ヨシュア記20−22章 「正しい判断」


アウトライン


1A 町の配置において 20−21
   1B 逃れの町 20
   2B レビ人の町 21
     1C 霊的影響 1−42
     2C みことばの成就 43−45
2A 築かれた祭壇について 22
   1B ヨルダン川の向こう側 1−9
   2B 戦いの危機 10−34
      1C 主への反逆 10−20
      2C 後の世代の間の証拠 21−34

本文

 ヨシュア記20章を開いてください。今回は20章から22章までを学びます。ここでのテーマは、「正しい判断」です。私たちは前回、13章から19章までを学びました。13章から、ヨシュア記の中で大きな区切りとなっており、1章から12章は、戦いのことが書かれており、13章から最後までに、相続のことが書かれています。12章までに、ヨシュアが率いるイスラエルがどのようにして、主によって約束されている土地を占領していったのかが書かれており、13章からはその占領した土地をイスラエル十二部族の部族ごとに割り当てる記事が載っています。

 ヨシュア記全体のテーマは、「信仰による約束の獲得」と言えるでしょう。ヨシュア記の最初のところに、「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。(1:3)」とあります。創世記から申命記まで「モーセ五書」とも呼ばれる、主がモーセに与えられた約束を、今、イスラエルが実際に手にしていくのを、このヨシュア記で読むことができます。約束が与えられているのですが、その約束が自分のものとなるためには、信仰が必要です。「この約束は私のものです。」と、信仰によって一歩踏み出すことが必要です。

 私たちには、神がキリストにあって、数多くのことを約束してくださり、すでに多くのことを実現してくださいました。私たちの罪を赦し、罪から私たちをきよめ、義と認めてくださり、聖なる者としてくださいました。神の子どもとしてくださり、神の相続人としてくださいました。キリストにあって、男も女も、ユダヤ人もギリシヤ人も一つになり、キリストをかしらとした、キリストのからだの中に入れられます。けれども、これらの約束を、私たちの普段の生活の中で体験するには、信仰によって、これら神のみことばを受け入れていかなければいけないのです。「私は新しい人となった、というあなたのことばはその通りです。でも、まだ古い自分がたくさん残っています。」と言っているのであれば、それはまだ、信じていないのです。そうではなく、「私はキリストにあって、新しく造られた者なのですね。古いものは過ぎ去ったのですね。すべてが、新しくなったのですね。本当ですか!わあ、うれしい!ハレルヤ!」となったら、それは信仰によって神のみことばを受け入れています。神のことばを、自分のものとして受け入れていくことによって、実際に神の約束を体験していくことができます。

1A 町の配置において 20−21
 ですから、前回の学びでは、主がモーセを通して約束された、カナン人の土地をイスラエル十二部族ごとに割り当てた部分を読みました。そこで20章に入ります。

1B 逃れの町 20
 主はヨシュアに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた、のがれの町をあなたがたのために定め、あやまって、知らずに人を殺した殺人者が、そこに逃げ込むことのできるようにしなさい。その町々は、あなたがたが血の復讐をする者からのがれる場所となる。

 「のがれの町」を定めることを、主はヨシュアに命じられています。のがれの町というのは、ここに書いてあるとおり、あやまって知らずに人を殺してしまった人が、殺された人の家族が血の復讐をすることから守られるための場所です。

 のがれの町を定めることも、相続地の割り当てとともに、モーセはイスラエルに命令していたことでした。民数記35章を開いてください。民数記35章9節から読みます。「主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて、彼らに言え。あなたがたがヨルダンを渡ってカナンの地にはいるとき、あなたがたは町々を定めなさい。それをあなたがたのために、のがれの町とし、あやまって人を打ち殺した殺人者がそこにのがれることができるようにしなければならない。この町々は、あなたがたが復讐する者から、のがれる所で、殺人者が、さばきのために会衆の前に立つ前に、死ぬことのないためである。あなたがたが与える町々は、あなたがたのために六つの、のがれの町としなければならない。ヨルダンのこちら側に三つの町を与え、カナンの地に三つの町を与えて、あなたがたののがれの町としなければならない。これらの六つの町はイスラエル人、または彼らの間の在住異国人のための、のがれの場所としなければならない。すべてあやまって人を殺した者が、そこにのがれるためである。(9−15節)

 そして15章22節から、さらに詳しい説明が書かれています。「もし敵意もなく人を突き、あるいは悪意なしに何か物を投げつけ、または気がつかないで、人を死なせるほどの石を人の上に落とし、それによって死なせた場合、しかもその人が自分の敵でもなく、傷つけようとしたのでもなければ、会衆は、打ち殺した者と、その血の復讐をする者との間を、これらのおきてに基づいてさばかなければならない。会衆は、その殺人者を、血の復讐をする者の手から救い出し、会衆は彼を、逃げ込んだそののがれの町に返してやらなければならない。彼は、聖なる油をそそがれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければならない。もし、その殺人者が、自分が逃げ込んだのがれの町の境界から出て行き、血の復讐をする者が、そののがれの町の境界の外で彼を見つけて、その殺人者を殺しても、彼には血を流した罪はない。その者は、大祭司が死ぬまでは、そののがれの町に住んでいなければならないからである。大祭司の死後には、その殺人者は、自分の所有地に帰ることができる。(22−28節)」民数記35章の他に、申命記19章においても書かれています。

 ですから、今、主がモーセを通して命じられたことを、ヨシュアに思い起こされて、今それを実行するように命じられています。面白いですね、ヨシュアだって、数年前にモーセからこのことばを聞いていましたが、ヨシュアは主によって再びこれを語られているのです。私たちも同じです。聖書のことばがあり、頭の中では、「こんなこと書いているなあ」と知識としては知っていますが、それらのことを実際に行動に移すわけではありません。けれども、聖霊が、みことばを実行に移さなければいけないその瞬間に思い起こさせてくださり、それで私たちは、聖霊のその声に聞き従って、みことばを実行するようになるのです。

 そして、「血の復讐をする者」ですが、古代の社会において、殺人者に罰を与える方法として、殺された家族の一員が、殺人者を殺す習慣がありました。今で言う「死刑」ですが、これを家族が執行するということです。現代においても、パレスチナ自治区や、レバノンなど、アラブ人の中でこの習慣が残っています。けれども、モーセの律法は、殺人者ではなく、事故によって人を殺してしまった場合(日本語ではこれを“故殺”と言いますが)、必ずその命が守られて、法廷においてきちんと判決が下されるまで、その加害者を保護することを命じているのです。

 人が、これらの町の一つに逃げ込む場合、その者は、その町の門の入口に立ち、その町の長老たちに聞こえるように、そのわけを述べなさい。彼らは、自分たちの町に彼を受け入れ、彼に一つの場所を与え、彼は、彼らとともに住む。

 当時は、町は城壁に囲まれていました。エリコの町を思い出してください、城壁がありましたね。そして、その町の門は、今でいうところの役所があります。そこに町の長老がおり、行政や裁判を行なっていたのです。急いで逃げている人は、町の門のところで、事故で人を殺してしまったことを告げます。そうしたら、長老たちは彼を町の中に招きいれて、彼に住むところをあてがいます。

 たとい、血の復讐をする者がその者を追って来ても、殺人者をその手に渡してはならない。彼は知らずに隣人を打ち殺したのであって、以前からその人を憎んでいたのではないからである。

 モーセは申命記19章にて、知らずに誤って人を殺してしまった具体例を挙げています。「たとえば、木を切るため隣人といっしょに森にはいり、木を切るために斧を手にして振り上げたところ、その頭が柄から抜け、それが隣人に当たってその人が死んだ場合、その者はこれらの町の一つにのがれて生きることができる。(5節)」斧の頭が自分の友人に当たって死なせてしまうのは、もともと殺意があって行なったことではありません。

 その者は会衆の前に立ってさばきを受けるまで、あるいは、その時の大祭司が死ぬまで、その町に住まなければならない。それから後、殺人者は、自分の町、自分の家、自分が逃げて来たその町に帰って行くことができる。

 殺してしまった人が自分が住んでいた町に戻ることができるのは、会衆の前に立つ、つまり裁判を受けて故殺であり、無罪であるという判決を受けることによってですが、その他に、大祭司が死んだときに出て行くことができます。なぜ、大祭司が死ぬと出て行くことができるのか、その直接的な理由は分かりませんが、けれども、新約聖書の啓示の光に照らすと、面白いことを発見します。

 まず、「のがれ」ということを考えてみましょう。英語ではrefugeですが、日本語では「避け所」という言葉でも出てきます。この言葉は、詩篇の中にたくさんあります。「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。(46:1)」「しかし主は、わがとりでとなり、わが神は、わが避け所の岩となられました。(94:22)」などです。そして、ヘブル人への手紙6章18節には、次のように書かれています。「それは、変えることのできない二つの事がらによって、・・・前に置かれている望みを捕えるためにのがれて来た私たちが、力強い励ましを受けるためです。」ヘブル人への手紙の、この箇所においては、前に置かれている望みとは、イエス・キリストご自身であり、天において大祭司となられたイエスに対する望みです。イエスご自身が、私たちがのがれて来るべき避けどころであり、励ましを受ける場所であります。

 ですから、故殺によって逃れの町にやって来た人々というのは、今の時代で言うと、イエス・キリストのところにのがれて来て、この方に望みをかけているのと同じです。私たちは、キリスト・イエスにあって、安全です。この方のうちにいれば、罪に定められることは決してないし、罪の報酬である死と、死後のさばきからも免れることができます。ですから私たちは、キリストのうちにいることをますます、自分の確信として抱いていなければいけないのです。

 そこで大祭司が死ぬということも、イエス・キリストが死なれたことによって、罪が赦されて、義と認められることに当てはめることができます。キリストが流された血によって、私たちは罪の咎めを受けることはなくなりました。

 それで彼らは、ナフタリの山地にあるガリラヤのケデシュと、エフライムの山地にあるシェケムと、ユダの山地にあるキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンとを聖別した。エリコのあたりのヨルダン川の向こう側、東のほうでは、ルベン部族から、高地の荒野にあるベツェルを、ガドの部族から、ギルアデのラモテを、マナセ部族から、バシャンのゴランをこれに当てた。

 ここに書かれてある、のがれの町の位置をイスラエル地図によって確かめると、地図の中にまんばんなく、ほぼ等間隔で散らばっているのを確認することができます。(ヨルダン川の西側に、北と中央と南に、三つの逃れの町があり、ヨルダン川の東側にも、北と中央と南にあります。)実は、このことも主がモーセを通して命じられていたことでした。「あなたは距離を測定し、あなたの神、主があなたに受け継がせる地域を三つに区分しなければならない。殺人者はだれでも、そこにのがれることができる。(申命記19:3」イスラエルの地のどこに住んでいても、逃げてくることができるように、神が配慮してくださっています。

 これらは、すべてのイスラエル人、および、彼らの間の在留異国人のために設けられた町々で、すべて、あやまって人を殺した者が、そこに逃げ込むためである。会衆の前に立たないうちに、血の復讐をする者の手によって死ぬことがないためである。

 イスラエル人だけではなく、在留異国人にも逃げてくる権利が与えられています。モーセの律法は、イスラエル人と在留異国人に等しく、さばきの物差しを当てています。神はえこひいきされる方ではなく、公平な方です。

2B レビ人の町 21
 それでは21章に入りましょう。

1C 霊的影響 1−42
 そのとき、レビ人の一族のかしらたちは、祭司エルアザルとヌンの子ヨシュアとイスラエル人諸部族の一族のかしらたちのところに来て、カナンの地のシロで、彼らに告げて言った。「主は、私たちに住むべき町々と、家畜のための放牧地とを与えるよう、モーセを通して命じられました。」それで、イスラエル人は、主の命令で、彼らの相続地から、次の町々とその放牧地とをレビ人に与えた。

 イスラエルの諸部族に、割り当ての地が与えられて、次に逃れの町が定められましたが、最後にレビ人たちに与えられる町々とその放牧地があります。レビ人には相続地は与えられませんでした。それは、レビ人は、主の幕屋にて礼拝という奉仕が与えられていたからです。けれども主は、主への奉仕が彼らの割り当てであり、また主ご自身が彼らの割り当てであると言われました(ヨシュア13:14,33)。新約においては、キリスト者が、主に対して祭司であると呼ばれているのを思い出せますか?(1ペテロ2:9)私たちが相続するもので、もっとも偉大なのは、主ご自身であり、主に礼拝をささげることです。主とともに住むことが、もっとも大きな富であり宝であります(黙示7:15)

 レビ人にはこのように相続地は与えられていませんが、城壁で囲まれていた町が与えられ、その回りに家畜を育てる放牧地が与えられました。神からの相続が与えられるときに、主への奉仕者であるレビ人が最後であったということも、印象深いです。大きな特権にあずかっているレビ人ですが、けれども、仕える者の姿を取り、しもべの姿を取っていました。イエスさまが、「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。(マルコ10:43)」と言われました。

 ところで、彼らが集まっているところは、「シロ」です。覚えていますか、第一サムエル記1章にて、エルカナとハンナが主を礼拝しに行くとき、そこはシロでした。エルサレムからバスで30分ほど北上したところにありますが、ダビデが神の箱をエルサレムに持ってくるまでは、このシロに主の幕屋が置かれて、シロが主に礼拝をささげる場所でした。ちなみに、それまではヨルダン川を渡ったところにあるギルガルが、ヨシュアたちが戦うための拠点になっていました。

 ケハテ諸氏族のために、くじが引かれたとき、ユダ部族、シメオン部族、ベニヤミン部族のうちから、くじによって、十三の町がレビ人の祭司アロンの子孫のものとなった。エフライム部族、ダン部族、マナセの半部族から、十の町がくじによって残りのケハテ族のものに、イッサカル部族の諸氏族、アシェル部族、ナフタリ部族、バシャンのマナセの半部族から、十三の町がくじによってゲルション族のものに、ルベン部族、ガド部族、ゼブルン部族から、十二の町がメラリ族の諸氏族のものになった。

 レビ人の諸氏族が書かれています。同じレビ族でも、その中で氏族に分かれています。一つ目は、アロンの子孫です。次に、ケハテ族がいます。それから、ゲシュルン族で、その時にメラリ族がいます。これら諸氏族の違いを覚えているのは大切です。というのは主の幕屋にて奉仕をするとき、それぞれの分担が異なるからです。民数記3章と4章に彼らの働きが書かれていますので、後でお読みください。アロンの子孫は、幕屋の中で実際に、動物のいけにえをほふり、それを祭壇で燃やし、また聖所の中に入って、パンを供えたり、燭台の油を付けたし、金の香壇に香を盛るなど、実際の礼拝を行ないます。その他のレビ人は、これらアロンの子孫であり祭司である人々を助ける働きをします。ケハテ族は、至聖所の中にある契約の箱を運び出し、供えのパンの机や金の燭代など、非常に聖い用具を運搬すると民数記4章に書かれています。次に、ゲシュルン族は、幕屋の幕を取り外し、運搬することが書かれています。そしてメラリ族は、幕屋の板や台座、釘やひもなどを運搬します。このように、アロンの子孫から、ケハテ族、ゲシュルン族、メラリ族の順番で、より重要、というか、より霊的中心部分の奉仕に携わっていると言えます。

 そこで、彼らに与えられた町々の位置を見ますと、アロンの子孫が、「ユダ族、シメオン族、ベニヤミン族」になっていることに意味を持ちます。当時はエフライム族の相続地にあったシロが、霊的中心地でしたが、後にベニヤミン族の相続地にあるエルサレムが、神殿が建てられるところとなり、霊的中心地になります。またユダ族からメシヤが出てくることが預言されており、霊的にはこの地域が非常に重要になります。神は、将来、中心地がエルサレムになることも見据えて、アロンの子孫に、この土地にある町々を割り当てられたのです。

 そして、エフライム、ダン、マナセ半部族に、ケハテ族の町々が位置します。エルサレムから少し離れます。そして、ゲシュルン族は、アシェル、ナフタリ、バシャンのマナセ半部族の中に町々が与えられます。ケハテ族よりさらに北にあります。最後メラリ族は、ヨルダン川の東にあるルベン、ガド部族と、ゼブルン族の中に町々が与えられます。しだいにエルサレムから離れています。

 イスラエル人は、主がモーセを通して命じたとおりに、これらの町とその放牧地を、くじによってレビ人に与えるとき、ユダ部族、シメオン部族から、次に名をあげる町を与えた。これらは、レビ人に属するケハテ諸氏族の一つ、アロンの子孫のものとなった。・・最初に彼らにくじが当たったからである。・・

 くじで、アロンの子孫が初めに当たりました。主がご介入されているからです。

 彼らには、ユダの山地にあるキルヤテ・アルバ・・アルバはアナクの父・・、すなわちヘブロンとその周囲の放牧地を与えた。しかし、この町の畑とその村々は、エフネの子カレブに、その所有地として与えられた。

 彼らの町のひとつにヘブロンが選ばれましたが、これは特別な町です。カレブが、そこを占領したいと言って、ヨシュアに願い出た町です。そこにアブラハムの墓地があり、霊的にもとても大切な町です。そこで、ここで特記しています。

 祭司アロンの子孫には、殺人者ののがれの町ヘブロンとその放牧地、

 ヘブロンは逃れの町の一つであったことを思い出してください。20章7節に、ヘブロンをイスラエル人が聖別した、とありますね。その他ののがれの町もまた、ケハテ族、ゲシュルン族、メラリ族のそれぞれにあてがわれます。つまり、のがれの町であって、かつレビ人の町でもあるのです。これは大切なことです。あやまって、殺意はないのに殺してしまった人をかくまうときに、単に物理的に保護するだけではなく、霊的にもその人にいろいろな助けを与えることができます。単に会衆による判断ではなく、祭司やレビ人による霊的な判断も下すことができます。

 霊的な判断と、普通一般が判断することは、大きく異なります。普通一般が正しいと思っていたり、許容できると思っていることでも、聖書では罪であるとされていることはたくさんあります。例えば、婚前交渉や中絶は、世の中では許され、推奨さえしていますが、聖書では罪であり、この行為によって、神の怒りを招きます。けれども、逆に、いかなるひどいことを行なった人をも、神の恵みによって罪赦され、きよめられるという判断も持っています。ナチスのアイヒマンという人物が、イスラエルの法廷にて審理を受けていたとき、だれもが彼がこの世から抹消してくれないか、と思ったでしょうが、ユダヤ人でクリスチャンだった人が、牧師が、「彼のために祈ってくれ。彼に聖書を渡したのだ。」と言った話を耳にしてショックを受けたそうです。その時から、ナチスだけでなく、ドイツ人を赦すことを決意したそうですが、どんな極悪人でも、その人が悔い改め、イエスに救いを求めるなら、主は恵みによってその人を天国に招きいれてくださいます。ですから、のがれの町に、祭司がいるというのは、とても大切なことなのです。

 それにリブナとその放牧地、ヤティルとその放牧地、エシュテモアとその放牧地、ホロンとその放牧地、デビルとその放牧地、アインとその放牧地、ユタとその放牧地、ベテ・シェメシュとその放牧地。すなわちこれら二つの部族から九つの町を与えた。またベニヤミン部族の中からも、ギブオンとその放牧地、ゲバとその放牧地、アナトテとその放牧地、アルモンとその放牧地、この四つの町を与えた。それでアロンの子孫である祭司たちの町の総数は、十三の町とその放牧地であった。

 彼らの町は、一つのところに集まっておらず、それぞれの部族の相続地にまんべんなく散らばっています。20節以降は読まないで飛ばしますが、そこにも、ケハテ族、ゲルション族、メラリ族も、それぞれの部族の中に散らばっています。これを地図で見ると、のがれの町と同じように、イスラエルの土地全体に、広がっているのを見ることができます。つまり、イスラエル全体に、レビ人たちの霊的奉仕の影響が、まんべんなく広がることを表しているのです。

 私たちの世界でも同じことが言えるのではないでしょうか?自分の生活で、「ここからはクリスチャンの生活で、ここまではこの世の生活」というように分けてしまっていないでしょうか?日曜日の教会活動が大事で、その他の曜日は、また別物である、と考えたりしないでしょうか?しかし、主はレビ人を一箇所に集めるのではなく、イスラエル全体に広がらせました。私たちが霊的に支配されている領域もまた、全体に広がっていなければいけないのです。

2C みことばの成就 43−45
 それでは、43節に飛びます。ここには、モーセの時、いやアブラハムの時から神が約束されたことが実現したことが書かれています。

 こうして主は、イスラエルの先祖たちに与えると誓った地をすべて、イスラエルに与えられたので、彼らはそれを占領して、そこに住んだ。

 主はイスラエルの先祖たち、つまり、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると言われた土地がありました。創世記に書かれていますが、その約束が与えられたのは、約450年前です。私たちも創世記の学びを始めたのは、もう5年以上も前になりますが、そのときに、神が誓われたことは必ず成就するということを学びました。アブラハムは、その約束の実現を見ることなく死んだのですが、けれども、このように約束はその通りになっているのです。私たちは5年間でさえ、約束の実現をみないでがっかりしたり、あきらめたりすることがありますが、実に神は、450年という時間の間隔をもって、ご自分が誓われたことを果たされました。神のことばは必ず成就するのです。

 主は、彼らの先祖たちに誓ったように、周囲の者から守って、彼らに安住を許された。すべての敵の中で、ひとりも彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。主はすべての敵を彼らの手に渡された。

 イスラエルの民は、絶えず敵からの攻撃に備えていなければいけませんでした。エジプトで苦しめられて、旅の途中でアマレク人から攻撃を受け、そして今、エモリ人、モアブ人、カナン人など、さまざまな敵がいます。けれども、彼らはイスラエルのたちはだかることができません。私たちも、キリストにあって、どのような敵も私たちにはむかうことが出来ません。「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(ローマ8:31)」とパウロは言いました。

 主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわず、みな実現した。

 これもすばらしい言葉です。一つもたがわず、実現しました。かつてアブラハムとサラの間にイサクが与えられたときも、そうでした。こう書かれています。「主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。(創世21:1)」主は約束を守られる方です。

2A 築かれた祭壇について 22
 それでは22章に入ります。

1B ヨルダン川の向こう側 1−9
 そのとき、ヨシュアはルベン人、ガド人、およびマナセの半部族を呼び寄せて、彼らに言った。「あなたがたは、主のしもべモーセがあなたがたに命じたことを、ことごとく守り、また私があなたがたに命じたすべてのことについても、私の声に聞き従った。」


 すべての部族に占領した土地の割り当てを行ない、また、のがれの町と、レビ人の町々を定め、すべての仕事を終えたヨシュアは、今、ヨルダン川東岸に相続地がすでに与えられている、二部族と半部族に声をかけています。ルベン族、ガド族、そしてマナセの半部族は、モーセがすでに戦って、占領した土地を自分たちのものにしていました。ですから、人間的に考えるなら、戦って占領する必要はないわけです。けれどもヨシュアは、ヨルダン川を渡る前に、これら二・五部族に、妻子と家畜をこのヨルダン川東岸に残して、成年男子の勇士たちはともにヨルダン川を渡るよう命令しました。そして、他のイスラエル人たちとともに戦い、すべての戦いが終わって、安住することができるようになったら、自分たちの所有地に戻りなさい、と命令しました。(1章に書かれています。)そして今、彼らはヨシュアの命令を最後まで守りました。

 今日まで、この長い間、あなたがたの同胞を捨てず、あなたがたの神、主の戒め、命令を守ってきた。

 すでに自分の土地が与えられているのだから、自分たちのことだけ考えたら、戦いには行きたくないです。けれども、自分たちのことを度外視して、主の命令にしたがい、他のイスラエル人と思いを一つにしました。ピリピ人への手紙に、こう書いてあります。「テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。しかし、テモテのりっぱな働きぶりは、あなたがたの知っているところです。子が父に仕えるようにして、彼は私といっしょに福音に奉仕して来ました。(2:20−22)」自分のことを考えれば、人はばらばらになります。けれども、キリストを求めるときに、自分を無にして、他の人々のことを考えることができるようになり、そこで思いを一つにすることができるのです。

 今すでに、あなたがたの神、主は、あなたがたの同胞に約束したように、彼らに安住を許された。今、主のしもべモーセがあなたがたに与えたヨルダン川の向こう側の所有地、あなたがたの天幕に引き返して行きなさい。

 他のイスラエル部族にも、土地が与えられ安住できるようになったので、自分たちの家に戻りなさと言っています。

 ただ主のしもべモーセが、あなたがたに命じた命令と律法をよく守り行ない、あなたがたの神、主を愛し、そのすべての道に歩み、その命令を守って、主にすがり、心を尽くし、精神を尽くして、主に仕えなさい。

 ヨシュアは彼らが去る前に、勧めを行なっています。「命令と律法をよく守り行ない」というのは、よく聞き分けて、それに従いなさい、と言い換えることができるでしょう。そして、「主を愛し」それから、自分の歩みが主の道になっているかをよく注意して、そして、主によりたのみながら、一心に主にお仕えまします。この順番が大事ですね。私たちも、キリストの戒めをよく聞いて、聞くだけでなくそれに聞き従います。そして主を愛します。主を愛する愛のゆえに、主の命令に従います。そして主に従います。愛がなくて、ただ従うだけなら、それは律法主義であるし、「主を愛しています」といいながら、みことばによって主が語られていることに従わないのであれば、それは本当に愛していることにはなりません。主を愛して、そして、従います。

 ヨシュアは彼らを祝福して去らせたので、彼らは自分たちの天幕に行った。

 ヨシュアは、勧めだけでなく祝福も与えました。

 ・・マナセの半部族には、モーセがすでにバシャンに所有地を与えていたが、他の半部族には、ヨシュアはヨルダン川のこちら側、西のほうで、彼らの同胞といっしょに所有地を与えた。・・さらに、ヨシュアは彼らを天幕に送り返すとき、彼らを祝福して、次のように彼らに言った。「あなたがたは多くの財宝と、おびただしい数の家畜と、銀、金、青銅、鉄、および多くの衣服とを持って天幕に帰りなさい。敵からの分捕り物はあなたがたの同胞と分け合いなさい。」

 彼らは、多くの財宝とともに帰りました。主にある労苦には報いがあります。彼らは家畜や財宝のような物質的なものでしたが、コリント第一15章58節にはこう書いてあります。「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

 それでルベン族、ガド族、マナセの半部族は、カナンの地にあるシロでイスラエル人と別れ、モーセを通して示された主の命令によって、彼らが得た自分の所有地、ギルアデの地へ行くために帰って行った。

 このように一つ思いになって戦った兵士たちは、おそらく別れるのはちょっとさみしかったのではないかと思いますが、お互いに分かれることになります。

2B 戦いの危機 10−34
 このような出来事の後に、10節から始まる事件が起こります。危うくイスラエル民族内の内戦になる危機です。

1C 主への反逆 10−20
 ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、カナンの地にあるヨルダン川のほとりの地に来たとき、そこ、ヨルダン川のそばに一つの祭壇を築いた。それは、大きくて、遠くから見える祭壇であった。イスラエル人はこういううわさを聞いた。「ルベン族、ガド族、およびマナセの半部族が、カナンの地の国境、ヨルダン川のほとりの地、イスラエル人に属する側で、一つの祭壇を築いた。」


 自分たちの家に戻ったイスラエル人たちは、ヨルダン川東岸に、川のすぐそばに祭壇を造りました。しかも大きな祭壇で、明らかに西岸にいるイスラエル人たちに見せるようなかたちで造られているものでした。

 イスラエル人がそれを聞いたとき、イスラエル人の全会衆は、シロに集まり、彼らといくさをするために上って行こうとした。

 彼らはすぐにシロに集まって、いくさをしようとしました。その理由は一つです。ヨルダン川東岸のイスラエル人たちが、シロにある幕屋の祭壇ではない祭壇をつくり、自分たちで勝手に、イスラエルの神ではない異なる神にささげものをしようとしていると思ったからです。イスラエル人たちは、自分たちの中に罪があれば、大変なことになることを知っていました。そして自分たちで、その罪を取り除かなければいけないことも知っていました。教会も同じですが、内部の人たちをさばくのは、内部の人たちです。パン種がパン粉全体に広がるように、一つの悪が全体に広がってしまいます。そこで彼らが罪を犯しているなら、彼らと戦わなければいけないと思ったのです。

 それでイスラエル人は、祭司エルアザルの子ピネハスを、ギルアデの地のルベン族、ガド族、およびマナセの半部族のところに送り、イスラエルの全部族の中から、一族につき族長ひとりずつ、全部で十人の族長を彼といっしょに行かせた。これらはみな、イスラエルの分団の中で、父祖の家のかしらであった。

 ピネハスは、イスラエルがヨルダン川東岸にいたとき、イスラエルに下った神罰を最小限度に止めることに貢献した人物です。覚えていますか、イスラエルの宿営のモアブ人の女が入ってきて、彼女らがイスラエル人と不品行を行なわせ、モアブ人の神々を拝ませました。そこで、ピネハスは、イスラエル人とモアブ人の女がテントに入っていくのを見て、ふたりを槍で刺し通して殺しました。この行為によって、主は、ピネハスがご自分のねたみを表して、イスラエル人の贖いをした、と言われました(民数記25章)。今も、似たような状況の中、祭司ピネハスが先頭になり、ルベン族、ガド族、マナセ半部族のところに行ったのです。

 彼らはギルアデの地のルベン族、ガド族、およびマナセの半部族のところに行き、彼らに告げて言った。「主の全会衆はこう言っている。『この反逆は何か。あなたがたはきょう、主に従うことをやめて、イスラエルの神に反逆し、自分のために祭壇を築いて、きょう、主に反逆している。』」

 レビ記17章8節、9節にはこう書いてあります。「イスラエルの家の者、または彼らの間の在留異国人のだれであっても、全焼か、または、ほかのいけにえをささげ、それを主にささげるために会見の天幕の入口に持って行かないなら、その者は、その民から断ち切られる。」シロにおける主の幕屋の祭壇以外のところでいけにえをささげたら、その人は断ち切られる、つまり神にさばかれる、ということです。今、そのことにあなたがたは主に反逆していないか、ということです。私たちも、自分の気持ちや感情だけで、好き勝手なことをすれば、このように他の神々を拝んでしまうことになります。霊と真理によって礼拝する、とイエスさまが言われたとおりです(ヨハネ4:23)。

 ペオルで犯した不義は、私たちにとって小さなことだろうか。私たちは今日まで、自分たちの身をきよめていない。そのために、神罰が主の会衆の上に下ったのだ。

 ピネハスは、ペオルすなわち、モアブ人と不品行を行ない、偶像を拝んだあの不義を思い起こさせています。あの時の神罰で死んだのは、二万四千人です。このようになってしまうぞ、ということです。

 あなたがたは、きょう、主に従うことをやめようとしている。あなたがたは、きょう、主に反逆しようとしている。あす、主はイスラエルの全会衆に向かって怒られるだろう。

 さばきにあうのは、ヨルダン川東岸のイスラエル人だけでなく、全会衆に神のさばきが下る、と言っています。

 もしもあなたがたの所有地がきよくないのなら、主の幕屋の立つ主の所有地に渡って来て、私たちの間に所有地を得なさい。私たちの神、主の祭壇のほかに、自分たちのために祭壇を築いて、主に反逆してはならない。また私たちに反逆してはならない。

 
これはすばらしいですね。彼らをいくさによって滅ぼすのではなく、自分たちの相続地を分け合うという痛みによって、罪を取り除こうとしています。彼らが自分たちの土地で割り当て地を得れば、大きな犠牲がともないます。けれどもピネハスは、今、彼らを滅ぼすことを目的にしているのではなく、彼らを愛しているのです。私たちは、「なんだあの人は、罪を犯しているではないか。あの人は教会に来てはならない。」ということは簡単です。けれども、重荷を負うことによって、人々が罪から離れ、回復するように神は、私たちに命じておられます。ガラテヤ書6章1−2節でこう書いてあります。「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。

 ゼラフの子アカンが、聖絶のもののことで罪を犯し、イスラエルの全会衆の上に御怒りが下ったではないか。彼の不義によって死んだ者は彼ひとりではなかった。

 アカンが罪を犯したので、イスラエル全体に神の怒りが下りました。アイとの戦いで、彼らは初め負けてしまいました。そのようなことが起こりますよ、と警告しています。

2C 後の世代の間の証拠 21−34
 そこでルベン族、ガド族、マナセ半部族が応答します。すると、ルベン族、ガド族、およびマナセの半部族は、イスラエルの分団のかしらたちに答えて言った。「神の神、主。神の神、主は、これをご存じです。イスラエルもこれを知るように。もしこれが主への反逆や、不信の罪をもってなされたのなら、きょう、あなたは私たちを救わないでください。」

 彼らは、ヨルダン川西岸の仲間たちが誤解しているのを知っていました。自分たちは、異なる神にささげものをするために、この祭壇を造ったのではないことを知っているからです。けれども、彼らは初めに、主ご自身が知っておられます、と言っています。彼らの心を知っているのは、主ご自身です。私たちは、すべての説明責任を主に対して持っています。私たちは誤解されたとき、その誤解を払拭しようと躍起になりますが、初めに自分の心の動機を調べ、主を避け所とすることが必要です。

 私たちが祭壇を築いたことが、主に従うことをやめることであり、また、それはその上で全焼のいけにえや、穀物のささげ物をささげるためであり、あるいはまた、その上で和解のいけにえをささげるためであったのなら、主ご自身が私たちを責めてくださるように。

 彼らは、なぜピネハスたちが、たたかいをしようとしてやって来たかは、よく理解できます。もし自分たちも、他の部族が異なる神にささげものをしようとするなら、主がさばかれることをよく知っていました。

 しかし、事実、私たちがこのことをしたのは、次のことを恐れたからです。後になって、あなたがたの子らが私たちの子らに次のように言うかもしれないと思いました。「あなたがたと、イスラエルの神、主と何の関係があるのか。主はヨルダン川を、私たちとあなたがた、ルベン族、ガド族との間の境界とされた。あなたがたは主の中に分け前を持っていない。」こうして、あなたがたの子らが私たちの子らに、主を恐れることをやめさせるかもしれません。

 彼らが恐れていたのは、自分たちの子孫が、イスラエルの神、主を忘れてしまうことでした。彼らはシロから離れたところに住んでいます。そして、ヨルダン川という境界があります。一つの川があることは、たとえ距離が近くても、心理的には異なる場所のように感じるでしょう。そこで、ヨルダン川東岸のイスラエル人たちの子孫が、「シロにあるイスラエルの神への祭壇は、あなたがたとは関わりがない。」と言って、自分たちをイスラエルの神から切り離されてしまう恐れがあります。

 それで、私たちは言いました。「さあ、私たちは自分たちのために、祭壇を築こう。全焼のいけにえのためではなく、またほかのいけにえのためでもない。ただ私たちとあなたがたとの間、また私たちの後の世代との間の証拠とし、私たちが、全焼のいけにえとほかのいけにえと和解のいけにえをささげて、主の前で、主の奉仕をするためである。こうすれば、後になって、あなたがたの子らは私たちの子らに、『あなたがたは主の中に分け前を持っていない。』とは言わないであろう。」

 その大きな祭壇は、そこでいけにえをささげるためではなく、祭壇の模型でした。そして、ずっと後になっても、自分たちは主の幕屋でいけにえをささげることができる同胞なのだ、ということを訴えることができます。

 また私たちは考えました。後になって、もし私たち、また私たちの子孫に、そのようなことが言われたとしても、そのとき、私たちはこう言うことができる。「私たちの先祖が造った主の祭壇の型を見よ。これは全焼のいけにえのためでもなく、またほかのいけにえのためでもなく、これは私たちとあなたがたとの間の証拠なのだ。」

 たとえ分け前がない、と言われたとしても、これを証拠として出すことができます。私たちの肉は、自分たちのものを自分たちのものだけにしたい、分派心がありますね。人々に分け与えるのではなく、我々といっしょでなければ与えない、という悪い思いを持っています。そこで彼らは、ヨルダン川という自然の境界線があるのだから、そのようなことが起こるのではないか、と恐れたわけです。

 私たちが、主の幕屋の前にある私たちの神、主の祭壇のほかに、全焼のいけにえや、穀物のささげ物や、他のいけにえをささげる祭壇を築いて、きょう、主に反逆し、主に従うことをやめるなど、絶対にそんなことはありません。

 いけにえをささげるのではない、と訴えています。

 祭司ピネハス、および会衆の上に立つ族長たち、すなわち彼とともにいたイスラエルの分団のかしらたちは、ルベン族、ガド族、およびマナセ族が語ったことばを聞いて、それに満足した。

 ルベン、ガド、マナセ半部族の釈明は、完全に理解してもらえました。

 そしてエルアザルの子の祭司ピネハスは、ルベン族、ガド族、およびマナセ族に言った。「きょう、私たちは、主が私たちの中におられるということを知った。あなたがたが主に対してこの罪を犯さなかったからである。あなたがたは、今、イスラエル人を、主の手から救い出したのだ。」

 主が私たちの中におられる、という言葉が良いですね。主を愛している者の間で、今起こったような誤解が起こる可能性は十分にあります。意思伝達が上手にいかずに、そこで誤解によって互いに対峙したり、あるいは敵対することさえあります。けれども、主がその中にいてくださり、主がその会話を導いてくださったのです。私たちの会話にも、いつも主がその中にいてくださることを祈りましょう。

 こうして、エルアザルの子の祭司ピネハスと族長たちは、ギルアデのルベン族およびガド族から別れて、カナンの地のイスラエル人のところに帰り、このことを報告した。そこで、イスラエル人は、これに満足した。それでイスラエル人は、神をほめたたえ、ルベン族とガド族の住んでいる地に攻め上って、これを滅ぼそうとは、もはや言わなかった。それでルベン族とガド族は、その祭壇を「まことにこれは、私たちの間で、主が神であるという証拠だ。」と呼んだ。

 これで双方の誤解が解け、イスラエルは一つとなって主を礼拝することができました。私たちのうちには、分派心という肉があるために、必ずこのような危機が出てきます。けれども、聖書に書かれてある方法で、悪魔に自分の思いを煽られることなく、主にあって語れば、互いに理解しあうことができます。

 こうして、のがれの町、レビ人の町々、そして祭司ピネハスとヨルダン川東岸のイスラエル人たちの対話を読むことができました。のがれの町においては、自分が殺意がなかったのに殺されてしまうという誤った判断を下さないために設けられたものです。彼らを守る役目を果たしているのがレビ人であり、霊的な判断を下すことができます。同じように、祭司ピネハスが、大きく立てられた祭壇について、誤った判断によって、戦争を回避することができました。正しい判断が必要です。神の御霊によって、いつも主にあって判断することができるよう祈りましょう。


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