ヨブ記3−5章 「苦しみに対する答え」


アウトライン

1A 心の痛み 3
   1B 生まれた日 1−10
   2B 嬰児の死 11−19
   3B 死ねない苦しみ 20−26
2A 自分の観察 4−5
   1B 罪悪 4
      1C 刈り取り 1−11
      2C 滅び 12−21
   2B 神の懲らしめ 5
      1C 愚か者 1−7
      2C 悪知恵 8−16
      3C 神の癒し 17−27

本文

 ヨブ記3章を開いてください。今日はヨブ記3章から5章までを学びます。ここでのテーマは、「苦しみに対する答え」です。

 私たちは前回、ヨブが全財産を失い、自分の体まで腫瘍によって蝕まれる苦しみを受けたところまで読みました。彼に降りかかったわざわいの知らせを聞いて、友人のエリファズ、ビルダデ、ツォファルが見舞いにやってきました。けれども、ヨブの変わりように驚き、絶句して、ただ彼のそばにいることだけしかできませんでした。そして七日七夜経ちました。そしてヨブは、口を開きます。そこから出てきた言葉は、のろいでした。

1A 心の痛み 3
1B 生まれた日 1−10
3:1 その後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。

 自分の生まれた日をのろっています。気をつけていただきたいのは、ここでヨブが神をのろっていないことです。サタンが神に対して、「人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物を与えるものです。(2:5」と言いました。そして神がサタンの要求をお許しになるとサタンはヨブの身体を腫物で打ちました。けれどもサタンは神に対して、「そうすれば、ヨブはあなたをのろうでしょう。」と言いました。けれども、ヨブは自分の生まれた日をのろいこそすれ、神をのろいませんでした。

 のろうと言っても、ヨブがこれから話すことは嘆きであり心の痛みの表現です。前回、苦しむ人に対してどのような慰めを与えることができるかについて話しましたが、三人の友人のようにただ、いっしょにいることを話しました。そして次に、苦しむ人はその苦しみを表現することができるようになります。人は、苦しみ、悲しむとき、初めは起こった事実をそのまま受け入れることができません。けれども、それが自分の心の中で現実となっていくとき、悲しみを表現できるようになります。

3:2 ヨブは声を出して言った。3:3 私の生まれた日は滅びうせよ。「男の子が胎に宿った。」と言ったその夜も。3:4 その日はやみになれ。神もその日を顧みるな。光もその上を照らすな。

 つまり、生まれた日がこの世から抹消されることを願っています。その日がなくなってしまうことを、です。

3:5 やみと暗黒がこれを取り戻し、雲がこの上にとどまれ。昼を暗くするものもそれをおびやかせ。

 月食や日食のことでしょう。

3:6 その夜は、暗やみがこれを奪い取るように。これを年の日のうちで喜ばせるな。月の数のうちにも入れるな。

 カレンダーの中からも、その日がなくなってしまうことを願っています。

3:7 ああ、その夜は、はらむことのないように。その夜には喜びの声も起こらないように。

 ヨブはおそらく、夜に生まれたのでしょう。夜に男の子が生まれて、喜びの声があがったのでしょう。

3:8 日をのろう者、レビヤタンを呼び起こせる者がこれをのろうように。

 レビヤタンは、ヨブ記41章と、詩篇やイザヤ書に出てきますが海の中にいる海獣です。のろうこと、ののしることが非常に上手な者が、この日をのろってくれとヨブは言っています。

3:9 その夜明けの星は暗くなれ。光を待ち望んでも、それはなく、暁のまぶたのあくのを見ることがないように。

 母が夜にヨブを産んで、夜が明けてしまったことを嘆いています。

3:10 それは、私の母の胎の戸が閉じられず、私の目から苦しみが隠されなかったからだ。

 ヨブは自分が生まれていなかったら、と後悔しています。「あのとき、そうなっていなかったら・・・」という後悔は、私たちに困難なことが起こったり、悲しいことが起こったりするときに思うものです。「あのときにもっと友達と話して、彼が10分遅れて出て行ったら、電車で事故に遭わなかったのに・・・。」というような後悔です。「あの時、こうであったなら・・・」という仮定を立てて悲しみを言い表します。

2B 嬰児の死 11−19
3:11 なぜ、私は、胎から出たとき、死ななかったのか。なぜ、私は、生まれ出たとき、息絶えなかったのか。

 生まれた日をのろったヨブは、のろってもやはり生まれてしまった事実を受けとめました。自分が誕生したことは、まぎれもない事実です。でも、生まれた後、どうしてすぐに死ななかったのだろうか?という問いかけを今度はしています。

3:12 なぜ、ひざが私を受けたのか。なぜ、私の吸う乳房があったのか。

 ひざが私を受ける、とは、母親から産まれて助産婦が赤ん坊を受け取ることか、あるいは、父親が自分の跡継ぎの子として母から出てきた子を抱きかかえることを意味します。この手がなければ、赤ん坊は死んでしまいます。また乳を飲まなくても死んでしまいます。

3:13 今ごろ、私は安らかに横になり、眠って休み、3:14 自分たちのためにあの廃墟を築いたこの世の王たち、また議官たち、3:15 あるいは黄金を持ち、自分の家を銀で満たした首長たちといっしょにいたことであろうに。

 生まれてからすぐに死んでしまえば、裕福な生活を生前に営んだ者たちといっしょにいることができるのに、という嘆きです。

3:16 それとも、私は、ひそかにおろされた流産の子のよう、光を見なかった嬰児のようでなかったのか。

 昔も中絶の技術はあったようです。誕生したときにすぐに死ななかったのであれば、なぜ胎内の嬰児であったときに殺されなかったのか、と嘆いています。

3:17 かしこでは、悪者どもはいきりたつのをやめ、かしこでは、力のなえた者はいこい、3:18 捕われ人も共に休み、追い使う者の声も聞かない。3:19 かしこでは、下の者も上の者も同じで、奴隷も主人から解き放たれる。

 死は、すべての地位や階級を平等にする、という意味です。平等にすることは正しいでしょう。しかし、すべて者が安らかにいこうことについては間違っています。新約聖書を読むと、イエス様が金持ちと貧乏人ラザロの話をされたときに、金持ちは安らぎではなくとてつもない苦しみの中にいました。

 ここのヨブの発言を土台にして、死後はみな安らかに眠るという教理をつくっている異端の団体があります。けれども、ヨブ記を読み進めるとヨブが、自分が知りもしないことを語っていることを主が叱られている箇所が出てきます。38章2節に、「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。」とあります。そして17節に、「死の門があなたに現われたことがあるのか。あなたは死の陰の門を見たことがあるのか。」と主がヨブに問われています。もちろん、ヨブは見たことがなかったのです。彼はただ、今の苦しみを死によって解き放たれたらとねがったからであって、彼のこの気持ちを、神の真理とすることはできません。

3B 死ねない苦しみ 20−26
 生まれた日もなくなっておらず、そして嬰児のときに死にもしなかったヨブは、次に、「なぜ」という言葉を使って、自分の苦しみを言い表しています。

3:20 なぜ、苦しむ者に光が与えられ、心の痛んだ者にいのちが与えられるのだろう。3:21 死を待ち望んでも、死は来ない。それを掘り求めても、隠された宝を掘り求めるのにすぎないとは。

 苦しんでいるのに命が与えられている。このことに「なぜ」という疑問を投げかけています。

3:22 彼らは墓を見つけると、なぜ、歓声をあげて喜び、楽しむのだろう。

 苦しんでいる人は死が訪れることを喜びとし楽しみとします。

3:23 神が囲いに閉じ込めて、自分の道が隠されている人に、なぜ、光が与えられるのだろう。

 これは、ヨブの体に自由がきかなくなって、これからどうなるかわからない状態のことを意味しています。彼は足の裏から頭の頂まで悪性の腫物で打たれています。

3:24 実に、私には食物の代わりに嘆きが来て、私のうめき声は水のようにあふれ出る。

 食べ物も飲み物も口にすることができず、代わりに嘆きとうめき声ばかりがやって来ます。

3:25 私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。

 最も恐れていたもの、おぼえていたものとは何のことでしょうか?自分のからだを脅かすものです。サタンが主に対して、「皮の代わりには皮をもってします。」と言ったことです。人間には自己生存本能があります。これがなくなってしまうことを、私たちはもっとも恐れます。自己生存のためには、あらゆることを惜しみなく行ないます。

 しかし、ヨブはそれをいま剥ぎ取られてしまいました。そこで彼は、もっとも基本的な問いかけを口にしたのです。それは、「なぜ自分が生まれたのか」という問いかけです。なぜ自分が生まれたのか、なぜ自分が生きているのか、自分がいま生きている意味は何なのか?という疑問です。

 私たちは、普段はこのような問いかけはしないでしょう。しかし、この疑問の答えることが実は私たちが生きている上で至上命題なのです。生まれたときにも、また死ぬときにも、私たちは裸であり、何か持ってきたわけでもないし、何か持っていくこともできません。

 しかし、私たちの人生の物差しは、主が言われた「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか。」になっています。今の日本人に、自分が生きている価値を聞いたときに、この世の中で成功するための教訓は話せるかもしれませんが、なんで自分が生存しているのかという根本的な問いかけは答えることができません。けれども、これがもっとも早く見つけなければいけない解答なのです。

 それを主イエス・キリストは、「永遠のいのち」と言われています。単に肉体が生きることではありません。また、精神的に幸せな状態を保つことでもありません。なぜ自分が生きているのか、ヨブのようにすべてが剥ぎ取られたときに、それでも生きている価値があると言える霊のいのちを持っていることです。

3:26 私には安らぎもなく、休みもなく、いこいもなく、心はかき乱されている。

 こうしてヨブは、自分の心の痛みを吐露しました。

2A 自分の観察 4−5
 ここで考えていただきたいのは、もし私たちがヨブのように苦しんでいる人の嘆きを聞いたとき、どのように反応するか、です。もちろん慰めたいと願うでしょう。しかし、慰めるのではなく教え諭す間違いを犯してしまいます。私たちがこれから読むのは、慰めるためにやって来た友人がヨブをかえって責め、戒める箇所です。

1B 罪悪 4
1C 刈り取り 1−11

4:1 すると、テマン人エリファズが話しかけて言った。

 エリファズは、ヨブのところにやって来た三人の中で、おそらく年長者だったのでしょう。ヨブ記の最後の章にて、彼が三人の中の代表として名前が挙げられています。

4:2 もし、だれかがあなたにあえて語りかけたら、あなたはそれに耐えられようか。しかし、だれが黙っておられよう。

 エリファズは、これから話す自分の言葉がヨブにとって耐え難いものかもしれない、と言っています。けれども、言わなければいけない、という正義感によって語ります。

4:3 見よ。あなたは多くの人を訓戒し、弱った手を力づけた。4:4 あなたのことばはつまずく者を起こし、くずおれるひざをしっかり立たせた。

 ヨブがこれまで行なってきたミニストリー、霊的に人々を助けた奉仕を思い起こさせています。ガラテヤ書6章1節に、「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。」とあります。自分の過ち、愚かさ、罪によって弱くなった人々をヨブが柔和な心で正し、彼らを取り戻していたではないかとエリファズは言っています。

4:5 だが、今これがあなたにふりかかると、あなたは、これに耐えられない。これがあなたを打つと、あなたはおびえている。

 つまり、あなた自身が誘惑に陥って、罪を犯したではないか、ということです。

4:6 あなたが神を恐れていることはあなたの確信ではないか。あなたの望みはあなたの潔白な行ないではないか。

 どうしたのだ、ヨブ、あなたは神を恐れることがあなたのよりどころで、潔白な行ないにこそ希望があったではないか、と思い起こさせようとしています。

4:7 さあ思い出せ。だれか罪がないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか。4:8 私の見るところでは、不幸を耕し、害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ。

 ここでエリファズが言っているのは、「あなたは罪を犯している。このようなひどい苦しみにあっているのは、あなたが罪を犯したからだ。」と言うことです。後で他の二人の友も同じことを話します。初めはそれとなく指摘して、次に当てこすり的に表現し、最後は明確にヨブが罪を犯していると話します。

 彼らの考えは、「蒔いたものが刈り取る。」という原則です。日本人になじみがある表現では、仏教用語の「自業自得」です。自分が行なったその行ないに応じて報いがある。正しい者には祝福が、悪者にはのろいがある、という考えです。

 これは確かにその通りです。聖書の中にもこの原則があります。しかし、聖書はそんなに単純ではないことを書いています。「どこに正しい人で絶たれた者があるのか」とエリファズは言っていますが、どうでしょうか?私たちの主、イエス・キリストは、罪のない、正しい方でした。この正しい方が裏切られ、苦しみを受け、死に渡されました。

 もちろんエリファズは、先のことはわかりません。けれども、アベルはどうでしょうか?紀元前2000年ごろに生きていた彼らも、アダムの息子であるカインとアベルのことは知っていたでしょう。アベルが殺されたのは、彼が罪を犯したからですか?いいえ、彼のいけにえは神に受け入れられました。彼はその信仰によって正しい人でした。けれども殺されたのです。聖書に描かれている現実は、単純に苦しむ者すべてがその罪悪によって不幸を招いているのではないのです。

 そして、エリファズが言った中で致命的な過ちがあります。8節の初めに「私の見るところでは」とあります。先ほど話したとおり、エリファズはおそらく最長者です。もしかしたらヨブよりも年上だったかもしれません。彼は、自分の観察によって、自分の経験によって、「不幸を耕し、害毒を蒔く者が、それを刈り取る。」という原則を見つけたのです。

 エリファズはこれから神のことについてたくさん話します。彼は神を信じていた信仰者でした。しかし、彼はヨブの苦しみの理由を探すときに、その答えを見つけたいばかりに、神の真理である御言葉ではなくて、自分の経験に基づいて論を進めていくのです。彼自身も気づいていなかったかもしれません。答えを見つけたいばかりに、その答えを自分の経験にたよるという過ちを犯しました。

 興味深いことに、その後の友人も神の御言葉以外の権威により頼んでいます。ビルダデは8章8節で、「さあ、先代の人に尋ねよ。その先祖たちの探求したことを確かめよ。」と言っています。それほど年寄りでもない彼は、自分の経験ではなく先代の人々の知識を頼りにしました。エリファズが年配の人たちにありがちな過ちだとすれば、ビルダデは中年の人たちにありがちな過ちでしょう。自分はたくさんの本を読んで、世の中のことをいろいろ知っている。だいたい世の中はこのようなものだと、わかる。そしてツォファルは、とにかく自分の見方が正しいという慎重さを欠いた最も若者的な見方をしています。

 こうして、神のことをたくさん語りながらも、その多くが真理の一面をついていながらも、みことばではないものにより頼むことによって、ヨブの苦しみの状況を完全に見誤っていたのです。

4:9 彼らは神のいぶきによって滅び、その怒りの息によって消えうせる。4:10 獅子のほえる声、たける獅子の声は共にやみ、若い獅子のきばも砕かれる。4:11 雄獅子は獲物がなくて滅び、雌獅子の子らは散らされる。

 不義を行なう者が、獅子のように強くてもたちどころに砕かれる、ということです。暗に勢力のあったヨブをほのめかしています。

2C 滅び 12−21
4:12 一つのことばが私に忍び寄り、そのささやきが私の耳を捕えた。4:13 夜の幻で思い乱れ、深い眠りが人々を襲うとき、4:14 恐れとおののきが私にふりかかり、私の骨々は、わなないた。4:15 そのとき、一つの霊が私の顔の上を通り過ぎ、私の身の毛がよだった。4:16 それは立ち止まったが、私はその顔だちを見分けることができなかった。しかし、その姿は、私の目の前にあった。静寂…、そして私は一つの声を聞いた。

 長々と自分が神秘的な体験をしたことを語っています。現代にもたくさんいますね、自分の勝手な思いを、神秘的な体験をしたことによって権威づけします。「主が昨日、私に語られました。あなたの牧会の仕方は間違っています。」などと挑みます。神秘的な体験そのものが間違っているのではありません。使徒の働き2章に、ペテロはヨエルの預言を引用して、老人は夢を見て、若者は預言をすることを話しました。使徒たちも他の聖徒たちも、幻や夢などを通して主から語られています。けれども、権威付けのために神秘的体験を使ったり、聞いている人を不必要に恐れさせるのは間違いです。

4:17 人は神の前に正しくありえようか。人はその造り主の前にきよくありえようか。

 つまり、ヨブよ、あなたは罪人であることを認めなさい、ということです。

4:18 見よ。神はご自分のしもべさえ信頼せず、その御使いたちにさえ誤りを認められる。4:19 まして、ちりの中に土台を据える泥の家に住む者はなおさらのことである。彼らはしみのようにたやすく押しつぶされ、4:20 彼らは朝から夕方までに打ち砕かれ、永遠に滅ぼされて、だれも顧みない。4:21 彼らの幕屋の綱も彼らのうちから取り去られないであろうか。彼らは知恵がないために死ぬ。

 ヨブの家はつぶされ、子どもたちはそれに押しつぶされました。ヨブよ、それだけあなたははかない存在だよ、と訴えているのです。

2B 神の懲らしめ 5
 滅んでしまうのは知恵がないからだとエリファズは言っていますが、愚か者にどのようなことが起こるのかをエリファズは説明します。

1C 愚か者 1−7
5:1 さあ、呼んでみよ。だれかあなたに答える者があるか。聖者のうちのだれにあなたは向かって行こうとするのか。

 どのような聖なる存在に向かっても、あなたのことはとりなすことはできない、ということです。

5:2 憤りは愚か者を殺し、ねたみはあさはかな者を死なせる。5:3 私は愚か者が根を張るのを見た。しかし、その住みかは、たちまち腐った。5:4 その子たちは危険にさらされ、門で押しつぶされても、彼らを救い出す者もいない。

 ヨブにふりかかった災難について再び触れています。ヨブは根をはって繁栄したが、その家はたちまち腐ってしまった。息子が押しつぶされ、救い出されることはなかったということです。

5:5 彼の刈り入れる物は飢えた人が食べ、いばらの中からさえこれを奪う。渇いた者が彼らの富をあえぎ求める。5:6 なぜなら、不幸はちりから出て来ず、苦しみは土から芽を出さないからだ。5:7 人は生まれると苦しみに会う。火花が上に飛ぶように。

 不幸や苦しみは土やちりのように環境にあるのではなく、人間の内側から出てくるのだ、ということです。そこでエリファズはヨブに目を神に向けさせようとします。

2C 悪知恵 8−16
5:8 私なら、神に尋ね、私のことを神に訴えよう。

 これは口語訳では、「しかし、わたしであるならば、神に求め、神に、わたしの事をまかせる。」となっています。これはすばらしいことです。苦しんでいるとき、神を求め、神に自分のことをまかせます。私たち人間は、わからないことが起こるとき、どうしてそうなるのか、その理由を求めます。けれども、神に任せることが大事です。

5:9 神は大いなる事をなして測り知れず、その奇しいみわざは数えきれない。5:10 神は地の上に雨を降らし、野の面に水を送る。5:11 神は低い者を高く上げ、悲しむ者を引き上げて救う。

 神は大いなる方で正しい方だということです。

5:12 神は悪賢い者のたくらみを打ちこわす。それで彼らの手は、何の効果ももたらさない。5:13 神は知恵のある者を彼ら自身の悪知恵を使って捕える。彼らのずるいはかりごとはくつがえされる。5:14 彼らは昼間にやみに会い、真昼に、夜のように手さぐりする。

 神に逆らって悪知恵を使っても、ただ墓穴を掘るだけだということです。

5:15 神は貧しい者を剣から、彼らの口から、強い者の手から救われる。5:16 こうして寄るべのない者は望みを持ち、不正はその口をつぐむ。

 エリファズが言っていることは正しいです。けれども、ヨブがこの悪知恵を働かせている人であると断定しているところに過ちがあります。彼は、「神に任せよ」と言っていますが、実は彼自身が神にヨブに起こっていることを任せないで、自分の経験に頼っているのです。

3C 神の癒し 17−27
 そしてエリファズは、ヨブが悔い改めた後にある回復を話しています。

5:17 ああ、幸いなことよ。神に責められるその人は。だから全能者の懲らしめをないがしろにしてはならない。

 この言葉は聞き覚えがあるのではないでしょうか?ソロモンが箴言の中で、こう言っています。「わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる。(3:11-12」おそらく、エリファズの言葉を意識してこう言ったのでしょう。そしてヘブル書の著者も主の懲らしめをないがしろにしてならないことを、12章のところで教えています。

 ですから、エリファズの言っていることの全てが間違っているのではありません。真理の一面を話しています。しかし、これを今のヨブの状況に当てはめているところに間違いがあります。

5:18 神は傷つけるが、それを包み、打ち砕くが、その手でいやしてくださるからだ。5:19 神は六つの苦しみから、あなたを救い出し、七つ目のわざわいはあなたに触れない。

 聖書の中でしばしば、このような表現が出てきます。六つあって、そして七つ目がある、という表現です。

5:20 ききんのときには死からあなたを救い、戦いのときにも剣の力からあなたを救う。5:21 舌でむち打たれるときも、あなたは隠され、破壊の来るときにも、あなたはそれを恐れない。5:22 あなたは破壊とききんとをあざ笑い、地の獣をも恐れない。5:23 野の石とあなたは契りを結び、野の獣はあなたと和らぐからだ。

 いろいろな災いから救い出されますが、ここでエリファズが挙げている災いは、ヨブが経験したことです。

5:24 あなたは自分の天幕が安全であるのを知り、あなたの牧場を見回っても何も失っていない。5:25 あなたは自分の子孫が多くなり、あなたのすえが地の草のようになるのを知ろう。5:26 あなたは長寿を全うして墓にはいろう。あたかも麦束がその時期に収められるように。

 災いからの救いの後、何の災いもなく過ごすことができる、ということです。

5:27 さあ、私たちが調べ上げたことはこのとおりだ。これを聞き、あなた自身でこれを知れ。

 今度はあなたがよく考える番だ、といってエリファズは話を終えています。しかし、ここでも「さあ、私たちが調べ上げたことは」と言って、自分たちが権威になっていることがお分かりになるでしょうか?ここに彼らの致命的な過ちがあるのです。

 私たちが苦しむとき、どうしてもその理由を探したくなります。「なぜ、こんな目にあったのか。」という思います。そしてその原因を探求しはじめます。けれども、答えはありません。そこで、神の真理である御言葉以外のリソースに頼っていく傾向を私たち人間は持っています。心理学かもしれないし、その他の学問、哲学、そしてエリファズのように自分の経験や観察などです。

 けれども、そこには真の知識はありません。そこには真の知恵はありません。コロサイ書にこう書いてあります。「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。(2:8」そして、「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。(2:3」とあります。

 キリストにこそ、知恵と知識の宝があります。この方は、ヨブ以上の理不尽な苦しみを経験されました。私たちは苦しむとき、キリストを経験することができます。私たちが苦しむ時、キリストの慰めを経験することができます。この方はすべての苦しみを経験されたからです。そして、私たちが苦しむと、私たちは他に苦しんでいることを、慰めることができます。コリント第二1章にこう書いてあります。「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。(1:4-5


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