ヨシュア記23−24章 「安住の後に」

アウトライン

1A 主を愛する 23
   1B 戦われる主 1−13
   2B 実現したみことば 14−16
2A 主に仕える 24
   1B 新たな契約 1−28
      1C 主がなされたこと 1−13
      2C 外国の神々の除去 14−28
   2B 今の世代の死 29−33


本文

 ヨシュア記23章を開いてください。今日は、23章と24章を学びます。これでヨシュア記も終わります。メッセージ題は、「安住の後に」です。

1A 主を愛する 23
1B 戦われる主 1−13
 主が周囲のすべての敵から守って、イスラエルに安住を許されて後、多くの日がたち、ヨシュアは年を重ねて老人になっていた。

 私たちは前回、イスラエル全部族がそれぞれ相続地を割り当てられ、自分たちの土地に行った話を学びました。逃れの町とレビ人の町が割り当てられ、ヨルダン川東岸に土地が割り当てられたイスラエル人たちの話を読みました。エリコやアイの町の攻略、数々の王たちとの戦いは終わり、仮住まいのように動いていたイスラエルは、割り当て地において定住を始めました。そして、「多くの日」が経っています。おそらく、10年とか20年とか経っているのでしょう。ヨシュアは年を重ねて、老人になっていました。

 ですから、イスラエルの民は、「安住」を許されました。戦いは集結し、平穏無事に暮らしています。けれども、ヨシュアは、イスラエルの民が、その平穏無事の生活の中で、しだいに妥協している姿を見ていました。土地の割り当ては終わりましたが、そこにはカナン人たちが定住しているところもあります。まだ土地の占領は完全に行なわれていません。けれども自分は死んでいきます。そこで彼は、最後に土地を占領することを命じて、またその国々の民と交わらないようにという戒めを与えます。

 ヨシュアは全イスラエル、その長老たちや、かしらたちや、さばきつかさたち、およびつかさたちを呼び寄せて彼らに言った。「私は年を重ねて、老人になった。

 ヨシュアが呼び寄せたのは、長老たちや、かしらたち、またさばきつかさたちでした。彼らはおそらく、ヨシュアが戦争の指揮を取っていたとき、彼の下で戦った戦士たちであったでしょう。戦士だった彼らが今、各地でそれぞれの部族や氏族の長となっていました。

 あなたがたは、あなたがたの神、主が、あなたがたのために、これらすべての国々に行なったことをことごとく見た。あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、主だからである。

 ヨシュアは、国々と戦って、勝利することができたのは、自分たちのおかげではなく、私たちの神、主であると言っています。実際に、ヨシュアたちが戦っていたとき、それは主がヨシュアに命じられたことをことごとく行ない、また戦いに勝つことができるように主が敵に災いをもたらされました。エリコの壁が崩されたのもそうですし、日がとどまって、昼が長くなったのも、その一つです。彼らは、主が戦ってくださったのを見ました。

 1節の初めの言葉も、「主が周囲のすべての敵から守って」と、「」が主語になっています。主が良い事を始めてくださり、主がそれを完成させてくださいました。自分たちは、主が言われたことに従ったのですが、行なってくださったのは主です。ヨシュア記は、信仰によって勝利することがテーマであると話しましたが、それは自分の力や能力ではなく、主が成し遂げてくださるところに頼ることであります。ゼカリヤ書には、「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は仰せられる。(4:6)」とあります。ガラテヤ書には、「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。(3:3)」とあります。私たちが自分たちで考えて、プログラムを立てて、それからそのプログラムを「主よ祝福してください」と祈っていくというのは、自分たちが主体になっており、主が中心になっていません。御霊によって導かれるとき、私たちは主が言われることに従い、そして主が事を成し遂げてくださいます。

 見よ。私は、ヨルダン川から日の入るほうの大海まで、これらの残っている国々と、すでに私が断ち滅ぼしたすべての国々とを、相続地として、くじによってあなたがたの部族に分け与えた。

 「見よ」とヨシュアは言っています。長老たちは、自分たちの目で、相続地が与えられたのを見ています。また、主が国々を倒してくださったことも、彼らは見ました。彼らは主がなされた大きなわざを、自分の目で見ています。私たちも、このように自分自身で神を体験していかなければいけません。ローマ人への手紙5章には、パウロが、患難でさえ喜んでいると言っている箇所があります。「そればかりでなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し(5:3−4)」とあります。患難や試練があると、私たちはそれを耐え忍びますが、耐え忍ぶ中で、主が力づけてくださったり、主が御霊の愛を示してくださったり、主が必要を満たしてくださったり、大変な中にあるからこそ、主ご自身を経験でいます。「練られた品性」というのは、経験と言い換えることもできますが、私たちはこのようにして神を経験することができるのです。長老たちは、神を経験していました。

 あなたがたの神、主ご自身が、あなたがたの前から彼らを追いやり、あなたがたの目の前から追い払う。あなたがたは、あなたがたの神、主があなたがたに告げたように、彼らの地を占領しなければならない。

 イスラエル人たちはすでに安住しているのですが、それはその土地にカナン人などの国民がいないということではありませんでした。まだ残された人々がいます。ですから、ヨシュアが死んだ後も、主が告げられたように、彼らの地を占領しなければいけません。

 安住しているとき、私たちはそれ以上戦いたくないと思います。クリスチャン生活も表面的には安定しているとき、自分はそれ以上のことはしたくないと思います。いろいろ問題はあるけれども、この問題に対処すれば、大変な戦いをしなければならない、と思って、その問題には触れないようにするかもしれません。主は、私たちにキリストにあって、あらゆる霊的祝福を与えてくださったのに、その祝福をすべて受け取ろうとしなくなります。けれども、今の私たちの生活以上に、主が私たちに何を用意してくださっているのか、願い求めなければいけません。エペソ3章20節には、「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に」とあります。私たちが御霊の導きに敏感になり、主がなされようとすることに信仰をもって踏み出していきましょう。

 あなたがたは、モーセの律法の書にしるされていることを、ことごとく断固として守り行ない、そこから右にも左にもそれてはならない。

 ヨシュア記は、このモーセの書から始まり、そしてモーセの書に終わっています。ヨシュア記1章には、モーセの律法の書にしるされていることをすべて守り行ない、右にも左にもそれてはならない、と命じられています。ヨシュア記は、モーセを通して主がお命じになったことを、聞き従ったところの足跡の書ということができます。創世記から申命記までがモーセが書いた本ですが、そこで命じられていること、約束されていることがことごとく実現しているのを描いているのがヨシュア記です。決して新しいことが書かれているのではありません。

 私たちは、イエス・キリストの福音を持っています。イエスさまを信じたから、その後はどうすれば良いのか?という質問をよく、新しく信じた人たちはします。私も何をすれば良いか、と思いました。教会では、「奉仕をしてください」「伝道をしてください」「何々してください」といろいろ、しなければいけないことを教えて、これが信じた後に行なうことであると教えますが、それは間違いです。「信じた後に何をするのですか」という問いには、「信じるのです」という答えなのです。イエスさまを信じたら、この方を信じて、信頼して、この方に語り、またこの方から聞き、この方から学び、この方とともに歩み、この方とともに食事をして、この方の中に生きるのです。イエス・キリストの福音以上に私たちがしなければいけないものは何一つなく、ただ福音の中に生きることが私たちに要求されています。だからパウロはコロサイ人たちに、「キリストの中に根ざし、また建てられ、また教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。(2:7)」と勧めました。ですからヨシュアは、モーセの書をことごとく守り行いなさい、と命じました。

 あなたがたは、これらの国民、あなたがたの中に残っているこれらの国民と交わってはならない。彼らの神々の名を口にしてはならない。それらによって誓ってはならない。それらに仕えてはならない。それらを拝んではならない。

 ヨシュアが懸念していたこと、心配していたことは、このことでした。安住しているが、残された国民がいて、その国民と交わってしまうのではないか、いやもうその交わりは始まっているのではないか、という懸念です。「交わり」というのは、「一つになる」という意味です。または、「共有する」という意味です。単に接触するということではありません。もし、神が、世は汚れているから、世に接触してはならないと命じられているなら、私たちはこの世界から出て行かなければいけないでしょう。けれども、神はそのようなことを私たちに命じられていません。キリスト者は、この世の中に生きる者ですが、この世のものではありません。英語で言うと分かりやすいですが、We are in the world, but not of the world.です。Inですがofではないのです。ヨハネは、「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。(1ヨハネ2:15)」と言いました。またパウロは、「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。(2コリント6:14)」と言いました。世とは交わってはいけないのです。

 ここに、状況がしだいに悪化していく過程が描かれています。初めに、「神々の名を口にする」ところから始まります。外国の神々の名を口にしたぐらいでは、大丈夫だよ、という意味です。けれども、パウロは、不品行や下品な言葉について、「口にすることさえいけません。(エペソ4:3)」と言っています。この、口にするというちょっとした妥協が、「誓う」ことに発展します。もっと深く関わりを持ってしまっているのです。それから、「仕え」ます。偶像の神々の奴隷になってしまったのです。そして最後は、「拝み」ます。自分の思いと心を明け渡してしまうのです。ちょっとした妥協が、このような最悪の事態へと発展してしまうので、気をつけなければいけません。

 ただ、今日までしてきたように、あなたがたの神、主にすがらなければならない。

 自分の理解では、たいしたことはないと思っていますが、けれども大変なことに陥ってしまいます。自分の理解に頼らずに、心を尽くして主にたよらなければいけません。

 
主が、大きくて強い国々を、あなたがたの前から追い払ったので、今日まで、だれもあなたがたの前に立ちはだかることのできる者はいなかった。

 今日まで」という言葉が良いですね。主は真実を尽くしてくださいました。途中で見捨てることはなさらずに、今日まで、強い国々を追い払ってくださいました。

 あなたがたのひとりだけで千人を追うことができる。あなたがたの神、主ご自身が、あなたがたに約束したとおり、あなたがたのために戦われるからである。

 ひとりだけで千人」というのは、大げさな表現ではありません。私たちは、次回から士師記を学びますが、そこにギデオンが出てきます。彼はたった3百人の戦士しかいませんでした。けれども、3百人の戦士が、13万5千人のミデヤン人を打ち破ることができました。ですから、人数や強さは、主にあって問題になりません。ローマ8章には、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(31節)」とあります。

 あなたがたは、十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。

 ここの、「十分に気をつける」という言葉が大事です。「主を愛しなさい」と命じられていますが、私たちの心が、私たちの愛がいつの間にか変わってしまっていることがあります。自分は主を愛していると思っていても、いつの間にか、他の違うものを愛している場合があるからです。ペテロのことを思い出してください。たくさんの魚が、ぴちぴちまだ生きて動いているとき、イエスさまは、「これら以上に、あなたはわたしを愛しますか?」と言われました。ここに「愛しますか」はアガペーのギリシヤ語が使われています。ペテロは、「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存知です。(ヨハネ21:15)」と言いました。ここでのギリシヤ語は、「フィレオ」です。イエスさまをアガペの愛で愛するのではなく、「イエスさま大好き」というレベルの、精神的な愛でペテロはイエスさまを愛していました。魚をとっていたほうが、イエスさまについていくよりも、楽しくなっていたのです。いつの間にか、安住しているうちに、心が主への愛ではなく、他のものへ移ってしまっている、そういうことがないようにしなさい、とヨシュアは警告しています。

 しかし、もしもあなたがたが、もう一度堕落して、これらの国民の生き残っている者、すなわち、あなたがたの中に残っている者たちと親しく交わり、彼らと互いに縁を結び、あなたがたが彼らの中にはいって行き、彼らもあなたがたの中にはいって来るなら、交わって、縁を結んで、互いに行き来するような中になるならば、あなたがたの神、主は、もはやこれらの国民を、あなたがたの前から追い払わないことを、しかと知らなければならない。彼らは、あなたがたにとって、わなとなり、落とし穴となり、あなたがたのわき腹にむちとなり、あなたがたの目にとげとなり、あなたがたはついに、あなたがたの神、主があなたがたに与えたこの良い地から、滅びうせる。

 敵が追い払われていたことを、当たり前に思っていたイスラエル人たちは、敵に自分たちが打ち負かされることに驚くことでしょう。そしてついに、神が与えてくださったこの土地から、滅んでしまうという結末になります。これが、バビロンがイスラエルを攻めたときに、実現しました。エルサレムは破壊された、バビロンへの捕らわれの身となりました。

2B 実現したみことば 14−16
 見よ。きょう、私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。ヨシュアが最後の言葉であることを強調しています。あなたがたは、心を尽くし、精神を尽くして知らなければならない。あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束したすべての良いことが一つもたがわなかったことを。それは、一つもたがわず、みな、あなたがたのために実現した。

 これはすばらしい証しです。主が言われたことはすべて実現し、何一つ実現しなかったものはない、という証しです。私たちにもたくさん、神からの約束が与えられていますが、神は何一つ、そのようになさらないことはありません。すべて実現してくださいます。

 あなたがたの神、主があなたがたについて約束したすべての良いことが、あなたがたに実現したように、主はまた、すべての悪いことをあなたがたにもたらし、ついには、あなたがたの神、主が、あなたがたに与えたこの良い地から、あなたがたを根絶やしにする。

 良いことについて書かれているみことばはたくさんありますが、悪いこともたくさん書かれています。イスラエルは今、良いことについての神のみことばの実現を楽しんでいますが、そうした安住の中で、悪いことは自分たちには起こらない、特別な立場に私たちはいるのだ、と思ってしまうことが危険なのです。

 私たちクリスチャンも、主が良くしてくださっていることについては、信仰をもって受け入れますが、「このようなことをしたら、こうなってしまうよ」という警告については、「いや〜、起こらないだろう。」という、誤った安心感を持ってしまう誘惑があります。例えば、パウロは、「正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか?(1コリント6:9)」と言って、偶像礼拝をする者、不品行な者、姦淫をする者、盗む者、貪欲な者、そしる者などは、神の国を相続することはできない、と断言しています。これらの悪いことを行なっていて、それでも、「僕は天国に行ける」と思ったら、決してそうではないということを思わなければいけません。それでは、「救いは失われるのか?」と言う人がいますが、私は神学はどうでもよいです、書かれてあるみことば、警告のみことばを、祝福のみことばと同じように真剣に受け止めなければいけない、ということであります。


 主があなたがたに命じたあなたがたの神、主の契約を、あなたがたが破り、行って、ほかの神々に仕え、それらを拝むなら、主の怒りはあなたがたに向かって燃え上がり、あなたがたは主があなたがたに与えられたこの良い地から、ただちに滅びうせる。

 ここで、「主の契約を、あなたがたが破り」とあります。悪いことが降りかかるとき、それは、神のせいではないということです。自分たちが契約を破ったのだから、神の怒りが下ります。多くの人が、「神が愛なら、なんでこんなひどいことが起こるのだ。」と、神に対して悪態をつきます。けれども、その人が神に従って、神に仕えて、神を愛していないのに、悪いことだけが起こると、そうやって神のせいにします。けれども、初めに契約を破っているのは人であり、神ではありません。

2A 主に仕える 24
 こうやってヨシュアは、長老たちやかしらたちに対する最後のことばを終えました。次も、同じように最後の言葉を語りますが、今度は全イスラエルに対してです。

1B 新たな契約 1−28
1C 主がなされたこと 1−13
 ヨシュアはイスラエルの全部族をシェケムに集め、イスラエルの長老たち、そのかしらたち、さばきつかさたち、つかさたちを呼び寄せた。

 ヨシュアがイスラエルを集めたのは、「シェケム」です。ここは、いろいろな意味で、霊的に重要な場所です。23章の最後には、主が約束されたことをすべて実現してくださった、と書かれてありましたが、主が、この地を子孫に与えるとアブラハムに約束されたのは、このシュケムの町でした。アブラハムが、ユーフラテス川を渡り、旅をして、カナン人の地に到着した時に、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。(創世12:7)」と主が仰せになりました。そこでアブラハムは、祭壇を築き、主の御名によって祈りました。

 そしてシェケムでは、アブラハムの孫でありヤコブが、一時期定住した場所です。ヤコブが、家族を連れてラバンの家を出て、それから途中で兄エサウに出会いました。ヤコブは、ラバンとも、またエサウとも、祈りと葛藤の中で主に拠りすがりましたが、ようやくすべての障壁が取り除かれたとき、安心してしまったのでしょうか、その町に住み始めてしまったのです。その間に、その土地の族長の息子が、ヤコブの娘ディナを犯し、そしてヤコブの息子シメオンとレビが怒り狂って、シェケムの住民を虐殺しました。それから、神がヤコブにお語りになられたのです。「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。(創世35:1)」ベテルは、ヤコブがエサウからのがれるため、親戚のラバンのところに旅をしている途中、天からのはしごの夢を見た町です。主が現われてくださったところであり、ヤコブはそこを求めて歩き続けなければならなかったのです。けれども、途中のシェケムに滞在してしまったのです。

 そしてヤコブは、家族と自分といっしょにいる人々すべてにこう言いました。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい。そして私たちは立って、ベテルに上って行こう。(創世35:3)」ヤコブの家族は、いつの間にか、異国の神々と、異教の影響がある耳輪を身につけていました。それを取り外しました。このように、主がおられるところへの旅を途中で中断してしまうと、私たちは自分たちに偶像を身につけてしまいます。心の中に身につけてしまいます。主を愛するのではなく、何か他のものを愛してしまうのです。

 そしてシェケムは、ヨシュアがエリコとアイを攻めた後に、エバル山のところで祭壇を築き、モーセの律法を書きしるし、また読み上げたところでもあります。その石がまだ、そこにあったことでしょう。ヨシュアは、イスラエルの人々に、アブラハムのように、またヤコブのように、そしてモーセの律法にしたがって、主のみに仕えるためのチャレンジを与えます。

 
彼らが神の前に立ったとき、ヨシュアはすべての民に言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。」

 主はこう仰せられる、とありますから、ヨシュアは今、預言をしています。ヨシュアは指導者であり、軍人でありましたが、今は預言者となっています。

 あなたがたの先祖たち、アブラハムとナホルとの父テラは、昔、ユーフラテス川の向こうに住んでおり、ほかの神々に仕えていた。

 預言の内容は、イスラエルの歴史でした。ここで注目に値するのは、アブラハムは、父の家にいたときは、ほかの神々に仕えていたということです。彼は初めは、偶像礼拝者でした。ユーフラテス川の向こうというのは、今のイラクがあるところです。そこに昔、人々が集まって、町を建て、塔を建てて、天にまで届こうといった場所です。主は言葉をばらばらにされて、それで人々は世界中に散らばっていきましたが、この場所が偶像礼拝の発祥地でした。ですから、アブラハムは父テラとともに偶像に仕えていました。けれども、「父の家から離れて、わたしが示す土地に行きなさい。」という主の呼びかけに彼は応答して、それで彼はユダヤ人の父、またイエス・キリストを信じる者の信仰の父になったのです。アブラハムから出た家族は、「ヘブル人」と呼ばれましたが、ヘブル人の語源は、エベル、「川を渡る」という意味があります。偶像礼拝の地から川を渡って、創造主を信じたという意味が、ヘブルにはあるのです。

 ですから、人はだれでも、生まれつきのままでは神の民になれないことをここから学びます。アブラハムの子孫であるユダヤ人も、もし信仰がなければ、神の民になることはできません。アブラハムの子イシュマエルが、約束の子にされなかったようにです。必ず、神の召しに応じることによって、私たちは救われることができます。クリスチャンも、親がクリスチャンだからと言って、教会の環境があるからと言って、子供たちが自動的にクリスチャンでは決してないのです。子供たちも、イエス・キリストを信じることによって、初めて救われます。


 わたしは、あなたがたの先祖アブラハムを、ユーフラテス川の向こうから連れて来て、カナンの全土を歩かせ、彼の子孫を増し、彼にイサクを与えた。ついで、わたしは、イサクにヤコブとエサウを与え、エサウにはセイルの山地を与えて、それを所有させた。ヤコブと彼の子らはエジプトに下った。

 ヨシュアは預言を続けていますが、主語が、「わたし」となっていることに気づいてください。23章と同じように、すべて主が行なわれたものだ、ということを思い起こさせています。

 それからわたしは、モーセとアロンを遣わし、エジプトに災害を下した。わたしがその真中で行なったとおりである。その後、あなたがたを連れ出した。

 ここから、主がイスラエルをエジプトから連れ出した話へと移ります。

 わたしが、あなたがたの先祖たちをエジプトから連れ出し、あなたがたが海に来たとき、エジプト人は、戦車と騎兵とをもってあなたがたの先祖たちのあとを追い、葦の海まで来た。あなたがたが主に叫び求めたので、主はあなたがたとエジプト人との間に暗やみを置き、海に彼らを襲いかからせ、彼らをおおわれた。あなたがたは、わたしがエジプトで行なったことをその目で見てから、長い間、荒野に住んだ。

 それからわたしはヨルダン川の向こう側に住んでいたエモリ人の地に、あなたがたを導き入れた。ここから荒野の生活から、ヨルダン川東岸を北上していく話に入ります。彼らはあなたがたと戦ったが、わたしは彼らをあなたがたの手に渡したので、あなたがたはその地を占領した。わたしが、あなたがたの前から彼らを根絶やしにしたからである。

 主はエモリ人の王をイスラエルの手に渡してくださいました。

 
それから、モアブの王ツィポルの子バラクが立って、イスラエルと戦い、ベオルの子バラムに人をやって彼を呼び寄せ、あなたがたをのろわせようとした。ここでは、バラクとバラムの話に入っています。わたしはバラムに聞こうとしなかった。彼は、かえって、あなたがたを祝福し、わたしはあなたがたを彼の手から救い出した。

 次はヨルダン川を渡ってきた後の話です。あなたがたはヨルダン川を渡ってエリコに来た。エリコの者たちや、エモリ人、ペリジ人、カナン人、ヘテ人、ギルガシ人、ヒビ人、エブス人があなたがたと戦ったが、わたしは彼らを、あなたがたの手に渡した。

 こうしてヨシュアは、アブラハムがユーフラテス川を渡ったこと、エジプトから主がイスラエルを導き出されたこと、エモリ人を倒されたこと、そして土地を占領することができたことを話しました。次にヨシュアは、イスラエルの手によってではなく、主ご自身が勝利と祝福を与えられた話をします。

 わたしは、あなたがたの前にくまばちを送ったので、くまばちがエモリ人のふたりの王をあなたがたの前から追い払った。あなたがたの剣にもよらず、またあなたがたの弓にもよらなかった。わたしは、あなたがたが得るのに労しなかった地と、あなたがたが建てなかった町々を、あなたがたに与えたので、あなたがたはそこに住み、自分で植えなかったぶどう畑とオリーブ畑で食べている。

 エモリ人と戦ったときも、また自分たちがその後暮らしている時も、自分たちの労苦ではなく、主が成し遂げてくださった、ということです。私たちが御霊に導かれて生きると、このような祝福があります。今まで自分たちの努力で一生懸命したのに、徒労に終わってしまった。けれども、御霊が働かれると、何時間も、何日間も、何年間もやっていたことが、一瞬のうちに成し遂げられます。要は、主が行なわれるか、それとも私たちの肉でそれを行なおうと努力してしまうかの違いなのです。

2C 外国の神々の除去 14−28
 今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。

 ここからヨシュアのチャレンジに入ります。「」と言っています。今、あなたがたが主がしてくださったことを聞いたとおりに、ということです。聞いたことに応答しなさい、ということです。

 初めに、「主を恐れ」ます。主を恐れるというのは、主を恐がるということではありません。主が自分に罰を与えられるのではないか、という恐れではありません。ヨハネの手紙第一には、愛には恐れがない、と書いてあります。主を恐れるとは、主を喜ばせる、主を悲しませるようなことをしない、ということです。自分が愛している主の心を、このような悪いことをして傷つけてはいけない、という配慮です。主との親しい関係の中で、主を恐れ尊びます。


 そして次に、「誠実と真実をもって主に仕えなさい」とあります。誠実と真実は、二心を持たないということです。主に仕えているようで、また別のことに対する思いを持っている、ということです。日曜日は教会だけれども、その他の日はこの世のことで時間を費やす、ということです。表向きはクリスチャンのようでいて、隠れたところで違うことをしていることです。このような偽善がない心、それが誠実と真実です。

 あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。

 ヨシュアが、アブラハムのこと、またモーセとアロンのことを話したのは、彼らが外国の神々の中にいるところから出て行ったことを示すためでした。ユーフラテス川のところにある神々、またエジプトでの神々を除き去ります。イスラエルは、表向きは主にお仕えしていましたが、別のところでは他の神々に心を寄せていたことが分かります。あるいは、将来、イスラエルの子孫が、他の神々に仕えることを預言していたのかもしれません。どちらの意味もあるでしょう。こうした二心を取り去って、主に従いなさい、と勧めています。

 ヤコブの手紙には、クリスチャンの霊的成長のために、いろいろな勧めが書かれていますが、その中で、クリスチャンの間での戦いが書かれています。今、戦争がイラクで起こっていますが、教会で戦争が起こります。口論であったり、無言の対立であったりするでしょう。そこでヤコブは、神はへりくだる者に恵みをお授けになる、と言った後に、こう言いました。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。(ヤコブ4:8)」クリスチャンたちが戦い合うのは、高慢になっているからであり、それは二心が原因である、ということです。私たちはとかく、教会の中で奉仕していると、イスラエルの人たちのように、主に仕えながら、実は外国の神々を心の中に宿していることがあるのです。ヨシュアは、このことをイスラエルの民にいま指摘しています。

 もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。

 これはとても有名な聖句ですね。そしてとても大事な言葉です。ヨシュアは、イスラエルの民が、どこの神々に仕えても構わない、と突っぱねています。主にお仕えすることは、人に言われて強制的にするものではなく、自分が強い決意をもって決めることであります。主と自分との個人的な関係です。他の人がイエスさまを信じているから自分も信じる、というのではありません。

 仮に、今、私が翻って、「もうキリスト教なんか信じているの、やめなさい。間違えだらけだから。」と言って、この席をはずしたとします。そして、「あら、きよきよさんが信じないのなら・・・牧師先生のところに行こう。」と思って、教会に行くとします。すると今度は教会の牧師先生が、「いや〜、実はイエスさまは神ではなかったのさ。復活というのは嘘。やめといたほうが良いよ。」と言います。そしてプロテスタントの教会の各派が、キリスト教は嘘で〜す!という発表をしたとします。自分の友達も、また家族も、イエスさまから離れています。それでも、「いや、あなたがたは他のもの信じても良いです。私はイエス・キリストに仕えます。」と言えるでしょか?イエスさまが、大ぜいの人たちがついて来た時に、こう言われました。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。(ルカ14:26−27)

 すると、民は答えて言った。「私たちが主を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、絶対にそんなことはありません。私たちの神、主は、私たちと私たちの先祖たちを、エジプトの地、奴隷の家から導き上られた方、私たちの目の前で、あの数々の大きなしるしを行ない、私たちの行くすべての道で、私たちの通ったすべての民の中で、私たちを守られた方だからです。主はまた、すべての民、この地に住んでいたエモリ人をも、私たちの前から追い払われました。私たちもまた、主に仕えます。主が私たちの神だからです。」

 主がこれだけのことをしてくださったのに、なぜ主を捨てることができるでしょうか?と言っています。もちろん彼らは本気でこのことを話しています。けれども、私たちの心はだまされやすいです。主に従う、と言って、それで別の場面では主に逆らっていることが多いです。ヨシュアは、彼らが自分たちが、自分の思いを調べるように、あるいは主が彼らの思いを調べてくださるように、促しています。

 すると、ヨシュアは民に言った。「あなたがたは主に仕えることはできないであろう。主は聖なる神であり、ねたむ神である。あなたがたのそむきも、罪も赦さないからである。もしあなたがたが主を捨てて、外国の神々に仕えるなら、あなたがたをしあわせにして後も、主はもう一度あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くす。」それで民はヨシュアに言った。「いいえ。私たちは主に仕えます。」

 再びイスラエル人は、主に仕えることを表明しています。

 それでヨシュアは民に言った。「あなたがたは、主を選んで、主に仕えるという、自分自身の証人である。」すると彼らは、「私たちは証人です。」と言った。「今、あなたがたの中にある外国の神々を除き去り、イスラエルの神、主に心を傾けなさい。」民はヨシュアに言った。「私たちは私たちの神、主に仕え、主の御声に聞き従います。」

 主に仕えるのは、わかった、あなたがたが証人となろう。ならば、外国の神々を取り除き、主に心を傾けなさい、と言っています。私たちも、「主にお仕えしますか?」と聞かれて、「はい、お仕えします。」と答えます。けれども主は、「仕えるなら、これらのことを取り除きなさい。」と言われます。ならば、主が主ではなくなってしまうからです。イエスさま以外に主人がいてしまうことになるからです。

 それでヨシュアは、その日、民と契約を結び、シェケムで、おきてと定めを定めた。

 ヨシュアは新たに、イスラエルの民と契約を結びました。

 ヨシュアは、これらのことばを神の律法の書にしるし、大きな石を取って、主の聖所にある樫の木の下に、それを立てた。そして、ヨシュアはすべての民に言った。「見よ。この石は、私たちに証拠となる。この石は、主が私たちに語られたすべてのことばを聞いたからである。あなたがたが自分の神を否むことがないように、この石は、あなたがたに証拠となる。」

 今、イスラエルが主に聞き従うと言いましたが、それを石に書き記しました。そして神殿のすぐそばの木の下にその石を立てておきます。彼らが主を礼拝しに来たときに、彼らは確かに自分が主に聞き従うといったことを思い出します。

 こうしてヨシュアは、民をそれぞれ自分の相続地に送り出した。

2B 今の世代の死 29−33
 これらのことの後、主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。

 イスラエルをそれぞれの相続地の後に返した後、彼は間もなくして死にました。110歳ですから、モーセより10歳若くして死にました。ヨシュアが「主のしもべ」と呼ばれています。私たちも、主のみに仕える、主のしもべでありたいです。

 人々は彼を、エフライムの山地、ガアシュ山の北にある彼の相続の地境ティムナテ・セラフに葬った。

 ヨシュアは、自分のための相続地を求めませんでした。ただこの町を求めただけでした。そこに葬られました。

 
イスラエルは、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って、主がイスラエルに行なわれたすべてのわざを知っていた長老たちの生きている間、主に仕えていた。

 ここが大事な箇所です。ヨシュアが生きている間、また主のわざを見た長老たちが生きている間は、イスラエルは主に従っていました。この世代がいなくなったときから、次の士師記で見るように、彼らは他の神々に心を寄せます。私たちはこのような弱さを持っています。指導者がいるので、主に従うことができるのですが、いなくなったら、主から離れていってしまうのです。このことに歯止めをかけるには、自分自身が主を体験することです。主のわざを見て、体験します。他の人が体験していることではなく、主の真実、力、知恵、満たしなど、自分自身が体験します。これが、たとえ指導者がいなくなっても、自立して主に従うことができる力となるのです。

 イスラエル人がエジプトから携え上ったヨセフの骨は、シェケムの地に、すなわちヤコブが百ケシタでシェケムの父ハモルの子らから買い取った野の一画に、葬った。そのとき、そこはヨセフ族の相続地となっていた。

 なぜここにヨセフの骨の話が出てくるのでしょうか?これは、ヨセフが死ぬ間際に、自分をミイラにして、そして、自分の死体を必ず約束の地に持っていき、そこで葬るようにという命令を出していたからです。創世記50章25節に書かれています。そして、出エジプト記13章19節にて、イスラエル人たちがエジプトから脱出するとき、ヨセフの遺骸を携え出たことが書かれています。そしてここヨシュア記の最後で、確かにヨセフの遺骸が葬られたことを記録しているのです。ヘブル書11章には、ヨセフは信仰によって、イスラエルの子孫の脱出を語り、自分の骨について指図した、と書かれています。信仰は、このように目に見えない事柄を確信させるものなのです。

 アロンの子エルアザルは死んだ。人々は彼を、彼の子ピネハスに与えられていたエフライムの山地にあるギブアに葬った。

 エルアザルは、アロンがホル山で死んだ時から大祭司となって働いていた人物です。彼が死にました。彼の子ピネハスが大祭司になりました。

 こうして一つの世代がいなくなります。後の世代がどのようになったのか、それは来月、士師記を学ぶときに見ます。燦々たるものです。私たちが、ここでヨシュアが、「私と私の家とは、主に仕える」と言った理由が分かります。他のイスラエル人たちは、外国の神々に仕えてしまうからです。私たちは、安住しても、注意して主を愛し、またただ主のみに仕えるという決断をしなければいけません。そして、主が祝福してくださるすべてのものを受ける必要があります。


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