レビ記11−12章 「聖めを全うする」


アウトライン

1A 区別することによって 11
   1B 交わらない 1−23   
      1C 反芻とひずめ 1−8
      2C ひれとうろこ 9−11
      3C はね足 12−23
   2B 関わらない 24−40
      1C 死体の汚れ 24−28
      2C 汚れの感染 29−38
      3C 食用動物の汚れ 39−40
   3B 分離する 41−47
2A 贖いによって 2
   1B 内側からの汚れ 1−5
   2B いけにえ 6−8


本文

 レビ記11章を開いてください。今日は、11章と12章を学びます。ここでのテーマは、「聖めを全うする」です。

 私たちはレビ記を学んでいますが、1章から7章においては、会見の天幕における犠牲のささげものについて、主がモーセに教えられました。次に、前回の学びですが、8章から10章までは、祭司が、幕屋における奉仕につくために、聖別の儀式を通ったことを学びました。祭司の装束を着て、油が注がれ、自分のための罪のいけにえ、全焼のいけにえ、そして聖別のいけにえをささげました。それから、初めての奉仕を行ないましたが、そのときに、祭壇に主からの火が下りました。イスラエルの民は喜び叫び、主を礼拝しましたが、その最中で、悲劇が起こりました。アロンの息子ナダブとアブフが、異なる火を主にささげたので、火によって焼き尽くされてしまったのです。

 この事件が起こったあとに、主がアロンに直接語られた言葉があります。10章の9節からです。「会見の天幕にはいって行くときには、あなたがたが死なないように、あなたも、あなたとともにいるあなたの子らも、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。」ナダブとアブフが火で焼かれてしまったのは、おそらく強い酒や、ぶどう酒を飲んで、酔っていたからだと思われます。そこで彼らに失われてしまったものは、判断力でした。主が、こうしなさい、と命じられたことが何であるかを見分けることができなくなり、異なる火を主の前にささげたのです。そして、神は、続けて、アロンに語られます。「これはあなたがたが代々守るべき永遠のおきてである。それはまた、あなたがたが、聖なるものと俗なるもの、また、汚れたものときよいものを区別するため、また、主がモーセを通してイスラエル人に告げられたすべてのおきてを、あなたがたが彼らに教えるためである。(10:9-11」主はアロンに、区別をしなさい、と命じられました。

 そこで、11章以降は、主がモーセとアロンに、きよいものと汚れたものについて区別することを命じられた言葉が書かれています。レビ記1章から10章までは、会見の天幕においてしなければならないことが書かれていますが、11章から15章までは、イスラエル人の一般の生活における命令になっています。この地で生きていく上で、きよいものと汚れたものを区別しなければならないことを、主が教えられます。

1A 区別することによって 11
 神が、区別する神であることを知ることは大切です。創世記1章を読みますと、神は天と地を創造されたとき、光とやみを区別されました。また、イスラエルの民を他の民族と区別されて、エジプトにおいて、災いがエジプト人のみに下りました。そして、新約聖書においても、神から出た者か、悪魔から出た者か、その区別がはっきりしていると使徒ヨハネが話しています(Tヨハネ3:10)。ですから、神は区別する方です。ですから、この神を信じる私たちも、何が良い物で悪い物かを区別して歩んでいます。ヘブル書5章14節において、「しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」と述べられています。ですから、イスラエルが日ごろの生活の中で区別をして生きなければいけないことは、私たちクリスチャンが、良い物と悪い物とを、神のみことばによって判別して生きていくことに他なりません。

1B 交わらない 1−23
 11章1節を読みます。それから、主はモーセとアロンに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。地上のすべての動物のうちで、あなたがたが食べてもよい生き物は次のとおりである。」

 
11章は、イスラエル人が食べてよいきよい動物と、そうではない汚れた動物について教える「食物規定」についての章です。ヘブル語では、いや英語にもなっていますが、「コウシャ」と呼びます。主は、食べてよいものと、そうではないことを区別することにより、イスラエル人が他の民族から分けられた、聖なる国民であることを示そうされました。例えば、使徒の働き10章において、ペテロが皮なめしシモンの家で見た幻は、「その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥」でした(10:12)。ペテロは、そして、「主よ、これを食べることはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」と言いましたね。ペテロは、レビ記11章に書かれている食物規定を守っていたのです。今でもユダヤ人は食物規定を守っています。イスラエルに行くと、いやアメリカにおいても、「コウシャ・レストラン」があり、豚肉や、血が入った肉、乳製品と肉製品を同時に出さないなど、食物規定をかたく守りつづけています。

1C 反芻とひずめ 1−8
 2節から23節までに、どのような動物がきよく、あるいは汚れているのか、その定義について説明されています。そして、地上の動物を、三種類に分類しています。創世記1章を思い出してください。陸上の動物、水の中にいる生き物、そして、空にある生き物を主がお造りになりました。この分類で、主がモーセとアロンに教えられます。まず、陸上の動物について語られます。

 動物のうちで、ひづめが分かれ、そのひづめが完全に割れているもの、また、反芻するものはすべて、食べてもよい。

 足にひずめがあり、かつ反芻するものは、きよい動物です。ひずめがない動物とは、足の裏がふくらんでいるもの、例えば、犬や猫は足の裏がふくらんでいますね。それは汚れています。そして、反芻しない動物とは、肉食動物ですね。反芻するのは、草食動物だけです。

 しかし、反芻するもの、あるいはひづめが分かれているもののうちでも、次のものは、食べてはならない。

 反芻するだけ、あるいはひずめが分かれているだけでは、きよい動物ではありません。そこで、次に、片方だけしかない動物の例を列挙されます。

 すなわち、らくだ。これは反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。

 
らくだは、食べてはいけません。イエスさまが、パリサイ人に、「あなたは、ぶよをこして除くが、らくだはのみこんでいます。(マタイ
23:24」と言われたとき、かなりの皮肉であったことが、ここから分かります。

 それから、岩だぬき。これも反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。また、野うさぎ。これも反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。

 岩だぬきも、野うさぎも、厳密には反芻する機能は持っていないのですが、その口をもぐもぐさせている姿を、反芻すると神が言われているのでしょう。

 それに、豚。これは、ひづめが分かれており、ひづめが完全に割れたものであるが、反芻しないので、あなたがたには汚れたものである。


 豚は、反芻せず、えさを留まることなく食いあさります。ところで、イエスさまが、悪霊レギオンを豚の群れの中に移されましたが、人々は、不法なビジネスを行なっていたことが、ここから分かります。


 あなたがたは、それらの肉を食べてはならない。またそれらの死体に触れてもいけない。それらは、あなたがたには汚れたものである。

 食べてはいけない、という戒めです。また、その死体にも触れてはいけません。

 これらの規定を守るように主は命じられましたが、これは、2節に書かれているように、イスラエル人に対するものであり、私たちクリスチャンは、この食物規定を守る必要はありません。けれども、きよいもの、汚れているものとの区別をしなければならないことは、強く命じられています。食べることは、交わることを意味しています。食べ物が体内に入ることによって、それと一体化することから、交わることを表わしています。ですから、汚れたものと交わってはいけない、というのが、食物規定から得られる教えなのです。パウロは言いました。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。(Uコリント6:14-16」私たちは、この世のものと交わってはいけないのです。

2C ひれとうろこ 9−12
 陸上の動物の次に、水の中に生き物について、主が教えられます。水の中にいるすべてのもののうちで、次のものをあなたがたは食べてもよい。すなわち、海でも川でも、水の中にいるもので、ひれとうろこを持つものはすべて、食べてもよい。

 
ひれとうろこを持つもの、つまり、鯛やさんまや、普通の魚は食べてよいのです。

 しかし、海でも川でも、すべて水に群生するもの、またすべて水の中にいる生き物のうち、ひれやうろこのないものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。これらはさらにあなたがたには忌むべきものとなるから、それらの肉を少しでも食べてはならない。またそれらの死体を忌むべきものとしなければならない。水の中にいるもので、ひれやうろこのないものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。

 
うろこやひれがないものと言ったら、かに、うなぎ、貝など、数多くの種類の生き物が該当しますね。そして、これらは、「忌むべきもの」であると主は言われています。汚れているよりも、さらに強い言葉です。ところで、イエスさまは地引き網のたとえを語られました。「また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。(マタイ
13:47-48」ここの、良いものを器に入れ、悪いものを捨てるのは、食物規定によります。イスラエル人の漁師は、ひれとうろこのあるものを器に入れ、ひれとうろこのないものを捨てました。

3C はね足 13−23
 陸上の動物、水の中の生き物の次は、空にいる生き物です。また、鳥のうちで次のものを忌むべきものとしなければならない。これらは忌むべきもので、食べてはならない。すなわち、はげわし、はげたか、黒はげたか、とび、はやぶさの類、烏の類全部、だちょう、よたか、かもめ、たかの類、ふくろう、う、みみずく、白ふくろう、ペリカン、野がん、こうのとり、さぎの類、やつがしら、こうもりなどである。

 空の鳥については、ここのリストを見ると、主に猛禽類を食べてはいけないようです。他の動物を食べる鳥は食べてはいけません。

 さらに次に、空の生き物でも、羽がある昆虫類について主は語っておられます。羽があって群生し四つ足で歩き回るものは、あなたがたには忌むべきものである。しかし羽があって群生し四つ足で歩き回るもののうちで、その足のほかにはね足を持ち、それで地上を跳びはねるものは、食べてもよい。

 はね足がある昆虫は、その四つ足で地を這いつくばるのではなく、跳んでいことにおいて、きよいと区別されているようです。

 それらのうち、あなたがたが食べてもよいものは次のとおりである。いなごの類、毛のないいなごの類、こおろぎの類、ばったの類である。これは、バプテスマのヨハネが食べていました。いなごと野蜜を食べていました。このほかの、羽があって群生し四つ足のあるものはみな、あなたがたには忌むべきものである。

 群生とありますが、ここのヘブル語は、「はうもの」と訳すこともできます。

 ここまでが、食べることについての規定ですが、どのようにして動物が区別されているのでしょうか。肉のなかに菌が入っているかいないかという、医学的な理由からの区別ではありません。確かに、汚れているものとされている動物の中には、例えば豚などは、今でも寄生虫が付いているかもしれないから、よく焼かなければいけないのですが、それが目的ではなく、先ほど言いましたように、イスラエルが、他の民族と区別されて聖なる民になることが、その目的です。けれども、なぜある動物が汚れていて、他の動物がきよいのかが不思議です。そこで、この3つに分類された動物について、汚れた動物の共通点を探してみましょう。

 第一に、陸上の動物は肉食が汚れています。そして、空の鳥では猛禽類であり、これもまた肉食動物です。肉を食う動物が汚れており、その肉を血がついたまま食べているところに、汚れているとされている理由があるようです。天と地が初めに創造されたとき、人も含めて、すべての陸上の動物は草食でした。つまり、神は、どの動物も肉を食べないように創造されたのです。実は、イエスさまが再臨されてからの千年王国においても、熊やライオンが草を食べると預言されています(イザヤ11:6-7)。ですから、これが理想の状態なのですが、ノアの時代に洪水があってから、神は、人に動物を食べてもよい、と言われます。けれども、一つの条件が付いていました。「肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。(創世9:4」というものです。これは、律法においても定められたことですが、たとえ動物を食べるときにも、いのちを尊重しなければなりません。したがって、神は、生き物のいのちをとても大切にされており、ご自分のかたちに造られた人のいのちは、何事にもまして尊いものとされていることが分かります。

 ですから、イスラエル人が肉食動物を食べないのは、神が人間や生き物を大切にされているように、自分たちも大切にすることの現われであります。広い意味での暴力をふるわないことでしょう。私たちクリスチャンにとっては、神を畏れかしこんで、相手を自分よりも優れたものとみなし、慎み深く生きることであろうと思われます。高ぶったり、無慈悲になったり、そしったり、陰口を行ったりするとき、私たちは、相手の心に傷をつけ、いわば「血を流す」ようなことをしてしまうのです。けれども、私たちが生きているこの世では、そのような暴力が当たり前のようにまかり通っています。けれども、クリスチャンの間では、決してそのようなことはあってはなりません。そのような価値観から、相手を食い物にし、相手の心を突き刺すような価値観を、いっさい共有してはいけないのです。それを汚れたものとみなし、忌み嫌わなければいけません。

 そして、汚れた動物に共通しているもう一つのことは、地上に、あるいは水に直接、接していることです。陸上の動物は、ひづめが割れているものは食べて良いのですが、それは、足が直接、地面に接していないのに対し、足の裏のふくらみで歩くものは、地面に接しています。また、水の中の生き物は、うろこやひれがないことにより、水に直に接している、あるいは、水底に接しているものであります。四つ足の這うものは、もちろん地面に接していますが、はね足のある者は、基本的に地の上ではねているだけで、這うことはありません。したがって、地に接している動物です。ここから、それらが汚れているのは、地に属していることを表わしているからだ、と言えます。

 主は、天から来られた方であるのに対し、悪魔は地から来ました。天に属するものがある一方で、地に属するものがあります。したがって、イスラエル人が、地に接する動物を食べないのは、地に属する事柄といっしょにならないことを表わしています。私たちクリスチャンは、地に属するものから一切、離れるように命じられています。コロサイ人への手紙3章には、このように書かれています。「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。…ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。(3:1-2,5」不品行、汚れ、情欲は地に属するものです。そして、ヤコブはこう言っています。「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。…しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。(ヤコブ3:14-17」ねたみや敵対心は地に属しますが、純真、平和、寛容、温順は上からの知恵です。ですから、私たちは、何が汚れているかを見分けて、それらから袂を分つ決断を、つねに行なっていかなければならないのです。

2B 関わらない 24−40
 そして次に、死体に触れてはいけないことについて、24節から40節に渡って書かれています。

1C 死体の汚れ 24−28
 次のことによっても、あなたがたは汚れたものとなる。すなわち、これらのものの死体に触れる者はみな、夕方まで汚れる。もし死んでいたら、触れるだけで汚れます。また、これらのどの死体を運ぶ者もみな、その衣服を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。動物の死体を運ばなければならないときがありますが、そのときも汚れます。ひづめが分かれてはいるが、それが完全に割れていないか、あるいは反芻しない動物、これらすべてはあなたがたには、汚れたものである。これらに触れる者はみな汚れる。また、四つ足で歩き回るすべての生き物のうちで、足の裏のふくらみで歩くものはみな、あなたがたには、汚れたものである。その死体に触れる者はみな、夕方まで汚れる。先ほど、食べてはいけないと言われた汚れた動物が再び列挙されています。これらの死体を運ぶ者は、その衣服を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。これらは、あなたがたには、汚れたものである。

 
汚れたときには、衣服を洗わなければいけません。

 このように、死体の場合は、食べるのではなく、触れるだけでも汚れます。それは、もちろん衛生上でもその通りですが、ここでは、「罪によって死が入った」という罪の結果を象徴しています。アダムが罪を犯さないときには、死というものが存在しませんでしたが、罪によって死が入りこみ、それが全人類、被造物全体にまで広がりました。したがって、死体を触ることは、罪に関わりを持つことを表わしており、罪とかかわりを持てば、当然ながら私たちは汚れます。ですから、私たちは罪人をあわれみ、受け入れますが、罪は忌み嫌わなければいけないのです。ユダは、こう言いました。「疑いを抱く人々をあわれみ、火の中からつかみ出して救い、またある人々を、恐れを感じながらあわれみ、肉によって汚されたその下着さえも忌みきらいなさい。(ユダ22-23」あわれむのですが、その汚された下着さえ忌みきらいなさい、と訓戒しています。

 そして、死体にふれて汚れたとき、衣服を洗ってきよめるのですが、私たちも罪との接触があり、思いが汚されてしまったら、自分をきよめなければいけません。清めるには、罪の告白があります。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(Tヨハネ1:9」とあるとおりです。そして、みことばを読むことがあります。「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、(エペソ5:26」とパウロは言いました。さらに、実際に罪を捨てることによって、自分を清めます。ヤコブが言いました。「罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。(ヤコブ4:8」ですから、みことばを読み、罪を言い表し、捨て去ることによって、イスラエル人が行なった衣服の洗いを行なうことができるのです。

2C 汚れの感染 29−38
 そして、29節から38節までには、死体の汚れが感染して、他のものを汚してしまうことについて書かれています。地に群生するもののうち、次のものはあなたがたにとって汚れている。すなわち、もぐら、とびねずみ、大とかげの類、やもり、わに、とかげ、すなとかげ、カメレオンである。

 
ここも、単に群れをなして生きているということではなく、地を這って生きている動物を指しています。もぐらは地上ではなく、地中を這っていますが。

 すべて群生するもののうちで、これらはあなたがたには、汚れたものである。これらのものが死んだとき、それに触れる者はみな、夕方まで汚れる。

 
先ほど学んだように、これらの動物は地に属するので、汚れています。死体に触れたら、汚れます。ところで、先ほどから、「夕方まで汚れる」という言葉が出てきます。創世記1章に、「夕があり、朝があった。第一日。」とありますが、聖書では、夕方から一日が始まります。したがって、一日という単位で汚れます。私たちの歩みにおいてもそうです。朝に祈り、そして夕に祈らなければならないのは、私たちが一日のうちに触れてしまった世の汚れを、主によって洗い清めていただくためです。何日も経ってから罪を告白するのではなく、その日のうちに告白します。

 また、それらのうちのあるものが死んだとき、何かの上に落ちたなら、それがどんなものでも、みな汚れる。木の器、あるいは衣服、あるいは皮、あるいは袋など、仕事のために作られた器はみな、水の中に入れなければならない。それは夕方まで汚れているが、そうして後きよくなる。

 自分が死体に触れるのではなく、死体のほうが自分の持ち物に落ちてきたとき、それでも、きよめなければいけません。「私がやったのではないから、しょうがないではないか。」という言い訳はできないのです。自分の身の周りに、罪が入りこんで来たら、それから離れ、自分を洗い清めることは私たちの責任なのです。例えば、陰口はどうでしょうか。人々が、自分の周りで人の悪口を言っているとき、私たちは、なんとかして、その場を立ち去る義務があります。私のところに落ちてきたのだから仕方がないだろう、と言い訳をしても、その陰口を聞いて、何も影響されないことはないからです。そして、死体が落ちてきたのは、仕事場であることに気づいてください。教会ではなく、自分が仕事をしているところで、自分のところに罪が迷い込んでくるのです。そのときであっても、「この世にいるのだから、しょうがない。」ではなく、すぐ罪を処理しなければなりません。

 また、それらのうちの一つが、どのような土の器の中に落ちても、その中にあるものはすべて汚れる。その器は砕かなければならない。

 土の器は、水で洗っても、触れた物の成分は取り除くことができません。これは、砕いてしまうしかないのです。私たちの生活において、このように明確な一線を引くことができないので、一切関わらない方法を取らなければいけない時があります。ある人にとっては、お酒はそうでないでしょうか。自分が酔いしれてはいけないと思っても、どこまでが酔っていて、そうでないかの境界線がはっきりしない。聖霊に満たされて、分別のある生き方を全うしたいと思って、お酒を一切飲まないという人もいるでしょう。人によって、それぞれ違いますが、土の器のように一切合財、砕いてしまわなければいけないことがあります。

 また食べる物で、それにそのような水がかかっていれば、それはみな汚れる。また飲む物で、このような器の中にあるものはみな汚れる。

 
死体が触れた水であっても、その水を少しでも口にするのであれば汚れてしまいます。つまり、汚れは感染する、あるいは伝染するのです。これは、とても大切です。この世の価値観は、「人に迷惑をかけていなければ、何をしてもいいではないか。」でありますが、聖書では、「自分が思っていること、行なっている悪いことは、他にも広がる。」と言うものであります。ヘブル書
12章に、こう書かれています。「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように(ヘブル12:14-15」聖さは、主につながらないかぎり伝播しませんが、汚れは人から人へと伝染していきます。

 さらに、どんなものでも、その上にこれらの死体の一つが落ちたものは汚れる。それがかまどであれ、炉であれ、それを粉々に割らなければならない。それは汚れており、あなたがたには汚れたものとなる。

 場所は、仕事場から台所に移っています。かまど、炉などは食べる物を作っているのですから、ここに死体が落ちたら、砕くだけではなく、粉々に割らなければいけません。台所は、自分たちに密接なところです。自分の家の中のことです。したがって、外にある汚れ以上に、内にある汚れに細心の注意を払わなければならないのです。自分の家に、つまずきとなるようなものは置いていないでしょうか。置いていれば、即、それを取り除くべきです。

 しかし、泉、あるいは水のたまっている水ためはきよい。ただし、それらの死体に触れるものは汚れる。

 
今度は逆に、水があまりにも多すぎるので、そこに死体が落ちても、その水で汚れることはないと、主はお語りになっています。まさか、その泉を、ブルドーザーで土に埋めてしまうことはできないからです。これは、私たちが生きているこの世において、すべての汚れをきよめることはできないことを示しています。例えば、私たちの税金は、必ずしも善のためだけではなく、宮内庁運営費や、中絶の補助金などにも使われていますが、まさか、その分だけ税金を払いません、という風にはなりません。パウロも、「それは、世の中の不品行な者、貪欲な者、略奪する者、偶像を礼拝する者と全然交際しないようにという意味ではありません。もしそうだとしたら、この世界から出て行かなければならないでしょう。(Tコリント
5:10」と言いました。全然かかわりを持たなかったら、この世から出て行かなければいけないのですが、主は、そこまで私たちに要求されていません。

 また、もしそれらのどの死体が、蒔こうとしている種の上に落ちても、それはきよい。しかし、種の上に水がかけられていて、その上に、それらの死体のあるものが落ちたときは、それはあなたがたには汚れたものである。

 これもまた、水が汚れを伝染する媒体となっていますが、よくもまあ、主は、細かいところにまで清さを求めておられるなあ、と私は思いました。けれども、主は、私たちの生活の中の細かいことにまで気を使っておられます。これは、すばらしいことです。大きな問題だけを私たちは祈りがちですが、私が大学生のとき、祈り会のリクエストの中に、「口内炎をいやしてください。」などと言うものがありました。こんな些細なことさえも、主は関心を持っておられます。「また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。(マタイ
10:3」と主は言われました。

3C 食用動物の汚れ 39−40
 次は、食べるときにはきよい動物が自然に死んだ場合について、取り扱われています。あなたがたが食用として飼っている動物の一つが死んだとき、その死体に触れる者は夕方まで汚れる。その死体のいくらかでも食べる者は、その衣服を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。また、その死体を運ぶ者も、その衣服を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。

 たとえ食用の動物であっても、自然に死んだものは、食べてはいけないし、触ってもいけません。触れば汚れます。これは、きよいものと言われている中にあっても、罪は入りこんでくることを意味します。クリスチャンの間で、世が行なっていることがまかり通ってしまうことがあります。私は、この前、主に対して罪を告白したのですが、それは、チェーン・メールを他の大ぜいに転送したことでした。それは、転送するとマイクロソフト社から小切手がもらえるというデマでした。けれども、それを私は転送して、多くの人たちを惑わしてしまいました。謝罪の返答メールを書くだけでも多くの時間を使ってしまい、愚かなことをしたと私は思いました。けれども、もともと私に転送してきた人はクリスチャンであり、また、その前に転送した人もみなクリスチャンや教会のアドレスが書かれていました。このように、クリスチャンの間でも、私たちは区別をしなけらばならない、良い物と悪い物を見分けなければならないことを、私は辛い方法で、教訓として学びました。

3B 分離する 41−47
 そして41節から47節までに、主はイスラエルの民を、汚れから分離せよ、と鼓舞しておられます。また、地に群生するものはみな忌むべきもので、食べてはならない。地に群生するもののうち、腹ではうもの、また四つ足で歩くもの、あるいは多くの足のあるもの、これらのどれもあなたがたは食べてはならない。それらは忌むべきものである。

 群生する生き物について、これは忌むべきものであると繰り返して、それを避けるように力説しておられます。おそらく、とてもありふれたものだからでしょう。私たちも、ありふれた事柄については、何回も聞かないと気をつけることができません。

 あなたがたは群生するどんなものによっても、自分自身を忌むべきものとしてはならない。またそれによって、身を汚し、それによって汚れたものとなってはならない。


 主は、あなた自身を忌むべきもの、汚れたものとしてはいけない、と励ましておられます。主は、ご自分のためではなく、イスラエル人たちの益を考えて、これは汚れたものである、と言われています。

 そして次に、ここまで主が語られてきたこと、区別しなければならないことについて、その理由が書かれています。わたしはあなたがたの神、主であるからだ。あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。

 主が聖であられるから、自分を聖別しなければなりません。主のかたちに似せられて変えられていくために、イスラエル人は、汚れたものから分離しなければならなかったのです。この「聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」という言葉が、レビ記全体のテーマであり、クリスチャン生活にも適用されなければいけない原則です。ペテロが言いました。「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。『あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである』と書いてあるからです。(Tペテロ
1:15-16」生活のすべての面で聖なる者となります。

 地をはういかなる群生するものによっても、自分自身を汚してはならない。わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。

 再び、あなたは聖なる者となりなさい、と呼びかけておられますが、その根拠が、主がイスラエル人をエジプトから連れ出して、ご自分のものとされたから、とされています。イスラエルは主の民であり、主は、イスラエルの個人的な神となったのです。そこで、コリント人への第二の手紙6章をお開きください。パウロは、私たちクリスチャンが聖潔に向かって走らなければいけないことを、この食物規定の律法を引用して勧めています。6章の
16節から読みます。「神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。『わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。』」ここがまさに、11章にあったおきてです。「『そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。』愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。(6:16-7:1」神が私たちに命じられている聖潔は、私たちの益のためであり、親子のような神との親密な関係を持つための道なのです。

 以上が動物と鳥、また水の中をうごめくすべての生き物と、地に群生するすべての生き物についてのおしえであり、それで、汚れたものときよいもの、食べてよい生き物と食べてはならない生き物とが区別される。

2A 贖いによって 2
 こうして動物についての規定が終わりました。12章から15章までは、人間のからだにある汚れについて取り扱われています。12章は女の出産について、1314章はらい病について、そして15章は、性器からの漏出物についての律法です。11章が、食べたり触ったりすることで汚れるのを避ける戒めであるのに対し、12章以降は、自分のからだが汚れており、聖なる場所からは隔離され、いかに自分がきよめられるのかについて取り扱われています。自分から出てくる汚れ、内側の汚れです。

1B 内側からの汚れ 1−5
 それから、主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。女が身重になり、男の子を産んだときは、その女は七日の間汚れる。その女は月のさわりの不浄の期間のように、汚れる。

 女が子を産んだときは、月経のときのように、血という体液が自分自身から出てきます。その血によって自分は汚れており、そこからきよめられるにはどうしたらよいか、主が教えてくださっています。これは、もちろん、道徳的に、霊的に、女性が子を産むことによって汚れるのではありません。パウロはテモテに、「女は、子を産むことによって救われます。(Tテモテ
2:15」と言いました。これは、子を産む行為によって救いにあずかるということではなく、子を産んでも、救われていることを話しています。つまり、子を産むことは、霊的に汚れたり、救いを失ったりすることはない、と言うことです。けれども、血が体内から出てくることは、人間の汚れが内側から出てくることを象徴しています。イエスさまが、こう言われました。「内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。(マルコ7:21-23」私たちは、内側から汚れが出て来るような罪の性質を持っているのです。

 女が汚れることが、出産時に起っていることも意味があります。なぜなら、その赤ちゃんは、すでに胎内にいるときから罪を宿していたからです。ダビデは言いました。「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。(詩篇51:5」罪は、母親から子どもへと、受け継がれているのです。エバが、悪魔に惑わされたために、主から罰せられたとき、その罰は、産みの苦しみをしなければならない、と言うものでした。子が生まれることは、実に喜ばしいことであり、主はアブラハムに、あなたの子孫は地のちりのようになると言われ、詩篇には、「見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。(127:3」と書かれています。けれども、と同時に、罪ある者をこの世に出したという、生々しい現実があるのであり、その現実を投射するために、女は不浄の期間に入るのです。

 ・・八日目には、その子の包皮の肉に割礼をしなければならない。・・

 割礼は、神がアブラハムと結ばれた契約のしるしでした。アブラハムとの契約の中に自分が入るときに、しるしとして割礼を受けます。けれども、外側の割礼が大事なのではなく、割礼が示している霊的現実が大切であると、パウロは言いました。アブラハムがどのように、神を信じて、義と認められたのか。自分の肉に従わずに、どのように御霊に導かれたのか。心の包皮を切り落として、神の御声に敏感に聞き従うようになったのか。このようなことが大事であり、その内実の現われとして、割礼があります。

 その女はさらに三十三日間、血のきよめのために、こもらなければならない。そのきよめの期間が満ちるまでは、聖なるものにいっさい触れてはならない。また聖所にはいってもならない。

 7
日間に33日間を足して、合計40日間、母親は汚れています。40日間で思い出すのは、ノアの時代に雨が降ったのが、4040夜であったことです。神の水のさばきが地上に下りました。同じように、罪によってもたらされるさばきのことについて、私たちは考えなければいけません。人は罪をもって生まれて、罪人として死にます。その後、神のさばきを受けるように定められているのです。

 もし、女の子を産めば、月のさわりのときと同じく、二週間汚れる。その女はさらに六十六日間、血のきよめのために、こもらなければならない。

 
生まれてきた赤ちゃんが女の子の場合、男の子の二倍の日数の間、汚れていることになります。これは、女の子のほうが男の子よりも価値がないとか、汚れているとかいうことでは、もちろん決してありません。そうではなく、順番の問題、秩序の問題です。パウロが、テモテに対して、女が男を教えてはいけないことについてこう述べました。「女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。(Tテモテ
2:11-14」アダムが罪を犯したとき、その前にエバが惑わされた。この順序を知らせるために、女の子の場合、二倍のきよめの期間を要したのです。

 ただ、そもそも、血のきよめの期間、女は働くことをせず、休んでいることに注目していただければ、これは、自由を拘束するために課せられた規則ではなく、むしろ、母体を大事にされている主の心遣いを知ることができるのです。私たちはとかく、律法を読むと、自分たちを束縛するものと受け止めがちですが、律法は私たちに幸せをもたらす、と詩篇の著者は教えています。スクール・ミニストリーの学生で、ユダヤ人の兄弟がいました。彼は、アメリカ市民ですが、ユダヤ人なのでイスラエルのキブツで暮らしたことがあります。仕事は、安息日ごとに休みであり、その他、年ごとの祭りがあるので、その時も休みです。彼は、「たくさん、休みを与えてくださる、すばらしい神さまだ。」と思ったそうです。ですから、女性は、80日間も休養することができたのです。

2B いけにえ 6−8
 そして、きよめの期間が終わってからのことが、次に書かれています。彼女のきよめの期間が満ちたなら、それが息子の場合であっても、娘の場合であっても、その女は全焼のいけにえとして一歳の子羊を一頭と、罪のためのいけにえとして家鳩のひなか、山鳩を一羽、会見の天幕の入口にいる祭司のところに持って来なければならない。

 
いけにえを祭司のところに持っていきます。全焼のいけにえ、つまり、自分自身を主におささげすること、そして、罪のためのいけにえ、つまり、自分の罪の告白をすることをします。

 祭司はこれを主の前にささげ、彼女のために贖いをしなさい。彼女はその出血からきよめられる。これが男の子でも、女の子でも、子を産む女についてのおしえである。


 このいけにえを行なってから初めて、女は贖われ、出血からきよめられます。つまり、血から彼女をきよめたのは、いけにえだったのです。

 そこで、内側からの汚れの問題、からだに宿している罪の性質の問題についての解決法が提示されました。それは、犠牲の供え物による贖いです。イエス・キリストが、私たちの罪のために十字架につけられたこと、私たちの罪がキリストとともに十字架につけらえたこと、このことを信仰をもって受け入れることが、私たちがとどめもなく出て来る汚れをきよめる方法なのです。たくさん祈ってみたり、聖書を読んでみたりすることでさえ、この汚れた思いをきよめることはできません。ただ、この罪のからだは、キリストとともに十字架につけられたこと、もうすでに死んでいるとみなすことのみによって、真の解放がおとずれます。そして、自分自身を神にささげて、聖潔へと進めばよいのです。母親が、全焼のいけにえと罪のためのいけにえをささげたように、ご自身を犠牲の供え物としてささげたキリストを見上げていくことが、唯一の道なのです。

 しかし、もし彼女が羊を買う余裕がなければ、二羽の山鳩か、二羽の家鳩のひなを取り、一羽は全焼のいけにえとし、もう一羽は罪のためのいけにえとしなさい。祭司は彼女のために贖いをする。彼女はきよめられる。

 貧しい人は、子羊ではなく、鳩をささげることはできます。つまり、経済的な理由で、主の命令に従えないことがないようにしておられます。どのような人も、主の前には罪人であり、またどのような人も、主イエス・キリストの贖いによる、罪の赦しを得ることができます。

 そして、この二羽の鳩のいけにえですが、新約聖書の中に出てきます。マリヤがイエスさまを産んだときのことです。ルカによる福音書2章22節において、「さて、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った。」とあります。幼子をささげるもの律法の中に命じられていますが、ルカ2章24節には、「また、主の律法に『山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽。」と定められたところに従って犠牲をささげるためであった。』」と書いてあります。つまり、マリヤは、このレビ記12章に書かれてあることに従って、幼子イエスさまを連れて来ていたのです。女から生まれた赤ちゃんは、生まれながらの罪について教えてくれますが、イエスさまは違います。処女からお生まれになり、聖霊によってマリヤは身ごもりました。イエスさまのからだは、罪を宿してなかったのです。なのに、ここで、罪のためのいけにえをささげなければならないという律法の下で、エルサレムに連れて来られました。ガラテヤ書には、「神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。(4:4-5」と書いてあります。イエスさまは、罪を持っておらなかったのに、私たち罪人の中に入ってきてくださり、罪人として数えられました。

 パウロは、「霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。」と言いましたが、聖きを全うするときに必要な方が、イエス・キリストです。ヘブル書の著者は、「また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。(7:26」と言いました。キリストが私たちのうちにおられるので、心の良心を完全に洗い清められ、また、汚れから分離して、聖なる神の似姿に変えられるのです。


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