出エジプト記14−15章 「主の救い」

アウトライン

1A 救われる時 14
   1B パロの追跡 1−9
   2B 水の中 10−20
   3B エジプトの死 21−31
2A 救いの後 15
   1B 賛美の歌 1−21
      1C モーセ 1−19
      2C ミリヤム 20−21
   2B 最初の試み 22−27

本文

 出エジプト記14章を開いてください。14章と15章を学びます。ここでのテーマは「主の救い」です。さっそく本文を読みましょう。

1A 救われる時 14
1B パロの追跡 1−9
 主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に、引き返すように言え。そしてミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンの手前で宿営せよ。あなたがたは、それに向かって海辺に宿営しなければならない。」

 前回の学びを思い出してください、イスラエルはすでにエジプトを出ました。13章20節に、「彼らはスコテから出て行き、荒野の端にあるエタムに宿営した」とあります。けれども神は、なんと「引き返せ。」とおっしゃられています。せっかく出て来たのに引き返せと言われているのです。そして、バアル・ツェフォンに宿営せよと命じておられます。これは、海辺に面したところみたいですが、おそらく地形的には、そこは海に囲まれた半島みたくなっていたのではないかと思われます。あるいは、山が周囲にある、細い平地のようになっていたかもしれません。つまり、迷路の中にはいって、間違ったところに入ってしまったような状態になるような場所がバアル・ツェフォンだったのです。

「パロはイスラエル人について、『彼らはあの地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった。』と言うであろう。わたしはパロの心をかたくなにし、彼が彼らのあとを追えば、パロとその全軍勢を通してわたしは栄光を現わし、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。」そこでイスラエル人はそのとおりにした。

 主が彼らを、その海辺のところに導かれたのは、なんとパロがイスラエルを追ってくるようにするためだったのです。しかも全軍勢で追ってきます。どんでもないことになりました。もし、これが、神の支配の外にあってパロが勝手にやっているというなら話しは分かりますが、とんでもない、主がパロの心をかたくなにし、そのことを導かれているのです。私たち人間の立場からすれば、なんで神はこんなにころころ心を変えられるのか、と思ってしまいます。ある時は救い出すのに、あるときは自分を滅ぼそうとする神なのか、と考えてしまいます。けれども、神側の立場からすれば、俗な言い方をすると、「おびき寄せ作戦」だったのです。イスラエルをおとりにして、エジプト人を連れだし、それから完全に、徹底的に滅ぼし尽くすことをお考えになっていたのです。

 私たちが知らなければならないことは、キリストによって救い出されて、キリストに仕えるようになると、必ずこのような反対者からの試みを受ける、ということです。けれどもそれには大きな意味があります。それは、「わたしは栄光を現わし」と主が言われているように、神の栄光がその試みをとおして現われるためです。イスラエルが死の危険にあったように、新約時代もパウロとその一行が死の意見にあいました。そのときにパウロがこう言いました。「私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。(2コリント4:11)」苦しみや試みには、目的があるのです。

 民の逃げたことがエジプトの王に告げられると、パロとその家臣たちは民についての考えを変えて言った。「われわれはいったい何ということをしたのだ。イスラエルを去らせてしまい、われわれに仕えさせないとは。」そこでパロは戦車を整え、自分でその軍勢を率い、えり抜きの戦車六百とエジプトの全戦車を、それぞれ補佐官をつけて率いた。

 18王朝のエジプトにおいて、初めて戦車が使われたと言われています。つまり、世界の最新鋭の兵器を用い、また全軍勢を率いてやって来たのです。

 主がエジプトの王パロの心をかたくなにされたので、パロはイスラエル人を追跡した。しかしイスラエル人は臆することなく出て行った。

 イスラエルは、自分たちが救い出されたと思っているので、ただモーセの言うことに従いました。彼らは、過越において大きな勝利を収めていたので、元気づいていました。でも、次の瞬間に、恐くなっておびえてしまいます。私たちも経験することですよね。

 それでエジプトは彼らを追跡した。パロの戦車の馬も、騎兵も、軍勢も、ことごとく、バアル・ツェフォンの手前、ピ・ハヒロテで、海辺に宿営している彼らに追いついた。

2B 水の中 10−20
 パロは近づいていた。それで、イスラエル人が目を上げて見ると、なんと、エジプト人が彼らのあとに迫っているではないか。イスラエル人は非常に恐れて、主に向かって叫んだ。

 ここまでは、彼らは正しい反応をしています。主に叫びました。けれども、次の瞬間にモーセを非難しました。

 そしてモーセに言った。「エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。私たちがエジプトであなたに言ったことは、こうではありませんでしたか。『私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕えさせてください。』事実、エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。」

 イスラエル人の不満が始まりました。モーセは、40年後に死ぬときまで、この不平を聞きつづけなければいけませんでした。彼らが抱いていた不満は、いわば奴隷根性です。今まで奴隷として酷使されてきたので、自分たちが解放されることよりも、むしろ奴隷として生きることのほうが楽だという気持ちです。これは、罪の中に生きて、それから自由にされることを約束するイエス・キリストの福音を拒む理由と同じです。ヨハネは、信じない者は光よりも暗やみを愛した、と言いましたが(ヨハネ3章参照)、自分で罪の奴隷であることを選びとるのです。

 確かに、彼らのこれからの荒野の生活は過酷であります。灼熱と、喉の渇きがあります。けれども、彼らには主がともにおられて、主が必要を備えてくださり、主が敵から守ってくださいます。自分たちが主によって生きていることを、荒野の旅をとおして知ることができるのです。イエス・キリストを信じた人は、同じように荒野の旅をするようになります。けれどもそれは、主のみがすべての源であり、主との関係があらゆる祝福にまさることを知るためです。

 それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」

 敵が襲ってくるとき、しなければいけない大切なことがここに書かれています。まず、「恐れてはいけない。」です。恐れは信仰と相容れない感情です。イエスが、何度となく「恐れてはいけない。」と言われたでしょうか。次に、しっかりと立つことです。ペテロは、「堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。(1ペテロ5:9)」と言いました。そして、主が戦われるのだから、黙っていなければならないと言いました。これは自分が戦うのでなく、主が戦ってくださるのだということを認識することです。

 霊的な戦いのときに、自分で何とか解決しようとすると、必ずサタンの餌食になります。たとえば、根も歯もない自分についてのうわさが、教会の中に蔓延したとします。そのとき、自分はだれがそのうわさをし始めたのか、と捜し回ろうとするなら大変なことになります。「これは、霊的な攻撃だ。主よ。悪い者の仕業を打ち壊してください!」と祈るなら、勝利が待っているのです。

 主はモーセに仰せられた。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真中のかわいた地を進み行くようにせよ。

 モーセのすばらしい説教を、主は「なぜわたしに向かって叫ぶのか。」と言われました。そして、前進するようにと言われました。モーセは主がなされることを知っていましたが、まさか水の中に入っていくとは知らなかったようです。

 見よ。わたしはエジプト人の心をかたくなにする。彼らがそのあとからはいって来ると、わたしはパロとその全軍勢、戦車と騎兵を通して、わたしの栄光を現わそう。パロとその戦車とその騎兵を通して、わたしが栄光を現わすとき、エジプトはわたしが主であることを知るのだ。

 神は、この紅海を分けることによって、エジプト軍を滅ぼす計画をお持ちでした。モーセは、「主の救いを見なさい!」と叫んでいましたが、神は、「何を叫んでいるのか。わたしの言うとおり水の中に入りなさい。そうすれば、エジプト軍をことごとく滅ぼしてしまおう。」と言われているのです。つまり、イスラエルが神に聞き従わない限り、この戦いには勝てないのです。神は、私たちにただ従順を求めておられます。神がご自分の力を示される前に、私たちは神の言われる事に聞き従います。

 ついでイスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移って、彼らのあとを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移って、彼らのうしろに立ち、エジプトの陣営とイスラエルの陣営との間にはいった。それは真暗な雲であったので、夜を迷い込ませ、一晩中、一方が他方に近づくことはなかった。

 イスラエルを導いていたのは、雲の柱だけでなく神の使いもそうでした。この使いは、エジプトの女奴隷ハガルに現われた神の使い、ヤコブが格闘した主の使いです。私たちは、この方がイエス・キリストご自身に他ならないことを知っています。この神の使いと雲の柱が、エジプトの陣営とイスラエルの陣営との間にはいりました。

3B エジプトの死 21−31
 そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。そこで、イスラエル人は海の真中のかわいた地を、進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった。

 世界中のだれもが、このような奇蹟を体験したことはないでしょう。一時的に、浅い海が強風になって陸となることはありえても、深い海が壁となる奇蹟は、地球の歴史の中でこれ一回限りです。神は、ご自分がどのような方であるかを、イスラエル人と全世界の民に知らせるために、この奇蹟を行なわれました。神は全能のお方なのです。

 そして大事なのは、このことを思い出しなさい、と何回もイスラエルに教えられていたことです。紅海を分けた神が、あなたとともにおられるのだよ、ということを知ってほしかったのです。そして、神は、この約1500年後にこれ以上の奇蹟を行なわれました。死者からの復活です。死は私たちの最後の敵であると、パウロは言っています(1コリント15:26)。世界を自由自在に動かす人物でも、死に対しては無力であります。けれども、神はイエスを死者の中から復活させる事によって、ご自分が全能の神であることを示されました。この神が、私たちとともにおられます。

 エジプト人は追いかけて来て、パロの馬も戦車も騎兵も、みな彼らのあとから海の中にはいって行った。

 エジプト人も、この奇蹟の中に入ろうとしています。けれども、これは、信仰者のみしか通ることの出来ない聖別された道です。

 朝の見張りのころ、主は火と雲の柱のうちからエジプトの陣営を見おろし、エジプトの陣営をかき乱された。その戦車の車輪をはずして、進むのを困難にされた。それでエジプト人は言った。「イスラエル人の前から逃げよう。主が彼らのために、エジプトと戦っておられるのだから。」

 うわ〜、わなにはまった、とエジプト人は叫んでいます。ここでエジプト人はようやく、神の取り扱い方が、イスラエルに対するものと異なることに気づき始めています。自慢の車輪がはずれてしまいました。

 このとき主はモーセに仰せられた。「あなたの手を海の上に差し伸べ、水がエジプト人と、その戦車、その騎兵の上に返るようにせよ。」モーセが手を海の上に差し伸べたとき、夜明け前に、海がもとの状態に戻った。エジプト人は水が迫って来るので逃げたが、主はエジプト人を海の真中に投げ込まれた。

 エジプトは、ノアの時代に箱舟に逃げ入ることをしなかった人々と同じように、水のさばきに会いました。イスラエルは、このさばきの水の中を通って救い出されました。新約聖書では、この海の水がバプテスマを表していると教えられています(1コリント10:2)。つまり、私たちはエジプトと同じように罪に対して死にました。けれども、イスラエルのように、キリストにあって新らたないのちを得ました。キリストとともに葬られ、キリストとともによみがえるのが水のバプテスマの意味です。

 ですから、キリストの十字架は、紅海の水のように、救いを意味して、またさばきを意味しています。信じる者は救われます。けれども十字架はすべての人が罪人であることを示しています。ゆえに、この方を信じないなら、他に罪を赦す方法がないことも示しています。御名を信じなければ、エジプト人のように滅びに至るのです。

 水はもとに戻り、あとを追って海にはいったパロの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残された者はひとりもいなかった。イスラエル人は海の真中のかわいた地を歩き、水は彼らのために、右と左で壁となったのである。

 ひとりも残されていません。パロも海の中でおぼれ死にました。

 こうして、主はその日イスラエルをエジプトの手から救われた。イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見た。

 彼らは見ました。エジプト人が確かにひとりも残らず死んだのを見ました。もう自分たちを襲ってくるものが何一つない事を知りました。完全な勝利です。私たちも、自分たちのエジプト人が死んだのを信仰をもって見なければいけません。罪に支配された古い人は、もう死にました。私たちは今、それを信仰をもって受け止めることができます。もう罪は葬り去られた。もう罪は自分を支配しません。「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。(103:12」と詩篇に書かれています。預言者ミカは、「主は再び我らを憐れみ/我らの咎を抑え/すべての罪を海の深みに投げ込まれる。(7:19)」と言いました。

 イスラエルは主がエジプトに行なわれたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。

 彼らは、この時点で信仰を確立しました。私たちにとっての回心です。大きな御力を見て回心したように、私たちはキリストの十字架と復活の現実を見て回心します。このことがはっきりしているか、つまり、自分がキリストにあって死んでおり、キリストにあって生き返ったという事実をしっかりとつかんでいるかどうかによって、その後のクリスチャン生活が決定します。自分がいくら、「私は罪から解放されていない。古い自分はまだ支配している!」と叫んでも、海に浮かんでいるエジプト人のしかばねをイスラエル人が眺めているように、十字架につけられて殺されてしまった古い自分しか見ることができないのです。それは幻想であり、事実はキリストにあるいのちを得たのです。この確信に基づいて生きるとき、神は確かに約束の御霊を注いでくださり、私たちに豊かないのちを与えてくださるのです。

2A 救いの後 15
 これから彼らが紅海を通って、エジプト軍がみな海の中に沈んでしまった直後の話を読んでいきます。エジプトから救われたことによって、彼らの心にあふれ出てきたのは賛美です。自分を救ってくださった神をほめたたえました。

1B 賛美の歌 1−21
1C モーセ 1−19
 そこで、モーセとイスラエル人は、主に向かって、この歌を歌った。彼らは言った。「主に向かって私は歌おう。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれたゆえに。」

 賛美とは必ずしも歌を歌うことではありませんが、歌は賛美するのに最も良い方法です。神が私に良くしてくださったことを思うとき、私たちは感謝と畏敬の念を持ちます。また、神の偉大さ、すばらしさを思うとき、私たちは主をほめたたえずにはいられなくなります。でも、自分の心にある思いを十分に言い表すことは難しいです。もっと適切に主をほめたたえたいと思います。そこで歌があるのです。

 歌は、私たちの心の思いを十分に表現してくれます。自分の愛している人に、「愛しているよ。」と言うよりも、ラブ・ソングを歌って、メロディーをつけて、いろいろな表現を使って愛していることを伝えたほうが効果的ですよね。同じように、主に対しても、歌を歌うことによって賛美するのです。詩篇には、「全地よ。主に喜び叫べ。大声で叫び、喜び歌い、ほめ歌を歌え。(95:4)」とあります。使徒パウロは、「詩と賛美と霊の歌をもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。(エペソ5:19)」と勧めました。

 主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。主はいくさびと。その御名は主。

 神がどのような方なのかを表現しています。私の力、ほめ歌、私の救い、わが神、私の父の神、いくさびと、そしてヤハウェです。

 主はパロの戦車も軍勢も海の中に投げ込まれた。えり抜きの補佐官たちも葦の海におぼれて死んだ。大いなる水は彼らを包んでしまい、彼らは石のように深みに下った。主よ。あなたの右の手は力に輝く。主よ。あなたの右の手は敵を打ち砕く。あなたは大いなる威力によって、あなたに立ち向かう者どもを打ち破られる。あなたが燃える怒りを発せられると、それは彼らを刈り株のように焼き尽くす。あなたの鼻の息で、水は積み上げられ、流れはせきのように、まっすぐ立ち、大いなる水は海の真中で固まった。

 これが水深数十センチしかない、浅瀬ではないことは確かです。

 敵は言った。『私は追って、追いついて、略奪した物を分けよう。おのれの望みを彼らによってかなえよう。剣を抜いて、この手で彼らを滅ぼそう。』あなたが風を吹かせられると、海は彼らを包んでしまった。彼らは大いなる水の中に鉛のように沈んだ。

 エジプトは、石のように、鉛のように沈みました。誰一人として、水から這い上がって生き残ったものはいません。

 主よ。神々のうち、だれかあなたのような方があるでしょうか。だれがあなたのように、聖であって力強く、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行なうことができましょうか。

 主なる神と他の神々と言われているものを比較して、主なる神がはるかに優っていることを歌っています。海が分けられて、その乾いた地を何百万人もの人が通りすぎたなどというのは、どんな科学技術をもってしても実現できません。預言者サムエルの母ハンナも、こう祈りました。「主のように聖なる方はありません。あなたに並ぶ者はないからです。私たちの神のような岩はありません。(1サム2:2)

 あなたが右の手を伸ばされると、地は彼らをのみこんだ。

 ここまでが、神がエジプトに対し行なわれたことについて歌われていました。次からは、イスラエルが、敵によって倒されることなく、無事に約束の地にたどりつくことについて歌われています。

 あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、聖なる御住まいに伴われた。

 聖なる御住まいとは、約束の地のことです。

 国々の民は聞いて震え、もだえがペリシテの住民を捕えた。そのとき、エドムの首長らは、おじ惑い、モアブの有力者らは、震え上がり、カナンの住民は、みな震えおののく。恐れとおののきが彼らを襲い、あなたの偉大な御腕により、彼らが石のように黙りますように。主よ。あなたの民が通り過ぎるまで。あなたが買い取られたこの民が通り過ぎるまで。

 紅海の中にエジプト人が沈み込んだ話はすぐに地域の住民に広まりました。それで、彼らは自分たちも滅ぼされることを考え、恐れ震えるようになります。

 あなたは彼らを連れて行き、あなたご自身の山に植えられる。主よ。御住まいのためにあなたがお造りになった場所に。主よ。あなたの御手が堅く建てた聖所に。

 あなたご自身の山とは、エルサレムのことでしょう。さらに、そこに建てられる神殿のことも語られています。

 主はとこしえまでも統べ治められる。

 これは、永遠の御国のことです。主は、カナンの地にイスラエルを導かれたあと、エルサレムの神殿にお住まいになり、そこから永遠に統べ治められます。今、イスラエルにユダヤ人が次々と帰還しています。主イエス・キリストが再び来られるときその帰還は完了します。そして、エルサレムに神殿が建てられ、イエスはその神殿から世界を治められるのです。

 パロの馬が戦車や騎兵とともに海の中にはいったとき、主は海の水を彼らの上に返されたのであった。しかしイスラエル人は海の真中のかわいた土の上を歩いて行った。

 紅海が分かれる出来事に基づいて、この歌がうたわれましたが、聖書全体をとおしてこの出来事が思い出されています。とくに詩篇ではこの出来事について多くが歌われています。あらゆる救いの原型になっており、先に説明したように、イエス・キリストにある救いの原型となっています。

2C ミリヤム 20−21
 アロンの姉、女預言者ミリヤムはタンバリンを手に取り、女たちもみなタンバリンを持って、踊りながら彼女について出て来た。

 歌をうったっただけではなく、踊って主を賛美しました。ミリヤムは、このとき90を越えたおばあさんですが、イスラエルの女たち全員を導いて、タンバリンを使って主をほめたたえています。

 ミリヤムは人々に答えて歌った。「主に向かって歌え。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれた。」

 これはおそらく1節に出てくる歌詞と同じになっています。つまり、この歌はコーラスになっていたのでした。おそらく、男たちがまず一節を歌って、それに続き女性たちが同じ節を歌ったのでしょう。こうして女預言者ミリヤムは、主の御前で踊りました。けれども次に彼女が出てくるときは、モーセに逆らい、主が彼女をらい病にされています。これほどまでに主を賛美したのに、時間が経って心が変わり、主に反抗したのです。残念なことですが、心に喜びが満ちあふれて主を賛美しているその人が、次の瞬間に主に逆らうような発言や行動を取ることがあります。

2B 最初の試み 22−27
 モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らには水が見つからなかった。彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラと呼ばれた。民はモーセにつぶやいて、「私たちは何を飲んだらよいのですか。」と言った。

 この記事を読んで、私たちは、「エッ!主へ賛美は、たった3日間しか持たなかったの?」と思ってしまいます。そうなんです、3日間しか持たなかったのです。でも、彼らのことを非難することはできません。第一に、彼らが歩いていたのは灼熱の、草一つ生えていない砂漠です。それに、体力のある男性だけが歩いていたのではなく、子どもも老人もいっしょに歩いています。水も尽きました。ようやく水にありつけたと思ったら、苦かったのです。文句が出るのも無理からぬことです。第二に、こんな大変な状況にならなくても、私たちは常々、不平をもらしています。月曜日の朝目が覚めると、「なんで、仕事なんかに行かなければいけないんだ。」と思ってしまいます。人から、「お元気ですか?」と聞かれて、元気じゃないのに、「はい、元気ですよ。」と答えてしまいます。なぜなら、生活は、疲れと忙しさに取り囲まれているからですね。だから、不平が出るのです。

 けれども、イスラエルは単に不平をもらしているのではなく、エジプトのほうがましであったという不平をもらすようになります。エジプトを恋い慕うようになり、ついには、モーセの代わりに他の指導者を立ててエジプトに戻ろうとさえします。これはしてはいけない不平でした。つまり、現代版になおせば、「こんなに生活が苦しいなら、クリスチャンにならなければよかった」という不平です。

 クリスチャンになれば魂の救いを得て、喜びに満たされます。けれども、その後の歩みが、救われたように感じることができません。むしろ、生活は辛く、苦しく、問題だらけです。だから、神が本当に、心の奥底から自分を愛してくださっていると信じることができません。

 しかし、それは、救いの意味を履き違えているところから出てくる悩みであります。私たちの救いは、神の御国に入ることのできる救いです。天に国籍があり、自分が御国の市民になる救いであります。この世の者であったところから、神のものに変わったのです。つまり、この世においては外国人になったのであり、住みにくいところとなったのです。だから、この世では苦しみが伴わなければおかしいのです。苦しみがあり、試練があり、困難があるのは、むしろ自分が救われていることのしるしであります。なのに、私たちはいったん魂の救いを得て、喜びに満たされると、その事実をすっかり忘れてしまい、この世において幸せが訪れると勘違いしてしまいます。そして、不信者の人たちが祝福されているのを見て、うらやましくなって、自分がクリスチャンであることが重荷に感じてしまうのです。イスラエルは、この過ちに陥りました。まだ約束の地に到着していないのに、荒野における生活の辛さを経験して、神の慈愛を疑ったのです。

 モーセは主に叫んだ。すると、主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。その所で主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた。

 主がモーセに一本の木を水に投げ入れなさいと命じられたとき、モーセは、「主よ。そんなことをしても、水は甘くなりませんよ。」と言うことはできたでしょう。しかし、モーセは従いました。モーセも信仰を試されていました。

 そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」

 これからモーセは、主が言われることを、自分が理解できなくても従っていくという試験を受けていきます。それは、いやしが約束されているものですが、それは棚ぼた式に与えられるのではなく、主が言われることに聞き従うところに現われます。つまり、自分が御霊についての事柄に種を蒔いたら、永遠のいのちを刈り取るという原則です。

 私たちは、棚ぼた式的な信仰を持っているのではなりません。信じるのだから、家でポテトチップスを食べながらテレビを見ていて、それでお金も何もかも必要なものが与えられる世界が提供されているのではありません。神は仕事によって収入が与えられるという経済原理を与えておられ、その原則にのっとって生きるときに、確かに経済的必要を満たす約束を果たしてくださいます。自分の働きかけが必要です。

 こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめやしの木があった。そこで、彼らはその水のほとりに宿営した。

 彼らはオアシスに到着しました。12部族にぴったりの、12の泉がありました。苦しみのあとの潤いです。困難の後の祝福です。彼らはマラで苦い思いをしましたが、エリムまで来て恵みがありました。これが神のくださる信仰生活です。マラがありますが、その後でエリムがあります。だから、マラでとどまることなく、エリムに向かって進んでいかなければなりません。

 こうして紅海が分かれるところから、新たな荒野での旅を見てきました。前回の学びから見ますと、主は、小羊の血によって私たちの罪を赦し、さばきを免れさせ、そして種なしパンのように罪を取り除かれます。それから水のバプテスマによって、古い人に死に、新しいキリストにあるいのちを得たことを知ります。イスラエルの歩みがすべて、キリスト者の歩みでもあるのです。


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