出エジプト記12−13章 「永遠の記念日」

アウトライン

1A 過越の祭り 12
   1B 記念すべき日 1−28
      1C 過越の子羊 1−14
      2C 種なしパン 15−20
      2C 門柱と鴨居の血 21−28
   2B 出エジプト 29−51
      1C 寝ずの番 29−42
      2C 外国人の過越 43−51
2A 初子の聖別 13
   1B 約束の地にて 1−16
      1C 種なしパンの祝い 1−10
      2C 主へのささげ物 11−16
   2B 迂回の道 17−22

本文

 出エジプト記12章を開いてください。ここでのテーマは、「永遠の記念日」です。これから、主がエジプトに下す最後の災い、初子を打つ災いを見ます。しかし主は、このことを記念する祭りを行なうように命じられます。これが一過性の出来事ではなく、とこしえまでも覚えられるべき出来事と神はみなしておられるのです。

1A 過越の祭り 12
1B 記念すべき日 1−28
1C 過越の子羊 1−14
 主は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。」

 神は、この過越の祭りを一番最初の月となさいました。ヘブル語ではアビブであり、バビロン語ではニサンと言います。現代の暦ですと、3月か4月になります。あるとき、クリスチャンの人たちに、「過越の祭りが行なわれたのは、何月になるかわかりますか。」と聞きました。だれも分かりませんでした。それで、「キリストが死なれたのは、何月でしょう。」と聞きました。すると、4月の初めだと答えられたのです。キリストは、過越の祭りの日に死なれました。なぜなら、この祭りは単なる昔の出来事ではなく、私たちの救い主キリストの贖いを指し示す重要な祭りだからです。

 イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。

 羊が選ばれます。家族ごとに選ばれますが、過越の祭りは基本的に、家族の祝いです。そして、10日に用意されます。この日は棕櫚の聖日とよく呼ばれますが、イエスがエルサレムに入られたのはこの日のことでした。バプテスマのヨハネが、イエスを見て叫びました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。(ヨハネ1:29)」この羊は、キリストご自身を表しているのです。

 もし家族が羊一頭の分より少ないなら、その人はその家のすぐ隣の人と、人数に応じて一頭を取り、めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。

 羊の特徴を見てください。「傷のない」羊です。いけにえとしてほふられる羊は、傷や欠陥があってはなりませんでした。神は聖く、完全なお方なので、いけにえも完全でなければならなかったからです。私たちは、イエスには何の罪も見出されなかったことを知っています。十字架につけられるとき、多くの人がイエスを正しい方であると証言しました。ペテロはこう言っています。「あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(1ペテロ1:18)

 あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。

 14日の夕暮れに、小羊がほふられます。これは、だいたい3時過ぎから6時過ぎまでの間に行なわれます。そして日没になると、ユダヤの暦では日没が一日の始まりですから、15日になります。イエスが十字架の上で死なれたのは、この14日のことです。

 そして、ほふられるときに、とても大切なことが血が流されることです。神は人を救われるとき、必ず血を要求されました。アダムとエバがその恥をおおわれたのは、動物の皮の衣です。つまり、動物の血が流されました。ヘブル書の著者は、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。(9:22)」と言いました。イエスは、動物の血ではなく、ご自分の血を流されることによって、私たちが神に受け入れられるようにしてくださったのです。

 その夜、その肉を食べる。

 日没から過越の食事が始まります。食事と言っても、決められた順番があります。順番をヘブル語でセダーを言い、過越の食事はふつうセダー(=順番)と呼ばれます。ほふった羊がテーブルの真中に置かれて、その回りに前菜があります。この子羊を食べることによって、イスラエルはエジプトに下る災いから救い出されるのを知ったのです。詩篇には、「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。(34:8)」と書かれています。この食事のときに、イエスが弟子たちに言われました。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。」「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による契約です。(ルカ22:19、20)」イエスはまた、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。(ヨハネ6:54)」と言われました。ですから、私たちはキリストの死を体験するために、聖餐にあずかります。

 すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。

 種なしのパンと苦菜です。苦菜はセダーの中では、塩水のはいったコップにたしかパセリをひたして、それを食べます。これを通して、エジプトでの奴隷状態での苦みと汗を思い出します。

 それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。

 火で焼かなければならないのは、なぜでしょうか?これは、神のさばきを表しているからです。ソドムとゴモラは火と硫黄によってさばかれました。イエスは、ゲヘナでは火が消えることはないとおっしゃっています(マルコ9:48)。ですから、イエスが十字架につけられたとき、地獄の苦しみをお受けになりました。

 それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。

 朝まで残してはいけません。夜のうちに全部焼かなければいけません。なぜなら、朝になったらもう贖いは完了し、新しい歩みが始まるからです。罪が処理されるのは夜のうちでなければならないのです。イエスが死なれるとき、正午から天が暗くなりました。それは、イエスが罪を負われているのを示すものだったのです。

 あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これは主への過越のいけにえである。

 腰の帯を引き締めるのは、当時の服装のゆえです。新約聖書時代もそうでしたが、男も裾の長い服を身につけていたので、体を動かすときには、腰の帯を引き締めて、すそを上げて、動きやすくします。これからイスラエルはすぐに、エジプトを出て行くことになります。ちなみに、今に至るまでユダヤ人は過越の食事を取っていますが、時間はちょうど夕方6時ごろから9時ごろまでかけて行ないます。日没から始めて食事を取ります。

 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。

 今まで話しましたように、これまでの災いはエジプトで神々と拝まれていたものに対する災いでした。そして初子もまた拝まれていました。パロ自身も神でした。これにさばきが下ります。

 あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。

 過越という言葉の意味は、ここにあります。災いが通り越すことです。エジプトには災いが通り抜けましたが、イスラエルには通り越しました。でも、通り越した理由は何ですか。神が「血を見る」からですね。唯一、その理由によって彼らには災いが通りぬけなかったのです。神のさばきは、すべてに対するものでした。イスラエル人も、本来ならエジプト人と同じように滅びなければいけないのです。彼らが救われるのは、何か良い民族だからではありません。エジプト人たちが特別に悪者なので救われたのではありません。ただ、血によってのみ、災いが通り越したのです。これは、何回強調しても強調しすぎることのない、大切な真理です。私たちの中には、何一つ救われるべき理由はありません。さばかれる原因はすべて持っていますが、救われる理由は私たちのの側には何一つないのです。ただ、キリストの血によって救われました。

 この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。

 イスラエルがエジプトから救い出されるという出来事は、永遠に思い出されるべき重要なことです。出エジプトがイスラエル人がイスラエル人たらしめるところのアイデンティティーであり、エジプトの奴隷状態から解放されて自由になり、神の所有の民となることは今後の彼らの生涯において、永続的に思い出されなければいけないことです。もしこれを忘れれば、いや実際に彼らは忘れることになりますが、エジプト人が拝んでいた同じ神々を拝むようになり、再び外国の民によって奴隷状態になってしまうからです。ですから、一度限りの出来事ですが、永遠に至るまでの影響力を持ちますし、持たなければいけません。

 イエスさまは、過越の食事の祭りのときに、「これをおぼえて、行いなさい」と言われました。キリストが裂かれたからだと、その流された血を、主が戻って来られるまで、いや主が戻られた後も、とこしえまで覚えられます。なぜなら、ヘブル人への手紙に書かれていますが、ただ一度、ご自分をおささげになったことにより、永遠の救いを成し遂げられたのです。だから、これ以上私たちは救いのために何か行なわなければいけないことは、何一つありません。キリストが律法の完成であり、私たちがしなければいけないのは、ただ一つ、キリストにうちにとどまること、キリストのうちに堅く立つことです。

2C 種なしパン 15−20
 あなたがたは七日間種を入れないパンを食べなければならない。その第一日目に、あなたがたの家から確かにパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までの間に種を入れたパンを食べる者は、だれでもイスラエルから断ち切られるからである。

 ここからは種なしのパンの祝いについての説明です。小羊がほふられる十四日の次の日、つまり過越の祭りの次の日から、七日間祝われます。この二つの祭りは密接につながっているので、しばしば一つの祭りとして括られます。そして、「断ち切られる」とありますが、これはイスラエルの共同体から断ち切られることを意味し、これは死と同然でした。それだけ深刻な意味が、パン種の中には含まれる、ということです。

 また第一日に聖なる会合を開き、第七日にも聖なる会合を開かなければならない。この期間中、どんな仕事もしてはならない。ただし、みなが食べなければならないものだけは作ることができる。

 他の祭りのときと同じく、種なしパンの祝いは安息していなければいけません。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」という戒めが、後に主から与えられますが、なぜ安息するのでしょうか?それは、主がしなければいけないすべてのわざを、完成されたからです。創造においては、六日で天地万象をお造りになられたから、七日目に休まれました。種なしパンの祝いにおいては、神の贖いのわざが成し遂げられたことを意味しています。ですから、イスラエルは自分で自分を救うためのわざを行なう必要はなく、主にあって安息することができるし、またそうしなければいけないのです。

 コロサイ書には、安息日の本体はキリストにあると書かれています(2:17)。キリストがすべてのことを行なってくださったので、私たちはその中に安息しなければいけません。

 あなたがたは種を入れないパンの祭りを守りなさい。それは、ちょうどこの日に、わたしがあなたがたの集団をエジプトの地から連れ出すからである。あなたがたは永遠のおきてとして代々にわたって、この日を守りなさい。

 過越の祭りと同様、種なしパンの祝いもまた永遠のおきてになりました。

 最初の月の十四日の夕方から、その月の二十一日の夕方まで、種を入れないパンを食べなければならない。七日間はあなたがたの家にパン種があってはならない。だれでもパン種のはいったものを食べる者は、在留異国人でも、この国に生まれた者でも、その者はイスラエルの会衆から断ち切られるからである。あなたがたはパン種のはいったものは何も食べてはならない。あなたがたが住む所ではどこででも、種を入れないパンを食べなければならない。

 パン種を食べた者は、それがたとえイスラエル人でなかったにせよ、差別なく断ち切られます。滅ぼされます。失われた者とみなされます。なぜここまで厳しいのでしょうか?それは、過越の祭りが、キリストが十字架上で血を流されていたことを表す重要な出来事であったように、種なしパンもまた、その血によって罪が取り除かれたことを意味しているからです。

 コリント第一5章をお開きください。パウロが、教会の中で近親相姦の罪を犯している者を、教会から追い出しなさいと命じている箇所ですが、こう言っています。「あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。(5:6-8」パン種は、罪や悪を表しています。パンを作るときに、イースト菌のはいったパンの一部を残します。そしてそれを新しい粉のかたまりに混ぜると、粉全体をふくらませます。そしてそこからまた一部種ありパンを残しておくと、他の新しい粉と混ぜて、全体をふくらませることができます。したがって、わずかなパン種で、全体をふくまらせることができるのです。罪も、わずかな罪で死をもたらすことができるほど、広がるものです。

 ですから、パン種は取り除かなければいけません。そしてパウロは、「あなたがたはパン種のないものだからです」と言っています。これは、過越の小羊イエス・キリストが流された血によって、罪が取り除かれ、完全に白く、清められた者とされたということです。ですから、パンに種があってはならないのは、そのためです。種があれば、断ち切られるのは、そのためです。キリストと、そのわざがそこには示されているからです。

2C 門柱と鴨居の血 21−28
 次からモーセが長老たちに語りはじめます。そこで、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び寄せて言った。「あなたがたの家族のために羊を、ためらうことなく、取り、過越のいけにえとしてほふりなさい。ヒソプの一束を取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。

 神は、ヒソプを鉢の中の血に浸して、ヒソプでかもいと門柱に血を塗ることも命じておられました。後にヒソプは、罪をきよめる象徴となりました。バテ・シェバの件で罪を犯したダビデが、こう言っています。「ヒソプをもって私の罪を取り除いてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。(詩篇51:7)」私たちの罪を清めるのは、キリストの血です。

 主がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、主はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたがたの家にはいって、打つことがないようにされる。あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のためのおきてとして、永遠に守りなさい。

 次に永遠に守るため、この祭りを代々引き継いでいく方法を教えます。

 また、主が約束どおりに与えてくださる地にはいるとき、あなたがたはこの儀式を守りなさい。あなたがたの子どもたちが『この儀式はどういう意味ですか。』と言ったとき、あなたがたはこう答えなさい。『それは主への過越のいけにえだ。主がエジプトを打ったとき、主はエジプトにいたイスラエル人の家を過ぎ越され、私たちの家々を救ってくださったのだ。』」

 子どもに語り聞かせることによって、この祭りは守られます。祭りは、子どもたちが興味をもって質問するように、一つ一つが整えられていました。神がイスラエルのためにエジプトでしてくださったことを、子どもが理解できるような形で言い伝えることが、この祭りの大きな目的の一つなのです。聖書は、子どもを主にあって訓練することを命じています。「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。(エペソ6:4)」とパウロは言いました。

 すると民はひざまずいて、礼拝した。こうしてイスラエル人は行って、行なった。主がモーセとアロンに命じられたとおりに行なった。

 すばらしいですね。彼らはひざまずいて礼拝しました。そして、神の命じられたとおりに行ないました。

2B 出エジプト 29−51
 次に実際の災いが起こります。

1C 寝ずの番 29−42
 真夜中になって、主はエジプトの地のすべての初子を、王座に着くパロの初子から、地下牢にいる捕虜の初子に至るまで、また、すべての家畜の初子をも打たれた。

 パロの王子も死にました。このパロは、エジプト王朝ではアメンホテプ2世と言われています。その後を継いだのはトトメス4世ですが、彼はアメンホテプ2世の長子ではありませんでした。長子は、いまここで死んでしまったのです。

 それで、その夜、パロやその家臣および全エジプトが起き上がった。そして、エジプトには激しい泣き叫びが起こった。それは死人のない家がなかったからである。

 パロが受けた衝撃は非常に強く、朝が明けるのを待てませんでした。

 パロはその夜、モーセとアロンを呼び寄せて言った。「おまえたちもイスラエル人も立ち上がって、私の民の中から出て行け。おまえたちが言うとおりに、行って、主に仕えよ。おまえたちの言うとおりに、羊の群れも牛の群れも連れて出て行け。そして私のためにも祝福を祈れ。」

 パロは最後の最後まで、欺いています。「私のために祝福を祈れ。」と言っており、神の御前でへりくだり、イスラエルの民を行かせたのではないことがわかります。けれども、行かせました。とうとう行かせました。これほどイスラエルを苦しめたパロは、神のさばきにあって、その手をイスラエルから離さざるを得なくなったのです。キリストの十字架のみわざは、それほど強力なものです。悪魔を徹底的に痛めつけ、私たちを罪の中に縛るその手を離さざるを得なくなったのです。ヘブル書2章にはこう書かれています。「そこで、子たちは血と肉を持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の血からを持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となった人々を解放してくださるためでした。(14、15)

 エジプトは、民をせきたてて、強制的にその国から追い出した。人々が、「われわれもみな死んでしまう。」と言ったからである。

 このとき、エジプト人たちの気持ちが詩篇105編に書かれています。「エジプトは彼らが出たとき喜んだ。エジプトに彼らへの恐れが生じたからだ。(38)

 それで民は練り粉をまだパン種を入れないままで取り、こね鉢を着物に包み、肩にかついだ。イスラエル人はモーセのことばどおりに行ない、エジプトから銀の飾り、金の飾り、それに着物を求めた。主はエジプトがこの民に好意を持つようにされたので、エジプトは彼らの願いを聞き入れた。こうして、彼らはエジプトからはぎ取った。

 主の仰せになったことは、ことごとく成就しました。

 イスラエル人はラメセスから、スコテに向かって旅立った。幼子を除いて、徒歩の壮年の男子は約六十万人。

 ものすごい人数です。女と子どもを加えたら、おそらく200万人は超えていたでしょう。ヤコブがエジプトに入ったときはわずか70人です。でも、そのときヤコブは神の約束を信じました。神の約束は確かに実現されましたが、ヤコブはその信仰のゆえに、大いなる報いを天において受けているのです。

 さらに、多くの入り混じって来た外国人と、羊や牛などの非常に多くの家畜も、彼らとともに上った。

 この入り混じった外国人は、片親がイスラエル人の人、イスラエルと同じく奴隷になっていたセム系の民族であったと思われます。彼らは、ここで、モーセのことばを信じて脱出したのではありません。ただ、この大きな出来事に加わって見たいと言う、ロマンチックな、センチメンタルな気持ちがあって、いっしょに脱出したのでしょう。同じように脱出したのですが、動機が間違っていました。この外国人があとで問題を引き起こします。民数記11章で、彼らは激しい欲望にかられ、イスラエル人も彼らに釣られて、「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。(4,5)」と言いました。このため、神は激しい疫病で彼らを打たれました。クリスチャンの間でも同じことが起こります。イエスを信じましたと言います。洗礼を受けます。けれども、神のみことばを聞いて、それを信じたという動機ではなく、他の何かに動機によって信じました。そのときは、私たちにはその人が本当に信じたのかどうか、わかりません。けれども、時を経ると、実は信じていなかったことが明らかにされます。この外国人たちのように、エジプト、つまり世を慕い求めるようになるのです。

 彼らはエジプトから携えて来た練り粉を焼いて、パン種の入れてないパン菓子を作った。それには、パン種がはいっていなかった。というのは、彼らは、エジプトを追い出され、ぐずぐずしてはおられず、また食料の準備もできなかったからである。

 主が言われたように、すぐに出て行かねばいけなくなりました。

 イスラエル人がエジプトに滞在していた期間は四百三十年であった。四百三十年が終わったとき、ちょうどその日に、主の全集団はエジプトの国を出た。この夜、主は彼らをエジプトの国から連れ出すために、寝ずの番をされた。この夜こそ、イスラエル人はすべて、代々にわたり、主のために寝ずの番をするのである。

 この430年と言う数字は、少し違うのですが前もって約束されていました。神がアブラハムに、こう仰せになりました。「あなたはこの事をよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものではない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、400年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て行くようになる。(創世15:13)」430年と400年の違いは、おそらくヤコブがエジプトにいた期間であると考えられます。ヤコブが12人の息子に、アブラハムに与えられた約束を祝福をもって宣言して死にました。

2C 外国人の過越 43−51
 主はモーセとアロンに仰せられた。「過越のいけにえに関するおきては次のとおりである。外国人はだれもこれを食べてはならない。」しかし、だれでも金で買われた奴隷は、あなたが割礼を施せば、これを食べることができる。居留者と雇い人は、これを食べてはならない。

 外国人が入り混じって出て来ていたので、神は、そのような人たちが過越の祭りに参加できるかどうかを語られます。基本的に外国人は食べる事はできません。けれども 奴隷は割礼を施せば食べることができます。雇い人や寄留者はだめです。これは、神の民となった者だけが、神の契約の中に入ることができる、ということです。

 これは一つの家の中で食べなければならない。あなたはその肉を家の外に持ち出してはならない。またその骨を折ってはならない。

 思い出せるでしょうか、イエスが十字架の上で死なれたとき、そのすねの骨は折られませんでした。ヨハネの福音書19章33節にあります。

 イスラエルの全会衆はこれを行なわなければならない。もし、あなたのところに異国人が在留していて、主に過越のいけにえをささげようとするなら、彼の家の男子はみな割礼を受けなければならない。そうしてから、その者は、近づいてささげることができる。彼はこの国に生まれた者と同じになる。しかし無割礼の者は、だれもそれを食べてはならない。このおしえは、この国に生まれた者にも、あなたがたの中にいる在留異国人にも同じである。」

 寄留者や雇い人ではなく、定住する者は、割礼を受ければ過越の食事を取ることができます。ですから、割礼は非常に重要視されていますが、それはなぜでしょう?アブラハムへの契約のしるしだったからです。神があなたを祝福すると約束されたのは、このアブラハムに対してであり、アブラハムはこの神を信じて、義と認められました。同じように、神が与えられる祝福の約束を信じて、神との関係、契約の中にはいるとき救いを受けます。そこには、異邦人であるとかユダヤ人であるとかの差別はありません。過越の祭りも同じです。

 イスラエル人はみな、そのように行なった。主がモーセとアロンに命じられたとおりに行なった。ちょうどその日に、主はイスラエル人を、集団ごとに、エジプトの国から連れ出された。

2A 初子の聖別 13
 こうして、イスラエルは解放されましたが、それではその後に何をしなければならないかが次の章に書かれています。

1B 約束の地にて 1−16
1C 種なしパンの祝い 1−10
 主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人の間で、最初に生まれる初子はすべて、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それはわたしのものである。」

 イスラエルが贖われてしなければならないことは、初子を聖別することです。初子あるいは長子は、先ほど説明しましたように、最初に生まれた子というだけではなく、最も重要な子どもであります。イサクはイシュマエルの弟なのに、「ただひとりの子」と呼ばれました。ヤコブもエサウの弟なのに長子の権利を受け継ぎました。初穂や初物という言葉にも同じ考えがあります。

 そして、神は、それを聖別しなさいと言われています。つまりわたしにささげなさい、ということです。聖別するとは、神だけのものとなる、他の用途には用いられず神の所有物になるということです。神の日が聖日であり、神の食事が聖餐であり、神の書物が聖書です。したがって、初子を聖別しなさいいうことは、あなたのもっとも大切なものをわたしにささげなさい、ということです。パウロは、「あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価をもって買い取られたのです。(1コリント6:20)」と言いました。そしてローマ12章ではこう言っています「こういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(12:1)」パウロは、神のあわれみのゆえに、と言いました。神がキリストにあってご自分の独り子を与えられたのですから、私たちもこの方に自分のからだを、いけにえとしておささげすることができるのです。

 モーセは民に言った。「奴隷の家であるエジプトから出て来たこの日を覚えていなさい。主が力強い御手で、あなたがたをそこから連れ出されたからである。種を入れたパンを食べてはならない。アビブの月のこの日にあなたがたは出発する。主があなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われたカナン人、ヘテ人、エモリ人、ヒビ人、エブス人の地、乳と蜜の流れる地に、あなたを連れて行かれるとき、次の儀式をこの月に守りなさい。

 約束の地に入ってからしなければいけないことを話しています。

 七日間、あなたは種を入れないパンを食べなければならない。七日目は主への祭りである。種を入れないパンを七日間、食べなければならない。あなたのところに種を入れたパンがあってはならない。あなたの領土のどこにおいても、あなたのところにパン種があってはならない。その日、あなたは息子に説明して、『これは、私がエジプトから出て来たとき、主が私にしてくださったことのためなのだ。』と言いなさい。これをあなたの手の上のしるしとし、またあなたの額の上の記念としなさい。それは主のおしえがあなたの口にあるためであり、主が力強い御手で、あなたをエジプトから連れ出されたからである。あなたはこのおきてを年々その定められた時に守りなさい。

 ユダヤ人は、これを文字通り受けとめて、額のところに聖句の札のはいった小箱をつけていました。イエスが地上におられたときに、彼らは人に見せびらかすためにそれを行なっていたので、イエスは彼らが「経札の幅を広くしたりする。」と指摘されたのです(マタイ23:5)。この額は、心にとどめることが最も大切です。神が私のために、こんなにも大きな救いを与えてくださったことを絶えず心に留めることが大切なのです。

2C 主へのささげ物 11−16
 主が、あなたとあなたの先祖たちに誓われたとおりに、あなたをカナン人の地に導き、そこをあなたに賜わるとき、すべて最初に生まれる者を、主のものとしてささげなさい。あなたの家畜から生まれる初子もみな、雄は主のものである。

 主のものとしてささげるというのは、それをほふるということです。家畜の場合はそれができますが、ある特定の動物や人の場合はそれができません。そのとき、どうするかが次に書かれています。

 ただし、ろばの初子はみな、羊で贖わなければならない。もし贖わないなら、その首を折らなければならない。

 ろばは汚れた動物の類にはいっていましたから、それをささげることはできません。その代わり、羊でもって買い戻しなさいと神は言われています。贖うと言うのは、買い戻すことです。そのろばは本当は神のものなのに、それを自分のものとしているのだから、そのろばの代金を羊で持って支払うことになります。

 あなたの子どもたちのうち、男の初子はみな、贖わなければならない。

 人の場合は、レビ記27章によると評価額がありますが、金銭によって贖います。つまり、初めての男の子の赤ちゃんが生まれたら、この子はすでに神のものですが、神殿にて献金をすれば、自分のものとして育てることができる、ということです。

 後になってあなたの子があなたに尋ねて、『これは、どういうことですか。』と言うときは、彼に言いなさい。『主は力強い御手によって、私たちを奴隷の家、エジプトから連れ出された。パロが私たちを、なかなか行かせなかったとき、主はエジプトの地の初子を、人の初子をはじめ家畜の初子に至るまで、みな殺された。それで、私は初めに生まれる雄をみな、いけにえとして、主にささげ、私の子どもたちの初子をみな、私は贖うのだ。』これを手の上のしるしとし、また、あなたの額の上の記章としなさい。それは主が力強い御手によって、私たちをエジプトから連れ出されたからである。」

 ふたたび親が子どもに説明します。そのとき、エジプトで本来なら失われるべき初子が、神によって生かされました。本当なら、いなくなって当然の子どもであります。けれども、神が生かしてくださったので、その子は今、神のものになったということです。

2B 迂回の道 17−22
 こうして、救い出されたあとに、すべてを神にささげることを知ったあとに、イスラエルは荒野への旅に出ます。さて、パロがこの民を行かせたとき、神は、彼らを近道であるペリシテ人の国の道には導かれなかった。神はこう言われた。「民が戦いを見て、心が変わり、エジプトに引き返すといけない。」

 神の心づかいです。奴隷が職業であった彼らにとって、強大なペリシテ人に立ち向かうことは絶対できません。もちろん、これがもっとも近道なのですが、エジプトを出てきたばかりの彼らにも無理なのです。彼らには準備が必要なのです。神は、水やパンを彼らに与えて、神が必要を満たしてくださることを教えられます。律法を与えて、聖く生きることを教えられます。そうして、イスラエルは、神が信頼するに値するからであることを学んでから、実際に戦いに臨めるのです。私たちも、キリストを信じて、神にささげる決断をして、その後は奉仕の働きのために整えられる必要があります。

 それで神はこの民を葦の海に沿う荒野の道に回らせた。イスラエル人は編隊を組み、エジプトの国から離れた。

 ここの「葦の海」という訳は、「紅海」と訳すことができます。私は紅海という訳のほうが言いと思います。なぜなら、この海は水深1メートルもない浅い葦の海であったという人たちがあるからです。

 モーセはヨセフの遺骸を携えて来た。それはヨセフが、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上らなければならない。」と言って、イスラエルの子らに堅く誓わせたからである。

 先ほどは、ヤコブの信仰について触れましたが、ここではヨセフの信仰について書かれています。彼はエジプトで死にましたが、ミイラになった自分の遺骸がエジプトに残っているのをよしとしませんでした。彼は、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる。」と確信しました。今、それが現実のものとなっています。

 こうして彼らはスコテから出て行き、荒野の端にあるエタムに宿営した。主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった。

 雲の柱、火の柱が、彼らの荒野の生活を導きました。これは、主の臨在、つまり、主がともにおられることを示しています。雲の柱は、砂漠の中で彼らを灼熱の太陽から守り、夜の間も獣を恐れる必要はありませんでした。ですから、彼らは荒野の中にいても守られて、迷うことがありませんでした。神は今の私たちにも同じように、先頭に立って導いてくださいます。

 クリスチャン生活は、この荒野の生活から始まります。罪の世界から救い出されて、自分のすべてを神にささげる決断をしたわけですが、神が約束されたものを手に入れるまで、荒野の生活のなかに入ります。けれども、主がイスラエルを導かれたように、私たちを聖霊によって導いてくださり、また主ご自身のみことばによって導きいてくださいます。

 こうして過越の祭りと種なしパンの祝い、また初子の聖別を見てきました。パロがイスラエル人を追い出すこの出来事には、私たちが罪の中から、キリストの血によって救い出され、罪が取り除かれることを意味していました。悪魔は、キリストの死には恐れます。そのために、彼は敗北者になり、滅ぶ運命に定められたからです。永遠に祝うべき祭りですね。


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