出エジプト記35−40章 「救いの達成」

アウトライン

1A 人々の志 35
   1B キリストのみわざ 1−3
   2B 駆り立てる心 4−35
      1C 主の命令 4−19
      2C 全会衆 20−29
      3C 指導者 30−35
2A 知恵の御霊 36−39
   1B 奉仕 36
      1C 奉納物 1−7
      2C 幕屋の構造 8−38
   2B 設計 37−38
      1C 祭具 37:1−38:20
      2C たな卸し 38:21−31
   3B 作成 39
      1C 装束 1−31
      2C 奉仕の完成 32−43
3A 忠実な奉仕 40
   1B 主の命令 1−33
      1C 配置 1−8
      2C 油注ぎ 9−15
      3C 礼拝の開始 16−33
   2B 満ちる主の栄光 34−38

本文

 出エジプト記35章を開いてください。今日は、35章から最後までを学びます。ここでのテーマは、「救いの達成」です。前回、私たちは、イスラエルの民が偶像崇拝と不品行の罪を犯したところを読みました。モーセがシナイ山からなかなか降りて来なかったので、イスラエルの民は他に神を自分たちのために造ってくれとアロンに要求したのです。そして金の子牛をアロンが造りましたが、この罪によって神は、ご自分がイスラエルの民とともにいない、と言われました。けれども、モーセの必死な執り成しによって、神は、イスラエルに対して再び契約を結んでくだいました。前回、私たちは、その契約の戒めの部分、つまり、偶像を造ってはならないとか、祭りを守らなければいけないという戒めの部分を読みましたが、今日は、幕屋が建てられる部分を読んでいきます。そして、出エジプト記のクライマックスである、主の栄光が幕屋に満ちるところまで読んでいきます。

 この箇所は、主に3つの部分に分けることができます。一つ目は、35章です。ここにおいて、幕屋を造るための材料をイスラエル人が持ってきます。二つ目は、36章から39章です。そこでは、その材料を使って、知恵ある者たちが幕屋が造っていきます。三つ目は、40章です。幕屋が完成されて、モーセが礼拝を開始しします。

1A 人々の志 35
 それでは、1つ目の、材料をささげる場面を読んで行きましょう。

1B キリストのみわざ 1−3
 モーセはイスラエル人の全会衆を集めて彼らに言った。「これは、主が行なえと命じられたことばである。六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目には、主の聖なる全き休みの安息を守らなければならない。この日に仕事をする者は、だれでも殺されなければならない。安息の日には、あなたがたのどの住まいのどこででも、火をたいてはならない。」

 これから、幕屋の建築に取りかかるのですが、モーセは、その前に、安息日の戒めをイスラエル人に伝えました。幕屋の建築について、イスラエルの民はとても喜んでいました。わくわくしていました。彼らは、金の子牛を拝むという罪を犯してしまいましたが、悔い改めました。そして、モーセの顔が輝いているのを見ながら、再び主のことばを聞きました。それによって、彼らの心は熱い思いで一杯になり、主にお仕えしたい願いと、主に自分自身をおささげしたい願いが強くなっていたのです。そのような状態のイスラエルの民に対して、モーセはまず、安息日の掟を教えたのです。7日目には必ず休まなければいけない。その日は働かないで主を礼拝しなければいけない、と教えました。コロサイ人への手紙で、パウロは、安息日や祭りは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです、と言いました(2:16−17参照)。この安息は、私たちの救いのために、神がイエス・キリストにあってすべての働きを成し遂げられたことを意味しています。私たちが救われるために必要なことは、イエス・キリストが十字架につけられたことによって完成したのです。したがって、私たちは今、イエスさまが行なってくださったところに休むことによって、安息を得ることができます。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)」とイエスは言われました。

 したがって、イスラエルが自分たちを主にささげ、主のための働きをする前に安息の戒めを受けたのは、私たちクリスチャンが、すべての献身と奉仕の前に、キリストの十字架のみわざをあがめることに他なりません。私たちの主にお仕えする思いは、みな、自分の罪のためにキリストが死んでくださったという事実から生じてくるのであり、その深い愛に駆り立てられて、奉仕へと、また福音宣教へと促されるのです。子どもへのミニストリーのセミナーにおいて、ジョン・コーソンという牧師が、クリスチャン奉仕者が燃え尽きないようにするための方法について教えてくれました。その方法とは、イエスが私たちの罪のために死んでくださったことを深く認識することであると言いました。ですから、ジョン・コーソンは、燃え尽きないためのノウハウを話さず、そのメッセージのほとんどの時間を、単純にイエスさまの十字架のみわざを説くのに費やしたのです。この十字架の理解から、私たちに熱い思いが生じてきます。神が、私たちに志を立てて、事を行なわせようとされるのです。ですから、イスラエルは、幕屋の建設の前に、安息日のおきてを聞く必要がありました。これが彼らの奉仕の出発地点だったからです。

2B 駆り立てる心 4−35
1C 主の命令 4−19
 そして、モーセは、幕屋の建築についての主の命令を、イスラエル人に告げます。モーセはイスラエル人の全会衆に告げて言った。「これは、主が命じて仰せられたことである。あなたがたの中から主への奉納物を受け取りなさい。すべて、心から進んでささげる者に、主への奉納物を持って来させなさい。すなわち、金、銀、青銅、青色、紫色、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、燈油、そそぎの油とかおりの高い香のための香料、エポデや胸当てにはめ込むしまめのうや宝石である。

 幕屋に必要な材料をささげなさい、という命令をモーセは彼らに伝えました。ここで大事な言い回しが、「心から進んでささげる者」という箇所です。この言い回しは、35章において繰り返し出てきます。強制されてではなく、いやいやながらではなく、心から進んでささげたいと願っている者がささげなさい、と命じています。自分の財産をささげる、あるいは自分の能力や時間をささげるとき、それは、人に言われたからというものではなく、一人で祈って、自分の意思でささげることを決めます。また、人に対して奉仕をするのではなく、主に対してささげるのです。パウロは言いました。「私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。(コリント第二
9:67」心の決めたとおりにささげ、喜んで与える人を神は受け入れてくださいます。

 あなたがたのうちの心に知恵のある者は、みな来て、主が命じられたものをすべて造らなければならない。

 
材料が集まった後で、心に知恵のある人々が幕屋の部分を造ります。次に、その部分が列挙されています。

 幕屋、その天幕と、そのおおい、その留め金とその板、その横木、その柱と、その台座、これは、幕屋の大枠の部分ですね。幕屋は幕と、それを支える板によって構成されています。箱と、その棒、『贖いのふた』とおおいの垂れ幕、机と、その棒とそのすべての用具と供えのパン、燈火のための燭台と、その用器とともしび皿と、燈火用の油、香の壇と、その棒とそそぎの油とかおりの高い香と幕屋の入口につける入口の垂れ幕、これは、聖所の中の用具についての説明です。幕屋の中身の説明ですね。そして、次は外庭における部分の説明です。全焼のいけにえの祭壇とそれに付属する青銅の格子、その棒とそのすべての用具、洗盤と、その台、庭の掛け幕、その柱とその台座と庭の門の垂れ幕、幕屋の釘と庭の釘と、そのひも、そして次に祭司の装束の部分が列挙されます。聖所で仕えるための式服、すなわち、祭司アロンの聖なる装束と、祭司として仕える彼の子らの装束である。

 これらを、心に知恵のある人々が作ります。あとで、この作業についての詳しい工程が述べられています。

2C 全会衆 20−29
 イスラエル人の全会衆は、モーセの前から立ち去った。感動した者と、心から進んでする者とはみな、会見の天幕の仕事のため、また、そのすべての作業のため、また、聖なる装束のために、主への奉納物を持って来た。

 見てください、感動した者、心から進んでする者が奉納物を持ってきました。いやいやながらではなく、自ら進んで喜んでささげました。


 すべて心から進んでささげる男女は、飾り輪、耳輪、指輪、首飾り、すべての金の飾り物を持って来た。金の奉献物を主にささげた者はみな、そうした。男だけではなく、女の人たちもささげています。また、青色、紫色、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮を持っている者はみな、それを持って来た。銀や青銅の奉納物をささげる者はみな、それを主への奉納物として持って来た。

 モーセへの奉納物ではなく、主への奉納物と書いてあります。モーセに言われたからではなく、自分の意思で主におささげしたのです。

 アカシヤ材を持っている者はみな、奉仕のすべての仕事のため、それを持って来た。また、心に知恵のある女もみな、自分の手で紡ぎ、その紡いだ青色、紫色、緋色の撚り糸、それに亜麻布を持って来た。感動して、知恵を用いたいと思った女たちはみな、やぎの毛を紡いだ。
女性が活躍しています。自分に与えられている刺繍の能力を、主のために用いています。上に立つ者たちはエポデと胸当てにはめるしまめのうや宝石を持って来た。また、燈火、そそぎの油、かおりの高い香のためのバルサム油とオリーブ油とを持って来た。宝石や香油などは、比較的裕福な上に立つ人たちによって捧げられました。イスラエル人は、男も女もみな、主がモーセを通して、こうせよと命じられたすべての仕事のために、心から進んでささげたのであって、彼らはそれを進んでささげるささげ物として主に持って来た。

 ですから、あらゆるグループの人々が奉納物を持ってきています。男だけではなく、女も。そして、女は刺繍を手伝いました。また、裕福な人は高価なものにおいて貢献しました。ですから、いろいろな種類の人々によって捧げられたのであり、一部のグループの人たちだけではありませんでした。私たちは、ここから、教会のあるべき姿を見ることができます。私たちには、さまざまなグループの人々がいます。神はそれぞれに、能力と才能を与えてくださいました。それらを用いることによって、主のみわざが行なわれていきます。

3C 指導者 30−35
 そして主は、単にいろいろな人々の心を動かされただけではなく、彼らを教え指導する人を起こしてくださいました。モーセはイスラエル人に言った。「見よ。主はユダ部族のフルの子であるウリの子ベツァルエルを名ざして召し出し、彼に、知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たされた。それは彼が金や銀や青銅の細工を巧みに設計し、はめ込みの宝石を彫刻し、木を彫刻し、あらゆる設計的な仕事をさせるためである。

 
ベツァルエルが、非常に高度な技術を要する設計や彫刻の仕事をするために、神から任命されました。ここで大切な言葉は、「神の霊を満たされた」ということです。知恵の御霊に満たされました。これは単に、細かい作業をすることができる能力があるということだけではありません。神の栄光を表わす言葉や行動を伴なっていることに他なりません。能力があっても高慢であれば、その主のわざはすこでストップしてしまいます。争いと不一致が出て来て、乱れてしまいます。一つの事が成し遂げられるには、一致と秩序が必要ですが、それは、組織的に動いてもできるようなものではありません。あくまでも、主の御霊がそれぞれに働きかけてくださり、互いに仕え合い、へりくだることによって成し遂げられるのです。それぞれが、個人的に主との交わりを深めなければ決してできないことです。ですから、御霊に満たされるのは、必要不可欠なことであります

 また、彼の心に人を教える力を授けられた。彼とダン部族のアヒサマクの子オホリアブとに、そうされた。ベツァルエルの他にオホリアブが任命されました。主は彼らをすぐれた知恵で満たされた。それは彼らが、あらゆる仕事と巧みな設計をなす者として、彫刻する者、設計する者、および、青色、紫色、緋色の撚り糸や亜麻布で刺繍する者、また機織りする者の仕事を成し遂げるためである。

2A 知恵の御霊 36−39
1B 奉仕 36
1C 奉納物 1−7
 「ベツァルエルとオホリアブ、および、聖所の奉仕のすべての仕事をすることのできる知恵と英知を主に与えられた、心に知恵のある者はみな、主が命じられたすべてのことを成し遂げなければならない。」モーセは、ベツァルエルとオホリアブ、および、主が知恵を授けられた、心に知恵のある者すべて、すなわち感動して、進み出てその仕事をしたいと思う者すべてを、呼び寄せた。モーセは主の命令を語り終わってから、実際の建設をしてくれる人々を呼び寄せました。彼らは、聖所の奉仕の仕事をするためにイスラエル人が持って来たすべての奉納物をモーセから受け取った。しかしイスラエル人は、なおも朝ごとに、進んでささげるささげ物を彼のところに持って来た。そこで、聖所のすべての仕事をしていた、知恵のある者はみな、それぞれ自分たちがしていた仕事から離れてやって来て、モーセに告げて言った。「民は幾たびも、持って来ています。主がせよと命じられた仕事のために、あり余る奉仕です。」

 彼らが設計に取りかかっても、まだイスラエルの民は奉納物を持ってきていました。ついに、彼らが自分の仕事場を離れて、モーセのところにやって来たのです。

 それでモーセは命じて、宿営中にふれさせて言った。「男も女も、もはや聖所の奉納物のための仕事をしないように。」こうして、民は持って来ることをやめた。手持ちの材料は、すべての仕事をするのに十分であり、あり余るほどであった。

 ものすごいですね。ささげるのを止めさせなければいけないほど、イスラエル人はささげました。あり余る奉仕とあります。私たちも、与えることの喜びと祝福を経験しなければいけません。韓国のある牧師は、日本にいるクリスチャンがささげないことを嘆いていますが、まさしくそのとおりでしょう。パウロは、コリントにある教会の人々のことを嘆きました。彼らは裕福であったのも関わらず、ユダヤ地方の困窮している兄弟たちのために献金をほとんどしませんでした。むしろ、マケドニアにいる貧しい兄弟たちが、赤字が出てまでも献金しました。コリントにいる人々は聖書の知識は豊かにあったのですが、ユダヤにいる人々を、見たこともないから自分には関係のない人々のように考え、とくに深い関心を寄せなかったのです。そこで損をするのは、彼ら自身です。一方、マケドニアの人々は、ささげることによって、愛が生まれ、交わりの恵みにあずかり、数多くの霊的祝福を受けました(以上Uコリント8参照)。ですから、自分のものをささげて、いや、自分自身をささげて、この祝福のなかに入ることができます。

2C 幕屋の構造 8−38
 そして8節から、幕屋の建設について述べられています。ここからは、私たちが以前学んだ、24章から30章までの内容とほぼ同じであります。36章では、幕屋の構造部分について語られています。8節から19節までは、幕について述べられています。20節から38節までは、幕を支える板や棒について述べられています。ですから、幕屋そのものを構成する部分について語られています。ここにおける重要なポイントは、幕屋の製作をしている人物の主語です。すべて単数形、英語ですとHeになっています。新改訳ではそれがきちんと出て来ないのですが、新共同訳では、8節が、「仕事に従事する者のうち、心に知恵のある者はすべて」となっており、英語ですとeveryoneとなっています。その後でずっと、Heという主語が用いられています。この作業に当たった人々は大ぜいなのに、主語が単数になっているのは、一人一人の奉仕に焦点が当てられているからです。機械の中のネジのように私たちを使う会社とは異なり、教会は、一人一人が尊い存在であります。一人一人が建て上げられるために、神は私たちを用いられるのです。私たちは誰一人として必要のない人はいません。「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(1コリント12:27)」とパウロは言いました。

2B 設計 37−38
1C 祭具 37:1−38:20
 そして37章に入りますが、ここからは、幕屋の中にある祭具、あるいは家具についての設計について述べられています。37章1節をご覧ください。ベツァルエルはアカシヤ材で一つの箱を作った。

 
と、設計している人がベツァルエルになっています。祭具は、非常に細かい作業と要します。神は、特別に賜物が与えられたベツァルエルに、その作業と託されたのです。37章1節から9節までは、契約の箱の設計について述べられています。箱の中には十戒の書かれた石の板と、アーモンドのつぼみの出たアロンの杖と、マナのつぼが入っています。そして贖いの蓋があって、贖いの蓋は純金で出来ており、二人のケルビムが作られました。主は、この二人のケルビムの間に住まわれます。そして、10節から16節には、12個のパンが供えられる机について述べられます。12個のパンはイスラエル12部族を表わしています。そして、17節から24節までは、燭台についてです。7つの枝があって、その上に受け皿があり、油をそこに入れて火がともされます。これをミノラとも呼びます。25節から29節までは、香壇についてです。これはいけにえのためではなく、香を焚くためです。聖書では、香は聖徒の祈りにたとえられています。

 そして、37章には、幕屋の外側にある外庭について述べられています。1節から7節に、青銅の祭壇について描かれています。そこで、全焼のいけにえをはじめ、動物のいけにえをささげました。イスラエルの人々は、ここで神との関わりを持つことが許されました。8節は、青銅の洗盤について書かれています。38章8節をご覧ください。

 また彼は、青銅で洗盤を、また青銅でその台を作った。会見の天幕の入口で務めをした女たちの鏡でそれを作った。


 女の人たちの鏡で、この洗盤が作られました。女の人にとっては、かなりの犠牲です。けれども、麗しい象徴がここに存在すると思います。今まで、外面の身だしなみをするために使われていたものが、今度は内面の身だしなみのために用いられるのです。洗盤において、祭司たちは汚くなった足と手を洗って、聖所における奉仕に取りかかりました。神の宮に入るのに、自分の身を清めなければならなかったのです。私たちは、罪の告白と、神のみことばによって清めていただきます。したがって、内面の美しさが、洗盤によって出てくるようにされるのです。そして、9節から20節には、庭の掛け幕について述べられています。イスラエルの民は、どこからでも幕屋に入ることができるのではなく、一つの門だけから入ることが許されました。東側にある門です。その他はこの掛け幕によって隔たりがありました。


2C たな卸し 38:21−31
 こうして、幕屋の用具をベツァルエルが設計しました。その次に、再び、他の知恵のある人々によって祭司の装束が作られるのですが、その前に、幕屋のたな卸しが行なわれます。幕屋が作られたあと、正しく作られたかを確かめます。その次に、、ささげられた金と銀と青銅の量がはかられます。38章21節をご覧ください。

 幕屋、すなわち、あかしの幕屋の記録は、次のとおりである。これは、モーセの命令によって調べたもの、祭司アロンの子イタマルのもとでの、レビ人の奉仕である。ユダ部族のフルの子であるウリの子ベツァルエルは、主がモーセに命じられたことを、ことごとく行なった。彼とともに、ダン部族のアヒサマクの子オホリアブがいた。彼は彫刻をし、設計をする者、また青色、紫色、緋色の撚り糸や亜麻布で刺繍をする者であった。


 たな卸しは、レビ人によって行なわれました。調べた結果、主がモーセに命じられたことに、正確に造られたことが分かりました。

 そして次に、金と銀と青銅の量がはかられます。仕事すなわち聖所のあらゆる仕事のために用いられたすべての金は、奉献物の金であるが、聖所のシェケルで29タラント730シェケルであった。

 
これは約1トンです。1トンの金が、自主的な奉納によって集められました。

 会衆のうちの登録された者による銀は、聖所のシェケルで100タラント1775シェケルであった。これは、ひとり当たり一ベカ、すなわち、聖所のシェケルの半シェケルであって、すべて、二十歳以上で登録された者が60万3550人であったからである。


 銀については、富んだ者も貧しい者も、成年男子から半シュケルずつ納めるように命令されたおきてがありましたね。それで、約3.5トンの銀が集められました。

 そして29節に飛んで、奉献物の青銅は70タラント2400シェケルであった。とあります。

 だいたい2.5トンの重さです。ものすごい量の金属がささげられましたが、それは、何グラムばかりの貴金属を持っていたイスラエルの家族が捧げたものです。各家庭のささげものは少量に見えますが、主は人々の心を動かして、このように大きな量を集めてくださいました。私たちの献金も同じです。自分は少しの貢献しかしていないと思っているかもしれません。けれども、数多くの宣教団体、ミニストリーは、そのほとんどが定期的な小額の献金によって賄われているそうです。主は、金持ちに多額の献金をさせることで必要を満たされるのではなく、数多くの普通の人の心を動かして、大きな仕事を成し遂げてくださいます。

3B 作成 39
1C 装束 1−31
 そして次から祭司の装束が作られていく様子が描かれています。2節から7節までは、エポデが作られていく様子が書かれています。これは、胸と腹の部分、また背中の部分を覆う、エプロンのような格好をしています。けれども、それは、正面と背面の二枚で出来ており、肩のところで結びつけられました。その結び目は、金のわくでできており、そこにイスラエル12部族の名が彫られた宝石が埋め込まれました。そして、8節から21節までは、胸当てについて書かれています。胸当てには、12個の宝石が埋め込まれており、イスラエル12部族を表わしていました。またポケットのようなものがあり、そこにはウリムとトンミムが入っていました。22節から26節までは、エポデの下に着ている青服について書かれています。これは下に鈴が付いているのですが、贖いの日に、大祭司は一人で至聖所に入ります。そこで、誤ったことをしたら即、打たれて死んでしまうのですが、大祭司以外はだれも入ることはできないので、鈴が鳴り止んだのなら、打たれて死んだことが分かったのです。そしてロープもつけられていたのです、そのロープで、大祭司を引っ張り出しました。まさに、命を賭けた奉仕を大祭司は行なっていたし、イスラエルの民も、こんなに聖い、畏れ多い神に自分たちがお仕えしていることに気づいたでしょう。そして、27節から31節には、かぶり物について述べられています。そのかぶりものには、額のところに、「主の聖なるもの」という文字が書き記された札が結びつけられました。アロンが、イスラエルの全会衆のために、神の御前で、彼らを聖なる者として示したのです。私たちは今、大祭司なるイエスが私たちを、父なる神の御前で、傷のない者、汚れのない者として、ささげてくださっています。

2C 奉仕の完成 32−43
 これで、ようやく幕屋を造る奉仕がすべて終わりました。32節をご覧ください。こうして、会見の天幕である幕屋の、すべての奉仕が終わった。イスラエル人は、すべて、主がモーセに命じられたとおりにした。そのようにした。とあります。この39章とまた、40章には、何回も何回も一つの言いまわしが繰り返されています。「すべて、主がモーセに命じられたとおりにした。そのようにした。」という言い回しです。39章を振り返ってみましょうか。1節に、「主がモーセに命じられたとおりに」とあります。5節にも、「主がモーセに命じられたとおりに」とあります。7節にも、「主がモーセに命じられたとおりに」とあります。21節にも、26節に、29節、そして、31節にも、「主がモーセに命じられたとおりに」とあります。彼らが行なったのは、主が命じられたとおりのものでした。これは、彼らに完璧主義者が多く、すべてをきちんとできたからではありません。主が彼らの心に願いを与えてくださり、その思いにしたがって、彼らが奉仕をしたのです。

 ピリピ書2章をお開きください。私たちの間で行なわれる主のみわざが、新約においても美しく描かれています。ピリピ書2章12節からです。「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。」救いを達成するという言葉は、なんか行ないによって救われるように聞こえます。けれども、次を読めば分かります。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」救いを達成するための良い行ないは、みな神が私たちのうちで行なってくださっているのです。志を立てさせ、事を行なわせてくださいます。「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。(ピリピ2:12-16」このように、私たちのうちに働いてくださる神が、私たちをこの世において輝かせてくださり、また、天において大いなる報いを与えてくださいます。ですから、私たちは主のわざを行なうことを怠ることなく、忠実に、しっかりと果たしていく必要があります。このピリピ書にあるように、疑わず、つぶやかずに行ない、しっかりと行なっていくのです。

3A 忠実な奉仕 40
 その忠実なしもべの姿を、私たちは40章に出てくるモーセのなかに見出すことができます。

1B 主の命令 1−33
 まずモーセは、主から命令を受けました。

1C 配置 1−8
 主はモーセに告げて仰せられた。「第一の月の一日に、あなたは会見の天幕である幕屋を建てなければならない。」

 造られた幕屋のそれぞれの部分は、ちょうど組み立て式になっていました。幕屋は、イスラエルの民が荒野で旅をして移動することができるように、移動できる取り外し可能なものになっていました。そして、初めて幕屋が建てられるとき、モーセ独りで、それらを組みたてるように命じられたのです。それぞれの部分が出来あがって、モーセのところに集められたので、それを組みたて、用具は示されたところに置かなければいけません。そして、この命令を受けたのは、「第一の月の一日」であることに注目してください。第一の月は、イスラエルの民がエジプトを出発する月でした。その14日に、初めての過越の祭りが守られて、エジプトの初子がみな打たれて死んだのです。その後、丸一年後に、幕屋が建てられます。

2C 油注ぎ 9−16
 9節に飛んでください。ここからは、モーセが油を注ぐように命じられます。あなたは、そそぎの油を取って、幕屋とその中のすべてのものにそそぎ、それと、そのすべての用具とを聖別する。それは聖なるものとなる。

 
まず、幕屋のすべてのものに油をそそぎます。油を注ぐのは、聖別するためです。聖別とは、特別な用途のために他のものから分けられる、という意味があります。聖書では、神だけのものになることを意味します。幕屋に、人が入っていって寝泊りするようなことはできず、ただ主を礼拝するだけのものだったのです。私たちは、このからだが聖別されたものであると、聖書では言われています。私たちのからだそのものが、神のものです。もはや自分のものではありません。それは、私たちが自分勝手なことができないことを教えると同時に、すべて神に任せてよい事実も教えてくれます。このからだが神のものなのですから、自分の問題とせずに、神の問題なのです。私は韓国に行って、私について、若いからというので不満を言う人がいたそうです。これは、私が日本にいたときから受けた批判であり、私の心を傷つけました。けれども、つい最近、このように若いからだを用いることを選ばれたのは、主ご自身であることに気づいたのです。主が起こしてくださっている問題なのだから、批判されたって、不満を言われたって、それは神に対して不満を言っているのです。もちろん、私が不敬虔なことをすれば、その批判は私に対するものですが、ただ若いからなのであれば、問題は神にあります。ですから、聖別されるとは、自分勝手にできない、イエスが心の王座を占められていると同時に、すべての責任をイエス様がとってくださることに他なりません。


 あなたは全焼のいけにえの祭壇と、そのすべての用具に油をそそぎ、その祭壇を聖別する。祭壇は最も聖なるものとなる。洗盤とその台とに油をそそいで、これを聖別する。

 
幕屋のあらゆる用具に油がそそがれました。ですから、神の油そそぎは、集会や礼拝のプログラムの中だけに存在するのではありません。私たちのあらゆる生活の中に、洗濯物を干したり、皿を洗っているときにでさえ、主の油注ぎが必要になるのです。

 アロンとその子らを会見の天幕の入口に近づかせ、水で彼らを洗い、アロンに聖なる装束を着けさせ、彼に油をそそぎ彼を聖別する。彼は祭司としてわたしに仕える。彼の子らを近づかせ、これに長服を着せなければならない。


 油が注がれるときに、彼らは水で洗われました。これは、もちろん体をきれいにすることのためではありません。祭司の奉仕を始めるときに、自分の態度と行動が清められていなければいけないことの象徴です。私たちも同じです。私たちが心に悪い思いがあるとき、私たちは、主を礼拝するのをとどまったり、奉仕をしたくなくなります。礼拝したとしても、心は冷めており、力がないのです。したがって、私たちは日々、罪の告白と、みことばの洗いをもって、主イエスさまに清めていただかなければいけません。アロンとその子どもたちは、水で洗われました。

 あなたは、彼らの父に油をそそいだように、彼らにも油をそそぐ。彼らは祭司としてわたしに仕える。彼らが油をそそがれることは、彼らの代々にわたる永遠の祭司職のためである。


 アロンだけではなく、子どもも油がそそがれました。祭司の働きは、父親から受け継ぐものではありませんでした。あくまでも、神ご自身の油注ぎが、本人に与えられない限り、祭司の役目を果たすことができません。同じように、私たちは、一人一人が、聖霊の力とその満たしを受けなければいけないのです。

 モーセはそのようにした。すべて主が彼に命じられたとおりを行なった。

 先ほど説明したように、すべては主が命じられたように行われました。御霊の働きがあるところには、主の命令がことごとく守られていきます。聖霊に満たされるとは、主の言われることにことごとく従っていくように、導かれ、力を受けて、支配されることを意味します。

3C 礼拝の開始 17−33
 その行なう様子が次に書かれています。主が2節から15節までの説明とまったく同じことが、17節から23節までに書かれています。けれども、「主がモーセに命じられたとおりである。」という言い回しが、この短い箇所の中に7回出て来ます。それに注目しながら、読んでいきましょう。

 第二年目の第一月、その月の第一日に幕屋は建てられた。モーセは、幕屋を建てるとき、台座を据え、その板を立て、その横木を通し、その柱を立て、幕屋の上に天幕を広げ、その上に天幕のおおいを掛けた。主がモーセに命じられたとおりである。また、彼はさとしを取って箱に納め、棒を箱につけ、「贖いのふた」を箱の上に置き、箱を幕屋の中に入れ、仕切りのために垂れ幕を掛け、あかしの箱の前を仕切った。主がモーセに命じられたとおりである。また、彼は会見の天幕の中に、すなわち、幕屋の北のほうの側で垂れ幕の外側に、机を置いた。その上にパンを一列に並べて、主の前に供えた。主がモーセに命じられたとおりである。彼は会見の天幕の中、机の反対側の幕屋の南側に、燭台を置いた。そうして彼は主の前にともしび皿を上げた。主がモーセに命じられたとおりである。それから彼は、会見の天幕の中の垂れ幕の前に、金の壇を置き、その上でかおりの高い香をたいた。主がモーセに命じられたとおりである。彼は、幕屋の入口に垂れ幕を掛け、全焼のいけにえの祭壇を、会見の天幕である幕屋の入口に置き、その上に全焼のいけにえと穀物のささげ物とをささげた。主がモーセに命じられたとおりである。また彼は、会見の天幕と祭壇との間に洗盤を置き、洗いのために、それに水を入れた。モーセとアロンとその子らは、それで手と足を洗った。会見の天幕にはいるとき、または、祭壇に近づくとき、彼らはいつも洗った。主がモーセに命じられたとおりである。また、幕屋と祭壇の回りに庭を設け、庭の門に垂れ幕を掛けた。こうして、モーセはその仕事を終えた。

 
このように、モーセは、主に命じられた細かい一つ一つの部分を、確実に守りました。そして、守った結果、次に何が起こるかを見てみましょう。

2B 満ちる主の栄光 34−38
 そのとき、モーセは会見の天幕にはいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。

 主の栄光が幕屋に満ちました。出来あがったばかりの幕屋に栄光の雲が満ちて、モーセがその中に入ることさえできないほどでした。栄光というのは、もともと、「重さ」という意味です。重さという意味から、神を重要視するという意味になり、すべての尊敬、栄誉、賞賛、力、いのち、真理、すべての良いものが神に置かれるという意味になりました。それが栄光であり、すべての重要なものが神のものになっている状態です。この栄光が満ちているということは、神のすばらしさに自分たちが満ち溢れることであります。

 この出エジプト記が、このようなクライマックスで終わっていることは注目に値します。出エジプト記1章の出来事を思い出してください。1章13節にはこう書いてありました。「それでエジプトはイスラエル人に過酷な労働を課し、粘土やれんがの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、すべて、彼らに課する過酷な労働で、彼らの生活を苦しめた。」そして、今よんだところをもう一度読みます。

 雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。


 出エジプト記は、奴隷として過酷な労働をさせられ苦しめられていたところから始まり、イスラエルの宿営の真ん中にある幕屋に主の栄光が満ちたところで終わっています。奴隷状態から、主がともにおられて、主の栄光に満たされる状態に移されました。だから、出エジプト記のテーマは、「贖い」なのです。敵の手に渡され、奴隷とされていた状態から、自分が主のものとなり、主の栄光に満たされる状態になることが贖いであり、救いなのです。罪の中で死んで、悪魔と悪霊の思うままに従っていた私たちが、神のものとされ、神がともに住んでくださり、神の栄光を見ることができるようになることが救いです。ラリーは、「天国とは、イエスさまがおられるところだ。イエスさまがおられるところはどこも、天国です。」と言いました。イエスさまを顔と顔を合わせて見るようになり、イエスさまの栄光を眺めて、イエスさまを賛美し、礼拝して過ごすのが、天国の姿です。黙示録21章をお開きください。私たちが行くところの天のエルサレムは、まさに神の幕屋であります。21章の1節から読みます。「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』(黙示
21:1-4」ですから、主ご自身がともにおられて、主の栄光に満たされることが、私たちが救われた目的です。

 出エジプト記は3つの部分に分かれました。1章から18章までは、贖いの力について描かれてました。贖いの力です。イスラエルを虐げていたエジプトが滅ぼされ、過越の子羊の血によって、イスラエルはエジプトを出てきました。ですから、私たちは、主イエスの流された血潮によって、自分たちではどうにもできなかった悪魔の支配から脱出することができたのです。主イエスの血潮は、私たちの罪を赦し、きよめ、完全に取り除いてくださる力があります。そして、19章から23章までは贖いのプロセスについて述べられていました。イスラエルは、神から律法を与えられ、自分たちの具体的な生活の中で、神とともに歩む方法を教えられました。神によって救い出された私たちも、神のみことばによって、どのように歩むべきかその指針が与えられています。そして、24章から40章までは、贖いの目的について書かれていました。それが今読んだところであり、幕屋は主の栄光が満ちるところでした。私たちは、この目的のためにクリスチャンになったのであり、主イエスをもっと深く知り、最後にはっきりとイエスさまを見て、永遠にイエスさまとともにいることを目標にして、この人生を生きていくのです。

 それでは、最後の2節を読みましょう。イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。

 
彼らがエジプトを出てから彼らを導いた雲の柱は、今、幕屋の中に立ち上りました。幕屋は宿営の真ん中にあるので、イスラエルは、自分たちの間に主がおられる、ご臨在されていることを意識することができました。シナイ山のふもとにおいては、主の栄光は、宿営の外にあったモーセの天幕にありましたが、今は、イスラエルの民の真ん中に存在するようになったのです。つまり、これからは救われた人々の生活が始まります。次に学ぶレビ記においては、救われた人がどのように神と交わるか、神を礼拝するのか、神とともに歩むのか、そうしたクリスチャン生活を学ぶことができます。一番初めに学んだことをおぼえていますか。創世記は、祝福の約束について述べられていました。のろわれた状態から救い出だされて、祝福を受ける約束について書かれていました。そして、出エジプト記ではその救いが実現したことを見ました。だから、「救い」とか、「贖い」が出エジプト記のテーマになります。そして、レビ記は、交わり、あるいは礼拝がテーマになります。クリスチャンが、どのようにして神に近づくことができるのか、また、どのようにして神とともに歩んでいくのかを学びます。



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