申命記32−34章 「約束の地を前にして」

アウトライン

1A 主を忘れるイスラエル 32
   1B モーセの歌 1−43
      1C 曲がった時代 1−18
         1D 真実なる神 1−9
         2D 肥え太るエシュルン 10−18
      2C 神の怒り 19−35
         1D 御顔の背け 19−25
         2D 敵のののしり 26−35
      3C 御民へのあわれみ 36−43
   2B いのちのことば 44−52
2A エシュルンの王 33
   1B シナイ山での現われ 1−5
   2B 12部族への祝福 6−25
   3B 安らかな暮らし 26−29
3A モーセのような預言者 34
   1B 主による埋葬 1−8
   2B ヨシュアへの継承 9−12

 

本文

 申命記32章を開いてください。今日は最後の章、34章まで学びます。ここでのテーマは、「約束の地を前にして」です。

 私たちはとうとう、創世記から始めて、モーセ五書を終えようとしています。聖書の五冊は、新約聖書で例えるなら、福音書のようなものです。信仰の土台であり、土台に立って生きていきます。創世記の学びの始めに、それぞれの書物の霊的意義について学びました。創世記は神の約束について。出エジプト記は、贖いについて。レビ記は、贖われた者が行なう「礼拝」について書かれています。民数記は、この世における歩みについて。そして申命記は、これらの歩みを支えるための勧めが書かれています。それではさっそく本文に入りたいと思います。

1A 主を忘れるイスラエル 32
1B モーセの歌 1−43
1C 曲がった時代 1−18
1D 真実なる神 1−9
 天よ。耳を傾けよ。私は語ろう。地よ。聞け。私の口のことばを。私のおしえは、雨のように下り、私のことばは、露のようにしたたる。若草の上の小雨のように。青草の上の夕立のように。

 ここから私たちは、モーセの歌を読みます。手前の31章30節をご覧ください。「モーセは、イスラエルの全集会に聞こえるように、次の歌のことばを終わりまで唱えた。」とありますね。私たちは前回、イスラエルの民が、はいって行こうとしている地で、他の神々をおがみ、主なる神を見捨ててしまうことを、モーセが主から教えられたところを読みました。そこでモーセは、イスラエルがずっと後に、神を見捨てて、神にさばかれたときに、主のことばを思い起こしてもらうために、歌の歌詞をつくりました。それがこの32章の言葉です。イスラエルが、とくに意味を考えないで何気にその歌をうたっています。けれども、はっと、その歌の歌詞に目が留まり、「なんだ、これは私たちのことを言っているではないか。」と気づくようになります。モーセは、このように歌によって、後世のイスラエルが、神が生きておられ、神が言われたとおりのことが起こっていることを知ってもらおうとしているのです。

 ここで、モーセの言葉が、雨のように、露のようにしたたる、とありますが、それは、30章において、モーセが、「天と地を証人に立てる」と言っているからです。これからモーセが語ることが、目で見えるかたちで、この地上に、また天において起こることを意味しています。

 私が主の御名を告げ知らせるのだから、栄光を私たちの神に帰せよ。

 主の御名とは、「ヤハウェ」です。名前は、とくに神に対する名前は、その本質を表します。次の神についての説明に、その本質が表れています。

 主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。

 「主は岩」とあります。モーセとイスラエルの民が歩いてきた、その荒野は、岩だらけでありました。また、約束の地においても、岩がたくさんあります。私もイスラエルに行ったときに、至るところが岩なのでびっくりしました。あの地域において面白いことは、遺跡が何千年も残っていることです。日本であれば、水による侵食などで、とっくの昔になくなっているようなものも、イスラエルにはたくさん残されています。いつまでも残り、堅く立ち、動じない、というのが、岩に与えられているニュアンスになります。

 そして、主のみわざは完全であり、その道は正しく、また主は真実で偽りがない、とあります。私たち人間は、自分たちが神とかイエスとかを考えなければ、それで神はいなくなった、と考えます。自分の決心次第で、神も変わると考えるのです。けれども、人が神を信じようが信じまいが、神は存在して、神の真理はそのまま立っています。アメリカ人のクリスチャンによる、パントマイムの伝道を思い出しますが、そこにイエスさま役の人と、イエスさまを信じる人役、そして信じない人の役の三人の人がいたことを思い出します。イエスさまを信じる人は、イエスさまに顔を向けて、イエスさまのほうに近づきますが、信じない人は振り返って、反対方向を歩きます。それから、その信者と不信者の二人が消えて、イエスさまだけになります。イエスさまは、イエスさまとして変わらず、そこにおられるのです。変わるのは、その人の人生と運命だけです。その人が永遠のいのちを得るか、それとも永遠の滅びを刈り取るかのどちらかに道を歩みます。

 主をそこない、その汚れで、主の子らではない、よこしまで曲がった世代。

 主が真実であるのに対して、イスラエルはよこしまで、曲がっています。福音書や使徒行伝にも、この言葉が使われていました。イエスさまは、「ああ不信仰な、曲がった今の世だ。(マタイ17:17)」と言われました。ペテロは、「この曲がった時代から救われなさい。(使徒2:40)」と言いました。

 あなたがたはこのように主に恩を返すのか。愚かで知恵のない民よ。主はあなたを造った父ではないか。主はあなたを造り上げ、あなたを堅く建てるのではないか。

 イスラエル人は、主によって造り出された民族です。それなのに、彼らはその主を見捨てるという愚かな過ちを犯します。

 昔の日々を思い出し、代々の年を思え。あなたの父に問え。彼はあなたに告げ知らせよう。長老たちに問え。彼らはあなたに話してくれよう。

 「昔の日々」とは、ちょうどモーセが生きているその日々のことです。何百年、何千年も後に、この時のことを思い出せ、ということです。

 いと高き方が、国々に、相続地を持たせ、人の子らを、振り当てられたとき、イスラエルの子らの数にしたがって、国々の民の境を決められた。主の割り当て分はご自分の民であるから、ヤコブは主の相続地である。

 イスラエルに相続地とそれぞれの部族に割り当ての地が与えられます。

2D 肥え太るエシュルン 10−18
 主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。

 モーセは、詩的な表現で、イスラエルがどのようにしてエジプトの地から連れ出されて、約束の地まで来ることができたのかを説明しています。獣のほえる荒地でイスラエルをひろいあげ、世話をして、ご自分のひとみのように守られました。

 わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。

 これは面白いたとえです。わしがそのひなを育てて、ひなが巣立ちすることができるように行なう訓練があります。親わしは、巣をゆすって、ひなが巣から落ちるようにさせます。ひなは、必死になって羽をばたつかせます。親わしはそれを追いかけて、ひなが地面に落ちる前に、自分の翼でひなをキャッチします。これを繰り返して、ひなが空を飛べるようにするのです。

 イスラエルが、主に拠り頼むことを、エジプトから出て行くところから学びました。紅海を渡らせるときに、あえて、エジプト軍が彼らを追いかけるようにされました。神が、ご自分のみわざをイスラエルに見せ、その救いを体験させて、イスラエルがしっかりと主にあって立つことができるようにされました。

 ただ主だけでこれを導き、主とともに外国の神は、いなかった。主はこれを、地の高い所に上らせ、野の産物を食べさせた。主は岩からの蜜と、堅い岩からの油で、これを養い、牛の凝乳と、羊の乳とを、最良の子羊とともに、バシャンのものである雄羊と、雄やぎとを、小麦の最も良いものとともに、食べさせた。あわ立つぶどうの血をあなたは飲んでいた。

 約束の地における、天からと地上の祝福をモーセは預言しています。「岩からの油」というのは、岩地に生えているオリーブの木のことでしょう。イスラエルでは今も、岩がごろごろしているところに、オリーブの木がたくさん生えています。

 エシュルンは肥え太ったとき、足でけった。あなたはむさぼり食って、肥え太った。自分を造った神を捨て、自分の救いの岩を軽んじた。

 「エシュルン」とは、古来のイスラエルの名称です。エシュルンが、約束の地における主からの祝福によって、かえって主を捨てて、その救いを軽んじるようになります。私たちも同じです。今は恵みの時代であるとパウロは言いましたが、イエス・キリストを信じるだけで救われるという恵みがあるのにも関わらず、いやそのように神が恵み深いから、かえってその救いを軽んじる人たちがたくさんいます。

 彼らは異なる神々で、主のねたみを引き起こし、忌みきらうべきことで、主の怒りを燃えさせた。神ではない悪霊どもに、彼らはいけにえをささげた。それらは彼らの知らなかった神々、近ごろ出てきた新しい神々、先祖が恐れもしなかった神々だ。

 主なる神ではない、偶像をイスラエルはおがみはじめました。ここで、これら偶像が、「神ではない悪霊ども」と呼ばれていることに注目してください。多くの人が、「偶像は石や木にしか過ぎないのだから、過敏になって避ける必要があるのか。」と言います。けれども、そのような態度を持っていたコリント人に対して、パウロは、「いや、彼らのささげる物は、神ではなく悪霊にささげられている、と言っているのです。(1コリント10:20)」と言いました。

 あなたは自分を生んだ岩をおろそかにし、産みの苦しみをした神を忘れてしまった。

 彼らを造り出し、産みの苦しみをもって生み出された神を忘れてしまいました。

2C 神の怒り 19−35
1D 御顔の背け 19−25
 主は見て、彼らを退けられた。主の息子と娘たちへの怒りのために。主は言われた。「わたしの顔を彼らに隠し、彼らの終わりがどうなるかを見よう。彼らは、ねじれた世代、真実のない子らであるから。」

 彼らが神を見捨てたので、神は彼らからご自分の顔を背けられます。私たちは、当たり前に思っていること、たとえば息をしているとか、五体満足であるとか。または住む家があり、仕事があるとか。当たり前のものとして捉えてしまいますが、それは主の直接的な守りと備えがあるから、成り立っているものです。主が世話をするのをやめ、御顔を背けるならば、たちどころにその守りの壁は取れて、大変なことになります。

 彼らは、神でないもので、わたしのねたみを引き起こし、彼らのむなしいもので、わたしの怒りを燃えさせた。わたしも、民ではないもので、彼らのねたみを引き起こし、愚かな国民で、彼らの怒りを燃えさせよう。

 この言葉は、異邦人への救いによって実現しました。イスラエルが神の福音を受け入れなかったので、主は、イスラエルの民ではない異邦人を救いに導かれます。それゆえ、ユダヤ人がねたみにかられて、パウロやその他の信者たちを迫害しましたが、それは神が行なわれたことです。パウロはこう言いました。「そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。(ローマ11:13−14)」異邦人が救われると、ユダヤ人がねたみます。

 わたしの怒りで火は燃え上がり、よみの底にまで燃えて行く。地とその産物を焼き尽くし、山々の基まで焼き払おう。

 「よみの底」とありますが、これは新約におけるハデスです。地上のものだけではなく、地の底、あるいは死後のものまで燃え尽くす、ということです。

 わざわいを彼らの上に積み重ね、わたしの矢を彼らに向けて使い尽くそう。飢えによる荒廃、災害による壊滅、激しい悪疫、野獣のきば、これらを、地をはう蛇の毒とともに、彼らに送ろう。外では剣が人を殺し、内には恐れがある。若い男も若い女も乳飲み子も、白髪の老人もともどもに。

 イスラエルの歴史の中で、このことが起こりました。イエスをユダヤ人が拒んだ後に、彼らはローマによって滅ぼされ、世界中に散らばる離散の民となりました。

2D 敵のののしり 26−35
 わたしは彼らを粉々にし、人々から彼らの記憶を消してしまおうと考えたであろう。もし、わたしが敵のののしりを気づかっていないのだったら。・・彼らの仇が誤解して、「われわれの手で勝ったのだ。これはみな主がしたのではない。」と言うといけない。

 イスラエルは、滅び尽くされることはありませんでした。なぜなら、もしイスラエルがなくなってしまえば、敵が主の御名を汚すようになるからです。「イスラエルの神などいなかった。」と言うことになります。そこで主は、イスラエルが正しいからではなく、ご自分の御名のゆえに、イスラエルを残し、イスラエルに対する約束を実現されます。

 まことに、彼らは思慮の欠けた国民、彼らのうちに、英知はない。もしも、知恵があったなら、彼らはこれを悟ったろうに。自分の終わりもわきまえたろうに。

 もし、自分が行なっていることの結果をよく考えていたのなら、偶像をおがむという愚かなことはしなかっただろうに、ということです。私たちが罪を犯すとき、一時的な楽しみのためにそれを行ないます。それは愚かなことであり、先々のことを考えていない行為です。

 彼らの岩が、彼らを売らず、主が、彼らを渡さなかったなら、どうして、ひとりが千人を追い、ふたりが万人を敗走させたろうか。

 イスラエルが周囲の敵に勝利するときに、イスラエルの人数がきわめて少なかったときのことがあったことを思い出してください。ギデオンは、数万人のミデアン人に対して300人の兵士だけで勝ちました。ヨナタンと道具持ちは、たった二人で、ペリシテ人の陣営に入り込みました。これらは主がともにおられたからです。

 まことに、彼らの岩は、私たちの岩には及ばない。敵もこれを認めている。

 イスラエルの神のほうが、異邦人が拝んでいる神々よりも、ずっと力強い、ということです。

 ああ、彼らのぶどうの木は、ソドムのぶどうの木から、ゴモラのぶどう畑からのもの。彼らのぶどうは毒ぶどう、そのふさは苦みがある。そのぶどう酒は蛇の毒、コブラの恐ろしい毒である。

 良い実を結ぶために造り出されたはずであるイスラエルが、悪い実を結ぶようになりました。彼らは罪を犯してさばかれた、ソドムとゴモラのようでした。

 「これはわたしのもとにたくわえてあり、わたしの倉に閉じ込められているではないか。復讐と報いとは、わたしのもの、それは、彼らの足がよろめくときのため。彼らのわざわいの日は近く、来るべきことが、すみやかに来るからだ。」

 主がイスラエルをさばかれるときが、再び訪れます。大患難においてです。これは、イスラエルに対するさばきであると同時に、イスラエルが生ける神に立ち上がるときでもあります。そこで次からモーセは、イスラエルが神のあわれみを受け、回復することを預言します。

3C 御民へのあわれみ 36−43
 主は御民をかばい、主のしもべらをあわれむ。彼らの力が去って行き、奴隷も、自由の者も、いなくなるのを見られるときに。主は言われる。「彼らの神々は、どこにいるのか。彼らが頼みとした岩はどこにあるのか。彼らのいけにえの脂肪を食らい、彼らの注ぎのぶどう酒を飲んだ者はどこにいるのか。彼らを立たせて、あなたがたを助けさせ、あなたがたの盾とならせよ。

 主は、彼らの力が失せて、本当にご自分に拠り頼むのを待っておられます。私たちも、何か主よりも大切にしているものがあって、そして自分に災いがふりかかって、それで困ったときの神頼みのように祈り求めても、その祈りは聞かれないかもしれません。私たちがほんとうにへりくだって、自分の不義を認めるときに、はじめて真実で正しい方である主に助けを呼ぶことができます。それまで、主は彼らをそのままにしておかれます。

 今、見よ。わたしこそ、それなのだ。わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない。

 彼らの力が尽きたとき、主はご自身を現わされます。

 まことに、わたしは誓って言う。「わたしは永遠に生きる。わたしがきらめく剣をとぎ、手にさばきを握るとき、わたしは仇に復讐をし、わたしを憎む者たちに報いよう。わたしの矢を血に酔わせ、わたしの剣に肉を食わせよう。刺し殺された者や捕われた者の血を飲ませ、髪を乱している敵の頭を食わせよう。」

 主イエス・キリストが再び戻って来られるとき、主はイスラエルのために戦ってくださいます。ハルマゲドンの戦いのときに、ここに書かれている通り、敵はことごとく殺され、その血と肉でいっぱいになります。

 諸国の民よ。御民のために喜び歌え。主が、ご自分のしもべの血のかたきを討ち、ご自分の仇に復讐をなし、ご自分の民の地の贖いをされるから。

 これは神の国が地上に立てられるときです。イスラエルと教会による、千年間の統治が続きます。

2B いのちのことば 44−52
 モーセはヌンの子ホセアといっしょに行って、この歌のすべてのことばを、民に聞こえるように唱えた。モーセはイスラエルのすべての人々に、このことばをみな唱え終えてから、彼らに言った。「あなたがたは、私が、きょう、あなたがたを戒めるこのすべてのことばを心に納めなさい。それをあなたがたの子どもたちに命じて、このみおしえのすべてのことばを守り行なわせなさい。」彼らの世代ではなく、ずっと後の世代までこれを聞かせるように、ということです。これは、あなたがたにとって、むなしいことばではなく、あなたがたのいのちであるからだ。このことばにより、あなたがたは、ヨルダンを渡って、所有しようとしている地で、長く生きることができる。」

 モーセの言葉は、単なる歌ではなく、実際にその通りになるところの、生死をかけた預言です。それで、「あなたがたのいのちであるからだ」とあります。

 この同じ日に、主はモーセに告げて仰せられた。「エリコに面したモアブの地のこのアバリム高地のネボ山に登れ。わたしがイスラエル人に与えて所有させようとしているカナンの地を見よ。あなたの兄弟アロンがホル山で死んでその民に加えられたように、あなたもこれから登るその山で死に、あなたの民に加えられよ。

 ネボ山は、今もヨルダン国のほうに観光に行けば登ることができます。私がエリコに行ったときには、エリコからもネボ山を見ることができました。モーセはそこに登って、死ぬことを主から告げられました。

 あなたがたがツィンの荒野のメリバテ・カデシュの水のほとりで、イスラエル人の中で、わたしに対して不信の罪を犯し、わたしの神聖さをイスラエル人の中に現わさなかったからである。あなたは、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地を、はるかにながめることはできるが、その地へはいって行くことはできない。

 モーセが、主から、「岩に命じなさい」と言われたのに、岩を打った事件のことです。岩を打ったのは、モーセがイスラエルの民に怒り狂ったからであり、主が神聖であることを現わすことがなかった罪によるものです。

 私たちの感覚からすれば、たった一度の間違いで、約束の地にはいることができないのはむごいと思わされます。けれども、モーセがイスラエルに何を与えたのかを思い出せば、理解できます。彼は律法の代表者でした。律法の一点でも違反すれば、律法全体を違反したことになる、とヤコブは言いました。モーセは、律法の代表者として、約束の地にはいることができなかったのです。ヨシュアが入ることになります。彼の名前をギリシヤ語にすると「イエス」です。約束のものを手にするのは、律法による行ないではなく、信仰によってであり、私たちは恵みによって、信仰によって救われます。

2A エシュルンの王 33
 そして33章から、モーセが死ぬ直前に話した、イスラエルへの祝福のことばがあります。イスラエル12部族それぞれに、預言的なことを語ります。これは、創世記49章に書かれてある、死に際のヤコブの預言と似ています。ヤコブも、自分の息子それぞれに、彼らがどうなるかを語り、祝福しました。モーセも同じように祝福しますが、申命記では、これから入る相続地そのものにおける祝福が多く語られています。

1B シナイ山での現われ 1−5
 これは神の人モーセが、その死を前にして、イスラエル人を祝福した祝福のことばである。彼は言った。「主はシナイから来られ、セイルから彼らを照らし、パランの山から光を放ち、メリバテ・カデシュから近づかれた。その右の手からは、彼らにいなずまがきらめいていた。まことに国々の民を愛する方、あなたの御手のうちに、すべての聖徒たちがいる。彼らはあなたの足もとに集められ、あなたの御告げを受ける。

 これは、主なる神が、シナイ山のところでイスラエルの民に現れたことについてです。イスラエルの民が集められて、そこで稲妻と角笛の音と黒雲とで、主が現れてくださいました。

 モーセは、みおしえを私たちに命じ、ヤコブの会衆の所有とした。民のかしらたちが、イスラエルの部族とともに集まったとき、主はエシュルンで王となられた。

 主がエシュルン、すなわちイスラエルの王となられました。すばらしいことですね。これが国にとって、最大の祝福でしょう。主ご自身が王となられている状態です。

2B 12部族への祝福 6−25
 次から、12部族がどのようにして祝福されるのかを述べていきます。ルベンは生きて、死なないように。その人数は少なくても。

 長男はルベンでしたが、ルベン族が先に語られます。ルベンは、死海の東側あたりに割り当て地を持ちます。彼らは初め人数が多かったのに、どんどん少なくなりました。けれども、なくなることはありませんでした。

 ユダについては、こう言った。「主よ。ユダの声を聞き、その民に、彼を連れ返してください。彼は自分の手で戦っています。あなたが彼を、敵から助けてください。」

 ユダに対する祝福は、彼らが敵と戦って勝つことです。ユダからはダビデ王が出ました。彼が戦ったので、イスラエルは国として統一され、強い国となりました。

 レビについて言った。「あなたのトンミムとウリムとを、あなたの聖徒のものとしてください。あなたはマサで、彼を試み、メリバの水のほとりで、彼と争われました。

 レビ族に対する祝福です。トンミムとウリムとは、大祭司が胸当てのところに入れておく、主のみこころを知るための道具です。レビ人から祭司が出ました。そしてモーセ自身もレビ人です。モーセは、メリバにて、イスラエルのために岩を打って水を出しました。

 彼は、自分の父と母とについて、『私は、彼らを顧みない。』と言いました。また彼は自分の兄弟をも認めず、その子どもをさえ無視し、ただ、あなたの仰せに従ってあなたの契約を守りました。

 イスラエルが金の子牛をおがんで、乱れていたときに、彼らを殺したのは、レビ人でした。レビ人は、たとえ肉親であっても、主の怒りを静めるために、主に忠誠を尽くしました。

 彼らは、あなたの定めをヤコブに教え、あなたのみおしえをイスラエルに教えます。彼らはあなたの御前で、かおりの良い香をたき、全焼のささげ物を、あなたの祭壇にささげます。主よ。彼の資産を祝福し、その手のわざに恵みを施してください。彼の敵の腰を打ち、彼を憎む者たちが、二度と立てないようにしてください。

 レビ人は祭壇で奉仕をする人たちでした。そこに祝福があるように、とモーセは祈っています。

 ベニヤミンについて言った。「主に愛されている者。彼は安らかに、主のそばに住まい、主はいつまでも彼をかばう。彼が主の肩の間に住むかのように。

 ベニヤミン族は、エルサレムのすぐ下に割り当て地がありました。だから、「主のそばに住まい」とあります。そして「主の肩の間に住む」というのは、おそらく神殿の丘となっているモリヤの山と、ダビデの墓があるところのシオンの山のことを意味していると思われます。

 ヨセフについて言った。「主の祝福が、彼の地にあるように。天の賜物の露、下に横たわる大いなる水の賜物、太陽がもたらす賜物、月が生み出す賜物、昔の山々からの最上のもの、太古の丘からの賜物、地とそれを満たすものの賜物、柴の中におられた方の恵み、これらがヨセフの頭の上にあり、その兄弟たちから選び出された者の頭の頂の上にあるように。

 ヨセフから、エフライムとマナセの二部族が出てきました。彼らは、ベニヤミン族の北部にその土地の割り当てが与えられました。その肥沃な土地のゆえに、モーセは主の祝福を「賜物」として描いています。

 彼の牛の初子には威厳があり、その角は野牛の角。これをもって地の果て果てまで、国々の民をことごとく突き倒して行く。このような者がエフライムに幾万、このような者がマナセに幾千もいる。

 農産物だけでなく、軍事的にも強いという預言です。例えば、士師のギデオンは、マナセ部族の出身です。

 ゼブルンについて言った。「ゼブルンよ。喜べ。あなたは外に出て行って。イッサカルよ。あなたは天幕の中にいて。彼らは民を山に招き、そこで義のいけにえをささげよう。彼らが海の富と、砂に隠されている宝とを、吸い取るからである。

 ゼブルンとイッサカルの二つの部族に対する祝福です。その土地は海に接していたわけではありませんが、地中海からの物資がたくさん送り込まれたようです。

 ガドについて言った。「ガドを大きくする方は、ほむべきかな。ガドは雌獅子のように伏し、腕や頭の頂をかき裂く。彼は自分のために最良の地を見つけた。そこには、指導者の分が割り当てられていたからだ。彼は民の先頭に立ち、主の正義と主の公正をイスラエルのために行なった。」

 ガドは、ヨルダン川東岸のほうに割り当て地をもらいました。モーセたちが初めて手にした土地を割り当ててもらったのです。指導者たちだけがヨルダン川を渡り、ヨシュアとともに戦いました。

 ダンについて言った。「ダンは獅子の子、バシャンからおどり出る。」

 ダンの土地は、ペリシテ人が住む今のガザ地域北部に割り当てが与えられましたが、そこだけでは不十分で、北部のほうに行き、そこも自分たちの土地としました。「バシャン」というのは、現在のゴラン高原の地域です。

 ナフタリについて言った。「ナフタリは恵みに満ち足り、主の祝福に満たされている。西と南を所有せよ。」

 ナフタリはガリラヤ地方の一部ですが、そこは農産物がたくさんとれるところです。恵みに満ちたり、祝福に満たされます。

 アシェルについて言った。「アシェルは子らの中で、最も祝福されている。その兄弟たちに愛され、その足を、油の中に浸すようになれ。あなたのかんぬきが、鉄と青銅であり、あなたの力が、あなたの生きるかぎり続くように。」

 アシュルは、地中海に面するイスラエル北部地域です。油を足に注ぐのではなく、油の中に足を浸すということは、かなりのオリーブ油の産出があるようです。

3B 安らかな暮らし 26−29
 エシュルンよ。神に並ぶ者はほかにない。神はあなたを助けるため天に乗り、威光のうちに雲に乗られる。昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。あなたの前から敵を追い払い、「根絶やしにせよ。」と命じた。

 主が戻ってきてくださいます。イエス・キリストの再臨です。

 こうして、イスラエルは安らかに住まい、ヤコブの泉は、穀物と新しいぶどう酒の地をひとりで占める。天もまた、露をしたたらす。

 イスラエルが約束の地で安らかに住まうのは、これが完全に実現するのは、やはり将来の神の御国においてであります。

 しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。主に救われた民。主はあなたを助ける盾、あなたの勝利の剣。あなたの敵はあなたにへつらい、あなたは彼らの背を踏みつける。

 イスラエルが、敵に打ち勝ち、救われた民となります。

3A モーセのような預言者 34
1B 主による埋葬 1−8
 モーセはモアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登った。主は、彼に次の全地方を見せられた。ギルアデをダンまで、ナフタリの全土、エフライムとマナセの地、ユダの全土を西の海まで、ネゲブと低地、すなわち、なつめやしの町エリコの谷をツォアルまで。

 今でもネボ山に上れば、この地域全体を見ることができます。北のダン、そして南へ行くとナフタリ、さらにエフライムとマナセ、そしたさらに南に行ってユダ、それからもっと南にはネゲブ砂漠があります。北から南を見回したあと、目の前にはエリコがあります。そこはオアシスであり、緑が茂っているところです。

 そして主は彼に仰せられた。「わたしが、アブラハム、イサク、ヤコブに、『あなたの子孫に与えよう。』と言って誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたはそこへ渡って行くことはできない。」こうして、主の命令によって、主のしもべモーセは、モアブの地のその所で死んだ。主は彼をベテ・ペオルの近くのモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知った者はいない。

 モーセについて特筆すべきは、その埋葬が主ご自身によって行なわれたということです。そして墓も分かりません。

 モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。

 モーセが40歳のときに、エジプトを出ました。80歳のときにエジプトに戻り、イスラエルを連れ出しました。そして120歳で死にました。

 イスラエル人はモアブの草原で、三十日間、モーセのために泣き悲しんだ。そしてモーセのために泣き悲しむ喪の期間は終わった。

2B ヨシュアへの継承 9−12
 ヌンの子ヨシュアは、知恵の霊に満たされていた。モーセが彼の上に、かつて、その手を置いたからである。イスラエル人は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおりに行なった。

 継承も確かに行なわれました。モーセからヨシュアにそのリーダーシップが移りました。

 モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を主は、顔と顔とを合わせて選び出された。燃える芝の中で、主がモーセに現われました。それは主が彼をエジプトの地に遣わし、パロとそのすべての家臣たち、およびその全土に対して、あらゆるしるしと不思議を行なわせるためであり、また、モーセが、イスラエルのすべての人々の目の前で、力強い権威と、恐るべき威力とをことごとくふるうためであった。

 これでモーセの生涯が終わりました。彼は、約束の地を見、また約束の地における神の祝福を預言して死にました。自分は行けませんでしたが、子供のようにして愛してきたイスラエルの民が入れることを思い、安心して死ぬことができたでしょう。

 けれども、実はモーセは、この1500年ほど後に、約束の地の中にはいっています。イエスさまが三人の弟子を連れて、高い山に行かれたときに、その姿が変貌しました。そしてそこには、モーセとエリヤがイエスさまを真ん中にはさんで、十字架につけられることについて話していました。モーセは、死んだけれども復活して、イエスさまと話していたのです。そこは、生きていたときにはは入れなかった約束の地の中でした。

 ところで、モーセは死んだけれども、よみがえりましたが、エリヤは死を見ることなくして、天に引き上げられました。これは、主が教会のために戻って来られるときに起こることであります。主が来られると、まず死者がよみがえり、次に生き残っている私たちが変えられて、空中に引き上げられます。そして主とお会いします。

 そして私たちは、モーセが約束の地を見て死んだように、約束のものを見ながら生きていきます。ヘブル書12章後半に、私たちに近づいているのは、天のエルサレムであり、祝会であると書かれていますが、私たちは祝された天の御国に入ることができます。ネボ山から約束の地を見たモーセのように、私たちも信仰の目で、しっかりと約束のものを見据えましょう。


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