ハガイ書2章 「今、強くあれ」


アウトライン


1A 後の栄光 1−9
   1B 以前の栄光 1−5
   2B 先にまさる栄光 6−9
2A これからの祝福 10−19
   1B 以前の汚れ 10−14
   2B 何もない現状 15−19
3A 選び取り 20−23

本文

 ハガイ書2章です。今晩のメッセージ題は「今、強くあれ」です。昨晩は「現状を考えよ」でした。ハガイ書1章は、悔い改めへの呼びかけがテーマでしたが、今日は、励ましがテーマです。弱く、小さい集団であったエルサレムにるユダヤ人たちは、神からの大きな幻を見せていただき、力づけられました。

1A 後の栄光 1−9
1B 以前の栄光 1−5
2:1 ダリヨス王の第二年の第七の月の二十一日に、預言者ハガイを通して、次のような主のことばがあった。

 1章の最後に、彼らが工事を再開させたのが第六の月の二十四日であった、と書いてあります。だいたい一ヶ月経ったころの話です。すでに土台は据えられていましたから、その上に神殿を建て始めていました。

2:2 シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアと、民の残りの者とに次のように言え。

 初めのハガイの預言は、ゼルバベルとヨシュアに対しての言葉であると書かれていましたが、ここでは民の残りの者たちも加えられています。二人だけでなく、民全体に関わることをハガイがこれから語るからです。

2:3 あなたがたのうち、以前の栄光に輝くこの宮を見たことのある、生き残った者はだれか。あなたがたは、今、これをどう見ているのか。あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか。

 民の中には、以前のソロモンが建てた神殿を覚えている者たちがいました。バビロンによって神殿が破壊されたのは、紀元前586年です。今が紀元前520年ですから66年前の出来事でした。70歳後半以上のおじいさん、おばあさんであれば、当時の神殿を思い出すことができます。

 ソロモンが建てた神殿の栄華は、息が止まるばかりのものでした。シェバの女王がソロモンのとこに表敬訪問に来たときのことを思い出してください。彼女は、「実は、私は、自分で来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じなかったのですが、驚いたことに、私にはその半分も知らされていなかったのです。あなたの知恵と繁栄は、私が聞いていたうわさよりはるかにまさっています。 (1列王10:7」と言いました。そして、すべてが金で覆われており、銀は石ころのようなものにみなされていた、と書かれています。

 バビロンに神殿を滅ぼされたときまでには、多くの財宝を周囲の国への貢ぎ物として渡していましたが、それでもその栄華は見劣りするものではありませんでした。

 エズラ記に興味深い記事があります。エルサレムに戻ってきた人々が、神殿の土台を建てることができたので、その感謝と賛美をささげるために集まってきました。そこで、祭司たちが賛美をリードしたのですが、一方では喜びの叫び声がして、他方では大きな泣き声が聞こえました。喜び叫ぶ声は、ソロモンの神殿を目撃していない、比較的若い人々からのものです。礎を見て、こんなにすばらしいものが出来た、と喜んだのです。

 同じ礎を見て、年寄りの人々は嘆き悲しんだのです。ソロモンの神殿に比べたらあまりにも見劣りするものだったからです。エズラ記3章には、「そのため、だれも喜びの叫び声と民の泣き声とを区別することができなかった。民が大声をあげて喜び叫んだので、その声は遠い所まで聞こえた。 3:13」と書いてあります。

 主は、そのような人たちに、いや、年取りの嘆きを聞いて、今のちっぽけな神殿に少しがっかりしてきている人たちもいたことでしょう、だからすべての気落ちしている人々に、「あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか。」と仰っています。事実そうなのです。比べたら、あまりにもちっぽけなものだったのです。

 私たちが主にあって信仰的に前進するとき、主のわざに励んでいるとき、私たちをがっかりさせてしまう要素は、自分の目に見える現状です。あまりにも小さい働き、あまりにも小さい事柄にしか見えないことだらけです。主が示してくださった幻とは比べ物にならず、情けなくなります。

 また、他の人との比較もすることがあるでしょう。あの人はこんなに成功しているのに、自分はいったい何なんだろう。パウロは、コリントにある教会に対して、「彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです。」と言いましたが、私たちが少し疲れてくると、このことを行なってしまいます。そこで、主は励まされます。

2:4 しかし、ゼルバベルよ、今、強くあれ。・・主の御告げ。・・エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ。強くあれ。この国のすべての民よ。強くあれ。・・主の御告げ。・・仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。・・万軍の主の御告げ。・・

 見てください、「強くあれ」という励ましの言葉を、一人ひとりにかけておられます。初めは「ゼルバベルよ、強くあれ」、次に「ヨシュアよ、強くあれ」そして、「この国のすべての民よ、強くあれ」です。さらに、「主の御告げ」という言葉も三回出てきます。

 聖書の中には、この「強くあれ」という言葉がたくさん出てきます。モーセの後継者であるヨシュアは、モーセが死んで、自分ひとりでイスラエルを率い、約束の地で先住の民と戦わなければいけません。それで主が、「ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。(ヨシュア1:7」と仰いました。ダビデの息子ソロモンに対しても同じです。これから一人で神殿建設の事業に携わらなければいけないとき、「「私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。強く、男らしくありなさい。(1列王2:2」とダビデは言いました。

 そしてダニエルが、主イエス・キリストではないかと思われる主の使いに会って、体の力がなくなって倒れてしまったとき、「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。(ダニエル10:19」と御使いは言いました。使徒パウロは、コリントにある教会の人たちに、「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。(1コリント16:13」と言いました。

 これからどうなるか分からない、しなければいけないことがあまりにも大きすぎる、やっぱり無理だ、とうろたえそうになっているとき、恐れているとき、主は私たちを「強くありなさい」と励ましてくださいます。

 そして最後に、パウロはエペソにある教会の人たちにこう言いました。「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。(エペソ3:16」父なる神の栄光の豊かさに従って、内なる人を強くしてくださいます。また、御霊によって、力によって強くしてくださいます。この二つの力を与える要素が、次の主の言葉の中にも出てきます。

 主は彼らに、「仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。」と言われました。1章にも出てきた大きな約束です。主がともにおられるというのは、私たちの力ではなく、主の御力によって前進できるということです。

2:5 あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。

 主の御霊が働いておられます。有名な聖句がありますね、「『権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。」と。この御言葉は、まさにゼルバベルが神殿を土台の上に建てることに際しての、神の約束です。ゼカリヤ4章6節、「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。

 そして主は、五万人ぐらいしかいないユダヤ人の集団に、御救いの業をもって臨まれています。みなさんご存知ですね、イスラエルを、紅海を二つに分けて、エジプトの精鋭部隊を海に沈ませたところの救いです。

 そして主は、シナイ山のふもとでこう約束されました。「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。(出エジプト19:5-6」これは、紀元前1445年ごろに語られた主の言葉ですが、千年近く経ったイスラエル人たちに同じ約束をしてくださっています。

 もうとっくの昔に葬り去られていると思ってもおかしくない約束です。これだけ長い間、神に背いて、バビロンによって約束の地から抜き取られて、イスラエル人には、ほとんど何も残っていないのです。かつて、神の約束を聞いたのは約50万人のイスラエル成年男子でした。女子供を合わせたら二百万、三百万人いたことでしょう。今はたったの五万人です。しかし、主は初めの約束を決して忘れていません!

 なんという恵みでしょうか。先ほど引用したゼカリヤ書4章の続きには、こう書いてあります。「大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ。』と叫びながら、かしら石を運び出そう。(7節)」恵みです。どんなにぼろぼろになっても、どんなに失敗しても、主は私たちを強めてくださり、再び祝福することがおできになります。

2B 先にまさる栄光 6−9
 そして次に、パウロが、「御父の豊かな栄光に従い、内なる人を強めてくださる。」と言った、父なる栄光について書かれています。

2:6 まことに、万軍の主はこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。

 これは終わりの時についての話です。現代の私たちにとっても将来の話です。世の終わりの時に、大患難の時に、主は天と地を、海と陸とを揺り動かされます。イザヤ書34章4節、「天の万象は朽ち果て、天は巻き物のように巻かれる。その万象は、枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から葉が枯れ落ちるように。」ヨエル書3章16節、「主はシオンから叫び、エルサレムから声を出される。天も地も震える。」そして、イエス様がオリーブ山で弟子たちに言われた言葉です。「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。(マタイ24:29

 ヘブル書の著者は、ここハガイ書2章6節を引用してこう言っています。1226節からです。「あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。『わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。』この『もう一度』ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。(26-28節)」神の御国は、揺り動かされることはない、という約束です。いや、御国が残るために、神は、あえて天地をふるいにかけて揺り動かされます。

2:7 わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。万軍の主は仰せられる。

 天地が揺り動かされる前後で、主は、すべての国々も揺り動かされます。この内容については、さらに主がゼルバベル個人にお語りになるので、そこで詳しく見ていきたいと思います。ここでは、主は、国々が揺り動かされた後に起こることに焦点を当てておられます。すべての国々の宝物がもたらされる約束です。

 国々が揺る動かされた結果、その財宝がエルサレムに多く集められることが、ゼカリヤ書1414節に書かれています。「ユダもエルサレムに戦いをしかけ、回りのすべての国々の財宝は、金、銀、衣服など非常に多く集められる。

 そして、神の御国で、主イエス様がエルサレムで世界の王として即位されてから、世界中の国々が貢ぎ物をイエス様のところに持ってきます。イザヤ書60章4節から読みます。「目を上げて、あたりを見よ。彼らはみな集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来、娘たちはわきに抱かれて来る。そのとき、あなたはこれを見て、晴れやかになり、心は震えて、喜ぶ。海の富はあなたのところに移され、国々の財宝はあなたのものとなるからだ。(4-5節)

 そして、「わたしはこの宮を栄光で満たす。」と主は言われますが、これは財宝による輝きもあるかもしれませんが、何よりも、主ご自身が宮の中におられて、その栄光が放っていることを意味します。モーセが幕屋を完成させたとき栄光が満ちましたし、ソロモンが神殿を建てたときも、栄光の雲が宮に満ちて、奉仕者が中に入ることができませんでした。神の御国における宮もまた、主ご自身の輝きと栄光に満ちます。

2:8 銀はわたしのもの。金もわたしのもの。・・万軍の主の御告げ。・・

 よく考えれば、そうなのです。ユダヤ人たちの手にあるのは、ソロモンの神殿で使われた金銀に比べたら、相当少なかったでしょう。しかし、考えてみれば、世界にあるすべての金銀は主ご自身のものです。

 私たちも貧乏根性を払拭すべきでしょう。教会堂が小さい、財政は貧しい、人数も少ない、などと言っているなら、一度、外の空気を吸うと良いのです。その外にあるすべてのものは、主のものなのです。すべてが主のものであり、私たちはその主のしもべなのです。

2:9この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。万軍の主は仰せられる。わたしはまた、この所に平和を与える。・・万軍の主の御告げ。

 ユダヤ人の老人は、今の建築中の神殿とかつてのソロモンの神殿を比べていました。けれども、主はかえって、ソロモンの神殿よりもさらにすぐれた、栄光に輝く神殿となると約束されています。終わりの時の神殿の青写真が、エゼキエル書40章以降にありますが確かにソロモンの神殿をはるかに凌ぎます。

 そして、「この所に平和を与える。」と約束されています。今、周囲に神殿建設に反対する敵がいます。また、彼らの中でも労苦と内なる戦いの中にいました。平安が必要でした。そこで主は平和を約束されています。具体的には、終わりの時にキリストが平和の君として世界を支配してくださいます。

 このようなすばらしい栄光を、主は少し気落ちしているユダヤ人たちに示されました。しかし、彼らが実際に建てる神殿のことではないじゃないか、と疑問に思う人がいるかもしれません。ずっと後のことを話されても、仕方がないよ、と思われるかもしれません。

 いや、これが私たち人間の業と、神の御業の違いなのです。ゼルバベルたちにとって、自分たちで建てる神殿など、ある意味、大して問題ではないのです。所詮、自分たちの作品であります。例えば、私たちが教会堂を建てて、それが天地万物を造られた神ご自身の栄光で輝いているでしょうか?違いますね。

 あるいは、ある人がイエス様を信じて救われましたが、その喜びは、教会の人たちの人数が少ないから、十数人のクリスチャンだけに分かち合われるだけかもしれません。その喜びは十数人だけのものでしょうか?違いますね。私たちは、一人が悔い改めたら、天において大勢の御使いが祝宴を開いていることを知っています。ものすごい歓声と喜びが天に鳴り響いているのを知って、それで一緒に喜んでいるのです。

 ゼルバベルたちが建てる神殿は、その神殿の栄華を思ってのことではありません。むしろ、終わりの時に、主ご自身が建てて、主ご自身が世界の財宝を集められて、主ご自身が輝く栄光に満ちる将来の希望に裏打ちされて、建てるものなのです。この信仰と希望に裏打ちされた仕事、奉仕が、霊的な神の国の進展に寄与するのです。パウロは神の国は、「義と平和と聖霊による喜びだからです。(ローマ14:17」と言いました。

 今日の教会には、物理的な力で神の国を地上に広めていこうという教えが入り込んでいます。ローマ・カトリック教会が元々そのような考えをしていますが、プロテスタントの福音派の教会の指導者の中にも、ローマ法王に会ったり、一国の大統領に会ったりして影響力を強め、また数的に、量的に、物理的に大きなイベントを行なうことが、神の国の進展であると考える人たちがいます。

 ならば、世界中で迫害を受けている多くの兄弟姉妹は、神の国にあずかっていないのでしょうか?大きな集会を開いたら、逮捕そして死刑にされるかもしれない所がわんさとあるのです!しかし、そういったところでクリスチャンが、聖霊による喜びをもって前進して、福音の言葉は静かに、けれども力強く伝わっているのです。

 イエス様が地上で行なわれた宣教は、ガリラヤ地方の片田舎においてでした。量的、数的に少なかった伝道が、人間の算数ではなく神の算数によって、世界中に影響力を及ぼしています。それは、栄光の御国に裏打ちされた、霊的な働きだからです。

2A これからの祝福 10−19
1B 以前の汚れ 10−14
2:10 ダリヨスの第二年の第九の月の二十四日、預言者ハガイに次のような主のことばがあった。

 栄光の神の宮の預言がなされてから、約二ヵ月後の預言です。ところで、ハガイが1節から9節までの預言をして、そしてこの10節からの預言をする間に、もう一人の預言者ゼカリヤが預言しています。次のページゼカリヤ書1章1節に、「ダリヨスの第二年の第八の月に」とありますね。ゼカリヤが第八の月に八つの幻の預言を行い、さらに第九の月に預言したことが7章以降に書かれています。神が、神殿建設の工事をしているユダヤ人たちを、どんどん励まし、勧めておられる様子が伝わってきます。

2:11 万軍の主はこう仰せられる。次の律法について、祭司たちに尋ねて言え。

 この預言は、まず祭司たちへの質問から始まります。

2:12 もし人が聖なる肉を自分の着物のすそで運ぶとき、そのすそがパンや煮物、ぶどう酒や油、またどんな食物にでも触れたなら、それは聖なるものとなるか。」祭司たちは答えて「否。」と言った。2:13 そこでハガイは言った。「もし死体によって汚れた人が、これらのどれにでも触れたなら、それは汚れるか。」祭司たちは答えて「汚れる。」と言った。

 これは、祭司らが聖所で奉仕するときの規定についての質問です。一つ目の質問についてですが、レビ記6章にこう書いてあります。「罪のためのいけにえをささげる祭司はそれを食べなければならない。それは、聖なる所、会見の天幕の庭で食べなければならない。その肉に触れるものはみな、聖なるものとなる。(26-27節)」聖なるものとなった肉に触れると聖められるのですが、では聖められたすそに、他の食べ物が触れたら、それも聖められるのか、という質問です。祭司の答えは「否」です。

 けれども、その逆は真です。だれかが死んで、葬儀のときにその死体を運んだりしなければいけません。その人は夕方まで汚れていて、その人が触ったものも汚れることが律法で定められています。

 ここに「聖め」と「汚れ」についての、非常に大切な原則が二つあります。一つは、「聖め」は他の人から他の人へ伝播させることはできない、ということです。一人ひとりが、聖なる方、神に触れられないかぎり、聖められることはない、ということです。私たちが、教会の中にいて、他のクリスチャンたちといっしょにいるから自分は聖いのだ、と考えたらそれは大きな間違いです。いっしょにいれば大丈夫、というのは、キリスト教の中ではまったく通用しません。

 私たち一人ひとりが、それぞれ主のみもとに行かなければ聖めを得ることはできないのです。そして主は、私たちを聖めてくださいます。らい病人が、直接イエス様のところにいき、きよめられることを求めたように、です。「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(1ヨハネ1:7」とヨハネは言いました。

 そしてもう一つの原則は、「汚れ」は伝染する、ということです。汚れの源泉にいなくても、源泉によって汚れたに触れたら、自分も汚れます。私たちは、自分が汚れたことをしなければ、汚れたものの近くていても大丈夫だと思ってしまいます。また、汚れたものを見ても、実際に行なわないのなら大丈夫と思ってしまいます。けれども必ず、それはまず私たちの思いを蝕みます。それから私たちの感情、霊的状態、そして最後に物理的にもその腐敗が現れます。

聖書では、汚れからは離れなさい、避けなさい、と命じられています。「あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。(2テモテ2:22」「旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。(1ペテロ2:11

2:14 ハガイはそれに応じて言った。「わたしにとっては、この民はそのようなものだ。この国もそのようである。・・主の御告げ。・・彼らの手で作ったすべての物もそのようだ。彼らがそこにささげる物、それは汚れている。

 ささげる者が汚れているなら、そのささげ物も汚れています。イザヤは、かつてのユダの民にこう預言しました。イザヤ書1章11節からです。「『あなたがたの多くのいけにえは、わたしに何になろう。』と、主は仰せられる。『わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、だれが、わたしの庭を踏みつけよ、とあなたがたに求めたのか。

 もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙・・それもわたしの忌みきらうもの。新月の祭りと安息日・・会合の召集、不義と、きよめの集会、これにわたしは耐えられない。あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。それはわたしの重荷となり、わたしは負うのに疲れ果てた。

 あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。

 洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。』(11-17節)

 私たちは、自分が罪を犯していると、その罪責感のために、なおさら教会の奉仕に励むということもあります。自分はこれだけ頑張って教会のために尽くしているのだから、神様どうか赦してください、と願うのです。実際に、日本にある韓国の教会では、バーやクラブで働いている女性たちが一番、教会で献金すると聞いたことがあります。

 しかし、神は、私たちのささげ物より、従順を求められます。主に命ぜられたことに、そのまま従うことを求められます。誓うのではなくて、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」としなさい、と主が言われたのは、そういう意味です。

2B 何もない現状 15−19
2:15 さあ、今、あなたがたは、きょうから後のことをよく考えよ。主の神殿で石が積み重ねられる前は、2:16a あなたがたはどうであったか。

 ここを読むと、ユダヤ人らが汚れていると主が言われたのは、神殿建設を再開する前の話であることが分かります。彼らがそうであったけれども、今これからのことをよく考えよ、と言われます。

2:16b二十の麦束の積んである所に行っても、ただ十束しかなく、五十おけを汲もうと酒ぶねに行っても、二十おけ分しかなかった。

 これも、神殿建設再開の前の話です。麦の収穫は50パーセント、ぶどう酒は40パーセントしかありませんでした。

2:17 わたしは、あなたがたを立ち枯れと黒穂病とで打ち、あなたがたの手がけた物をことごとく雹で打った。しかし、あなたがたのうちだれひとり、わたしに帰って来なかった。・・主の御告げ。・・

 「立ち枯れ」と「黒穂病」は、モーセが申命記で、主に従わなかったらこうなるよ預言した災いです(申命記28:22)。

 
そして、それでもわたしのところに戻ってこなかった、と主は言われています。主はいろいろ、徴を送られたのですが、それにユダヤ人たちは気づかなかったのです。だからハガイを遣わして、みことばを語らせました。

2:18 さあ、あなたがたは、きょうから後のことをよく考えよ。すなわち、第九の月の二十四日、主の神殿の礎が据えられた日から後のことをよく考えよ。

 1章では、「現状をよく考えよ」と主は言われました。ここでは「今日から後のこと」です。これからのこと、将来のことです。そして期日も今日、第九月の二十四日からと特定しておられます。いわば、カレンダーに印を付けておきなさい、と命じられています。

2:19 種はまだ穀物倉にあるだろうか。ぶどうの木、いちじくの木、ざくろの木、オリーブの木は、まだ実を結ばないだろうか。きょうから後、わたしは祝福しよう。

 収穫してから三・四ヶ月経っていますが、すでに穀物倉には種がなくなっていました。それだけ不作だったのです。そして、ぶどうの木も、いちじくの木も、ざくろの木も、オリーブの木も、実を結ばないまま冬を迎えています。

 もう神殿建設から三ヶ月経ちました。状況は変わらないように見えます。しかし主は、今日からカレンダーに印を付けなさい。そして、よく考えたら、この日から主が確かに私たちを祝福された、ということが分かるようにさせる、とおっしゃられています。

 私たちも同じです。私たちは、悔い改めて主に従う、あるいは主からずっと離れていたけれども戻ってきて主に従うことを始めて、すぐには大きな変化を見ることはできないでしょう。ちょうど作物のように、時間が経って始めて、自分の生活から実が結ばれていることを確認するでしょう。状況はあまり変化しているように見えなくても、私たちが悔い改めたら、確実に内側から変えてくださるのです。

3A 選び取り 20−23
2:20 その月の二十四日、ハガイに再び次のような主のことばがあった。2:21a 「ユダの総督ゼルバベルに次のように言え。」

 同じ日に、主のことばがありました。ゼルバベル個人に対する主のことばです。

2:21bわたしは天と地とを揺り動かし、2:22 もろもろの王国の王座をくつがえし、異邦の民の王国の力を滅ぼし、戦車と、それに乗る者をくつがえす。馬と騎兵は彼ら仲間同士の剣によって倒れる。

 先ほど天地を主が揺り動かされて、さらに国々を揺り動かされる預言がありましたが、その具体的な内容を、主はゼルバベルに語っておられます。ここで読むように、異邦の民の国々がくつがえされ、その軍隊も倒れる、というものです。彼には必要な励ましでした。周囲は敵に囲まれています。これから自分たちが襲われるかもしれません。しかし主は、これらの異邦人の攻撃をすべて無き物にすることを約束されています。

 まず、「もろもろの王国の王座をくつがえし」とあります。現在、北朝鮮の金正日政権が崩壊しなければ、核やその他のあらゆる問題は解決しない云々のニュースでもちきりですが、終わりの日は、崩壊どころではありません。あらゆる国々の政権転覆が行なわれます。多くの国々の政権が崩壊し、神の国のキリスト政権に交代するのです。

 ネブカデネザルが見た幻を思い出してください。金の頭、胸、両腕は銀、腹とももは青銅、すねは鉄、足は粘土と鉄でした。そこに人手によらず切り出された石がその像の足のところに当たり、像全体がこなごなになって、それで石は大きな山となったという幻です。それをダニエルはこう解き明かしました。「この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。(ダニエル2:44」黙示録1115節でも、天において大きな声々が起こってこう言いました。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。

 そして主は、「異邦の民の王国の力を滅ぼし、戦車と、それに乗る者をくつがえす。」と言われます。政府転覆は、軍事的攻撃によってもたらされます。ハルマゲドンの戦いがそれです。ユーフラテス川がかれて、東からの王たちがやって来て、メギドの平野に世界の軍隊が召集します。しかし再臨の主が、これらの軍隊をことごとく滅ぼされます。イザヤ書34章を読みます。「国々よ。近づいて聞け。諸国の民よ。耳を傾けよ。地と、それに満ちるもの、世界と、そこから生え出たすべてのものよ。聞け。主がすべての国に向かって怒り、すべての軍勢に向かって憤り、彼らを聖絶し、彼らが虐殺されるままにされたからだ。彼らの殺された者は投げやられ、その死体は悪臭を放ち、山々は、その血によって溶ける。(1-3節)

 さらに主はゼルバベルに、「馬と騎兵は彼ら仲間同士の剣によって倒れる。」と言われました。イスラエルが過去に異邦の民と戦ったときも、主は同じように同士討ちをさせました。ギデオンが三百人でミデヤン人と戦ったときが、そうでしたね(士師7:22)。終わりの日も同じです。ゼカリヤを通して、主はこうお語りになっています。「主は、エルサレムを攻めに来るすべての国々の民にこの災害を加えられる。彼らの肉をまだ足で立っているうちに腐らせる。彼らの目はまぶたの中で腐り、彼らの舌は口の中で腐る。その日、主は、彼らの間に大恐慌を起こさせる。彼らは互いに手でつかみ合い、互いになぐりかかる。(ゼカリヤ14:12-13

2:23 その日、・・万軍の主の御告げ。・・シェアルティエルの子、わたしのしもべゼルバベルよ、わたしはあなたを選び取る。・・主の御告げ。・・わたしはあなたを印形のようにする。わたしがあなたを選んだからだ。・・万軍の主の御告げ。・・

 すごいですね、三度も、「主の御告げ」という言葉が一節の中に出ています。そして、「わたしの」「わたしは」という一人称を四回も使っておられます。今、主はゼルバベルに限りない愛情を注いでおられます。 「あなたを選び取る」と主は言われていますが、それは具体的には王として選び取ることです。「印形のようにする」という言葉からそれが分かります。ゼルバベルは、先に話しましたようにダビデの直系の末裔でした。今、総督でしかありません。しかし神の目にはダビデの子孫であり、後の神の国の王位を継承させていくべき人でした。実際のダビデの子孫、神の国を治める世継ぎの子は、イエス・キリストなのですが、ゼルバベルはイエス・キリストを予め表すように、神様から「選び取る」と言われたのです。

 ゼカリヤ書には、大祭司ヨシュアと並んでゼルバベルが「二人の証人」と呼ばれています。ヨシュアは、大祭司としてのイエス様の姿を、ゼルバベルは王としてのイエス様の姿を表す証人でした。あまりにもお粗末な神殿であっても、主の目にはあらゆる愛情が注がれていたのです。

 こうして、彼らは主からの励ましを受けて神殿建設に取り組みました。エズラ記に戻りますと、彼らが建設を開始してから、さっそく地域の役人がやって来て邪魔をしようとしました。けれども彼らは黙々と工事を進めました。「ペルシヤ初代王クロス様が、布告を出したのだ。」とだけ伝えました。それで総督らは、ペルシヤの王ダリヨスに手紙を送って、この旨を伝えました。ダリヨスは文書保管所を調べさせたら、はたしてクロスの発布の記録が見つかりました。そこでダリヨスは、総督らに「彼らに手を出すな。そして、彼らの建設費用を、国から出せ。いけにえのための家畜なども用意せよ。」と命じたのです。

 それでハガイとゼカリヤの預言があってから4年後、紀元前516年に神殿が完成しました。エレミヤの預言どおり、神殿が破壊されてからちょうど70年後です。彼らは喜んで奉献式をお祝いし、また過越の祭りを楽しみました。エズラ記6章22節にこう書いてあります。「そして、彼らは七日間、種を入れないパンの祭りを喜んで守った。これは、主が彼らを喜ばせ、また、アッシリヤの王の心を彼らに向かわせて、イスラエルの神である神の宮の工事にあたって、彼らを力づけるようにされたからである。」主が力づけ、喜ばせてくださいました。

 主は、どんな小さな集団でも、それに心を留め、愛し、喜んでくださっています。別に皆さんが小さな集団だと言っているのではありませんが、日本ではクリスチャンは本当に少ないです。そしてそれぞれの教会や集まりも小さいです。けれども神は、上からの幻をもって生きてほしいと願われています。主が全世界のものをもって立てられているご計画は、まさに私たち教会のためにあるのです。

 最後にエペソ人への手紙にある言葉を読みます。「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(エペソ1:20-23


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