申命記17−19章 「正しいさばき」

アウトライン

1A 祭司の教え 17
   1B さばきの執り行い 1−13
      1C ふたり、三人の証言 1−7
      2C 裁判者 8−13
   3B 律法にしばられる王 14−20
2A 伺いを立てるべき人 18
   1B 祭司 1−8
   2B 預言者 9−22
      1C 占いの禁止 9−13
      2C もう一人の預言者 14−22
3A 被疑者の保護 19
   1B 逃れの町 1−14
      1C 悪意のない殺人 1−7
      2C 悪意のある殺人 8−14
   2B 偽りの証言への罰 15−21
 

本文

 申命記17章を開いてください。今日は、17章から19章までを学びます。ここでのテーマは、「正しいさばき」です。17章に入る前に、16章後半部分から読んでみましょう。16章18節をごらんください。

 あなたの神、主があなたに与えようとしておられるあなたのすべての町囲みのうちに、あなたの部族ごとに、さばきつかさと、つかさたちを任命しなければならない。彼らは正しいさばきをもって民をさばかなければならない。あなたはさばきを曲げてはならない。人をかたよって見てはならない。わいろを取ってはならない。わいろは知恵のある者の目をくらませ、正しい人の言い分をゆがめるからである。正義を、ただ正義を追い求めなければならない。そうすれば、あなたは生き、あなたの神、主が与えようとしておられる地を、自分の所有とすることができる。

 イスラエルの民が、これから約束の地にはいります。そして、そこでイスラエル共同体として生きていきます。その時に、対人関係や、また対神関係と呼んだらようのでしょうか、神に対する関係において、間違いを犯す人たちが現われるでしょう。そのときに、どのようにして、その罪を犯した人がさばかれなければいけないかを、今ここでモーセは教えています。イスラエル人たちは、それぞれ町に住んでいますが、その町囲みにさばきつかさ、すなわち裁判官を置きます。その時は、正義をもってさばかなければならなず、わいろをもらったりしてはいけない、とモーセは命じています。このように、正しいさばきがイスラエル共同体に要求されています。

 私たちは前回、聖なる民として歩むことについて学びました。この世とは異なる生き方をする、穢れから離れて、神に属している者として歩むことの必要性です。そして、17章から19章では、「正義」をもって生きなければいけないことを学びます。神と私たちの関係において、聖であることだけではなく、正義も必要であることを学びます。

1A 祭司の教え 17
1B さばきの執行 1−13
1C ふたり、三人の証言 1−7
 悪性の欠陥のある牛や羊を、あなたの神、主にいけにえとしてささげてはならない。それは、あなたの神、主の忌みきらわれるものだからである。

 モーセはこの前の節、16章21−22節にて、主の祭壇のことについて話していました。そこで、そこにささげるいけにえについての規定を話しています。悪性の欠陥のある牛や羊をささげてはいけない、とのことです。「ああ、この牛や羊は人に売ることはできないし、欠陥品だな。この残り物を主にささげることにしようか。」ということではありません。

 あなたの神、主があなたに与えようとしておられる町囲みのどれでも、その中で、男であれ、女であれ、あなたの神、主の目の前に悪を行ない、主の契約を破り、行ってほかの神々に仕え、また、日や月や天の万象など、私が命じもしなかったものを拝む者があり、それがあなたに告げられて、あなたが聞いたなら、あなたはよく調査しなさい。もし、そのことが事実で、確かであり、この忌みきらうべきことがイスラエルのうちに行なわれたのなら、あなたは、この悪事を行なった男または女を町の広場に連れ出し、男でも女でも、彼らを石で打ちなさい。彼らは死ななければならない。

 これまでモーセが語ってきた、偶像礼拝に対する罰をどのように執行しなければいけないかについて、ここに書かれています。拝む者がいたとなれば、よく調査しなさい、というのが命令です。本当にそのような罪を犯したのかどうか、見切り発車で判断するのではなく、じっくりと事実をかき集めて、はたしてそのとおりかどうかを調べなければいけません。

 ふたりの証人または三人の証人の証言によって、死刑に処さなければならない。ひとりの証言で死刑にしてはならない。

 ここに、死刑を執行するときの、必要な条件が書かれています。それは、「ふたりの証人または三人の証人の証言によって」です。ひとりの証言で死刑にしてはいけません。ひとりだけならば、もしかしたらその証言が主観的なものであったり、また、その証人が嘘を言っているかもしれません。ですから、二人か三人の証人の証言が必要です。

 この原則をイエスさまは、教会において、罪の問題が出てきたときにも当てはめておられます。「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。(マタイ18:15-16」そして面白いことに、パウロは、自分が偽りを言っていないことを証しするために、同じように、「二人、三人の証言」の原則を適用しています。ローマ書9章1節です。「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。」自分の良心という証しと、また聖霊による証しがあり、二つの証言によって、自分がユダヤ人の同胞のために、神にのろわれた者になることさえ願っていると話しています。イエスさまは、マタイ7章1節で、「さばいてはいけません。さばかれないためです。」と言われていますが、私たちは先走ったさばきをしてはならならず、証言にもとづいた、確かなさばきをしなければいけない、ということです。

 死刑に処するには、まず証人たちが手を下し、ついで、民がみな、手を下さなければならない。こうしてあなたがたのうちから悪を除き去りなさい。

 死刑執行は石打ちによりますが、その手を下すのは、証人たちです。彼らが確かに、それを見た人たちであり、その明らかな事実に基づく判決を下します。そして、このことによってイスラエルから「悪」が取り除かれます。このことは、神と彼らとの関係において、なくてはならないことでした。同じように、私たちとキリストとの関係でも、その関係を保つには、悪を取り除かなければいけません。パウロは言いました。「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。・・・その(内部の)悪い人をあなたがたの中から除きなさい。(1コリント5:7

2C 裁判者 8−13
 もし、町囲みのうちで争い事が起こり、それが流血事件、権利の訴訟、暴力事件で、あなたのさばきかねるものであれば、ただちに、あなたの神、主の選ぶ場所に上り、レビ人の祭司たち、あるいは、その時に立てられているさばきつかさのもとに行き、尋ねなさい。彼らは、あなたに判決のことばを告げよう。

 自分たちでは判断つきにくい事件について、イスラエル人は、祭司あるいはさばきつかさのところに行くことができます。思い出してください、約束の地では、それぞれが主を礼拝するのではなく、シロなり、エルサレムなり、選ばれた場所だけで礼拝をしなければいけません。同じ礼拝所において、イスラエル人は裁判を受ける権利があり、また義務があります。

 あなたは、主が選ぶその場所で、彼らが告げる判決によって行ない、すべて彼らがあなたに教えることを守り行ないなさい。彼らが教えるおしえによって、彼らが述べるさばきによって行なわなければならない。彼らが告げる判決から右にも左にもそれてはならない。もし人が、あなたの神、主に仕えてそこに立つ祭司やさばきつかさに聞き従わず、不遜なふるまいをするなら、その者は死ななければならない。あなたがイスラエルのうちから悪を除き去るなら、民はみな、聞いて恐れ、不遜なふるまいをすることはもうないであろう。

 祭司やさばきつかさは、主によって立てられた人であり、神に仕えている人です。したがって、彼らが下した判決は、従わなければいけません。もし逆らうなら、彼らは死刑に処せられます。今の時代、そのさばきの務めを担っているのは、私たち一人一人のクリスチャンです。すでに神に対する祭司とさせられ、私たちは、教会で起こっているさまざまな事柄について、祈りとみことばによって判断し、その正義にもとづいて行動しなければいけません。具体的に、聖書から検証する必要があります。パウロはテサロニケの人々に、「すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。(1テサロニケ5:21)」と言いました。

3B 律法にしばられる王 14−20
 あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいって行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが、「回りのすべての国々と同じく、私も自分の上に王を立てたい。」と言うなら、あなたの神、主の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない。あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない外国の人を、あなたの上に立てることはできない。

 モーセは、将来、イスラエルの民が王を自分たちの上に立たせたいと願うことを予見していました。サムエル記第一には、預言者サムエルのところに、イスラエルの民が寄ってきて、「私たちをさばく王を立ててください。」と言ったことが記されています。(1サムエル8:6)それまでは、イスラエルの民は、預言者から語られる神のことばと、祭司の務めによって与えられる、主のご臨在によって支配されていました。彼らが、自分を神のみことばと御霊の下に置くことによって、神が彼らの王となっている神政政治だったのです。これが、イスラエルの民が物理的にも霊的にも自分を自由にし、自由人として生きることができる体制でした。けれども、周りの国々の民のように王を持ちたい、自分たちを統治する王が欲しいと願い出たのです。

 サムエルがこのことを聞いたとき、とても傷つけられましたが、けれども主は、イスラエルの上に王を立てられるのを許されました。そして主は、前もってモーセを通して、この王に対することばを語られました。それがこの個所です。一つ目は、同胞の中から王を立てなければいけないことです。事実、イスラエル人のサウルが立てられ、次にダビデ、ソロモンが立てられました。そして、永遠の御国が立てられるときは、ダビデの子であるキリストが、イスラエルと世界の王となられます。みな、ユダヤ人であり、イスラエル人です。

 王は、自分のために決して馬を多くふやしてはならない。馬をふやすためだといって民をエジプトに帰らせてはならない。「二度とこの道を帰ってはならない。」と主はあなたがたに言われた。多くの妻を持ってはならない。心をそらせてはならない。自分のために金銀を非常に多くふやしてはならない。

 王という地位につきものなのは、その軍事力と政治力と財力です。当時の世界では、軍事力として馬、政治力として多くの妻が必要でした。つまり政略結婚です。そして、多くの金銀が必要です。しかし、イスラエルの王にはそれらは必要ではありません。主がイスラエルのために戦われ、主がすべての王を支配され、そして主がすべての富を持っておられます。他の王のようになってはいけないということです。

 けれども、残念なことに、これらの神の命令に聞き従わなかったことを、ソロモン王の生涯を読むと分かります。列王記第一10章14節には、「一年間にソロモンのところにはいって来た金の重さは、金の目方で六百六十六タラントであった。」とあります。それをソロモンが住む宮殿に使い、宮殿を金でいっぱいにしました。そして同じく第一列王の10章26節には、「ソロモンは戦車と騎兵を集めたが、戦車一千四百台、騎兵一万二千人が彼のもとに集まった。そこで、彼はこれらを戦車の町々に配置し、また、エルサレムの王のもとにも置いた。」そして29節には、「エジプトから買い上げられ、輸入された戦車は銀六百、馬は銀百五十であった。同様に、ヘテ人のすべての王も、アラムの王たちも、彼らの仲買で輸入した。」とあり、馬をたくさん持ち、しかもエジプトから買い上げるということで、これも主の命令に違反しています。さらに、列王記第一11章に入ると、多くの妻も持ちました。「ソロモン王は、パロの娘のほかに多くの外国の女、すなわちモアブ人の女、アモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヘテ人の女を愛した。この女たちは、主がかつてイスラエル人に、『あなたがたは彼らの中にはいって行ってはならない。彼らをもあなたがたの中に入れてはならない。さもないと、彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせる。』と言われたその国々の者であった。それなのに、ソロモンは彼女たちを愛して、離れなかった。彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた。」(11:1−3)ここに書かれているように、馬、金銀、そして妻たちをたくさん持つと、他の神々に心が寄せられていってしまうという結果を招きました。これが、主が、これらのものを持ってはならないといわれた理由の一つです。

 彼がその王国の王座に着くようになったなら、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また命令から、右にも左にもそれることがなく、彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためである。

 イスラエルの上に立つ王は、絶対君臨者ではありませんでした。彼は、モーセの律法にしばられていました。彼自身が神のおきての中に生きる、しもべになることによって、初めてイスラエルを治めることができました。だから、祭司たちから、主のみ教えを書き写し、それを読まなければいけません。このように、人々を治め、またさばく王であっても、人々は、祭司による神の律法によって、正しい判断を下さなければいけなかったのです。このように、イスラエルの民はどんなものよりも、神のことばを第一として、神のことばによってさばかれていく人々でなければいけませんでした。これは、私たちも同じです。牧師であっても、だれであっても、神のことばの下に自分を置き、聖書による検証によって、物事を判断していく習慣を身につけなければいけません。

2A 伺いを立てるべき人 18
 そして、このように、神と人との仲介者となっている祭司たちが、人々によってその生活を支えられなければいけないことが、次に書かれています。

1B 祭司 1−8
 レビ人の祭司たち、レビ部族全部は、イスラエルといっしょに、相続地の割り当てを受けてはならない。彼らは主への火によるささげ物を、自分への割り当て分として、食べていかなければならない。彼らは、その兄弟たちの部族の中で相続地を持ってはならない。主が約束されたとおり、主ご自身が、彼らの相続地である。

 祭司たちとレビ族全部は、相続地の割り当てがなく、そのため、自分たちで収穫を得ることはできません。生活の糧は、イスラエル人たちがたずさえてくる、主へのいけにえの一部であり、それを食べていきます。

 祭司たちが民から、牛でも羊でも、いけにえをささげる者から、受けるべきものは次のとおりである。その人は、肩と両方の頬と胃とを祭司に与える。あなたの穀物や、新しいぶどう酒や、油などの初物、羊の毛の初物も彼に与えなければならない。

 祭司は、いけにえの肉の上質の部分、またぶどう酒や油の初物、羊の毛の初物など、上等な部分が割り当てられました。

 彼とその子孫が、いつまでも、主の御名によって奉仕に立つために、あなたの神、主が、あなたの全部族の中から、彼を選ばれたのである。

 ここが大事ですね。彼らがなぜそれだけ手厚く支えられたかというと、主の御名のゆえに、奉仕をしていたからです。彼らが生活の糧のために、その大切な働きが妨げられることがあってはなりません。私たちも同じように、神のことばと福音が広められることのために、自分の財産をささげることを惜しんではいけません。神のことばこそが、最高の基準であり、宝だからです。

 もし、ひとりのレビ人が、自分の住んでいたイスラエルのうちのどの町囲みのうちからでも出て、主の選ぶ場所に行きたいなら、望むままに行くことができる。彼は、その所で主の前に仕えている自分の同族レビ人と全く同じように、彼の神、主の御名によって奉仕することができる。彼の分け前は、相続財産を売った分は別として、彼らが食べる分け前と同じである。

 レビ人はたくさんいるので、その奉仕はそれほど頻繁に行なうことはありませんでした。けれども、自分が望むのであれば、いつでも主の幕屋に行って奉仕をすることができました。その時も、彼は分け前を受け取ることができ、やはり、手厚い支援があることがわかります。

2B 預言者 9−22
 これら祭司たちが、このように主への礼拝をささげることができるのは、すべて、モーセから出た、神のことばによります。次からは、イスラエルの民、また祭司たちが究極的に拠り頼むべきことばについて書かれています。

1C 占いの禁止 9−13
 あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいったとき、あなたはその異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねてはならない。あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。これらのことを行なう者はみな、主が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。あなたは、あなたの神、主に対して全き者でなければならない。

 モーセが彼らからいなくなるとき、彼らが拠り頼むべきことばは、生きるモーセからは聞くことができなくなります。けれども、彼らは、自分たちが住むときに、異邦の民が拠り所としている、占い師やまじない師に伺いを立ててはいけません。これは、私たちも同じですね。自分が霊的にダウンしているときに、神のことばではなく、人のことば、人のアドバイス、人の哲学、また占いのようなものに頼りたくなってしまうことがあります。けれども、そうであってはいけない、主に対して全き者でなければいけません。

2C もう一人の預言者 14−22
 そしてモーセは、自分のような「もうひとりの預言者」を待つように命じます。あなたが占領しようとしているこれらの異邦の民は、卜者や占い師に聞き従ってきたのは確かである。しかし、あなたには、あなたの神、主は、そうすることを許されない。あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。

 モーセは、他の預言者とは異なる、大きな特徴をもった預言者でした。預言者の多くは、夢や幻で神のみこころを知りました。たとえばエゼキエルは、神の幻を見ました。ダニエルも同じです。モーセの姉ミリヤムのそうであったようです。ミリヤムがモーセをねたんで、彼を訴えたとき、主は彼女とアロンとモーセを、ご自分の前に連れて来られて、こう言われました。「わたしのことばを聞け。もし、あなたがたのひとりが預言者であるなら、主であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る。しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。なぜ、あなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか。(民数12:6-8」モーセは、口と口とで神と語り、また、彼は主の姿を仰ぎ見ていました。もちろん、彼は主の御姿のすべてを見たのではなく、主が通り過ぎられたあとのみを見ましたが、けれども、モーセのように主に近づいて、主と語り合うような人はいなかったのです。

 ですから、イスラエルの民は、モーセのことばは、神の律法として、それを真理として、絶対的な最終権威のあることばとして受け入れることができたのです。そして、モーセは今、ユダヤ人の中から、自分のような預言者が現われ出ることを預言しました。

 これはあなたが、ホレブであの集まりの日に、あなたの神、主に求めたそのことによるものである。あなたは、「私の神、主の声を二度と聞きたくありません。またこの大きな火をもう見たくありません。私は死にたくありません。」と言った。それで主は私に言われた。「彼らの言ったことはもっともだ。わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。」

 イスラエルの民が、ホレブの山で、十戒のことばを神から聞いたときに、主の声をそのまま聞くのはとても恐ろしい、あの大きな火をもう見たくない、と言いました。そこで主は、彼らの願いを聞かれて、神のことばを語る預言者を、モーセのような預言者を立てると言われました。

 ヨハネによる福音書を読みますと、イエスさまが、このもう一人の預言者であることが証言されています。1章17節には、「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」とあります。モーセが律法を与えましたが、イエス・キリストは、神の恵みとまことを実現されました。続けてヨハネ1章を読みますと、バプテスマのヨハネが、ユダヤ人たちに質問を受けている場面が出てきます。ユダヤ人は「あなたはだれですか。」と尋ねました。バプテスマのヨハネは、「私は、メシヤ、キリストではありません。」と答えました。そして、「エリヤですか」とも聞いています。旧約における最後の預言者マラキは、終わりの日にエリヤを神が遣わされることを預言したからです。ヨハネはエリヤでもないと答えました。そして、ユダヤ人は、「あなたはあの預言者ですか。」(1:21)と聞いています。あの預言者、そう、モーセがここで語っている、もうひとりの預言者のことです。ですから、イエスさまが生きておられたときにも、ユダヤ人たちは、自分たちに神のことばを語る、もう一人の預言者を待っていたのです。

 そして、イエスさまは、ご自分がその預言者であることを主張されました。わたしが語るのは、父が語るからである。わたしは、自分で行なうことはなく、父が行なうから行なうのである、と言われました。そして、驚くべき発言をユダヤ人にされました。「わたしと父は一つです。」(10:30)イエスご自身が、神のことばであり、神そのものである、ということです。主はピリポに対しても、「わたしを見た者は、父を見たのです。」と言われました。イエスが、神のかたちと栄光の完全な現われなのです。ですからヘブル人への手紙は、このような冒頭で始まっています。「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。(1:1−2)」私たちが、神のことを知りたかったら、イエスさまを見れば良いのです。イエスさまそのものが、神のことばであり、神ご自身なのです。

 わたしの名によって彼が告げるわたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしが彼に責任を問う。ただし、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする預言者があるなら、その預言者は死ななければならない。

 神に遣わされているのでもないのに、自分が預言者だと自称している者も出てくるのであれば、彼は死ななければいけません。

 あなたが心の中で、「私たちは、主が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか。」と言うような場合は、預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。

 イエスさまは、このテストは合格されました。イエスさまが言われたことばは、何一つ実現しないで、地面に落ちることはありませんでした。

3A 被疑者の保護 19
 このようにして、私たちが物事を判断する最終権威が、神のことばであり、そしてイエス・キリストご自身であることが分かりました。次は、このような判断や判決を出すときに、訴えられる者たち、つまり被疑者たちを守らなければいけない定めが書かれています。

1B 逃れの町 1−14
1C 悪意のない殺人 1−7
 あなたの神、主が、あなたに与えようとしておられる地の国々を、あなたの神、主が断ち滅ぼし、あなたがそれらを占領し、それらの町々や家々に住むようになったときに、あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられるその地に、三つの町を取り分けなければならない。あなたは距離を測定し、あなたの神、主があなたに受け継がせる地域を三つに区分しなければならない。殺人者はだれでも、そこにのがれることができる。

 だれかが殺人の罪を犯したときに、保護を求めて逃げてくることができる町が、三つ定められていました。「逃れの町」と呼ばれます。

 殺人者がそこにのがれて生きることができる場合は次のとおり。知らずに隣人を殺し、以前からその人を憎んでいなかった場合である。たとえば、木を切るため隣人といっしょに森にはいり、木を切るために斧を手にして振り上げたところ、その頭が柄から抜け、それが隣人に当たってその人が死んだ場合、その者はこれらの町の一つにのがれて生きることができる。血の復讐をする者が、憤りの心に燃え、その殺人者を追いかけ、道が遠いために、その人に追いついて、打ち殺すようなことがあってはならない。その人は、以前から相手を憎んでいたのではないから、死刑に当たらない。だから私はあなたに命じて、「三つの町を取り分けよ。」と言ったのである。

 当時の社会、また現代でもベドウィンの社会では、自分の家族の者が何者かに殺された場合、自分がその人を殺して、復讐を果たすことが、名誉あることとされていました。したがって、だれかを殺したら、自分はその家族の者に殺される可能性があります。けれども、故意に殺したのではなく、事故死であることもあるわけです。ここでモーセが言っているように、友人といっしょに森に行き、木を切り倒していたとき、斧の頭が柄から抜け、それが友人の当たって死んでしまったというのは、事故であって、殺害ではありません。けれども、血の復讐をする者がやって来て、彼が殺されてしまう危険があります。そこでモーセは、相続の割り当て地の中に、三つ町を取り分けて、どこに住んでいても、遠すぎることのない逃れの町があるようにさせたのです。

2C 悪意のある殺人 8−14
 あなたの神、主が、あなたの先祖たちに誓われたとおり、あなたの領土を広げ、先祖たちに与えると約束された地を、ことごとくあなたに与えられたなら、・・私が、きょう、あなたに命じるこのすべての命令をあなたが守り行ない、あなたの神、主を愛し、いつまでもその道を歩むなら・・そのとき、この三つの町に、さらに三つの町を追加しなさい。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地で、罪のない者の血が流されることがなく、また、あなたが血の罪を負うことがないためである。

 すでに、モーセは、ヨルダン川の東岸にて、ルベンとガドとマナセ半部族が相続地を持っていたので、そこに三つの逃れの町を取り分けるように命じていました。けれども、これから所有する地、ヨルダン川西岸にも、逃れの町を用意しなさいと命じています。逃れの町が遠すぎて、復讐を果たそうとする者が、逃げている者に追いつくことがないようにするためです。

 しかし、もし人が自分の隣人を憎み、待ち伏せして襲いかかり、彼を打って、死なせ、これらの町の一つにのがれるようなことがあれば、彼の町の長老たちは、人をやって彼をそこから引き出し、血の復讐をする者の手に渡さなければならない。彼は死ななければならない。彼をあわれんではならない。罪のない者の血を流す罪は、イスラエルから除き去りなさい。それはあなたのためになる。

 故意の殺人の罪を犯した者は、死をもって報いなければいけません。たとえ彼が逃れの町に入っても、そこから引きずり出して、血の復讐をする者の手に渡さなければいけません。

 ここに、神の正義があります。神は、その正義のゆえに、殺人者を殺さなければいけないと命じておられるのであり、その殺人者への憎しみを果たすために殺すのではありません。正義と、憎しみのよる復讐とは、まったく別物であります。新約聖書において、ヤコブはその手紙の中で、「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。(1:20)」と言いました。私たちが怒って行なったことは、神の正義を実現しません。日本において、また他の国でもそうですが、死刑制度の是非があります。日本における議論は、被害者の家族の怒りと憤りを満たすために、死刑やその他の極刑を求めることが多いです。しかし、そのような動機によって、人をさばいてはいけません。人はあくまでも、神の正義のゆえに、また神の秩序のゆえにさばくのです。

 戦争も同じですね。去年の同時多発テロにおいて、アメリカ人の間から、オサマ・ビン・ラディンをかくまうアフガンへの武力攻撃を、復讐からではなく、正義の実現のために行なうべきだという議論が聞こえました。これは良い点であり、悪を行なう者には制裁が加えられるべきですが、それを憤りの道具として用いてはいけないということです。アメリカの武力攻撃の是非ではなく、ここでは、憎しみと正義は区別されるべきだということです。ですから、私たちは殺人の罪を犯した人に対して、その人を心から愛しながら、かつ死刑を受けなければいけないという立場を取ることは可能です。

 あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられる地のうち、あなたの受け継ぐ相続地で、あなたは、先代の人々の定めた隣人との地境を移してはならない。

 相続地の割り当てがなされてから、そのずっと後でも、地境を移すことはできません。

2B 偽りの証言への罰 15−21
 そして次に、このようなさばき、裁判を行なう際に、被疑者を不利におとしめるために行なわれる、偽りの証言に対する厳しい処置が書かれています。

 どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。もし、ある人に不正な証言をするために悪意のある証人が立ったときには、相争うこの二組の者は、主の前に、その時の祭司たちとさばきつかさたちの前に立たなければならない。

 モーセが先ほど言ったように、証言は二人、三人よって立証されなければいけませんが、食い違った証言が出てきたときに、どちらが正しいのかを調べなければいけないという命令です。どちらかが間違っているわけで、偽りを証言しているわけです。

 さばきつかさたちはよく調べたうえで、その証人が偽りの証人であり、自分の同胞に対して偽りの証言をしていたのであれば、あなたがたは、彼がその同胞にしようとたくらんでいたとおりに、彼になし、あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。ほかの人々も聞いて恐れ、このような悪を、あなたがたのうちで再び行なわないであろう。

 証言者は、その被疑者が受けるはずの刑を自分が受けなければいけなくなります。これほど、偽りの証言は厳しく罰せられます。

 あわれみをかけてはならない。いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足。

 これが裁判をするときの基準です。加害者が、その与えた害と等しいものを刑罰として受ける、という原則です。目には目、歯には歯、手には手、足には足です。これを後に歪めて教えたのが、律法学者やパリサイ人であり、イエスさまは、「右の頬を打たれたら、左の頬も出しなさい」と言われました。これは復讐をしなさいという命令ではなく、あくまでも正義を実行するための基準なのです。

 このように、正しい判断を行なっていく、神のみことばによって行なっていくことの必要性を学びました。私たちの間に、悪があってはいけません。不正があってはいけません。これは、申命記のテーマである、神と自分との愛の関係に密接に関わることです。「悪を取り除きなさい」と主は言われます。



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