出エジプト記21−22章前半 「神の公正な物差し パートT」


アウトライン

1A 個人に対する定め 21:1−23:9
  1B 奴隷 21:1−11
    1C 権利 1−6
    2C 保護 7−11
  2B 殺傷 21:12−36
    1C 殺人 12−17
    2C 傷害 18−27
    3C 動物 28−36
  3B 財産 22:1−15
    1C 損害 1−6
    2C 貸借 7−15
  4B 道徳 22:16−31
    1C 性 16−20
    2C 弱者 21−27
    3C 神 28−31
  5B 裁判 23:1−8
2A 国民に対する定め 23:9−33
  1B 安息と祭り 9−20
    1C 安息 9−13
    2C 祭り 14−20
  2B 敵国 21−33
    1C 主の使い 20−26
    2C 主への恐れ 27−33

本文

 出エジプト記21章を開いてください。今日から学ぶ箇所は、法廷における法律、聖書的な言い方では「定め」についてのことです。21章から23章までに書かれています。時間の関係上、3章すべてを網羅することはできないと思いますが、この三章のメッセージ題を、「神の公正な物差し」にしたいと思います。

 私たちは前回、十戒のところを学びました。そしてこの三章の部分では、その十の戒めが具体的に、実際面において適用されていくのを見ます。聞くところによると、現在の英米法はここの出エジプト記21章から23章までを模範にして作成されたようです。私たちがしばしば声を大にして訴える「人権」という言葉は、実は聖書の戒めから始まっていることを、今から読むところから分かってくるでしょう。前回、神は聖なる方であり、律法は聖なるものであることを話しましたが、律法のもう一つのテーマ、「愛」についても学ぶことができます。

1A 個人に対する定め 21:1−23:9
1B 奴隷 21:1−11
1C 権利 1−6
21:1
あなたが彼らの前に立てる定めは次のとおりである。

 今話しましたように、判事が法律によって判決を下すための物差しを「定め」と聖書では言います。今、主は、祭壇についての戒めをモーセに与えられた後に、続けて定めについてお語りになります。

21:2 あなたがヘブル人の奴隷を買う場合、彼は六年間、仕え、七年目には自由の身として無償で去ることができる。

 定めの初めにある言葉が、奴隷についてであり、奴隷の解放についてであることは興味深いことです。主は後で、在留異国人をしいたげてはならない、という命令をされますが、その理由が「あなたがたは、かつてエジプトの国で在留異国人であったので、在留異国人の心をあなたがた自身がよく知っているからである。(23:9」とあります。イスラエルは奴隷であったので、奴隷状態のままに居させることを、彼ら以上に主ご自身が願っておられました。

 奴隷制度は現在、世界でもごく一部の地域を除いて存在しませんが、けれども古代の農耕文化では必要なものでした。町や商業などはなく、各人が独立した家計を持つことはできませんでした。その解決法が奴隷制度でありました。

 奴隷は七年目に無償で去ることができます。主人は奴隷の生活すべてを世話しなければならず、主人が彼を買い取ったのですから、もし出て行きたいなら、本来ならお金を支払わなければいけません。ちょうど今の状況なら、給料を前払いしてもらいながら、途中で退職することになります。けれども神は、イスラエルを解放したいという願いから、無償で去らせなさいと定められています。

21:3 もし彼が独身で来たのなら、独身で去り、もし彼に妻があれば、その妻は彼とともに去ることができる。

 奴隷は、主人を去るときに、独身の者が無理やり結婚させられたり、妻がいる者が妻を奪われたりされることもないようにされました。

21:4 もし彼の主人が彼に妻を与えて、妻が彼に男の子、または女の子を産んだのなら、この妻とその子どもたちは、その主人のものとなり、彼は独身で去らなければならない。

 これは、主人の権利を保護したものと言えましょう。主人は、生産性を上げるために家族を奴隷に与えたので、彼らがごっそりいなくなったら、大変なことにあります。それに、奴隷としても、他の主人を見つけるまで家族を養っていくことはできないのですから、家族の命も保証されます。

21:5 しかし、もし、その奴隷が、『私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません。』と、はっきり言うなら、21:6 その主人は、彼を神のもとに連れて行き、戸または戸口の柱のところに連れて行き、彼の耳をきりで刺し通さなければならない。彼はいつまでも主人に仕えることができる。

 奴隷が主人や家族への愛のゆえに、一生涯奴隷になることが書かれています。そして当時もイヤリングがあったようです、自発的に奴隷になったことの印として、耳に穴を開けます。この愛に基づく主人と奴隷の関係は、まさに主イエス・キリストと私たちとの関係であると言えるでしょう。使徒たちは、自分たちのことを、主イエス・キリストのしもべ、あるいは奴隷と言って、はばかりませんでした。そしてパウロはガラテヤ書にて、ここの聖書の箇所を思いながらなのでしょうか、「私は、この身に、イエスの焼き印を帯びている(6:17」と言っています。パウロはむちで打たれたり、石打ちの刑を受けたりしましたが、それが、自分がキリスト・イエスの奴隷であることを印である、と言っています。

 イエスは、私たちを罪の奴隷から解放して、自由人にしてくださいました。キリストにあって、私たちは罪に支配されることがなく、また律法の奴隷になる必要もなく、自由でいることができます。けれどもこの自由を、こんなにも愛してくださった神の愛への応答として、キリストにすべてをささげる、自発的なしもべになることができます。ですから耳をきりで刺し通された奴隷は、私たちの姿でもあるのです。

2C 保護 7−11
21:7 人が自分の娘を女奴隷として売るような場合、彼女は男奴隷が去る場合のように去ることはできない。

 奴隷でも女奴隷の場合、さらに弱い立場に置かれます。そのため、男奴隷よりもさらに手厚い保護が設けられています。

21:8 彼女がもし、彼女を自分のものにしようと定めた主人の気に入らなくなったときは、彼は彼女が贖い出されるようにしなければならない。彼は彼女を裏切ったのであるから、外国の民に売る権利はない。

 主人が結婚すると言う約束で、女を奴隷にした場合、途中で破棄することがあります。そのときは、彼女が彼女の親戚などにきちんと引き取られなければいけません。「贖い出す」というのは、家族や親戚が彼女を買い戻すことを意味します。そして、外国人の奴隷にすることを決してしてはならない、とあります。イスラエル人が外国人の奴隷であったのですから、これがもっとも神にとって忌み嫌うことだったのでしょう。

21:9 もし、彼が彼女を自分の息子のものとするなら、彼女を娘に関する定めによって、取り扱わなければならない。

 以前奴隷であったとうことで、さほど良い待遇をしなくても不平・不満を出さないかもしれませんが、そうした自由の乱用を禁じています。きちんと、自分の娘として定めを適用しなければいけません。

21:10 もし彼が他の女をめとるなら、先の女への食べ物、着物、夫婦の務めを減らしてはならない。21:11 もし彼がこれら三つのことを彼女に行なわないなら、彼女は金を払わないで無償で去ることができる。

 昔は一夫多妻制が許されていました。女奴隷が主人あるいは主人の息子の妻になって、彼が後でさらに妻を得たときに、彼女がさげすまれる可能性が十分あります。そうならないように、戒めています。

 このように奴隷の解放だけでなく、女性の解放も神は定めておられます。女性への差別をなくそうとする人々が現在もいますが、神の定めの中にもうすでにその考えはあるのです。

2B 殺傷 21:12−36
 そして12節からは、殺傷事件についての定めです。十戒の中に、「殺してはいけない」という戒めがありましたね。これを実際生活の中でも生かすために、神は殺人や傷害に対する罰を定めておられます。

1C 殺人 12−17
21:12
人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。

 殺人についての戒めは、はるか前、ノアの時に神はすでに与えられていました。カインがアベルを殺したその罪のことをおそらくは思いながら、主は洪水後のノアに対して、「人の血を流す者は、人によって、血を流される。(創世9:6」と言われました。

 前回お話しましたが、「殺してはならない」という箇所から、死刑制度反対を唱える人や、また戦争反対を唱える人たちがいます。けれども、それはここの十戒を法として適用するところで、その解釈は正反対であることがお分かりになると思います。死刑があるのは、殺人を犯す人がもう人殺しをすることができないようにするための処置であり、死刑は人殺しを止めさせるために設けられているものあり、聖書的です。

21:13 ただし、彼に殺意がなく、神が御手によって事を起こされた場合、わたしはあなたに彼ののがれる場所を指定しよう。

 殺意がない場合の殺人は、逆に殺されないように、その加害者を守るように神はしてくださっています。具体的には「逃れの町」が指定されますが、殺意のない事故死によって、その事故をもたらした人が、死んだ人の家族や親戚の復讐によって殺されることがないようにしています。

21:14 しかし、人が、ほしいままに隣人を襲い、策略をめぐらして殺した場合、この者を、わたしの祭壇のところからでも連れ出して殺さなければならない。

 計画的殺人は何の例外もなく、死刑に定められます。祭壇のところにいてもです。思い出すのは、兄弟と敵対しているときに、祭壇への供え物を持っていても、それを下ろして、兄弟と仲直りしなさい、とイエスさまは言われたところです。礼拝行為が、神の刑罰を免除することはないことを意味しています。

21:15 自分の父または母を打つ者は、必ず殺されなければならない。

 これは、「あなたの父と母を敬え」という第五の戒めについての定めです。親に暴力を振るう子ども、または親が老いて、老いた親に暴力をふるう息子や娘は、死刑に定められます。

21:16 人をさらった者は、その人を売っていても、自分の手もとに置いていても、必ず殺されなければならない。

 誘拐事件です。誘拐は死刑に定められます。

21:17 自分の父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。

 反抗して親を罵倒する子は死刑になります。かなり厳しい処置なのかもしれませんが、現在忘れられている価値観です。大きな罪である事が忘れられています。

2C 傷害 18−27
 次は傷害事件についての定めです。死に至らない場合です。21:18 人が争い、ひとりが石かこぶしで相手を打ち、その相手が死なないで床についた場合、21:19 もし再び起き上がり、杖によって、外を歩くようになれば、打った者は罰せられない。ただ彼が休んだ分を弁償し、彼が完全に直るようにしてやらなければならない。

 例えば、彼が月30万円の給料をもらっていて、3ヶ月間入院になったとします。入院費は50万円であったとします。そうしたら、傷害を引き起こした人は、30万かける3で90万、さらに入院費50万を足して、140万円支払わなければならないと言うものです。

21:20 自分の男奴隷、あるいは女奴隷を杖で打ち、その場で死なせた場合、その者は必ず復讐されなければならない。

 古代は、主人が奴隷を殺しても、財産なのだから何の罪にも問われませんでした。けれども聖書の中では、奴隷も人間です。主人と奴隷の関係であっても、殺人は殺人です。

21:21 ただし、もしその奴隷が一日か二日生きのびたなら、その者は復讐されない。奴隷は彼の財産だからである。

 なぜこの場合は殺されないのかは、先に読んだところがヒントになります。つまり、殺意を持って打ち叩いたのか、そうでないかが焦点です。一日、二日生きのびているのならば、主人は殺すつもりで叩いたのではないのが分かります。それで復讐されることはありません。

21:22 人が争っていて、みごもった女に突き当たり、流産させるが、殺傷事故がない場合、彼はその女の夫が負わせるだけの罰金を必ず払わなければならない。その支払いは裁定による。

 ここの「流産」は、早産という意味です。つまり、早期の未熟児で生まれることも含まれます。そのさい、殺傷はありませんから、罰金のみで済みます。

21:23 しかし、殺傷事故があれば、いのちにはいのちを与えなければならない。21:24 目には目。歯には歯。手には手。足には足。21:25 やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷。

 有名な「目には目、歯には歯」の箇所です。「報い」あるいは「報復」の原則がここにはあります。行なったその行ないに応じた報いを受けます。これは旧約だけではなく新約にも、全体に貫かれた教えです。キリストが十字架の上で死ななければいけなかったのも、私たちが死に値する罪を犯したからであります。

 私たちは、「敵を愛しなさい」というイエスさまの戒めを思い出しますね。もちろんキリストの弟子になるに当たって、罪の赦しを受けた者として、自分に対して罪を犯す人々を赦さなければいけません。復讐したい思いや苦みなどは、キリストのうちにある者として捨て去らなければいけません。主が十字架の上で、ご自分を十字架につけた者どもに対して、「彼らをお赦しください」と祈られました。

 しかし、それだからといって、神の正義がなくなったのではありません。罪に対する報酬は死です。キリスト者は罪を赦しますが、その祈りによる神の和解の呼びかけに、その人が応じなければ、その人は必ず死ぬのです。神は罪人をさばかれる方ですが、罪人が滅びるのを望まれず、悲しんでおられます。私たちも、人々のために祈るとき、その人の最善を祈りますが、その人が罪を離れて、神に立ち返ることを祈るのです。正義と愛はこのようにして共存しています。

21:26 自分の男奴隷の片目、あるいは女奴隷の片目を打ち、これをそこなった場合、その目の代償として、その奴隷を自由の身にしなければならない。21:27 また、自分の男奴隷の歯一本、あるいは女奴隷の歯一本を打ち落としたなら、その歯の代償として、その奴隷を自由の身にしなければならない。

 今の目には目、歯には歯の定めの具体的適用です。奴隷に対して行なった仕打ちを、主人がそのまま受けることはないですが、神の目には奴隷も人間であり、尊厳があります。たった歯一本でも、自由にしてあげなければいけません。これを現代版に直すと、仕事中に労災事故が発生して、その人がもう働けなくなったとき、その人に失業保険と医療費ともども払わなければならない、ということです。

3C 動物 28−36
 次は人間ではなく、動物が引き起こす殺傷事件についての定めです。21:28 牛が男または女を突いて殺した場合、その牛は必ず石で打ち殺さなければならない。その肉を食べてはならない。しかし、その牛の持ち主は無罪である。

 動物も死刑になりますが、ここにも神が生命を本当に尊んでおられることが分かります。人であろうと、動物であろうと死刑にすれば、もう決して人を殺すことはできないからです。

21:29 しかし、もし、牛が以前から突くくせがあり、その持ち主が注意されていても、それを監視せず、その牛が男または女を殺したのなら、その牛は石で打ち殺し、その持ち主も殺されなければならない。

 ここでは持ち主の死刑です。

21:30 もし彼に贖い金が課せられたなら、自分に課せられたものは何でも、自分のいのちの償いとして支払わなければならない。

 罰金による処理もできました。

21:31 男の子を突いても、女の子を突いても、この規定のとおりに処理されなければならない。

 たとえ子供でも、同じように定めは適用されます。ここに再び神が、社会的弱者の人権と尊厳を定めておられることが分かります。奴隷、女性、子供みな、神によって守られています。

21:32 もしその牛が、男奴隷、あるいは女奴隷を突いたなら、牛の持ち主はその奴隷の主人に銀貨三十シェケルを支払い、その牛は石で打ち殺されなければならない。

 ここの罰金、銀貨三十シュケルですが、興味深い額です。なぜなら、イスカリオテのユダが祭司から受け取った金額が銀貨三十シュケルだったからです。

21:33 井戸のふたをあけていたり、あるいは、井戸を掘って、それにふたをしないでいたりして、牛やろばがそこに落ち込んだ場合、21:34 その井戸の持ち主は金を支払って、その持ち主に償いをしなければならない。しかし、その死んだ家畜は彼のものとなる。

 動物が死んだとき、その動物の尊厳も認められています。人間のように殺されることはありませんが、賠償金を支払わなければいけません。

21:35 ある人の牛が、もうひとりの人の牛を突いて、その牛が死んだ場合、両者は生きている牛を売って、その金を分け、また死んだ牛も分けなければならない。21:36 しかし、その牛が以前から突くくせのあることがわかっていて、その持ち主が監視をしなかったのなら、その人は必ず牛は牛で償わなければならない。しかし、その死んだ牛は自分のものとなる。

 ここでは、動物と動物の間にある殺傷事件です。持ち主の監督いかんによって、その後の処理が変わってきます。

3B 財産 22:1−15
 22章1節からは、財産についての定めが書かれています。「盗んではならない」の戒めを実際面でどのようにすればよいか、定められています。

1C 損害 1−6
22:1
牛とか羊を盗み、これを殺したり、これを売ったりした場合、牛一頭を牛五頭で、羊一頭を羊四頭で償わなければならない。

 盗んだ物は、その分を返せば良いだけでなく、その五倍または四倍をもって返さなければいけません。それは、盗むことが単なる物が他の人に移動することではなく、もっと大切なこと、つまり、霊的なこと、精神的なことに関わってくるからです。盗まれた人ならこのことが理解できるでしょう。自分のものが取られるのは、その所持品以上に、神によって任された自分の管理が侵されたのと同じだからです。これを回復するには、数倍の賠償が必要になります。

22:2 ・・もし、盗人が、抜け穴を掘って押し入るところを見つけられ、打たれて死んだなら、血の罪は打った者にはない。22:3 もし、日が上っていれば、血の罪は打った者にある。・・盗みをした者は必ず償いをしなければならない。もし彼が何も持っていないなら、盗んだ物のために、彼自身が売られなければならない。

 盗人を殺しても、それは自衛の方法として赦されます。けれども、もっともな理由がなければいけません。白昼の中で殺したら、それは自分の所持品を守る以上に、その人が殺意をもって殺したとみなされます。

 そして盗んだ物のために、自分自身が売られなければいけないとありますが、これは労働で返済する、ということです。

22:4 もし盗んだ物が、牛でも、ろばでも、羊でも、生きたままで彼の手の中にあるのが確かに見つかったなら、それを二倍にして償わなければならない。

 先ほどの家畜を盗んだときと同じように、償いは単に盗んだ物だけでなく、それ以上のものが要求されます。

22:5 家畜に畑やぶどう畑の物を食べさせるとき、その家畜を放ち、それが他人の畑の物を食い荒らした場合、その人は自分の畑の最良の物と、ぶどう畑の最良の物とをもって、償いをしなければならない。

 損害を与えるのも、盗むことになります。

22:6 火災を起こし、それがいばらに燃え移り、そのため積み上げた穀物の束、あるいは立穂、あるいは畑を焼き尽くした場合、出火させた者は、必ず償いをしなければならない。

 放火も同じく盗むことです。

2C 貸借 7−15
22:7 金銭あるいは物品を、保管のために隣人に預け、それがその人の家から盗まれた場合、もし、その盗人が見つかったなら、盗人はそれを二倍にして償わなければならない。22:8 もし、盗人が見つからないなら、その家の主人は神の前に出て、彼が隣人の財産に絶対に手をかけなかったことを誓わなければならない。

 ここは、貸借の間で起こる問題が取り扱われています。貸していたものが盗まれたとき、どうすればよいかが書かれています。盗人が捕まれば、先ほどと同じように二倍の償いをその本人にすればよいですが、捕まらない場合、借りた人が自分が盗まなかったことを誓わなければいけません。

 ここで「神の前に出て」とあります。ここの「神」の言葉はエロヒムであり、確かにそのように訳すことができます。けれども、エロヒムは裁判官に対しても使われることがあります。それは、裁判官は神から任されて、さばきを二者の間で行なう存在だからです。この言葉を使って、イエスさまは、ご自分のことを非難するユダヤ人に応答されました。ヨハネ10章33節からです。「ユダヤ人たちはイエスに答えた。『良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。』イエスは彼らに答えられた。『あなたがたの律法に、「わたしは言った、あなたがたは神である。」と書いてはありませんか。』」(ヨハネ10:33-34」ここの箇所を使って、モルモン教は人々が神々になることができる、と教えます。しかし、これはさばき人のこと、裁判官のことを指している言葉です。

22:9 すべての横領事件に際し、牛でも、ろばでも、羊でも、着物でも、どんな紛失物でも、一方が、『それは自分のものだ。』と言う場合、その双方の言い分を、神の前に持ち出さなければならないそして、神が罪に定めた者は、それを二倍にして相手に償わなければならない。

 ここの「神」も同じです。裁判官の前に持ち出し、裁判官が定めた者が二倍にして償わなければいけません。

22:10 ろばでも、牛でも、羊でも、またどんな家畜でも、その番をしてもらうために隣人に預け、それが死ぬとか、傷つくとか、奪い去られるとかして、目撃者がいない場合、22:11 隣人の財産に絶対に手をかけなかったという主への誓いが、双方の間に、なければならない。その持ち主がこれを受け入れるなら、隣人は償いをする必要はない。22:12 しかし、もしそれが確かに自分のところから盗まれたのなら、その持ち主に償いをしなければならない。

 預けているもの、借りているものに損害が与えられても、もし自分が損害を与えたのではないことがわからなければ、盗んでいるのと同じことになります。私たちは借りたり貸したりすることが多いですが、もしそれをきちんと返さなければ、盗みなのです。借りたものは、神から責任を委ねられていることを知らなければいけないでしょう。

22:13 もしそれが確かに野獣に裂き殺されたのなら、証拠としてそれを持って行かなければならない。裂き殺されたものの償いをする必要はない。

 証拠提出をしなければ、やはり盗みと考えられ、償いをする必要があります。

22:14 人が隣人から家畜を借り、それが傷つくか、死ぬかして、その持ち主がいっしょにいなかった場合は、必ず償いをしなければならない。22:15 もし、持ち主がいっしょにいたなら、償いをする必要はない。しかし、それが賃借りの物であったなら、借り賃は払わなければならない。

 傷つけること、損害を与えることも、やはり償いが必要です。けれども持ち主がそのときにいれば、それは持ち主の責任とみなされます。

 今日はここまでにしましょう。次回は22章16節からです。道徳的、宗教的な分野における定めを見ていきます。


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