大されているということが、イスラエルの民に主がともにいてくださっているからであり、イスラエルが神に従順であるからです。彼らが、主への礼拝をきちんと行なっているからこそ、その領土が拡大し、そのために出てきた不都合です。

 主に対する礼拝のために共に集まり、そこで御霊が働いてくださり、そして主の働きが広がっていきます。いろいろなところに、それぞれの場においての活動が増えてきます。このようなかたちで、それぞれが動いているのであればそれは健全なことであり、いつも中心点は、集まったところの礼拝にあることを知っているからです。もしその中心点を自分の好きなところ、例えば自分の家であったりするならば、それはさきほどの、自分の正しいと思うことを行なっていることになります。ですから、教会あっての、それぞれの場であるのです。

 ただ、血は絶対に食べてはならない。血はいのちだからである。肉とともにいのちを食べてはならない。

 血を食べてはいけないのは、それがいのちだからです。神がいのちを与えられたことを尊ばなければならず、また血は、犠牲の供え物のいのちでもあります。これは、今の時代のクリスチャンにとっては、イエス・キリストの血をないがしろにしない、ということです。この方の血こそが、私たちをきよめ、私たちを一つにしてくれます。ともに集まっているとき、キリストの血潮を仰ぎ見ることが必要です。

 血を食べてはならない。それを水のように地面に注ぎ出さなければならない。血を食べてはならない。あなたも、後の子孫もしあわせになるためである。あなたは主が正しいと見られることを行なわなければならない。

 自分が正しいと見えることではなく、主が正しいと見られることを行ないます。

 ただし、あなたがささげようとする聖なるものと誓願のささげ物とは、主の選ぶ場所へ携えて行かなければならない。あなたの全焼のいけにえはその肉と血とを、あなたの神、主の祭壇の上にささげなさい。あなたの、ほかのいけにえの血は、あなたの神、主の祭壇の上に注ぎ出さなければならない。その肉は食べてよい。気をつけて、私が命じるこれらのすべてのことばに聞き従いなさい。それは、あなたの神、主がよいと見、正しいと見られることをあなたが行ない、あなたも後の子孫も永久にしあわせになるためである。

 再び、主がよいと見、正しいと見られることを行いなさい、と命じています。自分の方法ではなく、主が方法を求めましょう。

3B 偶像に対する警告 29−32
 あなたが、はいって行って、所有しようとしている国々を、あなたの神、主が、あなたの前から断ち滅ぼし、あなたがそれらを所有して、その地に住むようになったら、よく気をつけ、彼らがあなたの前から根絶やしにされて後に、彼らにならって、わなにかけられないようにしなさい。彼らの神々を求めて、「これらの異邦の民は、どのように神々に仕えたのだろう。私もそうしてみよう。」と言わないようにしなさい。

 モーセが、ここまで選ばれた所での礼拝にこだわっているのは、一番の理由は、彼らが異教の神々を求めないようにするためです。それぞれが自分の正しいことを行ない、別のところでいけにえをささげていたら、彼らの中にある偶像に引き寄せられてしまいます。だから、その偶像を粉砕し、粉砕するだけでなく、選ばれた一つの場所で礼拝をささげるのです。こうして、彼らの心が偶像に傾かないようにするのです。

 これは、私たち人間が持っている根本的な問題です。偶像をもってしまうことです。主なる神ではないものをもっとも大事なものとするとき、それが偶像となります。主との愛の関係を妨げるようなものがあるのであれば、それが偶像です。この偶像をなくさないと、一対一の契約による主との関係を保つことができません。ですから、共に一つところの集まって、祈り、パンを裂き、交わり、そして使徒の教えを固く守る、という初代教会の方法にならうのです。

 あなたの神、主に対して、このようにしてはならない。彼らは、主が憎むあらゆる忌みきらうべきことを、その神々に行ない、自分たちの息子、娘を自分たちの神々のために、火で焼くことさえしたのである。

 赤ん坊を火の中で焼くことが、カナン人らの宗教儀式の中にありました。このような恐ろしいことをしていたため、神はこの住民をことごとく滅ぼすと言われたのです。イスラエルはことごく滅ぼす器となり、その使命を果たさなければいけませんでした。

 あなたがたは、私があなたがたに命じるすべてのことを、守り行なわなければならない。これにつけ加えてはならない。減らしてはならない。

2A そそのかし 13
 モーセの、偶像に対する警告は引き続きます。

1B 偽預言者のしるし 1−5
 あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現われ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう。」と言っても、その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。

 12章は、自分たちの周りにある偶像の粉砕を命じられていましたが、今度は自分たちの中で、偶像へとさそい込む悪が出てきたときの対処が語られています。初めは偽預言者です。彼らは不思議なことをして、だから神が行なっているとだまします。そして、ヤハウェなる主ではなく、他の神々を紹介して、イスラエルの民を偶像礼拝へと導こうとするのです。

 あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。あなたがたの神、主に従って歩み、主を恐れなければならない。主の命令を守り、御声に聞き従い、主に仕え、主にすがらなければならない。

 キリスト教会の中でも、偽預言者、偽教師が出て来ます。彼らは超自然的なことをするかもしれないし、あるいは、顕著な働きがあるかもしれません。そのときに、なんらしるしもない主を信じ続けるのは、試されます。けれども、このときこそ、自分が主を愛しているのかがはっきりとするのです。自分が結婚をして、結婚をした後に、結婚をする前に描いていた理想の女性が自分の前にあらわれたとします。それでも、妻を愛することを選ぶとき、本当に自分は妻を愛していることが明らかにされます。これと同じです。しるしがあっても、それでも主を愛しているか、です。

 その預言者、あるいは、夢見る者は殺されなければならない。その者は、あなたがたをエジプトの国から連れ出し、奴隷の家から贖い出された、あなたがたの神、主に、あなたがたを反逆させようとそそのかし、あなたの神、主があなたに歩めと命じた道から、あなたを迷い出させようとするからである。あなたがたのうちからこの悪を除き去りなさい。

 とても厳しい処罰が、偽預言者には与えられます。イスラエルが神々を拝んだなら、それでイスラエルは滅んでしまう危機に立たされます。これはイスラエルの生存に関わることです。イスラエルが生きるために、偽預言者は殺されます。

2B 身内の者のさそい 6−11
 あなたと母を同じくするあなたの兄弟、あるいはあなたの息子、娘、またはあなたの愛妻、またはあなたの無二の親友が、ひそかにあなたをそそのかして、「さあ、ほかの神々に仕えよう。」と言うかもしれない。

 今度は、家族の者たち、また非常に身近な者が、他の神々に誘い込むときの場合です。

 これは、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった神々で、地の果てから果てまで、あなたの近くにいる、あるいはあなたから遠く離れている、あなたがたの回りの国々の民の神である。あなたは、そういう者に同意したり、耳を貸したりしてはならない。このような者にあわれみをかけたり、同情したり、彼をかばったりしてはならない。

 家族の者や、身近な者のときには、彼らへの愛があります。ですから、彼らをかわいそうに思ってしまいます。けれども、主はあわれみをかけたり、同情したりしてはいけないと言われています。私たちにとって辛いことは、自分の身近な者のために、主の道を妨げられることです。けれども、イエスさまが言われました。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。(マタイ10:37)」主と私たちとの愛の関係は、もっとも熱く、かたく、結びつき、だれもその真ん中に入ってきてはいけないものです。その中に入ってくるもっとも大きな要素は、家族です。ですから、イエスさまはルカの福音書で、「憎む」という言葉さえも使っておられます。憎しみを持つということではなく、強い決断が必要ということです。

 必ず彼を殺さなければならない。彼を殺すには、まず、あなたが彼に手を下し、その後、民がみな、その手を下すようにしなさい。

 民がまずその者を殺すのではなく、「あなた」つまり、家族の者が殺します。自分と神さまとの関係は、他の人には代わってやってもらうことはできないのです。

 彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。彼は、エジプトの地、奴隷の家からあなたを連れ出したあなたの神、主から、あなたを迷い出させようとしたからである。イスラエルはみな、聞いて恐れ、重ねてこのような悪を、あなたがたのうちで行なわないであろう。

3B 町中の迷い 12−18
 もう一つ、そそのかしの例をモーセは語っています。もし、あなたの神、主があなたに与えて住まわせる町の一つで、よこしまな者たちが、あなたがたのうちから出て、「さあ、あなたがたの知らなかったほかの神々に仕えよう。」と言って、町の住民を迷わせたと聞いたなら、あなたは、調べ、探り、よく問いたださなければならない。

 イスラエルの民の中で、ある町で偶像礼拝へと導く者が出て、その町中全体が偶像礼拝に陥ってしまった場合のことです。これは大変深刻な事態であり、厳しい処置が必要なのですが、はたして本当かどうか、しっかりと事実確認をしなければいけません。

 もし、そのような忌みきらうべきことがあなたがたのうちで行なわれたことが、事実で確かなら、あなたは必ず、その町の住民を剣の刃で打たなければならない。その町とそこにいるすべての者、その家畜も、剣の刃で聖絶しなさい。そのすべての略奪物を広場の中央に集め、その町と略奪物のすべてを、あなたの神、主への焼き尽くすいけにえとして、火で焼かなければならない。その町は永久に廃墟となり、再建されることはない。

 人も殺され、家畜も殺されます。略奪物もみな、火で焼かなければいけません。永久の廃墟です。

 この聖絶のものは何一つ自分のものにしてはならない。主が燃える怒りをおさめ、あなたにあわれみを施し、あなたをいつくしみ、あなたの先祖たちに誓ったとおり、あなたをふやすためである。

 ここまで厳しい処置が必要であるのは、主がつづけて、イスラエルの民をあわれみ、いつくしみ、彼らがふえていくためです。彼らが生き残っていくためです。

 あなたは、必ずあなたの神、主の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じるすべての主の命令を守り、あなたの神、主が正しいと見られることを行なわなければならない。

 身近な人々に対して、死刑という処置は非常に辛いものです。今まで尊敬していた指導者が異端的な教えを説き始めた。家族の者が主の道に従うのを妨げる。また、すでにある教会のメンバーが、信仰から離れて、堕落してしまった。これらの出来事が起こったとき、私たちは自分たちが正しいと見られることをしてしまいがちです。けれども、自分の悟りに頼らず、力を尽くして主に拠り頼みます。

 このように、12章も13章も、ここでのモーセの戒めは、自分の判断や計算などに頼らず、主が言われていることを信頼して行なっていく大切さが説かれていました。私たちの性質は、いっしょに集まることを避け、また身近な人に優しくすることです。人の目には良くても主の目にはどう移っているのかに注目していきたいと思います。



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