エゼキエル書27−29章 「高ぶる心」

アウトライン

1A ツロの美しさ 27−28
   1B 富への誇り − 「私は全く美しい」 27
      1C 海の中の領土 1−25
         1D 船と城壁 1−11
         2D 世界貿易 12−25
      2C 沈没 26−36
   2B 知恵への誇り − 「私は神だ」 28
      1C 刺し殺される君主 1−10
      2C ツロの王ケルブ 11−19
      3C シドンの刺 20−26
2A エジプトの豊かさ − 「川は私が造った」 29
   1B 引きずり出されるワニ 1−9
   2B 40年の荒廃 10−16
   3B バビロンの分捕り物 17−21

本文

 エゼキエル書27章を開いてください、今日は27章から29章までを学びたいと思います。メッセージ題は「高ぶる心」です。

 前回から私たちは、ユダの周囲にある諸国への裁きを読んでいます。アモンから始まり、モアブ、エドム、ペリシテへと進み、そしてツロに対する預言を読みました。ツロに対しては、驚くべき預言の成就を、歴史文書の中で確認することができることを前回学びました。

 今日はこのツロに対する預言の続きを読みます。そしてエジプトに対する預言も読みます。どちらの国にも存在していた問題は「高ぶり」でした。ツロはその富によって高ぶり、エジプトはナイル川がもたらす豊かさを誇って高ぶりました。それでは本文を読みましょう。

1A ツロの美しさ 27−28
1B 富への誇り − 「私は全く美しい」 27
1C 海の中の領土 1−25
1D 船と城壁 1−11
27:1 次のような主のことばが私にあった。27:2 「人の子よ。ツロについて、哀歌を唱えよ。27:3 あなたはツロに言え。海の出入口に住み、多くの島々の民と取り引きをする者よ。神である主はこう仰せられる。ツロよ。『私は全く美しい。』とおまえは言った。

 前回説明したように、ツロは紀元前3000年頃から発達した古代都市国家です。今のレバノン南の沿岸にあります。地中海を自分の庭のようにして、その沿岸に植民都市を形成し世界を相手に貿易をしていました。

 そのツロが自分のことを「私は全く美しい」と言っています。ものすごい自惚れです。これは、自分に与えられている物によって、自分が一角の者であると考える錯覚です。パウロがコリントの教会の人々に、こう言いました。「あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。(1コリント4:7」すべての物は神から来ています。だから、自分に与えられたものは神の所有であると考え、自分は単なる僕であり、その管理者にしか過ぎないことを覚えるべきです。

 サムエル第二5章12節には、「ダビデは、主が彼をイスラエルの王として堅く立て、ご自分の民イスラエルのために、彼の王国を盛んにされたのを知った。」とあります。すべて主から来て、自分は何も持っていないことを知っている発言です。イスラエルの民は主の民であり、自分が王となったのではなく、主が王とされています。この意識が自分から離れると、私たちはツロのように、自分が持っている物によって自分が美しいと自惚れるのです。

27:4 おまえの領土は海の真中にあり、おまえを築いた者は、おまえを全く美しく仕上げた。27:5 彼らはセニルのもみの木でおまえのすべての船板を作り、レバノンの杉を使って、おまえの帆柱を作った。27:6 バシャンの樫の木でおまえのかいを作り、キティムの島々の檜に象牙をはめ込んで、おまえの甲板を作った。27:7 エジプトのあや織りの亜麻布が、おまえの帆であり、おまえの旗じるしであった。エリシャの島々からの青色と紫色の布が、おまえのおおいであった。

 ツロの美しさは、海の島々から集めたものであり、また世界から集めたものに因っています。初めはツロの船の美しさです。各地の最も良質のもので造られていますが、船板はセニルから、これはヘルモンのことです。イスラエルとレバノンの国境にあるヘルモン山のことです。そして帆柱はレバノンの杉です。ソロモンの神殿がレバノンの杉を使ったことは有名です。ツロの海軍は、この杉の力によって他の船と衝突したときに相手を破壊することができた、と言われています。

 櫂はバシャンからです。バシャンは今のゴラン高原で、ガリラヤ湖の北東に面したところにあります。ここの樫の木は有名です(イザヤ2:13)。そしてキティムはキプロス島です。ここからの檜を甲板に使っています。

 そして帆と旗印は、綾織の亜麻布で有名なエジプトから持ってきています(箴言7:16)。そしてエリシャの島々とありますが、どこか定かではありませんが、イタリア周辺の島々と考える人々がいます。いずれにしても、地中海周辺は布の染色で有名です。

27:8 シドンとアルワデの住民が、おまえのこぎ手であった。ツロよ。おまえのうちの熟練者が、おまえの船員であった。27:9 ゲバルの長老と、その熟練者がおまえのうちにあって、破損を修理し、海のすべての船とその水夫たちが、おまえのうちにあって、おまえの商品を商った。

 船だけが最良質のものだけでなく、船を扱っている人々も最も熟練した人々でした。シドンはツロの北にある海岸都市で、アルワデはシリヤ近海の島です。どちらも船乗りで有名です。ゲバルはシリヤ沿岸の町で、造船で有名でした。

27:10 ペルシヤ、ルデ、プテの人々は、おまえの軍隊の戦士であり、おまえに盾とかぶとを掛け、彼らはおまえに輝きを添えた。27:11 アルワデとヘレクの人々はおまえの回りの城壁の上に、また、ガマデ人はおまえのやぐらの中にいて、回りの城壁に丸い小盾を掛け、おまえを全く美しくした。

 ツロの海軍は傭兵によるものでした。愛国心や忠誠心ではなく、完全に経済的な契約によって外国人を自分の兵士として雇うのです。ペルシヤは今のイランで、ルデはトルコの西海岸にあります。プテは北アフリカの国で今のリビアのところにあったと言われます。エレミヤ46章9節によると、エジプト軍の中で彼らは活躍していました。

 そして町の中も他の所から来た人々で固めました。ヘレクは小アジヤの南東部にあるキリキヤにあると言われています。ガマデはおそらくレバノンの中にあります。

2D 世界貿易 12−25
 12節から世界貿易による数々の商品を神は列挙されます。その国々の多くが創世記10章に出てくる、世界に散らばった民族です。全世界を相手に貿易を行ないました。

27:12 タルシシュは、おまえがあらゆる財宝に豊かであったので、おまえと商いをし、銀、鉄、すず、鉛を、おまえの品物と交換した。

 タルシシュは今のスペインの中にある町で鉱物が採れます。地の果てにある遠い所として、ヨナがタルシシュ行きの船に乗ったことを思い出してください。

27:13 ヤワン、トバル、メシェクはおまえと取り引きをし、人材と青銅の器具とをおまえの商品と交換した。27:14 ベテ・トガルマは馬、軍馬、騾馬を、おまえの品物と交換した。

 ヤワン、トバル、メシェクは、そしてトガルマも先ほどのタルシシュと並んで、ヤペテの息子として創世記10章2節に登場します。そこの部分を10章2節から5節まで読んでみましょう。「ヤペテの子孫はゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メシェク、ティラス。ゴメルの子孫はアシュケナズ、リファテ、トガルマ。ヤワンの子孫はエリシャ、タルシシュ、キティム人、ドダニム人。これらから海沿いの国々が分かれ出て、その地方により、氏族ごとに、それぞれ国々の国語があった。(2-5節)」先ほども出てきたエリシャやキティムなどの島々も出てきますね。この「海沿いの国々」とは小アジヤ(今のトルコ)、ギリシヤ、スペインなどのことです。

 ヤワンはギリシヤ人のことであり、トバルとメシェクは黒海の南東にありました。そして彼らはさらに北東に行き、今のカスピ海の辺りにもいました。トガルマも今のアルメニアにいました。イスラエルから見ると、遥か北にいる人々であり、地中海を越えた遥か向こうの人々です。

 そこでイザヤ書の中に、地の果てにいる、神のことを一度も聞いたことのない人々として、列挙されています。「わたしは彼らの中にしるしを置き、彼らのうちののがれた者たちを諸国に遣わす。すなわち、タルシシュ、プル、ルデ、メシェク、ロシュ、トバル、ヤワン、遠い島々に。これらはわたしのうわさを聞いたこともなく、わたしの栄光を見たこともない。彼らはわたしの栄光を諸国の民に告げ知らせよう。(66:19」ですからこれらは世界貿易によって関係のある国々でありますが、同時に、福音宣教によってもつながる国々です。世界宣教はしばしば、貿易をする船に乗って宣教師がまだ伝えられていない地に足を踏み入れるのですが、世の栄えの中に福音の進展が着々と進むという神の摂理があります。

 そしてエゼキエル書38章において、「ゴグとマゴグ」によるイスラエル侵略の有名な預言の中に、これらの国々が登場します。北にあるこれらヨーロッパ系の国々だけでなく、北アフリカも、そしてペルシヤもその中に含まれます。当事知られた世界の、地の果てにある国々がイスラエルを攻めるという図式です。

 ところでヤワンはギリシヤ人であると言いましたが、彼らとツロの取り引きの中に「人材」がありますね。これは何のことない、奴隷のことです。ギリシヤ人は奴隷商人でした。ヨエル書36節には、ツロがユダとエルサレムの人々を、ギリシヤ人に売ったために、神の裁きが下ることが預言されています。

27:15 デダン人はおまえと取り引きをし、多くの島々はおまえの支配する市場であり、彼らは象牙と黒檀とをおまえにみつぎとして持って来た。

 デダンはアラビヤにいる人々です。

27:16 アラムは、おまえの製品が豊かであったので、おまえと商いをし、トルコ玉、紫色の布、あや織り物、白亜麻布、さんご、ルビーを、おまえの品物と交換した。

 アラムはシリヤのことです。

27:17 ユダとイスラエルの地もおまえと取り引きをし、ミニテの小麦、いちじく、蜜、香油、乳香を、おまえの商品と交換した。

 ユダとイスラエルもツロとの交易を行なっていました。

27:18 ダマスコも、おまえの製品が多く、あらゆる財宝が豊かなので、ヘルボンのぶどう酒と、ツァハルの羊毛でおまえと商いをした。

 ダマスコはシリヤの首都です。

27:19 ダンとヤワンもおまえの品物と交換した。その商品の中には、ウザルからの銑鉄、桂枝、菖蒲があった。

 このダンは、イスラエルの部族ではないと考えられます。ヤワンも先ほどのギリシヤ人ではないと考えられます。どちらもアラビア半島の中にあると考えられます。

27:20 デダンは鞍に敷く織り布でおまえと取り引きをした。27:21 アラビヤ人と、ケダルの君主たちもみな、おまえの御用商人であり、子羊、雄羊、やぎの商いをした。27:22 シェバとラマの商人たちはおまえと取り引きをし、あらゆる上等の香料、宝石、金を、おまえの品物と交換した。

 ケダル、シェバ、ラマはすべてアラビヤの人々です。遊牧民らしく羊や山羊が、またシェバの辺りには金が採掘されるので、金も取り引きの中に入っていました。ところでこれらの民族のいくつかも、創世記10章の民族分布図に出てきます。「ハムの子孫はクシュ、ミツライム、プテ、カナン。クシュの子孫はセバ、ハビラ、サブタ、ラマ、サブテカ。ラマの子孫はシェバ、デダン。(6-7節)

27:23 カラン、カネ、エデン、それにシェバの商人たち、アッシリヤとキルマデはおまえと取り引きをした。27:24 彼らは豪華な衣服や、青色の着物、あや織り物、多彩な敷き物、堅く撚った綱とおまえの商品とをもっておまえと取り引きをした。

 カラン、カネ、エデンはみなメソポタミア地方の町々です。アッシリヤもキルマデもメソポタミアです。そこでは繊維製品が発達していました。

27:25 タルシシュの船がおまえの品物を運んだ。おまえは海の真中で富み、大いに栄えた。

 タルシシュまで行くことのできる遠洋用の優れた船が品物を運んだ、ということです。

 どうでしょうか、彼らが海を自分の舞台として大いに栄えた様子を読むことができましたね。そしてこの、大いに栄えている最中に、神が彼らを沈没せしめるのです。

2C 沈没 26−36
27:26 おまえのこぎ手はおまえを大海原に連れ出し、東風は海の真中でおまえを打ち破った。27:27 おまえのくずれ落ちる日に、おまえの財宝、貨物、商品、おまえの水夫、船員、修繕工、おまえの商品を商う者、おまえの中にいるすべての戦士、おまえの中にいる全集団も、海の真中に沈んでしまう。

 地中海は時にものすごい暴風が吹きます。覚えていますか、パウロが囚人としてローマ皇帝のもとに連れて行かれる時、彼を乗せたイタリヤ行きの船が暴風に見舞われました。使徒行伝27章に書いてありますが、「ユーラクロン」という北東風が陸から吹きそれで遭難しました。

 多くの船は、そのような暴風が吹けば遭難することを恐れて地中海の大海原まで漕ぎ入れることはありませんし、特に暴風の季節は航行を避けたのですが、ツロはそんなことを度外視して自分の美しさを誇って動いていたのです。ところが、それが仇となり沈没してしまったということです。

 26節の「東風」はもう一つの意味を持っています。東方からツロを攻めてきたバビロンのネブカデネザルのことを暗示しています。自分たちの富に安住していたツロに対して、バビロンがその町を包囲し、攻略したという26章の預言を指し示しているのです。

27:28 おまえの船員の叫び声に海辺は身震いする。27:29 かいを取る者、水夫、海の船員はみな、船から降りて陸に立ち、27:30 おまえのために大声をあげて激しく泣き、頭にちりを振りかけ、灰の中をころび回る。27:31 彼らはおまえのために頭をそり、荒布をまとい、おまえのために心を痛めて泣き、いたく嘆き、27:32 泣き声をあげて哀歌を唱え、おまえのために悲しんで歌う。だれかツロのように海の真中で滅ぼされたものがあろうか。

 他のツロの船の船員たちが、転げまわって船の沈没を嘆き悲しんでいる様子です。

27:33 おまえの貨物が陸揚げされると、おまえは多くの国々の民を満ち足らせ、その豊かな財宝と商品で地の王たちを富ませた。27:34 おまえが海で打ち破られたとき、おまえの商品、全集団は、おまえとともに海の深みに沈んでしまった。27:35 島々の住民はすべておまえのことでおぞ気立ち、その王たちはひどく恐れて、あわてふためいた。27:36 国々の民の商人たちはおまえをあざけり、おまえは恐怖となり、とこしえになくなってしまう。」

 ツロが崩壊したことで、貿易をしていた世界の国々も恐れ、慌てます。

 この姿はまさに、世界貿易によって成り立つ今の世界をも映し出しています。2008年にアメリカに始まった金融恐慌によって、唯でさえ不況の中にいた国々に大きな打撃を与えました。もちろん一番ひどかったのはアメリカ本人です。私たちが2009年1月にアメリカに訪問した時に、会う人すべてが何らかの被害を受けていました。例えば老後に備えた年金などです。

 けれども話をよく聞くと、これらは投機的性質を持つものばかりでした。自分が所持している実際の預金や貯金がなくなったというのではなく、「実体のない資金」と言ってよいものばかりでした。だから着実に生活している人々は無傷だったということです。

 これが実はツロの貿易に表れている商業主義の正体です。ツロへの哀歌と極めて似ている預言が黙示録18章にあります。大バビロンが一日にして倒れ、王たち、商人たち、船乗りたちがみな嘆き悲しんでいる姿を読むことができます。けれども、最後のところで、「おまえの商人たちは地上の力ある者どもで、すべての国々の民がおまえの魔術にだまされていたからだ。(黙示18:23」とあります。魔術なのです。実体がない、幻想の中に浮かれていたのです。

 イエス様も金持ちの例えを話されました。金持ちが豊作で、「自分のたましいにこう言おう。『たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。』(ルカ12:19」けれども、彼はその夜に死にました。すべて幻想です。

2B 知恵への誇り − 「私は神だ」 28
 そして次に、ツロに対する預言は核心に迫ります。ツロの町を突き動かしていた者の正体を主は暴かれています。高ぶりの本質は何なのか、そして高ぶりの源泉はどこから来ているのかをはっきり見ることができます。

1C 刺し殺される君主 1−10
28:1 次のような主のことばが私にあった。28:2 「人の子よ。ツロの君主に言え。神である主はこう仰せられる。あなたは心高ぶり、『私は神だ。海の真中で神の座に着いている。』と言った。あなたは自分の心を神のようにみなしたが、あなたは人であって、神ではない。

 ツロの君主に対する預言ですが、12節には「ツロの王について哀歌を唱えて、彼に言え。」とあります。これは別人物です。今読んだ「君主」は実際上の人間の王です。けれども英語で読むとよく分かるのですが、君主は"prince"つまり「王子」です。ツロの王として君臨していた人間の背後には、その王を霊的に突き動かしている支配者がいたのです。それが、堕落したケルブであり、悪魔です。

 イザヤ書にも、同じような預言があります。バビロンに対する預言において王に対する嘲りの歌があります。けれども途中から、人間の王についての説明を超える天的な存在への預言に変わります。「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。(イザヤ14:12-15」星は聖書の中でしばしば天使を指していますが、高ぶった天使長である、暁の子、ルシファーが高ぶったために、奈落の底に落ちたことを宣言しています。

 ダニエル書においても同じです。ペルシヤ、ギリシヤ等、台頭する世界帝国の姿を獣として描きながら、その背後に「君」がいるとし、ダニエル書10章ではその戦いが起こっていることを教えています。ペルシヤの君、ギリシヤの君がおり、そしてイスラエルの君がそれに戦いますが、彼はミカエルです。

 目に見える権力や支配の中には、目に見えない暗闇の支配者が動いていることを私たちは知らなければいけません。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12」そして、これら暗闇の勢力は、何気ないところで、特に今取り扱っている「高ぶり」の中で強く働き、迫ってきます。

 ペテロのことを思い出してください。イエス様が生ける神の御子キリストですという告白をした後に、主がこれから自分は十字架につけられ、三日目によみがえると言われました。そしてペテロは、「主よ。とんでもないことです。そんあことが、あなたにあるはずがありません。」といさめました。するとイエス様は、「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。(マタイ16:23)」と言われました。ペテロがサタンになったのでしょうか?違いますね、ペテロの人間的な思い、またイエス様の言葉や思いよりも、自分の判断のほうが優れているという高ぶりの中に、実はサタンがその背後にいた、ということです。

 だから高ぶりには気をつけなければいけません。イスカリオテのユダは、自分の期待しているメシヤとイエス様が異なっていたこと、そして自分がお金を自分の懐にかすめていたことを暗に指摘されたこと、これらによって主を売り渡すことを考えました。そこで「サタンが彼にはいった。(ヨハネ13:27」とあります。どんなに自分の思いや気持ちが正しく見えても、私たちは神の力強い御手の下に身を低くしなければなりません。

 ではツロの君主に対する預言に戻りますが、彼は歴史上では「エテバアル三世」であると考えられます。バビロンがツロの町を倒す時にいた王です。彼は自分を神とみなしていました。異教徒ですから、異教の中では何でも神々にしてしまうから仕方がないと言えばそうなのですが、ここで神が問題にされているのは、人間の中に潜む根本的な高ぶりです。

 頭の中では私たちは単なる人間であり、神ではないことをよく知っています。けれども、物事が自分の思うとおりに少しでも動くと、それを神が行なわれた事として考えるのではなく、自分が行なった事だと考えるのです。これはまさしく、神の座に自分の身を置いているツロの王と変わらない欲望なのです。エバが悪魔に惑わされた時、これが彼女の欲望でした。神のようになり、自分を賢くするという木がいかにも好ましかった、とあります(創世3:5-6)。

28:3 あなたはダニエルよりも知恵があり、どんな秘密もあなたに隠されていない。28:4 あなたは自分の知恵と英知によって財宝を積み、金や銀を宝物倉にたくわえた。28:5 商いに多くの知恵を使って財宝をふやし、あなたの心は、財宝で高ぶった。

 自分の思い通りに物事が動くとき、その知恵を誇ります。そして自分の思い通りに物事が動くとき、それで得たものを自分の所有物であるとみなして誇ります。私たちは絶えず慎み深くして、主の前に出て、祈りと御霊によって身を低くしなければなりません。

 ところでここで神は皮肉をもって、ツロの君主を「ダニエルよりも知恵があり」と仰られています。もちろんダニエルの知恵は霊的な知恵ですから、ツロの君主の知恵よりもはるかに優れています。世の富ではなく神の主権を知る知識をダニエルは持っていたのですから、ツロの君主とは比べ物になりません。けれども、そうツロの君主が考えていたので、神がそれを当てこするようにして言われているのです。

 エゼキエル書には、ダニエルの名が既に14章にも出てきました。つまりダニエルについての話は、広範囲に広がっていたと考えられます。私たちはエゼキエル書の後で、この霊的に優れたダニエルについて勉強します。

28:6 それゆえ、神である主はこう仰せられる。あなたは自分の心を神の心のようにみなした。28:7 それゆえ、他国人、最も横暴な異邦の民を連れて来て、あなたを攻めさせる。彼らはあなたの美しい知恵に向かって剣を抜き、あなたの輝きを汚し、28:8 あなたを穴に投げ入れる。あなたは海の真中で、刺し殺される者の死を遂げる。28:9 それでもあなたは、自分を殺す者の前で、『私は神だ。』と言うのか。あなたは人であって、神ではない。あなたはあなたを刺し殺す者たちの手の中にある。28:10 あなたは異邦人の手によって割礼を受けていない者の死を遂げる。わたしがこれを語ったからだ。・・神である主の御告げ。・・」

 これはバビロンによるツロの攻略です。これを通して、彼が単なる人間に過ぎないことを神は示されます。エテバアル三世は、バビロンに反逆した為にネブカデネザルによって取り除かれます。そして、王としての尊厳をもった埋葬ではなく、横暴な者たちに刺し殺され、屈辱的な死に方をしました。

2C ツロの王ケルブ 11−19
28:11 次のような主のことばが私にあった。28:12 「人の子よ。ツロの王について哀歌を唱えて、彼に言え。神である主はこう仰せられる。あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。

 これが、先ほどから話している悪魔の姿です。悪魔が初め、どのような姿であったかを私たちはエゼキエル28章の中ではっきりと知ることができます。彼は、「全きものの典型」であり、「知恵に満ち、美の極み」でした。

 私たちは全く反対のことを考えます。悪魔であれば、彼は醜く、その姿は真っ黒で、ついでに槍を手にしていると考えます。これはもちろん聖書からではなく、ヨーロッパの異教の中で登場する悪魔の姿であり、本物ではありません。けれども、私たちは悪魔が醜いものであると考えたいのです。ところが、そうではなく全きものの典型であり、知恵に満ち、美の極みなのです。コリント第二1114節には、「サタンでさえ光の御使いに変装するのです。」とあります。

 だから誘惑があります。私たちは醜いものには抵抗することは容易にできますが、美しいものには引き込まれるのです。きれいな人、きれいな体、きれいな建物、すばらしい人生哲学、人格の整った優れた人など、神ではない他のものをあがめ、礼拝する誘惑が付きまとうのです。

28:13 あなたは神の園、エデンにいて、あらゆる宝石があなたをおおっていた。赤めのう、トパーズ、ダイヤモンド、緑柱石、しまめのう、碧玉、サファイヤ、トルコ玉、エメラルド。あなたのタンバリンと笛とは金で作られ、これらはあなたが造られた日に整えられていた。

 創世記2章にエデンの園は、実は最初の出来事ではありませんでした。2章には人の創造と、女の創造がありますが、その前にサタンがこのような美しさをもって存在していたことをこの箇所は教えています。

 ここに出てくる宝石の種類は、大祭司の装束の胸当てに付けられている12の宝石と重なり、ゆえに神の栄光と美を表しているものです。黙示録21章の天のエルサレムの土台石にも使われているものです。

 そして、彼はもともと賛美を導く天使であったことが分かります。「タンバリンと笛」を持っていました。神への賛美と礼拝を導くことほど、栄誉ある働きはありません。

28:14 わたしはあなたを油そそがれた守護者ケルブとともに、神の聖なる山に置いた。あなたは火の石の間を歩いていた。

 ここの訳は問題があります。実はヘブル語の本文ではなく、新改訳の下にある注釈には「七十人訳による」とあります。七十人訳とは、ヘブル語の聖書をギリシヤ語に訳したものであり聖書本文ではありません。元々のヘブル語はこうなっています。「あなたは油注がれた守護者ケルブ。わたしはあなたを置いた。あなたは神の聖なる山にいて、火の石の間を歩いていた。」このツロの王は、ケルブと共にいたのではなく、ケルブ本人だったのです。

 ケルブは、天使「ケルビム」の単数形です。ヘブル語は「イム」を付けると複数になります。覚えていますね、エゼキエルの預言はまずケルビムの幻から始まりました。主の御座の下にいる、翼を持ち四つの顔を持ち、青銅と火で輝き、車輪を持っていた天使です。主がエルサレムの神殿から離れるときも、ケルビムがそこにいました。

 ケルビムはまさに、主ご自身のそばにいる天使であり、その聖なる姿を守り、また賛美や礼拝をする存在です。契約の箱の上にある贖いの蓋には、純金で二人のケルビムが彫られています。アダムとエバがエデンの園から追放された時、いのちの木への道を炎の剣をもって守っていたのはケルビムでした(創世3:24)。

 ここでは「聖なる山」つまり、神が座しておられる天の御座のところにケルブがいて、そして「火の石の間」つまり、神の御座の聖さから流れる火の内側にいたのです。神に最も近い所にいました。

28:15 あなたの行ないは、あなたが造られた日からあなたに不正が見いだされるまでは、完全だった。

 神に最も近づいているとき、主の臨在が強くあるとき、神の働きがはっきりと現れている時、私たちはある意味、最も危険です。ケルブが犯した不正、罪と同じ過ちを犯す可能性が高いからです。「霊的な高ぶり」と呼んでよいかもしれませんが、神が豊かに祝福されているその中で、その神の栄光を自分のものにしようとする強い誘惑が働きます。

 パウロが監督者の資格についてテモテにこう伝えました。「また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。(1テモテ3:6-7」高慢になること、教会外で教会の評判を引き落とすことは悪魔の仕業であることが、ここに明確に書かれています。

28:16 あなたの商いが繁盛すると、あなたのうちに暴虐が満ち、あなたは罪を犯した。そこで、わたしはあなたを汚れたものとして神の山から追い出し、守護者ケルブが火の石の間からあなたを消えうせさせた。

 ここも、ヘブル語の本文では、「守護者ケルブよ。わたしは火の石の間からあなたを消えうさせた。」とあります。サタンの堕落です。天の神の御座のところから落ちて、次に空中を支配する者となりました。ヨブ記には、サタンが神の前に出てくる様子を見ることができます。

 そして、黙示録12章によると、大患難の半ばで悪魔とその手下どもが地上に投げ落とされるのを見ます。この時に地上での災いが極みに達します。悪魔が暴れまくるからです。それから悪魔は底知れぬ所で鎖につながれます。地上はキリストを王とする神の国があります。けれども千年後に鎖は解かれ、悪魔はさらに人々を惑わしますが、最後は火と硫黄の池に投げ込まれます。だから、どんどん下へ下へと落ちていくのです。

28:17 あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものとした。28:18 あなたは不正な商いで不義を重ね、あなたの聖所を汚した。わたしはあなたのうちから火を出し、あなたを焼き尽くした。こうして、すべての者が見ている前で、わたしはあなたを地上の灰とした。28:19 国々の民のうちであなたを知る者はみな、あなたのことでおののいた。あなたは恐怖となり、とこしえになくなってしまう。」

 実際のツロの君主の背後で、その商いの背後で悪魔が活発に働いていた様子を見ることができます。そしてツロの君主が殺されたとき、悪魔もその働きをつぶされたことがここから分かります。

3C シドンの刺 20−26
28:20 次のような主のことばが私にあった。28:21 「人の子よ。顔をシドンに向け、それに預言して、28:22 言え。神である主はこう仰せられる。シドンよ。わたしはおまえに立ち向かい、おまえのうちでわたしの栄光を現わす。わたしがシドンにさばきを下し、わたしの聖なることをそこに示すとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。28:23 わたしはそこに疫病を送り込む。そのちまたには血が流れ、四方から攻める剣のため、刺し殺された者がその中に倒れる。このとき、彼らはわたしが主であることを知ろう。

 ツロに次いでシドンに対する神の裁きです。シドンはツロから北に約30キロのところにある沿岸都市でツロと一組でしばしば語られます。そして次が、主がお語りになりたいことです。

28:24 イスラエルの家にとって、突き刺すいばらも、その回りから彼らに痛みを与え、侮るとげもなくなるとき、彼らは、わたしが神、主であることを知ろう。

 シドンが行なったことでイスラエルの棘になったのは、バアル崇拝を持ち込んだことです。覚えていますか、北イスラエルの王アハブの妻イゼベルが、シドン出身でした。列王記第一1631節と32節を読んでみたいと思います。「彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。さらに彼は、サマリヤに建てたバアルの宮に、バアルのために祭壇を築いた。

 この罪のゆえに、シドンは神から裁かれました。ある意味、ユダに敵対し、エルサレムの破壊を喜んだアモンやモアブ、エドムとペリシテよりも、もっと大きな罪かもしれません。神の民を物理的に攻撃するのではなく、自ら神の裁きを受けるように罪を犯させるつまずきを作ったからです。 

28:25 神である主はこう仰せられる。わたしがイスラエルの家を、散らされていた国々の民の中から集めるとき、わたしは諸国の民の目のまえで、わたしの聖なることを示そう。彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与えた土地に住みつこう。28:26 彼らはそこに安らかに住み、家々を建て、ぶどう畑を作る。彼らは安らかにそこに住みつこう。回りで彼らを侮るすべての者にわたしがさばきを下すとき、彼らは、わたしが彼らの神、主であることを知ろう。」

 すばらしい回復の約束です。この回復については、エゼキエル書33章以降、特に36章に驚くべき復興の預言があります。

2A エジプトの豊かさ − 「川は私が造った」 29
 それでは次にエジプトに行きましょう。29章から32章までがエジプトに対する預言です。エレミヤ書においては、バビロンに対する預言が諸国に対する預言の最後で、非常に長く、徹底したものでしたが、エゼキエル書ではエジプトが最後の国で、最も長いものとなっています。

1B 引きずり出されるワニ 1−9
29:1 第十年の第十の月の十二日に、私に次のような主のことばがあった。

 エゼキエルが捕囚の民としてバビロンに連れて来られてからの年代です。紀元前58715日であり、バビロンがエルサレムを包囲してから、約一年経ってから与えられた預言です。そして一年ちょっとでエルサレムが滅びます。

29:2 「人の子よ。顔をエジプトの王パロに向け、彼およびエジプト全体に預言し、29:3 こう語って言え。神である主はこう仰せられる。エジプトの王パロよ。わたしはあなたに立ち向かう。あなたは、自分の川の中に横たわる大きなわにで、『川は私のもの。私がこれを造った。』と言っている。

 この時のパロは、エレミヤ書に出てくる「ホフラ(46:30」です。彼は、包囲されているエルサレムを助けるべく、軍を出しました。それでバビロンは対抗するために一時的に包囲を解除しました。それでエルサレムは、バビロンから独立できるものとばかり期待したのですが、戻ってきたバビロンはその反逆のゆえ完全にエルサレムを破壊するのです。このホフラの過ちは、ユダの民が最終的に神に裁かれるよう誘引したことにあります。

 エジプトには、その長い歴史と国の成り立ちの中で大きな問題を持っていました。それは、「川は私のもの。私がこれを造った。」という誇りです。エジプトは砂漠の中にあります。けれども、ナイル川が流れているために土地は肥沃になり、文明を発達させ、強国になりました。私たちがカイロ市内にいた時、緑が比較的あるので分からなかったのですが、体から水分が蒸発していました。お昼に2.5リットルのペットボトルを二人で一気に飲み干した時に気づきました。

 次の日、ギザのピラミッドを見に行った時にここは砂漠のど真ん中であったことに気づいたのです。したがって、エジプトと言えばナイルそのものなのです。それが力の源泉であり、ナイルが神として崇められていたのです。

 そしてこの過剰な自信こそが、エジプトにとっての罠だったのです。エジプトの歴史は、古エジプト、中エジプト、新エジプトに分かれますが、古エジプト時代の偉大な文明、ピラミッド等の建築はあったものの、それ以降、彼らの文明が何か進展したわけではありませんでした。強さを誇りながら、中身は何も変わることなく、長い時間をかけて少しずつ内部が弱体化していったのがエジプトです。 

 カイロのエジプト博物館で、エジプトの最後を見たときは哀れでした。エジプト人の彫刻の頭の部分が取り除かれ、ギリシヤ人、またローマ人の頭が付けられているのです。ギリシヤとローマの支配を受けて、そのまま文明が消えてゆきました。

 この自信が私たちにもないでしょうか?「」のところに、自分が誇りとしているものを入れてみましょう。いつまでもその誇るべきものにしがみついて、離れることができず、だんだん弱くなっていくことはないでしょうか?霊的には、初めに出会った主との出会いを誇りにして、今の主との関係が弱くなっているのに気づかないなど、変な自負心を持ってはいないでしょうか。

29:4 わたしはあなたのあごに鉤をかけ、あなたの川の魚をあなたのうろこにつけ、あなたと、あなたのうろこについている川のすべての魚とを川の中から引き上げる。29:5a あなたとあなたの川のすべての魚とを荒野に投げ捨てる。あなたは野原に倒れ、集められず、葬られることもない。

 これはホフラ個人に実際に起こりました。カイロにあるエジプト博物館で、存在しないパロのミイラは、出エジプトの時のパロとそしてこのホフラだそうです。彼は王として尊厳をもって葬られることなく、クーデターに遭い野垂れ死にしました。

 エジプトと共に、エジプトから恩恵を受けていた小さな国々も滅びます。30章に詳しく預言されていますが、ここではわにであるエジプトとともに荒野に投げ捨てられる魚に例えられています。

29:5bわたしがあなたを地の獣と空の鳥のえじきとするとき、29:6 エジプトの住民はみな、わたしが主であることを知ろう。彼らが、イスラエルの家に対して、葦の杖にすぎなかったからだ。29:7 彼らがあなたの手をつかむと、あなたは折れ、彼らのすべての肩を砕いた。彼らがあなたに寄りかかると、あなたは折れ、彼らのすべての腰をいためた。

 「葦の杖」はすぐにふにゃふにゃになって倒れてしまいますね。これが先ほど説明した、ホフラによる援軍です。イスラエルはこれを頼りにしていましたが、頼りにしたばかりに、かえってバビロンに滅ぼされてしまいました。

29:8 それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしは剣を送ってあなたを攻め、人も獣も、あなたのうちから断ち滅ぼす。29:9 エジプトの地は荒れ果てて廃墟となる。このとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。それは彼が、『川は私のもの。私がこれを造った。』と言ったからだ。

 気をつけなければいけません、私たちの心がこうした誇り高ぶりを抱くことのないように注意しなければなりません。ツロの犯した罪、「私は全く美しい」「私は神だ」も、ここの「私がこれを造った」も、あまりにも身近な罪です。自分の心の中でいつぞや湧いてくる発言であります。神はこれを忌み嫌われ、裁きを行なわれます。

2B 40年の荒廃 10−16
29:10 それゆえ、わたしは、あなたにもあなたの川にも立ち向かい、エジプトの地を、ミグドルからセベネ、さらにクシュの国境に至るまで、荒れ果てさせて廃墟にする。

 ミグドルは下エジプト、すなわちエジプトの下流地域にある都市です。そしてセベネは今のアスワン、つまりエジプト上流にある土地です。クシュはエチオピヤであり、つまりエジプト全土が荒廃するという預言です。

29:11 人の足もそこを通らず、獣の足もそこを通らず、四十年の間だれも住まなくなる。29:12 わたしはエジプトの地を、荒れ果てた国々の間で荒れ果てさせ、その町々も四十年の間、廃墟となった町々の間で荒れ果てる。わたしはエジプト人を諸国の民の中に散らし、国々に追い散らす。

 エジプト人も、ユダヤ人と同じくバビロンによって倒れ、捕囚の民となりました。けれども、この40年間という期間を考古学によって発見されていません。今、発見されていないからといって間違いだとするのは、これまで聖書批評家が行なってきた過ちです。後で発見されて、聖書の歴史性を証明することになるからです。 

 けれども40年間というのは、イスラエルが荒野の旅をしていたことを思い出します。神の裁きのゆえに、40年間約束の地に入ることができなかったように、エジプト人も自分たちの土地に戻ることができなかった、ということです。

29:13 まことに、神である主はこう仰せられる。四十年の終わりになって、わたしはエジプト人を、散らされていた国々の民の中から集め、29:14 エジプトの捕われ人を帰らせる。彼らをその出身地、パテロスの地に帰らせる。彼らはそこで、取るに足りない王国となる。29:15 どの王国にも劣り、二度と諸国の民の上にぬきんでることはない。彼らが諸国の民を支配しないように、わたしは彼らを小さくする。29:16 イスラエルの家は、これに助けを求めるとき、咎を思い起こして、もう、これを頼みとしなくなる。このとき、彼らは、わたしが神、主であることを知ろう。」

 バビロンによってエジプトが倒れて、そしてバビロンがペルシヤによって倒れた後、再び人々が戻ってきましたが、あのエジプトの栄光はもう二度とありませんでした。そして、それは実に今日にまで至ります。

 今のエジプトに行けば、世界の人々のロマンチックなイメージとは裏腹に、その騒々しさとけたたましさと、圧迫された雰囲気に圧倒されます。第二次大戦後まもなくして、エジプト革命が起こり王政はなくなりました。ナセルが大統領となり、エジプトだけでなくアラブ世界のカリスマ的指導者となりました。 

 このナセルが、イスラエルに対して極めて好戦的な発言を繰り返し、そして他のアラブ諸国の手前、自分自身がイスラエルに戦争を仕掛けなければいけなくなるような状況に自ら陥りました。それで始まったのが、196765日に始まった六日戦争です。汎アラブ主義を掲げ、アラブ諸国の唯一の大国として誇っていましたが、実際は経済の不況で民は喘いでいました。そして戦争が勃発したその日に、戦争は決定的なものとなりました。イスラエル空軍が、駐留しているエジプト空軍の飛行機を、飛び立つ前にほぼ壊滅させてしまったからです。

 「ユダヤ人をみな土地から追い出し、地中海に落としてやる。」とナセルは豪語していましたが、ガザ地区、シナイ半島、そしてヨルダンはヨルダン西岸、シリヤはゴラン高原をみな失ってしまうという大損害を被ったのです。そして海に落ちたのはユダヤ人ではなく、命かながら逃げているエジプト軍の兵士が、スエズ運河を泳いで渡ったのでした。

 王政は倒したのですが、ナセルの心はまだナイル川のワニのままだったのです。エジプトの国の歴史がそのまま、神のことば通りになっています。

3B バビロンの分捕り物 17−21
29:17 第二十七年の第一の月の一日に、私に次のような主のことばがあった。

 預言が与えられた期日が、ずっと後になっていることに気づいてください。紀元前571年の426日で、もうエルサレムはずっと前にバビロンに破壊されて、ツロが13年間のバビロンの包囲に対して降伏したばかりの時です。エルサレムも倒れ、ツロも倒れ、今度はエジプトの番だ、ということです。

29:18 「人の子よ。バビロンの王ネブカデレザルはツロ攻撃に自分の軍隊を大いに働かせた。それで、みなの頭ははげ、みなの肩はすりむけた。それなのに、彼にも彼の軍隊にも、ツロ攻撃に働いた報いは何もなかった。

 前回の学びの時にお話しましたが、ツロの町はバビロンの包囲の間に陸から島に動きました。城壁が破れた後に、陸のツロの中に残っている略奪品がありませんでした。「頭がはげた」というのは兜を兵士らがずっとかぶっていたからです。「肩がすりむけた」というのは、城壁くずしのために木や石を肩にかついで運んでいたからです。こんなに兵士たちに苦労させたのに、なんら報酬を与えることができなかったわけです。

29:19 それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしはバビロンの王ネブカデレザルにエジプトの地を与えよう。彼はその富を取り上げ、物を分捕り、獲物をかすめ奪う。それが彼の軍隊への報いとなる。29:20 彼が働いた報酬として、わたしは彼にエジプトの地を与える。彼らがわたしのために働いたからだ。・・神である主の御告げ。・・

 バビロンがエジプトを攻めます。ホフラは紀元前567年に倒れます。

29:21 その日、わたしはイスラエルの家のために、一つの角を生えさせ、彼らの間であなたに口を開かせる。このとき彼らは、わたしが主であることを知ろう。」

 先にシドンが倒れました。その時イスラエルの棘が取れ、復興が始まりました。同じように、これまでエジプトに頼ってきたイスラエルは、エジプトが弱ってしまったことを契機に復興します。「一つの角を生えさせ」というのは、イスラエルに与えられている神の力が再び芽生えているということです。 

 そしてエゼキエルが再び口を開いて、イスラエルの回復を語り始めます。覚えていますか、エゼキエルはエルサレムに対する預言について、24章の時点で口が閉ざされました。けれども、エルサレムが陥落し、そして神がイスラエルを再び立たせることを決められてから、彼は語り始めます。そして、実際に預言どおりになっていくときに、彼はさらに確信をもって人々に語るのです。

 このように神は高ぶる者を低くされる反面、低くされた者を高めてくださいます。私たちは今、どっちにいるでしょうか?


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