出エジプト記3−4章 「神の選びと召し」


アウトライン

1A 神の呼びかけ 3
   1B 燃える柴 1−6
   2B ご計画の啓示 7−22
     1C 出エジプト 7−12
     2C パロとの会見 13−22
2A モーセの応答 4
   1B 言い訳 1−17
      1C 二つのしるし 1−9
      2C 口べた 10−17
   2B イスラエル人との再会 18−31
      1C 血の花婿 18−26
      2C 兄アロン 27−31

本文

 出エジプト記3章を開いてください。今日は3章と4章を学びます。ここでのテーマは、「神の選びと召し」です。さっそく本文を見ていきましょう。

1A 神の呼びかけ 3
1B 燃える柴 1−6
 モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。

 私たちが前回学んだ2章と3章との間には40年間の開きがあります。モーセは、パロの娘の子としてエジプトの宮廷の中で育ちました。けれども、イスラエル人を救おうと思い、エジプト人を殺したことによって、彼はエジプトから逃げて、ミデヤン人の地に来ました。その時、ここに書かれているイテロに出会い、その娘の一人チッポラと結婚し、そしてイテロの羊を飼う仕事をして、40年を過ごしました。エジプトから逃げてきたのが40歳です。そして今は80歳です。モーセが当時考えていた、イスラエル人たちを救い出す救出劇は完全に頓挫したかのように見えます。

 けれども、神から呼びかけられること、神の召しは、何の変哲もない、平凡な生活の中で起こります。今、神の山ホレブに来ています。後に彼が200万人とも300万人とも言われるイスラエル人たちを率いて、この山に来て、神から律法を授かることになります。パウロは、「神がおのおのお召しになったときのままの状態で歩むべきです。(1コリント7:17)」とコリント人たちに言いました。モーセは羊を飼っているときに神の呼びかけを受け、その飼っているところで大きな働きをし、そして後に、羊を飼うときの杖で、あらゆるしるしと不思議を行うようになります。今、私たちが置かれているところで、主は私たちをお用いになることができるのです。

 すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。

 羊飼いをしていたモーセに、「主の使い」が現われました。この呼称は旧約聖書に出てきますが、主の使いでありながら、かつ神と呼ばれる方であり、三位一体の第二位格であられるイエス・キリストです。まだ受肉しておられないイエス・キリストです。この方が今、柴の中で火の炎の中におられました。これから主が臨在されるところに、火が多く登場しますが、それは神の聖さを現わしています。ヘブル書で「私たちの神は焼き尽くす火です。(12:29)」とあります。

 モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」

 燃え尽きることない柴は、モーセの興味を引きつけました。モーセが近づきました。

 
主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ。」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります。」と答えた。

 ここでモーセは、初めて、直接的な神との出会いをし、また神からの呼びかけ、召しを受けています。それは、「モーセ、モーセ」という二回の呼びかけであり、イエスさまがちょうど、「マルタ、マルタ」と、マリヤの姉妹マルタを慕って二度呼ばれたのと同じような親しみが感じとれます。

 そして彼が、「はい。ここにおります。」と答えているのに注目してください。ただ驚き怪しんで、逃げていくことはしませんでした。すぐに神の声であることを知りました。モーセは40年間、羊飼いであるときに、神をひと時も忘れることはなかったようです。ここから私たちも、普段の生活で主を覚えている、という行為がいかに大切かを思います。

 神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」

 くつを脱ぐことはアジア人である私たちには、用意に理解できる行為です。それはもちろん家の中を汚くしないという衛生上の意味もありますが、その家の人たちを敬う行為、へりくだりの行為を表します。モーセが、主に対して、敬いの姿勢を取らなければいけない、ということです。

 そして「近づいてはならない。ここは聖なる場所である」と言われていますが、出エジプト記から、創世記にはあまり見なかった、「聖」という言葉がたくさん出てきます。そして、主は聖なる方であり、人間は近づくことのできない方として現われます。けれども逆の見方をしますと、主は、「近づいてはならない」と人に命じられるほど、かなり近くまで人間に近づいていることになります。

 また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。

 神はイスラエルに対して、約400年ぶりに現われてくださいました。族長であるヤコブに対して主が語りかけられて以来の出来事です。そして、前回学びましたが、神は、アブラハム、イサク、ヤコブに対して与えられた契約と約束を決して忘れておられません。彼らに与えられた約束を果たすために、今ここにモーセに現われてくださったのです。そしてモーセは、神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠しています。

2B ご計画の啓示 7−22
1C 出エジプト 7−12
 主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。」

 前回お話しましたように、主は、エジプトにいるイスラエルのことを決して忘れておられませんでした。むしろ、その悩みを見、彼らの叫びを聞き、痛みを知っておられました。神は私たちの痛みや苦しみとともにおられるような方です。けれども、神はさらに一歩踏み出てくださいました。彼らの痛みを知っておられるから、このようにして天から下って来てくださいました。イスラエルに近づいてくださり、そして彼らに個人的に関わってくださり、そしてエジプトから彼らを救い出してくださいます。

 わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。

 主がイスラエルをエジプトから出すのは、単に苦しまないようにするためではありません。むしろ、かつてアブラハムに約束された、その所有の地へと彼らを上らせるためです。約束のものを彼らが手にするためです。私たちがクリスチャンになるときも、これと同じです。今直面している試練や苦しみから抜け出るために、救われるのではなく、永遠のいのちを相続するために救われました。

 見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。

 「見よ。今こそ」と主は言われています。主は、それはずっと待っておられました。人間の営みをずっと見届けておられて、時が熟すまで待っておられるような方です。私たちは、神に対して、「何が起こるか分かっているなら、ずっと待っていないで、すぐにそれを行なわれれば良いのに。」と思ってしまいます。けれども神は人に対して、その営みに機械的に介入されることなく、忍耐をもって待っておられる方です。

 今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。

 ここの時点で、モーセが「はい、かしこまりました」と答えれば、今日の話はなくなり、出エジプト記7章へと飛ぶはずでした。ところがモーセが主に言い返しました。

 モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」

 モーセはもちろん、この40年間で、自尊心はずたずたにされていました。エジプトの王子であった自分が、一人のイスラエル人をも救うことができず、かえってエジプトから逃げて、雇われ羊飼いの身でずっと生きて来たのです。落胆と失望でいっぱいであり、もう思い出したくないような出来事であったかもしれません。

 もちろんこの40年間は、非常に大切な期間でした。彼のプライドが砕かれて、自分にできることは何もないことを知ることできたことは、大きな収穫でした。けれども彼にはまだ問題がありました。本質的には40年前の彼と同じ問題です。それは、「私」という問題です。「私はいったい何者なのでしょう」という、神ではなく、自分を信じていた問題がありました。神に言われたことをただ聞きしたがえば良いところを、それを自分自身で完成させようとする考えがありました。主が言われたとおりに行なうとき、自分ではなく主が事を成し遂げてくださいます。主が、何度も、「わたしは〜をする」と言われて、主ご自身のお仕事であることを強調されました。モーセは、このことに早く気づくべきでした。

 神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」

 モーセが行なうのではなく、ともにいる神が行なってくださいます。イエスさまは、昇天される直前に弟子たちに、「あなたがたは行って、あらゆる国々の人々を弟子としなさい。」と言われて、それから、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と言われています(マタイ28:20)。福音宣教のために必要なものを、主がすべて備えてくださいます。

2C パロとの会見 13−22
 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」

 モーセは、エジプトに戻った場合、推定できることを主に聞き始めています。モーセが神から遣わされて来た者であると言ったとき、イスラエル人がそれを信じてくれるかどうかが分かりませんでした。そして「名前は何というのか」と聞くでしょう、と言っています。

 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」

 何という名前でしょうか。「わたしはある」です。言いかえれば、「わたしは、わたしなのだ。」と言うことです。しかし、これは、すべてのものの初めである神にとって、ふさわしい名前です。誰かが名前をつけるとしたら、その名前の中にある意味の中に神が閉じ込められてしまいます。しかし、神は、永遠の昔からいつまでも変わらない方であり、おひとりで存在されている方です。だれがこの神のことを何と思っても、神は変わることはありません。そして神の名前は、ヤハウェと言います。その文字通りの意味は、「〜になる」ということです。私たちが必要なものになってくださる、という意味です。このように神が、人々の必要に深く関わる方として現われてくださいました。

 モーセの時代にこのように神は天から下ってこられ、近づいてくださいましたが、終わりの時にはイエスさまが、私たちの間に住まわれました。そして、「わたしは、わたしである。」という主の名前を、いろいろな形で示されました。「わたしはいのちである。」「わたしは光である。」「わたしは救いである。」「わたしは道である。」という具合にです。そして、ユダヤ人には、「アブラハムが生まれる前から、わたしはある。」と答えられました(ヨハネ8:58)。永遠に存在されている方としてのヤハウェの呼称を、ユダヤ人の前でお使いになったのです。

 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。」

 これが永遠の名前、というのは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えられた約束が永遠に続く、という意味です。

 
そして次に主はモーセに、エジプトに行ってから行なえば良い手順を、事細かに説明してくださいます。行って、イスラエルの長老たちを集めて、彼らに言え。あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、主が、私に現われて仰せられた。『わたしはあなたがたのこと、またエジプトであなたがたがどういうしうちを受けているかを確かに心に留めた。それで、わたしはあなたがたをエジプトでの悩みから救い出し、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の地、乳と蜜の流れる地へ上らせると言ったのである。』

 長老たちのところに行って、主が初めにモーセにお伝えになったことを彼らに伝えます。

 彼らはあなたの声に聞き従おう。あなたはイスラエルの長老たちといっしょにエジプトの王のところに行き、彼に『ヘブル人の神、主が私たちとお会いになりました。どうか今、私たちに荒野へ三日の道のりの旅をさせ、私たちの神、主にいけにえをささげさせてください。』と言え。

 長老たちの次は、パロに対して語ります。

 しかし、エジプトの王は強いられなければ、あなたがたを行かせないのを、わたしはよく知っている。わたしはこの手を伸ばし、エジプトのただ中で行なうあらゆる不思議で、エジプトを打とう。こうしたあとで、彼はあなたがたを去らせよう。

 出エジプト記は、「主がパロの心をかたくなにされた」という言葉が有名であります。けれども、それは主がすでに、パロが決して心を変えないことを知っておられたからです。そこで主は、パロの心のかたくなさを用いられて、ご自分の大きなわざを、イスラエルの前で、そして世界に対してお見せになることをご計画されていました。

 わたしは、エジプトがこの民に好意を持つようにする。あなたがたは出て行くとき、何も持たずに出て行ってはならない。女はみな、隣の女、自分の家に宿っている女に銀の飾り、金の飾り、それに着物を求め、あなたがたはそれを自分の息子や娘の身に着けなければならない。あなたがたは、エジプトからはぎ取らなければならない。」

 イスラエル人は、奴隷として働き、賃金を受け取らずに生きてきたのですから、貴金属を出て行くときに受け取るのは、正当な報酬と言っても良いでしょう。けれどももちろん、そうではなく、後に荒野で幕屋を造るときに必要な材料だからです。

2A モーセの応答 4
1B 言い訳 1−17
1C 二つのしるし 1−9
 モーセは答えて申し上げた。「ですが、彼らは私を信ぜず、また私の声に耳を傾けないでしょう。『主はあなたに現われなかった。』と言うでしょうから。」

 モーセの三つ目の言い訳です。主がいっしょに来てくださるのは分かった。それに、ご自分の名前を、わたしはある、アブラハム、イサク、ヤコブの神として紹介すればよいこともわかった。でも、ほんとうにあなたが現われたのかを疑う人が出てくるのではないですか、という疑問です。

 主は彼に仰せられた。「あなたの手にあるそれは何か。」彼は答えた。「杖です。」すると仰せられた。「それを地に投げよ。」彼がそれを地に投げると、杖は蛇になった。モーセはそれから身を引いた。主はまた、モーセに仰せられた。「手を伸ばして、その尾をつかめ。」彼が手を伸ばしてそれを握ったとき、それは手の中で杖になった。「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現われたことを、彼らが信じるためである。」

 主は、羊飼いであるモーセの杖を使って、しるしを行なわれました。今、主は、「地に投げよ」「尾をつかめ」というように、モーセに命令しておられます。これが後に、モーセが生涯行なっていく作業となります。主が命令し、モーセがそれを行ない、そして主が事を成し遂げてくださる、という卯順番です。モーセにとって、蛇をつかむのは、ましてや尾をつかむのは非常に危険だったことでしょう。けれども今、信仰によって主の命令にしたがいました。

 主はなおまた、彼に仰せられた。「手をふところに入れよ。」彼は手をふところに入れた。そして、出した。なんと、彼の手は、らいに冒されて雪のようであった。また、主は仰せられた。「あなたの手をもう一度ふところに入れよ。」そこで彼はもう一度手をふところに入れた。そして、ふところから出した。なんと、それは再び彼の肉のようになっていた。「たとい彼らがあなたを信ぜず、また初めのしるしの声に聞き従わなくても、後のしるしの声は信じるであろう。

 主は、スペアになるしるしもご丁寧に与えられました。杖がだめなら、手をらい病にしてみせよう、とのことです。

 
もしも彼らがこの二つのしるしをも信ぜず、あなたの声にも聞き従わないなら、ナイルから水を汲んで、それをかわいた土に注がなければならない。あなたがナイルから汲んだその水は、かわいた土の上で血となる。

 ナイル川の水を血にするしるしは、後にパロの前で、災いの一つとして行ないます。

2C 口べた 10−17
 このようにして、言い訳を一つ消されたモーセは、また別の言い訳を思いつきます。モーセは主に申し上げた。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」

 イスラエル人たちが私を認めるかもしれないが、パロが私の言うことを聞いてくださるでしょうか?雄弁ではありません、ということです。けれども、これは嘘です。使徒行伝7章によると、モーセは、ことばにおいても行ないにおいても、力があったと書かれています(22節)。

 主は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、耳しいにしたり、あるいは、目をあけたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」

 これは、主が口のことや目のこと、人のからだについては、すべてを支配しているのではないか、そんなことはもちろん知っているではないか、という主のモーセへの問いかけです。「おしにしたり、耳しいにしたり」という言い回しがありますが、これはもちろん、主が人をおしにせしめる、ということではなく、おしの人をも主はご存知で、良い目的をもっておられる、ということです。

 すると申し上げた。「ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください。」

 言い訳が尽きてしまったモーセは、ついに本音が出ました。彼はとにかく、遣わされるのが嫌だったのです。行きたくなかったのです。主に召されたとき、それから免れることはできません。はやく降参したほうが良いです。覚えていますか、ヨナがどれだけ悲惨なところを通ったかを。私たちはクリスチャンになるときも、またある働きの中に導かれるときも、その召しに快く応答するべきです。

 モーセの問題は一重に、「私にはできません」という「私」の問題でした。自分ができるかどうか、など主は聞いておられなのです。「わたしの言うことに、ただ聞き従いなさい」というのが条件です。問題は能力がないのではなく、不従順であることです。主は私たちに何かを命じられるとき、その命令に従うことができる力を同時に付与してくださいます。これがまたクリスチャンの歩みであり、信仰によって、御霊の力によって歩むことであります。

 すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう仰せられた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼がよく話すことを知っている。今、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぼう。あなたが彼に語り、その口にことばを置くなら、わたしはあなたの口とともにあり、彼の口とともにあって、あなたがたのなすべきことを教えよう。彼があなたに代わって民に語るなら、彼はあなたの口の代わりとなり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。」

 アロンがモーセのスポークスマンになります。これも実に滑稽でありますが、人の前に立って、その人に語りかけるのではなく、ぼそぼそとアロンに話し、それをアロンがオウム返しで相手に語りかけます。さらに、アロンがモーセの助けになったかと言えば必ずしもそうとは言えません。金の子牛を造ったのはアロンですし、姉のミリヤムに影響されてモーセを責めたのもアロンです。神に拠り頼むことは、非常にスリムでいられますが、人に頼ると事が複雑になり、時に足かせにさえなります。

 あなたはこの杖を手に取り、これでしるしを行なわなければならない。

 杖が蛇になりましたが、これからこの杖によって、数多くの不思議なわざが行なわれます。

2B イスラエル人との再会 18−31
1C 血の花婿 18−26
 それで、モーセはしゅうとのイテロのもとに帰り、彼に言った。「どうか私をエジプトにいる親類のもとに帰らせ、彼らがまだ生きながらえているかどうか見させてください。」イテロはモーセに「安心して行きなさい。」と答えた。

 モーセは義父であり、かつ雇い主であるイテロに退職願を出しました。良いとの返事を得ました。

 主はミデヤンでモーセに仰せられた。「エジプトに帰って行け。あなたのいのちを求めていた者は、みな死んだ。」

 主はモーセをさらに励ましておられます。かつてモーセのいのちをねらっていたパロはもう死にました。だから、恐いことはありません。

 そこで、モーセは妻や息子たちを連れ、彼らをろばに乗せてエジプトの地へ帰った。モーセは手に神の杖を持っていた。

 モーセには、息子ゲルショムの他に、エリエゼルという息子も与えられていたようです。そこで、「息子たち」となっています。家族を連れてエジプトに向かいました。

 主はモーセに仰せられた。「エジプトに帰って行ったら、わたしがあなたの手に授けた不思議を、ことごとく心に留め、それをパロの前で行なえ。しかし、わたしは彼の心をかたくなにする。彼は民を去らせないであろう。そのとき、あなたはパロに言わなければならない。主はこう仰せられる。『イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。そこでわたしはあなたに言う。わたしの子を行かせて、わたしに仕えさせよ。もし、あなたが拒んで彼を行かせないなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの初子を殺す。』」

 主はモーセに、先ほどと同じようにパロが心をかたくなにすることをお語りになったあと、初子でもってさばきを行なうことを予告されました。「初子」というのは、生まれてきた最初の男の子のこと、長男のことです。また家畜にも使われます。初子が、家族にとってもっとも大切な存在であり、父のものを相続します。主はイスラエルをご自分の初子と呼ばれて、イスラエルがとても大切な存在であることを告げられます。ですから、もしイスラエルを出て行かせないなら、あなたがたの初子が殺される、とさばきを告げられます。

 さて、途中、一夜を明かす場所でのことだった。主はモーセに会われ、彼を殺そうとされた。

 なぜ突然、主がモーセを殺そうとされているのでしょうか?それは、エジプトが神の言われることを拒んむように、モーセも主の言われていることに背いていることがあったからです。

 そのとき、チッポラは火打石を取って、自分の息子の包皮を切り、それをモーセの両足につけ、そして言った。「まことにあなたは私にとって血の花婿です。」そこで、主はモーセを放された。彼女はそのとき割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。

 息子の一人、おそらくは弟のほうが包皮を切り取っていなかった、割礼を受けていなかったと思われます。けれども主はアブラハムに、すべての男子に割礼を受けさせなさいという命令をしており、モーセはそれを守り行なっていなかったのです。チッポラがすかさず息子の包皮を切り取って、モーセの両足につけましたが、彼女が割礼を拒んでいたのかもしれません。そこで、「あなたは血の花婿ね」とモーセをなじっています。

 この後、妻と息子たちは家に戻ったようです。出エジプト記17章を読むと、父イテロとともにチッポラと息子2人がやって来ています。おそらくは、モーセがエジプトで行なうところの、神の大きな仕事に関わるのに、自分たちが耐えられない、と思ったのでしょう。

2C 兄アロン 27−31
 それから、主はアロンに仰せられた。「荒野に行って、モーセに会え。」彼は行って、神の山でモーセに会い、口づけした。何十年ぶりかの会合です。モーセは自分を遣わすときに主が語られたことばのすべてと、命じられたしるしのすべてを、アロンに告げた。

 これまでモーセが主から説明を受けてきたことをアロンに説明しました。

 それからモーセとアロンは行って、イスラエル人の長老たちをみな集めた。アロンは、主がモーセに告げられたことばをみな告げ、民の目の前でしるしを行なったので、民は信じた。彼らは、主がイスラエル人を顧み、その苦しみをご覧になったことを聞いて、ひざまずいて礼拝した。

 主がモーセに言われたように、イスラエル人はモーセが主から遣わされた人として認めました。そして、彼らはひざまずいて礼拝しています。本当にうれしかったことでしょう。400年の間、こんなに苦しんできたけれども、今、主が顧みてくださっているのだ、と涙が止まらなかったことでしょう。主は決して神の民をお見捨てになりませんでした。

 こうして、モーセがどのように主から呼ばれ、どのようにモーセが応答したかを読みました。彼が羊飼いの仕事をしているときに彼が呼ばれたように、私たちも主からの語りかけは、普通の職場、普通の家庭の場で与えられます。そしてモーセが使っていた羊飼いの杖が、神の杖となったように、主が自分が置かれている場で与えられているもので、主のために働く武器となります。召しは決して、自分が主体ではありません。主が言われていることを行なうことです。主がお仕事をしてくださいます。


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