レビ記15−16章 「贖罪」


アウトライン

1A 理由 − 人間の罪深さ 15
   1B 内側からの汚れ 1−15
      1C 他者への影響 1−12
      2C いけにえ 13−15
   2B きよめ 16−30
      1C 水の洗い 16−18
      2C 7日間 19−24
      3C 主のあわれみ 25−30
2A 土台 − キリストのみわざ 16
   1B 仲介 1−10
      1C 装束 1−5
      2C いけにえ 6−10
   2B 血とからだ
      1C 無罪 11−14
      2C なだめの供え物 15−19
      3C 罪の除去 20−22
      4C 門の外の苦しみ 23−28
   3B 一度かぎりの贖い 29−34


本文

 レビ記15章を開いてください。今日は、15章と16章を学びます。ここでのテーマは、「贖罪」です。

1A 理由 − 人間の罪深さ 15
 私たちは今まで、汚れたものときよいものを区別することについて学びました。食物規定から始まり、出産によって出てくる血による汚れ、さらにらい病による汚れがありました。そして15章では、漏出物についての教えがあります。

1B 内側からの汚れ 1−15
1C 他者への影響 1−12
 ついで主はモーセとアロンに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。だれでも、隠しどころに漏出がある場合、その漏出物は汚れている。」

 隠しどころの漏出物とは、性器から出て来る液のことです。そして、この漏出物は、病気によるもの、つまり性病にかかっていることによる漏出物だと考えられます。日本語ですと、「だれでも」となっていますが、英語ですと「どの男も」と書いており、男性についてのことです。つまり、性病にかかることによって男性の性器から出てくる体液が、ここで取り扱われています。

 その漏出物による汚れは次のとおりである。すなわち、隠しどころが漏出物を漏らしても、あるいは隠しどころが漏出物を留めていても、その者には汚れがある。

 性器からその体液が出ていても、またまだ出ていなくても、その者は汚れているとされます。

 漏出を病む人の寝る床は、すべて汚れる。またその者がすわる物もみな汚れる。

 
この汚れは、他の人に伝染します。その例が次から書かれています。一つ目です。また、だれでもその床に触れる者は自分の衣服を洗い、水を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れる。その人が寝たところに触れれば汚れます。二つ目です。また漏出を病む人がすわった物の上にすわる者は、自分の衣服を洗い、水を浴びる。その者は夕方まで汚れる。寝たところだけではなく、すわったところも汚れます。三つ目です。また、漏出を病む人の隠しどころにさわる者も、自分の衣服を洗い、水を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れる。例えば、医者など、その人の性器にさわらなければならないとき、その人は汚れます。衣服を洗って、水浴びをしなければなりません。四つ目です。また、漏出を病む者が、きよい人につばきをかけるなら、その人は自分の衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方まで汚れる。つばをかけたときも、かけられた人に、その汚れがうつります。また、漏出を病む者が乗った鞍はみな汚れる。病人が乗ったろばには、その鞍を取り替えなければいけません。さもないと汚れます。五つ目です。また、どんな物であれ、その者の下にあった物にさわる者はみな、夕方まで汚れる。触れていなくても、下にあってだけで汚れるようにです。六つ目です。また、それらの物を運ぶ者も、自分の衣服を洗わなければならない。水を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れる。下にあったものをさわると汚れます。七つ目です。また、漏出を病む者が、水でその手を洗わずに、だれかにさわるなら、さわられた人は自分の衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方まで汚れる。隠しどころではなく、手にふれた場合も汚れます。そして最後、八つ目です。また、漏出を病む者がさわった土の器はこわされなければならない。木の器はみな、水で洗われなければならない。さわった器は、土ならこわして、木なら水で洗います。

 このように、徹底的に、綿密に、イスラエルの民が漏出物によって汚れることのないように、主が教えられています。けれども、なぜ人から出てくるものを、主は、このように明らかにされるのでしょうか。女の出産から出て来る血についてから始まり、らい病においても、読みたくないなあという気分にさせられますが、きたないから読みたくないと一番思わされるのは、15章でしょう。けれども、これらはみなたとえなのです。私たちの心についての汚れがどのようなものであるかを、主は、隠しどころの漏出物によって明らかにされているのです。

 イエスさまがこう言われました。「しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。(マタイ15:18-20」また、使徒パウロは、こう告白しました。「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。(ローマ7:18」預言者エレミヤは言いました。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。(17:9」私たちは聖書を学んでいますが、聖書とは文字通り「聖なる書物」です。けれども、聖書ほど、人間の赤裸々な姿を描き出している書物はありません。私は中学生のとき、ちょうど姉がミッションスクールに通っていたので、学校で使われている「聖書物語」という岩波ジュニア新書から出ている本を読んだことがあります。それを読んで、私は、「聖書って、文部省の検定によって教科書からはずされる本だなあ。」と思いました。アダムとエバが罪を犯すところから、カインの殺人、ノアの時代に人々が乱れていたこと、バベルの塔における神への反抗など、実にひどいことが書かれているからです。けれども、人間は現実にそのようなものだ、と人間にはっきりと明らかにしている書物は、神ご自身のみことばである聖書しかりません。私たちが自分たちを見ているよりも、私たちははるかに汚れていることを神は教えてくださっているのです。ですから、ここでは、私たちの罪深さが、性病にかかった人の性器からの体液として描かれているのです。

2C いけにえ 13−15
 そして次に、この病人がきよめられるときについての教えがあります。漏出を病む者がその漏出からきよくなるときは、自分のきよめのために七日を数え、自分の衣服を洗い、自分のからだに湧き水を浴びる。彼はきよい。

 
きよめられるために儀式を行なうのですが、7日を数え、衣服を洗い、湧き水をからだに浴びます。

 八日目には、自分のために、山鳩二羽か家鳩のひな二羽を取らなければならない。彼は主の前、会見の天幕の入口の所に来て、それを祭司に渡す。祭司はそれを、一羽を罪のためのいけにえとして、他の一羽を全焼のいけにえとしてささげ、祭司はその漏出物のために、主の前でその者のために贖いをする。

 鳩二羽によって、一羽は罪のためのいけにえとして、二羽目は全焼のいけにえとしてささげます。この儀式には、イエス・キリストのみわざと聖霊のお働きを見ることができます。7日を数え、8日目にいけにえをささげますが、イエスさまは日曜日にエルサレムに入られて、8日目の日曜日によみがえられました。また、衣服を洗っていますが、新たに生まれた人は、新しい着物を着るとして、新約聖書ではたとえられています。さらに、湧き水は、内からあふれ出るいのちの御霊のお働きです。そして、罪のためのいけにえと全焼のいけにえは、むろん、主が私たちのためにご自身をささげ、罪のために供え物となってくださったことを示しています。

2B きよめ 16−30
 このように、男性が性病にかかって、性器から漏出物があるときの汚れについての教えがありましたが、その他の漏出物についての教えもあります。

1C 水の洗い 16−18
 一つ目は、男性から出る精子です。人が精を漏らしたときは、その人は全身に水を浴びる。その人は夕方まで汚れる。精のついている衣服と皮はすべて、水で洗う。それは夕方まで汚れる。男が女と寝て交わるなら、ふたりは共に水を浴びる。彼らは夕方まで汚れる。

 
性病のときのようなきびしい規定はありませんが、それでも汚れるので、水であらい、精のついている衣服や皮を洗い、性行為を行った夫婦は、どちらも水を浴びなければいけません。

2C 7日間 19−24
 次に、女性の生理についての教えがあります。女に漏出があって、その漏出物がからだからの血であるならば、彼女は七日間、月のさわりの状態になる。だれでも彼女に触れる者は、夕方まで汚れる。

 
男の精子とは異なり、女性の生理は比較的長い期間続きます。そこで汚れの期間が7日間と定められており、その間、汚れているとされます。

 また、その女の月のさわりのときに使った寝床はすべて汚れる。また、その女のすわった物もみな汚れる。また、その女の床に触れる者はだれでも、その衣服を洗い、水を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れる。また、何であれ、その女のすわった物に触れる者はみな、その衣服を洗い、水を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れる。その女の床であっても、すわった物であっても、それにさわった者は夕方まで汚れる。また、もし男がその女と寝るなら、その女のさわりが彼に移り、その者は七日間汚れる。彼が寝る床もすべて汚れる。

 性病のときの男性の漏出物と同じように、この汚れはうつるものとみなされます。それでは、女性のほうが男性よりも汚れているのか、と思われるかもしれませんが、そうではありません。神は、私たちの心の汚れを教えるために、この生理のたとえを用いられているに過ぎません。生理による出血は長く続きます。同じように、私たちが悪い思いを長いこと持ちつづけると、人々に伝染する、人々を汚すことになるのです。私たちが悪い思いをもったとき、それをいつ主に告白して、きよめていただければ良いでしょうか。その瞬間ですね。10秒だけ楽しんで、それから捨てるではなく、気づいたときに主の名を呼び求める必要があります。さもないと、その思いは私たちの心に広がり、肉の中に蓄積し、いずれ表に出るようになります。そして他の人々をまで汚すのです。ですから、生理は長い期間の汚れを示しています。


3C 主のあわれみ 25−30
 そして次に、女性の不正出血について、生理期間以外に出血することについての教えがあります。もし女に、月のさわりの間ではないのに、長い日数にわたって血の漏出がある場合、あるいは月のさわりの間が過ぎても漏出がある場合、その汚れた漏出のある間中、彼女は、月のさわりの間と同じく汚れる。彼女がその漏出の間中に寝る床はすべて、月のさわりのときの床のようになる。その女のすわるすべての物は、その月のさわりの間の汚れのように汚れる。これらの物にさわる者はだれでも汚れる。その者は衣服を洗い、水を浴びる。その者は夕方まで汚れる。

 
生理のときは、7日間だけ他の人々から隔離されて暮らしますが、それ以上に渡ると、その状態が長く続きます。霊的には、ほんとうに汚れてしまっている人、自分自身を滅ぼそうとしている人に当てはまるでしょう。ところが、主の恵みは、罪の増し加わるところに、満ちあふれると、聖書には宣言されています。主のあわれみは、とこしえに絶えることがありません。そこで、福音書には、長血をわずらう女の話しが出てきます。彼女はまさに、この律法によって、人々には決してふれてはいけない女だったのです。けれども、彼女は、「イエスさまの着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と思いました。そこで、群集の中に紛れ込み、イエスさまの着物にさわりました。イエスさまはこのことを知っておられ、「だれがわたしにさわったのか。」と言われました。この女は恐ろしくなりました。群集の中に紛れ込んだのですから、他の人々を汚しており、またイエスさまを汚すことになるからです。けれども、そのときには、彼女のからだから血の源がかれていたのです。そこでイエスさまは、「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。」と言われました。なんと、希望に満ちたメッセージでしょうか。彼女はイエスさまを汚すのではなく、逆にイエスさまが彼女をきよめられました。イエスさまにふれることによって、救われたのです。私たちも同じです。あふれ出る悪い思い、このような汚れたからだを持っている私たちがきよめられるには、このイエスさまにふれていただくことによってのみです。イエスさまにふれるとき、私たちの良心は、ことごとくきよめられます。

 次にきよめられるときの儀式について書かれています。性病にかかっている男がきよめられるときと同じ儀式であります。もし女がその漏出からきよくなったときには、七日を数える。その後にその女はきよくなる。八日目には、その女は山鳩二羽か家鳩のひな二羽を取り、それを会見の天幕の入口の祭司のところに持って来なければならない。祭司は一羽を罪のためのいけにえとし、他の一羽を全焼のいけにえとしてささげる。祭司は、その汚れた漏出のために、主の前でその女のために贖いをする。

 
8日目は新しい始まりです。主がよみがえられたように、私たちも新しい歩みをすることができます。

2A 土台 − キリストのみわざ 16
 こうして、人々の汚れについて、主がモーセとアロンに教えられました。なぜ、このようなことを話されたかと言うと、おぼえていますか、アロンの息子が、異なった火を主にささげたからです。彼らは火で焼く尽くされ、アロンに対して、「汚れたものと、きよいものを区別するため、わたしは教えをさずける。」と言われました。そして食物規定、出産時の出血、らい病、漏出物について教えられたのです。そこで、16章では、この初めのときに戻ります。幕屋における奉仕に戻って、モーセとアロンに、イスラエルの罪をきよめるための日、贖罪の日について教えられます。この個所は、レビ記におけるハイライトと言っても過言ではありません。これまで見てきたように、日常の生活において、祭司が民のために贖いをしてくれましたが、贖罪の日には、大祭司が、民全体を代表して、罪のきよめのためにいけにえをささげます。そして、イスラエルが罪からきよめられたことを宣言して、イスラエルが神に近づくことができるようにするようにします。

1B 仲介 1−10
1C 装束 1−5
 アロンのふたりの子の死後、すなわち、彼らが主の前に近づいてそのために死んで後、主はモーセに告げられた。主はモーセに仰せられた。「あなたの兄アロンに告げよ。かってな時に垂れ幕の内側の聖所にはいって、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない。死ぬことのないためである。わたしが『贖いのふた』の上の雲の中に現われるからである。

 ナダブとアブフが火によって焼かれてしまったのは、彼らがかってに、垂れ幕の内側、すなわち至聖所の中に入ったからです。そこには、主ご自身が、贖いのふたの上の雲の中に現れています。主がそこにおられるので、近づくものは、たちどころに死んでしまうのです。ここで、私たちが学ばなければならないのは、主は聖なる方であり、私たちは、主がご用意された方法によってのみ、主に近づくことができる、ということです。自分の方法で、自分が良いと思った方法で近づけば、それが一見、どのようにすばらしいように見えても、主には決して受け入れられません。けれども、神の方法によれば、大胆に、何もはばかることなく近づくことができます。なぜなら、神が用意されているものは、完全であり、欠陥がないからです。

 そこで次に、神が用意してくださっているものが書かれています。アロンは次のようにして聖所にはいらなければならない。罪のためのいけにえとして若い雄牛、また全焼のいけにえとして雄羊を携え、一つ目は、大祭司アロンのためのいけにえです。聖なる亜麻布の長服を着、亜麻布のももひきをはき、亜麻布の飾り帯を締め、亜麻布のかぶり物をかぶらなければならない。これらが聖なる装束であって、彼はからだに水を浴び、それらを着ける。

 二つ目は、亜麻布の着物を贖いの日には来ます。私たちがこれまでに学んだ、いろいろな色の糸で織られたエポデや胸当てを脱いで、すべて亜麻布の装束を身に着けます。

 彼はまた、イスラエル人の会衆から、罪のためのいけにえとして雄やぎ二頭、全焼のいけにえとして雄羊一頭を取らなければならない。三つ目は、イスラエルの民が罪からきよめられるために、彼らのためのいけにえが用意されます。したがって、アロン自身の、罪のためのいけにえ、アロンが着る装束、そして、イスラエルの罪のためにいけにえが必要になります。

2C いけにえ 6−10
 そして次に、イスラエルの罪のためのいけにえについて、さらに詳しく教えられています。

アロンは自分のための罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。二頭のやぎを取り、それを主の前、会見の天幕の入口の所に立たせる。アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためとする。アロンは、主のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。アザゼルのためのくじが当たったやぎは、主の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。

 罪のためのいけにえは、二頭のやぎです。そのやぎを、一頭は主のため、もう一頭はアザゼルのためとします。アザゼルは、スケープゴートとも訳されます。イスラエルの罪をこのやぎが背負って、そして、荒野にさまよい、イスラエルから遠く離れていきます。この二頭のやぎがイスラエルの民のために、用意されます。

2B 血とからだ
 そして次に、これらのいけにえについてどのようにささげればよいか、詳しく書かれています。その一つ一つを読むとき、私たちは、私たちの主イエス・キリストが、大祭司であり、この方によって、罪がきよめられ、神に近づくことができることを知ります。実は、これからの個所は、ヘブル書9章と10章において詳しく取り扱われています。そこには、イエスさまのご性質、お働きについて詳しく描かれています。このイエスさまのご性質とお働きを知って、この方に拠り頼むことによってのみ、私たちは神に近づくことができるのです。それでは、読んでみましょう。

1C 無罪 11−14
 アロンは自分の罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。彼は自分の罪のためのいけにえの雄牛をほふる。主の前の祭壇から、火皿いっぱいの炭火と、両手いっぱいの粉にしたかおりの高い香とを取り、垂れ幕の内側に持ってはいる。その香を主の前の火にくべ、香から出る雲があかしの箱の上の『贖いのふた』をおおうようにする。彼が死ぬことのないためである。彼は雄牛の血を取り、指で『贖いのふた』の東側に振りかけ、また指で七たびその血を『贖いのふた』の前に振りかけなければならない。

 
アロンは、イスラエルの罪を贖うまえに、まず自分の罪と自分の家族の贖いをしなければなりません。外庭には青銅の祭壇がありますが、そこで、用意した雄牛をほふります。そして、血を取って、聖所の中に入ります。もちろん、聖所に入るときには、洗盤において手足を洗ったでしょう。それから、中にある香壇から炭火を取って、自分の火皿の中にいれます。また、持ってきた香をその火皿に入れて、香を燃やします。それから、血とその火皿をたずさえて、至聖所の中に入ります。香が「贖いのふた」をおおうようにします。そして、その雄牛の血を取って、最初は「贖いのふた」の東側に振りかけます。ちょうど、入ってきたら正面側のところに振りかけます。つまり、聖所の入り口があり、また外庭にはイスラエルの民が入ってくる門がある方向です。この方向から汚れが来るのであり、その方向をきよめなければいけないのです。それから次に、贖いのふたの前に七度振りかけます。七は完全を表す数字ですから、完全に罪が贖われたことを示します。これによって、神のさばきの座である贖いのふたは、神のあわれみの座に変わります。

 ヘブル人への手紙によると、これらの儀式は、天におけるものの模型であると教えています。イザヤ書6章をお開きください。そこには、預言者イザヤが天における光景を見たときの記録があります。イザヤ書6章です。「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。」天国には神殿があり、そこに神の座があります。」「彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。『聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。』」神の御座には天使がおり、そこで神を賛美して、礼拝しています。「その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。」宮は煙で満たされています。こうして見ると、今、大祭司が至聖所に入っているところの情景とそっくりであることにお気づきだと思います。幕屋は、天にあるものの模型なのです。「そこで、私は言った。『ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。』」イザヤは、御座におられる主を見て、自分がもう生きることはできないと思いました。ヘブル書12章29節には、「私たちの神は焼き尽くす火です。」と書いてありますが、神から来る火によって、殺されなければいけません。ところが、御使いセラフィムが、イザヤの罪のために贖いをします。「すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。『見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。』」どのようにして贖ったでしょうか。祭壇の上から炭をとって贖ったのです。つまり、天国には祭壇があり、炭によって人の口の汚れをきよめることができるのです。つまり、主がアロンに行ないなさいと命じられていることは、まさに、天において行なわれていることを指し示しています。

 主イエス・キリストは、十字架において、神の呪いを私たちの代わりに受けられてのち、昇天されるまでの間のどこかの時点で、天に入られて、私たちの罪の贖いを行なわれた、とヘブル書には書かれています。9章の11節からです。「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。(ヘブル9:11-12」イエスさまは、天においてご自分の血をたずさえて神の御座にささげました。そして、今は、神の右の座におられて、ご自分の祈りによって、私たちのためにとりなしをされています。ですから、大祭司が至聖所に入るのですが、イエスさまとアロンが異なっていたのは、アロンが自分の罪のためのいけにえをささげなければいけなかったのことです。イエスさまは、罪を犯されなかったのでその必要はありませんでした。

2C なだめの供え物 15−19
 そして次に、アロンがイスラエルの民の罪の贖いをします。アロンは民のための罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を垂れ幕の内側に持ってはいり、あの雄牛の血にしたようにこの血にもして、それを『贖いのふた』の上と『贖いのふた』の前に振りかける。

 今、至聖所にいるのですが、そこから出てきて、再び祭壇のところに行きます。そして、そこにつなげられているやぎをほふり、先ほどと同じようにして血をたずさえ、香を盛り、贖いのふたに血を振りかけます。そして、アロンが血を振りかけた贖いのふたですが、私たちは新約聖書の学びにおいて、すでにこの言葉を読みました。ローマ人への手紙に出てきました。「
神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。(ローマ3:25」なだめの供え物のヘブル語は、「贖いのふた」になるのです。主ご自身が贖いのふたになられた、つまり、ご自分の血によって、私たちを神に受け入れられる者としてくださった、ということです。

 彼はイスラエル人の汚れと、そのそむき、すなわちそのすべての罪のために、聖所の贖いをする。彼らの汚れの中に彼らとともにある会見の天幕にも、このようにしなければならない。
イスラエルの罪の贖いをするときに、聖所そのものも贖いをしなければなりませんでした。彼が贖いをするために聖所にはいって、再び出て来るまで、だれも会見の天幕の中にいてはならない。彼は自分と、自分の家族、それにイスラエルの全集会のために贖いをする。

 
ここに、大祭司のみによってこの奉仕を行なわなければいけないことが書かれています。日ごとの務めは祭司たちによって行なわれましたが、この日だけは大祭司一人で行なわれます。彼が動物をほふり、彼が血をたずさえ、彼が香を盛り、彼が血をふりかけます。イスラエルの会衆は、幕屋の外で、大祭司が奉仕を終えるのを待っているだけです。

 ここに、イエスさまが、ご自分だけによって私たちの罪の贖いを成し遂げてくださったことが分かります。私たちが神に近づくためにできることは、何一つありません。イエスさまが、神に近づくことができる用意をおひとりでみな行なってくださったので、私たちはただ、主の御座に近づくだけでよくなりました。そこでヘブル書には、次のような勧めがあります。「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(4:16」私は、クリスチャンから、「神にもっと近づくことができるようにしてください。」という祈りを聞くのがきらいです。なぜなら、もうすでに、近づくことができるように、イエスさまがすべてのことを行なってくださったのです。神に近づくとき、私たちがどれだけ良いことをしているかでさばかれることは全くなく、むしろ恵みの御座、つまり、神から何かをもらう資格などないのにもかかわらず、神が私たちにすべてのものを与えてくださる御座なのです。だから、そこに大胆に近づいて、必要な助けを得るべきなのです。

 主の前にある祭壇のところに出て行き、その贖いをする。彼はその雄牛の血と、そのやぎの血を取り、それを祭壇の回りにある角に塗る。その残りの血を、その祭壇の上に指で七たび振りかける。彼はそれをきよめ、イスラエル人の汚れからそれを聖別する。

 
聖所を血できよめたあと、外庭にある祭壇をきよめます。

3C 罪の除去 20−22
 こうして自分の罪のための雄牛と、イスラエルの罪のためのやぎをほふりましたが、罪のためのいけにえはもう一頭います。次は、このやぎによって罪の贖いをします。

 彼は聖所と会見の天幕と祭壇との贖いをし終え、先の生きているやぎをささげる。アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。

 アロンは、このやぎの上に手を置いて、イスラエルの咎、そむき、罪を、考えられるかぎり告白します。そして、このやぎをほふるのではなく、荒野に放ちます。

 そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ。やぎを放つときに、祭司たちがそのやぎを見届けるのですが、何人かがそれぞれ、違う丘の上に立ちます。そして、一番遠くにいる祭司が、やぎが砂漠の中にさまよって、見えなくなった時点で、丘に立っている祭司に合図を送ります。そうしたら、また別の丘に立っている祭司に合図をして、伝言で大祭司アロンに、やぎが去ったことを合図します。ヘロデの神殿が建てられたときは、最後の祭司はオリーブ山から合図をして、神殿にいる代祭司に伝えたそうです。そして、イスラエルから罪が取り去られたことを表します。


 聖書には、私たちの罪は赦されるだけではなく、取り去られて、遠くにされることが告げられています。「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。(詩篇103:12」と詩篇にはあります。ミカ書には、すべての罪が海の深みに投げ入れられたことが告げられています(7:19)。預言者イザヤは、「あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。(38:17」と言いました。また、「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。(44:22」と預言しました。そして、預言者エレミヤは、「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。(31:34」と、罪を思い出さない主の働きについて預言しました。私たちは、この罪の赦しの確信が必要でしょう。罪が赦され、もう思い出さないと主がおっしゃられていることを、もう一度確認しましょう。

4C 門の外の苦しみ 23−28
 これで贖いは完了したのですが、その後始末について、次からの教えがあります。アロンは会見の天幕にはいり、聖所にはいったときに着けていた亜麻布の装束を脱ぎ、それをそこに残しておく。彼は聖なる所でそのからだに水を浴び、自分の衣服を着て外に出て、自分の全焼のいけにえと民の全焼のいけにえとをささげ、自分のため、民のために贖いをする。

 アロンは、亜麻布の装束からいつもの装束に着替えます。それから、全焼のいけにえをささげます。

 すなわち、罪のためのいけにえの脂肪を祭壇の上で焼いて煙にしなければならない。

 
罪のためのいけにえで残されている脂肪は、全焼のいけにえの一部として焼かれます。

 アザゼルのやぎを放った者は、その衣服を洗い、そのからだに水を浴びる。そうして後に、彼は宿営にはいることができる。


 荒野にやぎを放った祭司たちは、そのやぎをさわったので、きよめられなければいけません。そこで衣服を洗って、水を浴びます。

 罪のためのいけにえの雄牛と、罪のためのいけにえのやぎで、その血が贖いのために聖所に持って行かれたものは、宿営の外に持ち出し、その皮と肉と汚物を火で焼かなければならない。これを焼く者は、その衣服を洗わなければならない。そのからだに水を浴びる。こうして後に宿営にはいることができる。

 
罪のいけにえの皮、肉、汚物は、みな宿営の外で火で焼かれます。これは、罪ありとされたものが、宿営の中に入って宿営が汚れないようにするためです。けれども、これもまた、主のお働きを指し示しているのです。「動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。(ヘブル
13:11-12」主は、城壁のにおいて、エルサレムの町の門の外において、そのからだに罪を背負われました。

3B 一度かぎりの贖い 29−34
 こうしてアロンに、イスラエルの罪の贖いを行なうことについて主が教えられましたが、これをいつ行なうのか、またどのような態度で行なうのかについて、次にお話しになっています。

 以下のことはあなたがたに、永遠のおきてとなる。第七の月の十日には、あなたがたは身を戒めなければならない。


 第七の十日にこれを行なわなければいけません。これは今の
10月に当たり、年に一回、このことを行なうのです。そして、「身を戒める」とは断食のことを表しています。律法によって唯一、断食が命じられているのはここにおいてです。罪を悔い改め、そして、罪の赦しを得るために断食をします。

 この国に生まれた者も、あなたがたの中の在留異国人も、どんな仕事もしてはならない。なぜなら、この日に、あなたがたをきよめるために、あなたがたの贖いがなされるからである。あなたがたは、主の前でそのすべての罪からきよめられるのである。これがあなたがたの全き休みの安息であり、あなたがたは身を戒める。これは永遠のおきてである。

 
身を戒めるだけではなく、何の仕事もしてはならない日とされています。全き休みの安息であります。

 油をそそがれ、その父に代わって祭司として仕えるために任命された祭司が、贖いをする。彼は亜麻布の装束、すなわち聖なる装束を着ける。

 
アロンだけではなく、その息子たちも、これを行ないます。

 彼は至聖所の贖いをする。また会見の天幕と祭壇の贖いをしなければならない。また彼は祭司たちと集会のすべての人々の贖いをしなければならない。以上のことは、あなたがたに永遠のおきてとなる。これは年に一度、イスラエル人のすべての罪から彼らを贖うためである。」モーセは主が命じられたとおりに行なった。


 このように、すべての罪が贖われるために、また幕屋が贖われるための儀式でした。これを年に一度行ないます。

 けれども、ヘブル人の手紙において、旧約時代の彼らは、本当に罪がすべて赦されたわけではない、安息を得たのではない、と言っています。本当に罪が赦されたのであれば、毎年、このようなことを行なう必要はなかった、と言います。かえって、これらのいけにえによって、罪が思い出される、と言っています。つまり、これらは本当に罪を取り除いてくださる方、メシヤが来られることを信じて行なった儀式なのです。自分たちの罪が取り除かれることを信じて、これらのことを行ないましたが、何回も何回も行なわなければ、赦されたという確信を持つことができなかったし、最後まで持つことができませんでした。しかし、イエス・キリストは、ヘブル書によると、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げてくださった、とあります。イエスさまが行なってくださったことによって、もはやそれ以上のいけにえは必要でなくなりました。イエスさまにあって、私たちはほんとうに安息を得ることができるのです。

 そこで私たちは、主が死なれたことを思い出すために、その血とからだを自分のものとするために、聖餐式を守ります。それは、主に罪がなかったこと、ご自身がいけにえとなって、その血をたずさえられたこと、からだに罪を背負って、エルサレムの門の外で苦しまれたこと、それによって、罪かきよめられ、取り去られたことを思い出します。私たちのからだには、何一つ良いものがありません。性病の漏出物のように、汚れたものです。けれども、主の血潮とそのさかれたからだは、私たちを完全にきよめることがおできになります。


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