レビ記13−14章 「罪のきよめ」


アウトライン

1A 主に調べていただく
   1B 私たちの姿 1−46
      1C 隔離 1−44
         1D かさぶたとはれもの 1−17
            1E 広がり 1−8
            2E 生肉 9−17
         2D 腫瘍とやけど 18−28
         3D 頭の疾患 29−44
            1E 隠れたところ 29−37
            2E 隠れていないところ 38−44
      2C 追放 45−46
   2B 私たちの行ない 47−59
2A 主に直していただく
   1B 私たちの姿 1−32
      1C キリストの死と復活 1−9
      2C 私たちの献身 10−32
         1D 血と油 10−20
         2D 貧しい者 21−32
   2B 私たちの内側 33−57
      1C 除去 33−47
      2C 贖い 48−57


本文

 レビ記13章を開いてください。今日は、13章と14章を学びます。らい病についての教えです。ここでのテーマは、「罪のきよめ」であります。

 私たちは、前回12章において、出産する女性が、体から出た血によって汚れることを学びました。それは、単に衛生上の理由ではありません。また、実際に出産した女の人が、罪を犯しているとか、不道徳になるのではありません。これは、象徴的な意味で汚れています。人から汚れが出てくることを、体内から血が出てくることに象徴的に表れているので、汚れたものとされます。イエスさまは言われました。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。(マルコ7:20-23」この考えが、これから学ぶ13章と14章にもあります。らい病が汚れたものとされ、隔離され、宿営から追放されます。それは、らい病が、人々の罪の性質を表しているからです。したがって、私たちがこれから読む聖書個所は、私たちに宿っている罪の性質や罪の行ないについて教えてくれます。また、そこからどのようにしてきよめられるかについて学ぶことができます。

1A 主に調べていただく 13
1B 私たちの姿 1−46
1C 隔離 1−44
1D かさぶたとはれもの 1−17
1E 広がり 1−8
 ついで主はモーセとアロンに告げて仰せられた。「ある人のからだの皮膚にはれもの、あるいはかさぶた、あるいは光る斑点ができ、からだの皮膚でらい病の患部のようになったときは、その人を、祭司アロンか、祭司である彼の子らのひとりのところに連れて来る。祭司はそのからだの皮膚の患部を調べる。その患部の毛が白く変わり、その患部がそのからだの皮膚よりも深く見えているなら、それはらい病の患部である。祭司はそれを調べ、彼を汚れていると宣言する。

 人が、らい病であるかどうか調べられています。まず、この「らい病」について私たちはこれが何であるかを知らなければいけません。というのは、「らい病」と訳されているヘブル語が、はたして現在のらい病に該当するのか、つまりハンセン氏病なのかどうかについて、いろいろな意見があるからです。ある人は、ハンセン氏病にあるような、体が腐ったりするような症状が書かれていないので、ハンセン氏病ではない、と言いますし、また、ある人は、ハンセン氏病も含まれている、と言います。けれども、確かなことは、ここに書かれているとおり、初めに皮膚にはれもの、かさぶた、あるいは光る斑点ができること。そして、しばらくすると、患部の毛が白く変わり、その患部が他の皮膚よりも深く見えているようになることです。ですからハンセン氏病であろうとなかろうと、皮膚に傷ができて、その症状が進行を見ることができるときに、汚れていると宣言されます。


 これが、罪を表していることは、他の聖書個所から明らかです。詩篇には、こう書いてあります。あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のため私の骨には健全なところがありません。…私の傷は、悪臭を放ち、ただれました。それは私の愚かしさのためです。…私の腰はやけどでおおい尽くされ、私の肉には完全なところがありません。…私はつまずき倒れそうであり、私の痛みはいつも私の前にあります。私は自分の咎を言い表わし、私の罪で私は不安になっています。(38:3,5,7,17,18)」また、イザヤ書には、こう書いてあります。「足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。(イザヤ書1:6」体に傷があることは、罪があることのたとえでありました。ですから、私たちが、らい病についての個所を読むときに、その患者はまさに自分である、罪ある自分の姿であると考えつつ読まなければいけません。

 もしそのからだの皮膚の光る斑点が白くても、皮膚よりも深くは見えず、そこの毛も白く変わっていないなら、祭司はその患者を七日間隔離する。祭司は七日目に彼を調べる。もしその患部が祭司の目に、そのままに見え、患部が皮膚に広がっていないなら、祭司は彼をさらに七日間隔離する。

 らい病であるかどうか調べてもわからないときは、このように7日間隔離されて、調べられます。今日でも伝染病にかかったとき、同じように隔離されますが、そのような衛生上の理由もあったかもしれません。けれども、もっと大切なことは、祭司がじっくりと、人が負っている傷がらい病であるかどうか調べなければいけないことです。私たちには、大祭司がおられます。イエス・キリストです。私たちはキリストを心にお迎えして、この方が私たちのうちに住んでくださいました。ですから、主が、私たちの心をお調べになり、私たちに汚れたものがないかどうか見てくださるのです。ダビデは言いました。「
神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:23-24」私たちは、主に自分の醜い部分を見てほしくないと思ってしまいます。主は私たちの心をすべて知っておられ、私たちは心を開いて、主にお見せすることを待っておられるのです。

 祭司は七日目に再び彼を調べる。もし患部が薄れ、患部が皮膚に広がっていないなら、祭司は彼をきよいと宣言する。それはかさぶたにすぎない。彼は自分の衣服を洗う。彼はきよい。もし、その者が祭司のところに現われ、きよいと宣言されて後、かさぶたが皮膚に広がってきたなら、再び祭司にその身を見せる。祭司が調べて、かさぶたが皮膚に広がっているなら、祭司は彼を汚れていると宣言する。これはらい病である。

 
患部が広がっていなければ単なるかさぶたに過ぎませんが、広がっていれば、それはらい病であり、汚れています。広がっているか広がっていないかが、汚れているか、きよいかの判断規準になっています。これは、私たちは、イエス・キリストを信じたときに、すべての罪が赦されました。イザヤが預言したように、キリストの打ち傷によって、私たちがいやされたのです。けれども、かさぶたとして残ります。罪が赦されると、その罪によって私たちは支配されなくなりますが、その痕跡は残ります。それは、私たちが、初めどのような存在であったかを思い出すためであり、また、神の恵みを知るためです。けれども、直っていたと思われていた傷が、実は直っていなかったことに気づきます。主は、クリスチャンになってからもまだ傷を持っている私たちを、受け入れてくださいます。そして、私たちを調べ、その罪をきよめてくださるのです。

2E 生肉 9−17
 9節からは、慢性のらい病についての主の教えが書かれています。らい病の患部が人にあるときは、その人を祭司のところに連れて来る。祭司が調べて、もし皮膚に白いはれものがあり、その毛も白く変わり、はれものに生肉が盛り上がっているなら、これは、そのからだの皮膚にある慢性のらい病である。祭司は彼を汚れていると宣言する。しかし祭司は彼を隔離する必要はない。彼はすでに汚れているのだから。

 8節までに取り扱われていたのは、らい病でも初期の症状についてのものでした。けれども、ここでは症状がかなり進行して、生肉が盛り上がっている慢性的ならい病であります。これは、はっきりと、らい病であると認めることができるので、隔離する必要はありません。そこで、次の興味深い、神様の判断があります。

 
もし吹き出物がひどく皮膚に出て来て、その吹き出物が、その患者の皮膚全体、すなわち祭司の目に留まるかぎり、頭から足までをおおっているときは、祭司が調べる。もし吹き出物が彼のからだ全体をおおっているなら、祭司はその患者をきよいと宣言する。すべてが白く変わったので、彼はきよい。

 吹き出物が体じゅうにできており、すべてが白くなってしまったら、きよいと宣言されます。一部だけでも汚れていると宣言されたはずなのに、全体であればきよいのです。けれども、これは、罪についてのとても大切な神の真理を教えてくれます。私たちが自分は罪深い、自分の肉には何も良いものがないと知ったときは、私たちはきよめられる一歩手前にいるのです。私たちが、自分のうちに何か良いものがあると思っているうちは、自分で何とかやっていけると思っているうちは、まだ主のみもとに行こうとしません。自分のからだは救いようがないと知ったときに、私たちは自分自身以外のものに救いを求めるのです。パウロが、ローマ人へ手紙を書いたとき、「
私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(7:24)」と叫びました。けれども、その次に、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。(7:25)」と言い、自分ではなく主イエス・キリストに救いがあることを知ったのです。自分で自分を救うことができない、罪を償うことが決してできないと知った人のみが、本当の意味できよめられるのです。

 しかし生肉が彼に現われるときは、彼は汚れる。祭司はその生肉を調べて、彼を汚れていると宣言する。その生肉は汚れている。それはらい病である。しかし、もしその生肉が再び白く変われば、彼は祭司のところに行く。祭司は彼を調べる。もしその患部が白く変わっているなら、祭司はその患者をきよいと宣言する。彼はきよい。

 すべてが白くなっても、生肉が出てくると汚れていると宣言されます。生肉は、まさに私たちの肉を表します。私たちがきよめられても、私たちの醜い肉が、このようにして表れることがあるのです。クリスチャンであっても、いや、クリスチャンであるからなおさら明らかに、罪の汚れが現れることがあります。教会の中にも現れます。神は、その醜い私たちをすべてご存知で、キリストにあって私たちを受け入れてくださったのです。


2D 腫物とやけど 18−28
 次に、腫物や、やけどの後にできるらい病についての教えです。また、人のからだの皮膚に腫物ができ、それがいやされたとき、その腫物の局所に白色のはれもの、または赤みがかった白い光る斑点があれば、祭司に見せる。祭司が調べて、もしそれが皮膚よりも低く見え、そこの毛が白く変わっていたなら、祭司は彼を汚れていると宣言する。それはその腫物に吹き出たらい病の患部である。

 
腫物から派生して、患部が皮膚よりも低く見え、白い毛に変わっていることがあります。そのときは、らい病であると宣言されます。

 
もし祭司がこれを調べて、そこに白い毛がなく、それが皮膚より低くなっておらず、それが薄れているなら、祭司はその者を七日間隔離する。もしそれが一段と皮膚に広がってくれば、祭司はこの者を汚れていると宣言する。これは患部である。もしその光る斑点がもとのままであり、広がっていなければ、それはただ、できもののあとである。祭司は彼をきよいと宣言する。

 かさぶたのときと同じように、はれものが薄れてきたときには7日間隔離されます。ほんとうに、これがらい病でないかを確かめるためです。広がっていればらい病であり、広がっていなければ、単なるできもののあとであります。

 そして、次にやけどについての教えがあります。あるいは、人のからだの皮膚にやけどがあって、そのやけどの生肉が赤みがかった白色、または白色の光る斑点であれば、祭司はこれを調べる。もし光る斑点の上の毛が白く変わり、それが皮膚よりも深く見えるなら、これはやけどに出て来たらい病である。祭司はこの者を汚れていると宣言する。それはらい病の患部である。やけどのときも、そこかららい病が出てくる可能性があります。祭司がこれを調べて、その光る斑点に白い毛がなく、それが皮膚より低くなっておらず、それが薄れているなら、祭司はその者を七日間隔離する。それから七日目に祭司が彼を調べる。もしそれが一段と皮膚に広がっていれば、祭司はこの者を汚れていると宣言する。これはらい病の患部である。もしその光る斑点がもとのままであり、その皮膚に広がっておらず、それが薄れているなら、それはやけどによるはれものである。祭司は彼をきよいと宣言する。これはやけどのあとであるから。

 
腫物のときと同じように、7日間隔離します。広がっていればらい病であり、広がっていなければ、単なるやけどの跡です。

 このように、聖書に説明されているらい病については、種物ややけどのような他の症状がきっかけとなって広がる事がわかります。これも、私たちがどのようにして罪を犯すのかについて教えてくれます。それは、ある痛みをともなう出来事をきっかけとして、神を信じられなくなり、そこで罪の中に入ってしまうことがあります。イスラエルの民がそうでした。荒野の中の旅において、水がなく、食べ物がないところで、罪を犯してしまいました。けれども、それは逆に、神がとても良くしてくださっていることを学ぶことができる、とても良い機会だったのです。このように、試練や困難によって苦みを持ってしまうか、あるいは、主とともに耐え忍ぶことによって、さらに主との交わりを深めるきっかけとなるかどちらか二つの道の選択を歩むことになります。主は、私たちがとおるすべての苦しみを通られました。ですから、神を信じて、主の慰めをいただく道を歩みましょう。

D 頭の疾患 29−44
 次の種類のらい病は、主に頭の上でできるものです。

1E 隠れたところ 29−37

 男あるいは女で、頭か、ひげに疾患があるときは、祭司はその患部を調べる。もしそれが皮膚よりも深く見え、そこに細い黄色の毛があるなら、祭司は彼を汚れていると宣言する。これはかいせんで、頭またはひげのらい病である。

 かいせんとありますが、ここは、菌によって頭皮が犯される病について語られています。注解書には、これは黄癬という、黄色いかさぶたを形成する皮膚病ではないか、と書かれていました。


 祭司がかいせんの患部を調べ、もしそれが皮膚よりも深く見えず、そこに黒い毛がないなら、祭司はそのかいせんの患者を七日間隔離する。七日目に祭司は患部を調べる。もしそのかいせんが広がらず、またそこに黄色い毛もなく、かいせんが皮膚よりも深く見えていないなら、その人は毛をそり落とす。ただし、そのかいせんをそり落としてはならない。祭司はそのかいせんの人を、さらに七日間隔離する。


 他のらい病とは異なり、7日目に症状が広がっていなくても、きよいと宣言しません。頭をそって、さらに7日間隔離します。

 七日目に祭司がそのかいせんを調べる。もしかいせんが皮膚に広がっておらず、それが皮膚よりも深く見えていないなら、祭司は彼をきよいと宣言する。彼は自分の衣服を洗う。彼はきよい。しかし、彼がきよいと宣言されて後に、もしも、そのかいせんが皮膚に広がったなら、祭司は彼を調べる。もしそのかいせんが皮膚に広がっていれば、祭司は黄色の毛を捜す必要はない。彼は汚れている。もし祭司が見て、そのかいせんがもとのままであり、黒い毛がそこに生えているなら、そのかいせんはいやされており、彼はきよい。祭司は彼をきよいと宣言する。

 
さらに7日間隔離したあとに、きよいか汚れているかの宣言をします。このように、頭の部分、あるいはひげの部分には、合計14日の隔離期間を設けています。

 これはなぜことなのでしょうか。頭もひげも、髪の毛でかくれています。そのため、らい病があるかどうかを見極めることが難しいです。隠れたところにあるらい病を調べるのに、二倍の期間を要するのです。したがって、ここから私たちが学ぶことができるのは、私たちが見分けのあまり付かない、隠れたところで罪が広がることがある、ということです。例えば、嘘をついた、盗みをした、というような罪であれば明らかです。けれども、黙示録2章には、かたちは整っているのに初めの愛から離れてしまったというようなエペソの教会が描かれています。隠れたところ、心の中のことは、私たちはさらに気をつけなければいけないことです。私たちは、信仰によって歩んでいるのか、また私たちの奉仕はキリストの愛に駆り立てられているか、しっかりと調べなければいけません。

E 隠れていないところ 38−44
 男あるいは女で、そのからだの皮膚に光る斑点、すなわち白い光る斑点があるとき、祭司はこれを調べる。もしそのからだの皮膚にある光る斑点が、淡い白色であるなら、これは皮膚に出て来た湿疹である。その者はきよい。

 
湿疹とありますが、注解書には、白斑という、他の皮膚よりも白く見える病ではないか、と書かれていました。これは、らい病とはことなる、単なる皮膚の変色であるから、きよい、と宣言されています。

 そして次にふたたび、頭にあるらい病についての教えです。先ほど、頭にあるらい病は隠れたところの罪と説明しましたが、「頭が隠れているとは限らない。」と反論される方もおられるかもしれません。そうです、はげならば隠れていません。ご覧ください。

 
男の頭の毛が抜けても、それははげであって、その者はきよい。もし顔の生えぎわから頭の毛が抜けても、それは額のはげであって、その者はきよい。

 毛が抜けているだけでは、らい病であるとは限りません。とくに、男の頭のはげは、自然の成り行きであり、汚れていません。けれども、次の場合は違います。


 もしその頭のはげか、額のはげに、赤みがかった白の患部があるなら、それは頭のはげに、あるいは額のはげに出て来たらい病である。祭司は彼を調べる。もしその頭のはげ、あるいは額のはげにある患部のはれものが、からだの皮膚にあるらい病に見られるような赤みがかった白色であれば、その者はらい病人であって汚れている。祭司は彼を確かに汚れていると宣言する。その患部が頭にあるからである。


 はげであっても、その部分に赤みがかった白の患部があれば、らい病です。たとえ隠れていなくても、「まあ、はげなんだから。」と言って、かえって見過ごされてしまいがちです。当たり前にしているところに、以外に罪が入り込んできます。

C 追放 45−46
 このようにして、いろいろな種類のらい病について見ていくことができましたが、らい病であると宣言された人がどうなるのかが、次に書かれています。

 
患部のあるらい病人は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている。』と叫ばなければならない。

 
らい病人は、人々が自分に近づいてくるとき、必死に、「汚れている!汚れている!」と叫ばなければいけません。自分に決してさわってはいけないという信号を、人々に送らなければいけないのです。

 
その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。

 
さらに、彼は、イスラエルの民が住む宿営から離れなければいけません。なぜなら、らい病は罪を表しているからです。イスラエルの民には、聖なる神がおられます。また、宿営の真中には、主が住まれる幕屋があります。その中にらい病を持って行くことは、決してできないのです。

 罪は、神と人とを切り離し、また他のクリスチャンと切り離す、というのが神の真理です。罪がある者は、決して神のみもとには近づけないし、神の子どもたちのところには近づくことができません。ですから、コリント人への手紙には、罪を犯して悔い改めない兄弟は、交わりから追い出して、左サタンに引き渡すべきだ、とパウロは言いました。そして、何よりも、天国には、罪人は決して近づくことができないのです。けれども、希望があります。それは、きよめられるという希望です。そのことについては次の章、14章に書かれています。けれども、きよめられる前に、私たちのところにまで来てくださった方がいます。そうですね、主イエス・キリストです。思い出せますか、らい病人がイエスさまに近づきました。そして、「主よ。お心一つで、あなたは私をきよくすることができます。」と言いました。そして主は、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われましたが、そのときにらい病人に触れられました。主は、汚れた私たちに触れてくださったのです。さらに、宿営の外まで来てくださいました。主は、エルサレムの町の外に連れて行かれ、ゴルゴダおいて、罪人としてさばかれました。宿営の外まで来て、らい病人を調べたのは祭司ですが、イエスさまはまさに、この祭司であられるのです。

2B 私たちの行ない 47−59
 そして次から、また違う教えがあります。今までは、人に付いていたらい病について述べられていましたが、今度は、衣服についているらい病についての教えです。

 衣服にらい病の患部が生じたときは、羊毛の衣服でも、亜麻布の衣服でも、亜麻または羊毛の織物でも、編物でも、皮でも、また皮で作ったどんなものでも、患部が緑がかっていたり、赤みを帯びたりしているなら、衣服でも、皮でも、織物でも、編物でも、またどのような皮製品でも、それはらい病の患部である。それを祭司に見せる。

 
緑がかっていたり、赤みを帯びたりしている、ということは、これは、カビであることがわかります。衣服にカビが生えたら、それはらい病と考えられます。

 
祭司はその患部を調べる。そして患部のある物を七日間隔離する。七日目に彼はその患部のある物を調べる。それが衣服でも、織物でも、編物でも、皮でも、また皮が何に用いられていても、それらにその患部が広がっているときは、その患部は悪性のらい病で、それは汚れている。

 人に付いたらい病と同じように、7日間隔離されます。その間にカビが広まっていたら、それはらい病です。


 羊毛製であるにしても、亜麻製であるにしても、衣服、あるいは織物でも、編物でも、それがまたどんな皮製品でも、患部のある物は焼く。これは悪性のらい病であるから、火で焼かなければならない。

 
カビが広がっていたら、それはどのような種類の衣類であっても、火で焼かなければいけません。高級な衣類でも、普段着であっても差別はありません。

 もし、祭司が調べて、その患部がその衣服に、あるいは織物、編物、またすべての皮製品に広がっていなければ、祭司は命じて、その患部のある物を洗わせ、さらに七日間それを隔離する。

 
頭のらい病のときと同じように、さらに7日間隔離します。頭の場合は毛をそりましたが、衣服の場合は、その衣類を洗います。

 祭司は、その患部のある物が洗われて後に、調べる。もし患部が変わったように見えなければ、その患部が広がっていなくても、それは汚れている。それは火で焼かなければならない。それが内側にあっても外側にあっても、それは腐食である。


 広がっていなくても、変わっていなければ火で焼きます。人に付いたらい病よりも厳しいですね。


 祭司が調べて、もしそれが洗われて後、その患部が薄れていたならば、彼はそれを衣服から、あるいは皮から、織物、編物から、ちぎり取る。
薄れていたら、その部分だけを切り取ります。もし再びその衣服に、あるいは織物、編物、またはどんな皮製品にも、それが現われたなら、それは再発である。その患部のある物は火で焼かなければならない。再発の場合は、火で焼きます。しかし、洗った衣服は、あるいは織物、編物、またはどんな皮製品でも、それらから、もし患部が消えていたら、再びこれを洗う。それはきよい。

 
きよい衣類は、唯一、カビの生えたところが完全になくなっているときのみです。薄れていたら、その部分は切り取り、変わっていなければすべて火で焼きます。もちろん、広がっていたら火で焼きます。

 以上は、羊毛あるいは亜麻布の衣服、織物、編物、あるいはすべての皮製品のらい病の患部についてのおしえであり、それをきよい、あるいは汚れている、と宣言するためである。

 衣類についての教えがありましたが、聖書において、衣類は、私たちの行ないを表しています。数多くの聖書個所において、「身に着ける」とか「脱ぎ捨てる」という言葉が使われています。例えば、エペソ人に手紙を書いて、パウロはこう言いました。「
その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。(エペソ4:22-24」ですから、その行ないにおいて不義があるなら、それは、焼かれなければいけないし、取り除かれなければいけません。イエス・キリストを自分の救い主として信じていない人は、患部がある衣類を身に着けています。預言者イザヤは、「私たちの義はみな、不潔な着物のようです。(イザヤ64:6」と言いました。ですから、火で焼かれてしまいます。けれども、イエス・キリストを信じた人もまた、その行ないが火によって焼かれて、残ったものによって報いを受けます。「もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。(Tコリント3:14」とパウロは言いました。ですから、「あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。(Tペテロ1:17」とペテロは言いました。

2A 主に直していただく 14
 こうして、らい病があるか祭司が調べることについて学びましたが、次は、このらい病がきよめられることについて学びます。そして、らい病人がどのように、イスラエルの共同体に入れられるのかについて学びます。私たちが、どのようにして罪をきよめていただき、主との交わりへと、また信者との交わりへと加えていただくのかを学びます。

1B 私たちの姿 1−32
1C キリストの死と復活 1−9
 ついで主はモーセに告げて仰せられた。「らい病人がきよめられるときのおしえは次のとおりでなければならない。その者を祭司のところに連れて来る。祭司は宿営の外に出て行き、調べて、もしらい病人のらい病の患部がいやされているなら、祭司はそのきよめられる者のために、二羽の生きているきよい小鳥と、杉の木と緋色の撚り糸とヒソプを取り寄せるよう命じる。

 らい病人はまだ宿営の中に入ることはできないですから、祭司が宿営の外に出て行きます。私たちの主も同じです。私たちが罪をきよめることはできませんが、主が私たちのところに来てくださいます。そして、用意するものは、二羽の小鳥と、杉の木と、緋色の糸と、そしてヒソプです。

 祭司は、土の器に入れた湧き水の上で、その小鳥のうちの一羽をほふるよう命じる。生きている小鳥を、杉の木と緋色の撚り糸とヒソプといっしょに取り、湧き水の上でほふった小鳥の血の中に、その生きている小鳥といっしょにそれらを浸す。それを、らい病からきよめられる者の上に七たび振りかけて、その者をきよいと宣言し、さらにその生きている小鳥を野に放す。

 
土の器に湧き水を入れます。そして、小鳥の一羽をその上でほふり、もう一羽の生きている小鳥を、その血が混じった水の中に入れます。また、杉木と緋色の糸とヒソプもその水の中に入れます。そうしたら、祭司は7回その水をらい病人にふりかけて、それで生きている小鳥を野に放ちます。これで、彼はきよいと宣言されますが、これは、私たちの主イエス・キリストの死とよみがえりについての、すばらしい象徴です。水の上で小鳥がほふられましたが、キリストが犠牲の供え物としてほふられたことを表します。水の中には、杉の木がありました。キリストは木につけられて、死なれました。さらに緋色の糸は、キリストが流された血潮です。そしてヒソプは、罪を取り除くものとしての象徴です。ダビデは、「ヒソプをもってわたしの罪を除いてきよめてください。(詩篇51:7」と言いました。このときの水は、葬られたときの墓です。水のバプテスマは、キリストの死につくバプテスマであることをローマ書6章で学びましたが、水は墓を表しています。さらに、その水の中から生きている小鳥を野に放つことは、キリストが墓の中からよみがえられたことを示します。このようにキリストの死と復活を表しているすばらしい型でありますが、このときの水を、きよめられるらい病人に祭司が振りかけるのです。これは、私たちがキリストともに死に、キリストとともによみがえったこと、キリストにつく者にされたことを表すのです。「だれでもキリストにうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去りました。見よ、すべてが新しくなりました。」とパウロが言いました。私たちは、ローマ書6章において、「罪に対して死んだものであり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きたものだと思いなさい。(11」思いなさい!という命令を学びました。私たちがきよめられるのは、水のバプテスマに示されている、キリストの死とそのよみがえりに自分も結び付けられていることを信じることによってのみ、もたらされるのです。

 きよめられる者は、自分の衣服を洗い、その毛をみなそり落とし、水を浴びる。その者はきよい。そうして後、彼は宿営にはいることができる。しかし七日間は、自分の天幕の外にとどまる。七日目になって、彼はすべての毛、その髪の毛と口ひげとまゆ毛をそり落とす。そのすべての毛をそり落とし、自分の衣服を洗い、水をそのからだに浴びる。その者はきよい。

 7日間は、天幕にいます。そして、からだのすべての毛をそり、衣服を洗い、水をあびます。まったくきれいにされました。きよめられました。神が「
聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。(テトス3:5」とパウロは言っています。

C 私たちの献身 10−32
 このように、キリストのみわざがきよめられることの土台ですが、私たちは神にこのからだをおささげします。つまり、いけにえを供えます。次にらい病人は、4つの種類のささげものをします。

1D 血と油 10−20
 八日目に彼は、傷のない雄の子羊二頭と傷のない一歳の雌の子羊一頭と、穀物のささげ物としての油を混ぜた小麦粉十分の三エパと、油一ログとを持って来る。

 
8日目に、もとらい病人は、いけにえを持ってきます。8は、聖書において新しい始まりを表します。もとらい病人は、これから新しい歩みを始めるのです。いけにえは、傷のないものでなければいけません。神は、完全なもののみをお受けになることができ、それゆえ、キリストがささげられたそのいのちのみを、受け取ることがおできになります。私たちは、ささげると言っても、キリストのうちにとどまることを行なうのです。そのほかに、穀物のささげものと油を持ってきます。

 きよめを宣言する祭司は、きよめられる者と、これらのものを主の前、会見の天幕の入口の所に置く。祭司はその雄の子羊一頭を取り、それを油一ログといっしょにささげて罪過のためのいけにえとし、それを奉献物として主に向かって揺り動かす。

 最初にささげるいけにえは、罪過のためのいけにえです。罪過のためのいけにえは、自分が罪を犯したことで損傷を他者や他者の財産に加えた場合のときのいけにえであります。罪を犯すことによって、まず私たちがしなければいけないことは、関係の修復です。これは、罪を告白することよりも先んじることがあります。主は言われました。「
だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。(マタイ5:23-24」供え物をするまえに仲直りをする、つまり、罪過のいけにえはすべてにまさって先んじるのです。

 このいけにえは、奉献物として揺り動かしていますが、これは感謝を表します。

 罪のためのいけにえと全焼のいけにえをほふった所、すなわち聖なる所で、その雄の子羊をほふる。罪のためのいけにえと同様に、罪過のためのいけにえも祭司のものとなるからである。これは最も聖なるものである。

 罪過のためのいけにえと、また罪のためのいけにえは、祭司が食べる分け前となります。それは、主との交わりを表しており、主のきよさにあずかることを意味します。


 祭司は罪過のためのいけにえの血を取り、それをきよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗りつける。

 
血を、もとらい病人の耳たぶと、手の指と、足の指につけます。私たちは血によらなければ、罪を洗い清めていただくことはできません。使徒ヨハネは、クリスチャンが主と交わりをもって歩むときに、主イエスが流された血が注がれる必要性を語りました。「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(Tヨハネ1:7」私たちの足、つまり歩みのうえに、私たちの手、つまり行ないの上に、そして私たちの耳たぶ、つまり聞くことの上に、主の血潮が注がれなければいけません。

 祭司は油一ログからいくらかを取って、自分の左の手のひらにそそぐ。祭司は右の指を左の手のひらにある油に浸し、その指で、油を七たび主の前に振りかける。祭司はその手のひらにある残りの油をきよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に、すなわち先の罪過のためのいけにえの血の上に塗る。

 油がまず主の前にふりかけられます。それから、再びきよめられる人の耳たぶと手の親指と足の親指に塗ります。油は、聖霊を表すことを私たちは学んでいます。つまり、キリストの血によってきよめられただけではなく、聖霊の導きを、すべての歩みと、行ないと、聞くことにおいて求めなければいけません。クリスチャン生活とは、キリストの血によって罪赦されたことだけではなく、聖霊に導かれる生活であります。「
神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。(ローマ8:14」とパウロは言いました。

 
祭司はその手のひらにある残りの油をきよめられる者の頭に塗り、祭司は主の前で彼のために贖いをする。

 
残りの油は、頭の上に塗られます。これは聖霊の注ぎが、私たちの上に与えられることを表します。私たちのうちに聖霊が住まわれるだけではなく、私たちの上に聖霊が臨まれます。そのことによって、私たちは主を証しするための力を受けるのです。

 祭司は罪のためのいけにえをささげ、汚れからきよめられる者のために贖いをする。そのあとで全焼のいけにえがほふられなければならない。

 罪過のためのいけにえがささげたあとに、罪のためのいけにえをささげます。罪のためのいけにえは、私たちの罪の告白を表します。神から罪の赦しをいただき、平安と喜びに満たされるための告白です。そして、全焼のいけにえをささげます。これは、「これから私は、イエスさまに従います。」という決心であります。
祭司は祭壇の上で、全焼のいけにえと穀物のささげ物をささげ、祭司はその者のために贖いをする。その者はきよい。穀物のささげものは、全焼のいけにえとともにささげられます。穀物のささげものは、キリストのいのちを表しています。「わたしはいのちのパンです。」と主は言われました。このささげものが全焼のいけにえとともにささげられるのは、全焼のいけにえがキリストの十字架にともにつけられている私たちを表し、穀物のささげものは、うちに復活の主が生きておられるキリストを指すからです。キリストの死とよみがえりが、私とというからだの中で、どちらも実現しているときに、クリスチャンとして歩むことができます。

2D 貧しい者 21−32
 こうしてらい病にかかっていた人は、他のイスラエル人とまったく変わりなく、主を礼拝して、宿営の中で暮らすことができます。けれども、今ささげたいけにえの動物を、経済的な理由から支払うことができない人がいます。そのような貧しい人のためのいけにえの儀式について、次に書かれています。

 その者が貧しくて、それを手に入れることができないなら、自分を贖う奉献物とするために、雄の子羊一頭を罪過のためのいけにえとして取り、また穀物のささげ物として油を混ぜた小麦粉十分の一エパと油一ログを取り、また、手に入れることのできる山鳩二羽か家鳩のひな二羽を取らなければならない。その一羽は罪のためのいけにえ、他の一羽は全焼のいけにえとする。


 子羊のかわりに、鳥を二羽もってくるように命じられています。また、穀物のささげものが、十分の三エパではなく、十分の一エパに減っています。その他は、先ほどのいけにえのささげ方とすべて同じです。

 八日目に、その者のきよめのために、それらを主の前、すなわち会見の天幕の入口の祭司のところに持って来る。祭司はその罪過のためのいけにえの子羊と油一ログを取って、これを奉献物として主に向かって揺り動かし、罪過のためのいけにえの子羊をほふる。祭司はその罪過のためのいけにえの血を取って、それをきよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗る。

 罪過のためのいけにえを連れてきて、油とともに揺り動かします。そして、ほふり、その血を耳と手足につけます。

 
祭司はその油を自分の左の手のひらにそそぐ。祭司は右手の指で、左の手のひらにある油を、主の前に七たび振りかける。祭司はその手のひらにある油をきよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に、すなわち罪過のためのいけにえの血と同じところにつける。血がつけられたところと同じところに、油もつけます。祭司はその手のひらにある残りの油をきよめられる者の頭の上に塗り、主の前で彼のために贖いをする。残りの油は、頭に塗ります。

 その者は、手に入れることのできた山鳩か、家鳩のひなのうちから一羽をささげる。すなわち、手に入れることのできたもののうち、一羽を罪のためのいけにえとして、他の一羽を全焼のいけにえとして、穀物のささげ物に添えてささげる。祭司は主の前で、きよめられる者のために贖いをする。

 鳩の一羽は、罪のためのいけにえ。もう一羽は、全焼のいけにえとしてささげます。

 
以上は、らい病の患部のある者で、きよめに要するものを手に入れることのできない者のためのおしえである。

 こうして貧しい人であっても、主を礼拝することができるし、主を礼拝しなければならないことが分かりました。これは、まず主が貧しい人にあわれみを持っておられることが挙げられます。主との交わりが、経済的な理由で妨げられることはありません。そして、また、経済的な理由で、主を礼拝できないという言い訳はできないことを表しています。礼拝は特権であると同時に、責任でもあるのです。どのような経済的な理由でも、身体上の理由でも、主はだれでもご自分に近づくようにしてくださいました。これは恵みであり、ある特定のグループの人だけが礼拝するのではありません。

2B 私たちの内側 33−57
 こうしてらい病人がきよめられるときの教えについて学びましたが、次に、家がらい病からきよめられることについて学びます。家がらい病というのはおかしな話しですが、らい病をカビと言いかえればお分かりになるでしょう。

1C 除去 33−47
 ついで主はモーセとアロンに告げて仰せられた。「わたしがあなたがたに所有地として与えるカナンの地に、あなたがたがはいり、わたしがその所有地にある家にらい病の患部を生じさせ、その家の所有者が来て、祭司に『私の家に患部のようなものが現われました。』と言って、報告するときは、祭司はその患部を調べにはいる前に、その家をあけるよう命じる。

 ここでの教えは、カナン人の地を所有した後のことです。それまでは天幕生活ですから、家を持つのは約束の土地に入ってからです。


 これはすべて家にあるものが汚れることのないためである。その後に、祭司はその家を調べにはいる。

 家の中にカビが見つかったら、祭司がそれを調べます。けれども、祭司が家に入るまえに、家をあける、つまり、家具を外に出さなければいけません。

 その患部を調べて、もしその患部がその家の壁に出ていて、それが緑がかったか、または赤みを帯びたくぼみであって、その壁よりも低く見えるならば、祭司はその家から入口に出て来て、七日間その家を閉ざしておく。

 
らい病人のときと同じく、家を7日間隔離させます。そして、そのカビが広がるか広がらないか調べるのです。

 七日目に祭司がまた来て、調べ、もしその患部がその家の壁に広がっているなら、祭司は患部のある石を取り出し、それらを町の外の汚れた場所に投げ捨てるよう命じる。またその家の内側の回りを削り落とさせ、その削り落とした土は町の外の汚れた場所に捨てる。人々は別の石を取って、前の石の代わりに入れ、また別の土を取って、その家を塗り直す。


 カビが広がっているときの対処法は、まずカビが生えている石だけを取り出します。日本ではできないことですが、イスラエルは石で家が造られているので、できます。その石は汚れた場所に投げ捨てます。それから、家の内側の表面を削り落として、再び塗り直します。その削りかすは、ふたたび汚れた場所に捨てます。石は新しい石を組み込みます。

 もし彼が石を取り出し、家の壁を削り落とし、また塗り直して後に、再び患部が家にできたなら、祭司は、はいって来て調べ、そして、もし患部が家に広がっているなら、それは家につく悪性のらい病であって、その家は汚れている。その家、すなわち、その石と材木と家の土全部を取りこわす。またそれを町の外の汚れた場所に運び出す。らい病人のときと同じように、カビが広がっていたら、その家全体を取りこわします。その家が閉ざされている期間中にその家にはいる者は、夕方まで汚れる。その家で寝る者は、その衣服を洗わなければならない。その家で食事をする者も、その衣服を洗わなければならない。

 家の持ち主は、隔離されている7日間生活しなければならないわけですから、その家の中で過ごします。けれども、その中に入る人は、一日の間汚れ、また、衣服を洗わなければいけません。そのカビが移ってしまうかもしれないからでしょう。

 こうして家の中がきよめられなければいけないこと、祭司はその家に入って調べることについて述べられていました。この家は何を表しているのでしょうか。パウロは言いました。「キリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。(エペソ3:17」この家は、キリストが住まわれる私たちのからだを示しているのです。私たちのからだ、あるいは心の中にカビがあるとき、主がそこに住まわれるでしょうか。とても居心地悪いはずです。そこで、主は大祭司として、私たちの心の中を探られます。私たちが主にまだ明け渡していないことを探り、それをご自分にゆだねるように言われます。そうでなければ、きれいにすることができません。私たちは、主がお住みになることができる家を持っているでしょうか。主がお住みになることができないような、恥ずかしいものを私たちの心のうちに持っていないでしょうか。主に自分の心を探っていただく必要があります。

C 贖い 48−57
 次からは、家がきよめられたときのおしえが書かれています。祭司がはいって来て調べて、もしその家が塗り直されて後、その患部が家に広がっていないなら、祭司は、その家はきよいと宣言する。なぜなら、その患部が直ったからである。祭司は、その家をきよめるために、小鳥二羽と杉の木と緋色の撚り糸とヒソプを取り、その小鳥のうちの一羽を土の器の中の湧き水の上でほふる。

 きよめられるらい病人のときの儀式と同じですね。二羽の小鳥を用意し、一羽をほふり、もう一羽を水の中に入れます。

 杉の木とヒソプと緋色の撚り糸と、生きている小鳥を取って、ほふられた小鳥の血の中と湧き水の中にそれらを浸し、その家に七たび振りかける。祭司は小鳥の血と湧き水と生きた小鳥と杉の木とヒソプと緋色の撚り糸とによって、その家をきよめ、その生きている小鳥を町の外の野に放つ。こうして、その家のために贖いをする。その家はきよい。


 私たちの心において、主の十字架とよみがえりが現実のものとなるのです。

 以上は、らい病のあらゆる患部、かいせん、衣服と家のらい病、はれもの、かさぶた、光る斑点についてのおしえである。これは、どんなときにそれが汚れているのか、またどんなときにそれがきよいのかを教えるためである。これが、らい病についてのおしえである。

 
これが、らい病についての教えである、と最後が強い語調でしめくくられています。目的は、どんなときに汚れているのか、きよいのかを教えるためでした。私たちが天に引き上げられるとき、私たちはらい病人でしょうか、それとも、きよめられた者となっているでしょうか。主イエスを心に抱いている者は、天において受け入れられます。主がいない者は、「汚れている!」と叫ぶらい病人のように天に入ることはできず、また、カビが消えない衣服や家のように燃やされ、打ち壊されます。けれども、主の死とよみがえりによって、私たちはきよめられました。私たちは、主が来られるときまで、このキリストのみわざのうちに歩み、聖さをまっとうしていきます。日々の歩みの中で犯した罪について、らい病人と同じように主の前に出て行きましょう。また、心を探られることを恐れず、かえって主に調べてもらうように願いましょう。主は私たちの大祭司です。医者です。私たちを罪からきよめ、傷をいやすために来られたのです。



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