出エジプト記19−23章 「主の聖め」

アウトライン

1A 戒め 19−20
   1B 契約の締結 19
      1C 約束 1−8
      2C 会見 9−25
         1D 民 9−17
         2D 神 18−25
   2B 契約の内容 20
      1C 十戒 1−17
         1D 神との関係 1−11
         2D 人との関係 12−17
      2C 象徴 18−26
2A 定め 21−23
   1B 個人 21:1−23:9
      1C 奴隷 21:1−11
         1D 権利 1−6
         2D 保護 7−11
      2C 殺傷 21:12−36
         1D 殺人 12−17
         2D 傷害 18−27
         3D 動物 28−36
      3C 財産 22:1−15
         1D 損害 1−6
         2D 貸借 7−15
      4C 道徳 22:16−31
         1D 性 16−20
         2D 弱者 21−27
         3D 神 28−31
      5C 裁判 23:1−8
   2B 国民 23:9−33
      1C 安息と祭り 9−20
         1D 安息 9−13
         2D 祭り 14−20
      2C 敵国 21−33
         1D 主の使い 20−26
         2D 主への恐れ 27−33


本文

 出エジプト記19章をお開きください。今日は、19章から23章までを学びます。ここでのテーマは、「主の聖め」です。主が聖い方であり、私たちも聖くならなければならないことを学びます。それでは、本文をご覧ください。

1A 戒め 19−20
1B 契約の締結 19
1C 約束 1−8
 エジプトの地を出たイスラエル人は、第三の月の新月のその日に、シナイの荒野にはいった。彼らはレフィディムを旅立って、シナイの荒野にはいり、その荒野で宿営した。イスラエルはそこで、山のすぐ前に宿営した。

 
私たちは前回、モーセとイスラエルの会衆が、紅海を渡った後に旅を続けた話しを読みました。マラにおいては苦い水が甘くなり、シンの荒野において主はマナを降らせてくださり、そしてレフィディムでは岩から水が出て、アマレク人に勝利しました。そして今、シナイの荒野に着きました。エジプトを出てからちょうど3ヶ月経っています。モーセは神のみもとに上って行った。このシナイ山は、伝統的にはシナイ半島の南部にあるジュベル・ムーサと呼ばれる山とされています。このシナイ山こそ、モーセが神から召し出された場所であります。そのとき、神はモーセに、「あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。(3:12)」と仰せになりました。彼は、何百万人ものイスラエル人を連れて、再び同じ所に戻ってきました。

 主は山から彼を呼んで仰せられた。「あなたは、このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げよ。あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。

 神は、イスラエルに、主が彼らをエジプトから救い出してくださったことを思い出させておられます。私たちがこれまで学んできた、1章から18章までの出来事がそれです。神はエジプトで苦しみ叫ぶイスラエルの声を聞かれました。そしてモーセを召し出し、パロのところに遣わされました。エジプトに災いが下り、最後は過越の祭りを守って脱出しました。それから紅海を渡って、シナイの荒野まで無事に来ることができたのです。これら一連の出来事を一言で表現するなら、「贖い」であります。敵のものになっていたイスラエルが、神のものになったのです。そして、神のものになったあと、神はご自身のかたちに人を変えようとされます。聖書ではこれを、「聖め」とか、「聖化」と呼んでいます。「主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。(1コリント6:11)」とパウロは言いました。もうキリストの血によって私たちは聖められましたが、この聖さを全うするには、私たちはどうしたらよいでしょうか。

 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。

 神の声に聞き従うこと、これが聖めにとって絶対なくてはならないものです。私たちがモーセの律法を学ぶときに間違っていること、また、イエス・キリストを信じた後の生活について間違っていることがあります。「わたしの契約を守るなら」とありますが、これは新しい契約ではなく、アブラハムに与えられた契約です。アブラハムは、ただ信仰によって、神の言われることを聞いて、それに従いました。彼は、神という人格のある方を知り、もっと親密さを増し加え、神を愛しました。そのため、この方のおっしゃられることを自ら進んで従いたいという思いをもって聞いたのです。ところが、私たちは、神との一対一の関係よりも、自分が何をしなければならないかということに焦点を合わせます。神との親しい関係ではなく、自分の行ないの世界に入ります。とくにモーセの律法は、信仰とは違う行ないの世界であると感じています。けれども、違うのです。神がこれから与えられる契約は、アブラハムの契約を拡張したものであり、あくまでも信仰の原理によって守るものです。そして、信仰は聞くことから始まります。

 あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。

 3つの特権が書かれていますね。まず神の宝ですが、神は全世界の民族の中でも、イスラエル民族には特別な愛が注がれました。そして、祭司の王国とは、神と人との仲介的な役割を果たすことであります。イスラエルは他民族に対して、神が生きておられることを証しし、彼らのためにとりなし、彼らが神の恩恵にあずかるようにします。そして、聖なる国民ですが、特別に神のものとして別けられることを意味します。この3つの特権はみな、クリスチャンにも当てはまります。私たちは、キリストにあって神に愛された特別な宝であり、神を他の人々に証しする祭司であります。そして、この世の汚れと不法からきよめ別れた者として、自分自身を神にささげなければいけません。

 モーセは行って、民の長老たちを呼び寄せ、主が命じられたこれらのことばをみな、彼らの前に述べた。すると民はみな口をそろえて答えた。「私たちは主が仰せられたことを、みな行ないます。」それでモーセは民のことばを主に持って帰った。

 
神はモーセをとおして、この契約を受け入れますかと申し出て、イスラエルは受け入れます、と答えました。契約が締結されたのですが、イスラエルの発言に注目してください、「主が仰せられたことを、みな行ないます。」と言っていることに気づいてください。神との人格的な関係を持とうとしたのではなく、とにかく行なうことだけを考えました。ここから失敗が始まります。イスラエルは、十戒が与えられてから50日もしないうちに、ことごとく破ってしまいました。

2C 会見 9−25
1D 民 9−17
 すると、主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしは濃い雲の中で、あなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞き、いつまでもあなたを信じるためである。」それからモーセは民のことばを主に告げた。

 今度は、神とイスラエルとが対面することになります。主は濃い雲の中でイスラエルに臨まれます。そして、神がモーセに語られる声を彼らも聞くことができるようにされます。

 主はモーセに仰せられた。「あなたは民のところに行き、きょうとあす、彼らを聖別し、自分たちの着物を洗わせよ。彼らは三日目のために用意をせよ。三日目には、主が民全体の目の前で、シナイ山に降りて来られるからである。


 イスラエルの民は、主にお会いするため、自分たちを聖別して、きよめなければいけません。彼らは自分の着物を洗ったのですが、これはたましいのきよめを外側に示したものです。私たちは、自分たちの罪を神に申し上げて、それをきよめていただいて、主の前に出て行かなければいけません。

 あなたは民のために、周囲に境を設けて言え。山に登ったり、その境界に触れたりしないように注意しなさい。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。それに手を触れてはならない。触れる者は必ず石で打ち殺されるか、刺し殺される。獣でも、人でも、生かしておいてはならない。しかし雄羊の角が長く鳴り響くとき、彼らは山に登って来なければならない。

 
聖められるのは、人だけではなく山もそうでした。主が降りて来られるので、少しでも山に触れる者はすぐ殺されてしまいます。

 それでモーセは山から民のところに降りて来た。そして、民を聖別し、彼らに自分たちの着物を洗わせた。モーセは民に言った。「三日目のために用意をしなさい。女に近づいてはならない。」

 
この女とは自分の奥さんのことです。夫婦の交わりは神に祝福されますが、今、神にお会いする重要な時なので、こうした日常の営みを控える必要があります。私たちも、主にお仕えするとき、罪ではないものを進んで捨てて、よりよく主にお仕えすることができます。

 三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。モーセは民を、神を迎えるために、宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。
密雲がありました。雷といなずまがあり、角笛の音が高く鳴り響いています。民は、恐ろしくて震え上がりました。

2D 神 18−25
 シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。角笛の音が、いよいよ高くなった。モーセは語り、神は声を出して、彼に答えられた。

 主が火の中で現れました。主の聖さを象徴しています。新約聖書にも、「私たちの神は焼き尽くす火です。(へブル12:29)」と書かれています。

 主がシナイ山の頂に降りて来られ、主がモーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った。主はモーセに仰せられた。「下って行って、民を戒めよ。主を見ようと、彼らが押し破って来て、多くの者が滅びるといけない。主に近づく祭司たちもまた、その身をきよめなければならない。主が彼らに怒りを発しないために。」モーセは主に申し上げた。「民はシナイ山に登ることはできません。あなたが私たちを戒められて、『山の回りに境を設け、それを聖なる地とせよ。』と仰せられたからです。」主は彼に仰せられた。「降りて行け。そしてあなたはアロンといっしょに登れ。祭司たちと民とは、主のところに登ろうとして押し破ってはならない。主が彼らに怒りを発せられないために。」そこでモーセは民のところに降りて行き、彼らに告げた。


 モーセが知らない間に、山に近づこうとしていたようです。主は、「近づかないように戒めよ。」と言われました。そのことを知らないモーセは、「境が設けてあります。」と言いましたが、主の言われるとおり降りて行くと、案の上、彼らは山に近づこうとしていました。

2B 契約の内容 20
 そして、これから契約の実際の内容に入っていきます。

1C 十戒 1−17
 それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」

 
神は、戒めを与えられる前にもう一度、イスラエルをエジプトから連れ出したことを思い出しておられます。これがとても大切なのです。自分は救われたことをしっかり把握した上で、これからの歩みを語られます。その歩みとは、神との関係と人との関係でした。最初の4つの戒めは、神と人との関係が描かれており、後の6つは人と人との関係が描かれています。合計で10です。この十戒が、その他の律法の基盤となっており、2枚の石の板に書かれて、神殿の契約の箱に入れられました。

1D 神との関係 1−11
 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

 第一の戒めは、神のほかに、ほかの神々があってはならない、というものです。これが最も大切な戒めであり、これを破ることは最も大きな罪であります。私たち日本人にとっては、これが恐ろしい罪であると言う意識がさほどありません。やはり、心のどこかで、「なぜ、たったひとりの神に縛られなければならないの。他のものを求めたっていいじゃないか。」という思いがあります。けれども、これを親子関係に当てはめたらどうでしょうか。子どもがさまざまな罪によって親を悲しませることはあります。けれども、もし子どもが親を本当の親として認めずに、他の親を「お父さん」と呼んだらどうなるでしょうか。こんなことは断じてあってはならないし、親としてそんなことは起こり得ると考えたくもありません。ですから、聖書の神が、人の手で造られた神々とは違い、人格を持っておられ、父と子のような関係を持つことを望んでおられるということを理解すれば、私たちがいかにこの戒めが大切であるかを知ることができます。

 また、偶像とは、神と私たちの間にあるものなら何でもそうなるでしょう。神というのは、呼び名であって、その意味は、「自分の人生と生活をひっぱる、自分の情熱を掻き立てるもの。」ということになるからです。それが、お金、財産、地位、学歴、男女関係などであれば、それが神となります。自分の生活全体を突き動かしているものはいったい何か、はたしてそれがヤハウェなる神であるかどうか、私たちは吟味しなければなりません。

 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

 第二の戒めは、像を造ってはならないと言うものです。偶像を形に現わしてはならないというものです。なぜなら、聖書には、神は霊であり、私たちには見ることができないと言われているからです。神は永遠なる方であり、すべてを超越した方であり、それを有限の物質で現わすことは無理なのです。聖書の多くの箇所で、偶像を造ることの愚かさと生ける神との違いを説明しています。例えば、詩篇115編です。「なぜ、国々は言うのか。『彼らの神は、いったいどこにいるのか。』と。私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる。彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。」それに対し、私たちの神は語ることができ、聞くことができ、御手や御足を動かして、働いてくださいます。

  あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。

 第三の戒めは、主の御名をみだりに唱えてはならないというものです。ユダヤ人は、名前をとても大切に使いました。親が子どもも名前を使うとき、大変神経を使ったそうです。まあ、私たちの間でも、間違って名前を呼ばれたら気分を害します。同じように、神の名前を、それにふさわしく、威厳をもって用いられるべきです。それでは、どのようなときに、神の名がみだりに唱えられるのでしょうか。パウロがこう言いました。「律法を誇りとしているあなたがたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。これは、『神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中で汚されている。』と書いてあるとおりです。(ローマ2:23−24)」つまり、キリスト者と言いながら、キリストの命令に従わないとき、主の御名をみだりに唱えることになります。私たちの生活によって、人々は神がどのような存在なのかを知ることができるからです。

 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。・・あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。・・それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。

 4つ目の戒めは、安息日です。6日間働き、7日目には仕事をやめ、神を礼拝しなければなりません。安息日について、さまざまな議論が教会の中にあります。礼拝は日曜日にすべきか、あるいは土曜日にすべきか。それとも、そんなに厳格にしなくてよいという意見もあります。私は、安息日はイスラエルに与えられた戒めであり、安息はキリストにあって実現したと信じています。けれども、決して見逃してはならない大事なことがあります。それは、私たちは、週に一度必ず体を休める日をもうけ、神のことを考える時を持つべきであるということです。神が6日間働き、1日休まれたのですから、神のかたちに似せて造られた私たちも、同じように動くのが最も良いことになります。礼拝は必ず出るべきです。ヘブル書には、「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。(10:25)」と書いてあります。

2D 人との関係 12−17
 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。

 
神との関係から人への関係についての戒めに移りましたが、その最初は、父と母を敬うことです。先ほど、神と私たちの関係を父と子の関係にたとえましたが、子どもにとって親は神の代理人とも言うべき存在であります。子どもの命はみな親にゆだねられており、親は大きな権威が神から与えられています。それで、私たちは父母を敬わなければならないのですが、ここでバランスが必要です。敬うのと、依存するのは違うからです。イエスは言われました。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。(マタイ10:37)」日本の文化では、神を信じていないので、親は自分の子どもを一時的に授かった存在として考えず、運命的につながった存在、自分の所有物として考えます。また、自分が年をとってから、甘えのきく存在として育てます。そのため、子どもは、ひとりの人間として親を敬うのではなく、親に支配されたかたちで育てられます。ですから、敬うことと依存することの違いを峻別しておくべきでしょう。

 殺してはならない。

 第六の戒めは、殺してはならないです。これは戦争において殺すことではなく、前もって殺意を抱いて殺す、いわゆる殺人の罪です。神は、ノアの時代の大洪水のあと、「人のいのちを流す者は、人によって血を流される。(創世記9:6)」と言われました。人のいのちはあまりにも尊いので、それを取る者はいのちを取られる、つまり死刑になります。けれども、イエスは、さらに1歩踏み入って話されました。「兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。(マタイ5:21)」人を心の中で殺したいと思う、憎んでいるのなら、私たちはすでに殺人の罪を犯したことになります。ですから、神は、人のいのちをとかく大切に考えておられます。

 姦淫してはならない。

 第七の戒めは、結婚外の性的関係を持ってはいけないこと、つまり不倫関係を持ってはいけないことです。性欲は、神によって与えられたものです。その性欲によって、男と女が結び合い、子どもが生まれるようにしてくださっています。けれども、それはあくまでも、一生涯を互いにささげている結婚の中で祝福されるものです。結婚外はみな罪であります。けれども、イエスはまた、この戒めにおいてもさらに1歩進んでおられます。「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。(マタイ5:28)」心の中で淫らなことを考えただけで、姦淫の罪を犯しています。私たちは、自分の心と思いを守ってきよく生きる者でなければいけません。

 盗んではならない。

 第八の戒めは盗まないことです。神は、人間の所有権を大切にしておられます。それを犯すのが盗みです。泥棒、詐欺、万引きはむろん盗みですが、たとえば借りたものを返さないのはどうでしょうか。あるいは、仕事でなまけるのはどうでしょうか。仕事でなまけることは、あなたの時間を買った雇用主に対して盗みを犯していることになります。学生のカンニングも、他の人の知識を盗むことであり、キセルも料金を盗む罪です。脱税は政府に対する罪です。クリスチャンに対して、パウロがこう言っています。「盗みをする者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。(エペソ4:28)

 あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

 第九の戒めは、嘘をつかないことです。パウロは、「あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。(エペソ4:25)」と言いました。

 そして、最後の第十の戒めは、あなたの隣人の家を欲しがってはならない。です。「すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」と書いてあります。

 これだけは心の内における戒めですね。他の人のものが、ああいいなあ、と思うとき、私たちはこの戒めを破っています。また、私たちが神を信じないで、ほかの人と自分を比べてうらやましくなるとき、この戒めを破っているのではないかと思われます。神が与えてくださった自分の置かれている状況に満足することができず、心を乱すのです。

 こうして10の戒めを見ましたが、聖書の結論は、「これを守れる人はだれひとりいない。」ということです。今、読んだだけでも、自分がいかにきよくないか、汚れているかを発見したのではないでしょうか。つまり、今、聖い神に出会ったのです。そして、戒めを破る者は死に定められます。そこで、私たちは主イエス・キリストのところに目を向けます。救い主が必要なのです。イエスは、これらの律法を完全に守られたただ一人のお方であり、ご自身を人類の罪のために犠牲の死を遂げられた方です。この方を信じることによって、初めて、私たちは神との関係を持つことができます。ですから、私たちは、律法を見つづけることによって、主イエスの犠牲の死がいかに尊いものか、神の恵みがいかに深いかを知ることができるのです。

2C 象徴 18−26
 民はみな、雷と、いなずま、角笛の音と、煙る山を目撃した。民は見て、たじろぎ、遠く離れて立った。彼らはモーセに言った。「どうか、私たちに話してください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお話しにならないように。私たちが死ぬといけませんから。」

 イスラエルの民はたじろいでいます。山の上におけるものすごい光景と、また神の声を直接耳にしました。そして、神が直接自分に語らないよう、モーセに願い出ています。

 それでモーセは民に言った。「恐れてはいけません。神が来られたのはあなたがたを試みるためなのです。また、あなたがたに神への恐れが生じて、あなたがたが罪を犯さないためです。」そこで、民は遠く離れて立ち、モーセは神のおられる暗やみに近づいて行った。

 
イスラエルの民は、神の声を聞く特権を自ら拒否した一方、モーセは聞き入り、神に近づきました。ここにイスラエルの民とモーセとの違いが浮き彫りにされています。イスラエルは行ないで生きようとしたのに対し、モーセは信仰によって生きたのです。神の声を聞くことは、ここにあるように畏れ多いことです。自分の汚れや罪が明らかにされます。しかし、それを聞いて、神のほうを見つづけるとき、私たちに信仰が培われ、きよめられます。イエスは言われました。「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。(ヨハネ15:3)

 主はモーセに仰せられた。

 
これから主は、イスラエルの民が続けて神の定めを聞くために、用意をするように命じられます。

 あなたはイスラエル人にこう言わなければならない。あなたがた自身、わたしが天からあなたがたと話したのを見た。あなたがたはわたしと並べて、銀の神々を造ってはならない。また、あなたがた自身のために金の神々も造ってはならない。第二の戒めを繰り返されています。わたしのために土の祭壇を造り、その上で、羊と牛をあなたの全焼のいけにえとし、和解のいけにえとしてささげなければならない。わたしの名を覚えさせるすべての所で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福しよう。

 ここでは、神への近づき方が説明されています。土の祭壇を造りなさいということですが、簡素なものでよい、ということです。私たちの礼拝も同じです。神のみに注目が集められるように、その他のことは簡素にすべきです。私たちは、アカペラで賛美を歌い、献金箱も回さず、祈りとみことばによって礼拝を守っていますが、そうすることによって神のみに焦点を合わせることができます。

 あなたが石の祭壇をわたしのために造るなら、切り石でそれを築いてはならない。あなたが石に、のみを当てるなら、それを汚すことになる。あなたは階段で、わたしの祭壇に上ってはならない。あなたの裸が、その上にあらわれてはならないからである。

 
きり石で祭壇を造ったり、裸で階段を上ることは異邦人が行っていることでした。それを模倣して、裸があらわにされるのを神は好まれませんでした。ここでも、神のみに焦点が当てられることが強調されています。

2A 定め 21−23
 これで、神の聖さの中に生きるために戒めが与えられたところを読んできました。次から、神の定めについて見ていきます。これは、裁判官が裁判をするときの定めになります。今の時代には当てはまらないものもありますが、その中にある原則は適用することができるでしょう。また、この定めは、十戒が具体的な生活の中においてどのように当てはめて行くべきか、その実際的な規則を提供してくれています。

1B 個人 21:1−23:8
1C 奴隷 21:1−11
 まずは、奴隷についての定めです。イスラエルは、エジプトの奴隷状態から救い出されました。彼らこそ、奴隷の身分がいかに苦しいものか知っていた民族です。神は、ご自分の恵みとあわれみのゆえに、奴隷の人たちの権利を守り、保護する定めを設けられました。

1D 権利 1−6
 あなたが彼らの前に立てる定めは次のとおりである。あなたがヘブル人の奴隷を買う場合、彼は六年間、仕え、七年目には自由の身として無償で去ることができる。もし彼が独身で来たのなら、独身で去り、もし彼に妻があれば、その妻は彼とともに去ることができる。

 当時の農耕文化においては、町や商業などはなく、各人が独立した家計を持つことはできませんでした。その解決法が奴隷制度でありました。けれども、その制度の中、神ははっきりと奴隷への権利を保障し、ご自分のあわれみを示されました。まず、7年目に無償で去ることができます。主人は奴隷の生活すべてを世話しなければならず、主人が彼を買い取ったのですから、もし出て行きたいなら、お金を支払わなければいけません。ちょうど今なら、給料を前払いしてもらいながら、途中で退職することになります。けれども、神は無償で去らせなさい、と定められました。ですから、これは被雇用者に対する特別待遇ということになります。さらに、奴隷は、主人を去るときに、独身の者が無理やり結婚させられたり、妻がいる者が妻を奪われたりされることもないようにされました。

 もし彼の主人が彼に妻を与えて、妻が彼に男の子、または女の子を産んだのなら、この妻とその子どもたちは、その主人のものとなり、彼は独身で去らなければならない。

 これは、主人の権利を保護したものと言えましょう。主人は、生産性を上げるために家族を奴隷に与えたので、彼らがごっそりいなくなったら、大変なことにあります。それに、奴隷としても、他の主人を見つけるまで家族を養っていくことはできないのですから、家族の命も保証されます。

 しかし、もし、その奴隷が、『私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません。』と、はっきり言うなら、その主人は、彼を神のもとに連れて行き、戸または戸口の柱のところに連れて行き、彼の耳をきりで刺し通さなければならない。彼はいつまでも主人に仕えることができる。
当時も、イヤリングがあったようですね。奴隷は自分の意思で一生涯しもべになることができます。私たちクリスチャンも、同じではないでしょうか。自ら進んで、主を愛しているが故に、イエス・キリストのしもべとなりました。

2D 保護 7−11
 人が自分の娘を女奴隷として売るような場合、彼女は男奴隷が去る場合のように去ることはできない。

 
奴隷でも女奴隷の場合、さらに弱い立場に置かれます。そのため、男奴隷よりもさらに手厚い保護が設けられています。

 彼女がもし、彼女を自分のものにしようと定めた主人の気に入らなくなったときは、彼は彼女が贖い出されるようにしなければならない。彼は彼女を裏切ったのであるから、外国の民に売る権利はない。


 主人が結婚すると言う約束で、女を奴隷にした場合、途中で破棄することがあります。そのときは、彼女が彼女の親戚などにきちんと引き取られなければならず、また外国人の劣悪な環境のもとに送り込んではいけません。

 もし、彼が彼女を自分の息子のものとするなら、彼女を娘に関する定めによって、取り扱わなければならない。


 以前奴隷であったとうことで、さほど良い待遇をしなくても不平・不満を出さないかもしれませんが、そうした自由の乱用を禁じています。きちんと、自分の娘として定めを適用しなければいけません。

 もし彼が他の女をめとるなら、先の女への食べ物、着物、夫婦の務めを減らしてはならない。


 先の女がさげすまれるということが十分あり得ますが、それを戒めています。

 もし彼がこれら三つのことを彼女に行なわないなら、彼女は金を払わないで無償で去ることができる。

 特別な保護を受けて、他の主人を見つけることができます。今で言う、失業保険です。

2C 殺傷 21:12−36
 こうして奴隷と主人の関係についての定めを見ましたが、次は、法律としてもっとも基本的な者の一つである、殺傷事件についての定めです。

1D 殺人 12−17
 人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。

 基本的に、殺人罪は死刑です。今日、人権という言葉が間違って使われています。被害者の人権ではなく、加害者の人権を守ることに代わってしまいました。被害者の人権を守るために、その人権を侵すものに罰則が設けられていましたが、逆に加害者がやりたい放題している状態になっています。死刑制度は聖書的です。殺した者は殺されなければいけません。

 ただし、彼に殺意がなく、神が御手によって事を起こされた場合、わたしはあなたに彼ののがれる場所を指定しよう。


 これは事故ですね。間違って人が死んでしまった場合は、逃れの場所が指定されていました。

 しかし、人が、ほしいままに隣人を襲い、策略をめぐらして殺した場合、この者を、わたしの祭壇のところからでも連れ出して殺さなければならない。

 
計画的殺人は、何の例外もなく死刑に定められます。

 自分の父または母を打つ者は、必ず殺されなければならない。

 家庭内暴力は死刑です。

 人をさらった者は、その人を売っていても、自分の手もとに置いていても、必ず殺されなければならない。

 
誘拐も死刑です。

 自分の父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。

 
ののしるだけでも死刑です。これらから、父母を敬うことがどれほど大切なことかが分かります。

2D 傷害 18−27
 次は傷害事件についてです。人が争い、ひとりが石かこぶしで相手を打ち、その相手が死なないで床についた場合、もし再び起き上がり、杖によって、外を歩くようになれば、打った者は罰せられない。ただ彼が休んだ分を弁償し、彼が完全に直るようにしてやらなければならない。

 例えば、彼が月30万円の給料をもらっていて、3ヶ月間入院になったとします。入院費は50万円であったとします。そうしたら、傷害を引き起こした人は、30万かける3で90万、さらに入院費50万を足して、140万円支払わなければならないと言うものです。

 自分の男奴隷、あるいは女奴隷を杖で打ち、その場で死なせた場合、その者は必ず復讐されなければならない。ただし、もしその奴隷が一日か二日生きのびたなら、その者は復讐されない。奴隷は彼の財産だからである。


 古代、主人は、言い返す奴隷を殺す権利がありました。しかし、神は、それを認めず、生き残った場合のみ、いのちを生かす定めになさいました。

 人が争っていて、みごもった女に突き当たり、流産させるが、殺傷事故がない場合、彼はその女の夫が負わせるだけの罰金を必ず払わなければならない。その支払いは裁定による。しかし、殺傷事故があれば、いのちにはいのちを与えなければならない。目には目。歯には歯。手には手。足には足。やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷。

 この箇所は、よく引用される有名なところですが、文脈をはずして使われます。目には目。歯には歯、という定めは、実は、みごもった女に対する殺傷事故に対するものなのです。「流産」とありますが、これは必ずしもそうではありません。未熟児で産まれるという意味合いがあります。したがって、ここでは、母親やお腹の子どもが、怪我をしたり死んだりしたら、罰せられるというものです。胎児の目がつぶれて産まれたら、目をくりぬかなければいけません。手が折れていたら、手を折られます。死んでしまったら、その人は殺されます。したがって、神は、母親のお腹の子どもの権利までを守っていてくださっているのです。ですから中絶は、とんでもない重い罪です。中絶を行なう医師や母親は、必ず神のさばきに会います。

 自分の男奴隷の片目、あるいは女奴隷の片目を打ち、これをそこなった場合、その目の代償として、その奴隷を自由の身にしなければならない。また、自分の男奴隷の歯一本、あるいは女奴隷の歯一本を打ち落としたなら、その歯の代償として、その奴隷を自由の身にしなければならない。

 これは、仕事中に労災事故が発生して、その人がもう働けなくなったとき、その人を失業保険と医療費ともども払わなければならない、ということと同じです。

3D 動物 28−36
 そして次は、動物についての定めです。農耕社会に生きるイスラエルにとって、欠くことのできない定めです。牛が男または女を突いて殺した場合、その牛は必ず石で打ち殺さなければならない。その肉を食べてはならない。しかし、その牛の持ち主は無罪である。

 
動物も死刑になるということは面白いと思いますが、ここに神が生命を本当に尊んでおられることが分かります。人であろうと、動物であろうと死刑にすれば、もう決して人を殺すことはできないからです。こんなに単純な法律なのです。死ねば、もう他の人を殺すことはできません。

 しかし、もし、牛が以前から突くくせがあり、その持ち主が注意されていても、それを監視せず、その牛が男または女を殺したのなら、その牛は石で打ち殺し、その持ち主も殺されなければならない。

 今度は、持ち主も死刑です。

 もし彼に贖い金が課せられたなら、自分に課せられたものは何でも、自分のいのちの償いとして支払わなければならない。男の子を突いても、女の子を突いても、この規定のとおりに処理されなければならない。

 
死刑の代わりに、贖い金を支払うこともできたようです。

 もしその牛が、男奴隷、あるいは女奴隷を突いたなら、牛の持ち主はその奴隷の主人に銀貨三十シェケルを支払い、その牛は石で打ち殺されなければならない。

 ここでも、奴隷の権利が認められています。このように神は、身分や性の違いによって、その置かれた状況に合わせ、戒めの適用を少し変えておられます。

 そして次は、動物の殺傷事故についてです。井戸のふたをあけていたり、あるいは、井戸を掘って、それにふたをしないでいたりして、牛やろばがそこに落ち込んだ場合、その井戸の持ち主は金を支払って、その持ち主に償いをしなければならない。しかし、その死んだ家畜は彼のものとなる。

 
動物のいのちも、神は尊ばれましたが、人のいのちほどではありません。償い金だけで、死刑にはなりませんでした。なぜなら、人は神のかたちに造られたのであり、そのいのちは特別な存在だからです。動物実験をするとき、日本におけるものと欧米におけるものでは動物の扱い方が異なるという話を聞いたことがあります。日本のほうが残酷に取り扱っているとううことですが、おそらく、いのちに対する神への恐れが欧米諸国にはあるのでしょう。

 ある人の牛が、もうひとりの人の牛を突いて、その牛が死んだ場合、両者は生きている牛を売って、その金を分け、また死んだ牛も分けなければならない。しかし、その牛が以前から突くくせのあることがわかっていて、その持ち主が監視をしなかったのなら、その人は必ず牛は牛で償わなければならない。しかし、その死んだ牛は自分のものとなる。
動物と動物の間における、殺傷事故が取り扱われていました。

3C 財産 22:1−15
 そして次は、人の財産についての事件が取り扱われています。先ほどは、「盗んではならない」という戒めがありました。

1D 損害 1−6
 牛とか羊を盗み、これを殺したり、これを売ったりした場合、牛一頭を牛五頭で、羊一頭を羊四頭で償わなければならない。・・もし、盗人が、抜け穴を掘って押し入るところを見つけられ、打たれて死んだなら、血の罪は打った者にはない。もし、日が上っていれば、血の罪は打った者にある。・・盗みをした者は必ず償いをしなければならない。もし彼が何も持っていないなら、盗んだ物のために、彼自身が売られなければならない。もし盗んだ物が、牛でも、ろばでも、羊でも、生きたままで彼の手の中にあるのが確かに見つかったなら、それを二倍にして償わなければならない。

 
家畜を盗んだ場合、その損害賠償は盗んだものよりもさらに多くなければいけませんでした。それは、盗みな重大な罪であることを示すためです。

 家畜に畑やぶどう畑の物を食べさせるとき、その家畜を放ち、それが他人の畑の物を食い荒らした場合、その人は自分の畑の最良の物と、ぶどう畑の最良の物とをもって、償いをしなければならない。火災を起こし、それがいばらに燃え移り、そのため積み上げた穀物の束、あるいは立穂、あるいは畑を焼き尽くした場合、出火させた者は、必ず償いをしなければならない。

 財産でも、人の畑に対する損害賠償です。

2D 貸借 7−15
 そして次は、貸借のさいに起こる事件が取り扱われています。金銭あるいは物品を、保管のために隣人に預け、それがその人の家から盗まれた場合、もし、その盗人が見つかったなら、盗人はそれを二倍にして償わなければならない。もし、盗人が見つからないなら、その家の主人は神の前に出て、彼が隣人の財産に絶対に手をかけなかったことを誓わなければならない。

 借りたものが盗まれることは、十分考えられるシナリオですね。この際、神の前に出なければならない、とありますが、ヘブル語はエロヒムであり、裁判官と訳すことができます。裁判官は、人の運命を決定づける神の代理人の役割を果たすからです。イエスは、ユダヤ人に、「あなたがたの律法に、『わたしは言った、あなたがたは神である。』と書いてはありませんか。(ヨハネ10:34)」と言われましたが、それは裁判官のことです。

 すべての横領事件に際し、牛でも、ろばでも、羊でも、着物でも、どんな紛失物でも、一方が、『それは自分のものだ。』と言う場合、その双方の言い分を、神の前に持ち出さなければならない。そして、神が罪に定めた者は、それを二倍にして相手に償わなければならない。


 自分の持っている物が、「これは私のものだ。おまえ、盗んだな。」という人が現われた場合のことです。裁判官の所に行き、盗んだと定められたら、二倍にして償わなければいけません。

 ろばでも、牛でも、羊でも、またどんな家畜でも、その番をしてもらうために隣人に預け、それが死ぬとか、傷つくとか、奪い去られるとかして、目撃者がいない場合、隣人の財産に絶対に手をかけなかったという主への誓いが、双方の間に、なければならない。その持ち主がこれを受け入れるなら、隣人は償いをする必要はない。しかし、もしそれが確かに自分のところから盗まれたのなら、その持ち主に償いをしなければならない。もしそれが確かに野獣に裂き殺されたのなら、証拠としてそれを持って行かなければならない。裂き殺されたものの償いをする必要はない。人が隣人から家畜を借り、それが傷つくか、死ぬかして、その持ち主がいっしょにいなかった場合は、必ず償いをしなければならない。もし、持ち主がいっしょにいたなら、償いをする必要はない。しかし、それが賃借りの物であったなら、借り賃は払わなければならない。

 
これは、家畜の貸借の際に起こる事件についての定めです。基本的に物品のときと同じ原則が適用されています。

4C 道徳 22:16−31
 そして次は、道徳についての定めです。

1D 性 16−20
 まだ婚約していない処女をいざない、彼女と寝た場合は、その人は必ず花嫁料を払って、彼女を自分の妻としなければならない。もし、その父が彼女をその人に与えることを堅く拒むなら、その人は処女のために定められた花嫁料に相当する銀を支払わなければならない。

 婚前交渉に対する定めですが、基本的にその人を妻としなければなりません。神はこのように、婚外交渉だけではなく婚前交渉についても罰を与えておられます。現在、結婚外の性的関係が当たり前にされている中、そのような者たちが神のさばきがあることを告げなければいけません。

 呪術を行なう女は生かしておいてはならない。

 
これも世間でははやっていることですが、死に値する罪です。神の霊ではなく、悪霊との交わることになるからです。占い、オカルト、タロットなどは必ず神の怒りを招きます。

 獣と寝る者はすべて、必ず殺されなければならない。
獣姦は、カナン人が行なっていた習慣でした。現代の先進国にも、この行ないをしている者たちがいます。これも必ず死刑です。

 ただ主ひとりのほかに、ほかの神々にいけにえをささげる者は、聖絶しなければならない。


 性的な罪とならんで、偶像礼拝が述べられていますが、それは深く関わりがあるからです。偶像礼拝の多くが、性欲を満たすために造られたものが多いからです。日本では性の道徳意識があまりにも低いですが、それは偶像礼拝を行なっている歴史が長いことにも関わりがあるでしょう。

2D 弱者 21−27
 そして次に、弱者に対する定めが書かれています。在留異国人を苦しめてはならない。しいたげてはならない。あなたがたも、かつてはエジプトの国で、在留異国人であったからである。

 外国人を守るための定めが書かれています。イスラエルは、エジプトにおいて外国人でした。ですから、その痛みと苦しみをよく知っていました。外国に住んでみないとわからない苦しみがあります。私たちも、日本に住む外国人に対して、特別な配慮が必要でありましょう。

 すべてのやもめ、またはみなしごを悩ませてはならない。もしあなたが彼らをひどく悩ませ、彼らがわたしに向かって切に叫ぶなら、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる。わたしの怒りは燃え上がり、わたしは剣をもってあなたがたを殺す。あなたがたの妻はやもめとなり、あなたがたの子どもはみなしごとなる。

 当時は、母子手当てやその他の福祉制度がなかったので、やもめになることはものすごい苦境に立たされることでした。もちろんみなし子も同じです。そうした人々を利用して、金をまきあげる者には、神の憤りと怒りがその者に下ります。

 わたしの民のひとりで、あなたのところにいる貧しい者に金を貸すのなら、彼に対して金貸しのようであってはならない。彼から利息を取ってはならない。もし、隣人の着る物を質に取るようなことをするのなら、日没までにそれを返さなければならない。なぜなら、それは彼のただ一つのおおい、彼の身に着ける着物であるから。彼はほかに何を着て寝ることができよう。彼がわたしに向かって叫ぶとき、わたしはそれを聞き入れる。わたしは情け深いから。

 貧しい人に対する定めです。聖書全体を通して、貧しい人に対する戒めが書かれています。クリスチャンは、福音のことばを語るだけではなく、実際に困っている人に手助けする義務も負っています。

3D 神 28−31
 次からは、神についての定めです。神をのろってはならない。また、民の上に立つ者をのろってはならない。

 
これはもしかしたら、神ではなく、裁判官と訳すことができるかもしれません。そうなると、裁判官や王など、上に立つ人をのろってはいけないとうことになります。これは新約でも同じです。権威を持つ人々を尊び、その人たちのために祈るように教えられています。

 あなたの豊かな産物と、あふれる酒とのささげ物を、遅らせてはならない。

 これは、神に対するささげ物です。後にしてはいけません。残り物をささげてはいけません。いつも最上のものをささげます。私たちに給料が与えられたとき、まず考えなければいけないのは献金です。後にするのではなくて、収入があるときはいつも、神にささげることを念頭に入れましょう。

 あなたの息子のうち初子は、わたしにささげなければならない。あなたの牛と羊についても同様にしなければならない。七日間、その母親のそばに置き、八日目にわたしに、ささげなければならない。


 息子も家畜も、ささげます。これも大切なことです。親は、自分の子どもを自分のものと思ってはいけません。神から一時的に授かった、賜物なのです。したがって、一個の人格ある存在として育て、主にあって訓練し、大人になって結婚するのを待ちます。彼らは親から離れるべき存在であります。

 あなたがたは、わたしの聖なる民でなければならない。野で獣に裂き殺されたものの肉を食べてはならない。それは、犬に投げ与えなければならない。

 
死体は汚れたものとされました。犬に投げ与えるとありますが、聖書では犬は非常に否定的な意味で使われていることをおぼえておくと良いでしょう。パウロは、律法主義者のことをこう言っています。「どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください。(ピリピ3:2)

5C 裁判 23:1−8
 次は、真実な裁判についての定めです。偽りのうわさを言いふらしてはならない。悪者と組んで、悪意ある証人となってはならない。悪を行なう権力者の側に立ってはならない。訴訟にあたっては、権力者にかたよって、不当な証言をしてはならない。

 証人は必ず真実を語らなければいけません。悪意を持ったり、権力者側についたりしては決していけません。

 また、その訴訟において、貧しい人を特に重んじてもいけない。

 
逆に、貧しいからと言って、重んじてもいけません。裁判では正義と公正が第一優先にならなければならないからです。

 あなたの敵の牛とか、ろばで、迷っているのに出会った場合、必ずそれを彼のところに返さなければならない。あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない。


 自分の嫌いな人のものが、大変なことになっているとき、仕返しをするのではなくて親切にしなければなりません。イエスも、敵を愛し、敵を祝福しなさいと命じられました。

 あなたの貧しい兄弟が訴えられた場合、裁判を曲げてはならない。偽りの告訴から遠ざからなければならない。罪のない者、正しい者を殺してはならない。わたしは悪者を正しいと宣告することはしないからである。わいろを取ってはならない。わいろは聡明な人を、盲目にし、正しい人の言い分をゆがめるからである。

 神は裁判において、真実を求めておられます。

2B 国民 23:9−33
 こうして、個人の事柄における定めが述べられていました。次から、国民全体で行なわれる定めが書かれています。最初は、安息についてです。

1C 安息と祭り 9−20
1D 安息 9−13
 あなたは在留異国人をしいたげてはならない。あなたがたは、かつてエジプトの国で在留異国人であったので、在留異国人の心をあなたがた自身がよく知っているからである。六年間は、地に種を蒔き、収穫をしなければならない。七年目には、その土地をそのままにしておき、休ませなければならない。民の貧しい人々に、食べさせ、その残りを野の獣に食べさせなければならない。ぶどう畑も、オリーブ畑も、同様にしなければならない。

 
土地を7年おきに休ませなければいけません。これは土地そのものにも益をもたらしますが、それ以上に、ここでは在留異国人や貧しい人への配慮に基づくことです。

 六日間は自分の仕事をし、七日目は休まなければならない。あなたの牛やろばが休み、あなたの女奴隷の子や在留異国人に息をつかせるためである。

 
安息の原則は、すべての生き物に当てはまります。牛やろば、女奴隷や在留異国人にも当てはまります。ですから、私たちが週に一回休むのは、神が与えてくださった大原則なのです。聖書も神も知らない日本人が、今、こんなにも病んでしまったのは、この原則を無視した結果でしょう。会社の奴隷となり、ある者は過労死になり、ある者は離婚しています。

 わたしがあなたがたに言ったすべてのことに心を留めなければならない。ほかの神々の名を口にしてはならない。これがあなたの口から聞こえてはならない。

 
口にもしてはいけない、ということです。これは私たちにも当てはまります。パウロが言いました。「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、ぶだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。(エペソ4:3)

2D 祭り 14−20
 安息に引き続き、祭りのついての定めが書かれています。年に三度、わたしのために祭りを行なわなければならない。

 
この祭りについては、とくにレビ記23章に詳しく書かれています。3つの祭りとは、過越の祭りと、五旬節と、仮庵の祭りです。

 種を入れないパンの祭りを守らなければならない。わたしが命じたとおり、アビブの月の定められた時に、七日間、種を入れないパンを食べなければならない。それは、その月にあなたがエジプトから出たからである。だれも、何も持たずにわたしの前に出てはならない。


 これは過越の祭りとともに行なわれます。私たちは出エジプト記12章でこのことを詳しく学びました。

 また、あなたが畑に種を蒔いて得た勤労の初穂の刈り入れの祭りと、年の終わりにはあなたの勤労の実を畑から取り入れる収穫祭を行なわなければならない。

 
初穂の祭りはペンテコステのことであり、収穫祭は仮庵の祭りのことです。

 年に三度、男子はみな、あなたの主、主の前に出なければならない。

 
20歳以上の男は、この3つの祭りに参加するため、エルサレムにまで赴いていました。

 次に、祭りのときの注意事項が書かれています。わたしのいけにえの血を、種を入れたパンに添えてささげてはならない。また、わたしの祭りの脂肪を、朝まで残しておいてはならない。

 
血も脂肪も、主のものであります。主のものを取ってはいけません。

 あなたの土地の初穂の最上のものを、あなたの神、主の家に持って来なければならない。子やぎを、その母親の乳で煮てはならない。

 
カナン人の中に、母親の乳で子やぎを煮る、収穫の祭りがありました。そうした異邦人のならわしを真似てはいけないことが書かれています。私たちも、このことに気をつけるべきでしょう。教会で、神道に由来をもつ地鎮祭を行なっています。また七五三と同じ時期に献児式が行なわれ、正月元旦には初詣にちなんで元旦礼拝があります。私個人は、これらはみな、今読んだ箇所にあるように、異教のならわしを真似た行為になる危険性があると思っています。私たちはクリスチャンであることを世に示さなければなりません。正月であろうと、お盆であろうと礼拝には参加すべきであり、その一貫性のある生活をすることで、自分たちは違うことを示さなければならないのです。

2C 敵国 20−33
 そして次から、約束に地に向かうさいの神の約束と、そこに住む敵に対する対応の仕方について述べられています。

1D 主の使い 20−26
 見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう。あなたは、その者に心を留め、御声に聞き従いなさい。決して、その者にそむいてはならない。わたしの名がその者のうちにあるので、その者はあなたがたのそむきの罪を赦さないからである。

 主の使いが前に使わされます。この方は紛れもなく、私たちの主イエス・キリストです。この方の声にしたがって、彼らは約束の地までの旅を続けます。

 しかし、もし御声に確かに聞き従い、わたしが告げることをことごとく行なうなら、わたしはあなたの敵には敵となり、あなたの仇には仇となろう。わたしの使いがあなたの前を行き、あなたをエモリ人、ヘテ人、ペリジ人、カナン人、ヒビ人、エブス人のところに導き行くとき、わたしは彼らを消し去ろう。


 彼らが御声に聞き従うとき、敵がことごとく負けて行く約束が与えられています。敵に勝つ方法は、自分たちの戦術を磨き上げることではなく、ただ御声に聞き従うことだったのです。私たちはどうでしょうか。クリスチャン生活に勝利が与えられたい、教会が成長して多くの人が来てほしいと願いますが、それは、何らかの活動をしたらもたらされるのではありません。すべては、自分が神とどのような関係にいるかに関わってくるのです。チャック牧師は、17年間、100人にも足らない教会の牧師でした。今や、2万人以上、そして枝教会は800以上あります。それが起こったのは、ただチャックが、神との関係が律法ではなく、愛であることに気づいたからなのです。律法によらず、愛にもとづいて神と関わりを持ち始めたとき、御力が現われたのです。だから、私たちがどこに立っているのか、私たちが何を頼りにしているのか、神との関係がどうなっているのか、そうしたものがすべてを勝利に至らせる鍵になります。

 あなたは彼らの神々を拝んではならない。仕えてはならない。また、彼らの風習にならってはならない。これらを徹底的に打ちこわし、その石の柱を粉々に打ち砕かなければならない。あなたがたの神、主に仕えなさい。

 
神の命令は、神々をことごとく打ち壊すことでした。妥協があってはなりません。ことごとく滅ぼすのです。ここにも、クリスチャン生活のなくてはならない真理が現われています。肉の行ないをことごとく殺していくということです。私たちの敗北は、自分でなんとか神の戒めを行なおうとすることにあります。自分の肉で神を喜ばせようとすることろにあります。しかし、肉は殺さなければいけません。私たちではなく、御霊に従わなければいけません。御霊によって、はじめて神の命令に従うことができるのです。そして、次に主の約束が書かれています。

 主はあなたのパンと水を祝福してくださる。わたしはあなたの間から病気を除き去ろう。あなたの国のうちには流産する者も、不妊の者もいなくなり、わたしはあなたの日数を満たそう。

2D 主への恐れ 27−33
 わたしは、わたしへの恐れをあなたの先に遣わし、あなたがそこにはいって行く民のすべてをかき乱し、あなたのすべての敵があなたに背を見せるようにしよう。わたしは、また、くまばちをあなたの先に遣わそう。これが、ヒビ人、カナン人、ヘテ人を、あなたの前から追い払おう。

 彼らが、イスラエルが来る前に前もって、恐れるようになります。ヨシュア記を見ると、イスラエルが一つの町を攻める前に、彼らが恐れおののいている様子が描かれています。

 しかし、わたしは彼らを一年のうちに、あなたの前から追い払うのではない。土地が荒れ果て、野の獣が増して、あなたを害することのないためである。あなたがふえ広がって、この地を相続地とするようになるまで、わたしは徐々に彼らをあなたの前から追い払おう。わたしは、あなたの領土を、葦の海からペリシテ人の海に至るまで、また、荒野からユーフラテス川に至るまでとする。それはその地に住んでいる者たちをわたしがあなたの手に渡し、あなたが彼らをあなたの前から追い払うからである。


 アブラハムに約束された土地が、今ここで再び述べられています。エジプトの川からユーフラテスに至るまでの土地が与えられます。


 そして、最後に警告が述べられています。あなたは、彼らや、彼らの神々と契約を結んではならない。彼らは、あなたの国に住んではならない。彼らがあなたに、わたしに対する罪を犯させることのないためである。それがあなたにとってわなとなるので、あなたが彼らの神々に仕えるかもしれないからである。

 
異邦の神々とは、一切の妥協が許されません。パウロは言いました。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはなりません。正義と不法に、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルに何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。(2コリント6:14−15)」ほんの少しの妥協が、私たちをとりこにします。思いの中で、神の喜ばれないことが浮かんできた時、すぐにそれをキリストのところに持っていく必要があります。たとえどんな小さなことでも、それは大きくなり、わなとなってしまうからです。イスラエルは、カナン人の全部を殺すことをしませんでした。そのため、早いうちに、彼らは偶像の神々を拝み始めたのです。

 こうして主の聖めについて学びました。神の戒めと定めによって、神がどのように聖い方か、またその神とどのように歩まなければいけないかがわかりました。まず、それは神の御声を聞くことから始まります。モーセのように神をしっかりと見てください。そして、自分が死に値する罪人であることを認めてください。そのとき、キリストの十字架と恵みを深く知ることができます。


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