ヨブ記1−2章 「神が与える苦しみ」


アウトライン

1A 財産の喪失 1
   1B ヨブの潔白 1−5
   2B サタンの告発:財産のゆえに潔白 6−12
   3B 一瞬のうちの災害 13−19
   4B ヨブの反応 20−22
2A 健康の喪失 2
   1B サタンの告発:皮には皮 1−6
   2B 妻の誘い 7−10
   3B 友人の衝撃 11−13

本文

 ヨブ記1章を開いてください、今日から聖書通読の中で新しい部分に入ります。今日はヨブ記1章と2章を学びますがここでのテーマは、「神が与える苦しみ」です。私たちがこれまで旧約聖書を学んできたのは歴史に関することでした。創世記から始まり、その各時代に何が起こってきたか物語風に描いている部分です。前回まで学んだエステル記は、バビロン捕囚以後のペルシヤで起こった出来事を描いていました。

 そして私たちがこれから学ぶ箇所は「詩歌」と呼ばれています。つまり詩や歌、また譬えなどの文体で書かれているところです。ヨブ記、詩篇、箴言、伝道者の書、雅歌です。その後は預言書になりますが、旧約聖書はこの三つの部分、つまり物語と詩歌と預言書に分類できます。そして詩歌の部分についてですが、その順番はだいたい古いものから順番に並べられています。ヨブ記が一番古く、その次にダビデなどが書いた詩篇、次はその子ソロモンが書いた箴言、同じくソロモンが書いた伝道者の書と雅歌です。

 ヨブ記が書かれたのは、実は創世記よりも古いと言われています。創世記から申命記までのモーセ五書は、モーセが著者であり紀元前1,400年当たりのことです。けれどもヨブ記は、アブラハムやイサク、ヤコブが生きていたときの族長時代のときではないかと考えられています。(だから、ヨブ記が聖書の中で最初に書かれた書物だと言うことができます。)創世記10章を開いてみてください。そこにノアの子孫の系図、というか民族図がありますが、セムの子孫の一人に「ヨバブ」という名が出てきます。10章の29節です。この人物がヨブと同一ではないかと言われています。するとヨブはアブラハムと同時代、紀元前二千年頃に生きていた人ではないかと言われています。

 すると、このヨブ記は私たちにますます大きな意義を持って来ます。私たち人間は、自分が生きている意味をよく苦しんでいる時に考えます。自分が生まれたその意味、そして死んでこの世からいなくなることの意味を深く考えるのは、例えば病気になったときとか家族が交通事故で死んだとか、試練にあったときが多いです。

 自分が何か悪いことを行なって、その蒔いた種を刈り取っていることが明らかな場合は、「ああ、これは天からの罰だ」と受け入れることができるかもしれませんが、必ずしもそうではない場合私たちは、「なぜこのようなことが起こるのを許されるのか。天地を造られ、今でも支配している神がいるなら、どうしてこんな不幸なことを起こるのを許されるのか。」という疑問を抱くのです。

 けれども実は人間の歴史のかなり古い時代から、この問いはなされているのです。今、科学が発達し、問題が複雑化したから起こっている事でもなく、昔の人たちは現在の科学の知識がなく純朴だったから神を信じていたのでもなく、このような不条理はすでにヨブが生きている時代から存在していたのです。はるか昔から問われていた問題だったのです。

 ヨブに不幸なことが続けざまに訪れて、それで友人が、彼が大きな罪を犯しているのではないかと問い詰めます。まったく身に覚えのないヨブは、身の潔白を訴え、なぜこんな目に遭うのかわからないという呻きを上げますが、この苦しみを通してヨブは自分が信じている全能の神に個人的に出会うことになります。彼はこれまでも信じていましたが、苦しみを通して本当に神を知る体験をするのです。

 この世の宗教、あるいは人間の哲学は、何か不幸なことが起こったとき、その原因を追究するでしょう。そしてその原因を取り除くように私たちを仕向けてくるでしょう。しかし、キリスト教が他の宗教や哲学と異なるのは、あえてその問いに答えていないことです。神には主権があり、私たちの理解をはるかに超えた考えを持っておられることを教えています。そして神は永遠の愛をもってすべてのことを益と働かせてくださっています。この神を知ったときに、苦しみをまぬかれることはできませんが、人間の理解を超えたところにある平和によって支えられます。そこに生きる意味を見出し、希望をもって生きる道があることを知るのです。

1A 財産の喪失 1
 それでは本文に入りますが、初めにヨブの紹介が書かれています。

1B ヨブの潔白 1−5
1:1 ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。

 「ウツ」はどこにあったのか定かでありませんが、おそらく死海の南東のあたりでアラビヤ地方の北に位置していたのではないかと思われます。そこにヨブがいましたが、彼は「潔白で正しい」人でした。これは罪がなかった完全な人だ、という意味ではありません。ヨブ記の最後のところでヨブが悔い改める場面が出てきますが、完全無欠ということではなく十分に成熟し、道徳的に正しい人だったということです。

 そして、「神を恐れ、悪から遠ざかっていた」人です。人は、神を恐れることによって初めて、悪から遠ざかることができます。誰も見ていないところで、どうやったら正しい事を選び取ることができるでしょうか?神がいつもともにおられることを知っているときに、選び取ることができます。

1:2 彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。1:3 彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。

 彼はとてもない富豪でしたが、彼にとっての財産はなんといっても十人の子供たちだったことでしょう。詩篇に「見よ。子どもたちは主の賜物(127:3」とあります。このすばらしい賜物に加えて、数多くの家畜としもべを所有していました。

1:4 彼の息子たちは互いに行き来し、それぞれ自分の日に、その家で祝宴を開き、人をやって彼らの三人の姉妹も招き、彼らといっしょに飲み食いするのを常としていた。

 「自分の日」というのが、誕生日なのか単に割り当てられた日なのか分かりませんが、兄弟姉妹がともにパーティーをして楽しんでいました。子供がたくさんいるだけでなく、本当に愛し合っている幸せな家族をヨブは持っていました。

 そしてそのような幸せな日々の中でも、ヨブは決して神を恐れることを止めませんでした。

1:5 こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない。」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。

 ヨブは、自分だけでなく息子と娘たちの霊的状態にも非常に気を使っていました。祝宴を開いている中でも、もしや神さまのことを忘れてしまった一瞬があったかもしれない。罪を犯してしまったかもしれない。そして神さまのことをまるで否定するようなことを思ったりしたかもしれない、と心配していました。主の前で良心をきよく保っているために、ヨブは全焼のいけにえを子どもたちのためにも行ないました。

 ここまで読んで、ヨブの子どもたちが一瞬のうちに死んでしまう場面をこれから読みますが、ヨブに罪があったとか、子供たちに罪があったとか原因探しをすることができないことがわかるでしょう。原因はまったく別のところにあったのです。

2B サタンの告発:財産のゆえに潔白 6−12
1:6 ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。

 場面は一気に、神の御座のところに移ります。地上で起こっている幸せな家族模様から、一気に天の御座のところに天使たちが集まってきた場面に移っています。ここの「神の子ら」というのは御使いたち、天使たちのことです。神に仕えるために造られた天的な存在です。その中にサタンが混じっていました。

1:7 主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」

 サタンは、堕落した天使です。天使の中でも大天使といわれる最高の階級の天使でした。イザヤ書には「ルシファー」という名で登場しています。サタンは堕落してから、地を徘徊しながらもこのように天の神のところに来ることができます。天に入ることができる状態からさらに引き落とされるのは、大患難時代に入ってからです。黙示録12章にて、天でミカエルとその使いたちが、サタンとその使いと戦ったら、天にサタンとその使いの居場所がなくなって地上に投げ落とされたことが書かれています。

1:8 主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」

 先ほどのヨブについての評価は、実は神ご自身の評価でした。神の目から見て、ヨブは潔白で正しく、神を恐れ悪から遠ざかっている者でした。神は、サタンが地を徘徊しているのを聞いたとき、彼が何を行なっているかよくご存知でした。エペソ書2章を開いてください。1−2節を読みます。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いているに従って、歩んでいました。

 サタンは、罪と罪過の中にいる者たちを思いのままに操っています。地を行き巡って、罪の中で生きている者たちに働きかけています。だから神は、ヨブのような正しい者はいないと言われて、サタンが思いのままにできない人物を持ち出されたのです。

1:9 サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。1:10 あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。1:11 しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」

 サタンはヨブのことを告発しています。ヨブが神を恐れるのは、自分に財産があるからで、本当にあなたを愛し、畏れているのではないですよ、という告発です。

 サタンの主な働きは、この告発です。彼は実際に「告発者」と呼ばれています。黙示録1210節にこう書いてあります。「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」聖書には、「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1」とあります。罪人であっても、キリストにあって無罪と宣言された、あたかも一度も罪を犯していないようにみなされているのが、キリスト者です。けれどもサタンは、その宣言は不当であると訴えます。

 そしてサタンは中傷する者です。後でわかるとおり、ヨブは財産を多く持っているから主を愛しているのではありません。けれども、富を多く得ているという一見悪いことのように見えるものを取り上げて、彼の霊の品格まで疑うようなことをほのめかしています。ですから、他のクリスチャンについて、その外見で自分勝手にさばくようなことをする人は、実はサタンの働きに参加していることになります。

1:12 主はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは主の前から出て行った。

 11節にもそして今読んだ12節にも、サタンは主が許された範囲のみでしか活動できないことが分かります。「あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。」とサタンは言っていますが、サタンはヨブを滅ぼそうと願いましたが、主が守られていたので手出しすることができなかったのです。そして、持ち物に手を出すことを主は許されていますが、彼の身体には手を出すなと命じておられ、実際サタンはヨブの身体に触れることはできません。

 サタンは神に反対している者ですが、完全に神の主権の中に取り組まれており、神の許しの中でしか活動できない、しもべであることが分かります。ヨブに対するように、神は私たちを悪魔から守っていてくださっています。「あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。(1ヨハネ4:4」「神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。(1ヨハネ5:18

 けれども、神はサタンがヨブの財産に手を出すことを許されました。これは、神の名誉に関わるサタンからの挑戦状だったからです。神がご自分のかたちにお造りになった人間は、はたして神ご自身を愛しているのか、それとも神が与えてくださるものによって愛しているのか、という問いかけです。この世の中では、お金があって地位も高い男のところに、女が集まってくることがありますね。結婚した後の自分の生活を考えているから求愛するのであって、その男を愛しているからではありません。同じような問いかけを、サタンは神に行なったのです。

3B 一瞬のうちの災害 13−19
1:13 ある日、彼の息子、娘たちが、一番上の兄の家で食事をしたり、ぶどう酒を飲んだりしていたとき、

 いつものように、ゆったりとした気分で安心しきって兄弟姉妹たちが楽しんでいるときに、災いが突如として襲いました。

1:14 使いがヨブのところに来て言った。「牛が耕し、そのそばで、ろばが草を食べていましたが、1:15 シェバ人が襲いかかり、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」

 ヨブが所有していた牛五百くびきとろば五百頭が、みな奪い取られました。シェバ人はアラビヤ地方にいる人たちです。

1:16 この者がまだ話している間に、他のひとりが来て言った。「神の火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」

 所有していた羊七千頭が焼き尽くされました。この伝えて来た者は「神の火」と呼んでいますが実際はサタンが下らせている火です。

1:17 この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」

 らくだは三千頭いましたが、これらも奪い取られました。カルデヤ人はバビロン地方から来た者たちです。そして、ヨブの最大の財産であり宝である十人の子供が殺されます。

1:18 この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「あなたのご子息や娘さんたちは一番上のお兄さんの家で、食事をしたりぶどう酒を飲んだりしておられました。1:19 そこへ荒野のほうから大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれました。私ひとりだけがのがれて、あなたにお知らせするのです。」

 続けざまに、一瞬のうちにヨブのすべてのものが奪い取られました。たった一人の息子、娘がいなくなっても、その衝撃と悲しみは一生涯続くかもしれないような痛みです。全員失われたら、もうこれは神のわざとしか考えられない、と思っても決しておかしくありません。そしてその神をのろってもおかしくありません。しかし、ヨブはどう反応したでしょうか?

4B ヨブの反応 20−22
1:20a このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、1:21 そして言った。

 上着を引き裂くのは、自分の内側で起こっている悲しみと嘆きの思いを表しています。頭をそっているのは、自分に与えられている栄光を取り除いている、つまり卑しめているジェスチャーです。

1:20b 「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」1:22 ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。

 なんとヨブは、神を愛していたことでしょうか!私は母の胎から出てきて何も持っていなかったのに、その他のものはすべて神から与えられた。だから神がそれらを取られることもおできになる。この神の主権のゆえに主の御名をほめたたえよう、と言っています。

 「罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった」とあります。私はクリスチャン生活をしていて、自分が思うとおりに事が進まないとき、嫌になって不良クリスチャンになってやろうと思ってしまったことが、何度かありました。自分が主のために何かをしてあげているという傲慢な思いがあったからでしょう。けれどもヨブが告白したとおり、母の胎から出てきたとき私たちは裸であり、あらゆるものが主から与えられています。そして自分は主のみこころによって生きていて、主のみこころによっていろいろな事をやらせていただいています。神の主権の中に自分を潜ませている必要があります。

2A 健康の喪失 2
1B サタンの告発:皮には皮 1−6
2:1 ある日のこと、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンもいっしょに来て、主の前に立った。2:2 主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」2:3 主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない。彼はなお、自分の誠実を堅く保っている。おまえは、わたしをそそのかして、何の理由もないのに彼を滅ぼそうとしたが。」

 神とサタンとの対決、第二ラウンドです。場面は、前回と同じように天使たちが神の前に立っていたときに移っています。そこに前回と同じくサタンが入り込んでおり、神さまとサタンとの会話も同じです。最後のところだけ違います。「彼はなお、自分の誠実を堅く保っている。おまえは、わたしをそそのかして、何の理由もないのに彼を滅ぼそうとしたが。」神さまがサタンに言い返しておられる言葉です。サタンは前回、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。(1:9)」と言いましたが、いたずらに、理由もなく事を行なっているのはヨブではなくサタン自身です。

 要は、サタンは主とヨブとの間にある愛の関係に対してねたみ、敵対しているのです。ねたみには理にかなった根拠がありません。その目的はただ、かき乱し、滅ぼし、食い尽くすことにあります。ヤコブが、ねたみについて手紙の中で次のように述べています。「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。(ヤコブ3:14-16」サタンは地を徘徊して、人の肉を刺激して、そして手下である悪霊どもを使って混乱を引き起こさせます。

2:4 サタンは主に答えて言った。「皮の代わりには皮をもってします。人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物を与えるものです。2:5 しかし、今あなたの手を伸べ、彼の骨と肉とを打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。」

 サタンの次の挑戦は、人の自己生存欲求に関わることです。ヨブが主をなおほめたたえることができるのは、彼の体がまだ健在であるからだ。けれども自分の健康を侵されたら、話は違う、という問いかけです。この問いかけも、私たち人間が長いこと問い続け、今も解決していない問題ですね。病気です。人が病気にかかったら、主のことを思い続けることはとても難しくなります。その苦しみに耐えることに集中することを強いられて、他のことを考えることは難しいです。

 そして病の苦しみから抜け出すために、人はどれだけ多くの宗教を生みだしてきたことでしょうか?病の中にいる人は、この病気が直る一筋の希望の光があったなら、どんな滑稽に見えることも行なってしまいます。何百万円も費やして一つの数珠を買ってみたり、呪文を唱えてみたり、効くかどうか分からない薬を飲んでみたりします。人類は、この病の問題と闘うためにこれまで医療技術が著しく発達させてきましたが、それでもまだ解決していません。

2:6 主はサタンに仰せられた。「では、彼をおまえの手に任せる。ただ彼のいのちには触れるな。」

 主はヨブがご自分を否むようなことはしないことをご存知でした。けれども、以上の病についてサタンの問いかけに答えるために、あえてお許しになります。

2B 妻の誘い 7−10
2:7 サタンは主の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。2:8 ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわった。

 どれだけ苦しかったことでしょうか。実際に腫瘍ができた人の話を聞いたことがありますが、2〜3個の腫瘍が出ては消えて、合計25個の腫瘍が体にできたそうです。薬はまったく効かなく、腫瘍が広がって頭まで来て、自然に消えるまで待たなければならないそうです。その間、ただ歯をくいしばってかゆみと痛みをこらえなければなりません。ヨブは、2〜3個ではなく、足の裏から頭の頂まで一度に全身に広がる腫瘍に苦しまなければいけませんでした。

2:9 すると彼の妻が彼に言った。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」

 妻が言っている言葉は、人間的にはまったくその通りでしょう。こんなに苦しいなら死んだほうがましでしょう。そして、こんなに災いがもたらす神をなおもほめたたえなければいけないんですか、のろたって何の非もないでしょう、と誘っているのです。けれども思い出してください、「神をのろいなさい」というのは、まさに悪魔が神にヨブがそうするだろうと言っていた言葉です。妻は、ヨブのことを思って言った言葉だったでしょうが、サタンの仕業に加担するようなことを言っています。

 私たちは気をつけなければいけません。ペテロも同じ間違いを犯しました。イエスさまが、ご自分が十字架につけられ、殺されることを弟子たちに話されたとき、ペテロはイエスさまを引き寄せて、「そんなことはあなたに起こりません。」といさめました。そうしたらイエスさまは何とおっしゃられましたか?「下がれ。サタン。(マタイ16:23」です。そしてイエスさまは、「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と言われました。人のことを思って話しているとき、実は、神のなさることを邪魔しようとしているサタンの仕業に加担していることになるのです。

2:10 しかし、彼は彼女に言った。「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。

 ヨブは、再び神の主権について話しています。幸いを与える神は、災いも与える権利があるという主権です。そして注目してほしいのは、この後、友人との論争が始まりますが、神とサタンとの会話はなくなったことです。後に神さまが現れてヨブに語りかけます。けれども、サタンの口は閉じられてしまいました。

 サタンを沈黙させる最も効果的な方法は、神の主権に自分の身をゆだねることです。また、神のみことばに自分を従わせることです。霊の戦いについて、多くのことが語られます。キリスト教会の中でも、「何々の霊よ、ここから出て行け!」と叫んでそれが霊の戦いだと思っている人たちもいます。けれども、ヤコブは何と言いましたか?「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。(ヤコブ4:7」神に従うときに、私たちは悪魔を退散させることができます。

 イエスさまが、ゲッセマネの園で血のしたたる祈りの戦いをされていたとき、その戦いに勝利する言葉は「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。(マタイ26:39」でした。それからイエスさまは、ご自分の魂を御父にゆだねることがおできになって、十字架への道を、心を騒がせることなく突き進んでいくことがおできになりました。

 私たちも、神が置いてくださっている状況の中で自分の魂をゆだねるとき、また書かれている御言葉に文字通り従うとき、悪魔が私たちを告発する口実を作らなくさせてしまいます。例えば、悪魔は福音宣教の働きの中で、夫婦の間をかき乱そうとします。けれども、夫が、「キリストが教会を愛しされたように、自分の妻を愛しなさい。」という言葉にそのまま従ったらどうなるでしょうか?それまでの夫婦喧嘩は嘘のように消え去ります。

3B 友人の衝撃 11−13
2:11 そのうちに、ヨブの三人の友は、ヨブに降りかかったこのすべてのわざわいのことを聞き、それぞれ自分の所からたずねて来た。すなわち、テマン人エリファズ、シュアハ人ビルダデ、ナアマ人ツォファルである。彼らはヨブに悔やみを言って慰めようと互いに打ち合わせて来た。2:12 彼らは遠くから目を上げて彼を見たが、それがヨブであることが見分けられないほどだった。彼らは声をあげて泣き、おのおの、自分の上着を引き裂き、ちりを天に向かって投げ、自分の頭の上にまき散らした。2:13 こうして、彼らは彼とともに七日七夜、地にすわっていたが、だれも一言も彼に話しかけなかった。彼の痛みがあまりにもひどいのを見たからである。

 三人の友人が訪問しに来ました。そして、この三人がヨブを追い詰めるような言葉を語っていくのですが、彼らの最初の意図はとてもすばらしいものでした。彼を慰めるために、打ち合わせてやってきました。そして、ヨブの姿を見てともに悲しみ、何も語らずに七日七夜ヨブとともにいました。私たちはだれかを慰めるときに、何かを教えようとします。特にクリスチャンは説教調になって語ってしまいます。けれども、何も言わずにいっしょにいることが、悲しみの中にいる人には最も大きな慰めです。

 ですから三人は、最初から悪意を持っていたのではなく、普通の、いやかなり特別な友人愛を持っていました。けれどもこの彼らが、ヨブとの激しい議論を起こしてしまいます。これは、私たちに大きな教訓を与えます。私たちも簡単に、「煩わしい慰め手(Miserable comforters Job16:2)になってしまいます。

 次回から、ヨブ記の多くを占めている部分に入っていきます。友人とヨブとの議論です。激しい言葉のやり取りです。


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