出エジプト記5−10章 「神のさばき」


アウトライン

1A 神の贖い 5−6 (ご自分の民をあがなうためにさばかれる) ― 2つの説明
   1B 敵対者 5 (敵対者から贖われる) ― 3つの道具
      1C 無視 1−9
      2C 搾取 10−19
      3C 不調和 20−23
   2B 契約 6 (契約によって贖われる) ― 2つの要素
      1C 主の御名 1−13
         1D 計画 1−9
         2D 命令 10−13
      2C 系図 14−30
         1D 本性 14−27
         2D 権威 28−30
2A 神の力 7−8 (ご自分の力を示すために、さばかれる) ― 2つの現われ
   1B 主権 7 (神の力は、その主権のなかに現われている) ― 3つの要素
      1C 神の栄光 1−7
      2C 人の反抗 8−13
      3C 災害 14−25
         1D 命令 14−19
         2D 執行 20−25
   2B 救い 8 (神の力は、その救いのなかに現われている) ― 3つの方法
      1C 敵への攻撃 1−15
         1D 直接的 1−7
         2D 限定的 8−15
      2C 敵の無力化 16−19
      3C 敵との区別 20−32
         1D 民 20−24
         2D 地域 25−32
3A 神の怒り 9−10 (ご自分の怒りを現わすために、さばかれる) ― 2つの対象
   1B 高ぶり 9 (神の怒りは、高ぶりに対して下る) ― 3つの分野
      1C 経済 1−7
      2C 宗教 8−12
      3C 国土 13−35
         1D 主の忍耐 13−21
         2D 主の守り 22−26
         3D 主の予定 27−35
   2B 逆らい 10 (神の怒りは、逆らいに対して下る) ― 2つの特徴
      1C 徹底的 1−20
         1D 生存 1−6
         2D 敵意 7−11
         3D 災害 12−20
      2C 自殺的 21−29
         1D 狂乱 21−23
         2D 自暴自棄 24−29

本文

 出エジプト記5章をお開きください。今日は、5章から10章までを学んでみたいと思います。ここでの主題は、「神のさばき」です。私たちは、前回、神の選びについて学びました。神は、イスラエルを愛し、イスラエルをエジプトの奴隷状態から救い出すご計画を立てられました。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。(3:7)」と主は仰せになりました。そして、4章の最後で、「(民)は、主がイスラエル人を顧み、その苦しみをご覧になったことを聞いて、ひざまずいて礼拝した。」とあります。彼らの心は、主の愛を知って、喜びと感謝の思いでいっぱいになったでしょう。それで、今から、神の救いのみわざが始まります。主が命じられたとおりに、モーセとアロンは、パロのところに行きます。

1A 神の贖い 5−6 (ご自分の民を贖うためにさばかれる) 2つの説明
1B 敵対者 5 (敵対者から贖われる) − 3つの道具
1C 無視 1−9
 その後、モーセとアロンはパロのところに行き、そして言った。「イスラエルの神、主がこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭りをさせよ。』」

 パロは、エジプトで神とあがめられている存在です。ですから、「イスラエルの神は言われる。」という言葉は、かなり挑戦的です。

 パロは答えた。「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。イスラエルを行かせはしない。」すると彼らは言った。「ヘブル人の神が私たちにお会いくださったのです。どうか今、私たちに荒野へ三日の道のりの旅をさせ、私たちの神、主にいけにえをささげさせてください。でないと、主は疫病か剣で、私たちを打たれるからです。」


 モーセは少しうろたえているようです。先ほどは命令しましたが、今はお願いしています。

 エジプトの王は彼らに言った。「モーセとアロン。おまえたちは、なぜ民に仕事をやめさせようとするのか。おまえたちの苦役に戻れ。」


 こうして、一発目は不発に終わりました。相手にもされていません。「ヤハウェ?そんなのは知らない。そんなたわけたことを言わないで、さっさとあなたたちも労働をしなさい。」モーセは主に命じられたことを行なったのに、何の反応も結果も出ていません。私たちも、この経験は十分よく理解できるのではないでしょうか。私たちの主イエスに、「福音を宣べ伝えなさい。」と命じられて、知人や友人に語りますが、相手にもされず無視されます。日本も、エジプトと同じように異教の国ですから、このような態度を頻繁に見ます。ヨブ記21章14節に、こう書かれています。「彼らは神に向かって言う。『私たちから離れよ。私たちは、あなたの道を知りたくない。全能者が何者なので、私たちは彼に仕えなければならないのか。どんな利益があるのか。』」パロは、モーセとアロンの申し出を無視しました。

 パロはまた言った。「見よ。今や彼らはこの地の人々よりも多くなっている。」

 パロは、イスラエル人が増えているのを懸念しています。それで、彼らが強くならないように、過酷な労働を課して弱めてきました。

 「そしておまえたちは彼らの苦役を休ませようとしているのだ。」その日、パロはこの民を使う監督と人夫がしらに命じて言った。「おまえたちはれんがを作るわらを、これまでのようにこの民に与えてはならない。自分でわらを集めに行かせよ。そしてこれまで作っていた量のれんがを作らせるのだ。それを減らしてはならない。彼らはなまけ者だ。だから、『私たちの神に、いけにえをささげに行かせてください。』と言って叫んでいるのだ。あの者たちの労役を重くし、その仕事をさせなければならない。偽りのことばにかかわりを持たせてはいけない。」


 イスラエル人を労働力としてしか考えていないパロは、モーセとアロンの言葉をなまけさせるもののようにしか捉えることができません。人々は、本物の神の話をされて理解できないと、自分たちの価値観でしか神を捉えようとします。私たちが教会をしていることを話すと、日本人からはたいてい、「どうやってもうけるのですか。」という質問が来ます。そこで奉仕だというと、「何か下心があるに違いない。」と思うようです。なぜなら、彼らは、お金や義理を最も大切に考えているからです。パンだけで生きるのではないと言われる神、一方的に恵んでくださる神を受け入れないからです。

C 搾取 10−19
 状況は、良くなるどころか悪化します。そこで、この民を使う監督と人夫がしらたちは出て行って、民に告げて言った。「パロはこう言われる。『私はおまえたちにわらを与えない。おまえたちは自分でどこへでも行ってわらを見つけて、取って来い。おまえたちの労役は少しも減らさないから。』」そこで、民はエジプト全土に散って、わらの代わりに刈り株を集めた。監督たちは彼らをせきたてて言った。「わらがあったときと同じように、おまえたちの仕事、おまえたちのその日その日の仕事を仕上げよ。」パロの監督たちがこの民の上に立てたイスラエル人の人夫がしらたちは、打ちたたかれ、「なぜおまえたちは定められたれんがの分を、きのうもきょうも、これまでのように仕上げないのか。」と言われた。

 搾取が始まりました。今までエジプト政府は、イスラエル人にわらを配当しましたが、それを取りに行かせました。残った人々でれんがを作りますが、エジプト人は同じ量のれんがを作らなければいけないと命じています。当然、そんなことはできないですから、イスラエル人の人夫かしらたちが打ちたたかれています。

 そこで、イスラエル人の人夫がしらたちは、パロのところに行き、叫んで言った。「なぜあなたのしもべどもを、このように扱うのですか。あなたのしもべどもには、わらが与えられていません。それでも、彼らは私たちに、『れんがを作れ。』と言っています。見てください。あなたのしもべどもは打たれています。しかし、いけないのはあなたの民なのです。」

 パロは、彼らからこの訴えが出るのを期待していました。この機会を利用して、モーセとアロンへの信頼を落とすことができるからです。次をご覧ください。

 パロは言った。「おまえたちはなまけ者だ。なまけ者なのだ。だから『私たちの主にいけにえをささげに行かせてください。』と言っているのだ。さあ、すぐに行って働け。わらは与えないが、おまえたちは割り当てどおりれんがを納めるのだ。」イスラエル人の人夫がしらたちは、「おまえたちのれんがのその日その日の数を減らしてはならない。」と聞かされたとき、これは、悪いことになったと思った。

 
彼らは、このひどい仕打ちは、エジプト人たちが勝手にやっているからだと思っていましたが、今、パロ直々の命令であることを知りました。パロの命令は絶対です。それで、実態の深刻さを認識したのです。

3C 不調和 20−23
 本当なら、ここで、主に叫び求めなければいけません。神は、私たちが無力になったときこそ働かれるのを願っておられるからです。けれども、イスラエル人は、主のことをよく知りませんでした。それで、この叫びを主に持っていくのではなく、パロの言葉にだまされて、パロとアロンを非難するようになります。

 彼らはパロのところから出て来たとき、彼らを迎えに来ているモーセとアロンに出会った。彼らはふたりに言った。「主があなたがたを見て、さばかれますように。あなたがたはパロやその家臣たちに私たちを憎ませ、私たちを殺すために彼らの手に剣を渡したのです。」


 彼らは、自分の感情を二人にぶつけました。この姿は、キリストの幼子、肉的なキリスト者に当てはまります。主との交わりが深くないので、問題が起こると争いによって解決しようとします。教会の指導者を非難したり、他の信者を悪く言ったりします。パウロはコリント人に、「あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。(1コリント3:3)」と言いました。

 一方、モーセは主に叫びます。それでモーセは主のもとに戻り、そして申し上げた。「主よ。なぜあなたはこの民に害をお与えになるのですか。何のために、私を遣わされたのですか。私がパロのところに行って、あなたの御名によって語ってからこのかた、彼はこの民に害を与えています。それなのにあなたは、あなたの民を少しも救い出そうとはなさいません。」

 神が約束されたことと逆のことが起こっているではありませんか、と訴えています。けれども、訴えてはいますが、引き下がってはいません。何のために、私を遣わされたのかと叫んでいますが、自分が遣わされたことを疑っていません。エジプトの宮廷にいるときの以前のモーセではなくなりました。彼は、以前、自分がエジプト人を殺したことが知られたことを知ると、そこから逃げてしまいました。自分の思いでそれを行なったからです。けれども、40年間の荒野での訓練の後、彼は生きた神に出会いました。そのため、今、このような困難な状況に出くわしても、逃げることをせず、主に訴えることができたのです。これを召命と言います。自分が召されたところにいると、たとえ試練や困難がふりかかっても、それを主に持っていく力が与えられます。

 こうして、イスラエル人を救い出すためにモーセが主の命令に従ったら、事態が悪化しました。パロからは無視され、イスラエル人は搾取され、さらにイスラエル人との自分との間の関係が悪くなりました。つまり、この救いの計画には敵が存在したのです。私たちはこの前、出エジプト記は贖いがテーマであることを学びましたが、贖いにはそれに反対する者が存在します。サタンですね。サタンは、キリストに近づこうとする者を攻撃し、虐げ、混乱を起こします。ですから、クリスチャンになること、クリスチャンとして生きていくことは、激しい霊的な戦いの中に入ることなのです。パウロは、「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:11)」と言いました。

2B 契約 6 (契約によって贖われる) ― 2つの要素
1C 主の御名 1−13
1D 計画 1−9
 次に主は、落胆してしまっているモーセに対して、励まし言葉をかけられます。それで主はモーセに仰せられた。「わたしがパロにしようとしていることは、今にあなたにわかる。すなわち強い手で、彼は彼らを出て行かせる。強い手で、彼はその国から彼らを追い出してしまう。」

 この強い手とは、主の御手のことです。主は、ご自分の全能の力によって、パロがイスラエルを追い出すように仕向けてくださいます。

 神はモーセに告げて仰せられた。「わたしは主である。」

 
ここから、「わたしは主である。」という言葉が繰り返されます。神はこれからご自分の紹介をされます。以前モーセはこのことを聞きましたが、神はそれを確かなものとされます。

 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現われたが、主という名では、わたしを彼らに知らせなかった。


 これは、神の名前の紹介です。全能の神はエル・シャダイであり、力の神ということです。そして、主はヤハウェであり、「〜になる」という意味です。人の必要なら何でも、その必要になってくださいます。

 またわたしは、カナンの地、すなわち彼らがとどまった在住の地を彼らに与えるという契約を彼らに立てた。今わたしは、エジプトが奴隷としているイスラエル人の嘆きを聞いて、わたしの契約を思い起こした。

 
次に、神は、ご自分の契約について紹介されました。「わたしの契約を思い起こした。」とあります。つまり、わたしはあなたたちに約束したが、それを忘れてはいない、必ず守るよ、と神はおっしゃられているのです。

 そして次に、神は、ご自分の計画を紹介されます。それゆえ、イスラエル人に言え。わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。

 ここに、私たちが今日学ぶところのテーマがあります。つまり、さばきによる救いです。イスラエルは、エジプトに下るさばきによって、贖いを経験します。自分たちを虐げている者がさばかれて、滅ぼされることによって、イスラエルは解放されます。同じように、私たちを罪の奴隷にして虐げている悪魔がさばかれたことによって、私たちは救われました。イエスは、助け主なる聖霊について、こう話されました。「その方が来ると、罪について義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。…さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。(ヨハネ16:8、11)」キリストが十字架の上において、さばかれたのです。パウロはこう語っています。「神は、十字架において、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。(コロサイ2:15別訳)」つまり、パロとエジプトがさばかれている姿を見るとき、私たちは、悪魔がさばかれていく様を見ていくことができます。

 次に、神は、イスラエルに持っておられるご自分の目的を紹介されます。わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。

 彼らが贖われるのは、神と個人的な関係を結ぶためです。イスラエルが神の民となり、主がイスラエルの神となります。私たちも、キリストを個人的に知るために、救いにあずかります。天国に行って、罰を受けなくてすむことだけのために救われるのではないのです。天国は、キリストを礼拝するところです。

 あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出す者であることを知るようになる。つまり、救い主であることを知るようになります。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地に、あなたがたを連れて行き、それをあなたがたの所有として与える。わたしは主である。

 
もう一つ、神が彼らを贖われる目的は、彼らを約束の地に入れるためです。私たちも、救われたことによって、神の国に入る約束が与えられています。

 こうした、主の力強い励ましによって、モーセは元気づきました。そこで、イスラエルにこのことを伝えに行きます。モーセはこのようにイスラエル人に話したが、彼らは落胆と激しい労役のためモーセに聞こうとはしなかった。

 
これは、文字通り息が続かないほどの苦しみを表現しています。ランニングをしている人に説教しても聞き入れてもらえないように、イスラエルの民も同じだったのです。でも、私は、日本人の姿を考えてしまいます。自分の生きている意味、死んだあとのこと、そうしたとても大切なことを話しても、彼らは会社、学校、子育てで忙しくて聞き入れられません。人を忙しくすることも、悪魔の仕業のように思われます。

2D 命令 10−13
 主はモーセに告げて仰せられた。「エジプトの王パロのところへ行って、彼がイスラエル人をその国から去らせるように告げよ。」

 先ほどは、「行かせよ。」という命令でしたが、今は、「去らせよ。」という強い表現になっています。

 しかしモーセは主の前に訴えて言った。「ご覧ください。イスラエル人でさえ、私の言うことを聞こうとはしないのです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。私は口べたなのです。」
モーセはまた、意気消沈してしまいました。そこで主はモーセとアロンに語り、イスラエル人をエジプトから連れ出すため、イスラエル人とエジプトの王パロについて彼らに命令された。

 
主が、ねんごろにモーセを励ましておられます。主は、ふたたびアロンをあてがってくださいました。

2C 系図 14−30
1D 本性 14−27
 彼らの父祖の家のかしらたちは次のとおりである。ここから、モーセとアロンの系図が与えられる。ここでなぜ、と思われるかもしれませんが、26、27節をご覧ください。主が「イスラエル人を集団ごとにエジプトの地から連れ出せ。」と仰せられたのは、このアロンとモーセにである。エジプトの王パロに向かって、イスラエル人をエジプトから連れ出すようにと言ったのは、このモーセとアロンであった。

 これから民の指導者として立つモーセとアロンですが、彼らが本当にアブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるかどうかを明らかにするために、系図が書かれているのです。神の契約は、あくまでもイスラエルに対するものです。この系図によって、モーセとアロンが確かに約束の子であり、指導者としての資格をもっていることを示されています。

2D 権威 28−30
 この系図が挿入されたあと、再びもとの話に戻っています。28節です。主がエジプトの地でモーセに告げられたときに、主はモーセに告げて仰せられた。「わたしは主である。わたしがあなたに話すことを、みな、エジプトの王パロに告げよ。」しかしモーセは主の前に申し上げた。「ご覧ください。私は口べたです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。」

2A 神の力 7−8 (ご自分の力を示すために、さばかれる) 2つの現われ
 こうして、自分の無力さをモーセは訴えています。彼は自分の奉仕に対して自身を失ってしまいました。でも、このことを通して、イスラエルを助け出すのは神のみにあることが明らかにされています。神の贖いは、モーセの指導力によるのでなく、神の一方的な恵みのみわざであることがわかります。7章以降、モーセとパロとの戦いは、言葉だけではなく不思議と奇蹟によって行なわれますが、それは、背後にあるイスラエルの神と、敵対する悪魔との戦いです。もちろん、神の力の圧倒的な勝利によって戦いは終わります。

1B 主権 7 (神の力は、その主権のなかに現われている) 3つの要素
1C 神の栄光 1−7
 また、モーセのパロに対する態度は一変します。ためらわず、大胆に振舞うようになります。それは、7章1節から7節までに書かれている神の励ましの言葉があったからです。主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたをパロに対して神とし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。あなたはわたしの命じることを、みな、告げなければならない。あなたの兄アロンはパロに、イスラエル人をその国から出て行かせるようにと告げなければならない。

 
モーセは、神の代理人になり、アロンは代弁者になります。モーセに神の権威が与えられ、奇蹟を行なう力が与えられます。神の代わりにパロになすべきことを告げて、パロが不従順であるなら叱責し、パロが悪くいうならさばきを下します。そして、アロンは、モーセの口の代わりになります。モーセの代わりに人々に語ります。

 わたしはパロの心をかたくなにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で多く行なおう。

 
この言葉も、モーセを奮い立たせたに違いありません。モーセは、先ほど、パロが自分の言うことを聞かないのを見て、主の御力を疑ってしまいました。神は、この男の心に対して無力なのかと思いました。けれども、真理は逆だったのです。神は、ご自分の力を用いてパロの心をかたくなにされていたのです。ですから、パロがどんなに反抗的な態度に出てきたとしても、もうたじろぐことはありません。むしろ、それによって、さらに主のしるしと不思議が多くなるからです。

 ところで、神が人の心をかたくなにされるという真理は、私たちを悩まします。それでは神は、公平な方ではないのでないか、という疑問が出てきます。また、神がかたくなにされるなら、なぜ責任を問われるのか、と思います。これらの質問に対して、パウロがローマ書9章で明確に答えています。絶対に神は不正ではない。神が人を造られたのだから、その造られたものをどう用いるかは神の勝手ではないか、という答えです。これが神の主権と呼ばれるものです。けれども、神の主権を語るときには、神の予知も語らなければいけません。つまり、神は予め、すべてのことを知っておられるという真理です。出エジプト記3章19節をご覧ください。神はこうおっしゃいました。「しかし、エジプトの王は強いられなければ、あなたがたを行かせないのを、わたしはよく知っている。」これが、パロの強情さについての最初に記されていることです。つまり、神は、パロにどのような悔い改めの機会を設けても、彼が最後の最後まで心を開かないのを最初からご存知でした。ですから、すべてお見通しの神は、すぐにでもこの男を滅ぼすことがおできになりました。けれども、神は、無意味にパロを滅ぼすのでなく、ご自分の力や栄光をイスラエルと全世界に知らせるために彼を用いることをお決めになったのです。それに、神はパロに対しても平等に、悔い改めの機会を与えられました。「もし、あなたが(わたしの民を)行かせることを拒むなら、(8:2など)」という表現が出てきます。ですから、神はパロに対してもあわれみを示し忍耐されていたことがわかります。

 パロがあなたがたの言うことを聞き入れないなら、わたしは、手をエジプトの上に置き、大きなさばきによって、わたしの集団、わたしの民イスラエル人をエジプトの地から連れ出す。

 
先ほど、モーセは、パロは自分の言うことを聞き入れず、イスラエルの民に害を与えたことを経験しました。けれども、今度は、パロとエジプトに害が与えられることを知りました。このさばきは、エジプトの全地域に行なわれるスケールの大きなものです。

 わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエル人を彼らの真中から連れ出すとき、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。

 
イスラエルだけでなく、エジプトが主なる神を知ることになります。つまり、モーセは全世界的に神の証しを立てることに成るのです。また、先ほどパロは、「主とは何者か。」と問いました。モーセは今度は、「主とはこういう方だ。」と言って、主の全能の力を知らしめることができるのです。それで、モーセは奮い立ちました。

 そこでモーセとアロンはそうした。主が彼らに命じられたとおりにした。これから、二人は主の命令にことごとく従うようになります。彼らがパロに語ったとき、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。

 ここでまた、モーセとアロンの無力さを知らされます。どちらもおじいさんなのです。アブラハムのときも、主に用いられ始めるとき「75歳であった。」と記されています。

2C 人の反抗 8−13
 また主はモーセとアロンに仰せられた。「パロがあなたがたに、『おまえたちの不思議を行なえ。』と言うとき、あなたはアロンに、『その杖を取って、パロの前に投げよ。』と言わなければならない。それは蛇になる。」

 最初は、パロの方から挑戦状を突きつけます。イスラエルの神というものを見せてもらおうではないか。そいつが生きているかどうか証拠を見せよ、と言って申し出たのです。そのとき、以前のように杖を蛇に変えなさい、と主は命じられます。

 モーセとアロンはパロのところに行き、主が命じられたとおりに行なった。アロンが自分の杖をパロとその家臣たちの前に投げたとき、それは蛇になった。そこで、パロも知恵のある者と呪術者を呼び寄せた。これらのエジプトの呪法師たちもまた彼らの秘術を使って、同じことをした。


 この奇蹟は、敵によっても真似られてしまいました。これは悪霊の力です。悪魔も、ある程度、神のみわざを真似することができます。イエスは、「にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、…大きなしるしや不思議なことをして見せます。(マタイ24:24)」と言われました。

 彼らがめいめい自分の杖を投げると、それが蛇になった。しかしアロンの杖は彼らの杖をのみこんだ。

 
神はここで、ご自分の力のほうが大きいことをお示しになりました。

 それでもパロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が仰せられたとおりである。

 パロは、エジプトの神が同じ奇蹟を行なったという理由で、モーセとアロンの言うことを聞きませんでした。私たちにはエジプトの神がいる。なにも、お前たちの神に従わなければいけない理由はない、という思いがあったでしょう。けれども、むろん、それは言い訳であり、パロは、アロンの杖が呪法師の杖を飲み込んだという証拠を見ました。私たちも同じ反発に直面します。「私たちは日本人だから、キリスト教は控えます。」という言い訳を聞きます。その背後にあるのは、パロのと同じ心のかたくなさです。けれども、「主が仰せられたとおりである。」という表現があります。私たちの証言を聞き入れなくても、神が支配されていることを知ることが大切です。

3C 災害 14−25
 この時点でパロが悔い改めていれば、神は災いをもたらしませんでした。4節に、「パロがあなたがたの言うことを聞き入れないなら」とありますが、大いなるさばきは条件付きだったのです。けれども、その証しを拒んだ今、パロの前には恐ろしい10の災害が待っています。今日は、最初の9つの災害を見ます。この9つは、最初の3つとと半ばの3つと最後の3つに分けることができます。つまり、3周期の災害に分かれます。そして、最後になるにつれて、災いが大きく激しいものとなります。パロが強情になるごとに、さばきが大きくなるのです。

1D 命令 14−19
 主はモーセに仰せられた。「パロの心は強情で、民を行かせることを拒んでいる。あなたは朝、パロのところへ行け。見よ。彼は水のところに出て来る。あなたはナイルの岸に立って彼を迎えよ。

 朝、パロが水のところに行ったのは、ナイル川を拝みに来たからです。エジプトは、自分に利益をもたらすものならなんでも神にしました。ナイル川は、エジプトに豊かにし世界最強の国にする源として、あがめられていました。いろいろいる神々の中で、一番くらいの高いハピと呼ばれる神でした。それに対し、神はさばきを下されます。実は、これから起こる他の災害も、エジプトの神々に対するのだったのです。民数記33章4節に、「主は彼らの神々にさばきを下された。」とあります。

 そして、蛇に変わったあの杖を手に取って、彼に言わなければならない。ヘブル人の神、主が私をあなたに遣わして仰せられます。「わたしの民を行かせ、彼らに、荒野でわたしに仕えさせよ。」ああ、しかし、あなたは今までお聞きになりませんでした。主はこう仰せられます。「あなたは、次のことによって、わたしが主であることを知るようになる。」ご覧ください。私は手に持っている杖でナイルの水を打ちます。水は血に変わり、ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水をもう飲むことを忌みきらうようになります。」彼らの拝んでいる神が血と化してしまいます。
主はまたモーセに仰せられた。「あなたはアロンに言え。あなたの杖を取り、手をエジプトの水の上、その川、流れ、池、その他すべて水の集まっている所の上に差し伸ばしなさい。そうすれば、それは血となる。また、エジプト全土にわたって、木の器や石の器にも、血があるようになる。」

 ナイル川だけでなく、エジプト全土に行き巡るさばきでした。

2D 執行 20−25
 モーセとアロンは主が命じられたとおりに行なった。彼はパロとその家臣の目の前で杖を上げ、ナイルの水を打った。すると、ナイルの水はことごとく血に変わった。パロと家臣の目の前で行なわれました。疑いもない証拠です。ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水を飲むことができなくなった。エジプト全土にわたって血があった。エジプト人の大切な水の供給源が絶たれました。しかしエジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って同じことをした。また、敵が邪魔をしています。それで、パロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞こうとはしなかった。主の言われたとおりである。先ほどと同じ理由で、パロは心をかたくなにしました。パロは身を返して自分の家にはいり、これに心を留めなかった。全エジプトは飲み水を求めて、ナイルのあたりを掘った。彼らはナイルの水を飲むことができなかったからである。

 アロンの杖によってすべての水が血に変わったのに、呪法師が血に変えることができたのは、ここに理由がありそうです。ナイル川のまわりを掘ったら、水が出てきたようです。けれども、エジプトの民が水がなくて困っているのに、パロは自分の家にはいりました。彼らのことでは心を痛めていないようです。自分のことだけしか考えていない指導者の姿を見ることができます。

 主がナイルを打たれてから七日が満ちた。


 7日間続きました。


2B 救い 8 (神の力は、その救いのなかに現われている) 3つの方法
1C 敵への攻撃 1−15
1D 直接的 1−7
 そこで主は、パロの家を直接攻撃する災いを送られます。主はモーセに仰せられた。「パロのもとに行って言え。主はこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、彼らにわたしに仕えさせるようにせよ。もし、あなたが行かせることを拒むなら、見よ、わたしは、あなたの全領土を、かえるをもって、打つ。かえるがナイルに群がり、上って来て、あなたの家にはいる。あなたの寝室に、あなたの寝台に、あなたの家臣の家に、あなたの民の中に、あなたのかまどに、あなたのこね鉢に、はいる。こうしてかえるは、あなたとあなたの民とあなたのすべての家臣の上に、はい上がる。』」

 パロの寝室、寝台、パロの食事の料理をするこね鉢の上に、かえるがはいります。これで、パロは神の災いを無視することはできません。ところで、かえるは、エジプトの川に多く棲息している生物です。ナイル川の豊かさを象徴しており、エジプト人はかえるをハピと呼んで拝んでいました。間違ってかえるを踏みつけるものなら、死刑にされました。また、多産の神ヘケトは、その頭がかえるになっており、このハピと深い関係がありました。そこで、神は、彼らが祝福をもたらすと考えたかえるを、災いをもたらす道具として用いられるのです。

 主はモーセに仰せられた。「アロンに言え。あなたの手に杖を持ち、川の上、流れの上、池の上に差し伸ばし、かえるをエジプトの地に、はい上がらせなさい。」また、アロンの杖が用いられています。アロンが手をエジプトの水の上に差し伸ばすと、かえるがはい上がって、エジプトの地をおおった。呪法師たちも彼らの秘術を使って、同じようにかえるをエジプトの地の上に、はい上がらせた。

 
また、彼らは神の奇蹟を真似しました。けれども、パロは、これで心をかたくなにしません。自分の料理に死んだかえるが混ざって、自分はつぶされたかえるの上に寝なければならず、これにはまいったようです。

2D 限定的 8−15
 パロはモーセとアロンを呼び寄せて言った。「かえるを私と私の民のところから除くように、主に祈れ。そうすれば、私はこの民を行かせる。彼らは主にいけにえをささげることができる。」

 パロは許可を出しました。けれども、条件付きです。かえるを取り除くように主に祈ってくれたら、イスラエルの民を行かせると言っています。これは、本当の意味で心を開いていることにはなりません。へブル人の神を、ご利益の神と混同しているからです。自分が直面している問題を解決してくれるなら、信じようではないか、というアブローチでは、決して真の神に近づくことはできません。

 モーセはパロに言った。「かえるがあなたとあなたの家から断ち切られ、ナイルにだけ残るように、あなたと、あなたの家臣と、あなたの民のために、私がいつ祈ったらよいのか、どうぞ言いつけてください。」パロが「あす。」と言ったので、モーセは言った。「あなたのことばどおりになりますように。私たちの神、主のような方はほかにいないことを、あなたが知るためです。かえるは、あなたとあなたの家とあなたの家臣と、あなたの民から離れて、ナイルにだけ残りましょう。」
モーセは、時間をパロに設定してもらうことによって、主がどのような方であるかを明らかにしようとしました。主は、時間をも支配されている方です。

 こうしてモーセとアロンはパロのところから出て来た。モーセは、自分がパロに約束したかえるのことについて、主に叫んだ。

 叫んだ、と書かれているのがおもしろいですね。モーセは自身満々にパロに対して語りましたが、これで本当にそうならなかったら、かなりヤバイです。それで、自分の言ってしまったことをかなえてくださるよう主に叫んでいます。

 主はモーセのことばどおりにされたので、かえるは家と庭と畑から死に絶えた。
主は、モーセの叫びを聞かれました。人々はそれらを山また山と積み上げたので、地は臭くなった。彼らの神であるかえるは、無残にも山となって積み上げられました。また一つ、神のさばきが下りました。ところが、パロは息つく暇のできたのを見て、強情になり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主の言われたとおりである。

 
パロは、自分の約束を翻しました。これからも、それが続きます。一度ひるがえすと、二度目、三度目は楽です。けれども、再び、「主の言われたとおりである。」とあります。主の言われたことが、確実に成就しています。

2C 敵の無力化 16−19
 主はモーセに仰せられた。「アロンに言え。あなたの杖を差し伸ばして、地のちりを打て。そうすれば、それはエジプトの全土で、ぶよとなろう。」

 あなたは、パロに言えとは書かれていません。つまり、警告なしにさばきを下されます。2度も心をかたくなにしたパロに対して、強力な打撃を加えられます。ここに出てくるぶよは、蚊とも訳せます。あらゆる地表が一気に、蚊の大群になってしまいます。

 そこで彼らはそのように行なった。アロンは手を差し伸ばして、杖で地のちりを打った。すると、ぶよは人や獣についた。地のちりはみな、エジプト全土で、ぶよとなった。呪法師たちもぶよを出そうと、彼らの秘術を使って同じようにしたが、できなかった。ぶよは人や獣についた。

 
このぶよの災いは、主に人々のからだに対するものです。エジプト人は、肉体の清潔感を非常に大切にしていました。それ自体が宗教になっており、呪法師はことさらに自分のからだをきれいにしていたのです。歴史家ヘロドトスは、次のように述べています。「祭司たちは、この点に関しては、特に念入りであり、3日目ごとに頭と体をそった。それは、彼らが聖なる仕事についている間に、害虫が隠れているかもしれないということを恐れたからである。」ですから、このさばきは、かゆくて痛くてどうしようもなくするようなことだけでなく、エジプト人と呪法師たちのプライドを打ち砕くものだったのです。

 そこで、呪法師たちはパロに、「これは神の指です。」と言った。

 
これは、驚くべき発言です。悪霊に仕える者が、神が生きて働いていることを証言しました。サタンも、自らをさばく神の指に向かって、このように告白するのです。これで、今まで邪魔をしてきた敵が、無力化されました。

 しかしパロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主の言われたとおりである。

 エジプトの神でもいいじゃないか、というパロの理由が言い訳であることが、ここで明らかにされています。信じないのは単なるプライドです。けれども、これも主のご計画の中にあり、確実に主が言われたとおりになっています。

3C 敵との区別 20−32
 これで、最初の3つのさばきが終わりました。神は、さらに3つのさばきを下されるが、今度は、また別の新しいしるしを行なわれます。これらの災いを、イスラエルが受けないように区別されます。

1D 民 20−24
 主はモーセに仰せられた。「あしたの朝早く、パロの前に出よ。見よ。彼は水のところに出て来る。見てください。パロはまだ、ナイル川に来て礼拝しています。彼にこう言え。「主はこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ。もしもあなたがわたしの民を行かせないなら、さあ、わたしは、あぶの群れを、あなたとあなたの家臣とあなたの民の中に、またあなたの家の中に放つ。エジプトの家々も、彼らがいる土地も、あぶの群れで満ちる。』」

 このあぶは、英語でdog flyと呼ばれるハエの一種であり、刺すと痛みが走ります。これはエジプトで、「ウトチト」という神でした。

 わたしはその日、わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこには、あぶの群れがいないようにする。それは主であるわたしが、その地の真中にいることを、あなたが知るためである。

 ゴシェンの地域はナイル川周辺にあり、普通ならゴシェンの地域に、このdog flyが多いのです。ですから、逆のことが起こるのは、まさに奇蹟であります。台風の目の中にいるように、ゴシェンの地域だけの空がきれいに見えるようになります。それで、エジプトのど真ん中に、主がご臨在されていることを知ることができるのです。

 わたしは、わたしの民とあなたの民との間を区別して、救いを置く。あす、このしるしが起こる。


 今までは、もっぱら災いが下るところに神の力が示されていましたが、災いの中に救いを置くことによって神の力が示されます。神は、敵を攻撃するだけでなく、イスラエルの民を救われることによってご自分の力を示されます。そして、エジプト人とイスラエル人を区別されました。神は、区別する神です。光とやみとを区別し、大空と水とを区別されました。終わりの日に、羊と山羊がよりわけられ、そして信者と不信者を区別されます。

 主がそのようにされたので、おびただしいあぶの群れが、パロの家とその家臣の家とにはいって来た。エジプトの全土にわたり、地はあぶの群れによって荒れ果てた。


 こうして、エジプトの国土に災いがもたらされました。こうここからは呪法師が登場しません。これは、サタンの力の及ばない奇蹟でした。

2D 地域 25−32
 パロはモーセとアロンを呼び寄せて言った。「さあ、この国内でおまえたちの神にいけにえをささげよ。」

 パロは、先ほどのかえるの災いのときよりも、積極的に民を行かせることを許可しています。けれども、「この国内で」という条件をつけています。彼は、この国の労働力であるイスラエルを手放したくなかったのです。けれども、イスラエルは出て行かなければなりません。ただいけにえをささげるだけでは意味がなく、エジプトを出ていって、一つの新しい国民とならなければいけなかったのです。サタンも同じように、私たちに妥協案を出します。キリスト教の儀式や行ないをしていれば、その人はクリスチャンであると考えさせます。あの人は洗礼を受けたのだから、クリスチャンだ。1年間続けて教会に通ったからクリスチャンだ。けれども、聖書には、新たに生まれなければ、決して神の国に入ることができない、と断言されているのです。キリストに属する者は、全く新しくされるのです。

 モーセは答えた。「そうすることは、とてもできません。なぜなら私たちは、私たちの神、主に、エジプト人の忌みきらうものを、いけにえとしてささげるからです。もし私たちがエジプト人の目の前で、その忌みきらうものを、いけにえとしてささげるなら、彼らは私たちを石で打ち殺しはしないでしょうか。

 
エジプト人たちは、家畜も神として拝んでいました。モーセは、国内でささげて動物を殺すのを見たエジプト人は、たちまち怒り狂い、暴動を起こすでしょう、と言っています。

 それで私たちは荒野に三日の道のりの旅をして、私たちの神、主にいけにえをささげなければなりません。これは、主が私たちにお命じになることです。」パロは言った。「私は、おまえたちを行かせよう。おまえたちは荒野でおまえたちの神、主にいけにえをささげるがよい。ただ、決して遠くへ行ってはならない。私のために祈ってくれ。」


 パロは、また別の妥協案を出しました。遠くへ行かないで、いけにえをささげることです。彼らを奴隷にしていたエジプトからそんなに離れないで、神に仕えなさい、と言っています。サタンも同じように私たちをだまします。「罪の生活からそんなに離れないで、クリスチャンとして生きなさい。生活をそんなに変えなくても、神は恵みによって私たちを救ってくださるのだ。」とささやきます。けれども、悔い改めないでキリストを信じることはできません。罪に支配された生活を離れるという決断をしないで、キリストに従うことはできません。イエスは、「自分を捨て、自分の十字架を追い、そしてわたしについて来なさい。」と言われました。

 モーセは言った。「それでは、私はあなたのところから出て行きます。私は主に祈ります。あす、あぶが、パロとその家臣とその民から離れます。ただ、パロは、重ねて欺かないようにしてください。民が主にいけにえをささげに行けないようにしないでください。」

 モーセは、3日の道のりをパロが受け入れたものだと考えました。ただ、パロは以前に欺いたので、欺かないでくださいと願っています。

 モーセはパロのところから出て行って主に祈った。主はモーセの願ったとおりにされたので、あぶはパロとその家臣およびその民から離れた。一匹も残らなかった。


 あぶの死骸が残っている記述がありません。つまり、急に消滅してしまったか、地のちりに戻ったかのどちらかが起こったのでしょう。確かに、創造主である神にしかできない御業です。

 しかし、パロはこのときも強情になり、民を行かせなかった。

3A 神の怒り 9−10 (ご自分の怒りを現すために、さばかれる) 2つの対象
1B 高ぶり 9 (神の怒りは、高ぶりに対して下る) 3つの分野
1C 経済 1−7
 主はモーセに仰せられた。「パロのところに行って、彼に言え。ヘブル人の神、主はこう仰せられます。『わたしの民を行かせて、彼らをわたしに仕えさせよ。もしあなたが、行かせることを拒み、なおも彼らをとどめておくなら、見よ、主の手は、野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に下り、非常に激しい疫病が起こる。

 今度は、家畜に対するさばきです。この疫病は、不治の病の一種であり、家畜は死にます。そして、先ほど説明しましたように、エジプト人は、家畜を神々として拝んでいました。黒牛はアピスとして拝まれていました。メンピスには、エジプトで二番目に大きい神殿があり、最近の考古学で、何百という牛の死骸が棺おけに納められ、ミイラにされているのを発見しました。愛の神「ハサー」は、雌牛でした。牛の頭をもった女です。「ムネビス」も牛で、太陽神「レイ」と関わりを持っていました。ですから、これもエジプトの宗教に対して災いが下っています。また、これは経済的な災害です。エジプトでは、パロ所有の家畜がいました。

 しかし主は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜とを区別する。それでイスラエル人の家畜は一頭も死なない。」
また、主は時を定めて、仰せられた。「あす、主はこの国でこのことを行なう。」

 先ほどと同じように、エジプトとイスラエルの家畜を区別し、また、時も定められております。

 主は翌日このことをされたので、エジプトの家畜はことごとく死に、イスラエル人の家畜は一頭も死ななかった。パロは使いをやった。すると、イスラエル人の家畜は一頭も死んでいなかった。それでも、パロの心は強情で、民を行かせなかった。

 イスラエルの家畜が一頭も死んでいないという、驚くべき奇蹟を見ても、パロはまだ民を行かせていません。でも、使いをやった、というところに、ヤハウェなる神をもはや無視できなくなっているパロの姿を見ることができます。

2C 宗教 8−12
 主はモーセとアロンに仰せられた。「あなたがたは、かまどのすすを両手いっぱいに取れ。モーセはパロの前で、それを天に向けてまき散らせ。

 
3番目のぶよの災いと同じように、主は、パロへの警告なしに災いをくだそうとされています。それがエジプト全土にわたって、細かいほこりとなると、エジプト全土の人と獣につき、うみの出る腫物となる。」かまどのすすによって、うみのでる腫物となります。この同じかまどによって、れんがが焼かれていました。れんが作りで苦役を強いられていたイスラエル人は、今、神が復讐をしてくださっているのを見ているのです。「復讐と報いとは、わたしのもの。(申命32:35)」と主は言われました。だから、悪に対して善をもって打ち勝ちなさい、とパウロは勧めています(ローマ12:21)。

 それで彼らはかまどのすすを取ってパロの前に立ち、モーセはそれを天に向けてまき散らした。すると、それは人と獣につき、うみの出る腫物となった。

 
うみの出る腫物ですが、先ほどお話しましたように、エジプト人は肉体の健康を宗教にしていました。セラピスという薬の神がおり、彼らは世界中で一番美しい体を持っていると信じていたのです。それを神が打たれました。

 呪法師たちは、腫物のためにモーセの前に立つことができなかった。腫物が呪法師たちとすべてのエジプト人にできたからである。

 呪法師に対して、さばきが下っています。モーセの前で杖を蛇にした彼らですが、ついは「神の指」を認め、今ここでは、モーセの前に立つことができません。テモテへの第二の手紙3章に、おそらくこの呪法師ではないかと人物が出てきます。「見えることろは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。…また、こういう人々は、ちょうどヤンネとヤンブレがモーセに逆らったように、真理に逆らうのです。彼らは知性の腐った、信仰の失格者です。(3:5,8)」ヤンネとヤンブレです。真理に逆らう者たちにさばきが下りました。

 しかし、主はパロの心をかたくなにされ、彼はふたりの言うことを聞き入れなかった。主がモーセに言われたとおりである。

 
先ほどは、「パロは強情になった。」という表現が使われていましたが、ここでは、主がパロの心をかたくなにされたという、直接的な表現が使われています。ここまで来ても悔い改めないパロに対する、神の怒りを感じ取ることができます。

3C 国土 13−35
 そこで次には、その怒りが極みに達する3つの災いを見て行きます。

1D 主の忍耐 13−21
 主はモーセに仰せられた。「あしたの朝早く、パロの前に立ち、彼らに言え。」パロはもはや、ナイル川には行っていないようです。パロが相当の打撃を受けていることを伺うことができます。ヘブル人の神、主はこう仰せられます。「わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ。今度は、わたしは、あなたとあなたの家臣とあなたの民とに、わたしのすべての災害を送る。すべての災害です。主が考えておられる災害をすべて送られます。わたしのような者は地のどこにもいないことを、あなたに知らせるためである。わたしが今、手を伸ばして、あなたとあなたの民を疫病で打つなら、あなたは地から消し去られる。それにもかかわらず、わたしは、わたしの力をあなたに示すためにあなたを立てておく。また、わたしの名を全地に告げ知らせるためである。

 神は、強情なパロに対して怒り、たちまち滅ぼすことがおできになりました。けれども、神はパロに忍耐され、彼が悔い改める機会をなおも与えられます。そして、神は、ご自分の栄光を現わすために、さらにパロを用いられます。まず、へブル人の神のような方が他にいないことをパロ自身が知ること、そして、全世界にご自分の名を高く上げることです。

 あなたはまだわたしの民に対して高ぶっており、彼らを行かせようとしない。

 主はここではじめて、パロの強情な心の原因を指摘されています。高ぶりです。不信仰な心の根本的な原因は、高ぶりの心です。そして、神はこれを最も忌み嫌われます。サタンが犯した罪、エバがだまされた理由が、いずれも神のようになるという高ぶりです。箴言では、主の憎むものが列挙されていて、その最初に「高ぶる目」とあります(6:17)。パリサイ人は、イエスが悪霊を追い出されているのを見て、「あれは、悪霊のかしらベルゼベルによって追い出しているのだ。」と言いましたが、イエスは、「どのような罪も、人の子を冒涜するような罪も赦されます。しかし、聖霊を汚す者は決して赦されません。」と言われました。彼らの高ぶりは、罪を赦されないほど悪質なものでした。ですから、不信仰の背後には、高ぶった心があるのです。パロの高慢に対して、神は怒りを下されます。

 さあ、今度は、あすの今ごろ、エジプトにおいて建国の日以来、今までになかったきわめて激しい雹をわたしは降らせる。

 
エジプトは、当時で、建国されてから約2千年は経っていました。その2千年のうちにもなかったような災害です。今までなかったような災害、徹底的な災害です。そして、雹についてですが、これは、空の神「ヌト」というものがいました。ヌトによって、太陽と、暖かさが与えられ、嵐から守られていると信じられていました。雹はそれに対するさばきであります。

 それゆえ、今すぐ使いをやり、あなたの家畜、あなたが持っている野にあるすべてのものを避難させよ。野にいて家へ連れ戻すことのできない人や獣はみな雹が落ちて来ると死んでしまう。』」


 ここにも、神のあわれみを見ることができます。神は、悔い改める機会をエジプト人にも平等に与えておられます。けれども、次を見てください。

 パロの家臣のうちで主のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に避難させた。しかし、主のことばを心に留めなかった者は、しもべたちや家畜をそのまま野に残した。

 
主の警告があったのにもかかわらず、家畜としもべをそのまま残した者たちがいました。ところで、疫病によって家畜がみな死んだはずなのに、ここに家畜が存在するのは、彼らは家畜を貿易していたからです。家畜を失ったあとに、外国から入手したのでしょう。けれども、その家畜にもさばきがくだります。人間がいくら自分たちを守ろうとしても、神のさばきはことごとく行なわれます。

2D 主の守り 22−26
 そこで主はモーセに仰せられた。「あなたの手を天に向けて差し伸ばせ。」

 最初の3つの災いは、アロンの杖が用いられました。さばきが極みに達している今、代理人モーセ自身の杖で行なわれます。

 そうすれば、エジプト全土にわたって、人、獣、またエジプトの地のすべての野の草の上に雹が降る。

 
野の作物の上にも被害が及びます。エジプトでは、イソスとかセツと呼ばれる神々が、農作物を守っていると考えられていました。そして、エジプト人は肌にやさしい亜麻の着物を着ていました。この亜麻に対してもさばきが下ります。

 モーセが杖を天に向けて差し伸ばすと、主は雷と雹を送り、火が地に向かって走った。主はエジプトの国に雹を降らせた。
雹だけでなく、雷と火も降って来ました。大患難時代のさばきと同じです。「第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現われ、地上に投げられた。そして地上の3分の1が焼け、木の3分の1も焼け、青草が全部焼けてしまった。(8:7)」とあります。雹が降り、雹のただ中を火がひらめき渡った。建国以来エジプトの国中どこにもそのようなことのなかった、きわめて激しいものであった。雹はエジプト全土にわたって、人をはじめ獣に至るまで、野にいるすべてのものを打ち、また野の草をみな打った。野の木もことごとく打ち砕いた。すべてのもの、ことごとくという表現が使われています。ただ、イスラエル人が住むゴシェンの地には、雹は降らなかった。

 
これだけの大きな災いにもかかわらず、イスラエル人は奇蹟に守られています。エジプトで嵐の一番多い地域に、雹が降りませんでした。

3D 主の予定 27−35
 そこでパロは使いをやって、モーセとアロンを呼び寄せ、彼らに言った。「今度は、私は罪を犯した。主は正しいお方だ。私と私の民は悪者だ。

 パロは、自分の罪さえ認めています。これは、エジプト人が、天災を個人の罪によるものだと考えていたからです。

 主に祈ってくれ。神の雷と雹は、もうたくさんだ。私はおまえたちを行かせよう。おまえたちはもう、とどまってはならない。」
パロが叫んでいます。もうたくさんだ。とどまってはならない!モーセは彼に言った。「私が町を出たら、すぐに主に向かって手を伸べ広げましょう。そうすれば雷はやみ、雹はもう降らなくなりましょう。この地が主のものであることをあなたが知るためです。しかし、あなたとあなたの家臣が、まだ、神である主を恐れていないことを、私は知っています。」

 
モーセは、パロの言葉にすでに欺きがあることを見ぬいていました。まず、「今度は、罪を犯した。」と言っています。今までは自分は正しかったと暗に示しています。

 ・・亜麻と大麦は打ち倒された。大麦は穂を出し、亜麻はつぼみをつけていたからである。しかし小麦とスペルト小麦は打ち倒されなかった。これらは実るのがおそいからである。・・完全には打ち倒されていませんでした。モーセはパロのところを去り、町を出て、主に向かって両手を伸べ広げた。すると、雷と雹はやみ、雨はもう地に降らなくなった。パロは雨と雹と雷がやんだのを見たとき、またも罪を犯し、彼とその家臣たちは強情になった。

 今度は、家臣たちも強情になっています。少し倒されずにすんだ植物があったからでしょう。神があわれんでくださったのに、高ぶりが忍び込んできたのです。

 パロの心はかたくなになり、彼はイスラエル人を行かせなかった。主がモーセを通して言われたとおりである。

 また、かたくなになりました。

B 逆らい 10 (神の怒りは、逆らいに対して下る) 2つの特徴
1C 徹底的 1−20
1D 生存 1−6
 主はモーセに仰せられた。「パロのところに行け。わたしは彼とその家臣たちを強情にした。

 強情にした、と過去形になっています。主が、かなり強い意図をもってこのことを行なわれています。それは、神が、次の特別な計画を立てられているからです。

 それは、わたしがわたしのこれらのしるしを彼らの中に、行なうためであり、わたしがエジプトに対して力を働かせたあのことを、また、わたしが彼らの中で行なったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためであり、わたしが主であることを、あなたがたが知るためである。」


 イスラエルの民が、神のことを考えるとき、この出来事を思い出すことによって考えるように定められました。息子や孫に語り、代々伝えていなかければなりません。私たちが神を考えるとき、その偉大さと力強さを考えるとき、どのようなしるしを考えるでしょうか。ある人は、天地創造を思い出すかもしれません。またある人は、このエジプトに下ったさばきを考えるでしょう。そして、キリスト者に残されたしるしには、イエス・キリストの復活があります。神がイエスを死者の中からよみがえられたことを思い出すとき、どのような敵も、神に打ち勝つことはできないことを知るのです。

 モーセとアロンはパロのところに行って、彼に言った。「ヘブル人の神、主はこう仰せられます。『いつまでわたしの前に身を低くすることを拒むのか。わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ。もし、あなたが、わたしの民を行かせることを拒むなら、見よ、わたしはあす、いなごをあなたの領土に送る。』」いなごの災害です。これがいかにひどい災いであるかは、実際に見たことのない私たちにはわかりません。いなごが地の面をおおい、地は見えなくなる。また、雹の害を免れて、あなたがたに残されているものを食い尽くし、野に生えているあなたがたの木をみな食い尽くす。

 実は、いなごは雹よりも被害を大きくします。雹はまだ成長していない植物は打ち倒すことはできませんでした。けれども、いなごは、地面から生えているものなら何でも食い尽くすというのです。

 またあなたの家とすべての家臣の家、および全エジプトの家に満ちる。

 
家の中まで来るとは、想像を絶する被害です。いなごの災いはヨエル書、そしてヨエル書を引用して黙示録にも記されています。そこでは、いなごのように恐ろしい軍隊が、悪魔のような様相をして人々を襲うことが記されています。

 このようなことは、あなたの先祖たちも、そのまた先祖たちも、彼らが地上にあった日からきょうに至るまで、かつて見たことのないものであろう。』」こうして彼は身を返してパロのもとを去った。


 モーセとパロとの対立が激しくなっています。

2D 敵意 7−11
 ヨエル書には、いなごのような災いが近づいたのを見た人々の顔が青ざめることが記されています(2:6)。パロの家臣たちも、同じような恐怖をおぼえました。次を見てください。

 家臣たちはパロに言った。「いつまでこの者は私たちを陥れるのですか。この男たちを行かせ、彼らの神、主に仕えさせてください。エジプトが滅びるのが、まだおわかりにならないのですか。」この家臣の説得に、パロはいやいやながら応じました。モーセとアロンはパロのところに連れ戻された。パロは彼らに言った。「行け。おまえたちの神、主に仕えよ。だが、いったいだれが行くのか。」モーセは答えた。「私たちは若い者や年寄りも連れて行きます。息子や娘も、羊の群れも牛の群れも連れて行きます。私たちは主の祭りをするのですから。」パロは彼らに言った。「私がおまえたちとおまえたちの幼子たちとを行かせるくらいなら、主がおまえたちとともにあるように、とでも言おう。見ろ。悪意はおまえたちの顔に表われている。そうはいかない。さあ、壮年の男だけ行って、主に仕えよ。それがおまえたちの求めていることだ。」こうして彼らをパロの前から追い出した。

 
なんど、まだ、パロは強情になっています。ここまでめちゃくちゃにされているのに、まだ、自分が実権を握っているように振舞っています。彼は、幼子を行かせないようとしています。宗教行事をしたいお前たちだけで行なったらいいではないか。なぜ、幼子を巻き込むのか、ということです。あなたひとりだけで信じていて、他の人の邪魔をするのではない、と言いかえることができるでしょう。つまり、信じても伝道するなということです。これもサタンのわなです。キリストを信じた者は、それを分かち合うように必ず導かれます。まず、それは主の命令であり、また、主の愛に触れられた者は、そうせざるを得ないのです。パロは、二人を追い出してしまいました。


3D 災害 12−20
 主はモーセに仰せられた。「あなたの手をエジプトの地の上に差し伸ばせ。いなごの大群がエジプトの地を襲い、その国のあらゆる草木、雹の残したすべてのものを食い尽くすようにせよ。」モーセはエジプトの地の上に杖を差し伸ばした。主は終日終夜その地の上に東風を吹かせた。朝になると東風がいなごの大群を運んで来た。

 箴言には、「いなごには王はないが、みな隊を組んで出て行く。」とあります。いなごには指揮をするようなリーダーはなく、ただ風が吹く所にまかせて飛びます。主は、その風を動かされていなごをエジプトに送りこまれるのです。

 いなごの大群はエジプト全土を襲い、エジプト全域にとどまった。実におびただしく、こんないなごの大群は、前にもなかったし、このあとにもないであろう。それらは全地の面をおおったので、地は暗くなった。それらは、地の草木も、雹を免れた木の実も、ことごとく食い尽くした。エジプト全土にわたって、緑色は木にも野の草にも少しも残らなかった。

 彼らは、徹底的にさばかれました。

 パロは急いでモーセとアロンを呼び出して言った。急いで、とあります。パロはパニックに陥っています。「私は、おまえたちの神、主とおまえたちに対して罪を犯した。どうか今、もう一度だけ、私の罪を赦してくれ。おまえたちの神、主に願って、主が私から、ただこの死を取り除くようにしてくれ。」

 
死んでいないのに、この死を、といっています。生き地獄を味わったのでしょう。

 彼はパロのところから出て、主に祈った。すると、主はきわめて強い西の風に変えられた。
主はまた、風を支配されています。風はいなごを吹き上げ、葦の海に追いやった。エジプト全域に、一匹のいなごも残らなかった。一匹のいなごもいなくなりました。しかし主がパロの心をかたくなにされたので、彼はイスラエル人を行かせなかった。

 
雹といなごの災害を受けても、彼は強情になりました。

2C 自殺的 21−29
1D 狂乱 21−23
 そこで主は、3回目と6回目の災いのときのように、警告なしに次の災害を加えられます。主はモーセに仰せられた。「あなたの手を天に向けて差し伸べ、やみがエジプトの地の上に来て、やみにさわれるほどにせよ。」

 先の二つは徹底的なさばきですが、これは自殺的なさばきです。目の前で手を動かしても何も見えないようなくらさです。数時間真っ暗やみに人がいると、狂人になるという話を聞いたことがあります。それで3日間続きます。

 モーセが天に向けて手を差し伸ばしたとき、エジプト全土は三日間真っ暗やみとなった。三日間、だれも互いに見ることも、自分の場所から立つこともできなかった。しかしイスラエル人の住む所には光があった。

 
ここでも、イスラエルが守られました。

2D 自暴自棄 24−29
 パロはモーセを呼び寄せて言った。「行け。主に仕えよ。ただおまえたちの羊と牛は、とどめておけ。幼子はおまえたちといっしょに行ってもよい。」

 神々を拝んでいる動物でも、何も食うものがなけれは、ほしいと思います。けれども、これも妥協案です。自分の持っているのをささげずに、神を信じなさいと誘っているのです。私たちは心でキリストを信じますが、その信仰は、単に精神的なことだけでなく、物質的なことに及びます。キリストを信じても、献金はしなくていい。キリストを信じても、わざわざ日曜日をつぶして教会に行かなくてもいい、というささやきです。けれども、モーセは一切妥協しませんでした。

 モーセは言った。「あなた自身が私たちの手にいけにえと全焼のいけにえを与えて、私たちの神、主にささげさせなければなりません。私たちは家畜もいっしょに連れて行きます。ひづめ一つも残すことはできません。私たちは、私たちの神、主に仕えるためにその中から選ばなければなりません。しかも私たちは、あちらに行くまでは、どれをもって主に仕えなければならないかわからないのです。」しかし、主はパロの心をかたくなにされた。パロは彼らを行かせようとはしなかった。主が、また直接的にパロの心をかたくなにされています。パロは彼に言った。「私のところから出て行け。私の顔を二度と見ないように気をつけろ。おまえが私の顔を見たら、その日に、おまえは死ななければならない。」モーセは言った。「結構です。私はもう二度とあなたの顔を見ません。」

 9つめの災害は、パロとモーセの決別で終わりました。

 こうして、神のさばきについて学びました。神は、私たちを救いに導かれるときに、キリストにあってこのようなさばきを悪魔に対して行ってくださいました。それを感謝して祈りましょう。


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