創世記 29−31章 「恵みによる働き」

アウトライン

1A  労苦  29
   1B  キリストの働き  1−14
      1C  場所  1−8
      2C  時  9−14
   2B  霊の戦い  15−30
      1C  欺き  15−20
      2C  柔和  21−30
   3B  慰め  31−35
2A  祝福  30
   1B  充分な恵み  1−24
      1C  ねたみ  1−13
      2C  祈り  14−24
   2B  誠実さ  25−43
      1C  不利な条件  25−36
         1D  正当な期間  25−30
         2D  正当な報酬  31−36
      2C  神の奇跡  37−43
3A  救出  31
   1B  神への信頼  1−21
      1C  みことば  1−16
         1D  命令  1−3
         2D  真実  4−13
         3D  従順  14−16
      2C  行動  17−21
   2B  さばき  22−42
      1C  神の宣言  22−24
      2C  偶像の損失  23−35
      3C  罪の告示  36−42
   3B  敵の敗北  43−55
      1C  偽りの告発  43−50
      2C  真理の勝利  51−55


本文

 創世記29章を開いてください。今日は、29章から31章までを学びます。ここでのテーマは、「恵みによる働き」です。私たちは今まで、アブラハムとイサクの生涯について学びました。それぞれ、信仰の生活、子としての身分のついて知ることが出来ました。私たちが神を信じて、そして、神の子どもとして自分に与えられた特権を知ると、次に導かれるのが奉仕、あるいは働きです。神の恵みを本当に理解する時に、私たちは神にお仕えしたいと願うようになります。パウロは言いました。「私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかの使徒たちよりも多くの働きをしました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。(1コリント15:10)」私たちは、この奉仕の生活をヤコブの生涯で見出すことが出来ます。ヤコブは、父イサクのもとを離れて、母リベカの兄ラバンの所へ行って、自分の妻になるべき人に会いに行きます。その旅路の途中、神は、ヤコブに、天国で起こっている情景と、また、実にすばらしい約束を伝えられました。ヤコブは、この神の恵みによって多くの働きを行っていくのです。

1A  労苦  29
1B  キリストの働き  1−14
1C  場所  1−8
 ヤコブは旅を続けて、東の人々の国へ行った。ふと彼が見ると、野に一つの井戸があった。そしてその井戸のかたわらに、三つの羊の群れが伏していた。その井戸から群れに水を飲ませることになっていたからである。その井戸の口の上にある石は大きかった。 群れが全部そこに集められたとき、その石を井戸の口からころがして、羊に水を飲ませ、そうしてまた、その石を井戸の口のもとの所に戻すことになっていた。

 ヤコブは、ある井戸のところに到着しましたが、それは、彼が「ふと見た」所でした。彼が計画して、意図して来た所ではなく神が、ヤコブに与えられた約束を固く信じて来た所です。そして、そこは井戸でした。アブラハムのしもべがイサクの妻になる人を探しに来た時も、井戸のところに来た事を思い出して下さい。神は確かに、ヤコブを導いておられます。

 ヤコブがその人たちに、「兄弟たちよ。あなたがたはどこの方ですか。」と尋ねると、彼らは、「私たちはカランの者です。」と答えた。 それでヤコブは、「あなたがたはナホルの子ラバンをご存じですか。」と尋ねると、彼らは、「知っています。」と答えた。ヤコブは、その人たちについて行けば、無事にラバンのところに行けます。でも、そんなことをしなくてもよくなりました。ヤコブはまた、彼らに尋ねた。「あの人は元気ですか。」すると彼らは、「元気です。ご覧なさい。あの人の娘ラケルが羊を連れて来ています。」と言った。自分の求めていた人が、自分のところに来ることになりました。ヤコブは言った。「ご覧なさい。日はまだ高いし、群れを集める時間でもありません。羊に水を飲ませて、また行って、群れをお飼いなさい。」彼は、ラケルと2人っきりになりたいと願ったようです。彼の焦る思いが伝わってきます。すると彼らは言った。「全部の群れが集められるまでは、そうできないのです。集まったら、井戸の口から石をころがし、羊に水を飲ませるのです。」羊飼い達は、子どもに近い若い人々でした。井戸の上の石はとても大きくて、彼らにとっては重いので、人が大勢集まるのを待っているのです。

2C  時  9−14
 こうして、主は確かにヤコブを、ラケルが来るところに連れて来てくださいました。それだけではありません。主は、ヤコブがラケルに会う時間をも導いておられます。次を見てください。

 ヤコブがまだ彼らと話しているとき、まだ、話しているときです。ラケルが父の羊の群れを連れてやって来た。彼女は羊飼いであったからである。アブラハムのしもべは、まだ祈っているときにリベカがやって来ました。ヤコブが、自分の母の兄ラバンの娘ラケルと、母の兄ラバンの羊の群れを見ると、すぐ近寄って行って、井戸の口の上の石をころがし、母の兄ラバンの羊の群れに水を飲ませた。ヤコブは、自分の力強さをリベカに見てほしいみたいです。数人でようやく持ち上げられる石を、ひとりで持ち上げてしまいました。そうしてヤコブはラケルに口づけし、声をあげて泣いた。この口づけは、もちろん中東におけるあいさつです。ヤコブが、自分は彼女の父の親類であり、リベカの子であることをラケルに告げたので、彼女は走って行って、父にそのことを告げた。

 
ラケルは、リベカおばさんの話は、ラバンから聞いていたでしょう。あの、麗しい出会いと、リベカの決意を、ラケルは感動をもって聞いていたと思います。リベカはアブラハムのしもべに出会うと家に走っていきましたが、ラケルも同じように走っています。

 ラバンは、妹の子ヤコブのことを聞くとすぐ、彼を迎えに走って行き、彼を抱いて、口づけした。そして彼を自分の家に連れて来た。ヤコブはラバンに、事の次第のすべてを話した

 彼は、イサクがエサウに祝福を与えようとしているところから、詳しく話し始めたのでしょう。リベカの計画によって自分はエサウに成りすまし、イサクから祝福をいただきましたが、エサウがヤコブを殺す事を考えたので、リベカはイサクに、ラバンのところにヤコブを送るのをせっつきました。それでイサクは、ヤコブを祝福し、このように送られてきたのです。

 ラバンは彼に、「あなたはほんとうに私の骨肉です。」と言った。こうしてヤコブは彼のところに一か月滞在した。

 ラバンも、ヤコブのことを喜びました。そして、ヤコブは、すぐにラバンのもとで働きました。1ッ月無償で家畜の世話などをしていたのです。このようにヤコブの生活は、奉仕から始まっています。彼は、ベテルで現れたキリストを信じて、旅をしました。そうしたら、主が自分を井戸まで導き、そこにいる人々と話している時間まで設定してくださったことを知りました。したがって、彼の奉仕は、ベテルで現れてくださったキリストの力に支えられたものだったのです。使徒パウロはいました。「このために、私もまた、自分のうちに働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。(コロサイ1:29)」奉仕は、キリストの力によるものです。

2B  霊の戦い  15−30
1C  欺き  15−20
 そのとき、ラバンはヤコブに言った。「あなたが私の親類だからといって、ただで私に仕えることもなかろう。どういう報酬がほしいか、言ってください。」

 一ヶ月たってから、ラバンはヤコブを雇うことにしました。給料を払う事を約束しました。けれども、ヤコブがここに来た目的は、ラバンの娘を妻にする事です。それで、彼は次の交渉に出ました。

 ラバンにはふたりの娘があった。姉の名はレア、妹の名はラケルであった。レアの目は弱々しかったが、ラケルは姿も顔だちも美しかった。ヤコブはラケルを愛していた。それで、「私はあなたの下の娘ラケルのために七年間あなたに仕えましょう。」と言った。

 彼にとってラケルは特別な人でした。主が自分に会わせてくださった人。母リベカのように、姿も顔立ちも美しかった人です。そのうえ彼はラケルに恋しました。それで、結婚の結納金のために、7年間働くことをラバンに約束しました。

 するとラバンは、「娘を他人にやるよりは、あなたにあげるほうが良い。私のところにとどまっていなさい。」と言った。これは、ヤコブに対する誉め言葉です。親戚であるだけでなく、1ヶ月間のヤコブの仕事を見て彼を信頼したようです。ヤコブはラケルのために七年間仕えた。ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日のように思われた。恋の力はすごいですね。

2C  柔和  21−30
 しかし、このラバン、非常に貪欲で狡猾な人でした。リベカをイサクの妻として手渡す時、金の飾りを見た結果である事が24章30節に書かれています。ヤコブは、ラバンによって大変、苦しい目にあうことになります。

 ヤコブはラバンに申し出た。「私の妻を下さい。期間も満了したのですから。私は彼女のところにはいりたいのです。」そこでラバンは、その所の人々をみな集めて祝宴を催した。夕方になって、ラバンはその娘レアをとり、彼女をヤコブのところに行かせたので、ヤコブは彼女のところにはいった。

 ラバンは、ヤコブをだますために、夕方にレアを送りました。ヤコブは暗くて見えないようにするためです。それにヤコブは、祝宴で酒を飲まされていたのかもしれません。

 ラバンはまた、娘のレアに自分の女奴隷ジルパを彼女の女奴隷として与えた。娘が結婚する時、このように奴隷、あるいは召し使いを父親が娘に与えるのが、習慣になっていました。朝になって、見ると、それはレアであった。それで彼はラバンに言った。「何ということを私になさったのですか。私があなたに仕えたのは、ラケルのためではなかったのですか。なぜ、私をだましたのですか。」ラバンは答えた。「われわれのところでは、長女より先に下の娘をとつがせるようなことはしないのです。

 明らかにだましです。確かに、長女を先に嫁がせるのが風習だったかもしれませんが、であればヤコブに前もって知らせるべきでした。

 それで、この婚礼の週を過ごしなさい。そうすれば、あの娘もあなたにあげましょう。その代わり、あなたはもう七年間、私に仕えなければなりません。」

 ラバンの意図は明らかでした。ヤコブが仕事で成果を上げているのを見て「こいつは使える。」と思ったのです。ここから多くの人は、「ヤコブは、自分の蒔いたものを刈り取っているのだ。」と見ます。自分が父イサクをだましたので、今はラバンからだまされている、と言います。わたしは、必ずしもそうだとは思えません。ならば、例えば、どの使徒よりも多くの苦しみを受けたパウロは、過去に多くの迫害をしたからか、という事になります。けれどもパウロが受けた苦しみは、不信仰な者、肉に従って生きる者、罪の中にいる者が、パウロのうちにあるキリストの聖さや誠実さを見て、彼をねたむことによって起きました。「敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。(2テモテ3:12)」とパウロは言いましたが、ここでもそのことがあてはまるのではないかと思います。ヤコブは、主に誠実に仕えていたので、主が彼の働きを祝福して下さいましたが、それをラバンが利用しようとして、ヤコブはだまされたのです。

 ヤコブはそのようにした。すなわち、その婚礼の週を過ごした。それでラバンはその娘ラケルを彼に妻として与えた。ラバンは娘ラケルに、自分の女奴隷ビルハを彼女の女奴隷として与えた。ヤコブはこうして、ラケルのところにもはいった。ヤコブはレアよりも、実はラケルを愛していた。それで、もう七年間ラバンに仕えた。

 ヤコブはラバンに歯向かうようなことをしませんでした。自分の権利を主張せずに、7年間仕えたのです。このように、自分に損が出ても、自分の意志を押し通さない事を、聖書では柔和と言います。預言者ゼパニヤは、「義を求めよ。柔和を求めよ。(2:3)」と言いました。私たちはヤコブと同じように、不信仰な者や肉的な者から、不利な状況に陥れられる時がありますが、そのときに柔和になることは大切です。なぜなら、「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。(2コリント10:4)」とパウロは言っているからです。ヤコブはだまされた事を知っても、7年間ラバンに仕えました。

3B  慰め  31−35
 主はレアがきらわれているのをご覧になって、彼女の胎を開かれた。しかしラケルは不妊の女であった。

 無理やりレアと結婚させられたヤコブは、レアに対しては冷淡になってしまいました。しかし、主はあわれみ深い方です。夫に愛されないという苦しみの中にいる彼女に、多くの子を与えられます。

 レアはみごもって、男の子を産み、その子をルベンと名づけた。それは彼女が、「主が私の悩みをご覧になった。今こそ夫は私を愛するであろう。」と言ったからである。

 ルベンは、「子を見よ。」という意味です。このレアの言葉から、彼女が主を愛していた人であることがわかります。自分に子どもが与えられる事を、神に祈り、神が祈りを聞いてくださったことを感謝しています。そして彼女は、この出産によって、ヤコブが自分を愛してくれるのを期待しています。でも、そうではなさそうです。次を見ましょう。

  彼女はまたみごもって、男の子を産み、「主は私がきらわれているのを聞かれて、この子をも私に授けてくださった。」と言って、その子をシメオンと名づけた。

 シメオンは「聞く」から派生した言葉です。ヤコブが自分をきらっている、その苦しみの叫びを主は聞いてくださった、と彼女は信じました。

 彼女はまたみごもって、男の子を産み、「今度こそ、夫は私に結びつくだろう。私が彼に三人の子を産んだのだから。」と言った。それゆえ、その子はレビと呼ばれた。

 レビは、「結ぶ」という意味です。そして、彼女はまたみごもって、男の子を産み、「今度は主をほめたたえよう。」と言った。それゆえ、その子を彼女はユダと名づけた。それから彼女は子を産まなくなった。

 ユダは、「ほめたたえる」という言葉から来ています。ここには、夫が自分を愛してくれるだろうという期待の言葉がありません。なぜなら、ヤコブがレアを愛し始めたからです。そして、最後の2人の子どもに注目すると、レビは祭司となるレビ人の先祖です。また、ユダは、王が出てくるユダ族の先祖であり、またメシヤが現れる血統でもあります。ラバンがだまして与えたレアなのに、神は彼女を大いに用いられました。神は、人の悪事をも用いられて、ご自分の計画を実行されます。そして、レアにとっては、4人の子は苦しみの中の慰めでした。主は私たちの苦しみを知っておられ、このように必ず、慰めを与えられます。「私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。(2コリント1:5)」とパウロは言いました。

2A  祝福  30
 こうして私たちは、ヤコブの奉仕の中に労苦があるのを見ました。次に、彼の奉仕の中に祝福があるのを見ます。

1B  充分な恵み  1−24
 まず、子どもによる祝福です。神はかつて人に、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。」と命じられて、祝福されました。そして、アブラハム、イサク、ヤコブには、「あなたの子孫はちりのように多くなる。」と約束されました。ここでは、その約束がヤコブ個人の生涯に実現されます。

1C  ねたみ  1−13
 ラケルは自分がヤコブに子を産んでいないのを見て、姉を嫉妬し、ヤコブに言った。「私に子どもを下さい。でなければ、私は死んでしまいます。」神の祝福、と私は言いましたが、面白いですね。ラケルの嫉妬をも用いて、神はヤコブを祝福されようとしています。ヤコブはラケルに怒りを燃やして言った。「私が神に代わることができようか。おまえの胎内に子を宿らせないのは神なのだ。」もっともな意見です。でも、女の気持ちを理解していない、いつもの男の姿が現れています。すると彼女は言った。「では、私のはしためのビルハがいます。彼女のところにはいり、彼女が私のひざの上に子を産むようにしてください。そうすれば私が彼女によって子どもの母になれましょう。」

 これは、今の時代でいうと、代理母を使った体外授精のようなものです。女奴隷が代理の母になって、子どもは本当の母のものになる、という方法が、昔は使われていました。ですから、そんなに悪い事をしていません。しかし、それでも神の見地から立つと、まずいことだったのです。なぜなら、サラが子ができない事を悟って、アブラハムに女奴隷のハガルを与えたことを思い出して下さい。それは信仰によるものではありませんが、ここでも、同じようにラケルは、神のことよりも、子どもがとにかく産まれてほしいと思っています。

 ラケルは女奴隷ビルハを彼に妻として与えたので、ヤコブは彼女のところにはいった。 ビルハはみごもり、ヤコブに男の子を産んだ。そこでラケルは、「神は私をかばってくださり、私の声を聞き入れて、私に男の子を賜わった。」と言った。それゆえ、その子をダンと名づけた。

 ダンとは、「さばく」という意味です。ここで「かばってくださり」と訳されているところが、「正しくさばいてくださり」と訳すことも出来ます。ここで 「神」 エロヒムが使われています。先ほどレアは、「主」すなわちエホバの名を使いましたが、ラケルは、この出産に神の深い介入があったことを特に意識していないようです。

 ラケルの女奴隷ビルハは、またみごもって、ヤコブに二番目の男の子を産んだ。 そこでラケルは、「私は姉と死に物狂いの争いをして、ついに勝った。」と言って、その子をナフタリと名づけた。

 ナフタリは「争う」という意味です。ここでは姉への嫉妬心があらわに出て、神の名さえ出てきません。そして、この時点で、ヤコブの心は再びラケルに戻ったようです。

 さてレアは自分が子を産まなくなったのを見て、彼女の女奴隷ジルパをとって、ヤコブに妻として与えた。今度は、レアまでが競争の中に入ってきました。レアの女奴隷ジルパがヤコブに男の子を産んだとき、レアは、「幸運が来た。」と言って、その子をガドと名づけた。

 ガドは、「幸運」の意味です。だから、ただ、「ラッキー」といっただけで、神の御名をほめたたえていません。

 レアの女奴隷ジルパがヤコブに二番目の男の子を産んだとき、レアは、「なんとしあわせなこと。女たちは、私をしあわせ者と呼ぶでしょう。」と言って、その子をアシェルと名づけた。

 アシュルは、「しあわせ」という意味です。レアは自己満足に浸っています。

2C  祈り  14−24
 このように彼女達は、お互いの間でかみ合っていました。けれども、ある出来事からまた祈り始めたようです。それは、恋なすび事件と呼ばれるような出来事です。

 さて、ルベンは麦刈りのころ、野に出て行って、恋なすびを見つけ、それを自分の母レアのところに持って来た。 ルベンはその時点で、6歳か7歳になっていたと思います。するとラケルはレアに、「どうか、あなたの息子の恋なすびを少し私に下さい。」と言った。恋なすびは、性欲促進に効くと昔は言われていました。ラケルは不妊がそれによって治ることを願ったのです。レアはラケルに言った。「あなたは私の夫を取っても、まだ足りないのですか。私の息子の恋なすびもまた取り上げようとするのですか。」ラケルは答えた。「では、あなたの息子の恋なすびと引き替えに、今夜、あの人があなたといっしょに寝ればいいでしょう。」すごいですね。自分の旦那を、金で買ったらどうだ、と薦めているのです。

 夕方になってヤコブが野から帰って来たとき、レアは彼を出迎えて言った。「私は、私の息子の恋なすびで、あなたをようやく手に入れたのですから、私のところに来なければなりません。」そこでその夜、ヤコブはレアと寝た。

 こうしてヤコブは再びレアと寝ることを始めました。寝る前にレアは神に祈ったのでしょう。ヤコブは女奴隷から子が生まれても、私に気を止めてくれない。自分自身が産まなければならない。そう考えて、神に祈ったのだろうと思われます。

 神はレアの願いを聞かれたので、彼女はみごもって、ヤコブに五番目の男の子を産んだ。そこでレアは、「私が、女奴隷を夫に与えたので、神は私に報酬を下さった。」と言って、その子をイッサカルと名づけた。

 イッサカルは、「報酬」という意味です。

 レアがまたみごもり、ヤコブに六番目の男の子を産んだとき、レアは言った。「神は私に良い賜物を下さった。今度こそ夫は私を尊ぶだろう。私は彼に六人の子を産んだのだから。」そしてその子をゼブルンと名づけた。

 ゼブルンは、「住む」という意味です。「尊ぶだろう」というのは、「ともに住む」と訳す事が出来ます。レアはここでも神を認めています。しかも、子どもが神の賜物であると言いました。また、イッサカルのときは、「報酬」と言っています。後にソロモンも、同じ事を言っています。「見よ。子ども達は主の賜物、胎の実は報酬である。(詩篇127:3)」

 その後、レアは女の子を産み、その子をディナと名づけた。 唯一、女の子の名前が記されていますが、後に彼女が再び登場するので、名前が載っています。 神はラケルを覚えておられた。神は彼女の願いを聞き入れて、その胎を開かれた。

 神は、とうとうラケルの胎を開かれました。それは、彼女が濃いなすびを手に入れたからではなく、彼女が祈ったからです。私たちは、よく、「しょうがない。」「どうせ、こうなるんだから。」というような事を口走りますが、良くない事ですね。神は、祈りを聞かれる方です。

 彼女はみごもって男の子を産んだ。そして「神は私の汚名を取り去ってくださった。」と言って、その子をヨセフと名づけ、「主がもうひとりの子を私に加えてくださるように。」と言った。

 ヨセフは、「加える」という意味です。ラケルはここで、お願いと同時に預言をしています。もうひとりの子が、実際に後で産まれました。けれども、それが彼女の命取りになってしまいました。こうして私たちは、ラケルとレアによって子どもができたことを見ました。どちらも信仰を持っていましたが、肉的になってしまったのも事実です。しかし、神はそのような人間的な弱さをも用いて、ヤコブを祝福されました。これは恵みですね。パウロはこう言っています。「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからです。(2コリント12:9)」

2B  誠実さ  25−43
1C  不利な条件  25−36
1D  正当な期間  25−30
 ラケルがヨセフを産んで後、ヤコブはラバンに言った。「私を去らせ、私の故郷の地へ帰らせてください。私の妻たちや子どもたちを私に与えて行かせてください。私は彼らのためにあなたに仕えてきたのです。

 ラケルのために、ヤコブが働かなくてはならない期間である7年は、もう過ぎていました。ヤコブは、ラバンのもとを離れる法的な権利を持っていました。そして、ラバンの娘レアとラケルがヤコブのものであること、さらにその子ども達もヤコブのものであることも、彼は法的な権利として持っていました。

 あなたに仕えた私の働きはよくご存じです。」ヤコブが来てから、ラバンの手に入る収益は非常に大きいものになりました。ラバンは彼に言った。「もしあなたが私の願いをかなえてくれるのなら……。私はあなたのおかげで、主が私を祝福してくださったことを、まじないで知っている。」

 ラバンはその収益の大きさから、主がヤコブを祝福してくださったことを、認めざるを得ませんでした。ヤコブは主の証人となりました。ただ、ラバンは、それをまじないで知っています。彼は、自分の父祖ナホルの神エホバを知っていながら、偶像崇拝を行っていたのです。それに、ヤコブを失いたくなかった理由は、そのエホバの神を知りたかったのではなくて、その祝福だけを受け取りたかった、あるいは金儲けをしたかったからです。ですから、彼はキリスト教の中にいながら、ほとんど世と変わらない生活をしている者をあらわしています。

 さらに言った。「あなたの望む報酬を申し出てくれ。私はそれを払おう。」彼は、再び雇用契約を結ぼうとしています。ヤコブは彼に言った。「私がどのようにあなたに仕え、また私がどのようにあなたの家畜を飼ったかは、あなたがよくご存じです。私が来る前には、わずかだったのが、ふえて多くなりました。それは、私の行く先で主があなたを祝福されたからです。いったい、いつになったら私も自分自身の家を持つことができましょう。」

 ヤコブは、自分の働きが主によるものであることを強調しています。彼は、主の力によらないで行ったものは何一つありませんでした。主を礼拝して、そこから出てきた働きによってのみ働いたのであり、それゆえ祝福されたのです。箴言には、「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えられない。(10:22)」とあります。

2D  正当な報酬  31−36
 彼は言った。「何をあなたにあげようか。」ヤコブは言った。「何も下さるには及びません。もし次のことを私にしてくださるなら、私は再びあなたの羊の群れを飼って、守りましょう。私はきょう、あなたの群れをみな見回りましょう。その中から、ぶち毛とまだら毛のもの全部、羊の中では黒毛のもの全部、やぎの中ではまだら毛とぶち毛のものを、取り出してください。そしてそれらを私の報酬としてください。

 ここで話されている事を説明します。ヤコブは、ラバンの家畜を飼いますが、その中から、まだら毛とぶち毛のやぎと黒毛の羊は取り出されます。したがって、ヤコブが飼うのは黒色のやぎと、白色、あるいは少なくても白が混じった羊だったのです。けれどもヤコブが飼っているその家畜から、まだら毛とぶち毛のやぎ、黒色の羊が産まれたらそれがヤコブのものになります。普通、黒色のやぎは黒色のやぎを産み、白の羊は白の羊を産みます。雄と雌がどちらも黒色のやぎなのに、まだら毛のやぎが産まれるのは非常にまれなのです。でも、それを、ヤコブは自分の報酬にしようとしています。つまりやコブは自分にあえて不利な条件をラバンに申し出たのです。ラバンは、「何をあなたにあげようか。」と言ったとき、ヤコブはこの貪欲な者から何ももらってはいけないと思いました。ちょうどアブラハムが、ソドム王から褒美を断った時の様にです。しかし、彼は、主がともにおられるのだから、主が祝福してくださると信じました。人間的には、不利な条件でも、主にできないことはないと信じたのです。

 後になってあなたが、私の報酬を見に来られたとき、私の正しさがあなたに証明されますように。やぎの中に、ぶち毛やまだら毛でないものや、羊の中で、黒毛でないものがあれば、それはみな、私が盗んだものとなるのです。」

 ヤコブが飼っている家畜から、ぶち毛やまだら毛のやぎ、黒色の羊がまれに産まれてきたとします。けれどもここでヤコブは、それを自分の飼っているラバンの家畜と交配させないと言っています。だから、家畜がヤコブのものになるために、、最大限の制限をヤコブ自身がつけました。けれども、彼は、自分が「正しい」つまり、誠実であることを第一としました。誠実であることは、主のみこころだからです。預言者ミカは言いました。「主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公儀を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。」

 するとラバンは言った。「そうか。あなたの言うとおりになればいいな。」ラバンはその日、しま毛とまだら毛のある雄やぎと、ぶち毛とまだら毛の雌やぎ、いずれも身に白いところのあるもの、それに、羊の真黒のものを取り出して、自分の息子たちの手に渡した。そして、自分とヤコブとの間に三日の道のりの距離をおいた。ヤコブはラバンの残りの群れを飼っていた。

 ラバンは、ヤコブが、こんなにも自分に都合のよい取引をしているのだから、何かを企んでいるに違いないと思いました。それで、防御策を自分で敷きました。しま毛やまだら毛、黒色の家畜を自分のものにできます。そこで、自分の息子が飼っている群と、ヤコブが飼っている群に3日間の道程を置きました。

2C  神の奇跡  37−43
 ヤコブは、ポプラや、アーモンドや、すずかけの木の若枝を取り、それの白い筋の皮をはいで、その若枝の白いところをむき出しにし、その皮をはいだ枝を、群れが水を飲みに来る水ため、すなわち水ぶねの中に、群れに差し向かいに置いた。それで群れは水を飲みに来るときに、さかりがついた。

 この枝は、群の動物を制的に刺激させる姿をしてました。それで、それを見た群にさかりがついています。そこから出てくるこどもは、普通、やぎなら黒、羊なら白であるはずです。けれども次を見てください。

 こうして、群れは枝の前でさかりがついて、しま毛のもの、ぶち毛のもの、まだら毛のものを産んだ。 これは奇跡です。産まれて来るものは、しま毛のもの、ぶち毛のもの、まだら毛のものばかりでした。ヤコブは羊を分けておき、その群れを、ラバンの群れのしま毛のものと、真黒いものとに向けておいた。こうして彼は自分自身のために、自分だけの群れをつくって、ラバンの群れといっしょにしなかった。

 彼は、自分が言ったとおり、産まれて来たしま毛のやぎ、真っ黒い羊をラバンの群と分けました。

 そのうえ、強いものの群れがさかりがついたときには、いつもヤコブは群れの目の前に向けて、枝を水ぶねの中に置き、枝のところでつがわせた。しかし、群れが弱いときにはそれを置かなかった。こうして弱いのはラバンのものとなり、強いのはヤコブのものとなった。

 強いものに枝を見せていますが、ここでも普通は同じ色のやぎと羊しか産まれません。けれども、しま毛のもの、ぶち毛のもの、羊は真っ黒いものばかりが、強い群から産まれました。

 それで、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つようになった。

 多くの群ができたので、ヤコブは多くの人を雇わねばなりませんでした。さらに、運搬手段としてのらくだやろばを持つようになりました。このようにして、ヤコブは大いに富みましたが、神は確かに、ヤコブの生活を祝福してくださったのです。ヤコブは、人間的な知恵に頼らず、神の一方的な恵みに頼りました。だから、彼はだましたりする必要もなく、誠実を尽くす事ができたのです。使徒パウロは、こう言っています。「私たちがこの世の中で、特にあなたがたに対して、聖さと神から来る誠実さとをもって、人間的な知恵に頼らず、神の恵みによって行動していることは、私たちの良心のあかしをするところであって、これこそ私たちの誇りです。(2コリント1:12)」

3A  救出  31
 これで私たちは、奉仕の中には神の祝福があることを見てきました。次に、私たちが主のために働いている時にだましたり迫害したりする人が出てきても、そうした敵の手から救い出される事を見てきます。

1B  神への信頼  1−21
1C  みことば  1−16
1D  命令  1−3
 さてヤコブはラバンの息子たちが、「ヤコブはわれわれの父の物をみな取った。父の物でこのすべての富をものにしたのだ。」と言っているのを聞いた。これは嘘です。ヤコブは、誠実に働いた結果、多くの富を得ました。彼らはねたんでいるのです。ヤコブもまた、彼に対するラバンの態度が、以前のようではないのに気づいた。主はヤコブに仰せられた。「あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる。」

 主が久しぶりに語られました。ヤコブは大いに富む者となって、安定した生活を歩んでいましたが、主は、ラバンの息子とラバン自身のねたみを用いられて、ヤコブが再び信仰の旅を続けるように促しておられます。

2D  真実  4−13
 ヤコブは神を信頼していたので、すぐに旅の準備を始めます。一番、最初にしなければならないのは、妻たちの同意です。次を見てください。

 そこでヤコブは使いをやって、ラケルとレアを自分の群れのいる野に呼び寄せ、彼女たちに言った。「私はあなたがたの父の態度が以前のようではないのに気がついている。しかし私の父の神は私とともにおられるのだ。

 ヤコブは危険が迫っても、主がともにいおられるという約束をしっかり握っています。あなたがたが知っているように、私はあなたがたの父に、力を尽くして仕えた。それなのに、あなたがたの父は、私を欺き、私の報酬を幾度も変えた。しかしこの「しかし」が大事です。神は、彼が私に害を加えるようにされなかった。神が、ヤコブを守ってくださったことを思い出しています。彼が、『ぶち毛のものはあなたの報酬になる。』と言えば、すべての群れがぶち毛のものを産んだ。また、『しま毛のものはあなたの報酬になる。』と言えば、すべての群れが、しま毛のものを産んだ。 こうして神が、あなたがたの父の家畜を取り上げて、私に下さったのだ。

 
ヤコブの飼っていた群に奇跡的なことが起こったのは、完全に神がしてくださった事です。神は、ヤコブを守られただけでなく、祝福してくださいました。又、ラバンの不正を見て、彼をさばかれたのです。

 群れにさかりがついたとき、私が夢の中で目を上げて見ると、群れにかかっている雄やぎは、しま毛のもの、ぶち毛のもの、また、まだら毛のものであった。そして神の使いが夢の中で私に言われた。彼とは、主イエス・キリストのことです。『ヤコブよ。』私は『はい。』と答えた。すると御使いは言われた。『目を上げて見よ。群れにかかっている雄やぎはみな、しま毛のもの、ぶち毛のもの、まだら毛のものである。ラバンがあなたにしてきたことはみな、わたしが見た。これはラバンがはたらいた不正のことです。わたしはベテルの神。あなたはそこで、石の柱に油をそそぎ、わたしに誓願を立てたのだ。さあ、立って、この土地を出て、あなたの生まれた国に帰りなさい。』」

 
あのベテルでヤコブに現れてくださった主が、再びあらわれてくださいました。ベテルの神は、確かに自分に真実を尽くしてくださった。私を守り、祝福してくださった。だから、この方の言われることを信じて、この土地を出て、生まれ故郷に戻ろうとヤコブは言っているのです。

3D  従順  14−16
 ヤコブは、妻たちに相談をしているというより、説教をしている感じです。妻たちの応答を見ましょう。

 ラケルとレアは答えて言った。「私たちの父の家に、相続財産で私たちの受けるべき分がまだあるのでしょうか。私たちは父に、よそ者とみなされているのではないでしょうか。彼は私たちを売り、私たちの代金を食いつぶしたのですから。

 娘達は、ラバンが、金のことしか考えていないことを知っていました。娘でさえも、金儲けの手段となり、しかもその代金は食いつぶしてしまいました。彼女達には、父の家を離れるのに未練はありませんでした。そして、次がすばらしいです。

 また神が私たちの父から取り上げた富は、すべて私たちのもの、また子どもたちのものですから。さあ、神があなたにお告げになったすべてのことをしてください。」

 お告げになったことをすべてしてください、と言っています。夫への従順の前に、彼女達は主に対して従順だったのです。ヤコブも、二人の妻も、救い出されるために神のみことばに信頼しました。

2C  行動  17−21
 そして、従順には行動が伴ないます。次を見てください。そこでヤコブは立って、彼の子たち、妻たちをらくだに乗せ、また、すべての家畜と、彼が得たすべての財産、彼がパダン・アラムで自分自身のものとした家畜を追って、カナンの地にいる父イサクのところへ出かけた。父イサクはまだ生きています。そのとき、ラバンは自分の羊の毛を刈るために出ていたので、ラケルは父の所有のテラフィムを盗み出した。

 テラフィムは、偶像のことです。これは当時、家の財産の相続に重要な役割を担っていたという考古学の発見があります。息子が父の土地を相続する時に、法廷でこのテラフィムが使われていたそうです。でも、ラケルがなぜ、この偶像を手にしたのでしょうか。父の財産を後で奪い取りたいと思ったのでしょうか。それとも、ただ父に意地悪をしたかったのでしょうか。ただ、彼女がその偶像を拝みたかったからではないことは確かです。しかし、このテラフィムが、後で、家族全体に悪影響をもたらします。創世記35章の前半部分に書かれています。だから、どのような理由であれ、私たちは、偶像を手にするべきではありません。

 またヤコブは、アラム人ラバンにないしょにして、自分の逃げるのを彼に知らせなかった。彼は自分の持ち物全部を持って逃げた。彼は旅立って、ユーフラテス川を渡り、ギルアデの山地へ向かった。

 こうして、ヤコブは神の言われることを聞いて、家族と財産とともにすばやく行動しました。主によって助けられるためには、このように、私たちも主のことばを信頼しなければなりません。

 

2B  さばき  22−42
 次は、ラバンに対する神のさばきがかかれています。

1C  神の宣言  22−24
 三日目に、ヤコブが逃げたことがラバンに知らされたので、彼は身内の者たちを率いて、七日の道のりを、彼のあとを追って行き、ギルアデの山地でヤコブに追いついた。

 ラバンは、ものすごいスピードでヤコブを追いかけました。ラバンが怒りに燃えていたことは、明らかです。全財産を没収してしまうばかりか、ヤコブを殺そうとまで考えていたかもしれません。

 しかし神は夜、夢にアラム人ラバンに現われて言われた。「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ。」

 神が、ヤコブをラバンの手から守られようとされています。これをヤコブは後で、「神は、・・・さばきをなさったのです。(42節)」と言いました。つまり、あなたはヤコブのものを、娘も孫も家畜もみな、あきらめなさい、と言われたのと同じだったのです。

2C  偶像の損失  23−35
 神の、このような厳しい言葉だけでなく、ラバンは自分の大切な偶像を見つけることができなかった事が、次に書かれています。

 ラバンがヤコブに追いついたときには、ヤコブは山地に天幕を張っていた。そこでラバンもギルアデの山地に身内の者たちと天幕を張った。

 ヤコブはもう逃げられない状態になりました。ラバンはヤコブに言った。「何ということをしたのか。私にないしょで私の娘たちを剣で捕えたとりこのように引いて行くとは。ラバンの欺きを、ここで見極めてください。「私のむすめたちを」と言っています。いや、娘たちはもはやヤコブのものです。なぜ、あなたは逃げ隠れて私のところをこっそり抜け出し、私に知らせなかったのか。私はタンバリンや立琴で喜び歌って、あなたを送り出したろうに。これも嘘です。ラバンは、そんなことを言って、こっそり逃げたヤコブに罪悪感を植え付けようとしています。しかもあなたは、私の子どもたちや娘たちに口づけもさせなかった。あなたは全く愚かなことをしたものだ。いや、娘達は、ラバンは自分たちを品物のように売ったことを知っています。みなが、その嘘を知っていたけれども、ラバンは本当のことを言うのを恐れたのです。私はあなたがたに害を加える力を持っているが、ヤコブたちを、脅かしていますね。昨夜、あなたがたの父の神が私に告げて、『あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ。』と言われた。それはそうと、あなたは、あなたの父の家がほんとうに恋しくなって、どうしても帰って行きたくなったのであろうが、なぜ、私の神々を盗んだのか。」

 ラバンは、話題を変えました。ヤコブがホーム・シックにかかったと言って、うそぶいた後、自分の神々が盗まれたことを話しています。

 ヤコブはラバンに答えて言った。「あなたの娘たちをあなたが私から奪い取りはしないかと思って、恐れたからです。 この恐れは正しいものでした。ラバンは本当に奪い取る準備はできていました。あなたが、あなたの神々をだれかのところで見つけたなら、その者を生かしてはおきません。当時の法律であるハンムラビ法典によると、他人の神々を盗んだら、死刑に価しました。ヤコブはこのことを知っていたのです。

 私たちの一族の前で、私のところに、あなたのものがあったら、調べて、それを持って行ってください。」ヤコブはラケルがそれらを盗んだのを知らなかったのである。そこでラバンはヤコブの天幕と、レアの天幕と、さらにふたりのはしための天幕にもはいって見たが、見つからなかったので、レアの天幕を出てラケルの天幕にはいった。 ところが、ラケルはすでにテラフィムを取って、らくだの鞍の下に入れ、その上にすわっていたので、ラバンが天幕を隅々まで捜し回っても見つからなかった。 今ラバンは、彼らのものをめちゃくちゃに、散らかしています。ラケルは父に言った。「父上。私はあなたの前に立ち上がることができませんので、どうかおこらないでください。私には女の常のことがあるのです。」彼は捜したが、テラフィムは見つからなかった。

 ラケルは嘘をついてしまいました。おそらく、恐れたのでしょう。でも、神は、このことをも用いて、次に、やコブをとおして、ラバンの罪をあばかれます。

3C  罪の告示  36−42
 ヤコブは、自分の家のものをめちゃくちゃにされているのを見て、しびれを切らしました。

 そこでヤコブは怒って、ラバンをとがめた。ヤコブはラバンに口答えして言った。「私にどんなそむきの罪があって、私にどんな罪があって、あなたは私を追いつめるのですか。あなたは私の物を一つ残らず、さわってみて、何か一つでも、あなたの家の物を見つけましたか。もしあったら、それを私の一族と、あなたの一族の前に置いて、彼らに私たちふたりの間をさばかせましょう。

 
ラバンは、このヤコブの言葉を後で、悪用しています。ヤコブは続けて、自分が潔癖であることを訴えます。

 私はこの二十年間、あなたといっしょにいましたが、あなたの雌羊も雌やぎも流産したことはなく、あなたの群れの雄羊も私は食べたことはありませんでした。

 
羊飼いは、自分の飼っている家畜を食べる権利がありましたが、その権利を行使しなかったのです。パウロが、献金をもらう権利があったのに、自分で働いたのと同じ事です。つまり、主のしもべに、徹しました。

 野獣に裂かれたものは、あなたのもとへ持って行かないで、私が罪を負いました。これも、本当は、持ち主が代償を支払う事になっていました。ヤコブはこの権利も放棄していました。次から、ヤコブはラバンの罪をあばき始めます。あなたは私に責任を負わせました。昼盗まれたものにも、夜盗まれたものにも。私は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできない有様でした。 ラバンは、ヤコブに過酷な労働条件を強いました。 私はこの二十年間、あなたの家で過ごしました。十四年間はあなたのふたりの娘たちのために、六年間はあなたの群れのために、あなたに仕えてきました。それなのに、あなたは幾度も私の報酬を変えたのです。ラバンは、ヤコブが大いに富むことがない様にするため、給料を少なくとも10回は変えたのです。

 もし、私の父の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方が、私についておられなかったなら、あなたはきっと何も持たせずに私を去らせたことでしょう。

 ここに、ラバンの本音が出ています。何も持たせずに、ヤコブを去らせる事です。けれども、そうならなかったのは、ヤコブの努力ではなく、アブラハムの神、イサクの恐れる方がヤコブをまもってくださったのです。これだけでも、ラバンを辱めるのに十分ですが、最後にヤコブは結論を言います。

 神は私の悩みとこの手の苦労とを顧みられて、昨夜さばきをなさったのです。」ラバンは裁かれたのです。このように、ヤコブは、真実によってラバンを訴える事が出来ました。この神の真実が、私たちにとって最大の武器なのです。パウロは言いました。「私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、 また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。(2コリント10:5−6)」

3B  敵の敗北  43−55
 最後に、ラバンはいろいろな言葉でヤコブを攻撃しますが、徒労に終わりました。

1C  偽りの告発  43−50
 ラバンは答えてヤコブに言った。「娘たちは私の娘、子どもたちは私の子ども、群れは私の群れ、すべてあなたが見るものは私のもの。この私の娘たちのために、または娘たちが産んだ子どもたちのために、きょう、私は何ができよう。これは、完全に嘘です。彼は何とかして責任をヤコブに転換しようとしています。さあ、今、私とあなたと契約を結び、それを私とあなたとの間の証拠としよう。」ラバンは、今の嘘の言葉にもとづいて、公式の契約を結ぼうとしています。

 そこで、ヤコブは石を取り、これを立てて石の柱とした。ヤコブは自分の一族に言った。「石を集めなさい。」そこで彼らは石を取り、石塚を作った。ヤコブがこの石塚を立てました。けれども、ラバンは後で、「私が立てた」と言っています。こうして彼らは石塚のそばで食事をした。ラバンはそれをエガル・サハドタと名づけたが、ヤコブはこれをガルエデと名づけた。エガル・サハドタはアラム後で、ガルエデはヘブル語です。そしてラバンは言った。「この石塚は、きょう私とあなたとの間の証拠である。」それゆえ、その名はガルエデと呼ばれた。 ガルエデは、「あかしの塚」という意味です。

 またそれはミツパとも呼ばれた。彼がこう言ったからである。「われわれが互いに目が届かない所にいるとき、主が私とあなたとの間の見張りをされるように。この見張りは、泥棒の見張りのように使われています。もしあなたが私の娘たちをひどいめに会わせたり、もし娘たちのほかに妻をめとったりするなら、われわれのところにだれもいなくても、神が私とあなたとの間の証人であることをわきまえていなさい。」

2C  真理の勝利  51−55
 そして、お互いに行き来する事がないことも、この契約に含まれています。ラバンはまたヤコブに言った。「ご覧、この石塚を。そしてご覧、私があなたと私との間に立てたこの石の柱を。わかるでしょうか。ラバンは、いつもやコブの業績を自分の物としています。

 この石塚が証拠であり、この石の柱が証拠である。敵意をもって、この石塚を越えてあなたのところに行くことはない。あなたもまた、この石塚やこの石の柱を越えて私のところに来てはならない。 どうかアブラハムの神、ナホルの神――彼らの父祖の神――が、われわれの間をさばかれますように。」ヤコブも父イサクの恐れる方にかけて誓った。

 ラバンは、エロヒム、つまり神とでも神々とでも使われている言葉を使いました。彼の神の概念は、そのように混同されていました。しかし、ヤコブは、「イサクの恐れる方」と限定して、エホバの神に誓いをたてています。このように、この契約において、ラバンの嘘、偽り、攻撃は目に見えてわかりました。彼は、その一つ一つに反論しようと思えばいくらでも出来たのですが、彼は、口出ししない事に徹しました。このようなラバンに話しても意味がない事を知っていたし、自分たちが生まれ故郷に戻れという、神の命令に従うことが出来さえすればよいのです。ヤコブは、いつも正しいことに目を留めていたことがわかります。

 そうしてヤコブは山でいけにえをささげ、一族を招いて食事を共にした。食事をしてから彼らは山で一夜を明かした。彼らは、勝利を祝いました。ラバンの手から神が救い出して下さった事を感謝して、いけにえをささげ、また、神の御前で食事をしたのです。翌朝早く、ラバンは子どもたちと娘たちに口づけして、彼らを祝福した。それからラバンは去って、自分の家へ帰った。

 ラバンは帰りました。口では大きなことを語りましたが、結局は敗北したのです。大きな事を語る、というと反キリストのことを思い出しますが、彼も最後には火と硫黄の池に投げ込まれます。ラバンは主に仕えている者への反対者をあらわしています。いろいろな言葉を使って、欺きを使って、私たち聖徒を告発しますが、最後は裁かれます。黙示録では、反対者の代表である悪魔から、聖徒たちが救われることが記されています。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの御前で訴えている者が投げ落とされたからである。(11:10)」

 こうして、私たちは、恵みによる働きというテーマで学びました。恵みによって、私たちは労苦します。反対するものがいるからです。しかし、神は、その中でも必ず祝福されます。そして、その反対者からも救い出してくださるのです。私たちは、霊的な戦いの中にいます。その中で、どのように克服していけばよいのか、ヤコブの生活を見てわかりました。柔和であること、誠実であること、神を信頼することなど、人間的にみれば損をする事でも、私たちの神は全能であり、必ず勝利を与えてくださいます。



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