出エジプト記 1−4章 「神の選び」

アウトライン

1A 苦しみ 1−2
   1B イスラエルの多産 1
      1C ヤコブへの約束 1−7
      2C エジプトの恐れ 8−14
      3C 神への恐れ 15−22
   2B モーセの救い 2
      1C 神の守り 1−10
      2C キリストのそしり 11−22
      3C 神の主権 23−25
2A 神の愛 3−4
   1B 神の計画 3
      1C ご臨在 1−6
      2C お働き 7−12
   2B 神の力 4
      1C しるし 1−9
      2C ことば 10−17
      3C いのち 18−26
      4C 民の信仰 27−31

本文

 今日は、出エジプト記を学びます。1章から4章までを学びます。ここでの主題は、「神の選び」です。本文に入る前に、まず出エジプト記全体を眺めてみましょう。

 この書物の全体のテーマは、「贖い」です。私たちは、創世記において、神の祝福の約束について学びました。神がアダムとともにおられた、あの祝福を私たちが受けることができるという約束です。神は、アブラハムを呼び出されて、彼の子孫からこの祝福を与える計画を立てられました。その約束は、イサク、ヤコブに引き継がれました。けれども、私たちは前回、エジプトにいるヨセフのところに、ヤコブの家族が移っていったことを見ました。その祝福は、カナンの地を所有して、多くの子孫が与えられるというものでしたが、彼らはエジプトに下っていったのです。けれども、それは、一つの大きな神のご計画が実現されるためでした。神は、ただ単にイスラエルを祝福されるのではなく、まず彼らが苦しむのを許されて、その苦しみから彼らを救い出し、それから彼らを祝福されるというものです。

 でも、なぜ、神はそのようなことをわざわざされたのでしょうか。イザヤ書43章10節で、神はイスラエルに、「あなたがたは、わたしの証人」であると言われました。私たちがイスラエルを見るとき、神がどのような方であるか、また、神が何をなされるのかを知ることができます。アダムの子孫である人間は、神から引き離され、のろいの下にいます。神はアダムに、「あなたは、苦しんで食を得なければならない。」と言われました。しかし、女の子孫であるキリストによって、神は人類を救い出し、ご自分の祝福をふたたび注がれます。そうした贖いの計画を神はもっておられるので、神の証人であるイスラエルは、まず苦しみを受けなければならないのです。ですから、私たちが出エジプト記でイスラエルのたどった道を読むとき、神がどのように私たちを贖われるかを見ることができるのです。

 出エジプト記には、この贖いについて3つの大きなテーマがあります。一つ目は、贖いそのものの内容です。1章から18章までに書かれています。贖いの内容です。神が、イスラエルをエジプトから連れ出し、カナンの地への旅を開始させます。そして、二つ目は、贖いの過程です。これは、イスラエルが聖なる国民となることです。これは、19章から24章までにあります。彼らは救い出された結果、神ご自身の民、聖なる国民として生きていくことになります。そのため、神はご自分の聖さを示すために、律法を与えられました。さらに、三つ目に、贖いの目的が書かれています。その目的とは、神の栄光が現われることです。25章から最後までに書かれています。イスラエルが救われて聖なる国民とされるのは、神の栄光が、神のすばらしさが現われるためです。そのため、神はモーセに幕屋をつくるように命じられました。そこに神はお住みになり、ご自身の栄光を示されました。

 さて、これらは、イエス・キリストを信じる者に当てはまります。まず、私たちは、暗やみの圧制から救い出されました。罪の奴隷状態から解放されたのです。その結果、神の子どもとしての歩みを始めます。それは、キリストにある新しい、聖い生活であり、罪から離れた生活です。そして、その生活によって、神の栄光が現われます。また、天において、私たちは栄光の主を顔と顔を合わせて見ることになるのです。ですから、私たちが抽象的に抱いている、救い、聖い生活、神の栄光などの真理を、イスラエルの劇的な歴史を見ることによって、具体的、はっきりと見ることができるのです。これらの事柄が、自分の心のうちでまだぼやけているなら、どうぞこの学びではっきりさせてください。

 それでは、1−4章の本文に入っていきたいと思います。ここでのテーマは、「神の選び」です。神は、ご自分が救い出される民族と、その指導者を選ばれる話です。

1A 苦しみ 1−2
1B イスラエルの多産 1
1C ヤコブへの約束 1−7
 さて、ヤコブといっしょに、それぞれ自分の家族を連れて、エジプトへ行ったイスラエルの子たちの名は次のとおりである。ルベン、シメオン、レビ、ユダ。イッサカル、ゼブルンと、ベニヤミン。ダンとナフタリ。ガドとアシュル。ヤコブから生まれた者の総数は70人であった。ヨセフはすでにエジプトにいた。

 ヤコブが、その家族を連れてきた話が載っています。つまり、私たちが前回学んだ、創世記46章から50章までのことが、ここに要約されて書かれています。私たちはとかく、一つの聖書の書物と、また別の書物を別々にとらえがちですが、実は一連の話であることに気づいてください。彼らはエジプトに下って来たのだけれども、そこを自分の土地とは思わず、ヤコブもヨセフも遺体をカナンの地に運び入れるように命じました。その続きです。神が、エジプトから連れ戻してくださるとヤコブに話されたことが、今ここで実現します、ということで出エジプト記は始まります。

 そして、ヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ。

 創世記は、ヨセフが死んだところで終わりましたが、その兄弟たち、その時代の人々もみな死にました。

 イスラエル人は多産だったので、おびただしくふえ、すこぶる強くなり、その地は彼らで満ちた。

 その地とはゴシェンの地です。彼らは、おびただしくふえました。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、子孫が大勢になることを約束されました。けれども、アブラハムの息子は、聖書に名前がのっているのでは合計8人、イサクは2人、ヤコブは13人です。そして、エジプトに下ったときの家族の人数は70人でした。けれども、ヨセフの生きていた時代が過ぎたことには、万単位の人数になっていました。彼らがエジプトを出るとき、大人の男性だけで60万人でありますから、女、子供を入れたら200万人ぐらいにはなっていたでしょう。約束の実現はとても遅く感じられますが、しかし、確実に現実のものとなっているのです。私たちは、すぐにかなえられる祈りや、すぐに実現される約束が好きです。けれども、それは世が与える楽しみです。それは、即効的な約束を与えますが、すぐに過ぎ去ります。神の与えられる約束は、じっくりと待たなければなりませんが、確実に実るのです。神はハバククに、「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。(2:3)」と言われました。

C エジプトの恐れ 8−14
 さて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。

 ここは、「エジプトに対抗して起こった。」と訳すことができます。古代エジプトの歴史では、この時期に、アアフメスという人によって新しい王朝が起こりました。今までは、セム系のヒクソス人が力を持っていましたが、彼が対抗して国粋主義的な流れを持つ王朝を始めました。そこで次の出来事が起こります。

 彼は民に言った。「見よ。イスラエルの民は、われわれよりも多く、また強い。さあ、彼らを賢く取り扱おう。彼らが多くなり、いざ戦いというときに、敵側についてわれわれと戦い、この地から出て行くといけないから。」

 イスラエルの民は、多くなっただけでなく力を持ち始めました。それで、戦争が起こったときを利用して、彼らが自分の国から出ていくではないかと恐れました。彼らがいることで、エジプトの国が潤っていたからでしょう。世界にはいろいろな民族がいますが、外国で多くなり影響力を持つ民族もあれば、そうでない民族もいます。例えば、メキシコ人はアメリカで非常に多くなっていますが、影響力としては少ないです。けれども、ユダヤ人は違います。弁護士、医者、そして政治家として活躍している人たちが大ぜいいます。けれども、そこには、いつも他の人々が抱く脅威があります。彼らが自分たちを乗っ取るのではないかという脅威です。実は、イスラエルの歴史の始まりからそうだったのです。神が、彼らをおびただしくふやし、強くされるので、不安になり、彼らを何とかしなければいけないと考える者たちが現われます。

 こうして、神がイスラエルにご自分の約束を実現しはじめられると、それを妨げる勢力が出てきます。エジプトは、創世記のときからこの世の象徴としてよく出てきましたが、ここでもそうです。この世の神である悪魔は、神の働きを妨げ、できるなら滅ぼしてしまいたいと願っています。

 そこで、彼らを労役で苦しめるために、彼らの上に労務の係長を置き、パロのために倉庫の町ピトラとラメセスを置いた。

 彼らに苦役を課し、彼らの力を弱めようとしました。しかし、次を見てください。「しかし苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がったので、人々はイスラエル人を恐れた。」苦しめられたら、彼らはもっと増えました。神の働きは、だれも妨げることができません。むしろ、妨げられるとますます広がります。使徒行伝を見ると、使徒たちに迫害が加えられたあとに、「主のことばがますます広がった」という表現が出てきます。

 それでエジプトはイスラエル人に過酷な労働を課した。粘土やれんがの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、すべて、彼らに課する苛酷な労働で、彼らの生活を苦しめた。

 ここでの「過酷」という言葉は、磨り潰すに近い意味があります。モーセは後で、「鉄の炉(申命4:20)」と表現しています。あまりにも悲惨な奴隷状態です。

 彼らのこの姿を見るとき、私たちは、自分たちの以前の姿を思い浮かべなければいけません。つまり、罪の奴隷であり、悪魔の鎖につながれていた状態です。パウロは言いました。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいたものであって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。(エペソ2:1−2)」また、へブル書の著者は、以前の私たちを、悪魔によって「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々(2:15)」と呼んでいます。罪と悪魔の言いなりになって、死を恐れて生きていました。自分がそう感じることができなくても、事実は罪の奴隷だったのです。そして、この事実をしっかりと確認することは大切です。なぜなら、それが分かっていないと、キリストを信じても、今までの生活の延長線上で生きてしまうからです。罪の中で死んでいたことを認識すれば、キリストを信じてから自分を信頼しません。キリストに拠り頼んで、御霊に導かれようとします。けれども、この事実を受け止めていなかったら、自分でキリストの命令を守ろうとしてしまいます。神の義を、あたかも行ないによるかのように追い求めてしまうのです(ローマ9:32)。イスラエルは、悲惨な奴隷状態の中にいました。私たちは、以前、罪の奴隷でした。

C 神への恐れ 15−22
 また、エジプトの王は、へブル人の助産婦たちに言った。そのひとりの名はシフラ、もうひとりの名はプアであった。

 この二人は、おそらくへブル人の助産婦たちを管轄していた人だったのでしょう。名前が記されていますね。聖書で女性の名が記されているときは、特別な出来事が起こったときです。

 彼は言った。「へブル人の女に分娩させるとき、産み台の上を見て、もしも男の子なら、それを殺さなければならない。女の子なら、生かしておくのだ。」
パロは、過酷な労働では彼らを弱くすることができないのを知って、乳幼児虐殺の命令を出しました。けれども、次を見てください。しかし、助産婦たちは、神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはせず、男の子を生かしておいた。

 彼女たちは、神を恐れました。イスラエルの数が多くなっているのは、神がなされていることです。それに手を出すことは到底できませんでした。聖書には、地上の権威に従うことが命じられていますが(ローマ13:1)、神のみこころに反対するようなことを命じられたら、その要求を拒まなければいけません。ペテロは、「人に従うよりも、神に従うべきです。(使徒5:29)」と言いました。

 そこで、エジプトの王はその助産婦たちを呼び寄せて言った。「なぜこのようなことをして、男の子を生かしておいたのか。」助産婦たちは言った。「へブル人の女はエジプトの女と違って活力があるので、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」これは、助産婦たちにわざと遅く家々を行き巡らせて、男の子がすでに産まれているようにさせたのかもしれません。
神はこの助産婦たちによくしてくださったので、それで、イスラエルの民はふえ、非常に強くなった。助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた。

 イスラエルの民は、またもや勢いよくふえ続けています。ヤコブに与えられた約束にしたがってふえ、エジプトの与える苦しみによってますますふえ広がり、そしてここでは、神への恐れによってふえています。彼女たちの家は栄えましたが、「あなたを祝福する者を、わたしは祝福する(創世記12:3)」という言葉がここで実現しています。

 また、パロは自分のすべての民に命じて言った。「生まれた男の子はみな、ナイルに投げ込まなければならない。女の子はみな、生かしておかなければならない。

 パロは、さらに過酷な命令を出しました。なんと、生まれたばかりの男の子を川に投げ込むのです。こうして、イスラエルが多産になった結果、彼らに苦しみが増し加わりました。神の約束が実現されればされるほど、苦しみが多くなりました。なぜなら、神は、イスラエルをご自分の民として選ばれていたからです。神は、ホセアを通して、「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し」たと言われました(11:1)。また、「主はあなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれた。(申命7:7参照)」とモーセは言いました。
彼らは神に愛され、選ばれているので、反対者が現れて彼らに苦しみを与えるのです。

2B モーセの救い 2
 苦しみを受けたのは、イスラエルだけではありませんでした。彼らを解放へと導く指導者モーセも、苦しみにあいます。

1C 神の守り 1−10
 さて、レビ人の家のひとりの人がレビ人の娘をめとった。女がみごもって、男の子を産んだが、そのかわいいのを見て、3ヶ月の間その子を隠しておいた。

 モーセは、男の子をナイル川に投げ込む命令が出されている、その時に生まれました。けれども、これから、この男の子のいのちを、神が守られる話を読みます。神は、いろいろな人を用い、いろいろな状況を用いられて、この子を守るようにされました。まず、この両親がこの子を守りました。へブル書11章には、こう書かれています。「信仰によって、モーセは生まれてから3ヶ月の間隠されていました。彼らはそのこの美しいのを見たからです。彼らは王の命令をも恐れませんでした。(23節)」彼らも、助産婦と同様、神を恐れ、パロを恐れませんでした。

 しかし、もう隠しきれなくなったので、赤ちゃんの泣き声が外にもれたのでしょう。パピルス製のかごを手に入れ、それに瀝青と樹脂を塗って、瀝青はアスファルトのことです。
その子を中に入れ、ナイルの岸の葦の茂みの中に置いた。その子の姉が、その子がどうなるかを知ろうとして、遠く離れてたっていたとき、このお姉さんはミリアムのことです。当時13歳でした。パロの娘が水浴びをしようとナイルに降りて来た。

 神が男の子のいのちを守られるのに、なんと、パロの娘を用いられます。両親がこの子を守り、次にパロの娘が守りました。

 彼女は葦の茂みにかごがあるのを見、はしためをやって、それを取って来させた。それをあけてみると、なんと、それは男の子で、泣いていた。彼女はその子をあわれに思い、「これはきっとへブル人の子どもです。」と言った。あわれに思いました。神は、この不信者の心をも支配されております。そのとき、その子の娘がパロの娘に言った。今度は、神は、守りのためにミリアムを用いられます。「あなたに代わって、その子に乳を飲ませるため、私が行って、へブル人のうばを呼んでまいりましょうか。」パロの娘が、「そうしておくれ。」と言ったので、おとめは行って、その子の母を呼んできた。なんと、自分の母を呼びました。パロの娘は彼女に言った。「この子を連れて行き、私に代わって乳を飲ませてください。私があなたの賃金を払いましょう。」それで、その女はその子を引き取って、乳を飲ませた。

 男の子が自分のところに戻ってきただけでなく、賃金までもらうことができました。神が、生きて働かれておられます。けれども、いずれ、この子をパロの娘に引き渡さなければいけません。両親は、この期間に、この子に、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神について教えたのでしょう。

 その子が大きくなったとき、女はその子をパロの娘のもとに連れて行った。その子は王女の息子になった。彼女はその子をモーセと名づけた。彼女は、「水の中から、私がこの子を引き出したのです。」と言ったからである。

 モーセは、「引き出される」という意味です。エジプトから引き出されるイスラエルの指導者にふさわしい名前です。ところで、このパロの娘は、モーセをエジプトの中で高い位に着けました。女性であるのに、かなり大きな権力を持っていたように思われます。エジプトの歴史では、ハトシェプストという女性が、自分がパロの称号を主張するほどに強くなった記録があります。彼女は、この権力を用いて、モーセをエジプトの宮廷の中で育てるのです。ステパノは、「モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ」たと言いました(使徒7:22)。エジプトは、当時の世界の超大国でしたから、ちょうど、世界で最も優れた知者たちによって、モーセは教育と受けたのです。彼は、エジプト人として育てられ、エジプトの富をみな自分のものにすることができるような立場にいました。

C キリストのそしり 11−22
 ところが、次の事件が起こります。こうして日がたち、モーセがおとなになったとき、彼は同胞のところに行き、自分の同胞であるひとりのへブル人を、あるエジプト人が打っているのを見た。

 モーセは、エジプト人として育てられながら、決してへブル人であることを忘れることはありませんでした。

 あたりを見回し、ほかにだれもいないのを見届けると、彼はそのエジプト人を打ち殺し、これを砂の中に隠した。」彼は、イスラエル人を救いたかったのです。ステパノは、「40歳になったころ、モーセはその兄弟であるイスラエル人を顧みる心を起こしました。(使徒7:23)」と言っています。「次の日、また外に出てみると、なんと、ふたりのへブル人が争っているではないか。そこで彼は悪いほうに、『なぜ自分の仲間を打つのか。』と言った。するとその男は、『だれが、あなたを私たちのつかさやさばきつかさにしたのか。あなたはエジプト人を殺したように、私も殺そうと言うのか。』と言った。」ステパノはこのことを、「彼は、自分の手によって神が兄弟たちに救いを与えようとしておられることを、みなが理解してくれるものと思っていましたが、彼らは理解しませんでした。(使徒7:25)」と言いました。モーセにはもともと、人々を救ったり、助けたりする傾向がありました。次に出てくるミデアンの地でも、7人の女を羊飼いの手から救っています。これは、明らかに神が置いてくださった願いです。けれども、彼は、自分の手で救わなければいけない、と考えたところに誤りがあります。「自分はエジプトの高い位についている。だから、この立場を用いて、彼らをきっと救い出すのだ。」と思ったかもしれません。けれども、それは間違いでした。神は、モーセを用いられますが、お救いになるのはあくまでも神なのです。

 私たちにも、このような間違いをしばしば犯します。神が願われていることを、神にゆだねて行なうのでなく、自分の手で行なおうとすることです。パウロは、信仰を持って聞いて、「御霊で始まったあなたがたが、どうして、いま肉によって完成されるというのですか。(ガラテヤ3:3)」と言いました。また、預言者ゼカリヤは、「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。(4:6)」と言いました。御霊によって、神にゆだねることによって、神の願われていることを行なうのです。このモーセ、自分の手によってはひとりのエジプト人を殺すのに失敗しました。けれども、「この紅海を渡りなさい。」という主の命令に従ったとき、エジプト全軍を滅ぼすことができたのです。自分の能力でなく、主の御霊によってそうなります。

 そこでモーセは恐れて、きっとあのことが知れたのだと思った。パロはこのことを聞いて、モーセを殺そうと捜し求めた。しかし、モーセはパロのところからのがれ、ミデアンの地に住んだ。彼は井戸のかたわらにすわっていた。

 モーセは、エジプトから逃げました。パロを恐れたので逃げたということもできます。けれども、新約聖書には、この出来事の注釈を施しています。へブル書11章24節からです。信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富だと思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトから立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。」モーセは、むしろ自分からエジプトを立ち去ることを選び取ったのです。パロがいのちを捜し求めているというこの機会に、自分が考えていることを実行しました。彼には、エジプトの富をいかようにも楽しむことができました。その宮廷にあるものはすべて、彼のものだったのです。けれども、彼は、キリストのそしりのほうが、はるかに大きな富だと思ったのです。イスラエルとともに苦しむほうが、罪の楽しみを受けるよりもよいと考えました。これは、もちろん、天の御国において大きな富が用意されているからです。私たちも、この信仰によって罪から離れて生きることができます。神が報いを与えてくださることを信じるとき、罪の楽しみを拒む力が与えられるのです。
こうして、モーセも、イスラエルと同じく苦しみを受ける道を始めました。彼も、神から選ばれていたので、苦しみを受けたのです。

 ミデアンの祭司に7人の娘がいた。彼女たちが父の羊の群れに水を飲ませるために来て、水を汲み、水ぶねに満たしていたとき、羊飼いが来て、彼女たちを追い払った。すると、モーセは立ち上がり、彼女を救い、その羊の群れに水を飲ませた。

 モーセは、イスラエル人ではなく、今度は異邦人を救おうとしました。これは、受け入れられたようです。次を見てください。

 彼女たちが父レウエルのところに帰ったとき、父は言った。「どうしてきょうはこんなに早く帰って来たのか。』彼女たちは答えた。『ひとりのエジプト人が私たちを羊飼いの手から救い出してくれました。」面白いですね、彼女たちはモーセをエジプト人だと思いました。身なりがエジプト人だったからでしょう。「そのうえその人は、私たちのために水まで汲み、羊の群れに飲ませてくれました。」父は娘たちに言った。『その人はどこにいるのか。どうしてその人を置いて来てしまったのか。食事をあげるためにその人を呼んで来なさい。

 イスラエル人のときとは違って、このミデアン人は自分からモーセを招き入れようとしました。

 モーセは、思い切ってこの人といっしょに住むようにした。そこでその人は娘のチッポラをモーセに与えた。彼女は男の子を産んだ。彼はその子をゲルショムと名づけた。「私は外国にいる寄留者だ。」と言ったからある。

 モーセは、ミデアンの地にいて、ミデアン人の妻を得ても、まだ自分はへブル人だと思っていました。自分は、ここでは外国人で、寄留者であると思いました。彼の、神に対する思いの深さが、ここで示されています。へブル書には、「地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。…事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。(11:13、16)」と書かれています。

 こうして、モーセの初期の生涯を見ていますが、彼は、エジプトからのイスラエルの解放を指導する者として、神に選ばれています。後に、彼は、「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。(申命18:15)」と言いました。つまり、モーセの生涯は、後に来られるキリストを指し示していたのです。イエスは、お生まれになってしばらくしてから、国主ヘロデによって殺されそうになりました。そして、ユダヤ人に救いを宣べられましたが、彼らは理解せずイエスを拒みました。それで、イエスは苦しみを受け、後に異邦人に受け入れられます。しかし、ふたたび来られるときには、多くのイスラエル人に受け入れられることが預言されています。モーセを見るときに、贖い主の姿を見ることができます。

C 神の主権 23−25
 それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエルは労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。

 今まで、私たちはイスラエルの苦しみを見てきました。この悲惨な状態、苦しみを神はすべて見ておられました。25、26節の主語を見てください。すべて、「神は」になっています。神が主権をもって、彼らをあわれまれたのです。一つ一つの動詞が大事です。まず、神は聞かれました。彼らのくるしみの叫びは、空中に消えていったのではなく、みな神が聞いておられました。次に、神は思い起こされました。神は、アブラハム、イサク、ヤコブの契約を決して忘れておらず、約束を必ず実行される真実な方です。そして、神はご覧になっております。激しい労役、彼らの苦しみの血と涙を、神はみな見ておられます。最後に、神はみこころを留められました。苦しみの中にいて、彼らは決して見捨てられていませんでした。彼らは、神の一番大きな関心事でした。神は、彼らのことをよく考え、ともに悲しんでくださり、かわいそうに思ってくださっています。苦しみの中にあって、神は彼らを深く愛しておられました。私たちも苦しんでいるとき、神は愛しておられます。神は聞いて、見て、あなたを顧みてくださっています。

 そして、大事なことは、神がみこころのままに、彼らをあわれまれたという事実です。彼らが神のことを個人的に知る前から、神のほうから率先して愛してくださいました。私たちに対してもそうです。神は、私たちがキリストを信じる前に、罪の中で死んでいる私たちを深くあわれまれたのです。私たちが呼び求めたから、他の方を見ていた神が振り向いてくださったのではなく、神は最初からみこころに留めてくださったのです。パウロは言いました。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいた私たちをキリストとともに生かし、…キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。(エペソ2:4,5)

2A 神の愛 3−4
1B 神の計画 3
 そこで神は、ご自分の約束された贖いを実行に移されます。まず、モーセを呼び出されて、ご自分が今からなさることをお知らせになりました。

1C ご臨在 1−6
 モーセはミデアンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。レウエルの別名です。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。

 とくに大きな変化のない、日常の光景です。モーセは、いつものように羊を飼っていました。これは、これを40年続けていました。エジプトの宮廷から逃げてきて、荒野で羊を追ってから40年たちました。また、ホレブという山にやって来ています。しかし、これらはみな、モーセが神から呼ばれるための必要な準備だったのです。モーセは、イスラエルの民を荒野の中で導き、また、ホレブの山で神からさまざまな律法を授けられました。そして、羊は、どじな家畜として知られていますが、それを飼うことよって、神に逆らい反抗するイスラエルの民を、忍耐をもって世話する備えができたのです。この日常生活の中に、神が現われてくださるということも大切です。私たちは、とかく、仕事をやめたり、貯金を全部おろしたり、そうしたことが神への献身の現われのように捉えてしまいます。けれども、そうではありません。仕事を普通にしている、家事を普通にしている、学校に普通に通っているときにこそ、神は語ってくださるのです。

 すると主の使いが彼に、現われた。

 主の使いが現われました。この方は4節には、主、神と呼ばれており、7節には、「主は仰せられた。」となっています。旧約聖書で、「主の使い」と呼ばれている方は、イエス・キリストご自身のことです。

 柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに、柴は燃え尽きなかった。

 この荒野を現在行きますと、まったく何もない砂漠であります。ですから柴があること事態、不思議なことでしたが、火で燃え尽きていないというさらに不思議な光景でした。

 モーセは言った。「なぜ柴が燃えていないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」モーセは好奇心に駆り立てられました。
主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ。」と仰せられた。

 神は、人の名前を2回呼ばれるのが好きなようです。イエスはマルタに対し、「マルタ、マルタ。」と呼ばれたのを思い出してください。これは、親しみのこもった呼びかけです。「彼は、『はい、ここにおります。』と答えた。」これも、よく耳にする答え方です。前回は、ヤコブが、「はい、ここにおります。」と答えました。ずっと後で、少年サムエルも、「はい、ここにおります。」と答えました。これは、神の御声を聞く準備の出来ていることを示しています。日々の生活の中で、神が語られることに耳を澄ましている状態です。

 神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。

 神は、ご自分が聖いことを示されました。くつのちりを持ってきてはならない場所、きよい所です。この個所は、あまりアメリカ人には理解されないようです。いつも家に靴のまま入るからです。彼らには、靴で入って、家を汚くするという感覚がありません。それで、ある説教者が韓国を訪問したとき不思議に思ったそうです。なぜくつを脱がなければならないのか、と。ある人が、答えました。「その家の人を敬うためです。」なるほど、そうも言えるかもしれません。神を敬うため、畏れかしこむため、モーセはくつを脱ぎました。

 また仰せられた。「私は、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。

 神は、ご自分の正体を明らかにされました。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神です。私たちは、その一つ一つの名前に特別な意味のあることを知っています。アブラハムに神がしてくださったこと、神が約束してくださったことすべてが、「アブラハムの神」の中に含まれています。同様に、イサクにしてくださったこと、ヤコブにしてくださったことも、この名前のなかに含まれています。でも、神が現われたのは、何年ぶりでしょうか。エジプトにヤコブが下るときに神が現われてからですから、だいたい400年たっています。新約聖書のときは、マラキが預言してから約400年ぶりに、バプテスマのヨハネによって、神のみことばが語られました。ですから、これは、ものすごい、特別な出来事なのです。

2C お働き 7−12
 主は仰せられた。わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。

 神がイスラエルを顧みられることばが、また出て来ています。ここでは、見て、聞かれただけでなく、知っておられました。彼らの痛みを知っておられたのです。私たちの主イエス・キリストも、「私たちの弱さに同情できない方ではありません。(へブル4:15)」わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らをのぼらせるためだ。」神は、「わたしは下って来た。」と言われました。これは、神が、もっと個人的に、さらに緊密にイスラエルの民に関わってくださる、ということです。出エジプト6章で、神は、「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現われたが、主という名では、わたしを彼らに知らせなかった。(3節)」と言われました。この主、ヤハウェとかエホバとか発音されますが、「必要になる」という意味です。私たちの必要なら、なんでもその必要になるということです。したがって、神が人間にさらに接近された、近づかれたのです。もっと個人的な関係にはいることができるようにされました。私たちも、この神を信じています。この方は、創造主だけでなく、私たちの父なのです。

 そして、神は、エジプトから救い出されること、約束の地に連れ上られることを知らせました。カナン人など、いろいろな民族がそこに住んでいますが、彼らを聖絶することによって住みます。これをかわいそうと思うかもしれませんが、神は、彼らにはまた別の計画をお持ちでした。神はアブラハムに、「4代目の者たちが、ここに戻って来る。エモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。(創世15:16)」と言われました。彼らはその罪と不法のゆえに、さばかれなければならなかったのです。ソドムとゴモラは、火と硫黄によってさばかれましたが、彼らはイスラエルによってさばかれます。

 見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。

 神は、この「今」という時を定めておられました。イスラエルが苦しんで叫ぶとき、またエジプトがしいたげを行なうときです。神がイスラエルをあわれみ、エジプトをさばくときです。神は、約束を実行されるのに、こうした時を持っておられます。ですから、モーセは、その時を待たずして、40年前にエジプト人を殺したことになります。時が来るまで忍耐することは大事です。ヤコブは、「兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。(5:7)」と言いました。

 モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行って、イスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。

 40年前は、「私は、イスラエル人をエジプトから連れ出すような者である。」と思っていたのです。でも、だからといって、モーセの態度が変わったのではありません。次を見てください。

 神は仰せられた。「わたしは、あなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければいけない。

 神は、わたしがあなたとともにいる、と言われました。連れ出すのは、モーセではなく実は神ご自身なのです。モーセは、「私は何者でしょう。」と言って、まだ、私ができるか、できないかの世界に生きていたのです。神ご自身が事をなされるのであって、モーセは神の言われること、ただ聞き従うだけなのです。ですから、救いは神ご自身がしてくださいます。モーセは今まで自分でそれをしようとしていましたが、それは間違いです。

C ご性質 13−22
 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。

 名前を聞くのは、その性質を聞くいているからです。父祖の神とは、どのような方なのか。なにをもって神なのか。そうした問いに答えるのが名前です。日本人は、信じること自体、つまり信心が大切になり、信じている対象を問われることはありません。しかし、キリストを信じるのであれば、この方がどのような方なのか、どのような働きをされるのか、はっきりと知らなければなりません。イエスは、からし種のほどの信仰があればよいことを話されました。信仰の強さが問題ではなく、強い神を信じているのか、それとも他の対象を信じているのか、見極めることが大切なのです。

 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。

 何という名前でしょうか。「わたしはある」です。言いかえれば、「わたしは、わたしなのだ。」と言うことです。しかし、これは、すべてのものの初めである神にとって、ふさわしい名前です。誰かが名前をつけるとしたら、その名前の中にある意味の中に神が閉じ込められてしまいます。しかし、神は、永遠の昔からいつまでも変わらない方であり、おひとりで存在されている方です。だれがこの神のことを何と思っても、神は変わることはありません。だから、「わたしは、わたしである。」のです。そして、この神が人に関わるとき、「わたしはいのちである。」「わたしは光である。」「わたしは救いである。」「わたしは道である。」という、人々の必要になってくださいます。ヤハウェなるイエスは、ユダヤ人に、「アブラハムが生まれる前から、わたしはある。」と答えられました(ヨハネ8:58)。

 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。

 主が、永遠に変わらない神のお名前です。

 これから、神はモーセに具体的な指示を与えられます。行って、イスラエルの長老たちを集めて、彼らに言え。あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、主が、私に現われて仰せられた。「わたしはあなたがたのこと、またエジプトであなたがたがどういうしうちを受けているかを確かに心に留めた。神は、ご自分の愛を彼らに言い表されます。それで、わたしはあなたがたをエジプトでの悩みから救い出し、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の地、乳と蜜の流れる地へ上らせると言ったのである。

 主語が、「わたしは」となっていますね。救い出すのはモーセでなく、神です。

 彼らはあなたの声に聞き従おう。あなたはイスラエルの長老たちといっしょにエジプトの王のところに行き、彼に、「へブル人の神、主が私たちとお会いになりました。どうか今、私たちに荒野へ3日の道のりの旅をさせ、私たちの神、主にいけにえをさせてください。」しかし、エジプトの王は強いらなければ、あなたがたを行かせないのを、わたしはよく知っている。わたしはこの手を伸ばし、エジプトのただ中で行なうあらゆる不思議で、エジプトを打とう。こうしたあとで、彼はあなたがたを去らせよう。


 神は、ここで、少し複雑な計画を示されています。モーセがパロのところに行くのは、もちろん、イスラエルの民がエジプトを出ていく許可を取りに行くためです。でも、神は彼の心がかたくなで、彼が許可を出すわけがないことをご存知でした。なのに、それでも、パロのところに行け、とモーセに命じておられます。じゃあ、何でわざわざパロのところに行かなければならないのか、と思ってしまいます。けれども、主は、さらに壮大な計画をお持ちでした。イスラエルが、自分たちを苦しめたエジプトが、自分たちの目の前で滅びるのを見るため、神が敵の手から彼らを救い出してくださることを、はっきりと知るため、神がどんなにすばらしく、力強い方であるかを知るためでした。私たちが次回、学ぶところで、その部分が詳しく出てきます。私たちの救いが、神の悪に対するさばき、この宇宙を支配する悪魔を滅ぼす御業であることを見ることができます。

 わたしは、エジプトがこの民に好意を持つようにする。エジプトがひどいさばきにあっても、イスラエルに好意を持つようにされます。「あなたがたは出て行くとき、何も持たずに出て行ってはならない。女はみな、隣の女、自分の家に宿っている女に銀の飾り、金の飾り、それに着物を求め、あなたがたはそれを自分の息子や娘に身に着けなければいけない。あなたがたは、エジプトからはぎ取らなければならない。

 これは、なぜでしょうか。彼らは旅を始めてから、礼拝の生活を始めます。神が彼らの間におられることを見ていきます。幕屋と呼ばれる神の住まわれるところを、彼らは造ります。それは、金でおおわれた箱、板などがあり、その材料のために、金銀が必要だったのです。彼らは奴隷ですからもちろんそのようなものは持っていないので、エジプト人からはぎ取るように、神は命じておられるのです。

2B 神の力 4
 こうして、神は、ご自分がモーセとともにおられることを教え、彼を安心させようとされましたが、まだ時間がかかりそうです。次を見てください。

1C しるし 1−9
 モーセは答えて申し上げた。「ですが、彼らは私を信じず、また私の声に耳を傾けないでしょう。『主は、あなたに現われなかった。』と言うでしょうから。」

 
モーセが言っているのは、ことばだけじゃだめじゃないか、ということです。あなたがお名前を知っても、あなたがどのような方かを知っても、あなたが実際に生きて働かれるのを見なければ、彼らにはわかってもらえないでしょう。ことばだけでなく、御力を知らせるようにさせてください、というお願いです。

 主は彼に仰せられた。「あなたの手にあるそれは何か。」彼は答えた。「杖です。」すると仰せられた。「それを地に投げよ。」彼がそれを地に投げると、杖は蛇になった。モーセはそれから身を引いた。

 すごいですね。彼の持っている杖が蛇になりました。これから、この杖によって、神はさまざまな不思議を行なわれます。実際、「神の杖(4:20)」と呼ばれます。でも、これはモーセが羊を追うときに使っていた、何でもない杖でした。神は、何の変哲もないものを用いられになられるのです。もし、モーセが鉛筆を持っていたら、神は鉛筆を用いられたでしょう。何でもよかったのです。私たちは、神が自分に何をしてほしいのかよく考えます。何か特別なことをしなければならないのではないか、と考えてしまいます。けれども、神は、とにかくご自分の力を示されたいのです。私たちの目の前で、私たちが持っているものでご自分のことを現わそうとされます。

 主はまた、モーセに仰せられた。「手を伸ばして、その尾をつかめ。

 蛇の尾をつかむことは、とても危険です。かまれないためには、蛇の頭をつかまなければなりません。でも、神はモーセに御力を示されるため、そう命じられました。

 彼が手を伸ばしてそれを握ったとき、それは手の中で杖になった。「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現われたことを、彼らが信じるためである。
神は、さらにしるしをお見せになります。主はなおまた、彼に仰せられた。「手をふところに入れよ。」彼は手をふところに入れた。そして、出した。なんと、彼の手は、らいに冒されて雪のようであった。また、主は仰せられた。「あなたの手をもう一度ふところに入れよ。」そこで彼はもう一度手をふところに入れた。そして、ふところから出した。なんと、それは再び彼の肉のようになっていた。

 神は、モーセの手を用いられました。ここで特異なのは、手がらいに冒されただけでなく、らいの手が普通の状態に修復したことです。破壊的な行為は、悪魔でもすることができます。けれども、創造的な行為、回復させるような行為は神にしかできません。

 たとい彼らがあなたを信ぜず、また初めのしるしの声に聞き従わなくても、後のしるしの声は信じるであろう。もしも彼らがこの二つのしるしをも信ぜず、あなたの声にも聞き従わないなら、ナイルから水を汲んで、それをかわいた土に注がなければならない。あなたがナイルから汲んだその水は、かわいた土の上で血となる。

 神は、さらにもう一つのしるしを用意されていました。

C ことば 10−17
 でも、これでもモーセは行きたがりません。次をご覧ください。モーセは主に申し上げた。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてかからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。

 今度は、自分がきちんとしゃべれない、口べただと言っています。先ほどと同じ過ちです。ことばを与えるのは主ご自身であり、モーセではありません。モーセは自分の能力で行なおうと考えてしまっています。

 主は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、耳しいにしたり、あるいは、目をあけたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主でないか。」わたし、主でないか。自分の能力を見るのでなく、わたしの能力を見なさい、と神は訴えておられます。さあ、行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。

 神がともにおられます。神は、みなさんに、あなたができるか、できないのかを問われていません。あなたが従うのか、従わないのかを問われています。できるのは神なのです。でも、従うのは人なのです。神に用いられる人は、その人に能力があるからではありません。どんなことでもいいから、神に用いられたいという姿勢がある人が用いられるのです。

 ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください。

 とうとう、モーセの口から本音が出ました。いろいろ言い訳をしましたが、結局、用いられたくなかったのです。けれども、神がそのことでご自分の計画を没にされたりしません。モーセが語らなくても、神は他の人を用いられます。神にとって、だれを用いるかは問題ではないのです。だれでもいいから、ご自分の計画を実行されることが問題なのです。

 すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう仰せられた。「あなたの兄、アロンがいるではないか。わたしは彼がよく話すことを知っている。今、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぼう。あなたが彼に語り、その口にことばを置くなら、わたしはあなたの口とともにあり、彼の口とともにあって、あなたがたのなすべきことを教えよう。彼があなたに代わって民に語るなら、彼はあなたの口の代わりとなり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。あなたはこの杖を手に取り、これでしるしを行なわなければならない。

 モーセの代わりに、彼の兄アロンが民に語ります。

C いのち 18−26

 これで、ようやくモーセは従いました。「それでモーセはしゅうとのイテロのもとに帰り、彼に言った。『どうか、私をエジプトにいる親類のもとに帰らせ、彼らがまだ生きながらえているかどうかを見させてください。』」モーセはイテロの羊を飼っていました。だから、退職しなければなりません。「イテロはモーセに、『安心して行きなさい。』と答えた。」イテロは、良いしゅうとです。「主はミデアンでモーセに仰せられた。『エジプトに帰って行け。あなたのいのちを求めていた者は、みな死んだ。』」神は、モーセが恐れていたものを取り除いてやってくださいました。時に、神は、私たちの不安材料を、そのあわれみのゆえに、取り除いてくださいます。

 「そこでモーセは妻や息子たちを連れ、彼らをろばに乗せてエジプトの地に帰った。モーセは手に神の杖を持っていた。」羊を追う杖は、神の杖に変わりました。「主はモーセに仰せられた。『エジプトに帰って行ったら、わたしがあなたの手に授けた不思議をことごとく心に留め、それをパロの前で行なえ。』」イスラエルの前だけでなく、パロの前でも不思議を行ないます。「しかし、わたしは彼の心をかたくなにする。彼は民を去らせないであろう。」神は、先ほど示された計画をまた教えられています。パロの心を神がかたくなにし、神の杖による不思議が増し加わるようにするのが、神の計画です。「そのとき、あなたはパロに言わなければならない。主はこう仰せられる。『イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。』」神は、イスラエルをご自分の子と呼ばれました。神のもっておられる財産を受け継ぐようにされた、ということです。また、神と個人的な関係を持ち、神を父と呼ぶようになるような関係です。これを、キリストを信じる者にも与えられます。奴隷であるものが、ただ救い出されるだけでなく、神の子どもとなり、神の相続者になるのです。ちょうど、奴隷で最低の生活を強いられてる人が、世界一金持ちの家に住み、その財産をすべて受け継ぐような状態です。パウロは、「聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか…あなたがたが知ることができますように。(エペソ1:19)」と言いました。「そこでわたしはあなたに言う。わたしの子を行かせて、わたしに仕えさせよ。もし、あなたが拒んで彼を行かせないなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの初子を殺す。」これは実際、エジプトの上に下りました。ご自分の子どもであるのに、奴隷のままでいるのおかしいのです。あなたが私の子どもを取るのなら、わたしがあなたの子どもを取る、と神は言われています。神は、それほどまでにイスラエルの民を大切にされました。

 けれども、そのことを伝える張本人のモーセは、この神のみこころをわきまえていませんでした。次を見てください。「さて、途中、一夜を明かす場所でのことであった。主はモーセに会われ、彼を殺そうとされた。」パロに下そうとされていたさばきは、モーセにも下ろうとしていました。なぜでしょうか。次を読みましょう。「そのとき、チッポラは火打ち石を取って、自分の息子の包皮を切り、それをモーセの両足につけ、そして言った。『まことにあなたは私にとって血の花婿です。』そこで、主はモーセを放された。彼女はそのとき割礼のゆえに、『血の花婿』と言ったのである。」モーセは、自分の息子に割礼を施していませんでした。モーセ自身が、神の契約を破っていたのです。神は、アブラハムに仰せられました。「あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。…包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。(創世17:13、14)」それで、そのことを知ったチッポラがすぐに息子の包皮を切ったのです。このようにして、神はご自分の力を、人のいのちを取ることによって示されています。

C 民の信仰 27−31
 神は、この偉大な御力を用いて、イスラエルの民にご自分の愛を示されるのです。神が、彼らにみこころを留めておられる事を知らせます。

 それから、主はアロンに言った。『荒野に行って、モーセに会え。』彼は行って、神の山でモーセに会い、口づけした。

 アロンとモーセは、30年ぐらい離れ離れになっていました。ほんとうに嬉しかったことでしょう。

 モーセは自分を遣わすときに主が語られたことばのすべてと、命じられたしるしのすべてを、アロンに告げた。今までのことを、みなアロンに話しました。彼は、モーセの代弁者となります。それからモーセとアロンは行って、イスラエル人の長老たちをみな集めた。アロンは、主がモーセに告げられたことばをみな告げ、民の目の前でしるしを行なったので、民は信じた。彼らは、主がイスラエル人を顧みて、その苦しみをご覧になったことを聞いて、ひざまずいて礼拝した。

 イスラエルは、神の愛を受け取りました。信じて、ひざまずいて礼拝しています。この知らせがどんなに慰められたことでしょう。自分たちの苦しみとうめきを神がみな聞いておられて、見ておられて、心にとめてくださっていたのです。そして、自分たちの父祖に対する約束を、決してお忘れになっていなかったのです。

 こうして、神の選びについて学びました。民は苦しみました。神が選ばれたゆえに苦しみました。しかし、神は、モーセという指導者をとおして、贖いの計画を立てられました。私たちも罪の中に死んでいた奴隷でした。しかし、神は、そのときから私たちをあわれみ、心にとめられて、キリストを遣わされて私たちを救おうとされたのです。モーセがキリストのそしりを選び取ったとありましたが、キリストご自身は、人々のそしりとあざけりをお受けになりました。私たちが苦しみにあうとき、神がそれでも愛しておられることを思い出してください。神は、聞き、ご覧になり、みこころに留めておられます。


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