申命記20−22章 「思いやりの律法」

アウトライン

1A 戦争 20
   1B 兵士の士気 1−9
   2B 町の攻略 10−18
   3B 実を結ぶ木 19−20
2A 人の権利 21
   1B 犯人がわからない殺人 1−9
   2B 夫婦と家族 10−21
   3B 死体の丁重な取り扱い 22−23
3A 隣人への配慮 22
   1B 迷子になった家畜 1−4
   2B 混ぜ物 5−12
   3B 姦淫 13−30


本文

 申命記20章を開いてください。今日は、申命記20章から22章までを学びたいと思います。ここでのテーマは、「思いやりの律法」です。20章から22章までの3章には、イスラエルが約束の地にいるときに起こりえる、いろいろな具体的な生活の場面について取り扱われています。その一つ一つ場合において、神が念頭に置いておられる一つの原則があります。それは、「思いやり」です。優しさといいますが、相手の権利を尊重するといいますか、いろいろな問題が起こっても、横暴になったり、過度に厳しくなってはいけないことが書かれています。

1A 戦争 20
1B 兵士の士気 1−9
 あなたが敵と戦うために出て行くとき、馬や戦車や、あなたよりも多い軍勢を見ても、彼らを恐れてはならない。あなたをエジプトの地から導き上られたあなたの神、主が、あなたとともにおられる。あなたがたが戦いに臨む場合は、祭司は進み出て民に告げ、彼らに言いなさい。「聞け。イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。彼らのことでおじけてはならない。共に行って、あなたがたのために、あなたがたの敵と戦い、勝利を得させてくださるのは、あなたがたの神、主である。」

 約束の地に入ってから、イスラエル人が直面しなければいけない状況の一つとして、戦争があげられます。イスラエルは、ただ宿営をしている一つの共同体にしかすぎず、国を持っているわけではないので、自分たちに襲いかかっている敵がたくさんいることでしょう。そこで、そのような戦争が起こったときに、イスラエルの民がどのようにして戦争に臨まなければいけないかを、今、モーセは語っています。

 戦争という言葉を聞いたとたん、多くの人は、「なぜ愛の神が、人々を殺すような戦争をするように命じられるのか。」という疑問を持ちます。イエスさまは、「敵をも愛しなさい」と言われたではないか、という反応をする人たちがいます。とくにアメリカがアフガン攻撃をしてから、このような意見をたくさん聞きました。けれども、たいへん面白い意見を、あるノンクリスチャンから聞くことができました。あるクリスチャンのインターネット掲示板において、その掲示板の雰囲気とは違った角度からの意見を言った人がいました。けれども、その書き込みは、管理人によってすぐに削除されました。その同じくらいのときに、ある人が、「アフガンにいるテロリストには、アメリカは戦闘機ではなく花束を持っていけばよい。」という内容の投稿をしました。そこで、クリスチャンではない人が、次のような意見を言いました。「あなたたち、本当にテロリストに花束を持っていけば、平和が来ると思っているの?自分たちとちょっと違う意見をもった人を受け入れることができなくて、排除しているのに、なんでテロリストに花束なのよ?」その未信者の人は、とても良い点を付いていると思いました。それは、自分たちの身近な人でさえ、平和に暮らしていくことができないのに、世界各地で起こっている戦争のことになると、「世界平和を!」というスローガンを掲げるのです。世界で日常茶飯事のように起こっている戦争は、どうしても考えが相容れない双方の国があり、そして国の中で戦争をすることによってお金が儲かるような人々がおり、大義名分と私欲がいろいろに絡み合って起こっていることであり、これは、人類の歴史の中で決して止むことのなかったものです。これがありのままの人間の姿であり、平和ボケしている日本人もまったく同じなのです。

 そしてイスラエルはとくに、自分たちに襲いかかり、自分たちを攻めてくる敵が周囲にたくさんいました。彼らがエジプトを出てから間もなくして、アマレク人が彼らを襲いました。そこで、彼らは自分たちを守らなければならず戦うわけです。イスラエルの共同体が共同体として生きてゆくために、戦います。決して相手が憎くて戦うのではなく、自分たちが生きてゆくために戦います。これはもちろん、キリスト教会は異なります。迫害を受けて、だれかが殉教しようとも、私たちは武器をもって戦うのではなく、永遠のいのちの希望がありますから、イエスさまの証しを大胆に行なって、その殉教を甘んじて受けます。けれども、国としては、その国が守られるために、戦争をすることがあります。したがって、このような人間の現実の中にも神が介入してくださり、その現実の問題の中でどのように対処すればよいかを、今、教えてくださっているのです。

 モーセは、イスラエルの兵士の士気を高めるために、「主がともにおられる」と言いました。向かってくる敵を見ておびえるのではなく、主を見て、主が自分たちのために戦ってくださることを信じて、勇敢に戦いなさい、と鼓舞しています。私たちの信仰生活も同じですね。私たちは問題を見て意気消沈してしまいますが、問題から目を離して主を見上げるときに、勝利が与えられます。

 つかさたちは、民に告げて言いなさい。「新しい家を建てて、まだそれを奉献しなかった者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者がそれを奉献するといけないから。ぶどう畑を作って、そこからまだ収穫していない者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者が収穫するといけないから。女と婚約して、まだその女と結婚していない者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者が彼女と結婚するといけないから。」つかさたちは、さらに民に告げて言わなければならない。「恐れて弱気になっている者はいないか。その者は家に帰れ。戦友たちの心が、彼の心のようにくじけるといけないから。」つかさたちが民に告げ終わったら、将軍たちが民の指揮をとりなさい。

 戦いにいくときに、将軍が指揮をとる前に、祭司が声をかけます。そして祭司は、本当に士気のないものや、自分のことで心配事がある人は、戦争に参加しなくても良い、と言っています。新しい家を買った者は、その新しい家を奉献しなかったことが心配になって、士気が落ちるかもしれません。ぶどう畑にたくさんぶどうの実が結ばれていたら、それが気になって戦うことに集中することができないかもしれません。そして、婚約している人は、彼女のことが気になってしょうがありません。だから、戻りなさい、と祭司は言っています。

 ここで大事な原則は、「神は、本当に心から進んで行なう者だけを喜ばれるのであり、無理強いはさせない。」ということであります。私たちは人々に、その人の能力以上のことを要求して、その人をつぶしてしまうことがあります。けれども、その能力しかない人はそれしかないのであり、神はそれ以上のことは決して要求されていません。イエスさまは、この律法にしたがって、ご自分にしたがってくる弟子たちに、教えられたことがあります。ルカの福音書9章57節です。「さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」(9:57−62)」イエスさまの弟子になるためには、そのような志のある人だけでよいのであり、自分に無理をさせて従うのは、本当の弟子ではありません。その人の意思がとても大切になります。

2B 町の攻略 10−18
 町を攻略しようと、あなたがその町に近づいたときには、まず降伏を勧めなさい。降伏に同意して門を開くなら、その中にいる民は、みな、あなたのために、苦役に服して働かなければならない。もし、あなたに降伏せず、戦おうとするなら、これを包囲しなさい。あなたの神、主が、それをあなたの手に渡されたなら、その町の男をみな、剣の刃で打ちなさい。しかし女、子ども、家畜、また町の中にあるすべてのもの、そのすべての略奪物を、戦利品として取ってよい。あなたの神、主があなたに与えられた敵からの略奪物を、あなたは利用することができる。非常に遠く離れていて、次に示す国々の町でない町々に対しては、すべてこのようにしなければならない。

 モーセは、戦争をする時の基本的なルールについて教えています。第一に、奇襲攻撃をするのではなく、交渉をしなければいけません。「降伏を勧めなさい」と言っています。第二に、もし同意するなら、その民は苦役に服さなければいけません。ヨシュアが率いるイスラエルの民は、嘘をついて遠い国からやって来ました、と言ったギブオン人たちは、イスラエル人のため、また主の祭壇のために、たきぎを割る者、水を汲む者としました。(ヨシュア9:27)ヨシュアたちは、ここの律法を守っていたのです。そして第三に、彼らが戦おうとして、かつ主がその戦いに勝たせてくださるなら、男のみを殺さなければいけません。今の言葉で言うならば、戦闘員のみを殺しなさい、ということです。第四に、女子供や家畜やその他のものは自分たちのものとしてよい、ということです。これも、女子供だけでは生きていくことはできませんから、ある意味で慈善的と言ったら大袈裟でしょうが、ことさらに悪いことではありません。

 このように、決して理想とは言えない戦争の中にさえ、神がルールを設けてくださり、残虐なことをしないように戒めておられることがわかります。強引に戦争を行なうのではなく、主が許してくださる範囲内において行なっていかなければいけません。

 しかし、あなたの神、主が相続地として与えようとしておられる次の国々の民の町では、息のある者をひとりも生かしておいてはならない。すなわち、ヘテ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたとおり、必ず聖絶しなければならない。それは、彼らが、その神々に行なっていたすべての忌みきらうべきことをするようにあなたがたに教え、あなたがたが、あなたがたの神、主に対して罪を犯すことのないためである。

 人間の歴史の中で、根絶やしにしなさいと命じている戦争は、アマレク人に対する戦争以外には、この戦争しかありません。これは、アブラハムが生きているときから神がお考えになっていたことであり、神はアブラハムに、「エモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」と言われていました(創世15:16)。彼らは、もしだれかによって滅ぼされなければ、自分たちで滅ぼしてしまうような、おそろしい忌まわしいことを行なっていました。そこで、主は、彼らに対するさばきとして、イスラエルを用いて、イスラエルによって滅ぼすことをお決めになっていたのです(申命9:4)。そして何よりも、イスラエルの間に、彼らが少しでも残っていれば、必ずそれが全体に広がっていき、イスラエルをだめにしてしまうことを主が知っておられたからです。事実、士師記以降のイスラエルの歴史を見ると、確かにイスラエルが彼らのならわしによって汚されて、ついにアッシリヤ、バビロンによって、神のさばきを受けました。

 ですから、悪はどのような小さなものでも取り除かなければいけません。私たちの思いにあるものでも、少しでも悪があるならば、それを主の御前にもっていき、きよめていただかなければいけません。パウロは、「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。(コロサイ3:5)」と言いました。私たちは肉を改良するのではなく、殺してしまうことが命じられています。

3B 実を結ぶ木 19−20
 長い間、町を包囲して、これを攻め取ろうとするとき、斧をふるって、そこの木を切り倒してはならない。その木から取って食べるのはよいが、切り倒してはならない。まさか野の木が包囲から逃げ出す人間でもあるまい。ただ、実を結ばないとわかっている木だけは、切り倒してもよい。それを切り倒して、あなたと戦っている町が陥落するまでその町に対して、それでとりでを築いてもよい。

 これは面白い律法です。彼らが町を攻め取るため包囲するときに、そこにある木をむやみに切り倒してはいけなません。なんとなくそうぞうできますね、町を攻略するためには何の益にならないことを、戦闘状態の中で興奮していて、切り倒すかもしれません。けれども、戦争だけでも荒廃をもたらすのに、それ以上のことを行なってはいけない、と主は言われます。人間にある過酷さを戒め、自然に対する優しさや配慮を考えるように教えています。

 けれどもさらに面白いのは、実を結ばない木は切り倒してもよい、という命令です。神さまは非常に実際的な方であることがここで分かります。イエスさまも、一度、実を結ばない木をのろわれて、枯らしてしまわれたことがありました。イエスさまが、ベタニヤにおられたとき、お腹をすかして、いちじくの木に実がなっていないか見ておられたら、葉ばっかりがあって、実は何もありませんでした。そこでイエスさまは、「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」と言われました。そうしたら、次の朝早く、その木が根まで枯れていました(以上、マルコ11:12−25)。イエスさまがなさったことは、イスラエルの姿を象徴的に表していました。イスラエルは、外身は、神を信じているとされ、あらゆる宗教儀式や律法があったけれども、その実質であるメシヤご自身を受け入れていなかった。そのため神に対して良い実を結ばせていませんでした。それゆえ、その宗教儀式までも枯れてしまう、ということですが、エルサレムは紀元70年に、ローマによって滅ぼされ、ユダヤ人は離散の民となったのです。けれども、これは私たちクリスチャンにも当てはめることであり、イエスさまは、「わたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。・・・だれでも、わたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。(ヨハネ15:5−6)」と言われました。神に対して実を結ぶことが、私たちがクリスチャンになった存在目的なのです。

2A 人の権利 21
 それでは21章に入ります。ここでは、人のいのちや権利について考えさせられる命令が書かれています。

1B 犯人がわからない殺人 1−9
 あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられる地で、刺し殺されて野に倒れている人が見つかり、だれが殺したのかわからないときは、あなたの長老たちとさばきつかさたちは出て行って、刺し殺された者の回りの町々への距離を測りなさい。そして、刺し殺された者に最も近い町がわかれば、その町の長老たちは、まだ使役されず、まだくびきを負って引いたことのない群れのうちの雌の子牛を取り、その町の長老たちは、その雌の子牛を、まだ耕されたことも種を蒔かれたこともない、いつも水の流れている谷へ連れて下り、その谷で雌の子牛の首を折りなさい。そこでレビ族の祭司たちが進み出なさい。彼らは、あなたの神、主が、ご自身に仕えさせ、また主の御名によって祝福を宣言するために選ばれた者であり、どんな争いも、どんな暴行事件も、彼らの判決によるからである。刺し殺された者に最も近い、その町の長老たちはみな、谷で首を折られた雌の子牛の上で手を洗い、証言して言いなさい。「私たちの手は、この血を流さず、私たちの目はそれを見なかった。主よ。あなたが贖い出された御民イスラエルをお赦しください。罪のない者の血を流す罪を、御民イスラエルのうちに負わせないでください。」彼らは血の罪を赦される。あなたは、罪のない者の血を流す罪をあなたがたのうちから除き去らなければならない。主が正しいと見られることをあなたは行なわなければならないからである。

 非常に考えさせられる命令です。殺人が起こったときに、その犯人を特定できないことが起こります。実際に、このようなことはイスラエルだけではなく、どの社会の中にもありえることです。けれども、だれか犯人であるかわからなかったとしても、そこで一人のいのちが失われました。これを神はもっとも重大に受け止めておられます。今は、あまりにもいのちが軽視されています。殺人事件が毎日のようにニュースの中に流れていると、私たちはだれかが殺されたことについて、麻痺してしまいます。けれども、主は、人のいのちには人のいのちをもって償わなければいけない、と言われるほど、いのちを尊いものとしてお考えになっており、決して軽々しく考えてはいけないことです。

 そこで、主は、犯人が特定化できない殺人について、その死体があった場所からもっとも近い町の長老たちを集めさせます。そして、その長老たちが、まだくびきを負ったこともない雌の子牛を連れて来させます。そして、汚れのなにもない、きれいな水がながれているところで、その子牛の首を折ります。これは、この子牛が殺人の罪を負うということです。そして、そこで長老たちに祈らせます。どうかこの罪を赦してください、と祈ります。このようにして、たとえ犯人がいなくても、軽々しく取り扱うことなく、主がいのちを大変重んじているように、私たちも重んじなければいけないことを示します。

2B 夫婦と家族 10−21
 次は夫婦関係についての命令です。あなたが敵との戦いに出て、あなたの神、主が、その敵をあなたの手に渡し、あなたがそれを捕虜として捕えて行くとき、その捕虜の中に、姿の美しい女性を見、その女を恋い慕い、妻にめとろうとするなら、その女をあなたの家に連れて行きなさい。女は髪をそり、爪を切り、捕虜の着物を脱ぎ、あなたの家にいて、自分の父と母のため、一か月の間、泣き悲しまなければならない。その後、あなたは彼女のところにはいり、彼女の夫となることができる。彼女はあなたの妻となる。もしあなたが彼女を好まなくなったなら、彼女を自由の身にしなさい。決して金で売ってはならない。あなたは、すでに彼女を意のままにしたのであるから、彼女を奴隷として扱ってはならない。

 これは、戦争の時に起こるであろう、男たちの無節制な欲望によって、女の人たちが屈辱を受けてはいけないという命令です。ここで大事なのは、神は、男が捕虜として連れて来た女を自分のものにしなさい、という命令を出しておられるのではないことです。次回の学びで取り上げますが、男が女に離縁状を出すときのモーセの戒めが24章に出てきます。けれども、イエスさまは、モーセの律法を解き明かされてこう言われました。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。(マタイ19:8)」モーセは、アダムとエバが結ばれたように、神が結ばれたものを引き離してはいけないことを、知っていました。それが理想でした。けれども、人には現実があり、心をかたくなにするという現実がありました。そこで、その現実の中でも、ひどいことを男がすることがないように、主は、モーセを通してこの命令を出されました。ここでの捕虜の女を取ることも同じです。これは、決してやってはいけないことです。けれども、やりたい男がでてきます。そうした現状が起こることを認めて、主は、その女にきちんと悲しむ期間を設けてあげなさい、と言われているのです。また、気に入らなくなったときは、決して奴隷として売ってはならず、自由の身にしなさい、と命じておられます。

 次も、夫婦について、またその子供についての命令です。ある人がふたりの妻を持ち、ひとりは愛され、ひとりはきらわれており、愛されている者も、きらわれている者も、その人に男の子を産み、長子はきらわれている妻の子である場合、その人が自分の息子たちに財産を譲る日に、長子である、そのきらわれている者の子をさしおいて、愛されている者の子を長子として扱うことはできない。きらわれている妻の子を長子として認め、自分の全財産の中から、二倍の分け前を彼に与えなければならない。彼は、その人の力の初めであるから、長子の権利は、彼のものである。

 一夫多妻制が旧約聖書の中には書かれています。けれども、これもまた理想の状態ではありません。アダムとエバが一つになったように、男はひとりの女と結婚すべきです。新約になって、パウロが、「監督はひとりの妻の夫であり」という条件をつけました。けれども、神はその一夫多妻制という現状をふまえて、その中で起こる問題を取り上げておられます。それは、子供がないがしろにされることです。夫が二人以上の妻を持てば、必ずどちらかをより愛して、どちらかをよりないがしろにするという問題が起こります。ヤコブがラケルとレアの二人の妻を持っていて、ラケルを愛したばかりに、大変なことになったのを思い出してください。ただ妻だけの問題であれば良いのですが、問題は、その子供が、本当なら長子として二倍の分け前をもらわなければいけないのに、もらうことができなくなり、子供の権利がないがしろにされます。それに対する戒めです。

 今、ここで子供の話が出てきたので、モーセは、親に逆らう子供に対する神の罰について話します。かたくなで、逆らう子がおり、父の言うことも、母の言うことも聞かず、父母に懲らしめられても、父母に従わないときは、その父と母は、彼を捕え、町の門にいる町の長老たちのところへその子を連れて行き、町の長老たちに、「私たちのこの息子は、かたくなで、逆らいます。私たちの言うことを聞きません。放蕩して、大酒飲みです。」と言いなさい。町の人はみな、彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。イスラエルがみな、聞いて恐れるために。

 子が両親に逆らうというのは、人が殺人の罪を犯すのと同じように、死に値する罪です。それほど、子が親の言うことを聞くことは、神にとって非常に重要なこととされています。今日、この神の命令をないがしろにするようなことが、頻繁に起こっています。子供を自由にさせて、子供にも権利や選択を与えよう、などという偽りの教えがあり、親が子供についていく、従っていくような逆転した状態になっています。これが案外、クリスチャンの間にも行なわれていることを知り、私はびっくりしています。子供は親に従わせなければいけません。そして親は、子を訓練して、愛して、しつけなければいけません。

3B 死体の丁重な取り扱い 22−23
 今、死刑についてモーセは語ったので、次に死刑にされた人のその死体に取り扱いについての命令を語ります。もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。

 死刑にしたものを、見せしめとして木につるします。このことも、神がそれを命じているのではなく、そのようなことを行なうならば、という一つの場合に対する問題対処です。木につるすことは、あまりにも陰惨な光景ですが、これはその日のうちだけにしなさい、というのが主の命令です。そして、死体は丁重に葬らなければいけません。こうした、イスラエルの土地に、そうした陰惨な光景を見せるようなことのないように、と戒めています。

 ところで、この律法を守り行なった人で私たちに知られている人は、イエスさまの弟子アリマタヤのヨセフです。イエスさまは午後三時に息を引き取られましたが、ピラトに申し出て、日没になるまでにこの方を十字架から降ろして、墓に葬らせてほしいと言いました。そして、興味深いことに、使徒パウロは、ここのモーセの律法を引用して、イエスさまが、神ののろいを受けてくださったことを語っています。ガラテヤ書3章13節です。パウロは、「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである。』と書いてあるからです。」と言いました。

3A 隣人への配慮 22
 次の22章は、主に、隣人に対する配慮について書いてあります。

1B 迷子になった家畜 1−4
 あなたの同族の者の牛または羊が迷っているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。あなたの同族の者のところへそれを必ず連れ戻さなければならない。もし同族の者が近くの者でなく、あなたはその人を知らないなら、それを自分の家に連れて来て、同族の者が捜している間、あなたのところに置いて、それを彼に返しなさい。彼のろばについても同じようにしなければならない。彼の着物についても同じようにしなければならない。すべてあなたの同族の者がなくしたものを、あなたが見つけたなら、同じようにしなければならない。知らぬふりをしていることはできない。あなたの同族の者のろば、または牛が道で倒れているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。必ず、その者を助けて、それを起こさなければならない。

 見て見ぬふりをする、ということは、私たちの中でも頻繁に起こりますね。電車の中で、女性がやくざまがいの男にいやがらせを受けているときに、その男たちにやめなさい、という勇気のある男たちはどれほどいるでしょうか?けれども、私たちは、自分たちのことだけに責任があるのではなく、自分たちの身近にいる人たちにも責任があります。

 この個所では、隣人の家畜が迷子になっていたり、道で倒れているときに、自分で世話してあげなければいけないことを教えています。これは、その家畜が、その人の所有物だからということもありますが、また家畜でさえ、あわれみをかけなければいけないことも示しています。今、幼児虐待という問題がありますが、動物虐待という問題もあります。けれども、私たちにはそうした残虐性が神を悲しませることを知る必要があります。

2B 混ぜ物 5−12
 女は男の衣装を身に着けてはならない。また男は女の着物を着てはならない。すべてこのようなことをする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。

 非常に面白い命令です。この後にも、ぶどう畑に二種類の種を蒔いてはいけない、牛とろばを組みにして耕してはならないとか、羊毛と亜麻糸を混ぜて織った着物を着てはならない、という命令があります。これらを一言で言えば、「神が与えられている、区別や種類を尊重しなさい。」ということです。創世記を読むと、神は区別をされる神であることが分かります。「神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。(創世1:4)」「こうして神は、大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。するとそのようになった。(創世1:7)」それぞれに区別があることによって、神の設計と秩序を見つけることができ、秩序があるところに神の栄光が現われます。したがって、新約時代においては、コリントにある教会が、礼拝において異言で語ることを、解き明かしをする人がいなければひかえなさい、という戒めをパウロから受けているのを読みます。神は混乱の神ではなく、平和の神だからです。

 そして、ここでモーセが禁じているのは、女が男の衣装を着てはならず、男が女の衣装を着てはならない、ということです。男と女の秩序はとても大事です。神と御子は同質で同等であるにも関わらず、神はキリストのかしらとなっており、キリストが父なる神に服従されています。この三位一体の神の栄光を現わすために、男と女と区別して造られました。男と女は一つであり、同等であり同質です。けれども、男が女のかしらになるように造られました。したがって、女が男のように見えたり、男が女のように見えたりするのは、神が忌みきらわれることなのです。最近の現象には恐ろしいものがあります。男が女っぽくなってきており、女の人でも男みたいな人がふえているからです。着ているものにも影響があります。動物界でも女性化が起こっており、雄の生殖機能がきちんと発達していないことも、聞いたことがあります。しかし、これは神のみこころに反している傾向です。

 たまたまあなたが道で、木の上、または地面に鳥の巣を見つけ、それにひなか卵がはいっていて、母鳥がひなまたは卵を抱いているなら、その母鳥を子といっしょに取ってはならない。必ず母鳥を去らせて、子を取らなければならない。それは、あなたがしあわせになり、長く生きるためである。

 この戒めは、先ほどと同じように、動物に対する配慮です。卵をとるときには、母親がいない間に取ることにより、その残酷さを弱めることをしなければいけません。

 新しい家を建てるときは、屋上に手すりをつけなさい。万一、だれかがそこから落ちても、あなたの家は血の罪を負うことがないために。

 当時のイスラエルの家、いや現代もそうですが、イスラエルに行くと、アラブ人もユダヤ人も、屋上が平らの家屋になっています。ですから、屋上にあがることがたくさんあるのですが、その時に手すりをつけなさい、という命令です。周りの人々に対する配慮をこのようにして怠ってはいけません。

 ぶどう畑に二種類の種を蒔いてはならない。あなたが蒔いた種、ぶどう畑の収穫が、みな汚れたものとならないために。牛とろばとを組にして耕してはならない。羊毛と亜麻糸とを混ぜて織った着物を着てはならない。

 これは、先ほど説明したように、混ぜてはいけないという原則にのっとった命令です。牛とろばを組にして耕してはならないというのは、同じくびきをかけてはならない、ということです。パウロはここから、「不信者とつり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。(2コリント6:14)」と言っています。

 身にまとう着物の四隅に、ふさを作らなければならない。

 この戒めは、民数記15章に書いてありました。これによって主の命令を思い起こすためである、と民数記に書いてありますが、これが正しい着物です。亜麻糸と羊毛の混ぜた着物ではなく、この着物を身につけなさい、という命令です。ちなみに、イエスさまはこの着物を身につけておられました。長血をわずらった女は、イエスさまの着物のふさにさわって、いやされました(マタイ9:20)。

3B 姦淫 13−30
 次は、不品行についてのいろいろな場合が取り扱われています。もし、人が妻をめとり、彼女のところにはいり、彼女をきらい、口実を構え、悪口を言いふらし、「私はこの女をめとって、近づいたが、処女のしるしを見なかった。」と言う場合、その女の父と母は、その女の処女のしるしを取り、門のところにいる町の長老たちのもとにそれを持って行きなさい。その女の父は長老たちに、「私は娘をこの人に、妻として与えましたが、この人は娘をきらいました。ご覧ください。彼は口実を構えて、『あなたの娘に処女のしるしを見なかった。』と言いました。しかし、これが私の娘の処女のしるしです。」と言い、町の長老たちの前にその着物をひろげなさい。その町の長老たちは、この男を捕えて、むち打ちにし、銀百シェケルの罰金を科し、これをその女の父に与えなければならない。彼がイスラエルのひとりの処女の悪口を言いふらしたからである。彼女はその男の妻としてとどまり、その男は一生、その女を離縁することはできない。

 私たちは聖書、とくに旧約聖書における結婚の概念を知る必要があります。それは、結婚というのは、男女が性的関係に入ることであり、男女が性的関係に入るのは結婚を意味することです。肉体的な関係と、結婚を切り離すことはできません。ですから、ここで、男が女の悪口を言いふらしていますが、この背後にあるのは、この男が女と寝たいと思って、その欲望から結婚して、それでつまらないと思った、というのがあります。ダビデの息子アムノンのことを思い出してください。アムノンはダビデの別の妻の娘であり、タマルのことを欲して、彼女と寝たいと思いました。そして彼女を力づくではずかしめました。そして彼女と寝たあとに、アムノンは、彼女を熱烈に恋したその恋よりも憎しみがひどくなりました。アムノンは、「さあ、出て行け。」と言いましたが、タマルは、「それはなりません。私を追い出すことなど、あなたが私にしたあのことより、なおいっそう悪いことです。(2サムエル13:16)」と言いました。

 ここのモーセの律法の場合、その男がこの女がつまらなくなって、離縁したいと思っています。そこでその理由として、この女が処女ではなかった、と嘘を言いふらします。もし彼女が本当に処女ではなかったら、死刑です。ですから、主は、そのような状況から彼女を守るために、彼女の両親が、その寝床のシーツを持ってきて、処女であるしるしを持ってきます。そうして、この男は、罰金を父に払い、彼女の夫としてとどまらなければいけません。

 しかし、もしこのことが真実であり、その女の処女のしるしが見つからない場合は、その女を父の家の入口のところに連れ出し、その女の町の人々は石で彼女を打たなければならない。彼女は死ななければならない。その女は父の家で淫行をして、イスラエルの中で恥辱になる事をしたからである。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。

 もし本当に処女のしるしがなく、不品行の罪を犯していたら、それは死刑に値します。しばしば、結婚外の関係は罪であることはわかるが、婚前交渉は罪であるかどうか、という議論がありますが、この個所から、明らかに罪であることが分かります。

 夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければならない。あなたはイスラエルのうちから悪を除き去りなさい。

 姦淫の罪は死刑です。男も女もどちらも殺さなければいけません。

 ある人と婚約中の処女の女がおり、他の男が町で彼女を見かけて、これといっしょに寝た場合は、あなたがたは、そのふたりをその町の門のところに連れ出し、石で彼らを打たなければならない。彼らは死ななければならない。これはその女が町の中におりながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻をはずかしめたからである。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。

 ユダヤ人の中では、婚約は結婚と同じように拘束力があります。ですから、この時に罪を犯したら姦淫の罪と同じように数えられ死刑です。

 もし男が、野で、婚約中の女を見かけ、その女をつかまえて、これといっしょに寝た場合は、女と寝たその男だけが死ななければならない。その女には何もしてはならない。その女には死刑に当たる罪はない。この場合は、ある人が隣人に襲いかかりいのちを奪ったのと同じである。この男が野で彼女を見かけ、婚約中のその女が叫んだが、救う者がいなかったからである。

 これは強姦ですね。強姦のとき、女の人は、助けを求めて叫ばなければいけません。それども、野にいるとき、だれもいないときに襲われたら、彼女には罪はありません。大事なのは、ここで、不品行の罪を犯すということが、神にとっては重大であると考えられているけれども、神は、人にはできないこと、不可能であることまでも理不尽にさばくことは決してなさらない、ということです。その人ができることのみに責任を負わせる、ということです。

 もしある男が、まだ婚約していない処女の女を見かけ、捕えてこれといっしょに寝て、ふたりが見つけられた場合、女と寝たその男は、この女の父に銀五十シェケルを渡さなければならない。彼女は彼の妻となる。彼は彼女をはずかしめたのであるから、彼は一生、この女を離縁することはできない。

 婚約していない場合は、本当の処女です。その時に、男が女を襲ったならば、二人は殺されることはありません。それは、先ほど説明したように、このような関係を持つことがそのまま結婚ということになるからです。ですから、この男は女と結婚することによって、その責任を果たすことになります。これは難しい考えかもしれませんが、けれども、肉体関係と社会的責任は絶対に切り離して考えてはいけない、ということです。とくにクリスチャンにとっては、霊的な関係もあります。私たちのからだは、聖霊が宿る宮なので、他の人と性的に交わることは、キリストとの交わりを破壊することになります。

 だれも自分の父の妻をめとり、自分の父の恥をさらしてはならない。

 一夫多妻制のときには、自分の母ではない父の妻がいます。その妻と結婚してはいけません。

 以上ですが、このように、実に現実的な事件や問題の中で、どのように対処しなければならないかを見ることができました。そこに貫かれている考えは、「優しくする」ということでしょうか。あわれみというか寛大さというか、また人の権利を守ることが私たちには必要です。


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