ヨブ記36−39章 「摂理を暗くする者」


アウトライン

1A 神の力強さ 36−37
   1B 悪者への裁き 36
      1C 悪からの立ち返り 1−21
      2C 測り知れない御業 22−33
   2B 嵐 37
      1C 神の御声 1−13
      2C 不思議な御業 14−24
2A 神の知識 38−39
   1B 天と地 38
      1C 地の基 1−7
      2C 海 8−11
      3C 朝日 12−15
      4C 海の源 16−21
      5C 雪・雹の倉 22−30
      6C 星の運行 31−33
      7C 雨 34−38
      8C 動物 39−41
   2B 野生の動物 39
      1C 野やぎ 1−4
      2C 野ろば 5−8
      3C 野牛 9−12
      4C だちょう 13−18
      5C 馬 19−25
      6C 鷹 26−30

本文

 ヨブ記36章を開いてください。今日は36章から38章までを学びます。ここでのテーマは、「摂理を暗くする者」です。今日学ぶところで、ようやく神ご自身がヨブと友人らとエリフの議論の中に介入されます。そのとき主はヨブに、「摂理を暗くするこの者はだれか。」と問い質されます。私たちには何が起こっているのか分からない、目の前で起こっている悲劇に対して、「神さま、なぜこのようなことを行われるのですか。」と叫びたくなることがたくさんあります。しかし、神が私たちの知識をはるかに超えたところで、神の知恵と知識ですべてのものを支配されていること、その摂理について学びます。

1A 神の力強さ 36−37
 36章1節をご覧ください。

1B 悪者への裁き 36
1C 悪からの立ち返り 1−21
36:1 エリフはさらに続けて言った。

 私たちの前回の学びは、エリフの独壇場でした。ヨブの主張に対して友人三人が何も言えなくなってしまった時に、そばで聞いていた若者エリフが自分の言い分を唱え始めました。彼の言い分は、ヨブが受けている苦しみは彼が罪を犯して滅ぶことを免れるために、神が注意喚起のためにもたらされたものである、というものです。神の懲らしめです。子供が悪いことをして、その悪いことの結果、とんでもない悲劇が訪れないように、親が子供を叱ったり、躾けたりするように、神はヨブに、これ以上罪を犯さないように肉体の痛みをもたらされた、と主張しています。

 エリフの言い分は、真理に近づきました。友人たちは苦しみやいつも神の罰であるとみなしましたが、必ずしもそうではありません。懲らしめという側面もあります。しかし、このことでさえヨブには当てはまりませんでした。ヨブの苦しみは、正しく、神を恐れている者として神ご自身が信頼しておられるヨブに対して、サタンが挑んだことによってもたらされた災いです。けれども、苦しみについての彼の考えは、真理に一歩近づきました。

 ところが、エリフは自分ひとりで語っている間に、その神の注意喚起でさえもヨブは聞き入っていない、だから彼は神の怒りを招いている、と結論づけます。彼は初めは、「私のおどしも、あなたには重くない(33:7)」と言って優しく語りかけることを約束しながら、他の友人たちと同様、彼を断罪する口調に変わっています。36章はその続きです。

36:2 しばらく待て。あなたに示そう。まだ、神のために言い分があるからだ。36:3 私は遠くから私の意見を持って来て、私の造り主に義を返そう。36:4 確かに私の言い分は偽りではない。完全な知識を持つ方があなたのそばにいるからだ。

 エリフは、神の代理人としてヨブに語りかけようとしています。かなりの自信家ですね。では、彼の意見を聞いてみましょう。

36:5 見よ。神は強い。だが、だれをもさげすまない。その理解の力は強い。

 これからエリフは、神のご性質と働きについて話します。神は力強い方であるが、弱者の弱さを深く理解しておられる方であり、見た目でえこひいきしたりする方ではない。だれをもさげすまない、と言っています。

36:6 神は悪者を生かしてはおかず、しいたげられている者には権利を与えられる。36:7 神は、正しい者から目を離さず、彼らを王たちとともに王座に着け、永遠に座に着かせて、高められる。36:8 もし、彼らが鎖で縛られ、悩みのなわに捕えられると、36:9 そのとき、神は、彼らのしたことを彼らに告げ、彼らがおごり高ぶったそむきの罪を告げる。36:10 神は彼らの耳を開いて戒め、悪から立ち返るように命じる。

 先に話したように、エリフの立場、言い分は、罪によって人が滅びないように、注意喚起のために凝らしめを与えられる、というものです。そむきの罪を告げ、彼らを戒め、悪から立ち返るように命じられます。

36:11 もし彼らが聞き入れて仕えるなら、彼らはその日々をしあわせのうちに全うし、その年々を楽しく過ごす。36:12 しかし、もし聞き入れなければ、彼らは槍によって滅び、知識を持たないで息絶える。

 神からの注意喚起に応答する場合と、応答しない場合の違いを述べています。

36:13 心で神を敬わない者は、怒りをたくわえ、神が彼らを縛るとき、彼らは助けを求めて叫ばない。36:14 彼らのたましいは若くして死に、そのいのちは腐れている。

 神からの呼びかけに応じない者たちの最期です。

36:15 神は悩んでいる者をその悩みの中で助け出し、そのしいたげの中で彼らの耳を開かれる。36:16 まことに、神はあなたを苦しみの中から誘い出し、束縛のない広い所に導き、あなたの食卓には、あぶらぎった食物が備えられる。36:17 しかし、あなたには悪者の受けるさばきが満ちている。それでさばきと公義があなたをつかまえる。

 ヨブに対するエリフの評価です。神はあなたを悩みから救い出そうとされているのに、あなたは応答しようとしない、だから神のさばきが待っている、と述べています。

36:18 だから、あなたは憤って、懲らしめに誘い込まれないようにせよ。身代金が多いからといって、あなたはそれに惑わされないようにせよ。36:19 あなたの叫びが並べたてられても、力の限りが尽くされても、それが役に立つだろうか。

 神のさばきの前で、身代金を持ってきても、他にいろいろな叫びを持ってきても、役に立たないと述べています。こじきラザロと金持ちのことを思い出します。金持ちはハデスの苦しみの場所で、アブラハムに対して叫んでいましたが、彼の願いは聞き入れられませんでした。神に対して、私たちは神に良い印象を与えようとしても無理です。

36:20 国々の民が取り去られる夜をあえぎ求めてはならない。36:21 悪に向かわないように注意せよ。あなたは悩みよりも、これを選んだのだから。

 悩むことと悪に走ること。この二者択一であるとエリフは述べています。私たちが苦境に置かれているとき、私たちはそれを主の前に持っていき、主の前で泣くという選択があります。しかし、自暴自棄になって神などいないと決断し、悪に走る選択もあります。エリフは、ヨブは悪に走っていると判断しました。

2C 測り知れない御業 22−33
 エリフは次に、神の偉大さについて自然現象を使って述べ始めます。

36:22 見よ。神は力にすぐれておられる。神のような教師が、だれかいようか。36:23 だれが、神にその道を指図したのか。だれが、「あなたは不正をした。」と言ったのか。

 このエリフの言葉を、使徒パウロは、ユダヤ人と異邦人に対する神の救いについて論じているところで引用しています。「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。(ローマ11:33」と言っています。

 私たちが聖書の学びをしていると、イスラエルについて多くの人が疑問を呈します。「イスラエルが神の選ばれたという選民思想を持っているから、世界に問題を起こしているのだ。」という人たちが多いです。クリスチャンでさえも多くが、「イスラエルは神に対してかたくなにしているから、彼らは見捨てられているのだ。その祝福は教会に対してであって、イスラエルとは関係ない。」と言って現代また未来のイスラエルの役割を否定します。

 しかしパウロは、「神は初めからすべての人にあわれむご計画を持っておられた。」と論じます。続けてこう言います。「しかし、あわれむ前に彼らがその罪のゆえに神に対して不従順であることを知らなければならない。そこで神は、まずイスラエルを選ばれて、イスラエルではない異邦人が神なしに生きたら、どれだけ堕落するかを明らかにされた。しかし次に、イスラエルがメシヤ、キリストを受け入れないで、彼らも実はその罪ゆえに神に不従順であることを示された。同時に、異邦人が、まったく神の祝福を受けるに値しないのに祝福を受けられるようにし、あわれみを示された。最後に、イスラエルも救われる。このように順番によって、全ての人が神のあわれみを受けることができるようにされたのだ。」

 私たちには測り知ることができない、知恵と知識の富です。私たちは自分が教師であることを自負して、聖書にはっきりと書かれている神の働きが間違っていると戒めます。しかし、何も分かっていないのです。これが神の摂理です。私たち人間の理解をはるかに超えたところで、神がすべてのことを益とされるご計画をお持ちなのです。一時的には不条理に思えるようなことも、実はもっとも的確な、最善のことが行なわれています。

36:24 人々がほめ歌った神のみわざを覚えて賛美せよ。36:25 すべての人がこれを見、人が遠くからこれをながめる。36:26 見よ。神はいと高く、私たちには知ることができない。その年の数も測り知ることができない。

 全ての人が認めることができる、神のみわざとは「自然現象」です。次をご覧ください。

36:27 神は水のしずくを引き上げ、それが神の霧となって雨をしたたらせる。36:28 雨雲がこれを降らせ、人の上に豊かに注ぐ。

 水の循環です。蒸発した水分が上空で雲となり、雲から再び地上に雨として落ちます。この不思議な循環はすべて神によって行なわれているということです。

36:29 いったい、だれが雲の広がりと、その幕屋のとどろきとを悟りえよう。

 雲は絶え間なくその形が変化します。そして雲が濃くなったところから、雷が落ちて「ゴロゴロ」という音を出します。この働きをだれが悟りえようか、と言っています。

36:30 見よ。神はご自分の光をその上にまき散らし、また、海の底をおおう。

 太陽光線の働きです。雲に対して光が当たり、地面、海底まで明るくする、すべてを包むような性質を光は持っています。

36:31 神はこれらによって民をさばき、食物を豊かに与える。

 雲、雷、雨、光などによって、人々はいろいろなことを判断できます。さらに、これらの働きによって、食物となる植物が育ち、その実を楽しむことができます。

36:32 神はいなずまを両手に包み、これに命じて的を打たせる。36:33 その雷鳴は、神について告げ、家畜もまた、その起こることを告げる。

 稲妻と雷です。

 なぜエリフが、雲、雨、稲妻、雷について話し始めているかお分かりでしょうか。今、実際に嵐がやってきているからです。38章1節に主があらしの中からヨブに語られた、とあります。エリフが語っている間に、その前兆が始まっていたのです。雲が濃くなってゆき、雨がぽつぽつと降り始め、雷鳴も聞こえ始め、稲妻の光も見ることができるようになってきています。その中でエリフは自分の演説を続けているのです。

2B 嵐 37
1C 神の御声 1−13
37:1 これによって私の心はおののき、その所からとびのく。37:2 しかと聞け。その御声の荒れ狂うのを。その御口から出るとどろきを。37:3 神はそのいなずまを全天の下、まっすぐに進ませる。それを地の果て果てまでも。37:4 そのあとでかみなりが鳴りとどろく。神はそのいかめしい声で雷鳴をとどろかせ、その声の聞こえるときも、いなずまを引き止めない。37:5 神は、御声で驚くほどに雷鳴をとどろかせ、私たちの知りえない大きなことをされる。

 雷鳴と稲妻が激しくなってきています。エリフは驚き、少し不安になりながら語り続けています。

 彼が雷鳴のことを主の御声として捉えているところは、興味深いです。ダビデが、私たちは神の声を聞くことができるのか、と問いかけている場面があります。詩篇19篇です。「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。(詩篇19:1-4

 私がクリスチャンになって間もないころのことでした。聖書を通読しはじめましたが、難しくて分からないと思っていたときです。理解するために解説書のような本も買いましたが、聖書が僕にとって勉強のようなものになっていました。けれども、あるときクリスチャンの大きな集まりが、クリスチャンの大きな宿泊施設でありました。大会のすべてのプログラムが終わり、その施設も静まり返ったとき、私と先輩は祈祷室にいました。その大きな窓から山が(富士山だったのでしょうか、忘れましたが)、自分たちに迫ってくるように大きく見えました。そこで詩篇を読んだのです。その言葉は、なんの解釈も注解もいらない、そのまま私の心に語りかける神の言葉として伝わってきました。偉大な神の御業を見るとき、私たちは大音響のように神の声を聞くことができるのです。

37:6 神は雪に向かって、地に降れ、と命じ、夕立に、激しい大雨に命じる。37:7 神はすべての人の手を封じ込める。神の造った人間が知るために。37:8 獣は巣にもぐり、ほら穴にうずくまる。

 大雨警報が気象庁から出されたとき、人々の活動は一気に減ってしまいます。それは神が行なわれていることだ、とエリフは言っています。

37:9 つむじ風は天の室から吹き、寒さは北から来る。37:10 神の息によって氷が張り、広い水が凍りつく。

 今、冷たい風が吹いてきているのでしょうか?雪や氷についても話しています。

37:11 神は濃い雲に水気を負わせ、雲が、そのいなずまをまき散らす。37:12 これは神の指図によって巡り回り、命じられるままに世界の地の面で事を行なう。37:13 神がこれを起こさせるのは、懲らしめのため、あるいは、ご自身の地のため、あるいは、恵みを施すためである。

 人に凝らしめを与えるとき、神は自然現象を用いられます。また、この地は多くの雨を、また雪を必要としています。さらに、地が潤うためにも雨、また雪が必要です。

2C 不思議な御業 14−24
37:14 これに耳を傾けよ。ヨブ。神の奇しいみわざを、じっと考えよ。37:15 あなたは知っているか。神がどのようにこれらに命じ、その雲にいなずまをひらめかせるかを。

 エリフはヨブに問いかけています。神によって引き起こされる自然現象のメカニズムをあなたは知っているか、と問い質しています。

37:16 あなたは濃い雲のつり合いを知っているか。完全な知識を持つ方の不思議なみわざを。37:17 また、南風で地がもだすとき、あなたの着物がいかに熱くなるかを。37:18 あなたは、鋳た鏡のように堅い大空を神とともに張り延ばすことができるのか。37:19 神に何と言うべきかを私たちに教えよ。やみのために、私たちはことばを並べることができない。

 今、雨雲のせいで周りが真っ暗になってしまっているのでしょう。語ることもできなくなってきた、とエリフは言っています。

37:20 私が語りたいと、神にどうして伝えられようか。人が尋ねるなら、必ず彼は滅ぼされる。

 非常に大切な真理です。神が引き起こされているメカニズムについて、人が尋ねたらその人は必ず滅ぼされるとエリフは言っています。これは見ることについても同じことが言えて、神ご自身を人が見たら、たちまち滅ぼされてしまいます。

 私たちは神のかたちに似せて造られていますから、知恵と知識が与えられています。しかし神ご自身と比べたら、どうしようもないほど人間の知恵と知識はちっぽけです。私たちが、自然現象のメカニズムはどうなっているのかと神に問い詰めて、神がそのままお語りになったらその知恵と知識の濃密さで、私たちはぶったおれてしまうでしょう。ちょうど足し算を習い始めた小学校一年生に、コンピューターにしかできない演算を行なわせるようなものです。

 神は、ご自分のあわれみによって、私たちに示されることを限定されています。私たちは、知識を得ることではなく、与えられた知識によって神に拠り頼むこと、神と交わることを求められています。神に栄光を帰すことが人間存在の理由です。

37:21 今、雨雲の中に輝いている光を見ることはできない。しかし、風が吹き去るとこれをきよめる。

 飛行機で雲の上を飛んでいると、そこは光り輝いています。その輝きは雨雲がなくなったら、地上でも見ることができます。

37:22 北から黄金の輝きが現われ、神の回りには恐るべき尊厳がある。

 エゼキエル1章に、ケルビムが北からやって来る場面がありますが、主の威光が北からやって来るようです。今現在も、エリフは北の方角から主の輝きを見ているのかもしれません。

37:23 私たちが見つけることのできない全能者は、力とさばきにすぐれた方。義に富み、苦しめることをしない。37:24 だから、人々は神を恐れなければならない。神は心のこざかしい者を決して顧みない。

 これでエリフの演説は終わりです。次に主ご自身が登場されます。

2A 神の知識 38−39
1B 天と地 38
1C 地の基 1−7
38:1 主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。38:2 知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。

 主が、ヨブに直接語りかけます。これまで友人が、そしてエリフがヨブに語りました。しかし、人がどんな説得しても、人の根本的な問題は神ご自身がその人に語りかけること以外には解決されません。

 これから私たちが読むところは、友人が、特にエリフが語っているものと重なる部分があります。ヨブは自分の義をあまりにも前面に押し出してきたので、神ご自身の義を横に追いやってしまいました。このことにエリフが怒りましたが、今度は主ご自身が責められます。

 では、エリフが正しい意見を言っていて、ヨブが正しくなかったのか、軍配はエリフに上がるのかというとそうではありません。エリフについて神が彼を評価している部分は聖書のどこにもありません。しかし、ヨブについては、その正しさを神が認められる部分がたくさんあります。ヨブ記の1章と2章にあるし、またヨブ記の最後の章で、友人らに対して神が「あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ。(42:7」と言われました。そして新約聖書にヨブ記についての注解があります。「見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。(ヤコブ5:11」したがって、ヨブは正しい人であり、苦しみのときに忍耐した人であると認められています。

 しかし彼は38章から41章にかけて、主から叱責を受けます。ここが大事な部分です。私たちは議論をするとき、必ずどちらが正しいかというものさしを使います。人と人を比較します。しかし、クリスチャンはあくまでも、主によって評価されるべきであり、主ご自身からの取り扱いを受けるべきなのです。ヨブと友人たち、またエリフの意見でだれが正しいのか、ではありません。もし人と人の評価をするなら、ヨブは他のだれにもまして優れていました。

 しかし、彼も完全な人ではなかったのです。彼はさらに成熟するために、彼の信仰の歩みの中でその段階においてさらに一歩前進するために、神は彼に愛のむちを与えられたのです。たまたま、エリフの意見は神の意見と似通っていました。けれども、エリフが思っているような不義の人ではヨブは全くありませんでした。あえて比べるなら、その義はエリフよりはるかに勝っていたのです。

 大事なのは、一人ひとりが、自分が歩んでいるところを基準として、一歩前進すべく主が促してくださることです。ピリピ書にこう書かれています。「それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。(3:16

38:3 さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。

 当時の服装は、ちょうどコートのように一枚の布で肩から足を覆うようなものでした。ですから、走ったり、戦いに出て行くときは、男性は腰のところですそを捲り上げました。それで動きやすくしました。同じように、今、主はヨブに対して、身を引き締めてわたしが尋ねる質問に答えよ、と言われているのです。

38:4 わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。38:5 あなたは知っているか。だれがその大きさを定め、だれが測りなわをその上に張ったかを。38:6 その台座は何の上にはめ込まれたか。その隅の石はだれが据えたか。

 38章から41章までの主のヨブに対する質問は、6070もあると言われています。その初めの三つ、四つです。創世記1章にて、「初めに、神が天と地を創造された。」の文頭がありますが、そのときに神が行なったことを、ヨブよ、あなたは理解しているか?と神は問われています。地がどのようにして造られたのか、そして今もなくならずに堅固でありつづけているのは、どのようにしてか?ヨブはもちろん何も知りません。現代の地質学者でも、この答えには何も答えることができないでしょう。それは、すばらしい秩序を持っておりデザインを持っていますが、私たちには測り知ることのできない神の知恵と知識によって成り立っているのです。

38:7 そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ。

 明けの星々、神の子たちとは天使、御使いたちのことです。地の基が置かれる前に、神は天的な存在、御使いたちを造られました。堕落した天使もいて、エデンの園にはすでに蛇の姿を取ってサタンがエバを誘惑しました。

2C 海 8−11
38:8 海がふき出て、胎内から流れ出たとき、だれが戸でこれを閉じ込めたか。38:9 そのとき、わたしは雲をその着物とし、黒雲をそのむつきとした。

 海の創造です。これもヨブには何も分からないし、また何の関与もしていないし、できません。神はここで、ノアの時代の洪水について言及されています。雲からの雨だけではなく、地の底からも水が吹き出たことをお話になられています。「大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた。(創世7:11新共同訳)」と書かれています。

38:10 わたしは、これをくぎって境を定め、かんぬきと戸を設けて、38:11 言った。「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない。あなたの高ぶる波はここでとどまれ。」と。

 最近は、地球温暖化現象で海水が上昇していると言われていますが、基本的にほとんど海岸線は、人工によって埋め立てられていないかぎり変わっていません。これは主が境を定めておられるからです。この主の働きがなければ、私たちは絶えず、地図を書き直して海外線を描き直さないといけないでしょう。

3C 朝日 12−15
38:12 あなたが生まれてこのかた、朝に対して命令を下し、暁に対してその所をさし示し、38:13 これに地の果て果てをつかまえさせ、悪者をそこから振り落とさせたことがあるか。38:14 地は刻印を押された粘土のように変わり、衣服のように色づけられる。

 日の出と朝焼けはだれが起こしているのか、と主はヨブに問われています。全体が色づけられますね。

38:15 悪者からはその光が退けられ、振りかざす腕は折られる。

 非常に興味深いですが、主は朝焼けを悪者がその行ないをやめさせることに用いられています。悪者は暗闇の中で悪事を行ないます。白昼堂々と行なう犯罪もありますが、多くは隠れたところで行ないますね。

4C 海の源 16−21
38:16 あなたは海の源まで行ったことがあるのか。深い淵の奥底を歩き回ったことがあるのか。38:17 死の門があなたに現われたことがあるのか。あなたは死の陰の門を見たことがあるのか。

 神は次に海の源、海底についてお語りになっています。しかし、この時に同時に死の門についても話されています。それは聖書では、陰府が地の中、また海の底深くにあるとしているからです。民数記にて、コラがアロンとモーセに反抗したときに、彼と彼に加担した者たちが生きたまま、割れた地面の中に入っていきました。そこでモーセは、彼らが「生きながらよみに下」った(民数16:33)と言いました。

 主ご自身は、十字架で死なれた後に陰府に下られたわけですが(1ペテロ3:19)、ヨナが三日三晩魚の中にいたように、人の子も地の中にいると言われました(マタイ12:40)。海の底については、ミカ書に、主が罪を忘れるために海の深みに投げ入れることが書かれています。さらに、主は、小さい者をつまずかせる者は、海の底に投げ込まれたほうがましであると言われましたし、人についていた悪霊は、豚に移って、豚はガリラヤ湖の中に入っていきました。黙示録では、悪霊どもが地の底、底知れぬところから出てくることが書かれています。人の死、死をもたらす罪、また堕落した天使どものいる場所が、地の中であり海の底です。

 かつてヨブは、自分が生まれたことを嘆いて、もし死んだら悪者どももすべてが安らかになると言いましたが(3:17-19)、主はそのことについては、「あなたは死の陰の門を見たことがあるのか。」と言われています。死について何も分からないのに、安らかになると思い込んでいたのです。

38:18 あなたは地の広さを見きわめたことがあるのか。そのすべてを知っているなら、告げてみよ。38:19 光の住む所に至る道はどこか。やみのあるその場所はどこか。38:20 あなたはわたしをその国まで連れて行くというのか。また、その家に至る通り道を見分けるというのか。38:21 あなたが知っている……そのとき、あなたが生まれ、あなたの日数が多い、といって。

 光また闇の創造について、主はお語りになっています。主は皮肉にも、ヨブが生きていた年月は長いので、その時のことも知っているだろうと言われています。もちろんヨブは知りません。

5C 雪・雹の倉 22−30
38:22 あなたは雪の倉にはいったことがあるか。雹の倉を見たことがあるか。38:23 これらは苦難の時のために、いくさと戦いの日のために、わたしが押えているのだ。

 雪や雹の創造です。苦難やいくさ戦いの日のために押さえていると神は言われますが、出エジプト記にて、エジプトに雹の災いが下りましたね。またヨシュア記のとき、敵を追っているヨシュアたちのために、主が雹を降らせました。

38:24 光が分かれる道はどこか。東風が地の上で散り広がる道はどこか。38:25 だれが、大水のために水路を通し、いなびかりのために道を開き、38:26 人のいない地にも、人間のいない荒野にも、雨を降らせ、38:27 荒れ果てた廃墟の地を満ち足らせ、それに若草を生やすのか。

 雷や稲妻をともなって雨が降ります。その光が通る道はどうなっているのか知っているのか、またそうした突発的な豪雨によって荒野をも潤しているのはだれか、と聞いておられます。

38:28 雨に父があるか。露のしずくはだれが生んだか。38:29 氷はだれの胎から生まれ出たか。空の白い霜はだれが生んだか。38:30 水は姿を変えて石のようになり、深い淵の面は凍る。

 雨から氷へ、また雪へと変わります。これを行なっているのはだれか、と主は聞かれています。

6C 星の運行 31−33
 今度は地球を離れて、宇宙の創造です。

38:31 あなたはすばる座の鎖を結びつけることができるか。オリオン座の綱を解くことができるか。38:32 あなたは十二宮をその時々にしたがって引き出すことができるか。牡牛座をその子の星とともに導くことができるか。38:33 あなたは天の法令を知っているか。地にその法則を立てることができるか。

 宇宙は本当に神秘的です。ここまで秩序をもってどうして動くことができるのか、と不思議になります。そしてあまりにも巨大です。神への信仰を持っていたケプラーが惑星の運動に関する法則を発見しました。

7C 雨 34−38
38:34 あなたの声を雲にまであげ、みなぎる水にあなたをおおわせることができるか。38:35 あなたはいなずまを向こうに行かせ、「私たちはここです。」とあなたに言わせることができるか。38:36 だれが心のうちに知恵を置いたか。だれが心の奥に悟りを与えたか。38:37 だれが知恵をもって雨雲を数えることができるか。だれが天のかめを傾けることができるか。38:38 ちりが溶け合ってかたまりとなり、土くれが堅く固まるとき。

 雨の創造と支配です。この一つ一つの動きについてもちろんヨブは答えることはできません。

8C 動物 39−41
 これまで天候や地形、宇宙などの非生物について書かれていましたが、次から動物の営みについて主は語られます。

38:39 あなたは雌獅子のために獲物を狩り、若い獅子の食欲を満たすことができるか。38:40 それらがほら穴に伏し、茂みの中で待ち伏せしているときに。38:41 烏の子が神に向かって鳴き叫び、食物がなくてさまようとき、烏にえさを備えるのはだれか。

 ライオンも烏も、人間に飼われている家畜ではなく野生の動物です。人の手によらずに、彼らは生きています。その営み一つ一つに主が関わりを持っておられるからです。

2B 野生の動物 39
 そして39章も、さまざまな野生の動物について書かれています。なぜ主は野生の動物に焦点を当てておられるのでしょうか?それは、人間の手が加えられていない、人間が支配・管理ができない動物だからです。

 ヨブの最大の問題、もちろんヨブだけでなく人間全体の問題は、自分たちが支配できなくなるもの、自分たちの言いなりにならないものが出てくると、慌てふためいてしまうことです。神のかたちに似せて造られた被造物である人間は、唯一、言葉を使い、創造的な働きをすることができます。しかし、エバが、神のようになって賢くなることができるという蛇の誘いにのってしまったように、自分の思うとおりに支配したい、そして支配できなかったら不安を覚えるのが私たちの罪の性質なのです。

 私たちの生活、人生で、どうにもできないことはたくさんあります。しかし、すべては主によるものであり、私たちは主に自分を明け渡す必要があります。しかし、人間は自分たちの思うとおりになるように、いろいろな工夫をして文明を発展させていきました。あまりにも便利になってしまい、自分ではできないことがあると葛藤を覚えます。しかし、初心に戻る必要があります。主が弟子たちにお語りになったことです。鳥は空を飛んでいて、落ちてくることはない。花はソロモンの栄華よりもさらに美しく着飾っている。だから、心配してはいけない。主がまかなってくださるからだ、という主の教えです。人間はこれだけ単純に造られています。

 世界にはどうにもならないことがたくさんあります。日本のようにすべてが整えられ、便利になっている社会に生きていると、神の必要性がわからなくなります。クリスチャンが少ないのも、この便利な社会に頼っている心がその一因でしょう。しかし、どうにもならないことがたくさんあります。横田めぐみさんのお母さん、早紀江さんは、娘を誘拐されたという苦しみの中でヨブ記を読んでクリスチャンになりました。神の主権の中に自分を従わせるときに、そこに本当に私たち人間が造られた目的を果たすことができます。

1C 野やぎ 1−4
 そこで主は、野生の動物の生態をお語りになられます。

39:1 あなたは岩間の野やぎが子を産む時を知っているか。雌鹿が子を産むのを見守ったことがあるか。39:2 あなたはこれらがはらんでいる月を数えることができるか。それらが子を産む時を知っているか。39:3 それらは身をかがめて子を産み落とし、その胎児を放り出す。39:4 その子らは強くなり、野原で大きくなると、出て行って、もとの所には帰らない。

 非常に荒々しい出産です。生まれた子供を放り出します。けれども子供はたくましく生きていきます。主の手があるからです。

2C 野ろば 5−8
39:5 だれが野ろばを解き放ったのか。だれが野性のろばの綱をほどいたのか。39:6 わたしは荒れた地をそれの家とし、不毛の地をその住みかとした。39:7 それは町の騒ぎをあざ笑い、追い立てる者の叫び声を聞かない。39:8 山岳地帯はその牧場、それは青い物を何でも捜す。

 家畜のろばとは対照的に、野ろばはたくましく生きています。

3C 野牛 9−12
39:9 野牛は喜んであなたに仕え、あなたの飼葉おけのそばで夜を過ごすだろうか。39:10 あなたはあぜみぞで野牛に手綱をかけることができるか。それが、あなたに従って谷間を耕すだろうか。39:11 その力が強いからといって、あなたはそれに拠り頼むだろうか。また、あなたの働きをこれに任せるだろうか。39:12 あなたはそれがあなたの穀物を持ち帰り、あなたの打ち場で、これを集めるとでも信じているのか。

 主は、家畜の牛と野牛を対比させておられます。同じ牛でも大違いです。

4C だちょう 13−18
 次は興味深い動物、だちょうの成育です。

39:13 だちょうの翼は誇らしげにはばたく。しかし、それらはこうのとりの羽と羽毛であろうか。39:14 だちょうは卵を土に置き去りにし、これを砂で暖めさせ、39:15 足がそれをつぶすことも、野の獣がこれを踏みつけることも忘れている。39:16 だちょうは自分の子を自分のものでないかのように荒く扱い、その産みの苦しみがむだになることも気にしない。39:17 神がこれに知恵を忘れさせ、悟りをこれに授けなかったからだ。39:18 それが高くとびはねるとき、馬とその乗り手をあざ笑う。

 非常に興味深いです。私たちは、動物の生態を見て、「まあ、そんなもんだろう」と当たり前のように受け止めます。しかし、そこにはすぐれた神の知恵があります。私たちがその知恵がいかにすぐれているか感謝できるように、知恵がなかったらどうなるかを、だちょうによって神は示しておられるのです。

5C 馬 19−25
 次は馬です。馬は家畜でありますが、同時に、ただ飼いならしているだけでは得ることができない、馬自体にあるすぐれた知恵があります。

39:19 あなたが馬に力を与えるのか。その首にたてがみをつけるのか。39:20 あなたは、これをいなごのように、とびはねさせることができるか。そのいかめしいいななきは恐ろしい。39:21 馬は谷で前掻きをし、力を喜び、武器に立ち向かって出て行く。39:22 それは恐れをあざ笑って、ひるまず、剣の前から退かない。39:23 矢筒はその上でうなり、槍と投げ槍はきらめく。39:24 それはいきりたって、地を駆け回り、角笛の音を聞いても信じない。39:25 角笛が鳴るごとに、ヒヒーンといななき、遠くから戦いをかぎつけ、隊長の怒号と、ときの声を聞きつける。

 戦いのときに、すぐれた勇士として戦うことができます。その恐れなき姿は訓練して身につけたものではなく、本能です。神が与えたところの本能です。

6C 鷹 26−30
39:26 あなたの悟りによってか。たかが舞い上がり、南にその翼を広げるのは。39:27 あなたの命令によってか。わしが高く上がり、その巣を高い所に作るのは。39:28 それは岩に宿って住み、近寄りがたい切り立つ岩の上にいる。39:29 そこから獲物をうかがい、その目は遠くまで見通す。39:30 そのひなは血を吸い、殺されたものがある所に、それはいる。

 鷹ですが、猛禽と呼ばれる動物です。肉を食い、血を吸います。獰猛ですが40章、41章にはさらに獰猛、恐ろしい生き物がでてきます。

 神は私たちに知らせたいのです。私たちは被造物に過ぎないことを。そして神の主権の中で生きている存在にしか過ぎないことを、です。しかし、神は機械のように人間を軽くあしらっておられるのではありません。むしろ、最善のことをお考えになっておられます。私たちは、運命を信じていません。けれども摂理は信じています。今、何が起こっているかさっぱりわからない。しかし、主に服従しているとき、そこに神の作品として造られた私たちから神の栄光が現われます。


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