ヨシュア記1−2章 「信仰の死守」

アウトライン

1A 信仰による勝利 1
   1B 領土の約束 1−9
   2B 人々からの確認 10−18
2A 信仰による義 2
   1B 遊女ラハブ 1−7
   2B 赤いひも 8−24

本文

 今日からヨシュア記を学びます。今日は1−2章を学びます。メッセージ題は、「信仰の死守」です。

1A 信仰による勝利 1
1B 領土の約束 1−9
 さて、主のしもべモーセが死んで後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。

 私たちは、これまでモーセ五書と呼ばれる書物を学んできました。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、そして申命記です。これらはみな、モーセによって書かれたものであり、イスラエル人の信仰生活の土台となる書物です。そのモーセが死に、今新しくイスラエルの指導者のヨシュアに対して、神がお語りになっているところです。

 ヨシュアについて、このときまでの生涯を思い出しましょう。ここに書かれているとおり、ヨシュアは「モーセの従者」でした。モーセのかばん持ちです。彼が行くところに行き、モーセが必要なものをすぐに用意するような、いわば小間使いです。ヨシュアが初めに登場するのは、イスラエルがホレブ、シナイ山に向かっているとき、アマレク人に襲われたときです。イスラエル人がアマレク人と戦うために、モーセはヨシュアをその指導者にしました。モーセは丘の上で、アロンとフルに助けられながら、手を上げて、イスラエル人に勝利をもたらしました。

 モーセがシナイ山で、40日40夜主から律法を受けていたときに、ヨシュアは山の途中でモーセを持っていました。ふもとから声が聞こえ、それがいくさの声だと思いましたが、モーセは、「歌を歌う声である。」と言いました(出エジプト32章参照)。

 そして次にヨシュアが現われるのは、民数記11章においてです。イスラエル人たちが、「肉が食べてえ。エジプトには、にら、きゅうり、すいか、にんにくを食べていた。」とつぶやいたときに、モーセが自分に押しかかる重荷に耐えきれなくなりそうになっていました。主は、70人の長老を選んで、その重荷を分担しなさいと命じられました。七十人は主の天幕のところで、モーセに与えられていた霊が与えられ恍惚状態になりましたが、宿営に残っていた二人の長老も、その場で恍惚状態になりました。その時に、モーセの従者であったヨシュアは、「わが主、モーセよ。彼らをやめさせてください。」とお願いしました。モーセは、「私のことでねたんでいるのか。主の民がみな、預言者となればよいのに。」と言っています。

 そして次に登場するのが、民数記13章、あの12人のイスラエル人が約束の地に、偵察に行ったときのことです。ここに、16節ですが、「そのときモーセはヌンの子ヨホセアをヨシュアと名づけた。」とあります。「ヨシュア」という名前は、「ヤホ・シュア」の短縮形です。ヤホはヤハウェのこと、シュアは救いを意味します。ですから、ヨシュアは「主は救い」という意味です。

 マタイによる福音書1章を開いてください。21節に、マリヤの夫ヨセフが、御使いから、生まれてくる子について、こう告げられました。「その名をイエスと名づけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」「イエス」という名前は、「ヨシュア」というヘブル語のギリシヤ語読みです。ですから、ヨシュアはイエスと同じであり、ヨシュア記はギリシヤ語に直すと、「イエス記」となるのです。ここに、ヨシュア記を学ぶときの意義を見出します。

 そして次にヨシュアが現われるのは、同じくガデシュ・バルネアにおいて、カレブとともに、約束の地に入って、その地に住んでいる住民を倒すことができることのを信じていた人です。他のイスラエル人は、神の約束を信じなかった、その不信の罪のゆえに、荒野を40年間さまよって、荒野の中で死んでいきました。生き残ったのはヨシュアとカレブだけです。このように、ヨシュアは、モーセの従者であり、約束の地に入ることを信じていた人でした。

 わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。

 「モーセは死んだ」というこの一言は、重い響きを持ちます。なぜなら、モーセは、イスラエルの民を約束の地に導くために、80歳という年寄りであったにも関わらず、エジプトに行き、パロと対決し、イスラエルと苦しみをともにして、荒野の旅をともに歩んだ人でした。けれども、荒野の生活を40年したその40年目に、イスラエルが水を飲みたいといったそのつぶやきに腹を立てて、主が聖なる方であることを、人々の前で表しませんでした。たった、この一回の失敗によって、彼は約束の地に入ることができませんでした。

 けれども、それには大きな意味があります。岩に命じなさいと主が言われたのは、すでに一度、岩を打ちなさいと命じておられたからです。コリント書には、この岩はキリストであると書かれていますが、キリストは一度、打たれ、そして死に、その死によって人々に生ける水を与えるようにされたという意味があるからです。モーセは、キリストを預言しなければいけない人物だったのに、彼も不信仰によって、岩を再び打って、キリストを表すことに失敗したのです。

 モーセは律法の代表者でした。イスラエルの民が、シナイ山にいたときに、「主が命じられることは、みな守り行ないます。」と言ってから、何度も何度も主の戒めを破って、ついに荒野をさまようことになりましたが、人は律法によって、決して神の約束を受け継ぐことはできないことを見事に表していたのです。モーセもまた、律法を代表する者として、約束のものを手に入れず、死ななければならなかったのです。

 しかし今、ヨシュアは約束の地に入ることになります。モーセが律法を代表しているのに対して、ヨシュアは、「信仰」を代表しています。約束の地に入ることをヨシュアは信じましたが、信仰にふみとどまることによって、実際に約束を相続する者となりました。パウロがガラテヤ書において、律法によって約束を受け継ぐことはできないと力説しましたが、神さまが私たちに与えてくださっている霊的祝福の約束は、ただ信仰によって受け継ぐものなのです。

 ここに「ヨルダン川を渡り」とあります。以前、モーセは、イスラエルの民と紅海を渡りましたが、それは水のバプテスマを表していると、パウロはコリント書の中で話しています(1コリント10:2)。罪に支配されていた自分が死に、キリストとともによみがえることを、あの紅海は表していました。そして、荒野の旅は、救われた者たちがいかに、肉に対して死んでいかければいけないかを表した出来事です。約束のものは手に入れることはできなかったのですが、それは、信仰がなかったからであり、主に対してではなく、自分に対して生きようとしていたからです。

 けれども、ヨルダン川は、「自分の死」を表します。罪に対して自分は死んでいるとみなし、キリストによってよみがえらされた者として生きます。神に約束されている霊的祝福を、信仰によって自分のものにしていきます。肉ではなく、御霊によって導かれます。私たちは、神からすばらしい約束が与えられているのにも関わらず、それをまだ自分のものにしていないことが、たくさんあるのではないでしょうか?それは、まだ自分が死んでおらず、まだ御霊に自分を明け渡していない部分があるからです。ヨシュア記では、キリストを信じる信仰によって生きて、実際にその霊的祝福を自分のものにしていく、信仰の勝利のあかしを読んでいきます。

 そこで、「ヨシュア」という名前も意味を持っています。律法に対して死んだ私たちが、イエスに対して生きるとき、約束を相続することができる、というレッスンです。

 あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。

 「あなたがたに与えている」という言葉は、「あなたがたに与えた」という完了形になっています。すでに約束は、モーセを通して与えられているのです。そこは、すでにヨシュアたちのものなのです。けれども、「足の裏で踏んで」いかなければいけません。実際に、その土地に入っていって、「これは私たちのものである」と、その所有権を主張しなければいけません。これを「信仰」と言います。私たちは、「神を信じている」と口では言いますが、具体的な生活の領域において、本当に神を信じているかどうか分からない、肉が生きて働いている部分があります。けれども、その部分を、自分の行ないではなく、キリストがすでに十字架のうえで行なってくださったわざを信じることによって、「この肉の行ないは、もう死んでいるのだ。私はクリスチャンなのだ。新しく造られたものなのだ。」とみなさなければいけないのです。足の裏で踏んでいく作業が必要なのです。

 あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。

 北は遠く、レバノンとユーフラテス川まで、そして地中海沿岸までと南は、ガデシュ・バルネアの方面に至るまでです。ヨシュア記は、大きく二つに区切りをつけることができますが、1章から12章までと、13章から24章までです。前半部分にて、ヨシュアたちが土地を占領して、戦争が止みました。ですから前半部分には、「土地の占領」について書かれています。そして13章からは、「土地の相続」について書かれています。イスラエル十二部族が、それぞれ割り当ての地を相続することになります。

 あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。

 三つの約束があります。一つは、「あなたの前に立ちはだかるものはいない」という約束です。すでに、ヨシュアは勝利しています。その勝利を信仰によって自分のものにしていきます。クリスチャンも同じです。キリストが十字架によって、悪魔を敗北させました。この世界はすでに、キリストのものとなっています。悪魔は、自分のものではないところで不法に動いています。けれども、キリストのうちにある者は、キリストにあってすでに勝利しているので、その勝利を宣言すれば良いのです。ヨハネはこう言いました。「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。(1ヨハネ5:4)

 二つ目の約束は、「あなたとともにいよう」です。イエスさまも、弟子たちに、「世の終わりまで、わたしはあなたがたとともにいる」と約束してくださいました。信仰によって歩んでいる人には、主のご臨在の約束が与えられています。そして、三つ目に、「あなたを見放さず、あなたを見捨てない」という約束です。主が途中で自分を見捨てるのではなく、最後まで真実を尽くしてくださることの約束です。

 強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。

 「強くあれ。雄々しくあれ。」という有名な言葉です。ヨシュアは、おそらく恐れていたのでしょう。これまでお手伝いさんとしてモーセに付いて来たのですが、今度は自分自身が何百万のイスラエル人を率いらなければいけないのです。とてつもない責任感に押しつぶされそうになっていたのかもしれません。そこで、「強くあれ、雄々しくあれ」と励ましておられます。

 ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。

 主は再び、「強く、雄々しくあれ」と命じておられますが、「ただ強く、雄々しくあれ」と言われています。彼が行なうことは、新しいことではなく、「わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法」を守り行なうだけです。ヨシュアがすることは、たくさんではありません。いやただ一つです。すでに与えられた律法を守ることです。

 私たちはモーセ五書を学んでいた時に、そこにはキリストの救いのみわざと、またクリスチャンの信仰生活が示されていることを学びました。律法の中に、信仰についての奥義が秘められています。ヨシュア記を私たちクリスチャンに当てはめるなら、それは、「すでに完成されたキリストのみわざの中に、とどまること」と言うことができるでしょう。コロサイ書には、こう書いてあります。「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。(2:6−7)」これから新しい経験をして、これから新しい知識を得るのではなく、すべての知識と知恵がキリストのうちに隠されており、キリストにあって完全であり、私たちはキリストを経験します。ただ、キリストのうちにとどまることが私たちの務めです。

 この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。

 今、新約聖書ではヤコブの手紙を学んでいますが、一心にみことばを見つめて離れない人は、事を実行する人となります、と書かれています(1:25)。

 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」

 主が三度も、「強くあれ、雄々しくあれ」と励ましておられます。

2B 人々からの確認 10−18
 そこで、ヨシュアは民のつかさたちに命じて言った。「宿営の中を巡って、民に命じて、『糧食の準備をしなさい。三日のうちに、あなたがたはこのヨルダン川を渡って、あなたがたの神、主があなたがたに与えて所有させようとしておられる地を占領するために、進んで行こうとしているのだから。』と言いなさい。」

 あと三日で、ヨルダン川を渡ります。宿営の中を巡って、食べ物の準備をさせました。

 ヨシュアは、ルベン人、ガド人、およびマナセの半部族に、こう言った。「主のしもべモーセがあなたがたに命じて、『あなたがたの神、主は、あなたがたに安住の地を与え、あなたがたにこの地を与える。』と言ったことばを思い出しなさい。あなたがたの妻子と家畜とは、モーセがあなたがたに与えたヨルダン川のこちら側の地に、とどまらなければならない。しかし、あなたがたのうちの勇士は、みな編隊を組んで、あなたがたの同族よりも先に渡って、彼らを助けなければならない。

 覚えていますか、ヨルダン川の東岸、エモリ人が住んでいたところは、すでにモーセによって占領していました。そこに、ルベン族、ガド族、そしてマナセの半部族が、ここを所有地にしたいと願い出ました。モーセは初め怒りましたが、彼らのうち成年男子が、イスラエルとともにヨルダン川を渡り、ともに戦うことをすれば、ここを所有することができると約束しました。それでヨシュアが今、彼らに戦士たちを出すように命じています。

 主が、あなたがたと同様、あなたがたの同族にも安住の地を与え、彼らもまた、あなたがたの神、主が与えようとしておられる地を所有するようになったなら、あなたがたは、主のしもべモーセがあなたがたに与えたヨルダン川のこちら側、日の上る方にある、あなたがたの所有地に帰って、それを所有することができる。

 ヨシュア記の後半部分に、確かに彼らが他のイスラエル人と戦って、ヨルダン川東岸を相続の地とすることが書かれています。

 彼らはヨシュアに答えて言った。「あなたが私たちに命じたことは、何でも行ないます。また、あなたが遣わす所、どこへでもまいります。私たちは、モーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。ただ、あなたの神、主が、モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように。」

 彼らは、モーセだけでなくヨシュアにも忠誠を誓いました。

 あなたの命令に逆らい、あなたが私たちに命じるどんなことばにも聞き従わない者があれば、その者は殺されなければなりません。ただ強く、雄々しくあってください。

 イスラエル人たちから、「ただ強く、雄々しくあってください」と言われています。主に語りかけられたヨシュアは、この人々のことばで確認することができたことでしょう。これは、確かに主のみこころである。土地を占領し、イスラエル人に割り当ての地を与えることに、大きな不安をおぼえるが、何度もこうやって、鼓舞されているのだ、と思ったことでしょう。

2A 信仰による義 2
 けれども、ヨシュアは、さらに確認をします。ヨルダン川の向こう側にスパイを送ることに決めます。

1B 遊女ラハブ 1−7
 ヌンの子ヨシュアは、シティムからひそかにふたりの者を斥候として遣わして、言った。「行って、あの地とエリコを偵察しなさい。」

 私はギデオンを思い出します。ギデオンは、ミデヤン人と戦うときに、本当にこれが主のみこころであるのかどうかを、何度も確認しました。地面の上の羊毛の皮を濡らしてください、またその逆に、地面だけを濡らしてくださいと頼みました。それからミデアン人のところに実際に行った時も、自分ともう一人の若者とで、ミデヤン人の宿営のテントの中の話し声を聞きました。主がこの戦いを勝たせてくださるというしるしでした。ヨシュアも、エリコを陥落させる戦いにおいて、こうした確認を行なっているようです。

 彼らは行って、ラハブという名の遊女の家にはいり、そこに泊まった。

 有名なラハブの名前が出てきました。彼女はいつも「遊女」という職業名が書かれています。これほど不名誉なことはありませんが、けれども、同時に彼女は、信仰の人として二度も、新約聖書に引用されています。一つはヘブル人への手紙11章です。「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。 (31節)」もう一つは、ヤコブの手紙2章です。「同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行ないによって義と認められたではありませんか。(25節)」そしてもちろん、もっとも名誉なことは、マタイによる福音書1章にある、イエス・キリストの系図の中に、ラハブの名が連ねられていることです(5節)。売春婦という汚れた職業をしていても、なおかつ、信仰によって救われ、また神の祝福を受け継ぐ者にさせていただいた、その話しをこれから読んでいきます。

 エリコの王に、「今、イスラエル人のある者たちが、今夜この地を探るために、はいって来ました。」と告げる者があったので、エリコの王はラハブのところに人をやって言った。「あなたのところに来て、あなたの家にはいった者たちを連れ出しなさい。その者たちは、この地のすべてを探るために来たのだから。」ところが、この女はそのふたりの人をかくまって、こう言った。「その人たちは私のところに来ました。しかし、私はその人たちがどこから来たのか知りませんでした。その人たちは、暗くなって、門が閉じられるころ、出て行きました。その人たちがどこへ行ったのか存じません。急いで彼らのあとを追ってごらんなさい。追いつけるでしょう。」彼女はふたりを屋上に連れて行き、屋上に並べてあった亜麻の茎の中に隠していたのである。

 ラハブは、二人のスパイをかくまい、命を助けました。ここで、「ラハブは嘘をついた」と咎める人が多くいます。私は、そのような判断を下したくありません。なぜなら、聖書がラハブについて、悪いことを言っていないからです。むしろ、今引用したように、ヤコブの手紙では、このかくまった行為が、彼女が義と認められるところの行ないであった、と書かれています。今、注目すべきことは、表面的な正しい行ないではなく、ラハブが根底に持っていた、とてつもない信仰です。

 彼らはその人たちのあとを追って、ヨルダン川の道を渡し場へ向かった。彼らがあとを追って出て行くと、門はすぐ閉じられた。

2B 赤いひも 8−24
 ふたりの人がまだ寝ないうちに、彼女は屋上の彼らのところに上って来て、その人たちに言った。「主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちはあなたがたのことで恐怖に襲われており、この地の住民もみな、あなたがたのことで震えおののいていることを、私は知っています。あなたがたがエジプトから出て来られたとき、主があなたがたの前で、葦の海の水をからされたこと、また、あなたがたがヨルダン川の向こう側にいたエモリ人のふたりの王シホンとオグにされたこと、彼らを聖絶したことを、私たちは聞いているからです。

 ラハブは、彼らの神を「主」「ヤハウェ」と呼んでいます。彼女はすでに、この方を深く知っています。それは、あのエジプトでの出来事がこのエリコの町にも伝わっていたからです。主は、エジプト人を滅ぼすのは、わたしが主であることを知るためである、とかつて言われましたが、確かに世界中で、出エジプトの出来事が伝わり、天地を創造された神がおり、彼はイスラエルの神であり、ヤハウェであることが知らされていたのです。また、ヨルダン川の東岸で、イスラエルがエモリ人の王を倒したことも聞いていました。

 この話しを聞いて、ラハブはイスラエルの神を恐れ、主を信じたのです。神についての知識はわずかであったでしょう。また、彼女は遊女であり、悪い行ないをしていた者でした。しかし、聖書は、人が救われるのは、その人が善人だからでなく、キリストを信じる信仰によると言っています。私たちは、このようにして、聖書の知識を積み上げていますが、これによって私たちは正しくされるのではありません。わずかな知識でも、そのことを真剣に受けとめ、それを信じるとき、その信仰によって神から義と認められるのです。

 彼女の信仰は、イスラエル人のスパイをかくまうところに現われていました。頭の知識ではなく、本当に信じていたので、そのような行ないができたのです。

 私たちは、それを聞いたとき、あなたがたのために、心がしなえて、もうだれにも、勇気がなくなってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。

 すばらしい信仰宣言をしています。あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神である、他に神々はいない。この方のみが、あがめられるべきかたであるという信仰の立場です。

 どうか、私があなたがたに真実を尽くしたように、あなたがたもまた私の父の家に真実を尽くすと、今、主にかけて私に誓ってください。そして、私に確かな証拠を下さい。私の父、母、兄弟、姉妹、また、すべて彼らに属する者を生かし、私たちのいのちを死から救い出してください。」

 これからエリコが神によってさばかれることを知っていたラハブは、彼らに救いを願っています。

 その人たちは、彼女に言った。「あなたがたが、私たちのこのことをしゃべらなければ、私たちはいのちにかけて誓おう。主が私たちにこの地を与えてくださるとき、私たちはあなたに真実と誠実を尽くそう。」そこで、ラハブは綱で彼らを窓からつり降ろした。彼女の家は城壁の中に建て込まれていて、彼女はその城壁の中に住んでいたからである。

 一つの家がすっぽり入るほど、エリコの城壁は厚かったようです。後で、イスラエル人のときの声で、この城壁はがたがたと崩れ落ちます。

 彼女は彼らに言った。「追っ手に出会わないように、あなたがたは山地のほうへ行き、追っ手が引き返すまで三日間、そこで身を隠していてください。それから帰って行かれたらよいでしょう。」その人たちは彼女に言った。「あなたが私たちに誓わせたこのあなたの誓いから、私たちは解かれる。私たちが、この地にはいって来たなら、あなたは、私たちをつり降ろした窓に、この赤いひもを結びつけておかなければならない。

 単なるひもではなく、赤いひもです。

 また、あなたの父と母、兄弟、また、あなたの父の家族を全部、あなたの家に集めておかなければならない。あなたの家の戸口から外へ出る者があれば、その血はその者自身のこうべに帰する。私たちは誓いから解かれる。しかし、あなたといっしょに家の中にいる者に手をかけるなら、その血は私たちのこうべに帰する。だが、もしあなたが私たちのこのことをしゃべるなら、あなたが私たちに誓わせたあなたの誓いから私たちは解かれる。」

 赤いひもをたらして、その家の中にとどまることによって、彼らは死なずにすみます。イスラエル人は、その赤いひもを見て、その家にいる人々を聖絶しないようにします。似たような出来事が、過越の祭りでありました。それぞれの家の門柱と鴨居に子羊の血をあてがいましたが、死の御使いは、その血を見ると、その家を過ぎ越し、その他の家に入って、その家の長男を殺していきました。その中に入っている人が、善人であろうが、悪人であろうが、まったく関係ありません。学歴も学位も何ら関係ありません。ただ、子羊の血があるかどうかが問題だったのです。

 子羊の血も、またここの赤いひもも、キリストが流された血を表しています。キリストが流された血を、自分のものとして受け取っている人は、その血を見て、神は私たちの罪を赦して、その怒りを下すことはなさいません。私たちがどのようなものであるかは、問われないのです。そうではなく、神は、キリストの血をその人のうちに与えられているかどうかを見るのです。

 ラハブは言った。「おことばどおりにいたしましょう。」こうして、彼女は彼らを送り出したので、彼らは去った。そして彼女は窓に赤いひもを結んだ。彼らは去って山地のほうへ行き、追っ手が引き返すまで三日間、そこにとどまった。追っ手は彼らを道中くまなく捜したが、見つけることができなかった。

 スパイたちは、追っ手に見つけられることなく、無事でした。

 ふたりの人は、帰途につき、山を下り、川を渡り、ヌンの子ヨシュアのところに来て、その身に起こったことを、ことごとく話した。それから、ヨシュアにこう言った。「主は、あの地をことごとく私たちの手に渡されました。そればかりか、あの地の住民はみな、私たちのことで震えおののいています。

 ヨシュアは、ここで確認することができました。確かに、主がエリコを私たちの手に渡されていることが分かりました。

 次回は、ヨルダン川を渡るところを学びます。


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