出エジプト記11―14章 「贖いの力」

アウトライン

1A 贖いの理由 − 罪への罰 11
   1B 特徴 − 最後の災い 1−3
   2B 内容 − 初子の死 4−8
   3B 理由 − かなくなな心 9−10
2A 贖いの土台 − 犠牲の供え物 12
   1B 方法 1−28
      1C 小羊の血 1−14
      2C 種なしパン 15−21
      3C 伝道 22−28
   2B 効果 29−51
      1C 追放 29−36
      2C 脱出 37−42
      3C 制限 43−51
3A 贖いの適用 − 献身 13
   1B 責任 1−16
      1C 初子の聖別 1−2
      2C 種なしパン 3−10
      3C 買い戻し 11−16
   2B 過程 − 荒野の道 17−22
4A 贖いの結末 − 完全な勝利 14
   1B 目的 1−14
      1C 海辺の宿営 1−4
      2C 全軍勢 5−9
      3C 恐れ 10−14
   2B 方法 15−29
      1C 栄光 15−18
      2C 臨在 19−20
      3C 御力 21−29
   3B 応答 − 信仰 30−31

本文

 出エジプト記11章をお開きください。今日は、出エジプト記の11章から14章までを学びます。ここでのテーマは、「贖いの力」です。私たちは出エジプト記から、贖いについて学んでいます。神がイスラエルを贖われるのを見て、私たちがキリストにあって、どのように救い出されたのかを見ています。1章から4章においては、神の選びについて学びました。私たちが罪の中で死んでいるとき、神は私たちをあわれんでくださり、キリストにあってご自分の子どもにするように私たちを選ばれました。そして、5章から10までで、神のさばきについて学びました。神は、私たちをお救いになるとき、私たちを罪の中で束縛させている悪魔をさばかれます。罪のかしらが砕かれるので、私たちは罪から解放されるのです。そして、今日は、神の力について学びます。私たちに挑みかかる悪魔の力はたいへん大きく、罪の力も大きいことを、私たちはよく知っています。しかし、同時に、さらに強い方が私たちについていてくださることを知らなければいけません。神は、ご自分の強い御手をもってイスラエルを救ってくださることを、今日は見てきます。

1A 贖いの理由 − 罪への罰 11
1B 特徴 − 最後の災い 1−3
 主はモーセに仰せられた。「わたしはパロとエジプトの上になお一つのわざわいを下す。そのあとで彼は、あなたがたをここから行かせる。彼があなたがたを行かせるときは、ほんとうにひとり残らずあなたがたをここから追い出してしまおう。

 私たちは前回、神がエジプトに災いを下された箇所を読みました。その災いがどれほどひどいものか思い出してください。けれども、パロは決してイスラエルを行かせることはしませんでした。しかし、今度は違います。神は、こんなに強情なパロが行かせてしまうような、ものすごい災いを下されます。

 さあ、民に語って聞かせよ。男は隣の男から、女は隣の女から銀の飾りや金の飾りを求めるように。」主はエジプトが民に好意を持つようにされた。モーセその人も、エジプトの国でパロの家臣と民とに非常に尊敬されていた。

 
神は、パロがついに民を行かせるときのことを、モーセに前もって伝えておられました。3章の19節以降と6章1節にあります。そのとき、神は、イスラエルがエジプトから金や銀の飾り物を取ってくるように知らせておられました。神は、今ここで、そのことを念を押してモーセに命じておられます。

2B 内容 − 初子の死 4−8
 それでは、パロが降参するほどの、恐ろしい災いとは何でしょうか。次に書かれています。モーセは言った。「主はこう仰せられます。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中に出て行く。エジプトの国の初子は、王座に着くパロの初子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の初子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ。そしてエジプト全土にわたって、大きな叫びが起こる。このようなことはかつてなく、また二度とないであろう。』」

 初子が死にます。初子あるいは長子は、一番最初に生まれた男の子ということですが、それ以上に、最も大事な子どもであるということができます。アベルが子羊の初子を神にささげたところから、初子、長子、初物、初穂など、「初め」の言葉がつく単語が聖書全体に出てきます。とにかく、最も大事な存在が死ぬことが、パロにとって致命傷となりました。「神は、なぜこんなひどいことをされるのか。」と思われるかもしれません。けれども、真理は、パロがそんなひどいことをしていたのです。神はパロに、「イスラエルはわたしの子。わたしの初子である。(4:22)」とおっしゃっていました。パロはそのイスラエルを奴隷にして苦しめたので、さばきが下ります。イスラエルは奴隷のとき、苦しくて叫びましたが、今度はエジプト人が叫びます。

 しかしイスラエル人に対しては、人から家畜に至るまで、犬も、うなりはしないでしょう。これは、主がエジプト人とイスラエル人を区別されるのを、あなたがたが知るためです。

 イスラエルは、この災いを受けません。今までの災いにおいても、神はイスラエルをエジプトから区別されていました。ここでは、「犬のうなりはしないでしょう。」という表現をもって強調されています。

 あなたのこの家臣たちは、みな、私のところに来て伏し拝み、『あなたとあなたに従う民はみな出て行ってください。』と言うでしょう。私はそのあとで出て行きます。」こうしてモーセは怒りに燃えてパロのところから出て行った。

 
こうして、最後の災いが初子の死でありましたが、神は人の罪に対して同じように取り扱われます。つまり死をもって報われます。「罪の報酬は死です。(ローマ6:23)」とパウロは言いました。

3B 理由 − かなくなな心 9−10
 主はモーセに仰せられた。「パロはあなたがたの言うことを聞き入れないであろう。それはわたしの不思議がエジプトの地で多くなるためである。」

 モーセが怒りに燃えたとありますが、それはパロのかたくなな心を見たからでした。私たちの怒りは、ふつう自己中心的なもので神の義を実現するものではありませんが、ここの場合は義憤です。強情と高慢な心に対する義憤です。神は、高慢な心、かたくなな心をもっとも憎まれます。

 モーセとアロンは、パロの前でこれらの不思議をみな行なった。しかし主はパロの心をかたくなにされ、パロはイスラエル人を自分の国から出て行かせなかった。


2A 贖いの土台 − 犠牲の供え物 12
 今までは、災いの宣告がなされたあとに、実際の出来事がすぐに記されていました。しかし、最後の災いは違います。神はモーセに、イスラエルがどのようにして、この災いから区別されるのかを説明されています。すなわち、過越の祭りによって区別されます。

1B 方法 1−28
1C 小羊の血 1−13
1D 規定 1−10
 主は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。

 神は、この過越の祭りを一番最初の月となさいました。ヘブル語ではアビブであり、バビロン語ではニサンと言います。現代の暦ですと、3月か4月になります。あるとき、クリスチャンの人たちに、「過越の祭りが行なわれたのは、何月になるかわかりますか。」と聞きました。だれも分かりませんでした。それで、「キリストが死なれたのは、何月でしょう。」と聞きました。すると、4月の初めだと答えられたのです。キリストは、過越の祭りの日に死なれました。なぜなら、この祭りは単なる昔の出来事ではなく、私たちの救い主キリストの贖いを指し示す重要な祭りだからです。

 イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。

 羊が選ばれます。家族ごとに選ばれますが、過越の祭りは基本的に、家族の祝いです。そして、10日に用意されます。この日は棕櫚の聖日とよく呼ばれますが、イエスがエルサレムに入られたのはこの日のことでした。バプテスマのヨハネが、イエスを見て叫びました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。(ヨハネ1:29)」この羊は、キリストご自身を表しているのです。

 もし家族が羊一頭の分より少ないなら、その人はその家のすぐ隣の人と、人数に応じて一頭を取り、めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。


 羊の特徴を見てください。「傷のない」羊です。いけにえとしてほふられる羊は、傷や欠陥があってはなりませんでした。神は聖く、完全なお方なので、いけにえも完全でなければならなかったからです。私たちは、イエスには何の罪も見出されなかったことを知っています。十字架につけられるとき、多くの人がイエスを正しい方であると証言しました。ペテロはこう言っています。「あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(1ペテロ1:18)

 あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、

 
14日の夕暮れに、小羊がほふられます。これは、だいたい3時過ぎから6時過ぎまでの間に行なわれます。そして日没になると、ユダヤの暦では日没が一日の始まりですから、15日になります。イエスが十字架の上で死なれたのは、この14日のことです。

 その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。

 ほふられるときに、とても大切なことがこれです。血が流されることです。神は人を救われるとき、必ず血を要求されました。アダムとエバがその恥をおおわれたのは、動物の皮の衣です。つまり、動物の血が流されました。ノアに対して、神は、「肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。(創世9:4)」と言われました。血はいのちを意味していたのです。そして、ヘブル書の著者は、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。(9:22)」と言いました。イエスは、動物の血ではなく、ご自分の血を流されることによって、私たちが神に受け入れられるようにしてくださったのです。

  その夜、その肉を食べる。

 日没から過越の食事が始まります。食事と言っても、決められた順番があります。順番をヘブル語でセダーを言い、過越の食事はふつうセダーと呼ばれます。ほふった羊がテーブルの真中に置かれて、その回りに前菜があります。この子羊を食べることによって、イスラエルはエジプトに下る災いから救い出されるのを知ったのです。詩篇には、「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。(34:8)」と書かれています。この食事のときに、イエスが弟子たちに言われました。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。」「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による契約です。(ルカ22:19、20)」イエスはまた、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。(ヨハネ6:54)」と言われました。つまり、イエスのことを知っているだけでは、救われません。イエスの十字架の死を自分のためだと思って味わい、見つめなければ、救われないのです。

 すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。

 
火で焼かなければならないのは、なぜでしょうか?これは、神のさばきを表しているからです。ソドムとゴモラは火と硫黄によってさばかれました。イエスは、ゲヘナでは火が消えることはないとおっしゃっています(マルコ9:48)。ですから、イエスが十字架につけられたとき、地獄の苦しみをお受けになりました。本当は私たちが受けなければいけないさばきを、イエスが身代わりになって受けてくださったからです。

 それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。


 朝まで残してはいけません。夜のうちに全部焼かなければいけません。なぜなら、朝になったらもう贖いは完了し、新しい歩みが始まるからです。罪が処理されるのは夜のうちでなければならないのです。イエスが死なれるとき、正午から天が暗くなりました。それは、イエスが罪を負われているのを示すものだったのです。

2D 意味 11−13
 ここまで過越の祭りの順序が書かれていましたが、次から祭りの意味が書かれています。あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これは主への過越のいけにえである。

 神は、旅に出る準備をしてから、急いで食べなさいと言われています。なぜなら、この食事が終わったらすぐに、エジプトはイスラエルを追い出すからです。

 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。

 
初子が死ぬのは、ここに書かれてあるとおり、エジプト人が拝んでいた神々が死ぬことを意味しました。エジプト人は、ナイル川もかえるも家畜も何でも神として拝みました。パロ自身が神であり、その初子の王子も神でした。これかが死ぬことによって、主が神々をさばかれたことを表していたのです。同じように、イエスが十字架で死なれたとき、神はほかのすべての宗教にさばきを下されました。神は、「あなたがたの神は、人を救わない。どんなに努力しても、祈っても、献金しても救われない。ただ、わたしの愛する子のいけにえによって、救われるのだ。」とおっしゃっていたのです。

 あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。

 
過越という言葉の意味は、ここにあります。災いが通り越すことです。エジプトには災いが通り抜けましたが、イスラエルには通り越しました。でも、通り越した理由は何ですか。神が「血を見る」からですね。唯一、その理由によって彼らには災いが通りぬけなかったのです。神のさばきは、すべてに対するものでした。イスラエル人も、本来ならエジプト人と同じように滅びなければいけないのです。彼らが救われるのは、何か良い民族だからではありません。エジプト人たちが特別に悪者なので救われたのではありません。ただ、血によってのみ、災いが通り越したのです。これは、何回強調しても強調しすぎることのない、大切な真理です。私たちの中には、何一つ救われるべき理由はありません。さばかれる原因はすべて持っていますが、救われる理由は私たちのの側には何一つないのです。ただ、キリストの血によって救われました。

2C 種なしパン 14−21
 この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。

 
ここから、過越の祭りにつづく、種なしのパンの祝いについて述べられています。15日に羊をほふって食べますが、そのときに種なしのパンも食べます。ですから、この2つの祭りはよく一つにくくられて、一つの祭りとみなされます。ここで永遠に祝わなければならない、とあります。なぜなら、イスラエルがエジプトから救い出されるという出来事は、永遠に思い出されるべき重要なことだからです。この種なしパンもキリストを指し示しています。種はよく罪や悪のことを象徴しました。ですから、パン種が入っていないということは、キリストに罪がなかったことを表しています。

 あなたがたは七日間種を入れないパンを食べなければならない。その第一日目に、あなたがたの家から確かにパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までの間に種を入れたパンを食べる者は、だれでもイスラエルから断ち切られるからである。


 この祭りは7日間続きました。そして、このときパン種を捜し、家のどこにもないようにし、取り除かなければなりません。

 また第一日に聖なる会合を開き、第七日にも聖なる会合を開かなければならない。この期間中、どんな仕事もしてはならない。ただし、みなが食べなければならないものだけは作ることができる。

 
仕事をしてはならないのですが、それは、この祭りにおいて人間の行ないが少しも混じってはいけないからです。救いはただ神のみわざによるものです。けれども、私たちは、自分の行ないを救いに付け加えようとする傾向を持っています。このことをパウロは、厳しく戒めました。ガラテヤ人に対して、「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。(3:3)」「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。(5:4)」だから、イスラエルが丹念にパン種を探して取り除いたように、私たちも、自分の行ないにより頼むことのないように、十分気をつけるべきなのです。

 あなたがたは種を入れないパンの祭りを守りなさい。それは、ちょうどこの日に、わたしがあなたがたの集団をエジプトの地から連れ出すからである。あなたがたは永遠のおきてとして代々にわたって、この日を守りなさい。

 神は、「この日を守りなさい。」と強調されています。これは、神の救い日のことです。私たちも、自分の救いの日を思い出すことは大切です。

 最初の月の十四日の夕方から、その月の二十一日の夕方まで、種を入れないパンを食べなければならない。七日間はあなたがたの家にパン種があってはならない。だれでもパン種のはいったものを食べる者は、在留異国人でも、この国に生まれた者でも、その者はイスラエルの会衆から断ち切られるからである。

 
荒野において会衆から絶ち切られるのは、死を意味していました。それほど、神は真剣であられました。

 あなたがたはパン種のはいったものは何も食べてはならない。あなたがたが住む所ではどこででも、種を入れないパンを食べなければならない。

 
ここで、主のモーセに対する語りかけは終わっています。今度はモーセが民に語る番です。

3C 伝道 21−28
 そこで、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び寄せて言った。「あなたがたの家族のために羊を、ためらうことなく、取り、過越のいけにえとしてほふりなさい。ヒソプの一束を取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。

 
神は、ヒソプを鉢の中の血に浸して、ヒソプでかもいと門柱に血を塗ることも命じておられました。後にヒソプは、罪をきよめる象徴となりました。バテ・シェバの件で罪を犯したダビデが、こう言っています。「ヒソプをもって私の罪を取り除いてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。(詩篇51:7)」私たちの罪を清めるのは、キリストの血です。どんなに罪意識が強くなっても、キリストの血によって清くなり、雪よりも白くなれます。

 主がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、主はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたがたの家にはいって、打つことがないようにされる。この滅ぼす者は御使いのことです。あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のためのおきてとして、永遠に守りなさい。

 次から、どのように永遠に守って行けばよいのか、その方法が書かれています。

 また、主が約束どおりに与えてくださる地にはいるとき、あなたがたはこの儀式を守りなさい。あなたがたの子どもたちが『この儀式はどういう意味ですか。』と言ったとき、あなたがたはこう答えなさい。『それは主への過越のいけにえだ。主がエジプトを打ったとき、主はエジプトにいたイスラエル人の家を過ぎ越され、私たちの家々を救ってくださったのだ。』」


 子どもに語り聞かせることによって、この祭りは守られます。祭りは、子どもたちが興味をもって質問するように、一つ一つが整えられていました。神がイスラエルのためにエジプトでしてくださったことを、子どもが理解できるような形で言い伝えることが、この祭りの大きな目的の一つなのです。聖書は、子どもを主にあって訓練することを命じています。「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。(エペソ6:4)」とパウロは言いました。

 すると民はひざまずいて、礼拝した。こうしてイスラエル人は行って、行なった。主がモーセとアロンに命じられたとおりに行なった。

 すばらしいですね。彼らはひざまずいて礼拝しました。そして、神の命じられたとおりに行ないました。つまり神のメッセージに応答したのです。私たちも、聖書の教えを聞くとき応答が必要になります。

2B 効果 29−51
1C 追放 29−36
 それでは、実際の災いが始まります。真夜中になって、主はエジプトの地のすべての初子を、王座に着くパロの初子から、地下牢にいる捕虜の初子に至るまで、また、すべての家畜の初子をも打たれた。

 
主の言われたとおり、すべての初子が打たれました。パロの王子も死にました。このパロは、エジプト王朝ではアメンヘテプ2世と言われています。その後を継いだのはトトメス4世ですが、彼はアメンヘテプ2世の長子ではありませんでした。長子は、いまここで死んでしまったのです。

 それで、その夜、パロやその家臣および全エジプトが起き上がった。そして、エジプトには激しい泣き叫びが起こった。それは死人のない家がなかったからである。パロはその夜、モーセとアロンを呼び寄せて言った。


 パロが受けた衝撃は非常に強く、朝が明けるのを待てませんでした。

 おまえたちもイスラエル人も立ち上がって、私の民の中から出て行け。おまえたちが言うとおりに、行って、主に仕えよ。おまえたちの言うとおりに、羊の群れも牛の群れも連れて出て行け。そして私のためにも祝福を祈れ。

 
パロは最後の最後まで、欺いています。「私のために祝福を祈れ。」と言っており、神の御前でへりくだり、イスラエルの民を行かせたのではないことがわかります。けれども、行かせました。とうとう行かせました。これほどイスラエルを苦しめたパロは、神のさばきにあって、その手をイスラエルから離さざるを得なくなったのです。キリストの十字架のみわざは、それほど強力なものです。悪魔を徹底的に痛めつけ、私たちを罪の中に縛るその手を離さざるを得なくなったのです。ヘブル書2章にはこう書かれています。「そこで、子たちは血と肉を持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の血からを持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となった人々を解放してくださるためでした。(14、15)

 エジプトは、民をせきたてて、強制的にその国から追い出した。人々が、「われわれもみな死んでしまう。」と言ったからである。

 このとき、エジプト人たちの気持ちが詩篇105編に書かれています。「エジプトは彼らが出たとき喜んだ。エジプトに彼らへの恐れが生じたからだ。(38)それで民は練り粉をまだパン種を入れないままで取り、こね鉢を着物に包み、肩にかついだ。イスラエル人はモーセのことばどおりに行ない、エジプトから銀の飾り、金の飾り、それに着物を求めた。主はエジプトがこの民に好意を持つようにされたので、エジプトは彼らの願いを聞き入れた。こうして、彼らはエジプトからはぎ取った。

 主の仰せになったことは、ことごとく成就しました。イスラエルは解放されました。長年の奴隷状態から解放されました。

2C 脱出 37−42
 イスラエル人はラメセスから、スコテに向かって旅立った。幼子を除いて、徒歩の壮年の男子は約六十万人。

 ものすごい人数です。女と子どもを加えたら、おそらく200万人は超えていたでしょう。ヤコブがエジプトに入ったときはわずか70人です。でも、そのときヤコブは神の約束を信じました。神の約束は確かに実現されましたが、ヤコブはその信仰のゆえに、大いなる報いを天において受けているのです。私たちも同じです。信仰によって報いを受けます。

 さらに、多くの入り混じって来た外国人と、羊や牛などの非常に多くの家畜も、彼らとともに上った。

 この入り混じった外国人は、片親がイスラエル人の人、イスラエルと同じく奴隷になっていたセム系の民族であったと思われます。彼らは、ここで、モーセのことばを信じて脱出したのではありません。ただ、この大きな出来事に加わって見たいと言う、ロマンチックな、センチメンタルな気持ちがあって、いっしょに脱出したのでしょう。同じように脱出したのですが、動機が間違っていました。この外国人があとで問題を引き起こします。民数記11章で、彼らは激しい欲望にかられ、イスラエル人も彼らに釣られて、「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。(4,5)」と言いました。このため、神は激しい疫病で彼らを打たれました。クリスチャンの間でも同じことが起こります。イエスを信じましたと言います。洗礼を受けます。けれども、神のみことばを聞いて、それを信じたという動機ではなく、他の何かに動機によって信じました。そのときは、私たちにはその人が本当に信じたのかどうか、わかりません。けれども、時を経ると、実は信じていなかったことが明らかにされます。この外国人たちのように、エジプト、つまり世を慕い求めるようになるのです。

 彼らはエジプトから携えて来た練り粉を焼いて、パン種の入れてないパン菓子を作った。それには、パン種がはいっていなかった。というのは、彼らは、エジプトを追い出され、ぐずぐずしてはおられず、また食料の準備もできなかったからである。イスラエル人がエジプトに滞在していた期間は四百三十年であった。四百三十年が終わったとき、ちょうどその日に、主の全集団はエジプトの国を出た。

 この430年と言う数字は、少し違うのですが前もって約束されていました。神がアブラハムに、こう仰せになりました。「あなたはこの事をよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものではない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、400年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て行くようになる。(創世15:13)」430年と400年の違いは、おそらくヤコブがエジプトにいた期間であると考えられます。ヤコブが12人の息子に、アブラハムに与えられた約束を祝福をもって宣言して死にました。その時から400年であり、ヤコブたちがエジプトに下った時からは430年であるかもしれません。でも、あまりわからないのですが、大事なことは、神が予め仰せになったとおりに、イスラエルがエジプトを出るようになったことです。アブラハムは財産を多くもっていましたが、その国民は奴隷となり何も持っていませんでした。けれども、今は財産を持っています。

 この夜、主は彼らをエジプトの国から連れ出すために、寝ずの番をされた。この夜こそ、イスラエル人はすべて、代々にわたり、主のために寝ずの番をするのである。

3C 制限 43−51
 主はモーセとアロンに仰せられた。「過越のいけにえに関するおきては次のとおりである。外国人はだれもこれを食べてはならない。

 外国人が入り混じって出て来ていたので、神は、そのような人たちが過越の祭りに参加できるかどうかを語られます。

 しかし、だれでも金で買われた奴隷は、あなたが割礼を施せば、これを食べることができる。
基本的に外国人は食べる事はできません。けれども割礼を施せば食べることができます。居留者と雇い人は、これを食べてはならない。雇われている人も、食べる事はできません。これは一つの家の中で食べなければならない。あなたはその肉を家の外に持ち出してはならない。またその骨を折ってはならない。イスラエルの全会衆はこれを行なわなければならない。

 骨を折ってはならない、とありますが、思い出せるでしょうか、イエスが十字架の上で死なれたとき、そのすねの骨は折られませんでした。ヨハネの福音書19章33節にあります。

 もし、あなたのところに異国人が在留していて、主に過越のいけにえをささげようとするなら、彼の家の男子はみな割礼を受けなければならない。そうしてから、その者は、近づいてささげることができる。彼はこの国に生まれた者と同じになる。しかし無割礼の者は、だれもそれを食べてはならない。

 
ここを見ると、どのような外国人も一つの条件を満たせば過越の祭りに参加する事ができます。割礼を受けることです。たとえイスラエル人でなくても、割礼を受ければ参加できるのです。

 このおしえは、この国に生まれた者にも、あなたがたの中にいる在留異国人にも同じである。

 
逆に、イスラエル人で割礼を受けていなければ過越にあずかることはできません。ですから、割礼は非常に重要視されていますが、それはなぜでしょう?アブラハムへの契約のしるしだったからです。神があなたを祝福すると約束されたのは、このアブラハムに対してであり、アブラハムはこの神を信じて、義と認められました。同じように、神が与えられる祝福の約束を信じて、神との関係、契約の中にはいるとき救いを受けます。

 イスラエル人はみな、そのように行なった。主がモーセとアロンに命じられたとおりに行なった。ちょうどその日に、主はイスラエル人を、集団ごとに、エジプトの国から連れ出された。

 
ばらばらに出て行くのでなくて、順番に出て行きました。

3A 贖いの適用 − 献身 13
 こうして、イスラエルは解放されましたが、それではその後に何をしなければならないかが次の章に書かれています。

1B 責任 1−16
1C 初子の聖別 1−2
 主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人の間で、最初に生まれる初子はすべて、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それはわたしのものである。」

 イスラエルが贖われてしなければならないことは、初子を聖別することです。初子あるいは長子は、先ほど説明しましたように、最初に生まれた子というだけではなく、最も重要な子どもであります。イサクはイシュマエルの弟なのに、「ただひとりの子」と呼ばれました。ヤコブもエサウの弟なのに長子の権利を受け継ぎました。初穂や初物という言葉にも同じ考えがあります。

 そして、神は、それを聖別しなさいと言われています。つまりわたしにささげなさい、ということです。聖別するとは、神だけのものとなる、他の用途には用いられず神の所有物になるということです。神の日が聖日であり、神の食事が聖餐であり、神の書物が聖書です。したがって、初子を聖別しなさいいうことは、あなたのもっとも大切なものをわたしにささげなさい、ということです。これが贖われた後にしなければならないことです。私たちが救われたのは、天国に行ける切符をもらうためではなく、神を礼拝し、神に仕えるためです。パウロは、「あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価をもって買い取られたのです。(1コリント6:20)」と言いました。けれども、神に仕えるのは義務的なことではありません。パウロは、ローマ書において、神の恵みについて話しました。私たちのために、神がキリストにおいてどれほどのことをしてくださったのかを、1章から11章までを割いて説明しています。その直後に彼はこう言っています。「こういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(12:1)」パウロは、神のあわれみのゆえに、と言いました。私たちが神のあわれみを本当に知ると、何かをしたくなります。それは、自分自身をすべて神におささげすることです。ですから、神が初子を聖別しなさいとお命じになったとき、それは、神に愛され、救い出されたイスラエル人が自ら進んで、喜んで応答していくことでした。

2C 種なしパン 3−10
 贖われた後にしなければならない次のことは、先ほどの種なしパンの祭りです。モーセは民に言った。「奴隷の家であるエジプトから出て来たこの日を覚えていなさい。主が力強い御手で、あなたがたをそこから連れ出されたからである。種を入れたパンを食べてはならない。アビブの月のこの日にあなたがたは出発する。主があなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われたカナン人、ヘテ人、エモリ人、ヒビ人、エブス人の地、乳と蜜の流れる地に、あなたを連れて行かれるとき、次の儀式をこの月に守りなさい。七日間、あなたは種を入れないパンを食べなければならない。七日目は主への祭りである。種を入れないパンを七日間、食べなければならない。あなたのところに種を入れたパンがあってはならない。あなたの領土のどこにおいても、あなたのところにパン種があってはならない。

 先ほどとだいたい同じことが書かれていますが、なぜこれを神がものすごく重要にされたのかを確認して見たいと思います。3節に、「主が力強い御手で、あなたがたをそこから連れ出された」つまり、救い出されたとあります。この救いは神がしてくださったのであり、人が行なったことではないことを知るために、種なしのパンを食べたのです。ここでは、パン種は、ここで人の行ないを表しているのです。

 その日、あなたは息子に説明して、『これは、私がエジプトから出て来たとき、主が私にしてくださったことのためなのだ。』と言いなさい。これをあなたの手の上のしるしとし、またあなたの額の上の記念としなさい。それは主のおしえがあなたの口にあるためであり、主が力強い御手で、あなたをエジプトから連れ出されたからである。

 
ユダヤ人は、これを文字通り受けとめて、額のところに聖句の札のはいった小箱をつけていました。イエスが地上におられたときに、彼らは人に見せびらかすためにそれを行なっていたので、イエスは彼らが「経札の幅を広くしたりする。」と指摘されたのです(マタイ23:5)。この額は、心にとどめることが最も大切です。神が私のために、こんなにも大きな救いを与えてくださったことを絶えず心に留めることが大切なのです。

3C 買い戻し 11−16
 そして、次から、また別のしなければならないことが書かれています。主が、あなたとあなたの先祖たちに誓われたとおりに、あなたをカナン人の地に導き、そこをあなたに賜わるとき、すべて最初に生まれる者を、主のものとしてささげなさい。あなたの家畜から生まれる初子もみな、雄は主のものである。

 主のものとしてささげるというのは、それをほふるということです。家畜の場合はそれができますが、ある特定の動物や人の場合はそれができません。そのとき、どうするかが次に書かれています。

 ただし、ろばの初子はみな、羊で贖わなければならない。もし贖わないなら、その首を折らなければならない。

 ろばは汚れた動物の類にはいっていましたから、それをささげることはできません。その代わり、羊でもって買い戻しなさいと神は言われています。贖うと言うのは、買い戻すことです。そのろばは本当は神のものなのに、それを自分のものとしているのだから、そのろばの代金を羊で持って支払うことになります。

 あなたの子どもたちのうち、男の初子はみな、贖わなければならない。人の場合も、羊によって贖います。

 後になってあなたの子があなたに尋ねて、「これは、どういうことですか。」と言うときは、彼に言いなさい。「主は力強い御手によって、私たちを奴隷の家、エジプトから連れ出された。パロが私たちを、なかなか行かせなかったとき、主はエジプトの地の初子を、人の初子をはじめ家畜の初子に至るまで、みな殺された。それで、私は初めに生まれる雄をみな、いけにえとして、主にささげ、私の子どもたちの初子をみな、私は贖うのだ。」

 ふたたび親が子どもに説明します。そのとき、エジプトで本来なら失われるべき初子が、神によって生かされました。本当なら、いなくなって当然の子どもであります。けれども、神が生かしてくださったので、その子は今、神のものになったということです。

 これを手の上のしるしとし、また、あなたの額の上の記章としなさい。それは主が力強い御手によって、私たちをエジプトから連れ出されたからである。

2B 過程 − 荒野の道 17−22
 こうして、救い出されたあとに、すべてを神にささげることを知ったあとに、イスラエルは荒野への旅に出ます。さて、パロがこの民を行かせたとき、神は、彼らを近道であるペリシテ人の国の道には導かれなかった。神はこう言われた。「民が戦いを見て、心が変わり、エジプトに引き返すといけない。」

 神の心づかいです。奴隷が職業であった彼らにとって、強大なペリシテ人に立ち向かうことは絶対できません。もちろん、これがもっとも近道なのですが、エジプトを出てきたばかりの彼らにも無理なのです。彼らには準備が必要なのです。神は、水やパンを彼らに与えて、神が必要を満たしてくださることを教えられます。律法を与えて、聖く生きることを教えられます。そうして、イスラエルは、神が信頼するに値するからであることを学んでから、実際に戦いに臨めるのです。私たちも、キリストを信じて、神にささげる決断をして、その後は準備期間に入ります。

 それで神はこの民を葦の海に沿う荒野の道に回らせた。

 ここの「葦の海」という訳は、「紅海」と訳すことができます。私は紅海という訳のほうが言いと思います。なぜなら、この海は水深1メートルもない浅い葦の海であったという人たちがあるからです。ですから、これから出てくる「葦の海」は「紅海」と言い変えて読んでいきます。

 イスラエル人は編隊を組み、エジプトの国から離れた。モーセはヨセフの遺骸を携えて来た。それはヨセフが、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上らなければならない。」と言って、イスラエルの子らに堅く誓わせたからである。

 
先ほどは、ヤコブの信仰について触れましたが、ここではヨセフの信仰について書かれています。彼はエジプトで死にましたが、ミイラになった自分の遺骸がエジプトに残っているのをよしとしませんでした。彼は、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる。」と確信しました。今、それが現実のものとなっています。

 こうして彼らはスコテから出て行き、荒野の端にあるエタムに宿営した。主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった。

 雲の柱、火の柱が、彼らの荒野の生活を導きました。これは、主の臨在、つまり、主がともにおられることを示しています。雲の柱は、砂漠の中で彼らを灼熱の太陽から守り、夜の間も獣を恐れる必要はありませんでした。ですから、彼らは荒野の中にいても守られて、迷うことがありませんでした。神は今の私たちにも同じように、先頭に立って導いてくださいます。クリスチャン生活は、この荒野の生活から始まります。罪の世界から救い出されて、自分のすべてを神にささげる決断をしたわけですが、神が約束されたものを手に入れるまで、荒野の生活のなかに入ります。けれども、主がイスラエルを導かれたように、私たちを聖霊によって導いてくださり、また主ご自身のみことばによって導きいてくださいます。

4A 贖いの結末 − 完全な勝利 14
 これでエジプトから救い出されて、後は約束の地に向かうだけとなりました、と言いたいところですが、実はまだあります。神は、イスラエル人たちをびっくり仰天させるものすごいことをさせます。

1B 目的 1−14
1C 海辺の宿営 1−4
 主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に、引き返すように言え。そしてミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンの手前で宿営せよ。あなたがたは、それに向かって海辺に宿営しなければならない。

 神は、なんと「引き返せ。」とおっしゃられています。せっかく出て来たのに引き返せと言われているのです。そして、バアル・ツェフォンというところに宿営せよと命じておられます。これは、海辺に面したところみたいですが、おそらく地形的には、そこは海に囲まれた半島みたくなっていたのではないかと思われます。あるいは、山が周囲にある、細い平地のようになっていたかもしれません。つまり、迷路の中にはいって、間違ったところに入ってしまったような状態になるような場所がバアル・ツェフォンだったのです。

 パロはイスラエル人について、『彼らはあの地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった。』と言うであろう。わたしはパロの心をかたくなにし、彼が彼らのあとを追えば、パロとその全軍勢を通してわたしは栄光を現わし、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。」そこでイスラエル人はそのとおりにした。

 主が彼らを、その海辺のところに導かれたのは、なんとパロがイスラエルを追ってくるようにするためだったのです。しかも全軍勢で追ってきます。どんでもないことになりました。もし、これが、神の支配の外にあってパロが勝手にやっているというなら話しは分かりますが、とんでもない、主がパロの心をかたくなにし、そのことを導かれているのです。私たち人間の立場からすれば、なんで神はこんなにころころ心を変えられるのか、と思ってしまいます。ある時は救い出すのに、あるときは自分を滅ぼそうとする神なのか、と考えてしまいます。けれども、神側の立場からすれば、俗な言い方をすると、「おびき寄せ作戦」だったのです。イスラエルをおとりにして、エジプト人を連れだし、それから完全に、徹底的に滅ぼし尽くすことをお考えになっていたのです。

 私たちが知らなければならないことは、キリストによって救い出されて、献身の道を歩み始めると、パロに示されているような悪魔の攻撃を受けるということです。悪魔は確かに、キリストの十字架において敗北しました。けれども、悪魔は最後のあがきといいますか、もう自分のものではなくなったものを追い求めて、私たちを襲ってくるのです。ペテロは、「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。(1ペテロ5:8)」と言いました。しかし、神がおっしゃられたとおり、このことを通してご自分の栄光を現わされます。この悪魔が完全に滅ぼされるときが来ます。

2C 全軍勢 5−9
 けれども、パロは追って行きます。ものすごい勢いでイスラエルを追いかけます。民の逃げたことがエジプトの王に告げられると、パロとその家臣たちは民についての考えを変えて言った。「われわれはいったい何ということをしたのだ。イスラエルを去らせてしまい、われわれに仕えさせないとは。」彼らの心が変わりました。そこでパロは戦車を整え、自分でその軍勢を率い、えり抜きの戦車六百とエジプトの全戦車を、それぞれ補佐官をつけて率いた。

 18王朝のエジプトにおいて、初めて戦車が使われたと言われています。つまり、世界の最新鋭の兵器を用い、また全軍勢を率いてやって来たのです。

 主がエジプトの王パロの心をかたくなにされたので、パロはイスラエル人を追跡した。しかしイスラエル人は臆することなく出て行った。


 イスラエルは、自分たちが救い出されたと思っているので、ただモーセの言うことに従いました。彼らは、過越において大きな勝利を収めていたので、元気づいていました。でも、次の瞬間に、恐くなっておびえてしまいます。私たちも経験することですよね。

 それでエジプトは彼らを追跡した。パロの戦車の馬も、騎兵も、軍勢も、ことごとく、バアル・ツェフォンの手前、ピ・ハヒロテで、海辺に宿営している彼らに追いついた。

3C 恐れ 10−14
 パロは近づいていた。それで、イスラエル人が目を上げて見ると、なんと、エジプト人が彼らのあとに迫っているではないか。イスラエル人は非常に恐れて、主に向かって叫んだ。

 ここまでは、彼らは正しい反応をしています。主に叫びました。けれども、次の瞬間にモーセを非難しました。

 そしてモーセに言った。「エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。私たちがエジプトであなたに言ったことは、こうではありませんでしたか。『私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕えさせてください。』事実、エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。」

 イスラエル人の不満が始まりました。モーセは、40年後に死ぬときまで、この不平を聞きつづけなければいけませんでした。彼らが抱いていた不満はだいたい次のとおりです。エジプトで彼らは、モーセから約束の地に入るためにエジプトを出て行くのだという言葉を聞きました。その約束の地は豊かで、後で、「乳と蜜の流れる地」と表現されています。ところが、その約束に反して彼らは荒野にいました。エジプトは肥沃な土地ですから、状況はなおさら悪くなったのです。約束と違うではないか、もっと悪い状態になっているではないか、というのがイスラエル人の叫びだったのです。

 むろん、彼らの叫びが間違っているのは私たちは知っています。けれども、クリスチャン生活において、私たちは同じことをしています。クリスチャンになれば、問題は解決する。幸せになれる。喜びに満ち溢れるはずだ。今の状況は何だ!とくに何も良くなってはいないではないか。もっと問題が多くなっているではないか、という叫びが心の奥底にあります。それは、私たちが荒野の生活という大切な準備期間があるのを見落としているからです。それは、祝福を受け取ることができるための準備です。祝福を受け取るのは簡単ではないか、と思われるかもしれませんが、実はとても難しいのです。約束の地に入ることのできたイスラエルの民が偶像崇拝に陥るまでに、そんなに多くの時間を要しませんでした。彼らが、エジプトでどれほど苦しいところにいたか、また、荒野で神がいかに自分たちを養ってくださったかを忘れていたからです。ですから、荒野の生活は、私たちは祝福を受け取る器を大きくするために必要なことなのです。

 でも、イスラエルと同じように不平をもらしたくなるのですが、そこで大切なのが聖書の勧めです。モーセは、彼らを勧め、励まします。それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」

 敵が襲ってくるとき、しなければいけない大切なことがここに書かれています。まず、「恐れてはいけない。」です。恐れは信仰と相容れない感情です。イエスが、何度となく「恐れてはいけない。」と言われたでしょうか。私たちはそれだけ恐れてしまうのです。次に、しっかりと立つことです。ペテロは、「堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。(1ペテロ5:9)」と言いました。そして、主が戦われるのだから、黙っていなければならないと言いました。これは自分が戦うのでなく、主が戦ってくださるのだということを認識することはとても大切です。霊的な戦いのときに、自分で何とか解決しようとすると、必ずサタンの餌食になります。たとえば、根も歯もない自分についてのうわさが、教会の中に蔓延したとします。そのとき、自分はだれがそのうわさをし始めたのか、と捜し回ろうとするなら大変なことになります。「これは、霊的な攻撃だ。主よ。悪い者の仕業を打ち壊してください!」と祈るなら、勝利が待っているのです。

2B 方法 15−29
1C 従順 15−18
 このように、モーセは力強い説教をしましたが、主は次に面白いことをおっしゃられます。主はモーセに仰せられた。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。

 
モーセのすばらしい説教を、主は、「なぜわたしに向かって叫ぶのか。」と言われました。そして、前進するようにと言われました。海の中に前進するようと命じられているのです。実は、モーセにも、神の考えられておられたことを把握できていなかったのです。

 あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真中のかわいた地を進み行くようにせよ。見よ。わたしはエジプト人の心をかたくなにする。彼らがそのあとからはいって来ると、わたしはパロとその全軍勢、戦車と騎兵を通して、わたしの栄光を現わそう。パロとその戦車とその騎兵を通して、わたしが栄光を現わすとき、エジプトはわたしが主であることを知るのだ。」


 神は、この紅海を分けることによって、エジプト軍を滅ぼす計画をお持ちでした。モーセは、「主の救いを見なさい!」と叫んでいましたが、神は、「何を叫んでいるのか。わたしの言うとおり水の中に入りなさい。そうすれば、エジプト軍をことごとく滅ぼしてしまおう。」と言われているのです。つまり、とイスラエルが神に聞き従わない限り、この戦いには勝てないのです。神は、私たちにただ従順を求めておられます。神がご自分の力を示される前に、私たちは神の言われる事に聞き従わなければいけないのです。

2C 臨在 19−20
 ついでイスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移って、彼らのあとを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移って、彼らのうしろに立ち、エジプトの陣営とイスラエルの陣営との間にはいった。それは真暗な雲であったので、夜を迷い込ませ、一晩中、一方が他方に近づくことはなかった。

 
イスラエルを導いていたのは、雲の柱だけでなく神の使いもそうでした。この使いは、エジプトの女奴隷ハガルに現われた神の使い、ヤコブが格闘した主の使いです。私たちは、この方がイエス・キリストご自身に他ならないことを知っています。この神の使いと雲の柱が、エジプトの陣営とイスラエルの陣営との間にはいりました。それで真っ暗闇を作り出したのでエジプトは彼らに近づくことができませんでした。このように、主のご臨在によって戦いが行なわれていたのです。ですから、私たちに主がおられることを意識するとき、勝利がもたらされるのです。

3C 御力 21−29
 そして次に、主の御力が現われます。そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。そこで、イスラエル人は海の真中のかわいた地を、進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった。

 世界中のだれもが、このような奇蹟を体験したことはないでしょう。一時的に、浅い海が強風になって陸となることはありえても、深い海が壁となる奇蹟は、地球の歴史の中でこれ一回限りです。神は、ご自分がどのような方であるかを、イスラエル人と全世界の民に知らせるために、この奇蹟を行なわれました。神は全能のお方なのです。そして大事なのは、このことを思い出しなさい、と何回もイスラエルに教えられていたことです。紅海を分けた神が、あなたとともにおられるのだよ、ということを知ってほしかったのです。そして、神は、この約1500年後にこれ以上の奇蹟を行なわれました。死者からの復活です。死は私たちの最後の敵であると、パウロは言っています(1コリント15:26)。世界を自由自在に動かす人物でも、死に対しては無力であります。けれども、神はイエスを死者の中から復活させる事によって、ご自分が全能の神であることを示されました。この神が、私たちとともにおられます。

 エジプト人は追いかけて来て、パロの馬も戦車も騎兵も、みな彼らのあとから海の中にはいって行った。

 エジプト人も、この奇蹟の中に入ろうとしています。けれども、これは、信仰者のみしか通ることの出来ない聖別された道です。

 朝の見張りのころ、主は火と雲の柱のうちからエジプトの陣営を見おろし、エジプトの陣営をかき乱された。その戦車の車輪をはずして、進むのを困難にされた。それでエジプト人は言った。「イスラエル人の前から逃げよう。主が彼らのために、エジプトと戦っておられるのだから。」

 エジプト人はようやく、神の取り扱い方が、イスラエルに対するものと異なることに気づき始めています。自慢の車輪がはずれてしまいました。

 このとき主はモーセに仰せられた。「あなたの手を海の上に差し伸べ、水がエジプト人と、その戦車、その騎兵の上に返るようにせよ。」モーセが手を海の上に差し伸べたとき、夜明け前に、海がもとの状態に戻った。エジプト人は水が迫って来るので逃げたが、主はエジプト人を海の真中に投げ込まれた。

 エジプトは、ノアの時代に箱舟に逃げ入ることをしなかった人々と同じように、水のさばきに会いました。イスラエルは、このさばきの水の中を通って救い出されました。新約聖書では、この海の水がバプテスマを表していると教えられています(1コリント10:2)。つまり、私たちはエジプトと同じように罪に対して死にました。けれども、イスラエルのように、キリストにあって新らたないのちを得ました。キリストとともに葬られ、キリストとともによみがえるのが水のバプテスマの意味です。

 水はもとに戻り、あとを追って海にはいったパロの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残された者はひとりもいなかった。

 ひとりも残されていません。パロも海の中でおぼれ死にました。

 イスラエル人は海の真中のかわいた地を歩き、水は彼らのために、右と左で壁となったのである。

3B 応答 − 信仰 30−31
 こうして、主はその日イスラエルをエジプトの手から救われた。イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見た。

 
彼らは見ました。エジプト人が確かにひとりも残らず死んだのを見ました。もう自分たちを襲ってくるものが何一つない事を知りました。完全な勝利です。私たちも、自分たちのエジプト人が死んだのを信仰をもって見なければいけません。罪に支配された古い人は、もう死にました。悪魔は、私たちを告発します。私たちがまだ、罪から解放されていないと告発します。けれども、キリストが再び来られるときには、彼もまたパロと同じように完全に滅びなければならないのです。私たちは今、それを信仰をもって受け止めることができます。もう罪は葬り去られた。もう罪は自分を支配しません。「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。(
103:12」と詩篇に書かれています。預言者ミカは、「主は再び我らを憐れみ/我らの咎を抑え/すべての罪を海の深みに投げ込まれる。(7:19)」と言いました。

 イスラエルは主がエジプトに行なわれたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。

 彼らは、この時点で信仰を確立しました。私たちにとっての回心です。大きな御力を見て回心したように、私たちはキリストの十字架と復活の現実を見て回心します。このことがはっきりしているか、つまり、自分がキリストにあって死んでおり、キリストにあって生き返ったという事実をしっかりとつかんでいるかどうかによって、その後のクリスチャン生活が決定します。何か問題が起こっても、自分はキリストともに葬られたのだという確信があります。この確信に基づいて生きるとき、神は確かに約束の御霊を注いでくださり、私たちに豊かないのちを与えてくださるのです。



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