出エジプト記33−34章 「顔と顔を合わせて」


アウトライン

1A モーセの嘆願 33
   1B 罪を悲しむ民 1−11
      1C 主がおられない旅 1−6
      2C 天幕での会見 7−11
   2B 主を知ること 12−23
      1C ともにおられる主 12−17
      2C 主の栄光 18−23
2A 契約の更新 34
   1B 主の御名 1−9
   2B 関係の回復 10−28
      1C 偶像礼拝について 10−17
      2C 祭りについて 18−27
   3B 光り輝く顔 29−35

本文

 出エジプト記33章を開いてください。今日は33章と34章を学びたいと思います。ここでのテーマは、「顔と顔を合わせて」です。

 前回の学びを思い出してください。イスラエルの民が金の子牛を造って、それを拝み、また乱交パーティーを行なっていました。山から降りてきたモーセが怒って、主の戒めが書かれてる石の板を割り、金の子牛を粉々に砕きました。それでも悔い改めない者がいるので、主につく者たちが、公然と反抗する者たちを殺していきました。そしてモーセが、主に祈り始めます。自分に代わって、彼らの名があなたの書物から消されないように、と祈りました。けれども、主は、「罪を犯した者は、わたしの書物から消す。」そして、「わたしが告げた場所に、民を導け。わたしの使いがあなたの前を行く。」とおっしゃられました。

1A モーセの嘆願 33
 そして33章に入ります。主が続けてモーセに語っておられます。

1B 罪を悲しむ民 1−11
1C 主がおられない旅 1−6
33:1 主はモーセに仰せられた。「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える。』と言った地にここから上って行け。33:2 わたしはあなたがたの前にひとりの使いを遣わし、わたしが、カナン人、エモリ人、ヘテ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、33:3 乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせよう。わたしは、あなたがたのうちにあっては上らないからである。あなたがたはうなじのこわい民であるから、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼすようなことがあるといけないから。」

 主は、イスラエルの民を滅ぼすのではなく、以前約束されたように、アブラハム、イサク、ヤコブに約束された土地に民を導こうとされています。けれども、主ご自身はともに行かない、と言われます。代わりに主の使いが、御使いが彼らを導くことになります。その理由は、ご自分が民の近くにおられたら、彼らが罪を犯して、ご自分の聖なる性質に合わずに、彼らを滅ぼしてしまうことになるかもしれないから、というものです。民をそのまま生きているようにするには、聖なる神はそばにいることはできない、ということです。

 約束の土地は与えられるけれども、主の臨在がない、という状態をみなさんはどう思われるでしょうか?この神のご発言に対してどう反応するかによって、信仰者としての態度が問われます。なぜなら、主の臨在がないことに強い衝撃を受けないのであれば、自分が神の祝福を求めているけれども、神ご自身を求めているわけではないということが明らかにされるからです。クリスチャンがクリスチャンであることの特権は、主がともにおられることを確信できるところの祝福です。どのような状況の中でも、祝福においても苦境においても、主がともにおられるという確信から、聖霊の実である愛、喜び、平安などの良いものが与えられます。自分の周りの状況がよくても、主がおられないなら、それこそ最も悲惨なことです。主は、「わたしはともに行かない」と言われました。

33:4 民はこの悪い知らせを聞いて悲しみ痛み、だれひとり、その飾り物を身に着ける者はいなかった。33:5 主はモーセに、仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたは、うなじのこわい民だ。一時でもあなたがたのうちにあって、上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう。今、あなたがたの飾り物を身から取りはずしなさい。そうすれば、わたしはあなたがたをどうするかを考えよう。」33:6 それで、イスラエル人はホレブの山以来、その飾り物を取りはずしていた。

 イスラエルの人たちは、罪を深く悲しみました。(飾りはおそらくは、偶像礼拝に関連するものだったのでしょう、それを身につけているのが恥ずかしくなって、取り外しています。)主がともにおられないことの衝撃が、いかに大きいかを悟ったからです。雲の柱、火の柱として、神の臨在を知っていたからです。クリスチャンが、罪を犯すことにおける代償もこれと同じです。人が救われるのは、自分の善行ではなくキリストが十字架の上で行なわれたことに拠りますから、キリストを信じている者が罪を犯しても、救いを失うことはありません。けれども失うものがあります。それは、主がともにおられる確信がうすれてしまうことです。イエスさまは、「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。(マタイ5:8」と言われました。またヘブル書にも、「聖くなければ、だれも主を見ることがありません。(12:14」と書いてあります。主との心地良い交わりを回復するには、罪を捨てることと、その告白が必要です。

2C 天幕での会見 7−11
33:7 モーセはいつも天幕を取り、自分のためにこれを宿営の外の、宿営から離れた所に張り、そしてこれを会見の天幕と呼んでいた。だれでも主に伺いを立てる者は、宿営の外にある会見の天幕に行くのであった。

 モーセは、主にお会いするための特別な場所を設けました。主のところに行って、祈るためです。まだ幕屋は設けられていませんから、その場所は宿営の真ん中ではなく、外にあります。そして、イスラエルの民も、自由意志で臨在の幕屋に行くことができます。

33:8 モーセがこの天幕に出て行くときは、民はみな立ち上がり、おのおの自分の天幕の入口に立って、モーセが天幕にはいるまで、彼を見守った。33:9 モーセが天幕にはいると、雲の柱が降りて来て、天幕の入口に立った。主はモーセと語られた。33:10 民は、みな、天幕の入口に雲の柱が立つのを見た。民はみな立って、おのおの自分の天幕の入口で伏し拝んだ。

 モーセの模範にならって、イスラエルの民は自分たちの天幕の入り口で主を礼拝しました。罪を犯したことを悲しんでいる後に、イスラエル人の中から、主との交わりを回復したいという願いが出て来ています。そして、会見の天幕の中での、主とモーセとの会話が次に書かれています。

33:11 主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。

 今日のメッセージの主題になっている言葉です。友と語るように、主がモーセと顔を顔をあわせるように語られます。ここでの「顔と顔を合わせる」というのは、文字通りではありません。なぜなら、後で、主の栄光を見たいと願ったモーセに対して、その後ろ姿だけを見ると主が言われているからです。ヨハネの第一の手紙では、「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。(4:12」とあります。ここでは、顔と顔を合わせるほど親しく語られた、ということです。友達と話すときと同じように、親密に、近しく語っているということです。

 モーセの前にも、神の友と呼ばれる聖徒がいました。アブラハムです。歴代誌第二20章7節と、ヤコブ2章23節に書かれています。ソドムとゴモラを主が滅ぼされるとき、主がアブラハムに、「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。(創世18:17」と言われましたが、モーセに対するのと同じように、包み隠さず、親しく語っておられます。

 そしてイエスさまが弟子たちに語られました。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネ15:13」そしてエペソ書3章17節には、「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。」とあります。イエスさまが、私たちの心をご自分の住まいとされています。つまり、主がモーセに語られたような親密な交わりは、キリストの戒めの中に生きるキリスト者すべてに与えられている祝福であり、特権です。

 そして、自問しなければいけないのは、自分はそこまで親しい交わりを主と行なえているか、また、親しい語らいを望んでいるか?ということです。自分が今行なっていることが楽しくて、そのような語らいがなくなっている。あるいは、主のために、ということで教会の活動を熱心に行なっているが、主の臨在を楽しみ、主との語らいを楽しんでいることがなくなっている、ということがないか?などなどです。繰り返しますが、クリスチャンがクリスチャンであることの特権は、祝福よりも、祝福の源であられる主ご自身とともにいることなのです。

33:11b モーセが宿営に帰ると、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が幕屋を離れないでいた。

 モーセは自分が寝泊りする天幕に戻りましたが、そこにはいつもヨシュアがいました。モーセの模範をずっと見ていたヨシュアが、将来、彼の後を引き継ぎます。

2B 主を知ること 12−23
 そして次に、モーセと主との、顔と顔を会わせた語らいが記録されています。

1C ともにおられる主 12−17
33:12 さて、モーセは主に申し上げた。「ご覧ください。あなたは私に、『この民を連れて上れ。』と仰せになります。しかし、だれを私といっしょに遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身で、『わたしは、あなたを名ざして選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている。』と仰せになりました。33:13 今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう。この国民があなたの民であることをお心に留めてください。」

 ここでモーセが言っていることは、基本的に次のとおりです。「あなたは、わたしの使いを遣わす、と言われますが、私はその御使いのことは存知あげていません。けれども、あなたのことは知っています。そして、あなたご自身も、私を名ざしで選び出し、私のことを知っています。私は、あなたの使いではなく、あなたご自身がいてほしいと願っているのです。」モーセは、イスラエルの民のために、主ご自身が約束の地への旅に共にいてくださるように頼んでいます。

33:14 すると主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」

 主は祈りを聞いてくださっています。けれども、イスラエルの民全体に対する約束ではありません。「あなたを休ませよう」という、モーセ個人に対する約束です。そこでモーセは、食い入るようにして、主がご臨在してくださるという確証を得るために、訴えます。

33:15 それでモーセは申し上げた。「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。33:16 私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか。」

 先に、クリスチャンがクリスチャンであることの意義は、主がともにおられることだ、と言いましたが、イスラエルの民の意義も同じでした。主がともにおられることによって、他の民族とイスラエルが区別されます。

33:17 主はモーセに仰せられた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名ざして選び出したのだから。」

 こうして、イスラエルの民とともにおられることも、モーセは確約が取れました。そして彼はさらに、本音というか、彼がもっとも願っているものを、今、主に申し上げます。

2C 主の栄光 18−23
33:18 すると、モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」

 モーセは、主との語らいには飽き足りず、主ご自身を見たい、その栄光の本質のすべてを見たいと欲しました。これは(今から読むと分かりますが)人間には不可能なことなのですが、けれども信仰者が持っている、もっとも強い願いであるでしょう。自分が信じている主を、おぼろげながらではなく、顔と顔をあわせて、はっきりと見たい。自分を救ってくださった、主ご自身を見て、知りたいという願いです。

 主イエスさまは、父なる神に祈られたときに、「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。(ヨハネ17:3」と言われました。そしてヨハネの手紙には、「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、(1ヨハネ1:1」とあります。つまり、私たちがしばしば使う聖書用語、「永遠のいのち」の本質は、主を知ること、じっと見ることにあります。私たちが、このことから目を離していなければ、キリスト者としての生活は、安定し、また充実したものになるでしょう。

33:19 主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」

 主のあらゆる善と、主の名が宣言されます。なぜなら、名前の中に神の本質や性質、働きが凝縮されているからです。

 そして、恵もうとするものを恵み、あわれもうと思う者をあわれむ、とありますが、この箇所はローマ9章で引用されています。主の選びについて書かれてあるところです。モーセは、自分に善や徳があるから、主から選ばれたのではありません。主の一方的な恵みとあわれみによって、みこころにかなう者とされたのです。私たちも同じです。一方的なあわれみがあって、クリスチャンになりました。

33:20 また仰せられた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」

 先ほど話しましたように、主の顔を見ることはできません。聖書の中に、主の栄光を強く見てしまって、圧倒される人たちの話がいくつか出てきます。イザヤは、天の情景を見て、「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。(イザヤ6:5)」と言いました。ダニエルは、イエス・キリストご自身と思われる主の使いを見て、顔が蒼白になり、意識を失って、倒れてしまいました(ダニエル10:8)。そして使徒ヨハネも、同じ主イエス・キリストの栄光の姿の幻を見て、倒れて、死人のようになってしまいました(黙示1:17)。主のすべてを見て、尚生きることはできません。

33:21 また主は仰せられた。「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。33:22 わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。33:23 わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」

 主の栄光の残光といいましょうか、その名残とでも言いましょうか、モーセはそれを見ることを許されます。

2A 契約の更新 34
 そしてモーセは、会見の天幕から、主がおっしゃられたシナイ山の場所へ向かいます。

1B 主の御名 1−9
34:1 主はモーセに仰せられた。「前のと同じような二枚の石の板を、切り取れ。わたしは、あなたが砕いたこの前の石の板にあったあのことばを、その石の板の上に書きしるそう。

 先にモーセが携えていた石の板は、モーセが金の子牛のことで怒って、粉々に砕きました。けれども、主が再びイスラエルとの関係を修復されるので、再び石板を用意しなさいとおっしゃられています。

34:2 朝までに準備をし、朝シナイ山に登って、その山の頂でわたしの前に立て。34:3 だれも、あなたといっしょに登ってはならない。また、だれも、山のどこにも姿を見せてはならない。また、羊や牛であっても、その山のふもとで草を食べていてはならない。」

 以前、主がシナイ山でご自分を現われるときと同じように、モーセを仲介者として、他の人たちが寄り付くことがないように命じておられます。

34:4 そこで、モーセは前のと同じような二枚の石の板を切り取り、翌朝早く、主が命じられたとおりに、二枚の石の板を手に持って、シナイ山に登った。34:5 主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名によって宣言された。

 この雲は、シェキナーの栄光、主がご臨在されるときに現われる栄光のしるしです。

34:6 主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、34:7 恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」

 これが、主ご自身が、ご自分に名前を付けた名前です。かなり長いですし、そして主ご自身が名づけているのですから、主のご性質の真髄になります。それが、「あわれみ深く、情け深い神」であるということです。これは、なんと、一般の人々の神概念と異なることでしょうか?未信者の人が書いている旧約聖書についての書物はみな同様に、次に何をしでかすかわからない恐い神として捉えています。けれども、それは単に読み手の勝手な思い込みであり、主の本質は、あわれみと恵みの深さにあるのです。

 このことを理解するのは、非常に大事です。先ほど主は、「わたしのあらゆる善を通り過ぎさせる」と言われましたが、主が善であり、あわれみと恵みに富んでいることを魂の奥底から、また、霊の奥深くに、沈み込ませている必要があります。このことによって、私たちは自ずと主に近づきたくなり、主との交わりを自然に深めようとします。恐れる者は、必ず退きます。神が良い方であることを信じていないので、自分のことを罰して、自分に意地悪をするかもしれないというサタンの囁きのように聞き従って、神のところに来ようとしません。けれども、主があわれみに富んでおられる方を知るとき、私たちは自ずと罪の悔い改めに導かれ、あわれんでいただきたいと願うようになります。

 そして、恵みは千代にまで、罰は三、四代まで及ぶという対比も大事です。主がよくすると決められたのであれば、どんなことがあっても、ずっとその通りにしてくださる方です。むろん、主は悪をそのままにすることを喜びとはなさいませんから、罰すべき時は罰します。けれども、さばきにはるかにまして、あわれみがあふれ出てくるのが、主のご性質なのです。

 またここの箇所は、親から子に対して、罰が受け継がれるように聞こえるかもしれませんが、それぞれに罪が問われる、という箇所がエゼキエル書などにありますので、そういうことではありません。親が行なっていることが、子に影響を与える、と解釈するのが妥当でしょう。

34:8 モーセは急いで地にひざまずき、伏し拝んで、34:9 お願いした。「ああ、主よ。もし私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか主が私たちの中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民は、うなじのこわい民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自身のものとしてくださいますように。」

 モーセは、主の残光を見て、恐れおののき、イスラエルの民のためにさらに執り成しをしています。

2B 関係の回復 10−28
 そしてこのことによって、主との関係が完全に回復されます。主がイスラエルと結ばれた契約を更新してくださいます。

1C 偶像礼拝について 10−17
34:10 主は仰せられた。「今ここで、わたしは契約を結ぼう。わたしは、あなたの民すべての前で、地のどこにおいても、また、どの国々のうちにおいても、かつてなされたことのない奇しいことを行なおう。あなたとともにいるこの民はみな、主のわざを見るであろう。わたしがあなたとともに行なうことは恐るべきものである。34:11 わたしがきょう、あなたに命じることを、守れ。見よ。わたしはエモリ人、カナン人、ヘテ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を、あなたの前から追い払う。」

 主ご自身が約束の地までの旅、また約束の地において、ともにいてくださいます。

34:12 あなたは、注意して、あなたがはいって行くその地の住民と契約を結ばないようにせよ。それがあなたの間で、わなとならないように。34:13 いや、あなたがたは彼らの祭壇を取りこわし、彼らの石柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒さなければならない。34:14 あなたはほかの神を拝んではならないからである。その名がねたみである主は、ねたむ神であるから。34:15 あなたはその地の住民と契約を結んではならない。彼らは神々を慕って、みだらなことをし、自分たちの神々にいけにえをささげ、あなたを招くと、あなたはそのいけにえを食べるようになる。34:16 あなたがその娘たちをあなたの息子たちにめとるなら、その娘たちが自分たちの神々を慕ってみだらなことをし、あなたの息子たちに、彼らの神々を慕わせてみだらなことをさせるようになる。34:17 あなたは、自分のために鋳物の神々を造ってはならない。

 偶像礼拝を行なってはいけない、そのために、住民と契約を結んではならないという戒めです。

2C 祭りについて 18−27
 そして次から、祭りについての戒めです。はじめに主が語られたことと同じものですので、ざっと読むだけにします。

34:18 あなたは、種を入れないパンの祭りを守らなければならない。わたしが命じたように、アビブの月の定められた時に、七日間、種を入れないパンを食べなければならない。あなたがアビブの月にエジプトを出たからである。34:19 最初に生まれるものは、すべて、わたしのものである。あなたの家畜はみな、初子の雄は、牛も羊もそうである。34:20 ただし、ろばの初子は羊で贖わなければならない。もし、贖わないなら、その首を折らなければならない。あなたの息子のうち、初子はみな、贖わなければならない。だれも、何も持たずに、わたしの前に出てはならない。34:21 あなたは六日間は働き、七日目には休まなければならない。耕作の時も、刈り入れの時にも、休まなければならない。34:22 小麦の刈り入れの初穂のために七週の祭りを、年の変わり目に収穫祭を、行なわなければならない。34:23 年に三度、男子はみな、イスラエルの神、主、主の前に出なければならない。34:24 わたしがあなたの前から、異邦の民を追い出し、あなたの国境を広げるので、あなたが年に三度、あなたの神、主の前に出るために上る間にあなたの地を欲しがる者はだれもいないであろう。34:25 わたしのいけにえの血を、種を入れたパンに添えて、ささげてはならない。また、過越の祭りのいけにえを朝まで残しておいてはならない。34:26 あなたの土地から取れる初穂の最上のものを、あなたの神、主の家に持って来なければならない。子やぎをその母の乳で煮てはならない。」34:27 主はモーセに仰せられた。「これらのことばを書きしるせ。わたしはこれらのことばによって、あなたと、またイスラエルと契約を結んだのである。」

 こうして、契約の更新が行なわれました。

3B 光り輝く顔 29−35
 そして、このようにして主の栄光の残光にふれ、主との語らいをしたモーセですが、その後の結果が次に書いてあります。

34:28 モーセはそこに、四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、彼は石の板に契約のことば、十のことばを書きしるした。34:29 それから、モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。34:30 アロンとすべてのイスラエル人はモーセを見た。なんと彼の顔のはだが光を放つではないか。それで彼らは恐れて、彼に近づけなかった。

 語らいをしていた結果が、自分の顔も輝きを持っていたことです。

34:31 モーセが彼らを呼び寄せたとき、アロンと会衆の上に立つ者がみな彼のところに戻って来た。それでモーセは彼らに話しかけた。34:32 それから後、イスラエル人全部が近寄って来たので、彼は主がシナイ山で彼に告げられたことを、ことごとく彼らに命じた。34:33 モーセは彼らと語り終えたとき、顔におおいを掛けた。34:34 モーセが主の前にはいって行って主と話すときには、いつも、外に出るときまで、おおいをはずしていた。そして出て来ると、命じられたことをイスラエル人に告げた。34:35 イスラエル人はモーセの顔を見た。まことに、モーセの顔のはだは光を放った。モーセは、主と話すためにはいって行くまで、自分の顔におおいを掛けていた。

 このように、イスラエルの民がモーセに近づいて、主の戒めを聞くために、モーセは輝く顔におおいをかけました。この出来事についての説明がコリント人への手紙第二3章に書いてあります。読んでみます。3節からです。「何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。」パウロは、旧約の律法に仕える奉仕が、モーセの顔が輝いたように栄光あるものであれば、新約の奉仕者は、なおさらのこと栄光にあふれている、とあります。続けて読みます。

 そして、かつて栄光を受けたものは、このばあい、さらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているからです。もし消え去るべきものにも栄光があったのなら、永続するものには、なおさら栄光があるはずです。このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆に語ります。そして、モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません。」モーセが顔におおいをした理由がここに書かれています。おおいは、ただそのまぶしさを隠すものだけではなく、その輝きが消えていくのをイスラエルの民に見せないためでもありました。その輝きは語っているうちに消えていきました。

 そしてそのことから、パウロは、現在のイスラエルの人たちも、おおいがかけられているという話に移していきます。「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。」現在でも、ユダヤ教の会堂では、モーセの律法が読まれていますが、モーセにおおいがかけられていたように、彼らの心にもおおいがかけられています。律法の目標であるキリストを受け入れていないために、まだ真理を悟っていない、ということです。

 そして、私たちに与えられている、すばらしい約束が次に書かれています。「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」モーセが主と時間を取って輝いていたように、私たちも主の栄光を、主との交わりをとおして、反射することができます。いや、モーセ以上に反射することができるのです。キリストのほうに目を向けるなら、そのことによって御霊が私たちを変えていかれます。

 私たちに大切なのは、主のご臨在です。主がともにおられることを知ることです。いや、それ以上に、主ご自身を見ることです。まわりの状況が良くなること、祝福されることも宜しいでしょう。けれども、主がおられなければすべてがむなしいです。顔と顔を合わせる語らいを、開始してみましょう。


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