イザヤ書1−2章 「主の叱責」

アウトライン

前置き
1)テーマ
2)全体のアウトライン
3)歴史的背景

1A 背を向けた民 1
   1B ソドムのような民 1−9
   2B 忌み嫌われる捧げ物 10−17
   3B 緋のような罪 18−20
   4B 遊女の都 21−31
2A ユダへの裁き 2
   1B 主の家からの言葉 1−5
   2B 主の恐るべき御顔 6−22
      1C 偶像礼拝 6−9
      2C 砕かれる高慢 10−22

本文

 イザヤ書1章を開いてください。今日からイザヤ書を学びます。今日は前置きと1章、2章を学びます。メッセージ題は「主の叱責」です。

前置き
1)テーマ

 私たちはついに「預言書」まで来ました。モーセ五書から歴史書へ、そして歴史書から詩歌を学びました。そして預言書の区分に入りましたが、その最初の書物がイザヤ書です。

 この学びの前に私はイザヤ書全体を読みました。その全体に流れるテーマを知りたかったからです。イザヤは、非常にはっきりとしたテーマを持って、この幻を書き記しています。それは自分の名前の意味にもあることです。

 
イザヤは、「救いは主のもの」あるいは「救いはヤハウェのもの」という意味です。私たちが救われるのは、北からでもなく南からでもなく、主からなのだ、ということを最初から最後に至るまで一貫して教えています。

 イザヤ書は主に、二つの部分に分かれます。その区分が非常にはっきりしています。前半部分は1章から39章までです。主の懲らしめと裁きが中心に描かれています。そして、40章で「慰めよ。慰めよ。」という言葉があります。40章から66章は、慰めと回復のメッセージです。具体的に、ユダとエルサレムに対するメッセージです。ユダが主から離れているので懲らしめられるが、最後には癒され、救われるという流れになっています。

 ちなみに、聖書の書物の数は旧約が39巻、そして新約が27巻です。章の区分は後につけたものですから霊感を受けているわけではないのですが、イザヤ書の前半部分が39章で後半が27章分あって、一致しています。内容も旧約聖書が神の裁き、そして新約聖書に慰めがあるということで、これも一致しています。

 その前半と後半の真ん中に挿入されている歴史的出来事がイザヤ書にはあります。36章から39章までに、ユダの王ヒゼキヤが、エルサレムを取り囲んだアッシリヤ軍の脅しを受けて、主の前で衣を裂き、祈った出来事が書いてあります。この記述は列王記第一18章以降とほとんど同じ記述ですが、これを挟んで前半部分の1章から35章と、後半部分の40章から66章までをまとめていると言っても過言ではないでしょう。

 つまり、ユダは圧倒的な力をもつアッシリヤの前で砕かれます。エジプトなど、他に何も頼るものがなくなります。そのようにして砕かれたユダは、ただ主にのみ拠り頼まざるを得なくなります。しかし、この主のみに拠り頼むという信頼を、主は待っておられたのです。主はアッシリヤ軍を滅ぼして、ユダを救われました。イザヤ書の前半部分は、主に背き、他の神々や財宝に頼るユダを懲らしめる内容となっており、後半部分は、主がいかに偉大な方であるか、神々と呼ばれているものよりもいかに優れているのか、つまり主は頼るに十分値する存在であることを示しています。

 つまり主の懲らしめを受け、それゆえユダは罪に定められることなく救われる、という内容になっているのです。この考えは、次のコリント人への手紙第一にあるパウロの言葉と一致します。「もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。(11:31-32

 そしてイザヤ書は、新約聖書に激しく引用されています。主がたくさん引用されたし、パウロなど使徒たちも手紙の中で引用しています。ここには、メシヤの働きが盛りだくさんに預言されています。初めに来られた時のことだけでなく、いやそれ以上に再び来られる時の姿が描かれています。イザヤ書を学ぶに当たって、私たちは終わりの日の姿を鳥瞰的に眺めていくことができます。

2)全体のアウトライン

 ところで、前半の1章から39章までの部分ですが、これを少し詳しく見てみましょう。まず1章から12章までが、ユダとエルサレムに対する神の懲らしめが書かれています。1章1節に、「ユダとエルサレムについて」とありますね。そして6章にて、ウジヤ王が死んだその年にイザヤが神の御座の幻を見ます。

 それから彼はさらに目を広げて、北イスラエルを含んだイスラエル全体に対する神の懲らしめ、また清めの幻を見ます。これが、1章から12章までの部分です。この中に数々のメシヤの預言、例えばインマヌエルなどのクリスマスの預言もあります。

 そして13章1節を見てください。「アモツの子イザヤの見たバビロンに対する宣告」とありますね。13章からイスラエルの周辺の国々に対する神の宣告が書かれています。バビロンの次は1425節からアッシリヤに対する宣告です。「わたしはアッシリヤをわたしの国で打ち破り・・・」とあります。

 これらの諸国は、イスラエルに対する神の裁きとは異なり、完全に滅ぼされて、立ち上がれなくなる国々もあります。またイスラエルと同じように、残された者が主に立ち上がる国々もあります。これが23章まで続きます。

 さらに24章から、イスラエル周辺の国々だけではなく、この地上全体に対する神の裁きをイザヤは描いています。24章の1節に「身よ。主は地を荒れすたらせ、その面をくつがえして、その住民を散らされる。」とあります。この中でユダの残りの民が救われて、主が公正な裁きを行なってくださったことを喜ぶ場面が出てきます。27章まで続きます。

 そして28章から再び、現在のイスラエルとユダの状態に対する神の叱責の言葉があります。28章1節に、「ああ。エフライムの酔いどれの誇りとする冠」とありますね。ここの「ああ」は英語では、Woeであり、イエス様が律法学者、パリサイ人に言われた、「忌まわしいものよ」と同じ言葉です。この「ああ」あるいは「忌まわしいものよ」が何度も繰り返されていきます。

 28章はエフライム、つまり北イスラエルに対する言葉ですが、彼らが酔っ払いのようになっていて、神の御言葉を聞く余裕がないし、無関心である様を描いています。そして29章では、1節に「ああ。アリエル、エリエル」とありますが、エルサレムに対する神の宣告が書かれています。彼らの問題は、宗教的ではあるのですが、神の御言葉に対してかたくなになっている、という問題です。言うなれば、北イスラエルは、キリストにも聖書にも関心を示さない人たちの問題に通じるものがあり、南ユダは教会の熱心な人々に付いて回る問題と言って良いでしょう。

 30章には、「ああ。反逆の子ら」から始まり、エジプトに助けを求めて下っていく者たちに対する者たちに対する宣告です。このように、それぞれの問題を「ああ」という言葉で主はお語りになります。これが33章まで続きますが、33章の途中からユダが悔い改める場面が出てきます。そして34章とに、主の栄光と力をまとって再び地上に戻ってこられる姿が描かれています。全世界の軍隊が主の臨在の前でことごとく滅ぼされ、35章には主がこの地上、またイスラエルを回復してくださる約束があります。

 もう一度まとめると、1章から12章までは、ユダとイスラエルに対する神の懲らしめが書かれています。そして13章から27章までが、イスラエルの周辺の諸国と地上全体に対する神の裁きが書かれています。そして28章から再び、イスラエルとユダの問題が「忌まわしいものよ」という声で始まりますが、最後は回復します。アウトラインでまとめますとこうなります。

1A イスラエルへの懲らしめ 1−12
   1B ユダとエルサレム 1−5
   2B イスラエル全体 6−12
2A 諸国への裁き 13−27
   1B 周辺の諸国 13−23
   2B 地上全体 24−37
3A 神の練り清め 28−35
   1B 忌まわしいもの 28−33
   2B イスラエルの回復 34−35
 

 これで前半部分の流れがお分かりになったでしょうか?主へのユダとイスラエルに対する懲らしめがあり、その懲らしめのために用いられた周辺の諸国への裁きがあり、その中でユダが清められ、その残りの民を主が救われる、という流れです。この流れを何度も何度も繰り返して主が語られています。繰り返しているのですが、ちょうど螺旋階段を上るように話がどんどん発展していき、最後にハルマゲドンの戦いとイスラエルの回復というクライマックスで終わっています。

 そして最後に、この流れを物語る一つの大きな出来事で前半部分を締めくくっています。36章から39章に、アッシリヤ軍に取り囲まれたエルサレムが、主のみに拠り頼むことにより、主がその軍を滅ぼしてくださった、という内容です。

3)歴史的背景

 このように壮大な神様のご計画をイザヤは描いていますが、もちろんその背後には、非常に緊迫した差し迫った状況がありました。アッシリヤが、イザヤが生まれる前から台頭し、近隣諸国を併合していきました。そして紀元前734年、彼がまだ青年であった頃、アッシリヤは北イスラエルの住民を捕え移しました。そして721年に北イスラエルの首都サマリヤが陥落します。

 そして南ユダのエルサレムの近隣の町々をアッシリヤは破壊して、残るはエルサレムだけとなったのです。しかし紀元前701年頃、ヒゼキヤの祈りとイザヤの預言を通して、主はアッシリヤの大軍を一夜のうちに滅ぼされました。

 こういう流れになっています。イザヤはヒゼキヤの前から預言活動を行なっており、1章1節を見ると、ウジヤの時代から始めています。そしてその子ヨタムは、ウジヤの代わりに代理で統治を行ない、そしてアハズが統治を始めます。彼が悪王でした。7章に彼が登場します。

 そしてヒゼキヤと続くのですが、おそらく彼はマナセの時まで生きていたのではないかと言われています。ユダヤ教のタルムードには、イザヤはマナセの偶像礼拝に反対して、捕えられ、二枚の板の間に縛られて、のこぎりで引かれた、とあります。ヘブル人の手紙1137節に、「のこぎりで引かれ」とありますが、この殉教者はイザヤではないかと言われています。

 イスラエルが滅び、ユダが滅びるという差し迫った状況の中で、主は数多くの預言者を遣わされました。聖書の年代を年表にまとめると、586年のエルサレムの破壊を中心にして、預言者が集中的に活動している姿を見ることができます。モーセも自分が死ぬ前にこのことを申命記において預言しましたが、それがイスラエルにとって最も悲劇的な出来事であるからです。

 神様も、私たちが後戻りできない地点に行く前に、私たちを引き戻すためにいろいろなしるしを与えられます。私たちを愛しているがゆえに、神は警告を与え、時に懲らしめも与えられます。危機にこそ、神は大声で私たちに語ってくださると言ってよいでしょう。

1A 背を向けた民 1
1B ソドムのような民 1−9
1:1 アモツの子イザヤの幻。これは彼が、ユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである。1:2 天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。「子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。1:3 牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」

 これから私たちは、主がエルサレムとユダに抱いておられる感情を読むことになります。それは、彼らを、情熱を持って愛されているがゆえに、そのねたみの感情から彼らを責めている言葉です。

 まず、「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。」と言っています。天にも地にも響き渡る形で、誰にでも聞いてもらいたい気持ちで語られます。また申命記に、二人、三人の証人によって物事は事実と確認されるという律法があるので、天と地という二つの証人を立てて、これは主が語ることであるという事実の確認を行なっていると考えられます。いずれにしても、主がこっそりと話すのではなく、権威をもって、すべてのものに明らかにするつもりで語っているご意思の表れです。

 なぜ彼らをねたみ、責めておられるのか?その理由の一つが、「子らはわたしが大きくし、育てた。」というところに表れています。親が子を育てたように、神がイスラエルを育てました。これまで旧約聖書を読んできて、どれだけイスラエルの民に神の注目が集まっているか驚いたことでしょう。天地創造と水の洪水という世界的な出来事はすべて最初の10章程度にまとめられ、その後はイスラエルの歴史の始まり、その個人に時間を割き、出エジプト以降は、イスラエルという小さな民族のみに焦点を当てて、その生活の細部に至るまで主はご自分の御心を示しておられました。

 それが、まるでご自分のことを全く知らないようにイスラエルは神に対して振舞っています。忘れてしまっています。人間は忘れっぽく、感謝することも忘れやすいですが、こんなに何百年も千年近くもかけて育てた本人を忘れてしまうのは、いったい何なのかという驚きの感情です。

 そこで主は、彼らの忘却を、動物よりも酷いと言って責めておられます。牛は飼い主を、ろばは持ち主の飼い葉おけを知っているが、これらの家畜以下である、ということです。これは実際にあった話だそうですが、泥棒が自分の飼っている牛を置いて、逃げてしまいました。警官は、その牛の縄を解いて、そのままにしたそうです。そうしたら牛は自分の飼い主のところに自然に向かって行ったそうです。そして泥棒の在り処を見つけました。このように、牛でさえ自分の飼い主を知っているのに、あなたがたは知らない、悟らない、と言われます。

1:4 ああ。罪を犯す国、咎重き民、悪を行なう者どもの子孫、堕落した子ら。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。

 彼らのことを呼ぶのに、「」「」「子孫」そして「子ら」と四つの言い方をしています。分かりますか、神は彼らをご自分と個人的な関係を持つ存在として、今も見ておられるのです。それゆえ、彼らが罪を犯していることをねたみの感情を持って嘆いているのです。

 そして「罪を犯すこと」「咎が重いこと」それから「悪を行ない」「堕落している」という四段階を描いています。罪は神に対して犯すものです。神の基準に満たないことを行なっていることです。咎は、そのようなことによって他者に害を与えることを意味しています。それから「悪を行なう」とは、公正と正義に照らして悪いことを行なっていることであり、イザヤ書のテーマの一つ「正義」と関わっています。そして堕落は、神の基準から落ちて離れてしまったことを言っています。

 それから「主を捨て」「聖なる方を侮り」「背を向けた」と言っています。捨てるのは、主への献身を放棄してしまったことです。そして侮るのは、感情を害させることです。聖なる神が嫌がることを行なっている、ということです。そして背を向けて離れ去る、というのはもう神に無関心になった、ということを意味します。

1:5 あなたがたは、なおもどこを打たれようというのか。反逆に反逆を重ねて。頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。1:6 足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。

 彼らの罪の結果が、もう既に表れています。にも関わらず彼らはさらに反逆を続けている、ということです。彼らは主の感情を傷つけているのですが、それだけでなく自分自身をも痛めているのです。

 「」と「心臓」というのは、知性の部分と感情の部分での傷と言い換えることもできるでしょう。私たちが罪を犯すと、それは精神的、感情的にも傷をもたらします。特に性的な罪は、コリント人への手紙第一6章に、「自分のからだに対して罪を犯すのです。(6:18」と書いてあるとおり、精神と感情に傷を与えます。

 そして、傷が体中にあるのにごく基本的な治療さえしてもらえていない状態です。罪とその結果が、他の人々に認められるかたちであからさまになっています。

1:7 あなたがたの国は荒れ果てている。あなたがたの町々は火で焼かれ、畑は、あなたがたの前で、他国人が食い荒らし、他国人の破滅にも似て荒れ果てている。1:8 しかし、シオンの娘は残された。あたかもぶどう畑の小屋のように、きゅうり畑の番小屋のように、包囲された町のように。

 先ほど説明しましたように、アッシリヤが北イスラエルを攻めてきています。そして、南ユダの町々をも滅ぼしています。イスラエルに対して主は守りを与えていましたが、今は、他国人の破滅にも似た形で荒れ果てています。

 エルサレムの町だけは残っています。けれども、それもぶどう畑の小屋、きゅうり畑の番小屋のよう、つまりいつでも簡単に破壊することができるぐらい弱くなっている、ということです。

1:9 もしも、万軍の主が、少しの生き残りの者を私たちに残されなかったら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていた。

 ここですね、ユダとその他の諸国の違いは。バビロンなどなぜ、完全な破滅を主が宣言されて、イスラエルに対してはそれを行なわなかったか、というと、残りの者が生き残っているからです。

 主が持っておられる大きな原則があります。主を敬う残りの民がいれば、その民全体を滅ぼさないという原則です。ここに「ソドムとゴモラと同じようになっていた。」とありますが、アブラハムがソドムとゴモラのための執り成しをしました。「そこに五十人の正しい者がいても、あなたは滅ぼされるのですか」と。主は、「滅ぼすまい。」と答えられました。アブラハムは、その人数を十人まで下げました。それでも主は、その十人のために町全体を赦されます。

 実際には十人もいませんでした。けれどもそこにいるたった一人の正しい人ロトのために、本人とその家族が町を出て行くのを見届けてから、火と硫黄で滅ぼされたのです。主は決して、正しい人と悪人をともに滅ぼすことはありません。ですから、信仰によって義と認められた人たち、つまり教会がこの地上にある限り、神の怒りの現れである大患難が地上に下ることはないのです。

 ところでこの箇所は、ロマ書9章29節に引用されています。イスラエルを神が退けられた、という議論に対して、パウロが「絶対にそんなことはありません。」と答えたところです。まず自分自身がイスラエル人であり、他にも神の恵みによって選ばれた民がいる、と論じ、そしてここの箇所を引用しています。そして今も、しばしば「メシアニック・ジュー」と呼ばれますが、イエス様を自分の主として信じているユダヤ人の人たちがいます。彼らの存在そのものが、イスラエルという民と国そのものが滅ぼされることはないことの証明です。

2B 忌み嫌われる捧げ物 10−17
1:10 聞け。ソドムの首領たち。主のことばを。耳を傾けよ。ゴモラの民。私たちの神のみおしえに。

 これは、すごい非難です。次から読む内容を見れば分かりますが、エルサレムに住んでいる住民そして祭司など宗教指導者たちは、熱心に神殿礼拝を行なって、主が定められた祭りを行い、祈りもささげていました。けれども主は彼らを、「ソドムの首領たち。ゴモラの民。」と呼ばれています。宗教的には熱心なのですが、実はその行ないにおいてソドムとゴモラと何も変わらないことを行なっている、という暴露なのです。

1:11 「あなたがたの多くのいけにえは、わたしに何になろう。」と、主は仰せられる。「わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。

 これらのいけにえは、レビ記に書かれてある主の定めです。けれども、主はこれを喜ばない、無益である、と言われます。

1:12 あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、だれが、わたしの庭を踏みつけよ、とあなたがたに求めたのか。

 いけにえは、神殿の内庭のところ祭壇でささげられます。そして手足を洗う青銅の洗盤があり、その向こうに聖所があります。その中に入って、祭司は主に会いに行くのです。けれども、その内庭を歩いているのは、「わたしの庭を踏みつけている」ことに等しいと主は言われます。同じ言い回しが、ヘブル書1029節に出てきます。故意に罪を犯している者たちに対して、著者はこう言いました。「まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。(下線筆者)

1:13a もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙・・それもわたしの忌みきらうもの。

 今、ユダの民と祭司が行なう順番にそって主が嫌悪感を表されているのに気づきましたか?祭壇にてささげる動物の血は喜ばない、さらに聖所に入っていく時、その足は庭を汚している、そして聖所の中に入って、燭台の火に油を注ぎ、供えのパンをささげるのもわたしは忌み嫌う。さらに、聖所と至聖所を仕切る垂れ幕の前にある香壇の煙も忌み嫌う、ということです。

1:13b新月の祭りと安息日・・会合の召集、不義と、きよめの集会、これにわたしは耐えられない。1:14 あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。それはわたしの重荷となり、わたしは負うのに疲れ果てた。

 これは民数記やレビ記に定められている、例年、定期的に行なう例祭のことです。新月の祭りや安息日があります。そしてレビ記23章には、過越の祭りから始まり、初穂の祭り、五旬節、ラッパを吹き鳴らす日、贖いの日、そして仮庵の祭りという七つの例祭があります。これらを私は憎み、重荷となる、というのです。

1:15 あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。

 今度は祈りです。ユダヤ人の人たちは、ここに書いてあるように、手を組んで胸に当てて祈るのではなく、手を差し伸べて祈ることがあります。これもその祈りには答えられない、と言われます。

 どういうことなんでしょうか?すべては主が行ないなさいと命じられたことなのに、なぜそれを忌み嫌われるのでしょうか?これは私たちクリスチャンもしばしば陥る、もちろん未信者の人たちも陥ることなのですが、「自分が神の言われることに聞き従っていないのを知っているので、このような行ないで不従順を補おうとしている。」という過ちなのです。

 ある聖書の学び会で、出席者の方のお母さんがお菓子を持ってきてくださいます。お母さん本人は参加しないのですが、私たちに親切を示してくださいます。けれどもお母さんは、まだイエス様を信じていません。これから求めようかなという気持ちはあるみたいなのですが、まだ信じていません。主の命令は「主イエスを信じなさい。」なのですが、その命令に聞き従う代わりに、信者の人たちに良くしてあげるという他の行為を取っているのです。

 これは未信者の人たちの過ちですが、信者の中では、例えば日本にはたくさんの韓国の人たちがいます。その中で、水商売で働いている人たちもいます。けれども日本にある韓国人の教会では、そのような人たちが一番、献金をするという話を聞いています。自分たちが行なっていることに罪意識を感じているのですが、その罪滅ぼしのために献金や献身を行なっているのです。

 けれども、主が求めておられるのは、このようなささげ物ではなく、主に聞き従うことです。捧げ物をささげていたサウルに対して、サムエルは「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。(1サムエル15:22」と言いました。アマレク人を、家畜ともどもみな滅ぼせ、というのが主の命令だったのに、家畜の上等なのを残し、王を生かしていました。

 聞き従う、または主が言われることに従順になるというのは、へりくだりの行為です。なかなか自分のプライドが許しません。へりくだったら恥ずかしいという気持ちも出ます。また自分のこれまでのやり方を変えなければいけません。だから従順になれないのです。そこで他のことで補おうと頑張ってしまうのです。けれども、聞き従うことはいけにえにまさるのです。

1:16 洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。

 これは霊的な清めを行いなさい、という命令です。ちょうど同じ内容のことが、ヤコブの手紙にもあります。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。(ヤコブ4:8

 今読んだように、イザヤがここで言っているのは、儀式上の洗い清めではなく、心の中の洗い清めです。主の前に出て、心から悔い改めの祈りを捧げるということです。ラオデキヤにある教会に対して、主イエスは、「熱心になって、悔い改めなさい。(黙示3:19」と言われました。

1:17 善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。」

 主の前で悔い改めることによって、次は実際の行ないも改めて行かなければいけません。特にここでは、社会的弱者のために公正な裁きと弁護を行なわなければいけない、という促しです。イザヤ書では、正義と公正について多くが語られています。法の正義、法廷での場面が数多く出てきます。

3B 緋のような罪 18−20
 次も法廷での場面を意識して、主ご自身が語られています。

1:18 「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。

 「来たれ、論じ合おう」です。初め、天と地を証人にして、主はエルサレムとユダに対して、告発を行なわれました。けれども今、この裁判官は被告人と協議して、彼らの罪を赦す方法を差し出しています。

 ここに、すばらしい福音の言葉が書かれています。主は、彼らの罪が、血が固まった黒ずんだ赤色である緋色であり、そしてどんなに洗っても落ちることはない染料である紅として描いています。しかし、それをまぶしいほど輝いている白色の雪のように、また羊の毛のようにすると約束してくださっています。

 主が行なわれる罪の赦しは、私たちが人間的に考えるような時間をかけて行なう罪滅ぼしのようなものではありません。仏教の修行の中で、自分が行なった悪行を悔いるために、自分に苦行をあえて課すことがありますが、そのような縄目の中に私たちを置くことは、主はなさいません。カトリックの教義の中にも、似たようなものがあります。死後に地上で行なったことに対して主から懲らしめを受けて、それで天国に入ることができるという中間地点である煉獄を設けています。しかし、それは福音、良い知らせではないのです。

 良い知らせは、私たちが悔い改め、罪を捨てるのであれば、主がその場で、一瞬にしてすべての罪と不義を清めてくださるという主の働きです!第一ヨハネ1章9節に書いてありますね。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」これが主の恵みと憐れみの働きです。これが真の赦しです。

1:19 もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。1:20 しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる。」と、主の御口が語られた。

 主はここでチャレンジと警告を与えられています。人に与えられているのは選択です。喜んで聞くか、それとも拒み、そむくかの選択が与えられています。私たちが、このような主への応答が迫られる呼びかけに対して曖昧な態度を取り続けるならば、私たちの心はかたくなになり、ラオデキヤの教会のように生ぬるくなって、主がそこから出て行かれることが起こるのです。

4B 遊女の都 21−31
1:21 どうして、遊女になったのか、忠信な都が。公正があふれ、正義がそこに宿っていたのに。今は人殺しばかりだ。

 今度はエルサレムの町そのものに対する主の宣告です。主がエルサレムに対して抱いているのは、一人の女を愛する男の愛情です。ねたみを伴う情熱です。ですからエルサレムを今「遊女」と呼んでおられます。霊的な姦淫を犯した都だ、ということです。

 そしてかつてエルサレムには公正と正義が宿っていた、とありますが、ダビデとソロモンの時代を思い出してください。ダビデは、羊飼いの心を持って民を治めていました。そしてソロモンも、主から与えられた知恵に従って人々を裁いていました。けれども、そのような正義が今エルサレムにはありません。

1:22 おまえの銀は、かなかすになった。おまえの良い酒も、水で割ってある。

 かなかすは、銀など貴金属を精錬する時に出てくるものですね。いわば用無しの部分です。そして良い酒も水で割ったら、台無しです。つまり、銀の成分、良い酒の成分を含んでいるかもしれないが、不純物があるのでまったく意味をなさない、という意味になります。

 同じようなことを、イエス様が弟子たちに語られます。「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。(マタイ5:13」塩気をなくした教会は、一般社会よりも用無しです。活動だけで儀式だけなら、やらないでいたほうがましです。

1:23 おまえのつかさたちは反逆者、盗人の仲間。みな、わいろを愛し、報酬を追い求める。みなしごのために正しいさばきをせず、やもめの訴えも彼らは取り上げない。

 まず「反逆者」とユダの裁判官らを呼んでいます。国家反逆罪は重い罪です。ユダのさばきつかさたちは、自分たちが人々を裁いていると思っていますが、実は自分自身が反逆罪を神に対して犯していることに気づいていません。

 私たちも同じように、神に対して罪を犯し続けているならば、それは私たちの弱さ、病という前に神に対して反逆の罪を犯していることを忘れてはいけないでしょう。

 そして「盗人の仲間」と呼ばれています。これは、次の書いてある賄賂を受け取っているからです。自分の地位を利用して、人様のもの、いや究極的には神のものを盗んでいることを主は責め立てておられます。

1:24 それゆえに、・・万軍の主、イスラエルの全能者、主の御告げ。・・「ああ。わたしの仇に思いを晴らし、わたしの敵に復讐しよう。

 孤児ややもめなどが不正な裁判における被害者です。お金ですべて片が付くのですから、お金を持っていない人々の訴えがいつも退かれます。けれども、「万軍の主」がその人たちを擁護されます。「万軍」というのは天使の軍勢を意味しますが、軍事的な意味合いを持った神の呼び名です。いかに権力を持った指導者でさえも、はるかに力を持っておられる万軍の主が今、それら捨てられた孤児ややもめのために戦ってくださいます。

1:25 しかし、おまえの上に再びわが手を伸ばし、おまえのかなかすを灰汁のように溶かし、その浮きかすをみな除こう。

 不正を行なっている裁判官や指導者を除去する、ということです。

1:26 こうして、おまえのさばきつかさたちを初めのように、おまえの議官たちを昔のようにしよう。そうして後、おまえは正義の町、忠信な都と呼ばれよう。」

 不正な裁判官を除去した後に、主は正しいさばきつかさを置いてくださいます。そして初めのように、エルサレムを正義の町、忠信な都としてくださいます。

 「忠信な」というのは、神に対して忠実ということです。主に忠実に仕えることが、私たちに求められていることです。

1:27 シオンは公正によって贖われ、その町の悔い改める者は正義によって贖われる。

 シオン、つまりエルサレムはどのような形で回復するのか?その政治的力や軍事的力によって回復するのか?いいえ、違います。公正によって贖われる、とあります。

 主の目は、今のエルサレムも、同じ目で見ておられます。その政治的状況は危機に瀕しています。エルサレムが二つに分割されるという危機に瀕しています。けれども、それよりもずっと大きな危機は、そこでまことの神の義が受け入れられていないこと。主ご自身がそこで十字架につけられたのですが、そのことに何ら応答していないという危機です。

 そして、「悔い改める」という言葉がありますね。主が望んでいらっしゃるのは、悔い改めです。裁きを行なわれるけれども、彼らを滅ぼすことを目的にしておられるのではありません。むしろ彼らが救われるためです。

1:28 そむく者は罪人とともに破滅し、主を捨てる者は、うせ果てる。

 悔い改めることのない人は、全く神のことに関心を寄せていない人と同じように破滅する、ということです。

1:29 まことに、彼らは、あなたがたの慕った樫の木で恥を見、あなたがたは、みずから選んだ園によってはずかしめを受けよう。1:30 あなたがたは葉のしぼんだ樫の木のように、水のない園のようになるからだ。

 これは、イザヤ書57章5節に詳しく書かれています。「あなたがたは、樫の木の間や、すべての生い茂る木の下で、身を焦がし、谷や、岩のはざまで子どもをほふっているではないか。」樫の木の下で偶像礼拝を行ないました。その儀式の一環として不品行を行なっていたのです。その結果、女は妊娠します。その赤ちゃんを谷や岩の狭間でその偶像の神の前で殺していた、ということです。

 こんな恐ろしいことがイスラエルの間で行なわれていたのです。主はえこひいきをすることなく、それらを行なっている異教徒と同じように裁かれる、ということをおっしゃっています。パウロの書簡の中に何度となく、正しくない者は神の国を受け継ぐことはない、だまされてはいけない、と言いましたが、これと同じことです。

1:31 つわものは麻くずに、そのわざは火花になり、その二つとも燃え立って、これを消す者がいない。

 「つわもの」つまり勇士です。どんなに戦いに巧みであっても、神の裁きを免れることはできない、ということです。

2A ユダへの裁き 2
 このように主がユダに対して裁きを行なわれますが、その直後に輝かしい神の国の幻をイザヤは見ています。これは突然のこと、一貫性のないことでは実はないのです。主が、大患難においてイスラエルとユダを、正しい者と悪い者をえり分けられた後に、その残された者たちをお救いになり、この地上に再び立たれて、すべてが回復する時が来ることが約束されています。次はその地上における神の国、千年王国の幻です。

1B 主の家からの言葉 1−5
2:1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて示された先見のことば。2:2 終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。

 これは預言者ミカが見た幻と全く同じものです。ミカ書4章14節に同じ事が書かれています。

 先ほどまで主が責め立てておられたエルサレム、神殿があるところは、主が火によって練り清められた後に、主の家になります。主ご自身が所有し、支配されるのです。そして物理的に、再臨の主イエス・キリストご自身がそこに住まわれることになります。

 そして他の預言の箇所にも約束されていますが、その時はエルサレムの町が地形的に最も高いところとなります。「山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえたち」とありますね。今も山々の頂にエルサレムの町はありますが、世界的に高度の高いところとなるのです。

 そしてそこに、ユダの民ではなく「すべての国々」が流れてくるのです。理由が次にあります。

2:3 多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。

 主の御教え、御言葉を聞きに彼らは山に上ってくるのです。日本人は神社にお参りに行くために山に登ることがありますが、千年王国では主の御言葉を聞きに上りに行きます。

2:4 主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。

 今はエルサレムで不正な裁判が行なわれていますが、後に、主ご自身が公正な裁判を行なってくださいます。

 その結果は平和です。彼らの軍事予算はみな農産業の予算に移されます。私はしばしば、平和行進をしている人たちを見て、また、平和運動を展開している人々や政党を見て、思わされることがあります。それは、「誰が政権を握ったとしても、あなたが望んでいるような平和は来ませんよ。」ということです。なぜならそのような権力を人々が握ったら、必ず腐敗するからです。平和をもたらすことができるような、正しい判断はできません。ユダがそうであったように、です。

 私たちは世界の平和を求める前に、自分自身と神との間に平和があるのかを確認しなければいけません。主が先ほどから、「反逆の子ら」と呼ばれていたように、私たちが神に罪を犯しているなら、それで私たちは戦争を全能者であられる神に対して行なっているのです。

 キリストこそが私たちの平和です。この方を自分の心であがめることこそが、まことの平和をもたらします。そして信者が悔い改めて、リバイバルされるときに平和は輝きます。そしてこの平和の君が地上に戻ってこられるときに、戦争のない完全な平和が確立します。

2:5 来たれ。ヤコブの家よ。私たちも主の光に歩もう。

 遅れを取っているんですね。主の家に集うのはすべての国々の人々なのですが、ヤコブの家も来なさい、と誘っています。これが、主が全人類に持っておられる、パラドックス、逆説です。なぜなら、主はユダとイスラエルのために来られたのに、彼らが主を拒みました。しかし、その不従順を通して、主は異邦人に救いを与えられました。そして異邦人の救いを通して、今度はユダヤ人にねたみを起こさせ、彼ら自身が救いを得るという方法を主は、世界の始まる前から用意されていたのです(ローマ11章後半参照)。

2B 主の恐るべき御顔 6−22
 そしてイザヤは今のユダの姿に振り返っています。彼らの今の姿をイザヤなりに描いています。

1C 偶像礼拝 6−9
2:6 まことに、あなたは、あなたの民、ヤコブの家を捨てられた。彼らの国がペリシテ人の国のように東方からの卜者で満ち、外国人の子らであふれているからだ。

 ペリシテ人は、神々に伺いを立てることで有名でした。同じように東方、つまりアッシリヤの占い師を招いて、伺いを立てていたのです。

2:7 その国は金や銀で満ち、その財宝は限りなく、その国は馬で満ち、その戦車も数限りない。

 ユダは裕福な時もありました。そして軍事的に強い時もありました。彼らはそれに頼っていました。

2:8 その国は偽りの神々で満ち、彼らは、自分の手で造った物、指で造った物を拝んでいる。

 ユダの地は偶像礼拝でいっぱいになりました。

2:9 こうして人はかがめられ、人間は低くされた。・・彼らをお赦しにならないように。・・

 偶像を拝むと、人間の尊厳は卑しめられます。人間性を失わされます。人間のあらゆる悪が吹き出ます。「彼らをお赦しにならないように。」というのはイザヤの言葉です。主は、彼らも悔い改めるなら救ってくださいます。

 ここにこれからイザヤ書に出てくる、神が責めておられる三つの悪が出ています。一つは、神の御言葉と預言に頼らないことです。イザヤ書の、特に後半部分では、神ご自身が、わたしが終わりの事を初めに言うことによって、わたしが神であり主であることを知れ、と命じられています。にも関わらず、他のものに拠り所を求めていく過ちを犯しています。

 もう一つは、富や軍事的な力により頼むことです。エジプトとの同盟でアッシリヤに立ち向かおうとしたりしました。けれども、主ご自身が彼らを助けてくださいます。そして三つ目は、神でもないものを神としてあがめることです。イザヤ書の後半部分で、主は偶像礼拝の愚かさを示しておられます。

 私たちもこの三つの分野で、神からのチャレンジを受けています。キリスト教会が、神の御言葉と預言に頼らない時代になっています。心理学など、他のものに頼ります。そしてもちろん、財産を持っていることに安堵してしまうことがありますね。軍事的にも同じです。平和運動というのは裏を返せば、軍事が平和の鍵を握っていると信じているからでしょう。そして偶像礼拝です。偶像という目に見える形では拝まないかもしれませんが、あらゆる貪りが偶像礼拝です。

2C 砕かれる高慢 10−22
 このように神を無視して、神を侮る時代に私たちは生きていますが、神はご自分だけが神であることを示されるために、大患難を地上にお下しになります。次は患難時代における神の怒りの場面です。

2:10 岩の間にはいり、ちりの中に身を隠せ。主の恐るべき御顔を避け、そのご威光の輝きを避けて。2:11 その日には、高ぶる者の目も低くされ、高慢な者もかがめられ、主おひとりだけが高められる。

 例えば日本、東京に大地震が起こったら、その時にすべての人が緊急体制に入り、そこに差別がなくなります。裕福な人も、権力のある人も、一般の人々と同じように避難しなければなりません。むろん私たちが経験したようなこれまでと同じような大地震ならば、その避難の中でも差別はあるでしょう。が、大患難時代はそれどころではありません。人間が築き上げた全ての者が意味をなくします。

 黙示録6章から、小羊イエスは七つの封印を解かれます。第六の封印を解かれた時に、大きな地震が起こります。その部分を読んでみましょう。「私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。(6:12-17」これが、イザヤが預言している神の恐るべき御顔です。

2:12 まことに、万軍の主の日は、すべておごり高ぶる者、すべて誇る者に襲いかかり、これを低くする。2:13 高くそびえるレバノンのすべての杉の木と、バシャンのすべての樫の木、2:14 すべての高い山々と、すべてのそびえる峰々、2:15 すべてのそそり立つやぐらと、堅固な城壁、2:16 タルシシュのすべての船、すべての慕わしい船に襲いかかる。2:17 その日には、高ぶる者はかがめられ、高慢な者は低くされ、主おひとりだけが高められる。

 当時、高められていると思われるあらゆるものを、イザヤはここで列挙しています。自然にしても例外はありません。レバノンの杉の木はその地域で有名です。今でもすぐれた姿をしています。そしてバシャンは今のゴラン高原ですが、すばらしい自然の地形です。そして、その他の高い山々があります。そして人間が造った堅固な城、防壁があります。さらに貿易において中心的な役目を果たしている、今のスペインにあるタルシシュがあり、その船があります。

 これらのものがあるために、人々は、自分は神に頼らなくても大丈夫だ、という一種、偽りの安心感を持つわけです。私たちはあまり意識していないかもしれないですが、日本に住んで、比較的平穏な生活を送ることができてますが、それは、自然を含めてあらゆる種類の良い環境が整えられているからです。だから、「神を信じて、キリストを信じなさい。」と言っても、それを受け入れる用意がない、つまり高慢になっているのです。

 このことをすべて明らかにするために、大患難があります。大きな地震を起こすことによって、すべて拠り頼むものをはがしてしまわれます。そして主ご自身のみが神であることを、強制的に認めさせることになるのです。

2:18 偽りの神々は消えうせる。2:19 主が立ち上がり、地をおののかせるとき、人々は主の恐るべき御顔を避け、ご威光の輝きを避けて、岩のほら穴や、土の穴にはいる。2:20 その日、人は、拝むために造った銀の偽りの神々と金の偽りの神々を、もぐらや、こうもりに投げやる。

 主が起こされる大きな地震によって、人々は偶像をも投げ捨てます。偶像がこのような災いのときに、何の役にも立たないことを知ります。偶像が、もぐらやこうもりに投げやってもよいような、石のかたまり、木の塊であることを知ります。

 日本の多くの宗教が、人々の安寧を与えるもの、健康や経済的な安定を約束するものがほとんどですが、それは、日本の国、土地が存在するという前提に立ったところにあります。大地震のときに、人々は手かざしをするのでしょうか?たぶんしないでしょう。みな捨ててしまうでしょう。では、なぜ本当に残ると考えられる、もっと高次元の神を求めないのでしょうか?ここにイザヤは焦点を当てているのです。

2:21 主が立ち上がり、地をおののかせるとき、人々は主の恐るべき御顔を避け、ご威光の輝きを避けて、岩の割れ目、巌の裂け目にはいる。2:22 鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。

 そうです、ここがイザヤの言おうとしているところです。人々が人間に頼っている、という間違いです。鼻で息をしている存在にしか過ぎない人々を私たちはどれだけ頼っているでしょうか?人から言われた言葉、人の約束、人の会社、人が造った国などそのようなものに信頼を寄せますが、天と地を造られ、初めから終わりのことを告げられる神になぜ信頼を寄せないのでしょうか?

 我々日本人の問題は、一言「人間」中心にあります。アメリカでは危機のときに何に信頼するかといったら、教会に行くという統計があるそうです。(実際、2001年の米国同時多発テロの後、教会に来た人々の人数は増えました。また、その前に「レフトビハインド」が出版されましたが、それは終わりの時のシナリオを描いた小説だけではなく、伝道の本です。これを通してイエス様を信じた人は、ものすごい人数です。だから危機の時、教会に行くのです。)日本ではどうでしょうか?新聞に頼るのだそうです。危機に面したとき、メディアの言葉が自分たちの信頼なのです。

 同じように教会の中でも、キリストがどのような方なのか、神がどのような方なのかに注目されるのではなく、牧師の人柄が中心話題となります。牧師が、牧会の働き以外のものを期待されます。また心理学的な本、結婚の本ばかりがキリスト教書店に積み上げられているのも、人間主体だからです。

 未信者も興味深い反応をします。伝道をすると、伝道をしている内容なのではなく、伝道の仕方が問題視されます。伝道している人に、伝道の仕方を教授しているのだから、滑稽なことです。

 それらは全て根底に、人間に頼っている信仰があるからです。この牙城は強いです。日本人は謙遜なように見えますが、霊的には、神の前には非常に高慢でかたくなです。これが砕かれるために、私たちは恵みの御霊が降り注がれることを祈らなければいけません。さもなければ、大患難の時代に、今読んだような裁きを受けることになるのです。

 次回は続けて、他のものに頼ろうとするユダの姿を読んでいくことになります。


「聖書の学び 旧約」に戻る
HOME