ヨシュア記3−5章 「自己の死」

アウトライン

1A いのちの御霊 3
   1B 契約の箱 (神のみことば) 1−6
   2B 川の中 (信仰) 7−13
   3B 堰 (いのちの実) 14−17
2A キリストとの死 4
   1B 記念の石 (永遠の力) 1−7
   2B 戦いの出発点 (勝利の生活) 8−14
   3B 子どもへのしるし (霊的継承) 15−23
3A 主への献身 5
   1B 敵の敗北 1
   2B 肉の死 2−15
      1C 心の割礼 2−9
      2C 過越の小羊 10−12
      3C 万軍の主 13−15

本文

 ヨシュア記3章を開いてください。今回は、3章から5章までを学びます。ここでのテーマは、「自己の死」です。

 前回の話を思い出してください。モーセからヨシュアに、イスラエルの指導が継承されました。モーセは、イスラエルの民とともに律法を代表していましたが、ヨシュアは、「信仰」を代表していました。ヨルダン川を渡ることによって、自分というものが死に、ただ神に生きていただく、キリストに生きていただく世界の中に入っていくことになります。主がモーセに与えられた戒めの中にとどまることによって、自分の足の裏が踏むところはどこも、自分たちのものとなることができました。信仰によって、つくり主から与えられた約束を自分のものにしていくこと、これがヨシュア記です。そして、信仰とは、自分の素性や行ないに関わりなく、ただ神のみわざを信じることであることを、遊女ラハブから学ぶができました。

 そして今日は、実際にヨルダン川を渡るところを学びます。

1A いのちの御霊 3
1B 契約の箱 (神のみことば) 1−6
 ヨシュアは翌朝早く、イスラエル人全部といっしょに、シティムを出発してヨルダン川の川岸まで行き、それを渡る前に、そこに泊まった。シティムというところから、ヨルダンかわの川岸まで移動しました。三日たってから、つかさたちは宿営の中を巡り、民に命じて言った。「あなたがたは、あなたがたの神、主の契約の箱を見、レビ人の祭司たちが、それをかついでいるのを見たなら、あなたがたのいる所を発って、そのうしろを進まなければならない。

 契約の箱が、先頭に立ちます。イスラエル人が荒野を旅しているときは、昼は雲の柱、夜は火の柱が彼らを導いていました。もはや、雲や火による導きではなく、祭司たちがかつぐ契約の箱を先頭にして歩んでいきます。

 契約の箱には、モーセの十戒、アロンの杖、そしてマナのつぼがありました。石の板二枚は、神ご自身の指によることばが書かれていました。ですから、契約の箱が先頭に立つことは、神のことばが先頭に立つことを意味します。また、契約の箱のところに、主はわたしがいて、そこから語ると言われました。至聖所では、燭台のともしびがなくても、そこが光っていましたが、それはシェキナーと呼ばれる、主の顕現の光でした。したがって、契約の箱は主ご自身を表しているとも言うことができます。

 ヨハネの福音書1章1節には、「ことばは神であった。」とあります。また、エレミヤの預言において、新しい契約について、こう語られています。「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。・・主の御告げ。・・わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。(31:33)」神のことばが、私たちの心に置かれます。そして、神のことばが私たちの心に置かれることによって、主ご自身が私たちのうちにおられます。主のことばによって、私たちは主が生きておられることを知ります。イスラエルの先頭が、神のことばであり、主ご自身である契約の箱でした。私たちが信仰によって歩み、信仰が成熟すると、自分の気持ちや考えではなく、主のことばによって導かれる歩みを始めます。

 あなたがたと箱との間には、約二千キュビトの距離をおかなければならない。それに近づいてはならない。

 契約の箱との距離は、約900メートルでした。これは、契約の箱に近づきすぎて死ぬことがないようにするためであり、また、イスラエルの民がみな、契約の箱を遠くから見ることができるようにするためだったのでしょう。

 それは、あなたがたの行くべき道を知るためである。あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ。

 今まで来たことのない道、新しい道です。自分の経験にたよることができません。信仰の世界です。

 ヨシュアは民に言った。「あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから。」

 主が不思議なことをされる前に、自分の身をきよめることは、モーセの時代でもありました。シナイ山にて、主が黒雲や雷鳴とともに下りて来られるとき、イスラエルの民は、着物を洗い、男は女に近づかないようにして、自分の身をきよめるように命じられました。

 ヨシュアは祭司たちに命じて言った。「契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って渡りなさい。」そこで、彼らは契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って行った。

 ヨシュアが民に、また祭司たちに命令を下しました。

2B 川の中 (信仰) 7−13
 主はヨシュアに仰せられた。今度は、主がヨシュアに命じられます。「きょうから、わたしはイスラエル全体の見ている前で、あなたを大いなる者としよう。それは、わたしがモーセとともにいたように、あなたとともにいることを、彼らが知るためである。

 主がモーセとともにおられたことを、イスラエルの民が知ったのは、紅海の水が分かれたときです。イスラエルの民は、主と、またモーセを信じました。モーセが神のしもべであることを知りました。同じように、ヨシュアとともに主がおられることを、ヨルダン川によってイスラエル人に知らせる、と主は言われます。

 あなたは契約の箱をかつぐ祭司たちに命じてこう言え。「ヨルダン川の水ぎわに来たとき、あなたがたはヨルダン川の中に立たなければならない。」

 祭司たちに、大きな信仰が求められています。ヨルダン川を渡るときに、橋を渡るのでもなく、舟を使うのでもなく、ヨルダン川の中に立つ、つまりヨルダン川に入らなければいけません。

 ヨシュアはイスラエル人に言った。「ここに近づき、あなたがたの神、主のことばを聞きなさい。」

 ヨシュアは言った。「生ける神があなたがたのうちにおられ、あなたがたの前から、カナン人、ヘテ人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、エモリ人、エブス人を、必ず追い払われることを、次のことで知らなければならない。見よ。全地の主の契約の箱が、あなたがたの先頭に立って、ヨルダン川を渡ろうとしている。今、部族ごとにひとりずつ、イスラエルの部族の中から十二人を選び出しなさい。

 全地の主である主の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる。」

 ヨルダン川が、上流の水が止められて、それがせきをなし、下流の乾いたところを歩くことによって、ヨルダン川を渡ります。これは、もちろん紅海が分かれたときのことを思い出します。モーセが杖を上げると、紅海が分かれ、海の中をイスラエル人は渡りました。

 ですから、ヨルダン川を渡るのは、ある意味でモーセの紅海の再現と言っても良いでしょう。モーセによって、奴隷であったエジプト生活をその海とともに沈ませ、死なせました。そして主のものとされた、新しい生活を始めることになります。いや、なるはずでした。紅海は、罪に支配された古い人が死んで、キリストとともに新しい、いのちある歩みを始めることを意味していました。水のバプテスマです。ところが、イスラエル人たちは、古い人が死んでいるとはみなしませんでした。エジプトにいるときは、にんにくや、にらや、きゅうりを食うことができた。魚も、そして肉も、とつぶやきやきました。「どうして、私たちをこのような灼熱の砂漠の中に連れて来たのか。」と不平をもらしました。物理的には、エジプトから出てきましたが、心はまだエジプトにあったのです。そのため、彼らは荒野の中で、約束のものを得ることができず、しかばねをさらしました。

 ヨルダン川は、かつて紅海を渡るときにできなかったことを、やり直すところです。すなわち、自分が罪に対して死んでいるとみなし、キリストに生きていただくようにすることです。自分が何かをしようとして、でも達成できず、敗北感を味わっているのであれば、そこで「まだ自分を生かしている自分」を発見することでしょう。それは、ご聖霊が、自分で取り繕うとする自分と、自分のうちで生きて働いておられるキリストを切り離そうとされているからです。自分が完全に主にゆだねて、「主よ、私には何もできません。私はただ、あなたにゆだねます。」と祈ることができるとき、自分ではなくキリストに生きていただくことができます。

 ここで興味深いのは、祭司たちが足を水の中に入れるときに、初めてヨルダン川の水がせきとめられることです。モーセの時は、杖を上げたら風が吹き、紅海が分かれました。けれども、ここでは足を水の中に入れなければいけないのです。これには信仰を要します。水に入れば、ずぶぬれになり、深みに入っておぼれてしまう、というのが人間の理解です。けれども、そこで自分の思いを主におゆだねして、自分の理解ではなく、主に力を尽くして拠り頼むことが必要です。そのときに、自分の思いをはるかに超えたところにある、主の平安が私たちの心を守ってくださいます。そこでは、自分は自分を何とかすることはできませんが、主にあって自由な者となっており、状況に左右されない、深い安息の中にとどまることができます。自分の理解の中にとどまるのではなく、また、自分が主を把握しようとするのではなく、自分が主に掌握される、あるいは主に知られる必要があるのです。

3B 堰 (いのちの実) 14−17
 民がヨルダン川を渡るために、天幕を発ったとき、契約の箱をかつぐ祭司たちは民の先頭にいた。箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、・・ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが・・

 ヨルダン川を渡ったときに、イスラエル人たちは過越の祭りを守ります。過越の祭りは、私たちが使っている太陽暦に直すと、だいたい4月の初旬です。この時期に大麦の刈り取りが始まります。そして、ヨルダン川はイスラエル北のヘルモン山からの雪解け水で、水かさがもっとも増す時期であるそうです。ですから、祭司たちは、ヨルダン川がもっとも水が豊かになっているときに、中に入っていかなければいけなかったのです。

 上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。

 アダムという町は、ヤボク川の下にあるヨルダン川東岸の町のようです。ヨルダン川に合流する支流もみなシャットアウトして、完全にせきとめられました。

 主の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真中のかわいた地にしっかりと立つうちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった。

 祭司たちは、ヨルダン川の真中でつったっていました。その間に、イスラエルの民が川を渡り切ります。主がその川をせきとめておられることを、契約の箱が教えていました。

2A キリストとの死 4
1B 記念の石 (永遠の力) 1−7
 民がすべてヨルダン川を渡り終わったとき、主はヨシュアに告げて仰せられた。「民の中から十二人、部族ごとにひとりずつを選び出し、彼らに命じて言え。『ヨルダン川の真中で、祭司たちの足が堅く立ったその所から十二の石を取り、それを持って来て、あなたがたが今夜泊まる宿営地にそれを据えよ。』」

 ヨルダン川を渡りきったのに、ヨシュアはイスラエル十二部族のかしらを呼んで、中に戻っていきなさいと命じています。そして、まだ川の真ん中に立っているところから、それぞれ一つずつ石を取ってきて、合計12個の石を自分たちが泊まる宿営地に持ってきます。

 そこで、ヨシュアはイスラエルの人々の中から、部族ごとにひとりずつ、あらかじめ用意しておいた十二人の者を召し出した。ヨシュアは彼らに言った。「ヨルダン川の真中の、あなたがたの神、主の箱の前に渡って行って、イスラエルの子らの部族の数に合うように、各自、石一つずつを背負って来なさい。それがあなたがたの間で、しるしとなるためである。石はしるしとなります。後になって、あなたがたの子どもたちが、『これらの石はあなたがたにとってどういうものなのですか。』と聞いたなら、あなたがたは彼らに言わなければならない。『ヨルダン川の水は、主の契約の箱の前でせきとめられた。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の水がせきとめられた。これらの石は永久にイスラエル人の記念なのだ。』」

 石を積み上げておくことによって、子どもが好奇心によって、あの石はどのようなものかと聞きます。そのときに、主がヨルダン川を渡らせてくださったが、石はヨルダン川の真ん中からのものである、と教えます。そうすることによって、石が永久にイスラエル人の記念となります。

 永久の記念、すなわち、いつまでも思い起こすものです。何を思い起こすかというと、ヨルダン川を主が渡らせてくださったことです。ヨルダン川が、私たちにとって古い人が死んだとみなして、御霊によって生きることを意味するなら、私たちは絶えず、キリストとともに自分が死んだことを思い出すことに他なりません。私たちはただ罪が赦されただけではなく、罪の支配からも解放されました。キリストとともに自分は死んだので、自分はキリストにあって新しく造られています。自分の肉ではなく、御霊によって導かれます。その新しい歩みの中で、私たちは、「自分はすでに死んだのだ。あの十字架で、私も主イエスさまとともに、はりつけにされたのだ。自分の醜い肉は、あそこで殺されたのだ。」と思い起こす必要があるのです。

2B 戦いの出発点 (勝利の生活) 8−14
 イスラエルの人々は、ヨシュアが命じたとおりにした。主がヨシュアに告げたとおり、イスラエルの子らの部族の数に合うように、ヨルダン川の真中から十二の石を取り、それを宿営地に運び、そこに据えた。・・ヨシュアはヨルダン川の真中で、契約の箱をかつぐ祭司たちの足の立っていた場所の下にあった十二の石を、立てたのである。それが今日までそこにある。・・初めに宿営したところに、その石が立てられています。箱をかつぐ祭司たちは、主がヨシュアに命じて民に告げさせたことがすべて終わるまで、ヨルダン川の真中に立っていた。すべてモーセがヨシュアに命じたとおりである。その間に民は急いで渡った。民がすべて渡り終わったとき、主の箱が渡った。祭司たちは民の先頭に立ち、ルベン人と、ガド人と、マナセの半部族は、モーセが彼らに告げたように、イスラエルの人々の先頭を隊を組んで進んだ。

 ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、ヨルダン川の東に土地が欲しいとモーセに申し出た者たちであるこを思い出してください。自分たちはそこを土地をしますが、けれども、ヨルダン川を渡って、他のイスラエル人とともに戦って、勝利した後に戻ることができます。今彼らが戦うために、先頭に立って進んでいます。

 いくさのために武装した約四万人が、エリコの草原で戦うために主の前を進んで行った。

 こうして、石を置いたところから、イスラエル人は戦いに行きました。この場所が後に、「ギルガル」と呼ばれます。ここは後の時代になったとき、いけにえをささげる場所になり、また戦いのときに集まる場所にもなりました。私たちには、肉と霊との間の戦い、葛藤がありますが、それに勝利するのはいつも、自分のがんばりではなく、自分に死ぬことです。

 その日、主は全イスラエルの見ている前でヨシュアを大いなる者とされたので、彼らは、モーセを恐れたように、ヨシュアをその一生の間恐れた。

 紅海が分かれるのを見て、イスラエル人はモーセを恐れましたが、ヨルダン川が分かれるのを見て、彼らはヨシュアを恐れました。このように、ヨシュアは、主がモーセにしてくださったことを、自分も受けているのです。モーセが律法を代表して、ヨシュアが信仰を代表しているということを思い出してください。主がモーセによって与えられたものを、今ヨシュアは、信仰によって自分のものとしています。主がモーセを通して行なわれたことも、自分も行なっているのです。これは、キリストが私たちのためにしてくださったすべてのことが、今、御霊によって適用させていくことができる、キリストが歩まれた十字架と復活の道を、自分の人生の中で経験することができる、ということです。御霊によって、キリストの働きが私たちのうちで行なわれます。

3B 子どもへのしるし (霊的継承) 15−23
 主がヨシュアに、「あかしの箱をかつぐ祭司たちに命じて、ヨルダン川から上がって来させよ。」と仰せられたとき、ヨシュアは祭司たちに、「ヨルダン川から上がって来なさい。」と命じた。主の契約の箱をかつぐ祭司たちが、ヨルダン川の真中から上がって来て、祭司たちの足の裏が、かわいた地に上がったとき、ヨルダン川の水はもとの所に返って、以前のように、その岸いっぱいになった。

 祭司が踏むところで、神のみわざがありました。水の中に足を踏み入れたら、水がせきになり、中ではしっかりと立ちました。その中で奇蹟を見ました。信仰によってふみとどまることの必要を感じます。

 民は第一の月の十日にヨルダン川から上がって、エリコの東の境にあるギルガルに宿営した。ヨシュアは、彼らがヨルダン川から取って来たあの十二の石をギルガルに立てて、イスラエルの人々に、次のように言った。「後になって、あなたがたの子どもたちがその父たちに、『これらの石はどういうものなのですか。』と聞いたなら、あなたがたは、その子どもたちにこう言って教えなければならない。『イスラエルは、このヨルダン川のかわいた土の上を渡ったのだ。』あなたがたの神、主は、あなたがたが渡ってしまうまで、あなたがたの前からヨルダン川の水をからしてくださった。ちょうど、あなたがたの神、主が葦の海になさったのと同じである。それを、私たちが渡り終わってしまうまで、私たちの前からからしてくださったのである。

 石によって、子どもに教えます。信仰の継承です。もちろんクリスチャンの親は、主にあって子を訓練する義務を負っています。けれども、子どもに限らず、大人のうちに、教えることができる人を育てることによって、信仰を受け継ぐことができます。パウロはテモテに、「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。(2テモテ2:2)」と言いました。

3A 主への献身 5
1B 敵の敗北 1
 ヨルダン川のこちら側、西のほうにいたエモリ人のすべての王たちと、海辺にいるカナン人のすべての王たちとは、主がイスラエル人の前でヨルダン川の水をからし、ついに彼らが渡って来たことを聞いて、イスラエル人のために彼らの心がしなえ、彼らのうちに、もはや勇気がなくなってしまった。

 敵は、もう戦う意欲までも失われてしまいました。それは、主がヨルダン川をからしたからだ、とあります。私たちが信仰の立場を保つと、敵はただ恐れて、退くしかありません。私たちのうちにおられる方は、世にいる悪いものよりも、さらにすぐれた方です。信仰によって、勝利者になることができます。

2B 肉の死 2−15
1C 心の割礼 2−9
 そのとき、主はヨシュアに仰せられた。「火打石の小刀を作り、もう一度イスラエル人に割礼をせよ。」そこで、ヨシュアは自分で火打石の小刀を作り、ギブアテ・ハアラロテで、イスラエル人に割礼を施した。

 これから敵と戦わなければいけないときに、彼らの武器を整えさせるのではなく、割礼を受けさせました。

 ヨシュアがすべての民に割礼を施した理由はこうである。エジプトから出て来た者のうち、男子、すなわち戦士たちはすべて、エジプトを出て後、途中、荒野で死んだ。その出て来た民は、すべて割礼を受けていたが、エジプトを出て後、途中、荒野で生まれた民は、だれも割礼を受けていなかったからである。イスラエル人は、四十年間、荒野を旅していて、エジプトから出て来た民、すなわち戦士たちは、ことごとく死に絶えてしまったからである。彼らは主の御声に聞き従わなかったので、主が私たちに与えると彼らの先祖たちに誓われた地、乳と蜜の流れる地を、主は彼らには見せないと誓われたのであった。主は彼らに代わって、その息子たちを起こされた。ヨシュアは、彼らが無割礼の者で、途中で割礼を受けていなかったので、彼らに割礼を施した。民のすべてが割礼を完了したとき、彼らは傷が直るまで、宿営の自分たちのところにとどまった。

 エジプトから出てきたときのイスラエル人は割礼を受けていたのですが、今いるのは、その世代の者ではありません。新しい世代です。イスラエル人が荒野をさまよっているときに、幼い子ども、また新しく生まれた子たちは、無割礼のままでした。

 すると、主はヨシュアに仰せられた。「きょう、わたしはエジプトのそしりを、あなたがたから取り除いた。」それで、その所の名は、ギルガルと呼ばれた。今日もそうである。

 ギルガルというのは、「ころがす」という意味です。何をころがしたかと言いますと、「エジプトのそしり」をころがしました。エジプトのそしりとは、主の声に聞き従わなかったために、イスラエルが荒野でしかばねをさらすことになった、あのそしりです。今、割礼を受けることによって、そのそしりが取り除かれます。ころがされて、押しのけられます。ですから、ギルガルこそ「自分に死ぬ」ところです。惨めな自分の中にとどまるのではなく、もうそしりはころがしのけられたとして、これから御霊に導かれて生きていくための町です。

 割礼の意味を思い出してください。これは、男性の性器の包皮を切る儀式ですが、肉の割礼を敵陣に入る前に行なうのは、これから主に自分を献身させる、つまり心の割礼を受けたことを意味します。自分が神の声に聞き従わないような、鈍い心ではなく、いつも主がなんと言われているかを敏感に感じ取ることができるような心です。イスラエルの民の割礼は、私たちが御霊に導かれるときに必要な、心の割礼を表しているのです。

2C 過越の小羊 10−12
 彼らが準備したのは、割礼だけではありません。イスラエル人が、ギルガルに宿営しているとき、その月の十四日の夕方、エリコの草原で彼らは過越のいけにえをささげた。過越の祭りを行ないました。過越のいけにえをささげた翌日、彼らはその地の産物、「種を入れないパン」と、炒り麦を食べた。その日のうちであった。

 荒野にいるときは、一度も行なわれませんでしたが、今ここで過越を祝っています。過越は、もちろんイスラエルがエジプトから脱出できたことをお祝いするときですが、クリスチャンは、キリストが十字架につけられ、罪のための犠牲の小羊になられたことを知っています。キリストが流された血のみが、私たちをきよめて、私たちに献身を与えます。「これまでの罪は、キリストの血によって赦されるが、これから犯す罪は、きちんと悔い改めて、行ないを正さなければ赦されない。」ではないのです。それは、カトリック神学です。私たちをきよめるのは、今までだけでなく、これからもずっと、キリストの血によってのみです。このすばらしさを知る人こそ、献身へと促されるのでしょう。

 彼らがその地の産物を食べた翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエル人には、もうマナはなかった。それで、彼らはその年のうちにカナンの地で収穫した物を食べた。

 ここもすばらしい個所です。マナは彼らがヨルダン川を渡る直前まで、ずっと降っていたのです。これは奇蹟ですが、イスラエル人は、「マナにあきあきした。」と不平を言っていました。けれども、彼らは日々の糧、日々の必要を満たされていたのです。

 けれども今、約束の地において収穫物があるので、マナは必要ありません。同じように、私たちが御霊で導かれると、そこには実が残ります。クリスチャンになれば、自分の必要が満たされることはうれしいですが、それよりも、自分をとおして、主が何かを行なってくださることが、もっともうれしいです。実を結ばせるクリスチャンになりたいものです。

3C 万軍の主 13−15
 こうして、民の準備は整いましたが、ヨシュアはまだ不安だったのでしょう。彼はエリコの城壁のところまで来ました。

 さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの見方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」すると、主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。

 ヨシュアの前に一人のひとが現われました。この方はご自分を「主の将軍」と言われます。ヨシュアがひれ伏しています。そして、主の将軍は、はきものを脱ぐように命じておられます。燃える柴の中でモーセに呼びかける主ご自身のようにです。この方は、イエス・キリストです。キリストが受肉される前も、キリストはおられました。そこで今、ここで現われておられます。

 ヨシュアは、自分の肩にのしかかる重圧に苦しんでいたかもしれません。二百万人とも、三百万人とも言われるイスラエル人を、敵がたくさんいるところを指揮して、勝利を収めさせなければいけないのですから、責任重大です。けれども、主は、「わたしが万軍の将である」と言われて、責任を取るのは主ご自身だということを教えられたかったのでは、と思います。自分で闘うのではなく、主が戦ってくださる。これが肉ではなく御霊による歩みです。キリストが主役であり、自分は傍観者だと言えれば良いでしょう。


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