神の主権に生きる 2001/10/04


このことだけでなく、私たちの先祖イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。(ローマ人への手紙9:10-13)

ヤコブの生涯は、私たちが神の視点から聖書を読み、信仰生活を送っているのか、あるいは自分の視点から物事を見ているのかを教えてくれる、リトマス紙になっています。

創世記25章から始まるヤコブの生涯は、大抵の注解書また、多くの説教者の説教の中でも、彼は狡猾であり、「かかとをつかむ者」という名前のとおり、人の弱みにつけこんでだまし取る者として紹介されます。しかし、聖書の最良の注解書は聖書そのものであると言われますが、新約聖書の中には、上記の聖書個所のように、神がヤコブを愛して、エサウを憎んでいるという言葉があり、またヘブル書11章においては、ヤコブは信仰の人として賞賛されています。その一方、エサウは、同じくヘブル書の12章において、「一杯の食物と引き換えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者」と紹介されており、神は、ヤコブを、私たちが見ているのとは、正反対に評価しておられるのです。


信仰の定義

この違いはどこから来るのでしょうか?それは、私たちが、「信仰」とは何かを教え、また自分で善悪を判断することがいかに間違っているかを教えてくれます。

信仰とは、「神に信頼して、その御声を聞いていくこと。」と定義したらよいでしょうか。幼い子が、母親と父親の言っていることを、その全幅の信頼のゆえに聞き、信じるように、私たちが、自分で善悪の判断をつけずに、神を愛し、信頼するゆえに、そのみことばに聞き入ります。かりに、子供が両親の言うことを聞き、その中で何か間違いを犯しているなら、両親はその子を叱りはしますが、彼をまだ愛しています。けれども、もしその子供が、「私は、お父さんとお母さんから離れて、自分自身で生きます。自分で考えて、判断して、それで仕事を得て、一人で食べていきます。」と言ったらどうなるでしょうか。これが、親をもっとも悲しませるというか、子どもは数日のうちに飢えで死んでしまうでしょう。

神と人との関係もこれと同じです。神に無邪気に信頼して、その言われることを素直に聞いていくのであれば、その途上で失敗をしても、神はそれでも愛し、真実を尽くしてくださいます。懲らしめられることはありますが、それはあくまでも父が子を愛しているように、愛されているからです。けれども、神から独立して、自分で動いていくときに、その人は神からは離れ、そのいのちから離れて、霊的に死んでしまうのです。


カインとアベル

カインとアベルの話を思い出してみましょう。神は、創世記4章に入る前に、アダムとエバに、皮の衣を与えて、その裸にともなう恥を覆ってくださいました。これが、神のご計画の中で、中核を占めるものとなり、人をご自分のもとに引き寄せる贖いの方法となりました。つまり、動物の犠牲によって、そのいのちを代わりに取ることによって、人の罪を赦してくださるという方法です。

そして、カインとアベルは、神にささげものをしましたが、アベルは子羊の初子を神にささげ、カインは土地で耕したところから出てきた作物をささげました。けれども、3章において、神は、「土地はのろわれたものとなる。」と言われたばかりであり、土地から出てきたものを受け取られないことを前もってお話になられていたのです。カインは、自分で良かれと思ってささげたのですが、実はそれは神の前では忌みきらわれたものであり、アベルのささげものが、神の前に聖いものとされたのです。それは、アベルが、神が言われたことをただ受け入れて、それに応答したという「信仰」によって生きたからです。

自分には良かれと思ってすることは、実はその心の奥底では悪があることを、その人自身が知っています。カインが顔を伏せて落ち込んでいるとき、神は、「なぜ、憤っているのか。」とお聞きになっています。そして、使徒ヨハネも、「(カインは)なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです。(1ヨハネ3:12)」と言いました。したがって、私たちの良心をきよめてくれるのは、唯一「信仰」によるのであり、自分が良かれと思って行なうところからは、実は汚れと悪しか出てこないのです。

こうした鮮明な違いが、「信仰」によることと、自分の判断によるところから出てきます。


神の御声

そこで、創世記25章に戻りますと、ヤコブとエサウについて初めに知った人は、あのリベカでした。彼女が身ごもっているときに、腹の中で兄弟喧嘩が始まり、リベカは主に祈りました。すると、主は彼女に語られました。

「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれでる。一つの国民は他の国民よりも強く、兄が弟に仕える。(23節)」

そこで28節を見ると、「リベカはヤコブを愛していた。」と続きます。リベカがヤコブを愛していたのは、言うまでもなく神に対する信仰のゆえだったのです。神が弟を祝福されると言われたように、この子を大事にしようと思ったのです。事実、ヤコブは、天幕の中で「正しい人(新改訳の「穏やかな人」は、ヨブ記で「正しい人」と訳されています。)」と呼ばれています。

その反面、エサウはどうでしょうか。彼は「猟師、野の人」でした。創世記10章を見ると、初めのハンターはニムロデであり、神に公然と反逆した強い人でした。むろん猟そのものが悪ではありませんが、神が望まれている姿、神が発信しているものを受信せずに、むしろ好まないことを行なっていたのです。

そして、あの、赤いスープの話になります。ヤコブは、エサウから長子の権利を奪い取りましたが、彼は神の祝福を切実に求めているその願いから、その権利を奪いました。「奪う」というと、悪いことのように聞こえますが、しかし、貪欲に霊的なこと、天的なことを求めることは、そこに極端になっていることがあっても、神はそれをとても喜ばれます。エサウは、一杯のスープと引き換えに、長子の権利を売ったことで、神に対する関心、求道がさらさらないことを露呈しました。

さらに、エサウは26章の最後を見ますと、ヘテ人の女をめとっています。神は子孫をとても大切にされていましたから、そこにおいても、彼は神を侮っていたのです。

そして27章に入るのです。イサクは、エサウがこしらえる肉料理が好きで、なんと祝福をエサウに与えようとしました。これは、神がヤコブを祝福するという定めに、真っ向から対立したものです。そこでこれを聞いていたリベカは、危機感を抱き、ヤコブを変装させて、そして料理を持っていかせました。これが背景です。したがって、ヤコブとリベカは、その行動そのものには行き過ぎがあったかもしれませんが、その動機は神とぴったりと調和しており、それゆえヤコブは、あの天のはしごの夢の中で、主ご自身から大きな祝福の約束を受けました。

ヤコブは、その信仰のゆえに、神から特別な取り扱いを受けました。霊的なことへの希求があまりにも激しいゆえに、彼は自分の手を伸ばしすぎていました。そこの部分を神は取り扱い、ヤコブと格闘されて、彼を祝福されたのです。ヤコブは真実に神を求める、求道者でありました。

このように、「信仰」とは何かを知り、何が神を喜ばせ、また神を否むことなのか、その定義をはっきりとさせておけば、このようなヤコブの生涯の、一見矛盾したような神の評価も理解できるようになります。そして、これは、私たちがクリスチャンとして生きていくときに、必ずなければいけない視点です。

信仰から出ていないことは、みな罪です。(ローマ14:23)
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。(ヘブル11:6)


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