出エジプト記30−31章 「主への奉仕」


アウトライン

1A 霊的奉仕 30
   1B 香壇(祈り) 1−10
   2B 人口調査(献金) 11−16
   3B 洗盤(みことばの洗い) 17−21
   4B 香油(聖霊の油注ぎ) 22−38
      1C 注ぎの油 22−30
      2C 似たものの禁止 31−38
2A 実際的奉仕 31
   1B 知恵の御霊 1−11
   2B 安息日 12−18

参照サイト
25章以降の幕屋の造りについては、以下のサイトをご参照されると良いかと思います。
Welcome to the Tabernacle Home Page
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本文

 出エジプト記30章を開いてください。今日は30章と31章を学びます。ここでのテーマは、「主への奉仕」です。前回は、アロンとその子らが祭司として任じられる、任職式について見ました。そして今日読むところは、祭司がどのようにして主にお仕えしていくのか、その奉仕について見ていくことができます。

1A 霊的奉仕 30
1B 香壇(祈り) 1−10
30:1 あなたは、香をたくために壇を作る。それは、アカシヤ材で作らなければならない。30:2 長さ一キュビト、幅一キュビトの四角形で、その高さは二キュビトでなければならない。その一部として角をつける。30:3 それに、上面と回りの側面と角を純金でかぶせる。その回りに、金の飾り縁を作る。30:4 また、その壇のために、その飾り縁の下に、二つの金環を作らなければならない。相対する両側に作らなければならない。これらは、壇をかつぐ棒を通す所となる。30:5 その棒はアカシヤ材で作り、それに金をかぶせる。

 香壇そのものの作り方と配置が記されています。図を見てください。壇ですが、祭壇よりもかなり小さく、縦横44センチの正方形で高さがその二倍の88センチです。材質はアカシヤ材です。これはキリストが人として来られたことを表わすものであると、以前学びました。そして、純金がかぶされています。金はキリストが神であることを示します。青銅の祭壇と同じように、棒が差し込まれて運ぶことができるようになっています。

30:6 それをあかしの箱をおおう垂れ幕の手前、わたしがあなたとそこで会うあかしの箱の上の『贖いのふた』の手前に置く。

 壇が置かれる場所は、至聖所と聖所を区切る垂れ幕の手前、つまり聖所のほうに置かれているけれども、至聖所に向けられたものであります。そして、神は、「わたしが会う手前に置く」と強調されています。香壇は、神に出会うことと直接的なつながりがあるようです。

30:7 アロンはその上でかおりの高い香をたく。朝ごとにともしびをととのえるときに、煙を立ち上らせなければならない。30:8 アロンは夕暮れにも、ともしびをともすときに、煙を立ち上らせなければならない。これは、あなたがたの代々にわたる、主の前の常供の香のささげ物である。

 壇の上で香がたかれます。朝ごとに、夕ごとに煙を立ち上らせないといけません。常供とは、「日ごとの」という意味です。「ともしびをともすときに」とありますが、これは聖所にある燭台のともしびのことを言っています。以前学びましたが、燭台におけるともし火もまた、日ごとに行なわなければいけないものでした。香壇に香をたくことと、ともし火皿に油を注ぐことが祭司の日課でした。

30:9 あなたがたは、その上で異なった香や全焼のいけにえや穀物のささげ物をささげてはならない。また、その上に、注ぎのぶどう酒を注いではならない。

 青銅の祭壇のように、動物のいけにえや穀物のささげもの、注ぎの供え物をささげるところではありませんでした。香をたくためだけのものでした。

30:10 アロンは年に一度、贖罪のための、罪のためのいけにえの血によって、その角の上で贖いをする。すなわち、あなたがたは代々、年に一度このために、贖いをしなければならない。これは、主に対して最も聖なるものである。

 年に一度、贖いの日があります。それはレビ記16章に詳しく説明されています。この日には、幕屋の祭具が血によって聖められました。

 この香壇は何のためにあるのでしょうか。詩篇には、「私の祈りが、御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上りますように。(141:2」とあります。これは祈りだったのです。ルカによる福音書1章を思い出せますか。祭司ゼカリヤが香をたいている間に、御使いガブリエルが香壇の右に立ち、こう言いました。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。(1:13」ガブリエルは、香壇のところでザカリヤの祈りが神に届いたことを告げました。確かに黙示録にも、「この香は聖徒たちの祈りである。(5:9」とあります。ですから、神さまがなぜ、ご自分を現わす贖いのふたの手前に、香壇を置くのを命じられたのかを理解できると思います。

 私たちが神に出会うためには、祈りが必要なのです。至聖所に香が届けられるように、私たちの祈りによって、天におられる神との関わりを持つことができます。朝に夕に、この香をたいていなければいけませんが、祈りは朝に夕に行なうものです。つまり、一日が始まるときに主に祈り、一日が終わるときに主に祈ります。私たちが昼に労働をする前後に祈りが必要なのです。

2B 人口調査(献金) 11−16
30:11 主はモーセに告げて仰せられた。30:12 「あなたがイスラエル人の登録のため、人口調査をするとき、その登録にあたり、各人は自分自身の贖い金を主に納めなければならない。これは、彼らの登録によって、彼らにわざわいが起こらないためである。30:13 登録される者はみな、聖所のシェケルで半シェケルを払わなければならない。一シェケルは二十ゲラであって、おのおの半シェケルを主への奉納物とする。30:14 二十歳、またそれ以上の者で登録される者はみな、主にこの奉納物を納めなければならない。

 人口調査をする記事が、民数記にあります。(「民数記」という本の名前は、この人口調査から付けられたものです。)二十歳以上の男子がそれぞれの部族に何人いるのかが記載されていますが、その時に登録された者はみな、各人が贖い金を主に納めなければいけません。

 その理由は、彼らはみなイスラエルの共同体の中にいるけれども、各人がそれぞれ主との個人的な関係を持っていなければいけない、主にささげるその関係がなければいけないことを表わしています。私たち日本人、いや人間が誤って考えてしまうことは、自分が教会という仲間の中にいれば、天に入ることができる、というものです。自分が教会員になっていることに安住して、主イエス・キリストの十字架の贖いに自分の全存在をより頼ませているかどうか、その吟味を怠ってしまうことがあります。それでパウロはコリント人たちに、聖餐式にあずかるにあたって、自分を吟味して、自分が信仰に立っているかどうか確かめなさいと勧めているのです(1コリント11章参照)。

30:15 あなたがた自身を贖うために、主に奉納物を納めるとき、富んだ者も半シェケルより多く払ってはならず、貧しい者もそれより少なく払ってはならない。

 これは、贖いにおける平等性が語られています。富んだ者であろうが、貧しい者であろうが、主からの贈り物である永遠のいのちは、平等に与えられます。神の国の相続は等しく与えられるのであり、そこには差別がないのです。

30:16 イスラエル人から、贖いの銀を受け取ったなら、それは会見の天幕の用に当てる。これは、あなたがた自身の贖いのために、主の前で、イスラエル人のための記念となる。

 贖い金の具体的な用途は、会見の天幕の用に当てることです。つまり主への礼拝のために持ちられます。祭司の務めとして、これら主へささげられたお金を、主の栄光のために用いていくことが挙げられます。祈りとともに、献金という、イエスさまが言われるところの不正の富を御国のために用いるのです。ですから、礼拝行為としての献金と、その献金の会計は非常に重要な霊的行為であると言えます。

3B 洗盤(みことばの洗い) 17−21
30:17 主はまたモーセに告げて仰せられた。30:18 「洗いのための青銅の洗盤と青銅の台を作ったなら、それを会見の天幕と祭壇の間に置き、その中に水を入れよ。30:19 アロンとその子らは、そこで手と足を洗う。30:20 彼らが会見の天幕にはいるときには、水を浴びなければならない。彼らが死なないためである。また、彼らが、主への火によるささげ物を焼いて煙にする務めのために祭壇に近づくときにも、30:21 その手、その足を洗う。彼らが死なないためである。これは、彼とその子孫の代々にわたる永遠のおきてである。」

 洗盤は青銅で出来ています。聖所と祭壇の間に置かれます。そこで天幕に入るときと、祭壇でいけにえをささげるとき、手足を洗います。この目的は、「死なないためである」とありますが、つまり、神に受け入れられるために清めの役割を果たしています。前回、説明しましたように、私たちは祭司になったとき、つまりクリスチャンになるとき、全身が洗われました。キリストによって、すべての罪が取り除かれたのです。けれども、日々を歩んでいく中で、私たちは下品な話を聞いたり、良くないものを見たりして、心が汚れてしまいます。ですから、事あるごとに私たちは洗われる必要があるのです。

 そのためには、まず罪の告白が必要です。使徒ヨハネは、「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 (ヨハネ第一1:9」と言いました。もう一つは、御言葉があります。使徒パウロは、「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとする(エペソ5:26」と言いました。ですから、私たちは、罪を言い表し、また、神のみことばを聞いて、心が洗われます。

4B 香油(聖霊の油注ぎ) 22−38
 そして次から、香油についての教えがあります。

1C 注ぎの油 22−30
30:22 ついで主はモーセに告げて仰せられた。30:23 「あなたは、最上の香料を取れ。液体の没薬五百シェケル、かおりの強い肉桂をその半分・・二百五十シェケル・・、におい菖蒲二百五十シェケル、30:24 桂枝を聖所のシェケルで五百シェケル、オリーブ油一ヒン。30:25 あなたはこれらをもって聖なるそそぎの油を、調合法にしたがって、混ぜ合わせの香油を作る。これが聖なるそそぎの油となる。

 そそぎの油は香油でした。しかも、最上のいろいろな種類の香料を用いて、調合して作られます。神殿協会(The Temple Institute)という、神殿の建設を考えるユダヤ人の団体のところで、彼らが作っている調合された香の匂いをかぎましたが、お世辞にも香しいと言えません。ちょうど、おばあさんがつけているあの香の匂いを、何倍にも強烈にしたような感じです。けれども、高価な香でした。

30:26 この油を次のものにそそぐ。会見の天幕、あかしの箱、30:27 机とそのいろいろな器具、燭台とそのいろいろな器具、香の壇、30:28 全焼のいけにえのための祭壇とそのいろいろな器具、洗盤とその台。30:29 あなたがこれらを聖別するなら、それは、最も聖なるものとなる。これらに触れるものもすべて聖なるものとなる。30:30 あなたは、アロンとその子らに油をそそぎ、彼らを聖別して祭司としてわたしに仕えさせなければならない。

 すべての祭具と、祭司たちに香油が注がれました。そして、神は、この油を「最も聖なるもの」と呼び、「聖なるそそぎの油」と呼んでおられます。なぜなら、これは聖霊の象徴だからです。ヨハネ第一に、「あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。(2:27 第三版)」とあります。聖霊の油注ぎが、幕屋のすべての用具に、さらに祭司たちに存在していなければなりません。つまり、私たちは、すべての奉仕において、聖霊の油注ぎが必要であるということです。何一つ、肉の働きは認められないということです。したがって、私たちは、聖霊に導かれ、聖霊に満たされることがいかに大切であるかが分かります。つねに、神を意識し、神とともに歩む訓練を受けなければいけません。

2C 似たものの禁止 31−38
30:31 あなたはイスラエル人に告げて言わなければならない。これはあなたがたの代々にわたって、わたしのための聖なるそそぎの油となる。30:32 これをだれのからだにもそそいではならない。また、この割合で、これと似たものを作ってはならない。これは聖なるものであり、あなたがたにとっても聖なるものとしなければならない。30:33 すべて、これと似たものを調合する者、または、これをほかの人につける者は、だれでもその民から断ち切られなければならない。」

 神が定められた割合で調合されたもの以外を作ったら、民から断ち切られます。これは、むろん、幕屋で行なわれていること、祭司が行なっていることを真似ようとしているからです。私たちの周りで、聖霊の働きと言われて実はそうではないものが多く見受けられます。心理的に催眠状態にされているのを聖霊に満たされたと言ってみたり、人間の肉で行っているものを「聖霊がしてくださっている」と言います。そのように、人間が作り出したものを聖霊として受け入れるのですが、とても危険なことです。

30:34 主はモーセに仰せられた。「あなたは香料、すなわち、ナタフ香、シェヘレテ香、ヘルベナ香、これらの香料と純粋な乳香を取れ。これはおのおの同じ量でなければならない。30:35 これをもって香を、調合法にしたがって、香ばしい聖なる純粋な香油を作る。30:36 また、そのいくぶんかを細かに砕き、その一部をわたしがあなたとそこで会う会見の天幕の中のあかしの箱の前に供える。これは、あなたがたにとって最も聖なるものでなければならない。30:37 あなたが作る香は、それと同じ割合で自分自身のために作ってはならない。あなたは、それを主に対して聖なるものとしなければならない。30:38 これと似たものを作って、これをかぐ者はだれでも、その民から断ち切られる。」

 同じように、似たものを作ってはならない、それをかいではならない、と命じられていますが、それに加えて、その一部を細かにくだき、また他の一部を契約の箱の前に供えます。ここに、砕かれたたましいが、主の前に受け入れられ、香ばしいかおりを放っていることが表れています。ダビデはバテ・シェバとの罪をナタンに指摘されて、その罪の告白をしたとき、「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ、あなたは、それをさげすまれません。(詩篇51:17 第三版)」と言いました。そして、そのような心をもってキリストにあって生きていくときに、私たちからキリストのかおりを放ちます。パウロがこう言いました。「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。(2コリント2:14-15

2A 実際的奉仕 31
 こうして祭司の奉仕について、祈りや献金、また奉仕に必要な油注ぎについて見ましたが、次の章はもっと実際的な奉仕について書かれています。それは、実際に幕屋を設計する、設計士たちの奉仕です。

1B 知恵の御霊 1−11
31:1 主はモーセに告げて仰せられた。31:2 「見よ。わたしは、ユダ部族のフルの子であるウリの子ベツァルエルを名ざして召し、31:3 彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たした。31:4 それは、彼が、金や銀や青銅の細工を巧みに設計し、31:5 はめ込みの宝石を彫り、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである。

 ここには、設計士たちが神の霊で満たされることが書かれています。祈りやみことばなど、目に見ないところの奉仕もありますが、このように実務的な奉仕においても聖霊の満たしが必要です。特に、知恵と英知と知識においての御霊の働きが必要です。コリント第一12章には、御霊の賜物として、知恵の言葉、知識の言葉があります。一件、実際的で超自然的ではないように思えるものは、実は御霊による超自然的な働きの結果です。主はしばしば、自然な方法で超自然的なことを行なわれるので、それが超自然的であったかどうか分からないときがあります。

31:6 見よ。わたしは、ダン部族のアヒサマクの子オホリアブを、彼のもとに任命した。わたしはすべて心に知恵のある者に知恵を授けた。彼らはわたしがあなたに命じたものを、ことごとく作る。

 具体的に設計士の長が名ざしで任命されています。このように、個人に対する主の呼びかけ、召しがどんな働きにおいても必要です。自分がやりたい気分になったから行なうのではなく、主が命じられるから行なうのです。

31:7 すなわち、会見の天幕、あかしの箱、その上の『贖いのふた』、天幕のあらゆる設備品、31:8 机とその付属品、純金の燭台と、そのいろいろな器具、香の壇、31:9 全焼のいけにえの祭壇と、そのあらゆる道具、洗盤とその台、31:10 式服、すなわち、祭司として仕える祭司アロンの聖なる装束と、その子らの装束、31:11 そそぎの油、聖所のためのかおりの高い香である。彼らは、すべて、わたしがあなたに命じたとおりに作らなければならない。

 主が命じられたように作ります。自分が良いと思っている方法ではなく、主の方法によって行ないます。

2B 安息日 12−18
31:12 主はモーセに告げて仰せられた。31:13 「あなたはイスラエル人に告げて言え。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、あなたがたが知るためのものなのである。31:14 これは、あなたがたにとって聖なるものであるから、あなたがたはこの安息を守らなければならない。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者は、だれでも、その民から断ち切られる。31:15 六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目は、主の聖なる全き休みの安息日である。安息の日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。

 なぜ、急に安息日の掟が繰り返されているのでしょうか。それは、直前に神が仰せられた幕屋の建築の仕事があるからです。神は、たとえご自分の幕屋を作る仕事であっても、安息日には彼らが休むことを命じられました。私たちにも同じことが言えないでしょうか。神の御前でたましいを休め、神を礼拝することは、神に対する奉仕よりもさらに大切なことです。私たちは、仕事や教会の奉仕を優先させて、主の御前で静まることを怠りがちです。しかし、それでは本末転倒であります。主を礼拝するために私たちは生きているのに、主のためにその礼拝を怠っているからです。

 そして、安息日を破ることに対する罰はたいへん厳しいものでした。コロサイ書2章にこう書かれています。「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。(コロサイ
2:16-17」安息日の本体はキリストにありました。つまり、イエス・キリストが私たちのために行なってくださったことを信じることを、安息日は示しているのです。安息日に働くことは、イエスのみわざに自分の行ないを加えることでした。それはガラテヤ書にあるように、アナテマ、のろわれなければいけないことです。

31:16 イスラエル人はこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。31:17 これは、永遠に、わたしとイスラエル人との間のしるしである。それは主が六日間に天と地とを造り、七日目に休み、いこわれたからである。

 ここに明確に、安息日はイスラエル人に対するものと書かれています。教会のものではありません。ある教会は、日曜日を安息日と考えています。イエスが日曜の朝によみがえられてから、安息日の掟は土曜日から日曜日に移ったと言います。しかし、この個所から明らかに、その解釈は間違っているとしか言えません。信者が集まって、主を礼拝することは新約聖書で命令されていますが、日曜日は安息ではないのです。ここに「しるし」とありますが、契約にはしるしがありました。ノアとの契約では、虹がしるしでした。アブラハムとの契約では割礼がしるしでした。そしてモーセとの契約は、この安息日です。ちなみに、新しい契約はキリストの血がしるしです。イエスは、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。(ルカ22:20」と言われました。

31:18 こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた。

 モーセは神が直接書かれた石の板をもって山を降りていくことになります。しかし、すぐその後に、自分でその板を割ってしまうとは思いもよらなかったでしょう。イスラエルは、その第一の戒めを早々と破っていたからです。

 こうして私たちは、主に対する奉仕、礼拝を学びました。祈りの必要性、献金、みことばの洗い、そして聖霊の油注ぎの必要性について、旧約の制度において実にあざやかに、目に見える形で学ぶことができます。すべては、主が私たちと会って、語ってくださるためです。主との交わり、これが私たちクリスチャンの奉仕の目的です。



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